パラオ恋しや-戦陣に在った私の青春(その1)

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1999年03月29日(月)
 元中国公使 伴 正一
   
 第四 少年の心に映った戦前昭和史の一こま
 青年将校とマルクス学生を動かせた共通のもの


 昭和11年、中学の入学試験に合格した直後のことです。2・26事件が起りました。はっきり覚えているのは、そこらの路地を歩きながら、姉の亭主になる義兄が「あの人たちの動機は純粋なんだ」と言っていたことです。

 これは国民全般とはいかないまでも当時の多数日本人の本音に近いところではなかったでしょうか。

 政党政治の腐敗という言葉が、かすかに幼な心に刻まれていました。田舎の小学校を転々としていた私には、"貧しい農家"のイメージが同級生たちの服装や弁当から実感として伝わってきていました。それだけに、娘が売られるというような、子供には分かりにくい話も、まんざらこの世の外のこととは思っていませんでした。

 それが、子供たちが漠然と話に聞くのと違って、一人前の陸軍将校の立場になっていればどうでしょう。自分が"陛下からお預かりしている"兵士から、妹が売られていると聞いたら、義憤に燃えずにいられるでしょうか。

 昭和の歴史はその初頭の世界恐慌を抜きにしては語れないのでありますが、そのシンボル的事例としての"娘が売られる"という現象に、多感な青年の目が鋭角的に注がれたとしても不思議ではありません。

 最近になって思うことなのですが、5・15事件や2・26事件の青年将校たちが、もう少し家計にゆとりがあって(旧制の)一高や三高に行っていたら、マルクス・レーニンに走っていた可能性は多分にあると思います。

 逆に、旧制高校でマルクス・レーニン主義に傾倒し、ブタ箱入りで殉教者気取りにさえなっていた天下の秀才たちが、もし陸軍士官学校あたりに入っていたらかの青年将校のような行動に走っていたかも知れません。

 一高生や三高生がどれほど秀才だったとしても、果たしてきちんとマルクスを勉強したのかどうか、勉強はしてもよく分かったのかどうかは怪しいものです。大まかに言えば"マルクスかぶれの風潮に染まって行った"と見るのが正解で、それを原体験的に支えていたのが、当時全人口の半分を占めていた貧しい農村の姿ではなかったでしょうか。

 海軍の風潮

 私が旧制中学から海軍経理学校に入学したのは2・26から5年目の昭和15年の暮れでした。海軍の学校で一番怖いのは一号生徒と呼ばれる最上級生で普段の日はこてんこてんに鍛えられましたが、日曜日に外出している間だけは人が違ったような優しい兄貴になる。そういう中で一号生徒から5・15事件の三上卓が作った有名な[泪羅の淵に波騒ぎ......]の歌を教わったのですが、その際一号生徒は「二番だけは外で歌うなよ」と注意してくれていました。「財閥富に奢れども」という悲憤の下りです。一つのバランス感覚として面白いではありませんか。

 それが私が2年生から3年生になる頃になると、今にして思い当たることなのですが、海軍にもナチスかぶれの傾向がそろそろ現われ始めていたように思います。

 海軍省で戦時国際法の権威だった杉田教官の講義では、捕虜待遇の個所などきちんと教えてくれていました。ところが生徒の中からは「教官の言うようにしていたら戦争は負けるよ」とか、「何でもいいから一人でも多く敵を殺すんだ」とかいう反発の声がチラホラ出ていたのです。兵学校では、軍歌「上村将軍」のうち、沈み行く敵艦リューリック号の乗員救助を命じた次の一節を歌わせない分隊もあったそうです。

   恨みは深き敵なれど
   捨てなば死せん彼らなり
   英雄の腸(はらわた)ちぎれけん
   救助と君は呼びけり

 総力戦を強調しただけとは思えない。日本古来の思想でも、楠木正行の敵兵救助は天晴れ武士の鑑とされてきたではありませんか。そんなことを考えると、これはどうもナチスの影響でもあったように思えてなりません。

 第五 いい加減だった戦争目的
 いま振り返ってみて全く解せないのは、あの戦争の3年8カ月間、前半は海軍生徒、後半は南太平洋転戦ということでありながら、戦争目的が語られるのを耳にしたことがないということです。

 それだけに唯一の例外、東大橋爪教授の講義から受けたショックが忘れられません。

 「この戦争は祖国防衛戦争ですよ」と言われる。ピンとこない。それどころかひどい違和感を覚えたものです。「アジアの解放」が目的と信じて疑うことのなかったところへ「そんな呑気なもんじゃありませんよ」と水をぶっ掛けられたんですから無理もありません。

 「東亜侵略百年の野望をここに覆す」と国中が高らかに歌っていたご時世、まだ日本が負けるなんて思ってもみなかった時期ですから、戦争の大義名分に掲げられていた謳い文句を、そっくりそのまま、戦争で達成しようとする具体的 戦争目的 と取り違えていた。どの国にだってあり勝ちなことではありますが、我々軍人を含めて国民全体が戦争目的の意味が分かっていなかった。それを橋爪先生が衝いてくれたのだと思います。

 その橋爪教授が薦めてくれた本に「戦争指導の実際」というのがありました。分厚い本でしたが、卒業後も軍艦に持ち込んで読み耽ったものです。

 第一次世界大戦の時、陸軍からのフランス派遣観戦武官だったこの本の著者は「戦争目的」について、実に目の覚めるような見事な解説をしてくれていたのです。

 「戦争を始めるには目的がはっきりしていなければならない。また戦争目的を達成したと思ったらすぐに止めるのが戦争指導の鉄則である。」
 「人間は愚かだから、戦争目的が容易に達成されそうだと思うと、つい目的を広げてしまう。こうして戦争を収拾する折角のチャンスを逃し、泥沼に入ってしまい勝ちなのである。」
 「逆に目的を達成できそうにないことが分かったら、いつまでも目的にこだわっていてはいけない。すぐさま戦争目的を縮小し、素早く手を打たないと大変なことになる」

 「戦争指導の実際」は私が今までで最も愛読した本の一つですが、著者の目から見れば日支事変も大東亜戦争も、目的がはっきりしないままだらだら続けた戦争だったに違いありません。

 第六 戦争の"陽"の半面、勝ち戦さ
 幕末生まれの伯父の生涯


 海軍生徒として娑婆気もすっかりぬけたころ、退役陸軍少将で日清戦争では功三級をもらったという伯父が亡くなりました。大東亜戦争で日本が勝ちまくっていたさなかでした。私とは随分と年の違った伯父でしたが、その伯父が死ぬ2日前に言った言葉がとても印象的なのです。

 「英国は滅亡だ」という。

 伯父にしてみれば、幕末に生まれ、日清戦争で初めて鴨緑江を越える。

 爾来国運いよいよ隆盛に向かい、大東亜戦争の緒戦で海軍は英国太平洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズ号を撃沈、陸上ではマレーの虎と勇名を馳せる山下奉文の兵団が、アジアにおける大英帝国の牙城シンガポールを衝こうとする。

 そこまでを見届けた伯父の一生は、明治建軍から登りつめて頂点まで。それをすっぽりきれいに生身の視界に収めきった生涯でした。  そんな生涯の幕を勝ち戦の中で閉じた伯父の最後の言葉が、先に述べた「英国は滅亡だ」であったのです。

 ミッドウェーの敗戦を知らずに息を引き取った黄海海戦(日清戦争)生き残りの提督がいたとしたら、維新この方敗れることを知らなかった大海軍の面影を、一点の曇りなく心に収めて世を去ることができたに違いありません。

 私が素朴に羨ましいと思う伯父の生涯をこんなところで引き合いに出したのは、今の日本人には分かりにくい勝ち戦さの実感を、多少なりとも後世に伝えたいと思うからです。

 戦争とは負けるものだというような、一方的思い込みの感覚で軍事を論じていたら、世界の常識からかけ離れた珍論になりかねないし、世界の歴史そのものの理解も怪しくなります。

 「治にいて乱を忘れず」しかも、物事を見る目は陰陽の両面、戦さで言えば勝ち負け双方の局面に向けられていなくてはなりません。陽にしろ陰にしろ一面しか知らないでいることは物の見方を偏(かたよ)らせる基になるのであります。

 先輩たちの勝ち戦さ

 というわけで勝ち戦さの話をもう少し続けましょう。

 外務省の先輩で最後にはフランス大使を務められた力石さんがジュネーブ在勤中のことでした。私が出張してのある酒の席で話がインド洋作戦に及んだことがあります。カルカッタやコロンボの空襲などはほんのつけ足りで、元気一杯に洋上作戦を展開する南雲艦隊の有様が力石さんの口を衝いて出てくるのには、こちらがすっかり当てられてしまいました。同じように勝ち戦さしか知らない人でも、海軍生活の印象がよく、戦後もずっと陽の当るところにおられたから、平気でそんな話もできたのだと思いますが、とにかく痛快でした。「もう2年早く卒業していたらなあ」と力石さんが羨ましかったものです。

 もう一つは昨日のことです。日銀出身の岡田さんという方にロータリークラブの会合でお会いし、先方から「海軍出身でしてねえ」と自己紹介されました。

「どこにおられたのですか」
「インドネシアです」
「今村大将がおられたでしょう」
「立派な方でねえ......」
「そのころの印象はどうでしたか」
「いや、アメリカが日本を占領していたときと同じようなもので、日本の威勢 がよく、随分いい思いをしました。」

 そんなやりとりでありました。

 私にとって勝ち戦さは、生徒時代に一般国民と同じように新聞やラジオで聴くだけ。たまに先輩がパール・ハーバーの話をしてくれるぐらいで体験したことがない。つまり新聞を通じて知る勝ち戦さでした。しかしそれもミッドウェーの海戦を境に一挙に怪しくなっていくのです。

 勝ち戦さの終り

 ミッドウェーといっても若い人にはピンとこないでしょうが、維新この方、負け戦さを知らぬ帝国艦隊が、圧倒的に優勢な兵力でミッドウェーに襲いかかった、勝つのが当たり前の戦さです。

 それが何ということでしょう。運命の五分間、いわば一瞬の判断ミスで大敗を喫し、主戦力の空母四隻を失ってしまうのです。

 それこそ卒業が私より二年早い青木先輩に、戦艦榛名艦上からの目撃手記があります。要約してみましょう。

    着艦するに母艦なし!
    洋上機動作戦の華、錬達のパイロットたちは、搭乗機も無傷、燃料に
    不足もないのに、空しくハンケチを振りながら海の中に突入して行く。
    何たることぞ。その無念やいかに。

 こうして太平洋上における我が海軍破竹の勢いは頓挫し、その勢いを取り戻す夢は遂に実ることがなかったのであります。

 この後、勝ち戦さらしいものといえば、愛宕時代に仕えた荒木艦長ご自慢のツラギ夜戦くらいのものではなかったでしょうか。

 戦さというものには完全ゲームから引き分けまで、色々の勝ち負けがありますが、どんな場合でも双方にミスが続出するのがむしろ常態だと言えます。

 そして、ミスが相手のミスで救われたりもしながら、総じてミスの少ない方が勝つ。戦さはこういう感覚で捉えると実感が出てよく分かるのでありまして、どう見ても勝つはずの戦さでも、やはり敗れることはあるのであります。

 戦争は外交の延長であり、それを締めくくるのも外交ですから、作戦用兵だけで勝負が決まるわけではありませんが、もしもミッドウェーであんな番狂わせがなく順調に勝ち進んでいたら、戦局はどう展開していたでしょうか。

 それは日露戦争での奉天大会戦か、日本海海戦直後の段階に少しばかり似通ったものになっていたかもしれません。

 そんなことを考えておりますと、勝ち目のないという点では日露戦争だって大東亜戦争とどっこいどっこいではなかったのか、という気がしないでもないのであります。 

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このページは、伴 武澄が2015年4月 5日 07:10に書いたブログ記事です。

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