2015年4月アーカイブ

2008年06月08日(日)萬晩報通信員 園田 義明

 終章 楠木正成の隠れ家

 最後に怖い話をしておこう。

 昭和天皇から「親の心子知らず」と名指しされた松平永芳を靖国神社宮司に推したのは、「英霊にこたえる会」初代会長の石田和外元最高裁長官だった。この「英霊にこたえる会」ととっても仲良しなのが右派・保守派の最大連合組織「日本会議」。その現会長の三好達も元最高裁長官、そうなると靖国神社と最高裁人脈とが結合していることがよくわかる。

 そして、靖国神社崇敬奉賛会の会長は「日本会議」愛媛県本部会長の久松定成、副会長は「英霊にこたえる会」現会長の堀江正夫、常務理事には「英霊にこたえる会」現副会長の関口孝(佛所護念会教団理事)が就いている。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者には堀江と関口の名前があった。靖国人脈は教科書にも強い関心を持っている。

2008年06月04日(水)萬晩報通信員 園田 義明

 第七章 「明治天皇すり替え説」の真相

 菅原道真と平将門と御霊信仰


 ここで御霊信仰にも触れておこう。

 今からさかのぼること千年あまり、平安時代前期の八六三(貞観五)年に、平安京を原因不明の疫病が襲い、朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が神泉苑で行われたという。

 かつては天皇家の死者の霊を意味する「みたま」こそが御霊だったが、時代が下るに従い、非業の死を遂げた人の霊魂、つまり死霊を意味するようになり、御霊会は怨霊を鎮魂するための儀式となっていく。

 この御霊信仰の象徴としては、菅原道真と平将門がよく知られている。


2008年04月07日(月)萬晩報通信員 園田 義明

 第六章 「七生報国」と「ビタカン」

 福沢諭吉の「楠公権助論」

 吹き荒れる南北朝正閏問題のあまりのアホらしさに、声を上げた人もいた。

 一般的に福沢諭吉は無神論者、宗教否定論者、さらにはキリスト教排撃論者のイメージが強い。内村鑑三は福沢を「宗教の大敵」とまで呼んだ。しかし、福沢は、米ハーヴァード大学に集うユニテリアン主義を日本で広めようとしたこともあった。

このため一九人ものキリスト教各宗派の宣教師と関わりを持ち、三九歳以降最晩年に到るまで英国国教会の宣教師と密接な交流を続ける。

 一八七三(明治六)年に英国国教会の宣教団体(SPG)の宣教師として来日したカナダ人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーやアリス・ホアなどを福沢家の家庭教師として招き、ショーには自宅の隣に西洋館まで建てて住まわせた。しかも、お互いに行き来できるように両家の間には「友の橋」が架けられた。 


 2008年05月27日(火)萬晩報通信員 園田 義明

 第五章 山県"ブルブル"有朋の「大楠公」歓迎イベント

 吉田松陰の歴史的誤読


 楠木正成を讃える南朝正統説は、北畠親房の『神皇正統記』に始まり、水戸光圀が編纂を始めた『大日本史』で骨格がぼんやりとできあがる。

 江戸後期に「後期水戸学の祖」と言われる藤田幽谷やその高弟の会沢正志斎が注目を集めるが、徳川御三家の水戸藩という立場上、正志斎の『新論』などは幕藩体制を擁護するものだった。

 しかし、幕府の威信が低下し始める頃、藤田幽谷の息子である藤田東湖は改革派の旗手として、あろうことか自らの立場を忘れて、尊皇攘夷思想の理論的支柱となっていく。

 しかも、ここに決定的な誤読が重なるのだ。


 2008年05月24日(土)萬晩報通信員 園田 義明
 
 第四章 長州・浄土真宗西本願寺派連合と国家神道

 仏教界から生まれた「国家神道」


 なんとも不思議なことに日本人のクスノキ信仰は楠木正成信仰へと変貌を遂げる。明治維新前夜に蘇った楠木正成ら南朝忠臣たち。彼らを神格化したかのような南朝正統イデオロギーが日本を戦争へと導いていく。この様子を「国家神道」の成立過程から見ていくことにしよう。

 そもそも神社=神道ではない。神道とは古来、日本人の血や日々の生活の中に長い年月をかけてじっくり染みついたものであり、自然崇拝に見られるように宗教というより民俗的信仰に近いものだった。よって、日本人それぞれの神道観があっていいのではないだろうか。そのために八百万の神々もいる。勝手な解釈でも成り立つ大らかさこそが魅力であり、その曖昧さに限界があった。

 明治維新後、政府は神道国教化とその挫折を通じて「国家神道」への道を歩むことになるが、いずれも非宗教化された政治の領域の問題であって、神道国教化=神道でもなければ国家神道=神道でもない。さらには、神道国教化や国家神道を、神道界が歓迎したともいえない。


 2008年05月20日(火)萬晩報通信員 園田 義明

 第三章 「金の生る木」に群がる山師たち

 「樟脳専売」のための神社合祀

 一九〇三(明治三十六)年五月、桂太郎内閣時代に、大蔵大臣が内務、農商務両大臣の連署をもって第一八臨時議会にある法案を提出した。この法案は可決され、翌月六月十六日に公布、十月から施行されることになる。

 この法案には四名の名前が記されており、ここにはっきりと神社合祀を強行した平田東助の名前が刻まれている。

  総理大臣  伯爵 桂 太郎 陸相、陸軍大臣、内大臣等歴任後に公爵  
  内務大臣  男爵 内海忠勝 長崎、兵庫、神奈川、大阪、京都各知事、会計検査院長歴任  
  農商務大臣    平田東助 後に伯爵
  大蔵大臣  男爵 曾根荒助 法相、農商務相、枢密顧問官歴任、後に子爵

 
2008年05月19日(月)萬晩報通信員 園田 義明

 第二章 神社合祀と長州閥

 「神社合祀」という名のリストラ策

 そもそも「神社合祀」とは何だったのか。

 神社合祀令が通達されたのは一九〇六(明治三十九)年。「神社は国家の宗祀である」という国家原則に従って、敬神の念を高めるとの主旨のもと、由緒・財産もなく神職不在で祭祀が行われていない神社を廃止、統合、移転させるというものだった。

 ここで決定的な問題が発生する。自然との断絶が、日本人の古からの自然崇拝を抹殺することになるからだ。

 神社合祀は地方官吏の裁量に一任され、とりわけ南方熊楠が愛し、現在では世界遺産に登録されている三重県と和歌山県で特に厳しく実施された。規模の小さい村社、無格社がその対象となった。


2008年05月15日(木)萬晩報通信員 園田 義明
 
 まえがき

 いよいよ五月二十日に『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』が講談社+α新書より発売される。前著『最新アメリカの政治地図』(講談社現代新書)から四年振りとなる新著は、皇室周辺のクリスチャン人脈を取り上げた内容となっている。

 新著の特徴として第一にあげられるのは、現実主義者としての昭和天皇像を浮き彫りにしたことである。極めて戦略的にキリスト教との接点を持とうとしたことから見出したのだが、この背景には昭和天皇の他宗教に対する八百万的な共生と寛容の宗教心もあったはず。生物学者として南方熊楠とも交流があった昭和天皇は、自然の中に神々の息吹を感じ取っていたのかもしれない。

 昭和天皇は歴代天皇の中でも皇室祭祀に熱心であり、侍従長として傍らで見てきたのが終戦時の首相を務めた鈴木貫太郎である。鈴木は、天皇の身を案じ、最後まで無条件降伏に反対した阿南惟幾陸相に対して、「あれほどまでに天照大御神をあがめ、神武いらいの歴代の皇霊をまつり、八百万の神々に祈る天皇が、たとえ戦争に敗れたりとはいえ、神々の加護もなく、悲運に遭うはずはないのではないか」と諭したとされる(『聖断』半藤一利、PHP文庫)。


mizu.JPG何も分らずに、先週の金曜市で山菜ミズを売った。鏡村のウエタさんが「これとっていきや、市で売ろう」というのでそのまま従ったのだが、実は食べ方が分らない。ウエタさんに言わせれば「このミズは秋田からもってきた。飢饉の時に秋田の人たちを飢えから救ったらしい」。

金曜市でお客から食べ方を聞かれて「生でも食べられるし、ゆがいておひたしにしたらおいしい」などと答えていた

その晩、ゆがいて炒めてみたら葉も茎も固いこと!
ネットで調べてみたら、食べるのは茎で、皮をむいてゆがくのだそうだ。なるほど、ちゃんと手を掛けて調理しなければいけないのだ。

今週の木曜日、ミズに再度チャレンジしてみることにしよう。

僕はネットのヘビーユーザーだったと思っている。だが、携帯電話でメールができるようになっても携帯でメールはしなかった。いまでも基本的にしていない。だからスマホの時代になってもスマホでネットを見ることはない。ネットもメールもパソコンで十分だとずっと考えてきた。

ところが僕よりずっとネットを知らない人達は今では、僕より何倍も長い時間、スマホでネットとつながっている。食事の時間でも食卓にスマホを置くなど僕には信じられない作法であるが、いまではそんなことを批判する人すらいない。

僕は週に2、3回山に入る。家にいたらパソコンに向うかもしれない時間、僕はネットから離れることができる。これも結果論であるが、そのことが僕の時空間を開放してくれているような気がしている。

誰が言ったのか知らないが、「人間は考える葦である」と言った。そろそろみんな自分で考える人になろうよ。

先週、山菜の売上げに気をよくした我々は金曜市の前日の木曜日、鏡村の山に分け入った。欲が深いのか「タケノコはもっと売れるで」「イタドリはなんぼでも売れる」とばかりに物量作戦に転じた。目標は山菜3万円の売上げ!
木炭の方が茶道関係の方の購入によりそこそこ売上げがあり、サカキ・シキビは持ち込んだ24ホンが完売するなど七厘社としての1日売上げ2万7000円とは過去最高に達した。
しかし、山菜の方は先週の売上げに遠く及ばなかった。
閉店間際に大量にあまりそうな状況になったため、イタドリの「100円つかみ取り」などを行った。結果、山菜はほとんどはけることとなったが、タケノコは大量に残った。
金曜市でタケノコを売っていた他の人に何人か事情聴取したところ、
「うちは2本しか売れていない」
「よくあるケースが先週売れたと言って翌週、大量に持ち込んで売れない」
「タケノコは先週買った人は翌週も買うことはない」
「タケノコのシーズンになれば、高知ではみんな誰かに貰うもの。買う人はいない」
「そもそも、タケノコは旬のもので、一度食べれば満足するもの」
七厘社の場合、タケノコの売上げは金曜市で多い方だったと思うが、なかなか重い言葉だった。市に出ると学ぶことばかりである。人間あまり欲を出してはいけないのである。
昨日は、木炭の方で大きな成果があったことを幸せと考えなければいけない。茶道関係者に配達したところ、追加の注文もいただき、店頭でも大量の注文をして くれたもう一人の客人もあった。これで七厘社の茶道関係者への販売は3人となった。茶道に使う炭の場合はサイズなど注文生産なので普通の木炭の倍の価格で も十分購入してくれることが分っている。お得意様としてなんとか販売していけるようになれば、七厘社の未来に日が差すことになる。
第9回はりまや橋夜学会のお知らせ
日  時:4月17日(金)午後7時から8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
テーマ:キューバ革命とアメリカ
講 師:伴 武澄

アメリカのオバマ大統領はがキューバのカストロ国家評議会議長と会談し、テロ支援国家の指定を解除した。33年ぶりである。これを受けて込めキューバの国交正常化に大きな弾みが付いた。たった1200万人の国家の取り扱いに四半世紀以上の年月を費やしたのである。
そもそもアメリカとキューバはどういう関係だったのか。それを考えることはアメリカが20世紀にどのような国家だったのかを知る礎になると思う。
歴史を振り返ると、アメリカが本当に自由と平等を目指した国だったのかすら疑わしくなるのである。

・歴史は1898年の米西戦争に遡る
・砂糖の利権
・スペインのキューバ圧政への戦い
・フィリピン・グアム・キューバ
・キューバの保護国化、傀儡政権
・1959年、キューバ革命
・農地の国営化への反発
・ピッグス湾事件
・ケネディとキューバ
・キューバと北朝鮮


 友人の甲斐美都里さんが翻訳した『ゲバラ世界を語る』(中公文庫)が明日、店頭に並ぶ。解説はまた友人の中野有さんが書いている。筆者の名も巻末に載せてもらっている。

 1年ほど前に甲斐さんが翻訳を始めたころから、ゲバラの本を何冊か読むことになった。翻訳の原稿がメールで届くたびに、英語と訳文を読み比べて批評を加 えたこともある。ゲバラが急に身近になった。ゲバラが21世紀に蘇る意味合いはどこにあるのか、ずっとそんなことを考えている。

 20世紀の世界で起きた革命はたまたま社会主義政権として誕生した。初めに主義主張があったのではない。ずっとそう思っている。帝国主義や植民地支配に対抗するのに手を差し伸べてくれたのはソ連だけだった。西洋列強や日本は支配する側にあったから当然である。

 キューバ革命も同じだったのではないかと思っている。カストロらはアメリカと買弁としてのキューバの旧支配層 に向けての武力闘争に打ち勝った。祖国解放が一番の眼目で、必ずしもソ連型の社会主義を目指していたわけではなかったはずだ。しかし革命に成功した結果、 待ち受けていたのは社会主義陣営入りだった。社会主義陣営に入ることはそのままソ連の支配下に置かれることと同意義だった。

 カストロとチェ・ゲバラはキューバを"解放"した代償としてソ連の配下に入った。そこに祖国の自由はなかった。キューバ危機に代表されるアメリカとの対峙によって、それこそ冷戦構造の最前線に放り出された。

 ゲバラが永久革命を訴えてボリビア入りしたのは、ロマンとして求めていたキューバ人民によるキューバ人民のための統治が難しかったからであろうと思っている。

 革命の最中は巨大な敵に立ち向かうという壮大なロマンがある。毛沢東やホーチミンも理想に立ち向かう同じロマンが革命への道をかき立てたに違いない。支 配されていた勢力が権力を奪取すると、今度は同じ人々が支配する側に回らざるを得ない。ここに革命が内包する矛盾がある。

 中野さんは解説でゲバラとケネディーについて言及する。
 「 ケネディーとゲバラは、冷戦の初期段階で、社会主義の矛盾と軍需産業主体の資本主義の限界を予測し、資本主義でもなく社会主義でもない第三の道である共生 の理想を描いたように考えられる。現在の中国のように社会主義体制を維持しながら市場経済化を推進することが、ゲバラの理想であったかどうか定かでない が、21世紀の今日、資本主義と社会主義のハイブレッドがグローバル経済の奔流となりつつある」。
 「最後に、ケネディーやゲバラの思想の根底にある国際主義、インターナショナリズムは、国際テロや地球環境問題の解決に不可欠である。ゲバラの現場に根 ざした博愛主義は、地球規模で共有すべきビジョンであり哲学であろう。米国の世界最大最強の軍事でも解決できないのが、9.11に端を発する国際テロの問 題である」。
「ゲバラの博愛主義に根ざしたゲリラ戦を研究することにより、現在の国際テロ解決の糸口が生み出されるように思われてならない」。

 1991年、ソ連邦が崩壊し、国際政治をめぐる環境は激変した。資本の論理が勢いづいている。冷戦時代の東西の対峙は人類にとって大きな危機だったが、 アメリカのよる一人勝ちもまた危機である。50年前そんなアメリカに徒手空拳で立ち向かったチェ・ゲバラが世界中で思い出される理由はそんなところにある のかも知れない。
1558471_973653715979197_6560845934534948958_n.jpg第9回はりまや橋夜学会のお知らせ
日  時:4月10日(金)午後7時から8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
テーマ:褌とパラオ
講 師:伴 武澄

天皇皇后両陛下が慰霊のためパラオを訪問された。戦前、パラオ恋しやという調子のいい流行歌があった。日本は南洋の島々を約30年統治した。日本が影響を与えただけでなく、そもそも南洋と日本は深い結び付きがあった。
その始まりは褌、そして若衆宿。日本の漁民文化の多くはどうやら南洋からきたもののようなのである。
大統領の名前もモリやナカムラ、日本とゆかりの深い、島々のことを考えたい。

賀川豊彦の『荒野を叫ぶ声』という小説を自炊中。日本青年が旧満州に渡って父親を探す場面がある。時代は1920年代と思われる。そこには当時の満州のショッキングな情景が描かれていた。
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  凍死者の群

 冷たい冷たい灰のやうな粉雪が、ちらちら降ってゐた。汽車の外は零下回十度に近い。胸を劈(つんざ)くやうに寒烈な大気が満洲の大地を凝結させてゐた。 鼻や口から出て来る息は勿論のこと、目から出て来る涙まで、上下の睫毛が一緒になって凍結した。鼻毛は凍って棒のやうになり、口からばかり息をしなければ ならなくなった。毛皮の外套を持ってゐない山根文雄は、磯貝から羊の毛のつゐた支那服を借りて、二等車に乗込んだ。乗客の一人であった日本人が、支那の山 東移民がレールの両側に、凍え死んでゐるのを指さして、呆れはててゐた。文雄は全く胆まで冷やした。
「何しろ、支那はもう革命が十数年つづいてるんですからね、みんな平和な満洲を慕うて、山東省の方から、満洲の奥地へ奥地へと逃込んで来るんです。毎朝毎 朝芝罘(チーフー)から大連の陣頭に着く、支那人の数だけでもそりゃ、大変ですよ。汽船会社などは山東移民を、十三人一噸として運んでゐるのださうです。 まあ少い時で三千人、多い時には毎朝五千人、六千人と埠頭に着きますがね、そりゃ全く物凄いばかりです。それがあなた、鍋釜から蒲団まで、背中に担うて やって来るんですよ。満鉄は汽車の割引をして、一人四円五十銭で六百五十哩を運んでゐるのださうです。ところがその四円五十銭の無いものが多いので、みん なレールを伝うて、雪の中を辿って行くんです。そしてあんなにみんな野たれ死にするんです。最初はみんな一緒になって行くんでせうが、三日、四日と歩いて ゐるうちに、腹は減るし、食物はなくなるし、誰もくれるものがないから、たうとう飢と寒さに負けてしまって、あんな風に死んでしまふんですよ。中には阿片 が切れて、死んでしまふ人間もあるらしいですなア。この間うちは、長春のステーション前などに、何百という死骸が積上げてありましたなア」
 その男は誇らしげに、満洲の風物の変ってゐる様子を、雄弁に物語った。
「え! 何百って?」
 文雄は、一つの凍死した死骸を見るだけで胸を轟かしたのに、幾百という凍死者の屍を、而も長春の駅前に晒してあるということを聞いて、全く驚いてしまった。
「そりゃ人道問題ぢゃありませんか」
 文雄は、前半身を前につき出して、その男にいうた。
「支那には人道問題などいうことはないですよ。人間が余ってるんですから少し位死んだって何でもないんですなア。とにかく大正九年の直隷省の饑饉の時など は、北京で、子供一匹六円で売って居りましたからなア。それも、自分の子供を籠に乗せて、売って廻るんですから徹底していますよ。餓死さすより人手に渡し て、命だけ助けてもらふ方がいいですからね、自然売るやうになるんでせう」
 朝降ってゐた雪が、列車が長春に着く頃になると、からりツと晴れ亙って長春の街は眩しいほど日が輝いてゐた。長春の街は遼陽とちがって、ずゐぶん活気が あるやうに思はれた。馬の首に鈴をつけて、橇を引張らせてゐる支那人が、大勢竝んで客引きをしてゐた。文雄は三等客の連れが、物珍しげにしゃべってゐた、 凍死者の屍がどこにあるか見やうと思って、その辺り見廻したが、どこにも見当らなかった。橇を引張った馬が勢よく走る。そして、馬の頚に結んだ鈴が、冴え きって乾燥した空気を揺がせて、勇ましく響いた。遼陽に比べて、自動車の走ってゐる数が多かった。太陽の照ってゐる加減でもあったか、いつもと比べて今日 は、比較的暖かかった。

1999年04月02日(金)
 元中国公使 伴 正一
   
 第九  戦い敗る
 焦燥


 それから1時間、2時間「どうも様子がおかしいぞ」ということになります。第一次攻撃隊の戦果が判明していい時刻なのに、入電なし。
 敵空母は沈めなくていい、甲板を使えなくすればいい。知りたいのはそこなのにウンともスンとも言ってこない。

 そうこうしている中にこちらの方に被害が出て参ります。視認距離にある空母祥鶴から黒煙が上がる。旗艦大鳳の沈没したことがわかる......というわけであります。

 第一次攻撃隊の報告がないということは、攻撃失敗と断ずべきなのですが、そう考えたくないからでしょう。「どうもおかしい」で頭の働きが止まっている。
 ついさっきまで、この1年半の頽勢挽回に気負い立っていた我々にしてみれば、戦場心理として無理からぬことで、このときのいたたまれぬ気持ちは生涯を通じ比べるものがありません。

 万事休す

 そうこうしている中に、一次も二次も攻撃は失敗に終ったことが判明、翌20日夕刻近くの邀撃戦が終る頃には艦隊空母機のほとんどはマリアナ海域の空に散っていたのであります。

 やがて水上部隊を挙げて敵機動部隊に突入、夜戦を決行することが全軍に布告されます。

 「勝負はついた。あとは帝国海軍の死に花を咲かすのみ」というあたりが、ひょっとしたら小沢第一機動艦隊司令長官の秘められた胸の中だったのではないでしょうか。

 満天の星の下、旗甲板で涼みがてらについうとうとしていた私......。

 それがどれくらい経ったでしょうか、ふと目が覚めると南十字星が逆さになっているではありませんか。

 ちょうど横にいた後宮水雷長にききました。

  「どうしたんですか」
  「柱島から、再起を期して沖縄中城湾に帰投すべし
  と言ってきてなあ。夜戦決行は取りやめだよ」

 気が抜けたというのでしょうか、「もう少し生きるのか」という気持ちもあるにはありましたが、考えることなど何もできないで美しい夜空を見ていただけだったように思います。

 退き潮

 一夜が明けます。

 航空戦力をなくして機動部隊の実を失ったとはいえ、水上部隊としての大艦隊はなお無傷のまま、針路を北へ、静かな航海を続けて行きます。

 要衝サイパンの運命は決まった。サイパンと共に、広ぼう果てしない西太平洋の制空、制海権が一挙に敵の手に落ちる。

 次はもう真っ直ぐに朝鮮海峡ではないか。すっかり明治に戻ってしまうではないか。

 しかもその退き潮の、何と無残に急なことよ......

 20になったばかりの私が、祖国の命運を体で感じる初の、しかも生涯で最も衝撃的な体験でありました。

 万事休すであります。降伏が考えられない当時の私に思い浮かぶことは、栄光の滅亡でしかありません。最後まで勇敢に戦って、桜の散るように美しく。努力目標はもうそれしかありませんでした。

 東条幕府を倒せ

 沖縄中城湾で仮泊の後、瀬戸内海の柱島へ。霜月はそれから、戦況奏上に参内する豊田連合艦隊司令長官坐乗の大淀を護衛して横須賀に向かいます。

 横須賀で上陸を許された私はその足で、経理学校時代に商法を教わった石井照久先生を訪ねます。いったい日本はどうなるのかお話を聴きたかったからです。

 すると生徒時代に受けた温厚な印象とは打って変わった興奮の面持ち。そして「東条を倒さなければいけません」と語気を強められるのです。

 「太平洋の制海権が危なくなっているのに、飛行機の資材配分は陸海軍半々です。こんなとき陸軍に我慢させるくらいの決断ができなくて内閣総理大臣が勤まりますか」

 最近の内閣の公共事業費配分そっくりですね。政治家に決断力がなくなったのは平成の今に始まったことではない。昭和のかなり前から、あの国家存亡の時にさへこの体たらくだったのです。維新直後のあの決断力はどこへ行ったのでしょうか。

 その時、もう一人海軍技術大尉の方を訪ねましたが、ここでもえらいことになっていました。「実は、島田海軍大臣の暗殺計画を練っているんです。東条の言うなりでは国が滅びる。東条の言いなりになっている島田をまず殺さなくては......」という話を聞かされるのです。

 艦への帰艦時間がなかったら、私も血の気の多い方でしたから「仲間に入れて下さい」と言い出していたかもしれません。

 幕府さながらで倒す手立てがないとまで言われた、さしもの東条内閣もその後間もなく総辞職、島田海軍大臣の暗殺計画はどうなりましたか。

 第十  戦争収拾
 打つ手なし


 マリアナ沖海戦の後、まだ日本に勝算があると思っている者は、恐らく全艦隊中に一人もいなかったと思います。それくらいのことは当然、大本営特に海軍上層部には分かっていたに違いありません。

 内閣の更迭もあり、戦争収拾に動く重要な節目ではなかったでしょうか。
 陸軍はインパールで作戦部隊が壊滅していました。
 だが、当時そのような動きがあったのかどうか。

 チャーチルが連合国側の主導権を握ってでもいたら話は別だったでしょうが、無条件降伏一点張りのルーズベルトが主役では、たとえ仲介役にふさわしい国があったとしても、こちらから和平工作の手が打てるような状況ではなかったように思われます。

 日露戦争の時のように事が運ぶ客観情勢は全くありませんでした。

 更にもっと日本にとって不幸だったのは、政治の中枢に明治時代の外交感覚が全く欠如していたことです。

 天晴れ日清戦争の幕引き

 戦争の収拾について、最近読んで感心させられたのは日清戦争の収拾です。
 旅順を落した山県有朋は一気に北京を突こうとするのですが、大本営の中に強引に割り込んできていた内閣総理大臣伊藤博文は「絶対にまかりならん」と強硬な反対論を展開します。

   「いま北京を攻略して清朝が滅びでもしたらどう
   するんだ。誰を相手にこの戦争を収拾するんだ」

というのが伊藤の論拠です。

 列強が鵜の目鷹の目で見ており、どんな干渉が入るか分からない。そんなときに、あくまで清朝を戦争収拾の相手と見定め、勝ち戦さで鼻息の荒い軍を制止したシビリアン伊藤の指導力は、絶妙というほかはありません。そのお蔭で、日清戦争では泥沼に入らすに済んだわけです。

 日露戦争の収拾も見事

 次の日露戦争では、もっと複雑な状況がありました。その中で何とも感動的なのは、満州派遣軍で参謀長の要職にあった児玉源太郎が、奉天(現在の瀋陽)大会戦の後、素早く東京に戻ってきて「もう続かん。万難を排して戦争を収拾してくれ」と政府に訴えたことです。

 奉天の戦いでは、こちらが勝っていながら、敗走する何万というロシア兵に向かって撃つ弾丸がなくなっていたと言われます。日本の戦力がぎりぎりの限界点に来ているのが児玉源太郎の目の前にさらけ出されている。

 その緊迫した一瞬を押さえる機敏さ、聡明さが日本政府にも軍人側にもあったということが素晴らしいではありませんか。

 見劣りのする昭和の国家運営

 それでは昭和日本はどうだったかといいますと、日支事変の場合、始まって一年も経たないうちに近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」という声明を出してしまいます。

 ここが日清戦争とは大違いのところです。

 あの広い中国大陸で蒋介石を相手にしなかったら誰を相手にするのですか。汪精衛を担ぎ出して南京政府を作らせるのですが、これは小細工の域を出ません。

 こうして日支事変はすっかり泥沼に足を突っ込んでしまうのです。

 南仏印進駐だって迂闊な話でした。それが日本の命取り、アメリカの対日石油禁輸につながろうなどとは夢にも思わず、近衛首相も後になって事の重大さに驚いたというのですから話になりません。

 戦後の極東軍事法廷でインドのパル判事は

   「あんな締め付け(対日禁輸やハル・ノート)に遭えば、
   ミラノのような小国だって立ち上がったであろう」

と日本の開戦行動を弁護してくれましたが、そのきっかけが南仏印進駐にあったとすれば、その軽率さは、国家、国民に対して罪万死に値すると言わなくてはなりません。

 第十一  嗚呼、分水嶺
 戦争を避け難いものにした運命の分岐点


 アメリカとの戦争は、ある段階からは何をやっても阻止できなかったのかもしれません。

 もう少し早く手を打つべきだったと言っても、どの時点でどういう手を、というところまで踏み込まないとまともな論議にはなりません。

 そこで、それに該当しそうな時点は何時かを突き詰めて考えておりますと、どうも第一次大戦中の対中国21カ条要求にまでは遡らなくてはならないように思えるのであります。あるいはもっと前に運命の岐路、東アジア史の一大分水嶺があったとも考えられなくはありません。

 太平洋を挟む二大勢力の登場

 アメリカ、ドイツ、イタリアの三国は、日本の明治維新とほぼ時を同じくして、世界の主要国に列する体制固めを成し遂げます。アメリカは南北戦争の収拾で難局を克服、ドイツはビスマルクの登場でドイツ帝国を形成、イタリアが統一国家になるのもこの時期で、いずれも19世紀後半の出来事です。ヨーロッパに二つ、太平洋に二つの強国が誕生したわけであります。

 その中で、ドイツとイタリアが帝国主義の戦列に加わるのは、何となく分かるような気がするのですが、日本とアメリカの場合は分かりにくい。

 アメリカは19世紀末ハワイ王国を併合、米西戦争ではスペインからフィリピンを割譲させています。

 日露戦争の講和で仲介の労を取ってくれてはいますが、それはそれ、アメリカはフィリピンまで出てきておいて、その上になんでアジアの大陸部分(満州)にまで手を伸ばそうとするのだ。欲張り過ぎではないか、と小村寿太郎あたりが考えたとしても不思議ではありません。

 ポーツマス条約締結に関連してアメリカが南満州鉄道の共同経営を申し入れてきたとき、日本はもう少しのところでそれを受け入れるところだったのですが小村の反対でご破算になります。

 実はここらあたりから、極東における日米の利害が対立し始めるのです。日本の帝国主義化と目されるようになった、アジアでの権益拡大がアメリカの不快感を増幅させるという構図が定着していくのです。

 両雄並び立たず

 日露戦争直後の時点でもし日本が、朝鮮半島を確保できたのだから満州は独占しなくてもいいという発想に立っていれば、それ以降の日米関係はすっかり違ったものになっていたかも知れません。

 いまいましい話ではありましょうが、満州の経営についてアメリカに片棒を担がせてさえいれば、同じアングロサクソンの手前、英国も満州のことにそれほど口を挟むのを控えたでしょうし、ロシアもそう易々とは手を出せなかったに違いありません。そのような安定した国際関係を築くことができていたら、アジア太平洋地域であんな大きな戦争が起こる可能性はずっと少ないものになっていたのではないでしょうか。

 しかし、日本はアメリカを満州経営から完全に閉め出してしまった。それ以降日米両国は海軍力の増強を競い、太平洋の覇権をめぐって、両雄並び立たずとも言うべき、誠に不幸な対立基調にはまり込んで行くのでありまして、こういう枠組みが出来上ってしまった以上、日米関係は、いづれいつの日か雌雄を決しなくてはならない宿命の下にあったということができるのかも知れません。

 分水嶺の課題はこんな雑駁な話ではとても済まされないアジア史の大課題でありまして、只今申し述べましたところは序の口にもならない内容のものでありますが、私のひとつの思い付きとして、頭の隅においていただければ幸いに存ずる次第であります。(完)
1999年03月31日(水)
 元中国公使 伴 正一
 第七 大戦争の中の長閑な日々
 遠洋航海


 私が逆にもう2年遅く卒業していたら、「のどかな帝国海軍」など知る由もなかったでしょう。在りし日の大海軍、連合艦隊の威容を目の当たりにすることもなく戦争を終えていたに違いありません。
 しかしミッドウェーで帝国海軍が致命的敗北を蒙った後でもあの戦争には、まるで嘘のような静かな時間帯があったのです。

 卒業後、初めて乗った戦艦山城で、遠洋航海と称するトラック島までの研修航海が始まります。兵科、機関科、主計科、合わせて600名近く、卒業したての候補生が2隻の戦艦と1隻の巡洋艦に乗って悠々、トラック島を目指しました。海軍3校卒業生の8割くらいをゴッソリ、たった3隻の艦に満載して行くわけですから無用心もいいところ、まだ太平洋西半の制海権に自信ありと言わんばかり、大胆不敵の行動です。

 トラック島からの帰りに艦内新聞で知るのですが、東の防衛最尖端、マキン、タラワが玉砕します。
 ヒットラーはその直前に
「友邦日本は、数千マイルの彼方に敵を峻拒し続けている」
と演説していましたが、それで気をよくしていたのですから、負けることを頭から考えない国というものは恐ろしいものです。

 マキン、タワラ玉砕の後も、それで緊張が高まるというわけでもなく、平穏な航海、以前と変らぬ艦内生活の日々が暮れていきます。

 二度目のトラック島

 やがて新候補生全員は皇居参内、拝謁を済ませ、私は横須賀で修理中の巡洋艦愛宕に着任、第2期研修に入ります。
 昭和18年の暮れ、空襲警報が鳴ったという記憶もありません。中岡前艦長戦死後いくばくも経っていない愛宕の一室で、静かに吉田松陰講孟箚記の筆写をしながら大晦日、満20歳誕生日の感慨に耽っていたのであります。

 まもなくトラック向けに出撃、勇ましく出航用意のラッパが鳴り響きます。「椿咲くかよあの大島を越せば黒潮渦をまく」歌の文句の通りであります。
 トラックには武蔵、大和以下連合艦隊の主力が、広大な環礁一杯に錨を下ろしていました。

 覚えているのは夜、煌々と電気をつけ、甲板上での夕涼みよろしく、乗り組み下士官兵のため映画を上映していたことです。太平洋のど真ん中トラック環礁は、昭和19年の正月明け、まだまるで温泉地か保養地のようなリラックスムードだったのであります。

 当然ながら風紀も、うぶな私にはどうかと思われる状況でした。先輩たちの女遊び見ていて、こんなことで戦争に勝てるだろうかと思ったものです。

 でもその中には、ラバウルなど南の前線から帰投してホッとした、束の間の骨休めであった人、生きて再び帰ることのなかった人も少なくなかったはずです。

  [思いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]

 そんな日が何時やって来るかも知れない。時にはそんな日の連続でさえある、熾烈な南太平洋の戦闘海域と、中部太平洋に位置していた根拠地トラックとはやはりどちらが欠けてもいけない持ち合いの相互関係だったのでしょうか。

 戦争が始まって2年と少し経っていた頃のことです。
 そんなトラックである日、紛れ込んできたような感じの敵偵察機を打ち漏らしてしまいました。
 トラックにいた連合艦隊の主力が一斉にパラオへ移動します。

 敵機動部隊の初攻撃で、残った艦船部隊が壊滅するのが、それから僅か10日後、同期から最初の戦死者も出ました。
 中部太平洋の楽園はこうして一挙に、それまでの連合艦隊前進基地としての地位を失い、我が制海権すれすれの最前線と化してしまうのです。

 パラオ恋しや

 突如トラックを襲った悲運をよそに、移った先のパラオはというと、昨日までのトラックそっくり、敵機の姿を見ることもない平和の別天地でありました。
 私にとってのパラオは、今思い出しても「パラオ恋しや」の舟歌が洩れてくる、そんな桃源郷だったのです。

 愛宕艦内にも平時の海軍の面影が残っていました。その一つに、今の日本人の戦争イメージからは想像もつかないような昼どきの風情がありました。
 司令長官(後の"栗田艦隊"の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の演奏が始まるのです。勇ましい軍歌ではありません、荘重なクラシックなのです。

 マキン、タワラが玉砕し、トラックがあれほどの打撃を受ける状況下に、海軍では第二艦隊の旗艦愛宕にまだ軍楽隊を乗せていたのです。
 毎日のように軍楽隊の演奏のもとで食事をとる風景、みなさん想像ができますか。私のように音楽の素養のないものでも優雅な気分にだけはなったものですよ。
 在りし日の海軍、その威容を語る懐かしの風景でありました。

 休みの日がこれまた傑作、パラオで一番大きいコロール島の山登りが楽しみでした。余分におにぎりを作ってもらって、"お腰にさげて"という気分で出かける。パラオの子供たちがぞろぞろついてくる。まるでパイド・パイパー、日本流だと桃太郎の絵図です。
 今になって思うと、その子供たちの中から大統領や閣僚が生まれているかも知れないんですね。パラオの子供たちにはいい思い出ばかりです。

 第二艦隊艦隊会議の記録係もさせて貰って、戦局の大きな動きも頭では分かっていながら、こんなパラオにいては長閑な気分をどうすることもできません。
 やがて太平洋戦争の天王山、空前絶後の大海戦の舞台になる海域にありながら、私はいかにも平和なパラオの雰囲気の中で、副官事務と庶務主任の仕事に精出していたのであります。

 戦争というのは、戦国時代にあっても大名たちが毎日戦闘していたわけではないんすね。インターバルがある。その間に何年もの「平和の時」が入っていることさえ珍しくはなかったはずです。
 日本の歴史でも世界の歴史でも、小説家が描くものに影響され、戦争と言えば戦いの連続のように思いがちですが、現実の戦争はそういうものではありますまい。国民全部が戦争をひしひしと身近に感じた大東亜戦争末期の主要都市無差別爆撃は、半年近く切れ目無く続きましたが、あれはもう、勝負が決まって止めを刺す行動の時期だったと見るべきではないでしょうか。

 そのパラオも私が転勤命令を受けて去った直後、アメリカ機動部隊の猛攻撃を受けることになります。
 私は幸か不幸か、そういう戦争の苛烈な場面をすり抜けてきた格好になっていまして、命を長らえていることが申し訳なく思うことが今でもよくあるのです。

 私が乗った5つの艦艇のうち4隻が沈没し、後任者はみんな戦死しています。その4人が私を生かすために私の死場所だったはずのところへ転勤して来てくれたようなものなのです。

 第八  この一戦
 一路決戦場へ


 パラオで愛宕を退艦し、長崎で艤装中の駆逐艦霜月へ。佐伯沖での訓練が終わるのが、頽勢を挽回して戦局の一大転換を図ろうとした「あ」号作戦発動の直前でありました。
 「タウイタウイ島向け出撃すべし」という命令なのですが、「おい、タウイタウイってどこだ」とガヤガヤ子供のようにはしやいでいた初陣霜月の出撃風景、私にとっては、咲く花の匂うが如き青春の一こまです。

 タウイタウイ島を目指してフィリピンのスールー海に入った時、シンガポールに近いリンガ泊地を出撃して北上中の我が大艦隊に合流できました。
 霜月は早速空母瑞鶴の直衛を命ぜられます。

 全艦隊が燃料補給のためギマラス泊地に到着したころ、「あ」号作戦は既に発動されていて、関連軍機書類を旗艦大鳳へ貰いに行きます。
 艦長のお供は、副官でもある主計長職務執行の私です。こうして私は最高の機密書類を艦長の次ぎに見ることのできる立場にいたのです。

 分厚い軍機書類に目を通して作戦の全貌が分かって行く、その興奮といったらありません。敵撃滅の後、我が第一機動艦隊はラバウルに進出するとまで書いてある。血湧き肉踊らずにおられましょうか。

 敵機動部隊を求めて

 翌朝はいよいよ敵を求めての 艦隊出撃 ギマラス泊地発進です。
 名は第一機動艦隊でも実質はほとんど連合艦隊そのもの、海軍をこぞる大小の艦艇が次々と泊地を出て行く、その光景は壮観の一語に尽きます。

 それまでに駆逐艦は随分消耗していましたが、戦艦や巡洋艦は昭和19年6月の時点では大部分が健在だったのです。空母もいったんミッドウェーで壊滅状態に陥ったものの、その後大鳳が竣工し、瑞鶴、祥鶴に仮装空母も加えると、かなりの規模のものに戻っていました。
 それが陣容を整えて、いよいよ敵撃滅の壮途に就くのですから、万葉の歌さながら「御民われ生けるしるしあり」の思いに心が弾んだのも無理はありません。先程引用した

  [想いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]
というのは、この時の武人としての心境を50年後に回想し、第1回の戦史講話で披露させて頂いた自作の短句であります。

 皇国の興廃この一戦に在り

 いよいよ6月19日、決戦の日がやってまいります。
 真っ青な空、真っ青な海の中を行く空母瑞鶴、その飛行甲板上に次々と艦載機が運び上げられ、キラキラと朝日を浴びて輝きます。そして一機また一機と紺碧の空に舞い上がっていく。

 各空母の艦載機が発艦を終え、艦隊の上空を覆い、やがて幾重にも銀翼を連ねて視界を去る。第一次攻撃隊の発進であります。
 「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の指示を表すZ旗が揚ります。

 明治38年5月27日帝政ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦から38年目、同じ旗流信号が旗艦大鳳の上に翻えるのであります。
 さあ次は第二次攻撃隊です。発艦作業開始。艦隊上空での勢ぞろい。200機はいたでしょうか。艦隊全員の期待を背にして乾坤一擲の壮途に就きます。

 その瞬間には神ならぬ身の知る由もなかったことですが、この偉観は私にとって、勝利への希望に輝いた眼で見る最後の海戦絵巻となったのであります。(続)
1999年03月29日(月)
 元中国公使 伴 正一
   
 第四 少年の心に映った戦前昭和史の一こま
 青年将校とマルクス学生を動かせた共通のもの


 昭和11年、中学の入学試験に合格した直後のことです。2・26事件が起りました。はっきり覚えているのは、そこらの路地を歩きながら、姉の亭主になる義兄が「あの人たちの動機は純粋なんだ」と言っていたことです。

 これは国民全般とはいかないまでも当時の多数日本人の本音に近いところではなかったでしょうか。

 政党政治の腐敗という言葉が、かすかに幼な心に刻まれていました。田舎の小学校を転々としていた私には、"貧しい農家"のイメージが同級生たちの服装や弁当から実感として伝わってきていました。それだけに、娘が売られるというような、子供には分かりにくい話も、まんざらこの世の外のこととは思っていませんでした。

 それが、子供たちが漠然と話に聞くのと違って、一人前の陸軍将校の立場になっていればどうでしょう。自分が"陛下からお預かりしている"兵士から、妹が売られていると聞いたら、義憤に燃えずにいられるでしょうか。

 昭和の歴史はその初頭の世界恐慌を抜きにしては語れないのでありますが、そのシンボル的事例としての"娘が売られる"という現象に、多感な青年の目が鋭角的に注がれたとしても不思議ではありません。

 最近になって思うことなのですが、5・15事件や2・26事件の青年将校たちが、もう少し家計にゆとりがあって(旧制の)一高や三高に行っていたら、マルクス・レーニンに走っていた可能性は多分にあると思います。

 逆に、旧制高校でマルクス・レーニン主義に傾倒し、ブタ箱入りで殉教者気取りにさえなっていた天下の秀才たちが、もし陸軍士官学校あたりに入っていたらかの青年将校のような行動に走っていたかも知れません。

 一高生や三高生がどれほど秀才だったとしても、果たしてきちんとマルクスを勉強したのかどうか、勉強はしてもよく分かったのかどうかは怪しいものです。大まかに言えば"マルクスかぶれの風潮に染まって行った"と見るのが正解で、それを原体験的に支えていたのが、当時全人口の半分を占めていた貧しい農村の姿ではなかったでしょうか。

 海軍の風潮

 私が旧制中学から海軍経理学校に入学したのは2・26から5年目の昭和15年の暮れでした。海軍の学校で一番怖いのは一号生徒と呼ばれる最上級生で普段の日はこてんこてんに鍛えられましたが、日曜日に外出している間だけは人が違ったような優しい兄貴になる。そういう中で一号生徒から5・15事件の三上卓が作った有名な[泪羅の淵に波騒ぎ......]の歌を教わったのですが、その際一号生徒は「二番だけは外で歌うなよ」と注意してくれていました。「財閥富に奢れども」という悲憤の下りです。一つのバランス感覚として面白いではありませんか。

 それが私が2年生から3年生になる頃になると、今にして思い当たることなのですが、海軍にもナチスかぶれの傾向がそろそろ現われ始めていたように思います。

 海軍省で戦時国際法の権威だった杉田教官の講義では、捕虜待遇の個所などきちんと教えてくれていました。ところが生徒の中からは「教官の言うようにしていたら戦争は負けるよ」とか、「何でもいいから一人でも多く敵を殺すんだ」とかいう反発の声がチラホラ出ていたのです。兵学校では、軍歌「上村将軍」のうち、沈み行く敵艦リューリック号の乗員救助を命じた次の一節を歌わせない分隊もあったそうです。

   恨みは深き敵なれど
   捨てなば死せん彼らなり
   英雄の腸(はらわた)ちぎれけん
   救助と君は呼びけり

 総力戦を強調しただけとは思えない。日本古来の思想でも、楠木正行の敵兵救助は天晴れ武士の鑑とされてきたではありませんか。そんなことを考えると、これはどうもナチスの影響でもあったように思えてなりません。

 第五 いい加減だった戦争目的
 いま振り返ってみて全く解せないのは、あの戦争の3年8カ月間、前半は海軍生徒、後半は南太平洋転戦ということでありながら、戦争目的が語られるのを耳にしたことがないということです。

 それだけに唯一の例外、東大橋爪教授の講義から受けたショックが忘れられません。

 「この戦争は祖国防衛戦争ですよ」と言われる。ピンとこない。それどころかひどい違和感を覚えたものです。「アジアの解放」が目的と信じて疑うことのなかったところへ「そんな呑気なもんじゃありませんよ」と水をぶっ掛けられたんですから無理もありません。

 「東亜侵略百年の野望をここに覆す」と国中が高らかに歌っていたご時世、まだ日本が負けるなんて思ってもみなかった時期ですから、戦争の大義名分に掲げられていた謳い文句を、そっくりそのまま、戦争で達成しようとする具体的 戦争目的 と取り違えていた。どの国にだってあり勝ちなことではありますが、我々軍人を含めて国民全体が戦争目的の意味が分かっていなかった。それを橋爪先生が衝いてくれたのだと思います。

 その橋爪教授が薦めてくれた本に「戦争指導の実際」というのがありました。分厚い本でしたが、卒業後も軍艦に持ち込んで読み耽ったものです。

 第一次世界大戦の時、陸軍からのフランス派遣観戦武官だったこの本の著者は「戦争目的」について、実に目の覚めるような見事な解説をしてくれていたのです。

 「戦争を始めるには目的がはっきりしていなければならない。また戦争目的を達成したと思ったらすぐに止めるのが戦争指導の鉄則である。」
 「人間は愚かだから、戦争目的が容易に達成されそうだと思うと、つい目的を広げてしまう。こうして戦争を収拾する折角のチャンスを逃し、泥沼に入ってしまい勝ちなのである。」
 「逆に目的を達成できそうにないことが分かったら、いつまでも目的にこだわっていてはいけない。すぐさま戦争目的を縮小し、素早く手を打たないと大変なことになる」

 「戦争指導の実際」は私が今までで最も愛読した本の一つですが、著者の目から見れば日支事変も大東亜戦争も、目的がはっきりしないままだらだら続けた戦争だったに違いありません。

 第六 戦争の"陽"の半面、勝ち戦さ
 幕末生まれの伯父の生涯


 海軍生徒として娑婆気もすっかりぬけたころ、退役陸軍少将で日清戦争では功三級をもらったという伯父が亡くなりました。大東亜戦争で日本が勝ちまくっていたさなかでした。私とは随分と年の違った伯父でしたが、その伯父が死ぬ2日前に言った言葉がとても印象的なのです。

 「英国は滅亡だ」という。

 伯父にしてみれば、幕末に生まれ、日清戦争で初めて鴨緑江を越える。

 爾来国運いよいよ隆盛に向かい、大東亜戦争の緒戦で海軍は英国太平洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズ号を撃沈、陸上ではマレーの虎と勇名を馳せる山下奉文の兵団が、アジアにおける大英帝国の牙城シンガポールを衝こうとする。

 そこまでを見届けた伯父の一生は、明治建軍から登りつめて頂点まで。それをすっぽりきれいに生身の視界に収めきった生涯でした。  そんな生涯の幕を勝ち戦の中で閉じた伯父の最後の言葉が、先に述べた「英国は滅亡だ」であったのです。

 ミッドウェーの敗戦を知らずに息を引き取った黄海海戦(日清戦争)生き残りの提督がいたとしたら、維新この方敗れることを知らなかった大海軍の面影を、一点の曇りなく心に収めて世を去ることができたに違いありません。

 私が素朴に羨ましいと思う伯父の生涯をこんなところで引き合いに出したのは、今の日本人には分かりにくい勝ち戦さの実感を、多少なりとも後世に伝えたいと思うからです。

 戦争とは負けるものだというような、一方的思い込みの感覚で軍事を論じていたら、世界の常識からかけ離れた珍論になりかねないし、世界の歴史そのものの理解も怪しくなります。

 「治にいて乱を忘れず」しかも、物事を見る目は陰陽の両面、戦さで言えば勝ち負け双方の局面に向けられていなくてはなりません。陽にしろ陰にしろ一面しか知らないでいることは物の見方を偏(かたよ)らせる基になるのであります。

 先輩たちの勝ち戦さ

 というわけで勝ち戦さの話をもう少し続けましょう。

 外務省の先輩で最後にはフランス大使を務められた力石さんがジュネーブ在勤中のことでした。私が出張してのある酒の席で話がインド洋作戦に及んだことがあります。カルカッタやコロンボの空襲などはほんのつけ足りで、元気一杯に洋上作戦を展開する南雲艦隊の有様が力石さんの口を衝いて出てくるのには、こちらがすっかり当てられてしまいました。同じように勝ち戦さしか知らない人でも、海軍生活の印象がよく、戦後もずっと陽の当るところにおられたから、平気でそんな話もできたのだと思いますが、とにかく痛快でした。「もう2年早く卒業していたらなあ」と力石さんが羨ましかったものです。

 もう一つは昨日のことです。日銀出身の岡田さんという方にロータリークラブの会合でお会いし、先方から「海軍出身でしてねえ」と自己紹介されました。

「どこにおられたのですか」
「インドネシアです」
「今村大将がおられたでしょう」
「立派な方でねえ......」
「そのころの印象はどうでしたか」
「いや、アメリカが日本を占領していたときと同じようなもので、日本の威勢 がよく、随分いい思いをしました。」

 そんなやりとりでありました。

 私にとって勝ち戦さは、生徒時代に一般国民と同じように新聞やラジオで聴くだけ。たまに先輩がパール・ハーバーの話をしてくれるぐらいで体験したことがない。つまり新聞を通じて知る勝ち戦さでした。しかしそれもミッドウェーの海戦を境に一挙に怪しくなっていくのです。

 勝ち戦さの終り

 ミッドウェーといっても若い人にはピンとこないでしょうが、維新この方、負け戦さを知らぬ帝国艦隊が、圧倒的に優勢な兵力でミッドウェーに襲いかかった、勝つのが当たり前の戦さです。

 それが何ということでしょう。運命の五分間、いわば一瞬の判断ミスで大敗を喫し、主戦力の空母四隻を失ってしまうのです。

 それこそ卒業が私より二年早い青木先輩に、戦艦榛名艦上からの目撃手記があります。要約してみましょう。

    着艦するに母艦なし!
    洋上機動作戦の華、錬達のパイロットたちは、搭乗機も無傷、燃料に
    不足もないのに、空しくハンケチを振りながら海の中に突入して行く。
    何たることぞ。その無念やいかに。

 こうして太平洋上における我が海軍破竹の勢いは頓挫し、その勢いを取り戻す夢は遂に実ることがなかったのであります。

 この後、勝ち戦さらしいものといえば、愛宕時代に仕えた荒木艦長ご自慢のツラギ夜戦くらいのものではなかったでしょうか。

 戦さというものには完全ゲームから引き分けまで、色々の勝ち負けがありますが、どんな場合でも双方にミスが続出するのがむしろ常態だと言えます。

 そして、ミスが相手のミスで救われたりもしながら、総じてミスの少ない方が勝つ。戦さはこういう感覚で捉えると実感が出てよく分かるのでありまして、どう見ても勝つはずの戦さでも、やはり敗れることはあるのであります。

 戦争は外交の延長であり、それを締めくくるのも外交ですから、作戦用兵だけで勝負が決まるわけではありませんが、もしもミッドウェーであんな番狂わせがなく順調に勝ち進んでいたら、戦局はどう展開していたでしょうか。

 それは日露戦争での奉天大会戦か、日本海海戦直後の段階に少しばかり似通ったものになっていたかもしれません。

 そんなことを考えておりますと、勝ち目のないという点では日露戦争だって大東亜戦争とどっこいどっこいではなかったのか、という気がしないでもないのであります。 

「お金の話」

第8回はりまや橋夜学会のお知らせ
日  時:4月03日(金)午後7時から8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
テーマ:お金の話
講 師:伴 武澄

普段、何気なく使っているお金。通貨ともいいます。でもお金と通貨ってどう違うの? そんな素朴な疑問から始めます。
その昔、人々は物々交換で欲しいモノを手に入れていた。それがお金の発明によって、格段に便利となって、経済が発達しました。
でも、どこかでお金の持つ利便性が別の化け物に変わってしまいました。
そうです。お金がお金を生むという摩訶不思議システムが誕生してしまったのです。もう後戻りは出来ないのでしょうが、お金の意味をもう一度考えてみましょう。
1998年09月05日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
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  大分前のことだが、マカオの古銭商で「大日本国貿易銀」という名の銀貨を買った。発行は明治9年(1877年)。通貨単位が表記されていないのが不思議だったが、「Trade Doller」とあるからドルのことである。当時、日本では円ではなくドルを発行していたのだろうか?

 また英字で「420Grains. 900 Fine」と刻字されてある。fineは品位のこと。1 grain は0.0648グラムだから 27.216グラム。最近の銀の国際市況でいえば、1グラム=22円だから、約600円の価値の銀貨である。値段は当時の邦貨にして約4000円だった。約600円の価値の銀貨を4000円で買ったのだからバカみたいな話だが、筆者にとって通貨を考える基礎となっている。

 ドルも円も銀貨の単位だった

 古銭商のガラスケースには、大日本国「1圓銀貨」や広東省や福建省造幣廠発行の「1圓銀貨」なども陳列されていた。明治時代の日本の通貨単位は「円」ではなく「圓」と書いた。「円」に変わったのは戦後である。マカオの古銭商にあった銀貨はどれも同じ大きさで品位も同じである。明治時代に1ドル=1円だった意味が氷解した。現在の中国の通貨は「元」。かつては「圓」と呼んでいた。明治政府は中国にならって銀貨の単位を圓としたのであろう。なるほど「円」も「ドル」も「圓」ももともとは銀貨の単位だったのだ。

 ちなみにポンドは今でも重さの単位。英国ではシリングが銀貨の単位で、フランスではフラン。実はロシアのルーブルは銅の単位である。ドルという呼び名の由来は現在のチェコのプラハ東部にあるクトナホラ(Kutnahora)銀山にある。1995年、当地を訪れた際のガイドの説明では「メキシコ銀が見つかるまでヨーロッパ最大の銀鉱山であり、ハプスブルグ家の富の源だった」らしい。クトナホラで鋳造された銀貨をドルと呼んでいたのだ。

 この銀山の存在を抜きにハプスブルグ家による長年のヨーロッパを支配は考えられない。その後、スペインが隆盛を極めたのはメキシコ銀のおかげである。ポルトガルは、メキシコに次ぐ世界の銀産地だった日本の銀流通を一時支配したが、鎖国で日本との貿易から外された。銀貨の大量流通は、歴史に貿易の拡大をもたらした。筆者の持論である。金はあまりにも稀少で貿易を賄うには流通量が足りなかったが、銀は産出量、価値、重さの三点で国際的貿易の対価としてぴったりだった。

 近代国家の多くは金を基軸通貨にしていたが、19世紀になっても国際貿易で実際に流通していたのはこの貿易銀だったのである。今のように銀行間の決済システムが完備していない時代である。江戸時代の日本では三井などの両替屋があり、江戸と京都や大阪との間の商品取引で現金は必ずしも必要でなかったが、国際貿易では銀貨が中心だった。

 金兌換紙幣の時代に存在しなかった為替相場

 金も銀もいまでは国際市況商品となり、日々の価格が需給によって変わる。しかしどんなに変わってもロシアのルーブルやインドネシアのルピアのように10分の1になったり、100分の1になったりはしない。希少価値があり、一定の大きさに鋳造できることが通貨となる前提だった。

 紙幣は、もともと金や銀を担保として発行された。国家権力が発行する「証書」だから通貨と呼ぶ。香港ドルのように3つの純粋な民間銀行が発行している稀なケースもないわけではない。この種の証書を民間が発行すれば「小切手」とか「手形」だとか呼ばれる。あくまで決済の代用品だった。かつての紙幣は金兌換券である。国が金に交換することを約束していたから、「為替相場」などありようがなかった。貿易銀が国境を越えて流通していた。

 それがいつの間にか、為替相場が生まれた。金や銀の担保が十分でない通貨(紙幣)の発行が横行したからである。明治時代に1ドル=1円だった日本の通貨が第二次大戦前には1ドル=3円になり、戦後には360円になったのは日本銀行が発行する通貨の担保力がそれだけ足りなくなっていったからだ。

 ちょっと難しいが、国が発行する紙幣と民間企業が発行する手形と実は似た関係にある。日本語で紙幣と手形は違うことばで表現されるが、英語では同じである。手形は notes、bill、draft、紙幣も notes、bill、draftである。日本の紙幣には「日本銀行券」と書いてある。英語では Bank of Japan Notes である。だから日本銀行という「企業」が発行した手形もしくは証書と考えれば分かりやすい。というより日本銀行もまた企業なのである。一応、国営ということになっているが、大蔵省は株式の過半しか保有していない。店頭市場に株式を公開しており、後の株式は民間企業や個人が保有しているのである。

 ドル紙幣はアメリカ政府の借金が担保

 アメリカのドル紙幣がどういう手順で発行されるか、ユースタス・マリンズ著「民間が所有する中央銀行」(秀麗社)の記述の沿って説明する。

 「1ドルは連邦準備制度に対する1ドルの負債をあらわしている。連邦準備銀行は無から通貨を創造し、合衆国財務省から政府債券を購入する。利子の付いた流通資金を合衆国財務省に貸し出し、合衆国財務省に対する小切手貸付と帳簿に記帳するのである。財務省は10億ドルの利付債の記帳を行う。連邦準備銀行は財務省に対して債券の代価の10億ドルの信用を与える。こうして10億ドルの債務を無から創造するのだが、それに対してアメリカ国民は利息を支払う義務を負うことになるのである」

 現在のアメリカにはいくつもの連銀があり、その中で最大の銀行がニューヨーク連銀である。簡単に言えば、ドル紙幣はアメリカ政府が発行する債券(国債)を担保にニューヨーク連銀が政府に貸し付けた債権証書なのである。その時の割引率(利子)が公定歩合となる。notes だとか bill、draftと呼ばれる理由が分かっていただけたかどうか。

 ドルといえども、現在の担保はアメリカ政府が発行する債券つまり借金が担保なのだから不思議なことになっている。そしてこのニューヨーク連銀は欧米の銀行家が株式の100%を保有していて、アメリカ政府はただの1株も保有していないのである。

 実は、そんなドルが高いとか安いとか日々、市場で評価されている。マレーシアのマハティール首相は同国通貨リンギットの固定相場制に踏み切った。国際的信用を失うというコメントが新聞紙面をにぎわしているが、さてどういう結果をもたらすか注目したい。国際金融資本による通貨の売り買いは本当の当該国の経済力を反映しているのか疑わしくなっている。通貨切り下げがうわさされる中国は本質的には固定相場制だし、香港だって実体的には固定相場制を維持してきたのである。

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