2015年3月アーカイブ

DSCF3157.JPG日  時:3月13日(金)午後7時から8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
テーマ:土佐日記へのいざない
講 師:戒能哲雄

13日の夜学会は戒能哲雄さんが「土佐日記へのいざない」と題してのお話。学校の先生のようになかなかうまい授業をしてくれた。みな高校時代の「男もすな る日記を......」ぐらいは覚えているが、全文を俯瞰したことはなく、今も多く残る土佐の地名にうなずきながら、全文を読んでみたい気持ちにさせられた。 1000年以上も前に、日記を文学として残した人は世界広といえども日本にしかいなかったのではないかと誇らしげな気分にさせられた。それにしても印刷機 もコピー機もない時代にどうやって読み広げられたかのか非常に興味のあるところである。

    夜学会というのは高知では明治期とか、本当にたくさん開かれていたそうな。
そしてなんと!! ボクも「土佐日記」について語らせていただくことになりました。
題して「土佐日記へのいざない」。
高知の方も意外と親しんではいないらしい「土佐日記」について、その魅力をお話しできればと思っています。
たとえば......土佐日記は12/21から始まりますが、船に乗ったのは12/27。それまでの6日間、紀貫之さんは何をしていたかというと、送別会、飲み会なんですね。なんとも高知らしいではないですか!

azarasinogotoku.jpg2月、3月、賀川豊彦の著作2冊『颱風は呼吸する』『海豹の如く』の電子化をほぼ終えた。表紙のデザインも自分でこなした。いずれkindleショップで 販売するつもりでいるが、最終校閲に協力してくださる方を募集しています。協力していただいた方には、すでに完成済みのセレクション(10冊)の第1巻と 第2巻を進呈します。

『海豹の如く』には、高知の話題がいくつか出てくる。まず、よさこい節。1933年の著書に高知の漁師がよさこい節を歌う場面がある。戦後の 歌と思っていたが......。また天然の良港として土佐清水の話が出てくる。そして、広瀬丹吉の釣り針。今も丹吉針屋は高知市菜園場にあるのだから、さらに驚 く。
以下、引用----------------------------------
 清水を出た船は、翌日の黄昏時に、日向の油津に着いた。こゝからは台湾に出漁してゐる船が沢山あるので、南洋漁業の話をきくのに、非常に便宜を得た。油津で延繩の修繕をしてゐた時に、針の話から、高知生れの小林猪之助が、土佐の広瀬丹吉の釣針の話をした。
『まあ、「丹吉」の針が日本一でせうなア。近頃兵庫でも、広島でも機械で釣針を作るやうになったですが、やはり手で作る丹吉のよい針には及びませんなア。三浦半島の三崎でも丹吉の針が一番いゝっていってゐましたが、鮪の延繩の針も丹吉のに限りますぜ』
 と勇に向ってお国自慢を始めた。然し、それには、船の者は誰も反対するものがなかった。卯之助までが、丹吉の針が良いといって褒めた。それまで、白洋丸はどこの針でも使ってゐたが、小林と卯之助が褒めるので、それからは丹吉の針ばかり使ふことにした。
『面白いものですなア。もう丹吉は、天明年間から今日まで百五十年以上も魚を釣る針を専門に造ってゐるのださうぢゃが、魚の口の恰好や魚の習性に従って、 針の恰好を全然変へてゐるから面白いぢゃありませんか。あしこへ行ってみると。魚の釣針でも沢山ありますなア。種類でも百五、六十種あると、あしこの番頭 がいってゐましたが、並べてみると面白いものですなア』

Puyi-Manchukuo.jpg愛新覚羅 溥儀(アイシンギョロ・プーイー、1906 - 1967年)清朝12代、最後の皇帝、満州国皇帝。清末期に2歳10カ月で即位、4年後に辛亥革命で退位した。自伝『わが半生』によれば、「わけのわからぬまま三年間皇帝をつとめ、わけのわからぬままに退位した」。後に満州国皇帝になり、世界史にその名を残すことになった。

 光緒帝の弟、醇親王載灃の子として北京に生まれるが、3歳で宮中入りし、父母の存在を知らずに育てられた。波乱の人生の幕開けは即位から始まる。1908年、西太后の意向により宮中に入る。翌日に光緒帝が死去し、後継者として即位した。その次の日に、西太后の死が訪れた。当初、死期が近く「自分より長生きさせたくなかった」と考えた西太后による毒殺説が流布された。

そんな光緒帝死去の騒ぎから3年、1911年に辛亥革命が勃発し、清朝は崩壊した。翌年、孫文が中華民国成立を宣言し、袁世凱の調停により、溥儀の退位が決定した。しかし、不可解なのは、溥儀は退位後も紫禁城で暮らし続けたことだった。中華民国は、皇帝退位の交換条件として紫禁城での居住と年間400万両の支給を認めていたため、紫禁城内での溥儀は引き続き多くの家臣にかしずかれる"皇帝"だった。中華民国大総統の袁世凱が帝政復活に失敗した後の1907年、張勲の清朝復辟により皇帝に復帰したが、10日で退位するなど軍閥勢力に翻弄された。

紫禁城での生活はイギリス人家庭教師ジョンストンから、西洋式教育を受け、自転車や電話など最新の生活用品に囲まれ、西洋の影響を多分に受けた。特筆すべきは、この時期、中国の貧しい人々のために度々、義援金を送っていたことである。関東大震災の際にも財宝を日本のために送った。
次の転機は1924年にやって来た。北京政変で馮玉祥が北京を支配し、溥儀とその側近たちを紫禁城から排除したため、溥儀は日本国公使館の庇護を受けることとなり、翌年、天津租界に移った。天津時代は内外の有力者に接近し、自ら復辟の可能性を模索したものの、折りから始まった蒋介石による北伐で中国が統一されると清朝復活の夢は遠のいた。

wagahansei.jpg1931年の満州事変によって、溥儀の人生に再び明るい兆しが見えだした。関東軍の特務機関長土肥原賢二に満州国元首就任を持ちかけられ、側近らの反対を押し切って、満州国執政に就任することを決意する。清朝の故地である満州での新国家建設は、わけのわからぬままに即位し、退位した溥儀にとっては見果てぬ夢だった。

満州国建国の2年後の1934年、溥儀は満州国皇帝に就任した。満州国は五族共和、つまり、日満蒙中鮮の各民族が協力して国づくりをすることを標榜したが、満州国の実権は関東軍に握られ、自らの親政がままならなかった。

やがて日中戦争が勃発し、第二次大戦に突入するが、満州国は戦場から比較的遠かったことから戦禍は比較的少なかった。この間、溥儀は日本を訪問し、皇室から暖かいもてなしを受け、弟の溥傑は侯爵嵯峨公勝の娘浩と結婚するなど日本との関係を強めた。

日本の敗戦とともに溥儀はソ連に抑留され、1950年、中華人民共和国に身柄を移され、撫順の政治犯収容所を経て、1960年、特赦によって釈放された。北京植物園で仕事を得て、静かな余生を送った。著書『わが半生』は清末から軍閥時代を経て日本による満州国経営までを語った貴重な現代史である。(萬晩報 伴武澄)

自伝『わが半生』
gotoushinpei.jpg 後藤新平(1857-1929)明治、大正期にかけての政治家。台湾総督府民政長官、南満鉄初代総裁、東京市長などを歴任し、特に台湾開発や関東大震災後の東京市の帝都復興改革を立案したことで歴史に名を遺した。

 生まれは仙台伊達藩の水沢城下。後の海軍大臣、斎藤実らとともに水沢の三才と呼ばれる努力家だったが、幕末に伊達藩が反朝廷側に立ったことから冷遇されていたが、明治政府になってひょんなことから胆沢県大参事だった安場保和に才能を見いだされ、医学の道を歩むことになる。愛知県医学校を卒業後、頭角を現し、内務省衛生局にひきたてられドイツに留学、日清戦争後に児玉源太郎の知遇を得、児玉が台湾総督になると民政長官として抜擢された。

 後藤はキリスト教者であり農業経済を専門とした新渡戸稲造を三顧の礼で迎え、二人三脚で台湾統治の基礎を築いた。後藤のことを植民地の行政官と呼んでしまえば身もふたもない。後藤は生涯、日中露提携論者だった。太平洋対岸のアメリカの勃興に対して日中露が協力する必要性を説いたことで知られるが、瘴癘(風土病)の地として知られ、清国さえ開発に着手しなかった台湾に道路、鉄道、水道、港湾などインフラ整備に力を入れた功績はいまも台湾で高く評価されている。

 台湾民政長官時代の逸話として残っているのは、孫文が山田義正とやってきて革命資金とそのための武器調達への援助を求めた時のことである。「金が無かったら革命はできんだろう。武器は児玉将軍が用意しようといっているが金は貸せない。どうしてもというなら厦門に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある」と言ったという話である。内務大臣時代に大杉栄が訪ねて金を無心した時、300円を差し出した」というから、豪胆だった後藤なら言いかねない発言である。

 後藤の凄味はトップとなったほとんどの組織の黎明期にグランドデザインを描いたことだった。台湾、南満鉄、帝都復興など共通していたのは医者としての衛生知識が不可欠だったこともある。時代が後藤を求めていたのである。

 後藤が生まれ育った水沢はもともとは隠れキリシタンの里として知られ、高野長英を生み、学んだ藩校は大槻玄沢らを輩出した日本屈指の洋学研究機関だったことも知っておく必要があろう。また晩年にソ連を訪問しスターリンと会談していることも忘れてはならない。愛知病院長時代に岐阜で暴漢に襲われた自由党総裁、板垣退助の手当てをしたのも後藤だった。

 いくつもの名言を残したが、多くが知っているのは「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」(萬晩報 伴武澄)
日  時:3月6日(金)午後7時から8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
テーマ:僕の北海道独立論
講 師:伴 武澄


・まぼろしの極東共和国
・豆満江開発構想―環日本海経済圏
・国家の分離―シンガポール、バングラデシュ、東チモール
・北海道の意味 松浦武四郎が命名、北加伊道

「国を出て、国を作ればいいんだよ。そうしたら日本の規制から逃れられる」
「自治体の独立だな」
「そうだ。大前さんが道州制なんていって連邦制を提唱しているけど、規制緩和ひとつできない政府がそんな大胆なことできるはずがない。万一やっても何10年かかるかわからない」
 1ドル=100円という円高が続けば、農業どころかハイテク産業だって崩壊しかねないというのがお互いの問題意識だから、急にビールのピッチが上がっ た。1ドル=500円ぐらいの為替交換率を実現したら、一人当たりGNPは5000ドル前後(当時NIESは1万ドル前後)となる。
 20年前、真面目にそんなことを考えた。
 高知県佐川町で観光協会事務局長の公募があり、僕も応募した。給与は月36万円で、住宅付きであるから、田舎の町での条件としては破格である。だが、それ以前に僕自身が佐川町には因縁を持っていた。日本の公共事業の泰斗、広井勇である。数年前まで広井勇生誕地以外に顕彰するものは何もなかった。海外にも知名度の高いこの偉人の顕彰を通じて佐川町を日本の公共事業の発祥地として広めたかった。一次の書類選考は自信があったのだが、選に漏れたという連絡があって落胆した。備忘録として応募書類に添付した作文を掲載したい。

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meikokan.jpg 佐川町から夜学会を広めたい
  中山間地における地域観光の可能性について
伴 武澄
平成27年1月22日

 定年後、高知に帰れば何か役に立つこともあろうと、安易な気持ちでUターンした。新聞記者としての人生はいったん終わり、何か新しいことにチャレンジしたいと考えた。翌年、中山間地というより山地に近い土佐山アカデミーが開かれ、第二期生として参加した。高川地区で若者たちと共同生活をし、三カ月、座学とフィールドワークをこなした。山暮らしの極意はなんでも自分でこなすということだった。毎日が目新しく面白かった。

 しかし、地域に役立つほど何かをつかんだわけではない。山から下りて何も役立たない自分を自問する日々が続いた。そんな中で、アカデミーの仲間たちが炭を焼こうと立ち上がり、木炭焼きを始めた。山を元気にするのが目的だった。古老たちの力添えで、カシの切り出しから火の管理まで、四回ほどの試行錯誤を繰り返した。

 炭を焼くことはかなり覚えたが、問題は「売ること」だった。木炭の普及に熱心な高知市内の燃料屋の主人が「はりまや橋商店街の金曜市で売ったらどうや」と提案してくれ、さっそく、露店を開いた。商売は初めてで、買い物客との対話に戸惑うこともあった。
 一カ月で木炭はそこそこ売れるようになったが、それで生業にするにはインパクトが足りない。またもや自問とする日々を送ることになった。

 ある時、ひらめきがあった。商店街に空き店舗があり、1日5000円で貸し出していた。友人の村島さんがそこでケーナ音楽を始めたところ、人が集まり始めた。それを見ているうちに「そうだ、ここで夜学会を始めれば、何かが始まるかもしれない」と考え始めた。

 高知になにがあるか。世間では龍馬とカツオのたたきが人気だ。歴史上のアイドルと食い物である。そうではない。高知が高知らしかったのは、意外にも学びの土地柄だったことを思い出した。日本の自由民権運動は高知県内各地に澎湃として誕生した夜学会を素地としたはずだった。明治維新が明治日本の第一弾ロケットだったとすれば、自由民権運動はその発展の第二段ロケットとなった。

 佐川町は幕末多くの志士を生んだ土地柄である。維新以降は世界的植物学者、牧野富太郎と世界的シビル・エンジニア、広井勇を育んだ。佐川町は明治日本の第三弾目のロケットも準備していたと考えればいい。牧野博士についてはいまさら語る必要はない。広井博士は札幌農学校の第二期生として土木工学に進んだ。小樽港建設により評価を高め、日本の近代土木の祖となった。
加えて評価したいのは、三人の世界的土木技術者を育てた功績だ。台湾で巨大な潅漑ダムを建設し台南地方を緑野に変えた八田與一は台湾の教科書で恩人として教えられている。青山士はパナマ運河の一部を設計した技術者として名を残した。久保田豊は満州(当時)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江に当時としては世界最大級の発電ダムを建設し、今も中朝の重要なエネルギー源として知られる。地球規模の志の遺伝子が佐川町から発信されたと考えたら気宇壮大になる。

 そうした人物を育んだ高知県に再度、活性を取り戻すには「学舎」の復活が不可欠だと考える。明治14-15年に高知県で150カ所を超える夜学会が存在した。全国広しといえども当時、学舎がこんなにあったところはない。

中山間地には基本的に何もない。しかし、高知県の中山間地にはかつて夜学会という「学舎」が点在し、人々を励ます原動力となっていたことを思い出したい。

 今回佐川町が観光協会事務局長を公募するという情報に接し、ぜひとも佐川町から夜学会を広めたいという思いが沸き立った。町が元気になれば、「なんだ、なんだ」と近隣の市町村が面白がる。近隣市町村が面白がれば、四国の市町村が興味を示す。そんな連鎖が万が一広がれば、地球規模の関心を呼ぶ。

 いま何もない佐川町にこれから、人を呼び込むには「佐川町はなにしゆうぜよ」と外から関心を抱かせるような発信力が不可欠なのだと思う。佐川町には名教館という格好の場所が復活している。

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