2015年2月アーカイブ

日時:2月27日19:00-20:00
講師:伴 武澄
場所:高知市はりまや橋商店街
テーマ:日本語の始まり

1.国語の誕生
 ・辞書の編纂事業の重要性
 ・50音順の定着
 ・和式漢語の発明

2.英語が国際語になった理由
 ・ヨーロッパで一番遅れて誕生した言語
 ・19世紀のイギリスの雄飛(植民地と入植地)
 ・国是としての自由貿易

3.海を渡った日本語
 ・日本の雄飛―南洋群島の委任統治、満州国の誕生
 ・先進国有数の人口規模と富
1998年10月25日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
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 1月24日、25日と「西太平洋で国際語になりかけた日本語」を書いた。戦前のかなり長い間、日本語が太平洋の島々で「国語」として使われていた「驚き」の歴史を振り返った。興味のある方は以下のホームページで読んでほしい。

西太平洋で国際語になりかけた日本語 http://www.yorozubp.com/2011/2015/02/0224.html
西太平洋で国際語になりかけた日本語・続 http://www.yorozubp.com/2011/2015/02/0223.html

 国境というものが今日ほど明確でなく、アジア・太平洋の多くの地域では国という概念すら希薄だった時代があり、そこに西欧列強が陣取り合戦を始め、やが て日本も陣地取りの仲間入りをするようになっていた。特に南洋群島は第一次大戦に日本が参戦した結果、国際連盟の委任統治領として苦もなく日本に転がり込 んだ。

 ところが戦後の日本史は、そうした陣取り合戦の後の支配のあり方を植民地支配の一言で忘却のかなたにしまい込み、北海道、本州、四国、九州、沖縄に閉じこもった。言い悪いではなく、閉じこもった結果、戦後の日本人は世界が見えなくなった。

 歴史は「植民地支配」の一言で一方的に消し去れない
 日本人の行動範囲はそんなに狭かったわけではなく、植民地支配のずっと以前から民間レベルの接点があった。今のように企業戦士として海外勤務したのでは なく、それこそ新天地を求めて雄飛したのだった。もちろん植民地として日本が支配した地域で悲惨な出来事も多かったが、日本人が残した足跡は、支配された 側にとってはもちろん日本人側にとっても「植民地支配」の一言で一方的にすべてを消し去れる性格のものではない。

 そうしたなかに支配地域での日本語普及があった。学校では「国語」として教えられた。もちろん日本のためであった。日本語教育が、植民地支配のツール だったことは否定できないが、東南アジアで英語が普及しているのはイギリスによる植民地支配が長く続き、戦後は実質的にアメリカがその地位に取って代わっ た結果であるのと変わりはない。

 1月のコラムでは、25年にわたる日本語教育が西太平洋の島々で行われていた「驚き」を書いたが、最近、法政大学教授の川村湊氏による「海をわたった日 本語」(青土社)という本を見つけた。表紙の写真がなんとも面白い。ハワイアンダンスで馴染みの葦の腰巻きを巻いた上半身はだかの子供たち10人とTシャ ツ姿の日本人の先生らしき男性が写っている。

 副題は「植民地の国語の時間」「幻の日本語共栄圏」とあるが、実はタイトルも副題も内容と大分ずれがある。南洋群島、台湾、シンガポール、フィリピン、 ビルマ、朝鮮、満州、北海道・樺太で行われた日本語教育の実態を、当時、植民地で日本語教育にたずさわった作家らの言動と過去の資料をもとに日本語教育の 流れを追った評論である。

 川村氏の視点は二つある。一つは日本語が国語として植民地に強要されたという視点。もうひとつは戦後活躍した著名な作家の多くが植民地で「日本語=国 語=日本の精神」といった皇国史観のお先棒を担いでいたという見方である。後者については、まったく同感である。著名な作家たちだけでなく、多くの学者、 評論家、マスコミが敗戦を期して即席「民主主義者」に変貌したことは歴史的事実である。

 ヤップからオロチョンまで日本語を教育した国家
 だが、たとえ日本語教育がたとえ植民地化の手段だったとしても、こんな広範囲地域で日本語が教えられていた事実は驚きだった。北の樺太ではアイヌだけで なく「ギリヤーク」や「オロチョン」といった少数民族がいて彼らにも日本語教育がなされていた。南洋群島での日本語教育の事実は知っていたものの、ほとん どはだか同然のこどもたちの授業風景写真を突きつけられると新たな驚きとならざるをえない。

 アイヌは「土人」と表記され、南洋群島の住民もまた「土人」と呼ばれた。一方で「日本人」と教え込まれ疑わなかった「朝鮮人」や「台湾人」も少なからずいた。川村教授はそうした事態を次のように結論付けている。

 大東亜共栄圏の共通語として日本語を海外に進出させようとする日本語官僚たちは、軍事力を背景に植民地台湾、朝鮮、南洋群島はもとより、満州国、蒙疆地 域、中国占領地、そして東南アジアと太平洋の諸島へと日本語を進出させようとした。しかし、海を渡っていった「日本語」が軍事力という現実の背景がなくな ると、瞬く間に消え失せてしまったことを、私たちは戦前から戦後への変動の過程で見てきたのである(もちろん、植民地として50年あるいは35年のキャリ アを数える台湾、朝鮮、南洋群島などでは「日本語」は、特殊な世代的な文化として生き残っている面もある。だが、それは陸封魚のようなものであって、新た な進化や進展の期待できないものであり、それは本質的に言語としての生命力を失っている)。
 だが、日本人が残してきたものもある。柳田国男の弟で海軍軍人だった松岡静雄氏は、1914年10月7日、ドイツ領のミクロネシアのボナペ島に上陸し、初代のバナペ守備隊長となったが、海軍大佐で軍人を辞め、学者として10冊におよぶ南洋群島関係の著作を残した。

 「太平洋民族誌」「ミクロネシア民族誌」「チャモロ語の研究」「中央カロリン語の研究」「マーシャル語の研究」「パラオ語の研究「ボナペ語の研究」 「ヤップ語の研究」などミクロネシアの言語研究書を相次いで刊行、南洋研究のパイオニアとなった。以後、太平洋諸島を本格的に研究した戦後の学者は聞いた ことがない。

1998年1月24日(土)
共同通信社経済部 伴武澄
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 英国人が偉いのは英語を国際語として残したことである。最大の植民地だったアメリカ合衆国が第一次大戦 後、債務国から債権国になり、第二次大戦後は唯一、戦争被害を受けなかった国家として戦後世界経済のリード役となったことにも起因している。独立した合衆 国が仏領ミシシッピーを併合、スペイン領のテキサス、カリフォルニアをも飲み込みそれぞれの文化に染まりながらも、英語という言語だけは残した。

  数年前、アフリカの西端のギニアを訪れた時、フランス語を解しない筆者は本当に困った。アジアでは英語と中国語でなんとか用は済ませるが、西アフリカでは フランス語圏が確固として存在していることにある種の感動を覚えた。コートジボアールやマリなど西アフリカは英語はまったく通じない。多くの部族が国家 的、言語的統合を迎える前にフランス語が流通したから、彼らの共通語となり、いまでは国語になっている。そういう意味でフランスも偉いことになるが、フラ ンスの場合は旧植民地がその後、国際的に政治的、経済的地位を高めることはなかった。

植民地を経済的に「開放」した英国

 英国植民地の場合は、領有というよりも通商拠点の確保が当初の目的だった。ジブラルタル、スエズ、ケープタウン、コロンボ、シンガ ポール、香港は今でも貿易・海運の拠点として栄えている。同じ植民地から収奪しても英国は町を作り、都市を多くの商人に開放した。スペイン人はカトリック 教を押しつけ、フランス人はフランス文化を植え付けようとした。植民地の人々にフランス語を強要できても、周辺国の人々には使ってもらえなかった。その 点、英国は植民地を列強に「開放」した。植民都市での共通語としての英語はこうして外国人にも親しまれた。

 香港の繁栄は「レッセ・フェー ル」にあった。場を提供し、外国人にもビジネスの機会を与えた。シンガポールも同様である。だから戦前から日本人もアメリカ人もやってきた。それぞれの商 人たちは自国同士で集まって住んだが、お互いには「英語」を使った。英国は"後発"の植民地国だったため、自らが確保した通商拠点を「開放する見返り」と して、先進植民地国に対しても通商拠点の開放を求めた。半ば余儀なくされた政策が、結果的に閉鎖的な支配を退けたのではないどろうかと思う。

第1次大戦前の世界地図

 インド、マレー半島のアジア植民地はもとより、ケニヤやタンザニアなど東アフリカ諸国、南アフリカ共和国も英語圏である。インド は、まずポルトガルがゴアに拠点を築き、フランスも中部インド領有を目指したが、ポンディチェリの戦いで英国に敗れた。マレー半島の貿易の拠点だったマ ラッカはもともマレー人のムルッカ王国の首都。ポルトガルが陥落し、その後オランダの手に渡り、1825年の英蘭協定で英国のものになった。

  インド進出は、東南アジアの香料諸島がオランダの支配下にあったためやむなく出たものだが、「綿」と「茶」を得た。19世紀に東南アジアのペナン、マラッ カ、シンガポール、香港という点を確保、「ゴム」「パーム油」「ボーキサイト」を獲得、最後に「アヘン」を見いだした。

 インド全体を版図 に納めたのは19世紀後半のエリザベス朝の絶頂期である。インドで得たのは「シーク兵」と「グルカ兵」である。傭兵である。近代的徴兵制度はナポレオンが 導入した制度だが、英国は無尽蔵の人材の宝庫だったインドに傭兵の供給源を見いだした点で「天才」である。19世紀後半のセポイの乱以降、英国に絶対服従 したインド人は英印軍兵士として、多くの戦場で英国のために戦った。傭兵だから、狩り出されたのではない。

 英国は20世紀に入ってアフリ カに地歩を固めた。南アフリカでは、ケープ植民地を奪取した勢いを駆ってオランダ系ボーア人と戦い(ボーア戦争)、オレンジ自由国とトランスバール共和国 を手にし、英連邦に組み込んだ。ここでは「金」と「ダイアモンド」が戦利品だった。そこには世界最大の鉱脈があった。いまでもオッペンハイマー一族が率い るデビアス社が世界のダイアモンドの流通の9割を握る王国の地歩が形成された。英国は南アからさらに北上し、ローデシア(現ジンバブエ)、ザンビアにたど り着いた。ここは「銅」の宝庫だった。

 東アフリカのタンザニアはもともとはドイツ領だったが、第一次大戦で英国の委任統治領となった。ここは何もなかったが、保護領化したケニヤ、ウガンダと併せて南アから東アフリカにかけての英国の覇権は確立した。

太平洋諸島で共通語になりかけた日本語

 話題が英国の世界制覇にずれすぎた。言語に戻す。では明治維新以降の日本は何をしていたのだろうか。いまでも台湾のお年寄りの共通 言語は日本語である。韓国でも年輩者は日本語を解する。善悪をいっているのではない。事実を語っているのである。そして、忘れられているがマーシャル諸島 など太平洋のことである。

 第一次大戦の戦勝国となった日本は、ドイツが太平洋に領有していた島々を国際連盟の委託統治として実質的に支配 下に置くことになった。現在の西からパラオ共和国、北マリアナ諸島連邦、ミクロネシア連邦(旧南洋諸島)、ナウル共和国、核実験場となったビキニを含む マーシャル諸島共和国。東西5000キロ、南北4000キロはゆうに及ぶ広大な空間は1920年から1945年の敗戦まで25年間にわたり日本領だった。 早くから学校制度が敷かれて日本語が教えられた(ここらの詳細や今後の課題)。

 共同通信社が発行する「世界年鑑」によると、住民に「カナ カ族、カナカ族と米国人、ドイツ人、日本人との混血」と書かれている。これらの委任統治領は戦後、国連の信託統治領と名を変え、米国の配下に入った。ミク ロネシアの初代大統領は、日系のトシオ・ナカヤマ氏(1979-87年)だった。最後の信託統治領となったパラオでは1992年、大統領選挙で日系人のク ニオ・ナカムラ氏が当選した。現在2期目である。すべての人口を加えても数十万人でしかないが、日本人と日本企業はこうした太平洋諸島に夢を馳せ、進出し た。

 日本人の海外観光ツアーのメッカ、グアム島は北マリアナ諸島の南にあるが、米国が1898年の米西戦争でスペインから割譲を受けたも ので、「日本領太平洋諸島」のど真ん中に確保した米国の橋頭堡だった。第二次大戦中に一時的に日本が占領したものの、一貫してアジアと西太平洋をにらんだ 米軍基地として維持され、今も独立を許されていない。

植民地フィリピンと委任統治下のあった北太平洋諸島もまた英語圏に入った。(続)


1998年1月25日(日)
 共同通信社経済部 伴武澄
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 説教は島民には分からない英語だった

 前回では、タイトル倒れの内容だったかもしれない。最近出版されたヘレン・ミラーズ著「アメリカの鏡・日本」(Mirror for Americans:JAPAN)に沿って、終戦直後の西太平洋諸島の生活を再現する。

 アジアや日本の専門家として米陸軍やシカゴ大学で教鞭をとっていたヘレン・ミラーズ女史は1946年2月、GHQの労働局諮問委員会のメンバーの一人と して来日した。1948年この本を著したが、日本語への翻訳にダグラス・マッカーサーが「占領が終わらなければ、日本人はこの本を日本語で読むことはでき ない」と書簡に書いた。

 当時の米国から日本への空路は太平洋の島伝いに飛行機を乗り継ぐものだった。カリフォルニアからまずハワイへ、そしてジョンストン島、マーシャル群島のクワジャリン環礁にやってくる。そこで見た光景をこう記している。

 「太陽が島を照りつけている。椰子の木は爆撃でぼろぼろになっている。私たちは教会へ行った。島民が百人ほど座っていた。最近ボストンからやってきた宣教師が改宗させたばかりという。説教は島民には分からない英語だった」

 「クワジャリンは、激しい戦闘の末、始めて私たちの支配下に入った日本領土である。わずか2年前、1944年1月、ミニッツ提督が軍政を敷いた。海兵隊 の書いた記事によるとジャップと現地住民の関係はまずくはなかった。怨みは買っていたが、全体として住民の扱いはよかった。子供たちを8時から11時まで 学校へ行くことを義務づけた以外は、現地の生活習慣に介入しようとはしなかった」

 いまからは到底、想像もつかないが、かつて日本人は太平洋のど真ん中にまで生活の場を求めて定住していた移住していったのはハワイやカリフォルニアだけ ではなかった。第一次大戦で戦勝国の権利として西太平洋の島々を日本が領有したからではない。そのずっと以前、スペイン人が領有していた19世紀から日本 人は島伝いに生活の場を太平洋に広げていたのである。

 クワジャリンの子供たちは学校で何語で勉強していたのか興味ある。英語やドイツ語であろうはずがない。戦後、この地を訪れた米国人が日本時代の"義務教育"に特に言及しているくらいだから、日本語だったはずだ。日本支配が24年間続いた土地である。

 ●日本人は商人や漁師としてやってきた

 ミラーズ女史はさらに、マリアナ諸島のグアムへ飛ぶ。原住民のチャモロ族について、16世紀以来、スペイン、米国、日本、そして米国と「4回も外国の支 配者を変えた」ことに言及する。島民は直接、戦争して負けたわけではない。他の土地での日欧米の戦争の結果で為政者が変わった。最初の近代戦争は1944 年に経験する"米国からの反攻"である。

 日本人との関係について「19世紀の後半になると、日本人が商人や漁師としてやってくるようになった」と書いている。スペイン人は島の交易には興味がな かったが、日本人は島と島の交易、日本との貿易を発展させていった。米国がスペインからグアムを獲得した1899年当時、数百人の日本人が定住し、チャモ ロ人と結婚していた。島の貿易はほとんど日本とのもので日本船で行われていたらしい。

 グアムは米国にとって海軍の戦力的拠点としての地位は高かったが、貿易には関心がなかった。日本との貿易を閉め出す法律が次々とできて、1937年には 実質的に対日貿易は閉ざされた状況になった。ミラーズ女史によれば、グアムはマリアナ諸島で最も大きな島で、開発次第では農業や漁業などこの地域の生活を 支える力があったが、米国はそうはしなかった。

 グアム以外のマリアナの島々は日本がドイツから獲得してからある程度発達したとする。チャロモ人と結婚して定住した日本人は1938年には7万人に達し た。いまでも10万人程度の人口規模である。当時は、人口の半分近くが日本人だった。半数が農民で残りが漁民だった日本とあまり生活様式がかわらなかった から、島の生活に障害はなかったようだ。日本領マリアナでは、日本人が砂糖産業を開発した。魚の養殖技術も持ってきたようだ。資源のなかった日本は小さな 島といえども産業資源として貴重だったはずだ。

 敗戦で価値を失った日本語と日本円
 1945年にこのマリアナ間諸島を訪れた米国の人類学者であるジョン・エンプリーは戦後の島の移り変わりを次のように報告している。
 「20年にわたって日本の教育を受けてきた人々は、ある日突然、日本語と日本円が、英語と米ドルの前に価値を失ったことに気づいた。日本人と朝鮮人は、 島で生まれ、現地人と結婚した日本人まで一人残らずいなくなり、経済活動に空白ができた。米国はこの地域の経済にそれほど関心を持っていないから、いまま での収入源のかなりが消えてしまった。サイパンとテニアンでは砂糖の店が消えた。アンガウルもリン鉱山は廃墟のまま放置された。コプラ(ヤシ油)集荷の船 は出たり出なかったり。輸出先がないのだ。いまや島民は米軍施設での日雇いか、軍人相手の土産物屋しかない」

 ミラーズ女史もこんなことを考えながら島伝いに日本に近づいていった。

 台湾は1895年から50年、朝鮮半島は1910年の日韓併合から敗戦まで35年間の日本が支配した。樺太(サハリン)は1905年の日露講和からだか ら40年、それ以前は混住の地とされ、領有権はなかった。そう考えると西太平洋諸島の領有の年は決して短い期間ではない。以前からの関心事ではあるが、 戦後、海外領土からの帰国者は350万人を超えた。復員者は別にして多くは、戦争のずっと前から現地で生業を起こし、日本人町を形成して定着していたはず だ。なぜみんな帰ってきたのか。いやなぜ生活の基盤を奪われて帰国を強要されたのか不思議である。彼らが現地に残っていれば、日本語が現在の華僑の中国語 のようにアジアや太平洋諸国でもっと広範囲に使われていたはずである。

 西太平洋での標準語だった日本語について語るつもりが、日本そのものになった。ただ55年前の雰囲気は伝えられたと思う。

 フィリピンにほど近いパラオには日本に関したもっとおもしろい話がある。来週末、報告する。

2007年11月30日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
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 数年前、伊勢に赴任が決まった時、友人の平岩優さんが一冊の本をくれた。明治期、日本語の礎を築いた碩学、大槻文彦の生涯を描いた『言葉の海へ』(高田宏著、新潮文庫)だった。言葉の意味を50音順に並べた初の国語辞書『言海』を編集した人物との紹介があった。

 藩に分かれ統一的言語を持たなかった当時の日本で、近代国家として言語の統一の必要性を訴え続けた。『言海』の出版会には、元老の伊藤博文以下、明治政府の歴々が参集したというから、その出版の意義はほとんど国家的大事業に値したのだろう。

 50音順の辞書が生まれたことに対して、福沢諭吉は「いろは」があるのにと不快感を示し、出版会に出席しなかったというから、これはこれでおもしろい。

 後世の政治家や学識者たちは、この国のかたちについて易々と「単一民族、単一言語」などと語っているが、日本語辞書『言海』編集を通じて日本語、国語という概念、スタンダードを構築してくれた明治の碩学に、われわれは相当な感謝の念を持たなければならない。そんな思いに浸ったことを思い出している。

『言海』を思い出したのにはわけがある。江戸中期に藤堂津藩にも一人の碩学がいた。谷川士清という。松阪には本居宣長がいて、後世、国学者として有名になったが、谷川士清は日本史の中でほとんど言及されたことがない。

 津に住んで、50音順の国語辞書を"発案"したのは大槻文彦ではなく、谷川士清だったことを知った。津城下の医師の家を継いだ士清は京都で国学に目覚め、『日本書紀通証』という日本書紀の解説書を書いた。日本書紀に出てくる言葉の語源や意味をカードに書き連ねていくうちに「あいうえお」順に並べた辞書を編纂したのだった。

 市内に残る、谷川士清の旧宅は現在、津市が管理して一般公開しているが、そこに保存されている『日本書紀通証』付録の和語通音図表を眺めているうちに「これは大変な発見」だと気付いた。われわれが小学校で最初に学んだ「あいうえお」の図表がそのままあった。違うのは「オ」と「ヲ」の位置が逆になっていることだけだ。

 士清のすごさは、この「あいうえを」の図表を「動詞の活用表」と位置付けたことだった。いまでいう「五段活用動詞」(未然形、運用形、終止形、連体形、已然形、命令形)なのだ。

 『和訓栞』という93巻にわたる辞書は士清の生存中に出版が始まったが、第一巻が世に出たのは亡くなった翌年の安永6年(1777年)のことだった。出版は遺族たちに委ねられ連綿と続いた。なんと最後の出版が行われたのが、明治20年だったから、110年以上にわたる大辞書編纂事業が谷川一族4代にわたって行われたことになる。

 そうなると『言海』を編纂した大槻文彦は当然、『和訓栞』のことを知っていたはずであるが、残念なことに高田宏著『言葉の海』に谷川士清のことは一切言及がない。
20150219hirin.jpg1977年3月、共同通信社に入社する直前、僕は北京にいた。前年に毛沢東が死去し、文化大革命はまだ収束せず、至るところに壁新聞が貼られて、林彪追い 落としの批林批孔運動が盛んだった。場所は覚えていないが、全国美術作品展なる展示会があり、林彪と江青を風刺する漫画が興味深かった。その写真が、古い ファイルから出てきた。「一窩の狼」(馬奉信作、1976年12月)と題し、林彪「俺は頭が冴えている、超天才なのだ」。江青「私は大法家なの。文革の功 臣で、左派の領袖、正確戦線の代表なんだから」と自慢話が続く。

日時:2月20日(金)午後7時―8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
講師:伴 武澄
テーマ:国とは何か
1998年09月27日
  イギリスのブレア政権が昨年、ウェールズ州とスコットランド州議会に徴税の自主権を与えたことを知っているだろうか。正確にいえば、住民投票で勝ち取った。日本でいえば、北海道と沖縄に中央と違う税制を認めるに等しい考え方である。イギリスでそんな変革が進んでいるのに、日本政府は一昨年来、沖縄権が求めてきた自由貿易区への法人税軽減に対して「一国二制度はまかりならん」という頑な姿勢を崩していない。

  地方分権は、昨年5月のイギリス総選挙での労働党の公約の一つでもあった。地方分権は歴史の流れだが、徴税権まで持った地方政府は例は珍しい。徴税権こそが国家機能の大きな部分であるからだ。日本で破綻金融機関の処理をどうするかもめていた間に、イギリスでの改革はそんなところまで進んでしまった。そんな感慨がある。

  日常化した Subsidiarity Principle 論議

  EUの統合を考える上で、地方自治の考えは欠かせない。新しい力学がこの地域では働き始めている。ヨーロッパでは国家の役割がどんどん軽くなっていく一方で地方政府の権限が強化されている。現在のEUの基本法にあたるマーストリヒト条約第3条B項に規定されている Subsidiarity Principle (最小自治体優先主義あるいは補完主義)という概念がある。 Subsidiarity Principle には、もはや日本的「地方自治」などという概念ではとらえきれないような概念なのだ。

  地方自治を言い出したのはローマ法王ピオXI世だそうだ。1931年、折から勢力を増しつつあったヨーロッパでの、共産主義、ファシズム、ナチズムといった全体主義の風潮に危機感をもったカトリック教会の対応だった。

  法王の通達は「個々人がみずからの発意と、みずからの力で成し遂げることのできる事柄を取上げ、社会的作為に導き込んではならないように、小さな、あるいは下位の共同体が為し、良き成果を導くことのできる事柄を、より大きな、あるいは上位の共同体の掌中にゆだねることは、公正に反するばかりでなく、劣敗であり全社会秩序を乱すものである。すべての社会的作為はその本質において補完的なものであり、社会体の構成員を補助すべきものであって、決して打ちのめしたり吸い込んでしまうものであってはならない」という内容だった。

  Subsidiarity という概念はラテン語の "subsiduum ferre" 「介添え人、後見人の役をはたす、補助を提供する」という言葉からきているのだそうだ。  この考え方が、主としてドイツのイニシアティブによってEU連合の地方公共団体、国、連合の間の権力、権限を規定する原理としてマーストリヒト条約に導入されたわけだが、これを支持したのがイギリスであり、ベネルックス三国はこの規定が国家主義への後戻りの口実として利用されるのではないかという不信感を表明した。

  中央政府がふがいない時こそ地方政府の活躍の時

  日本でも大前研一氏の「道州制」や大分県知事である平松守彦氏の「日本連合国家論」など連邦制への移行を求める議論が噴出した時期があった。しかし、金融破綻の経緯の中で地方自治体の第三セクターの相次ぐ巨額債務問題が各地で明らかになり、残念なことに逆に自治体の頼りなさだけが浮き彫りになっている。

 本来ならば、今日のように中央政府のふがいなさが目立つ時期にこそ、地方自治体が「われこそは」とばかりに新鮮な政策やアイデアを打ち出せる格好のチャンスであるはずだった。地方自治体は権限委譲を訴えながら、権限が委譲された場合の受け皿の議論を怠ってきた。 どうせ中央省庁の権限など委譲されるはずはないという固定観念に凝り固まっていたに違いない。

  これまで地方議会は数え切れないほどのヨーロッパ視察団を派遣してきた。そんな視察旅行が年に一度の観光旅行でしかないという批判は古くからある。たとえそうであっても、観光の合間に姉妹都市など訪問先の自治体との交流がゼロであったはずはない。ヨーロッパで起きている変革の説明を受けて「日本ではできない相談だ」と考えたとしても、起きている変革の内容ぐらいは持ち帰って市民に広報することだってできたはずだ。

 事務局も含めてこの人たちはヨーロッパで何を学んできたのだろうか。変化するヨーロッパを目の当たりにして感性のかけらもなかったのだろうか。

 「自治体」という言葉はだれが生み出したか知っている人がいたら教えて欲しい。英訳は Local Government である。翻訳すると「地方政府」になってしまう。中央集権国家である中華人民共和国ですら「北京市政府」「河北省政府」という言葉を使っている。しかしここらが、日本では曖昧である。  大阪府議会や大阪市議会といえば、実態が明確だ。ところが行政府の場合、「大阪府」とか「大阪市」としか呼ばれない。府や市の何なのか実は分からない。府庁や市役所は建物の名前である。英語で Office でしかない。だから市役所に勤めているという表現は間違っている。

  マスコミでよく使われる「大阪府は・・・」という場合、「大阪府の行政は・・・」の意味なのだ。 いまほどLocal Government の訳語が求められている時期はない。とりあえず、萬晩報は明日以降、自治体という表現はやめて「県政府」「市政府」「町政府」を使っていこうと思う。
1998年10月17日

 9月27日付萬晩報「ヨーロッパで常識化した地方分権の新しい力学」のコラム対してフランス在住の読者からメールがあった。イギリスで起きている地方分権の動きを「ヨーロッパの」と一般化した論法が稚拙であるとのご指摘があり、最近のフランスで地方分権の動きや地方自治体の語源について解説して下さった。

 中央集権のフランスでも対等となった国と地方

 まず筆者が日本の自治体について語るとき「高知県」とか「高知市」ではなく、「高知県政府」とか「高知市政府」の呼称を使うことを呼びかけたのに対し「無理だ」との論旨を展開した。

 我が国の地方制度は明治初年に、大陸諸国(主として中央集権国たるフランス)における当時の制度を下敷きにして設計され、それに戦後、アメリカの制度を継ぎ足したものである。こうした歴史的経緯を踏まえず、突如として「英語」で言うところの「地方政府」と「地方自治体」を比較されようとする立場には無理がある。

  フランスの場合、「地方政府」に相当する用語は 「collectivite territoriale」。日本語に訳せば「地方団体」。英語なら「regional entity」 となる。どこにも「政府」なる言葉は現れない。

 そもそも、地方レベルの行政体に対して「政府」の名称をあてるのは英米法体系の特徴だ。英米法体系おいては、歴史的に中央集権体制がとられず、連邦制型の制度が取られてきた。アメリカ、イギリスの場合、歴史的に地方行政体は、中央政府と同等ないしは、それ以上のものとして観念され、これらに対して政府の名称を与え、中央政府と対置させるのはいわば、当然のこと。

 日本の地方制度のモデルとされたフランスの場合、フランス革命を契機にあらゆる封建制度を廃止した、中央レベルから強制的に「department (県)」を設立し、県の管理のもとに市町村を設定した。こうした経緯を持つがゆえに、中央政府と地方行政体を対等なものとして扱う慣行も、論理も存在しない。

 しかし、その中央集権のフランスでも、1982年以降、抜本的に地方分権改革が行われ、地方行政体は中央政府とまったく対等な立場に立つことになった。でも旧来からの名称である「collectivite territoriale」は変わっていない。政府の名称が与えられていないからといって、地方分権が行われていないわけではないのだ。

 ドイツは元々連邦国家。州ごとに首相がいる。イギリスでもフランスでも地方への権限委譲がどんどん進んでいるということならば、地方分権はヨーロッパどころか世界的趨勢と呼んでいいのかもしれない。古代メソポタミア文明と黄河文明が同時期に繁栄し、日本の武士がヨーロッパの騎士団と同じころに登場したように東西の歴史は不思議な連関性を持っている。そうなのだとしたら、日本に地方分権の波が押し寄せるのは当然視されていい。

 日本人の思考回路に織り込まれたお上意識

 「地方自治体」という名称の語源についても非常に示唆に富む解釈を述べて下さったので、これも紹介したい。

 この名称は、現行憲法の制定にさかのぼるものと思われる。地方自治制度に一章割かれているのを思い出してもらいたい。当然のことながら、日本側が作成した用語であり、原文=英語では「local autonomous entities」などといった"不思議な用語"が用いられていないはずだ。お確かめのほどを。
 このことは、シャープ勧告を読んでも鮮明に現れている。英語で「local governements」となっている部分を、日本語では「地方自治体」と訳されている。日本語をまず読み進めた上で、英語の原文を参照すると大きな驚きを感じるはずだ。一部には、旧内務省の陰謀だとの説もある。

 つまり、占領軍を背景にしたアメリカ側は「地方行政体」は「地方政府」とはまったくの対等の存在であるとの認識のもと、日本国憲法を草起したものの、そうして実際に成立した憲法では、文言上は「地方自治体」と「中央政府」は法的に対等とされているにもかかわらず、その名称においてはあえて「地方政府」との名称をあてず、「地方自治体」との名称をあてることにより、中央集権の要諦を維持しようとしたというものだ。

 この辺りのことは、様々な文献を漁って調べるしかないが、「地方自治体」という名称は、戦後の日本人の思考回路に「中央政府」こそが「地方行政体」を指導すべき上位の立場にあるものとの認識を自然のうちに織り込ませることに役立ったとしかいいようがない。

【憲法8章 地方自治】
第92条 地方自治の基本原則
 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第93条 地方公共団体の機関、その直接選挙
 (1)地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
 (2)地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選ぶ。
第95条 地方公共団体の権能
 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する機能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第96条 特別法の住民投票
 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければならない。
第3回はりまや橋夜学会
日時:2月23火(金)午後7-8時
場所:はりまや商店街 秋山酒店斜め前の空き店舗
講師:伴 武澄
テーマ:アメリカ独立とフランス革命

・peaple(人民)とnation(国民)
 シトワイアン(市民)=citizin=同志=敵と味方を識別する呼称
                   =愛国者と非国民
・アメリカ上院は1913年まで間接選挙だった
・アメリカ下院の選挙は2年ごとと短い
・フランス革命で何が変わったか
 ①公務員が強くなった
 ②自由と平等が掲げられたが、人民は平等を選択した
But one also finds in the human heart a depraved taste for equality, which impels the weak to want to bring the strong down to their level, and which reduces men to preferring equality in servitude to inequality in freedom
・アメリカは清教徒たちがコネチカットでつくったものが、13州に広がった
 平等より自由を選んだ。たとえ非効率であっても自由が大切
「アメリカでは、法をつくる者もこれを執行する者も人民が任命する。法律違反を罰する陪審を構成するのも人民である。制度は原理のみならず、そのあらゆる展開において民主的である。たとえば、人民は直接その代表を任命し、一般に毎年これを選出して、議員の人民に対する従属を一層完璧なものとする。人民は実際に支配者であり、政府の形こそ代議政体だが、人民の意見と偏見と利害、否、その情念までもが、社会の日々の運行に現れるのを妨げる永続的障害はどこにも見当たらない。
2007年01月19日(月)
 
tree_line.gif トクヴィルの『アメリカの民主主義』(岩波新書)を読んだ。上・下2巻は読み応えがあった。トクヴィルは「人民による統治」がどうなるのか、興味を持ちながらアメリカを旅してこの著作をものにした。

 トクヴィルがこの名著を書いてからすでに150年以上が経つ。トクヴィルはこの著作の中でアメリカの民主主義を絶賛するのだが、基本的に民主主義に対し て懐疑的な考えが随所にみられる。「人民に名を借りた専制ほどひどいものはない」ことを150年前に看破していた。

 フランス革命はまさにそのようにして始まったし、ロシア革命だって毛沢東による革命にしても民主主義とは程遠い独裁制である。社会主義や共産主義は「人民の人民による人民のための政治」だったはずである。

 戦後の日本はまだましな方かもしれないが、予算を私物化する政治家はいつまでたってもなくならない。政治を私物化する政治家が有権者によって選ばれることをわれわれは繰り返し経験してきた。

 なぜそういうことが起きるのか。人々は本当に「人民の人民による人民のための政治」など求めているのだろうか。多くは政治から一線を画することを「潔 い」とするし、そもそも政治と関わり合うことは面倒くさいのだ。日本の政治を見ていると、そんな疑念さえ起きてくる。

 政治用語の「人民」はもともと英語のPeopleから来ている。しかし、われわれの語感でPeopleと人民はかなり違う意味合いを持つ。人民といった場合、われわれは社会主義の観念を想起するからだ。

 われわれは中国人民とはいうが、アメリカ人民とは言わない。このニュアンスは日本人にとって決定的に違う。ところが、英語でPeople of China and people of the United States といえばまったく違和感はない。Japanese peopleだって同じだ。どうしてかというと、この場合のpeopleは「人々」といった意味合いで理解されているからだ。

 日本の保守系の人たちはあえて人民という言葉と使いたがらない。小生も嫌いな表現の一つである。そこで日本ではpeopleの訳語に「国民」という言葉を使うことが往々にしてある。

 日本国憲法には「国民」が多用されている。憲法には国民のほかに「何人」という表現も使っている。たぶん国民ではないが日本に居住しているpeople を含めた表現なのだと思っている。アメリカが示した英文の憲法草案ではすべてpeopleであるはずなのだ。国民以前の民をどう表現すればいいか。日本語 にはしっくりいく表現がないのかもしれない。当たり前だが、大日本国憲法には「国民」という表現は一切なく、すべて「臣民」と表現された。

 それでは単に民と表現したらどうか。しかし「民」もまた、だれかに導かれているという語感がある。主体的に政治に関与する人々ではない。

 それでは直訳的に「人々」と表現したらよかろうと思うが、政治用語としては軽すぎるのかもしれない。

 リンカーンの有名なゲティスバーグ演説の「government of the people, by the people, for the people」は日本語では「人民の人民による人民のための政治」となってしまった。慣用句としてわれわれは慣れ親しんでいるが何か違うのである。
 Peopleの概念はわが日本にはないのかもしれない。
 


2月6火(金)午後7時から
講師:伴 武澄
テーマ:高知と国憲

●憲法とは何か=統治者に対する足かせ
日本国憲法第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

●聖徳太子の17条憲法=民の心得?
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したが わ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、す なわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下...(略)
●アメリカ合衆国憲法=連合規約
独立戦争=国家分離

●日本国憲法の矛盾点
①    明治憲法改正憲法
明治憲法第73条
1.    将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2.    此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
②    欽定憲法=国民の意思(国民投票)はない。
日本国憲法上諭「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を 經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」
日本国憲法前文「日本國民は、...ここに主權が國民に存するこ とを宣言し、この憲法を確定する。」

●植木枝盛の国憲案
天皇を皇帝と呼ぶ
連邦制、道府県を廃止し旧国を邦とした
アメリカ合衆国に近い国憲
2月6火(金)午後7時から
講師:伴 武澄
テーマ:高知と国憲

●憲法とは何か=統治者に対する足かせ
日本国憲法第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

●聖徳太子の17条憲法=民の心得?
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したが わ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、す なわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下...(略)
●アメリカ合衆国憲法=連合規約
独立戦争=国家分離

●日本国憲法の矛盾点
①    明治憲法改正憲法
明治憲法第73条
1.    将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2.    此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
②    欽定憲法=国民の意思(国民投票)はない。
日本国憲法上諭「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を 經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」
日本国憲法前文「日本國民は、...ここに主權が國民に存するこ とを宣言し、この憲法を確定する。」

●植木枝盛の国憲案
天皇を皇帝と呼ぶ
連邦制、道府県を廃止し旧国を邦とした
アメリカ合衆国に近い国憲

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