2014年12月アーカイブ

僕は、失われた20年は低金利政策がもたらしたものと考えてきた。
日本の低金利政策は元々、90年代後半の銀行救済から始まっている。
低金利政策はバブル崩壊後の景気対策としても度々活用されてきた。
銀行救済―景気対策の繰り返しで金利はどんどん下がり、
2000年を超えるとゼロ金利が登場した。
低金利政策の果実として財務省が得たものは国債の大量発行である。
国債の大量発行はまさに財政赤字の拡大につながる。
財政の悪化は普通、金利上昇につながるものなのだが、
日本ではその経済の原理が通用しなかった。
なぜ、そうならなかったのか。理由がいくつかある。

一つは財務省と金融機関の癒着である。
元々、財務省は大蔵省といっていた。
その時代、国債は金融機関への割り当て発行というシステムを取っていた。
大手金融機関がシンジケートをつくって、大蔵省が必要としていた資金調達に応じていた。

かつて護送船団と呼ばれる「カルテル」のようなシステムがあり、業界ごとに需給を調整し、不況時においても大企業はつぶれないような互助システムである。霞ヶ関の意向に従わない企業は村八分となるから、業界全体が従った。従っていれば景気回復時には力量に応じた成長のパイの分け前にあえることもできたのである。
金融村はその最たるものだった。金融が自由化されても、つまり国債発行がシンジケートから入札制に代わっても金融機関による財務省への忠誠は変わらなかった。
まして金融機関が破綻する時代になって財務省と日銀が低金利で支援していたから、ますます財務省の意向に逆らうわけにはいかなかった。
つまり、低金利でうまみのない国債でも不承不承買わざるを得なかった。
もちろん景気が悪い時にはそもそも融資先がなかったから、預金を寝かせるよりはましとばかりに国債を購入した。

金融破綻の時代は当然ながら景気が悪かった。財政悪化などどこ吹く風とばかりに自民党は公共事業を中心とした財政政策を相次いで打った。小渕内閣などは金融機関の救済を含めて年間で100兆円もの国債を発行し、自ら「借金王」を名乗った。国債の大量発行が続くと困ったのは財務省で会った。国債の大量発行による金利上昇が懸念されたのは当然のことである。

今度は財務省が低金利の守護神となった。景気回復時に日銀が金利を上げようとすると日銀に圧力を加えた。2000年代初頭、速水日銀総裁は財務省の圧力に屈せざるを得なかった。

一方、企業側は90年代に進んだ企業会計の国際化によって、バランスシートに時価評価が導入され、地価の下落によってバランスシートが悪化するのを避けるため、せっせと銀行からの借金返済に力を注いだ。融資額が目に見えて減少する中で金融機関が目に付けたのが個人向け融資だった。80年代に大手銀行が個人住宅向けに金を貸すことなどはなかったが、住宅ローンに力を入れ始めた。同時に社会問題から経営悪化したサラ金を次々と傘下に入れた。もう一つがカードローンである。
すべて個人を対象とした金融である。大手金融機関の業態はここ20年様変わりしたといってよい。

金融機関にとって、大手企業からの借入金返済によって生まれた穴はそんなことでは埋まらなかった。目の前にあるのは国債市場しかなかった。国債を買っては売ることによって利ざやを稼ぐことが日常業務となった。

本来、金利の高い金融商品が有利に取引されるのだが、国債の場合はまったく違っていた。金利が上がると過去に発行された金利の低い国債は売られて価格が下がってしまう。国債を大量に保有している金融機関にとって金利の上昇は資産の目減りとなる。だから金利がほしくないというのが本音なのだ。

国債の大量発行元の財務省、国債の大量保有元の金融機関。双方の思惑が逆スパイラルとなってこの20年間、超低金利時代が続いてきたといえよう。

金利と物価は大いに相関関係がある。ブラジルなどかつて超インフレを経験した国々では同時に超金利時代を経験している。低金利を維持したまま、物価だけを押し上げようとするのは経済原則に反する。安倍首相が物価とともに金利上昇も容認するならいわゆる「アベノミクス」を支持したいのだが、財務省は決して許さないだろう。

これまでの日本が財政の悪化にもかかわらず超インフレになっていないのは国民の貯蓄がふんだんにあり、外国の資金を頼りにする必要がなかったからである。このまま行くと、国の借金を国民の貯蓄で賄えない時代が早晩やってくる。

デフレ経済でこれまでの経済学にいくつかの矛盾を生じている。経済学は「実質値」を重んじるが、実態経済は「名目値」で動いているという矛盾である。右肩上がりの経済では経済成長は名目成長から物価上昇率を差し引いた実質成長率で測られる。しかし、現実の企業業績や税収など財政の指標は名目値で測られるのだ。
 国際平和協会との出会いは2001年12月だった。東京・元赤坂にある財団事務所を訪れ、戸棚にあった機関誌「世界国家」を読み始めたことがきっかけだった。賀川豊彦という希有の日本人の存在を知り、10年以上にわたり賀川研究が続いている。国際平和協会とその分身である世界連邦運動協会について一考を記したい。

 首相官邸で産声

 終戦から間もない1945年8月26日。終戦処理のため内閣総理大臣となった東久邇宮稔彦から賀川豊彦に「首相官邸までおいでを願う」という通知があった。「何事だろう」と出かけて行くと、東久邇宮は「内閣参与になってもらいたい」といい、そのわけを話した。

「日本の道義は地におちてしまっています。日本再建のためには、まず日本人をこの道義の頽廃から振い起たせなければなりません。また日本が生まれ変わるためには、従来の外国人に対する敵愾心や憎悪の念を一掃し、世界平和を目指して進まねばなりません。この道義の振興と平和への切り替えのために、ぜひあなたの御協力を願いたいのです」
 つい昨日まで、反戦論者だの、売国奴だのと罵られ、軍部や官憲から白眼視されていた賀川が戦争で傷ついた日本再生のためのグランドデザインを描くことを要請されたのだった。
 賀川は内閣参与を承諾し、就任の2日目の8月30日に、読売新聞にマッカーサー元帥に宛てた長文のメッセージを読売新聞に発表した。日本の進むべき道を進駐軍の最高司令官の前に披瀝した。賀川はこう記している。
「総司令官閣下。戦勝国は広い心と思いやりがなければなりません。日本は今、詔書のお示し(万世に太平を開くとのお示し)のままにりっぱな世界国家として出発しようとしています、いたずらに、小さい枠の中に幽閉しておくことは、貴官らの理想とはるかに遠い結果を生むでしょう。日本人のこの心情と、人間としての実力とをもり育てるならば、日本の新世界奉仕の出発は、予想より強力に、早くなされるでしょう」

 賀川は日本再建の同標はこの「世界国家」のほかにないと考え、9月27日、首相官邸において財団法人国際平和協会を設立し、新聞は一斉に「国際平和協会」の誕生を報じた。設立の基本金5万円は東久邇宮のポケットマネーから出されたが、その後の活動は主として賀川理事長と同志会員の拠出金によって賄われた。国際平和協会は1946年4月13日に財団法人として正式に認可された。

 そうそうたる設立メンバー

 国際平和協会で驚くべきは創立時のメンバーだった。賀川理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄、河上丈太郎が連なっていた。日本の労働組合の創設者、久留米藩、尾張徳川家の当主、著名な法学者、元宮内庁長官、外務省事務次官、三井家当主、元社会党委員長の衆院議員――そうそうたる顔ぶれだ。

 国際平和協会は定款に「国際間の戦争を絶滅し、恒久平和を図るをもって目的とす」とうたい、「宗教、社会、政治、経済、教育、文化その他万般の人間活動を通じて人類相愛互助の事業を行う」ことを定めた。当初、宗教部、社会部、政治部、経済部、教育部、文化部を設置した。宗教部はすべての宗教に世界国家の必要性を訴えるためにあったが、世界連邦運動宗教委員会として現在も活動が続いている。政治部の活動は超党派の議員による世界連邦運動国会委員会として今日に続いており、その一部が「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)として開花した。1948年に綱領に「世界連邦を建設することを目的とする」ことを掲げ、運動体としての変身と遂げることになった。

 地球規模の世界連邦運動

 賀川は当初、世界連邦建設同盟の総裁に推されたが、キリスト教者がトップになるわけにはいかないと固辞し、副総裁におさまった。総裁には尾崎行雄を据え、理事長に国際平和問題のベテランとして知られた稲垣守克氏が就任した。財団の機関誌「世界国家」は世界連邦建設同盟との合同編集となり、世界連邦運動を強力に引っ張る牽引車に生まれ変わった。

 賀川の運動の片腕の一人、村島歸之によれば、「従来の啓蒙宣伝本位のものから、実践運動の報告を主体としたものに変貌し、稲垣氏らの内外の世界連邦運動ニュースが精彩を放った。世界連邦運動は燎原の火のように日本各地に広がっていった」ということになる。

 第二次大戦後に世界連邦運動が地球的規模で強力に推進されていたことを知ったことは大きな驚きだった。世界連邦を単なる夢物語だと思っていた僕の目を驚きの次元へ次から次へと開かせてくれたのが機関誌「世界国家」だった。

 第二次大戦の反省、特に広島、長崎に落とされた原爆の悲惨さを契機に世界の有力者たちの多くが本気で世界連邦を考えていたのだ。世界本部がロンドンにあり、後にノーベル平和賞を受賞するロイド・ボアが会長を務め、シカゴ大学総長のハッチンスが世界連邦憲法草案を書き上げ、アメリカを含め世界各地に世界連邦宣言都市が相次いで誕生していた。その有力者の一人に日本の賀川豊彦という存在があったことも僕のインスピレーションを大いにかき立てた。

 「世界国家」の誌面には知らない終戦直後の歴史が次々と書かれてあった。フランス、イタリア、デンマークの新憲法は世界連邦への主権委譲を書き込んでいた。シューマン・プランなるものが欧州石炭鉄鋼共同体につながったという話は特に新鮮だった。戦勝国の外務大臣が欧州の戦争の大きな原因だったアルザス・ローレンヌの鉄と石炭を国際管理しようと言い出すのだから腰が抜けるほどの驚きである。

 賀川はこの機関誌に毎号、精力的に執筆した。特に1949年以降は筆が踊り始めていた。戦前にアメリカで出版した「Brotherhood Economics」は協同組合的経営で世界経済を再構築すれば、貧困が撲滅され、世界平和をもたらすことが出来るということを書いていた。賀川の政治経済社会論の集大成だが、まさにそのような世界を実現できる機運が生まれていたのだから当然である。

 賀川は生物学から原子物理学に到るまで知る限りの知識を駆使して、世界はダーウィンの『進化論』が描く弱肉強食の世界ではないことを繰り返し書いた。弱いものは弱いながらも力を合わせて生きてきた。タコが甲羅を脱ぎ捨てることで逆に億年を生きてきた「進化」の過程を書いた。賀川は「なぜ人類だけがそれをできないのだろうか」という思いだったに違いない。

 賀川は愛に生きたイエス・キリストはもちろん、アッシジのフランシスカン、戦争を拒否して流浪したメノナイトの人々、第一次大戦で敵をも愛した看護婦カベル、北氷洋の聖雄グレンフェルなど愛に生きた過去の人々の物語も多く紹介した。僕にとっては初めて知る物語だった。多分、多くの読者にとっても同様だろうと想像する。

 綾部市を皮切りに広がった運動

 国際平和協会は1947年から、同志も次第に増え、大阪、京都、郡山には支部が設立された。郡山支部では、雑誌「平和」の刊行を見た。本部でもこれにまけてはならじと、横田喜三郎博士や今中次麿氏らを聘して講演会を催したり、座談会を開いたりして、その筆記を誌上に載せた。

 1948年、米国では、ルクセンブルグで開かれる第二会世界連邦会議に提出するため、シカゴ大学総長のハッチンス博士らによる世界憲法の草案が稿脱した。国際平和協会は機関誌「世界国家」でいち早くこれを取り上げ、第2巻7号をその全文で特集した。同時にハッチンス博士の承諾を得て、日本版を刊行した。このことを東洋経済新報が詳しく紹介するなど、世界連邦運動は漸く日本の一部の識者の注目を惹くようになった。

 世界連邦運動の方も各地に広がっていった。京都府綾部市が世界連邦宣言をしたのを皮切りに数年の間に数百の自治体による宣言が相次いだ。自治体の宣言を後押ししたのは世界連邦運動の支部で、その教育宣伝を一手に引き受けたのは本部の小塩完次だった。現在の世界連邦運動にはいくつかの系統がある。まずはキリスト教。賀川豊彦が旗を振った影響は大きかった。次は宗教法人大本である。二代目教祖の出口王仁三郎が国境なき世界を説いたためである。綾部市が真っ先に世界連邦宣言をした背景には本社を綾部市に置く繊維会社グンゼがキリスト教精神で創業したことと大本が伝道の本拠を置いていた影響は決して小さくないはずだ。

 もう一つの系統は、湯川秀樹博士。ノーベル物理学賞を受賞する前年に渡米し、アインシュタインと出会い、湯川は直ちに世界連邦運動に加わる。湯川は国際的な運動で活躍し、第5代会長を務めるが、妻の湯川スミは京都を中心に近畿、山陽地方でその影響力を強め、特に婦人部の活動のリーダーとなった。

 また1951年末、終戦前後より世界はひとつを提唱していた平凡社の下中弥三郎が同盟に迎えられ、同盟の財政に力強い援軍となった。

 広島アジア会議

  賀川の世界連邦運動のピークは1952年、広島で開催した世界連邦アジア大会前後であろうと想像している。ロンドン訪問中の賀川にロイド・ボア会長が「ぜひ広島で平和会議を開催するべきだ」と要請したことに日本が応えたもので、まだ英国統治下にあったマレーシアから、同国の初代首相となるラーマンら、アジア各国から影響力のある政治家や社会運動家が参加したことは忘れてはならない。被爆地、広島が世界平和の巡礼地になった瞬間である。1955年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議は世界連邦運動の広島アジア会議の精神を引き継いだものだと信じている。

 こうして運動はいよいよ軌道に乗り、ゆるぎない運動としての基礎が固められた。各地の支部は拡大され、同志の数も著しく増加した。

 しかし、国際情勢の機運はアジアでの平和の動きとは逆行するものだった。米ソ対立が深まり、朝鮮戦争、ベトナム戦争と東西冷戦の時代に突入した。世界各地で広がっていた世界連邦運動は急速に下火となり、国内でも1960年に旗振り役の賀川豊彦が昇天するなど関係者の高齢化と逝去が相次いだことは残念なことであった。

 世界連邦運動の必要性が再認識されるようになったのは、たぶん2001年の9・11以降のことではないかと思う。宗教を中心とした地域紛争が各地で再燃し、地球規模で国境のあり方が見直されている。特に環境問題の解決には各国の協力が不可欠な時代になっており、国境の垣根を越えた発想が今こそ問われているのだと痛感している。
昨日の日経一面トップ。
「円の実力、40年で最低 追加緩和やアジア通貨台頭で
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF06H0J_W4A201C1MM8000/
円安が止まらない。
日本経済がどんどん小さくなる。
このまま行くと、早晩、安倍首相は日銀による金融緩和をどうにかやめてくれと言わざるを得なくなるだろう。円安によって企業業績が上がっても日本のGDP が増えないということは日本企業が海外生産頼み一辺倒になっていることを如実に示している。海外のアナリストは日本の財政が日銀頼みになっていることを指 摘し始めている。つまり金融緩和=日銀による国債購入。こういう認識が強まれば強まるほど円が売られるのは当然の成り行きだ。

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