2014年9月アーカイブ

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賀川豊彦の自伝の第二巻『壁の声聞くとき』の自炊を続けている。筑豊の炭鉱を視察する場面に「佐藤伝次郎」なる人物が登場する。中鶴という炭鉱である。ひょっとしてと調べたら、白蓮を娶る石炭王、伊藤伝右衛門のことだと分かった。

「......中鶴に来た。炭坑事務所に署長自ら案内してくれた。どう思ったか坑長自ら敬々しく新見に最敬礼をして出迎えた。新見はあまりその態度が馬鹿丁寧なの で、心の中で笑った。××でも迎えた積もりで居るらしい。中鶴は筑紫の女王の主人で銅御殿の大旦那、佐藤伝兵衛さんの持っているものだった。」

白蓮の親友、村岡花子の夫が賀川豊彦の妻ハルと従兄同士だったことは書いたことがあるし、白蓮が戦後、賀川が主導した世界連邦運動に加わり女性部長として 全国を公演行脚したことも知られていたが、過酷な労働を強いる炭鉱として小説の中で批判している中鶴が伊藤伝右衛門の経営するものだったとは......なんとも その関連に驚くばかりである。

10690133_724654807614874_8682858086353897287_n.jpg 9月15日からニューヨークに行っていた。ほとんど20年ぶりの町。神戸物産がしゃぶしゃぶ店を展開することになり、そのプレゼンテーションのお手伝いが仕事だった。アメリカメデイアにもいくつか紹介されてほっとした。神戸物産のNYでの仕事が終わった17日夜、ホテルに帰ると賀川督明さんの死と伝えるメールが入っていた。

 督明さんは賀川豊彦の孫で2009年の賀川豊彦献身100年の記念行事で知り合い、大切な友人の一人としてつきあっていた。この記念行事がきっかけとなり、神戸の賀川記念館の館長となり、豊彦の社会福祉事業を引き継いでいた。督明さんの活動を通じて、協同組合関係者の中での賀川豊彦の威光はまだまだ消え失せていないと喜ばせて貰っていた。その督明さんが2年半前、がんを告知され、妻の一枝さんとともにがんと闘っていた。いったんは全身に転移していたがんの陰がすっかり消えて、奇跡は起こるものなのだとみなを喜ばせたこともあったが、ついに昇天した。

 翌日、休日を取ってプリンストンに行く予定になっていた。賀川豊彦の最後の著作『宇宙の目的』の英訳出版が終わったばかりのヘイスティング牧師を訪ねるつもりだった。ヘイスティング牧師にメールをするのは憚られた。牧師は7月末に神戸で督明さんと別れたばかりだった。

 翌朝、郊外電車に乗り、プリンストン・ジャンクション駅でヘイスティング牧師と会った。牧師は督明さんの死をすでに知っていた。プリンストン神学校は賀川豊彦が100年前のちょうど今頃、留学のためにやってきた場所である。ホールには日本の本所賀川豊彦記念館から寄贈された賀川の大きな肖像画が飾られてあった。教会での祈りの後、ヘイスティング牧師は大学院の授業で僕を紹介し、賀川豊彦の生涯について語った。

「今日は特別の日です。ここにいる伴さんとともに大切な友人である賀川督明さんが昨夜、昇天しました。賀川豊彦の孫にあたります。重要なことは督明さんの死によって賀川の名前が途絶えてしまうことなのです」
「では起立してください。督明さんのためにみなで祈りましょう」

 督明さんの死を特別の場所で、特別の人たちと祈ることになったことで、特別な気持ちにさせられた。

10626706_724654884281533_8354545013766739388_n.jpg さらに19日、Montclair Art Musiumの前庭で僕は偶然、賀川豊彦の自伝小説『太陽を射るもの』のタイトルとなったA Sun Vowという銅像を見つけることになったことを報告しておきたい。

 プリンストン大学を訪問した翌日、実は何をするか迷っていた。ニューヨークへ来る前夜まで『太陽を射るもの』の自炊作業を続けていて、なんとかこの銅像をみたいものだとひらめいた。ネットで検索したものの何の手がかりもなかった。唯一、モンクレアにインディアン関係の博物館があることを知り、そこを訪ねれば手がかりぐらいあるだろうと思い、電車に飛び乗った。

 モンクレアの駅から歩くこと30分、博物館にたどり着き、案内の女性にで「インディアンの子どもが太陽を射る像がモンクレアにあると聞いたがしらないか」と問うたところ、玄関前の庭を指さし、「あのことですか」と答えた。

 あまりに簡単に見つかったので拍子抜けというか、うれしさのあまり腰が抜けそうになった。

 モンクレア博物館はちょうど開館100年の記念展示をしていた。 賀川豊彦がプリンストン神学校に留学したのも100年前の9月。豊彦がこの像をみたのは翌年1915年の夏休みだった。

 この像は当時売り出し中だった、Hermon Atkins MacNeilの作で、地元の篤志家が博物館に寄贈したものとの説明があった。伝説によると、酋長の位と嗣ぐインディアンの息子は太陽を射るほとの弓の名手でなければならなかったため、父親とともに日々、太陽に向かって弓を射ること義務づけられていたという。

 モンクレアの町を歩くと森の中にお屋敷が点在する典型的な高級住宅地である。隣の家とは100メートルは優にあり、芝生の上をリスが遊んでいる。豊彦もそんな家の一つでボーイのアルバイトをしていた。神戸のスラムにいた時も自然を求めて六甲の山々を駆け巡った。アメリカの大金持ちの家でボーイを務めながら、インディアンの伝説に勇気づけられたはずである。

Edith Cavell monument, London - 05.JPG2年前、愛国心をあおる首相が日本に誕生した。ここ10年、日韓、日中間にお互いをそしる風潮が高まっている。愛国心が危ないのは、「愛国心は非常 に揮発性の高いもので引火しやすく、必ずそれをあおる人々が生まれる」と書いたのは司馬遼太郎だった。愛国心をあおる首相を抱く日本は日々危うい国になり つつある。

賀川豊彦はかつて「愛国心では足りない」という内容のコラムを世界連邦運動の機関誌「世界国家」に書いている。第一次大戦に従軍し、ドイツ兵に銃殺刑に処 されたカベル(Edith Cavell)という看護婦がいた。戦場でドイツ兵をも平等に看護したため、ドイツ側にスパイと疑われたのである。カベルが銃口の前に立った時に言ったのが 「愛国心だけでは足りない」という一言だった。

ロンドンの大英美術館の東側に銅像がたっているから、多くのイギリス人はカベルの精神を理解していると思う。

http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20120528/1338157759

 2年前に四国の中小企業を取材したことがある。四国経産局の依頼だったのだが、いやはや発想力の面白い企業が多いのに驚いた。長年経済記者をしていたつも りだったが、記者クラブにふんぞり返り、大企業を取材するのが当たり前だったことにいたく反省させられた。高知県・土佐山田の穂岐山刃物を取材した。かつ て世界をうならせた京セラのセラミクス刃物は京セラが焼いたセラミクス素材をこの企業が刃物に仕上げていたことを知らされた。高知の技術は捨てたものでは ないのだ。




Kim_Ok-gyun.gif 金 玉均(キム・オッキュン=1851-1894)李王朝末の親日政治家。開国を進めて日本と連携することを目指した武力クーデター、甲申事件を起こしたが失敗。日本に亡命後、上海で刺客に暗殺される。

 金は忠清南道で貧しい両班の家に生まれたが、ソウルの叔父の養子となり、学問を積んで21歳で科挙に合格する。当時の韓国は幕末の日本同様、鎖国を貫いていたが、フランス、アメリカなど西洋列強が武力を背景に開国を迫っていた。そうした中、金は劉大致、呉慶錫ら開化思想家に急接近し、日本への関心を高める。

 日本との最初の接触は、1882年の日本視察だった。慶應義塾の福沢諭吉を介して朝野の要人と接触する中で日本にならって西洋の文物を導入して近代化を図る必要性を確信する。

 当時、李王朝では高宗が位についていたが、古い体制を存続させようとする大院君派と開国を進めようとする閔妃派に分かれて政争を繰り返していた。閔妃政権は1875年の江華島事件をきっかけに翌年、日本と屈辱的な不平等条約「江華島条約」を締結させられた。これに反発した民衆が1882年、壬午軍乱を起こして大院君を復活させようとしたが、閔妃政権は清朝に派兵を要請し、反乱を鎮圧した。日清戦争の引き金となる事件だった。

 開化派にとって有利な条件は整ったが、守旧派の抵抗は根強く、改革が進まない中で、1884年、金らは守旧派一掃を狙った武力クーデターに転じた。甲申事件である。高宗の指示を取り付け、革命は成功するかにみえたが、清朝側の反撃に頼みの日本が駐留軍を撤退させたため、金らによる新政権は三日天下に終わった。

 金は日本への亡命を余儀なくされ、玄洋社の頭山満らの庇護の元に捲土重来を目指すが、肝心の日本政府は清朝の報復を恐れて、逆に金の存在を煙たがるようになる。李王朝が差し向けた刺客から金を守るとの口実で小笠原諸島に流され、その後、体よく上海に追い出された。

 1894年、上海の旅館で金は刺客の洪鐘宇に3発の銃弾を撃たれ暗殺される。国事犯としてソウルに送られた遺体が待っていたのは「凌遅斬の刑」。逆賊として首と4肢を切られ、漢江岸にさらされた。

 新興勢力としての日本に頼ろうとしたことが大きな誤算だったとの評価もあるが、1895年に日韓合邦を唱えた「大東合邦論」を書いた樽井藤吉は、亡命中の金と意気投合し、頭山満と玄洋社の浪人を朝鮮半島の送り込む計画を立てた。1885年、大井憲太郎らが起こした大阪事件も、半島に渡って金ら開化派を支援するため計画されたが、事前に漏れて自由民権運動家ら139人が逮捕された。日本の民間では金らを支援する動きが少なくなく、金玉均の存在は、その後の孫文を支援する宮崎滔天らアジア主義者の台頭を促す大きな触媒役を果たしたともいえよう。(伴武澄)
10646857_718143081599380_7528261463096073486_n.jpg日本樟脳株式会社を知っていますか。樟脳は樟を原料とし、防虫剤として使われていましたが、明治時代にセルロイド製法が発明され、写真フィルムにも使われ世界的に爆発的の需要が拡大しました。樟の主な産地は鹿児島、高知、和歌山、台湾などで日本がほぼ独占的に生産していました。この樟脳に着目したのは鈴木商店の大番頭だった高知出身の金子直吉でした。土佐が世界に誇れる産業史の一角です。以下、ネットからの転載です。
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 この会社は大正七年二月当時に存在した七社が合併したものである。金子直吉ならびに三井物産の藤瀬、竹田文吉、藤沢友吉、落合牛太郎その他多数の発起人によって創立された。資本金は六百万円である。

 この会社は本邦産粗製樟脳を原料として精製樟脳を製造し、主として欧米、インドその他海外に輸出ならびに内地売りを業とする本邦唯一の精製樟脳会社である。

 金子が明治十九年神戸鈴木商店に入店以来、樟脳の事業ならびに商売を非常に熱心に研究した。明治三十年頃時の台湾民政長官後藤新平伯に対し、本邦特産品である樟脳を専売にする必要を力説したことが動機となった。明治三十三年に、まず台湾に、それに引き続いて明治三十五年に、内地に樟脳専売局が生まれた。また金子は明治三十五年に神戸市雲井通五丁目にあった住友の樟脳精製工場を買い受け、この工場の一部に居住した。また、鈴木商店総支配人として非常に多忙であったにもかかわらず、朝夕この工場を巡視し、従業員を励まし、樟脳精製の品質改良と技術の進歩に熱心な努力を払った。この工場が現在の日本の樟脳会社本社第一工場である。これ以来、日本精製樟脳は世界でその名声を博し、外貨獲得に多大な貢献をしたのである。

 金子はこの他に本邦の樟脳の前途のために百年の計を立て、九州、四国、紀州等の各地に樟樹楠の植林を盛んに実行した。後に帝国樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。なおまた樟脳生油から最も有利な方法で再製樟脳を採集する研究に成功し、後に再製樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。

 なおまた世界的に樟脳の需要が旺盛になった大正の初期、上海に支那樟脳株式会社を設立し誰よりも早く中国樟脳に先鞭をつけ、その需要に応じ国策に大いに貢献した。このように金子は樟脳の植林―山製―再製―精製等を一貫させ、徹底的に樟脳事業に熱心な努力を払い、多大な貢献を行った。その努力絶倫には驚くとともに我が樟脳界の恩人であることを痛感する次第である。前記七社とは、鈴木商店樟脳工場、竹田文吉が経営した旭樟脳会社、藤沢樟脳、神戸樟脳会社、葺合樟脳会社、台北にある台湾精製樟脳会社、および三井物産が持っていた粗製樟脳である。それらは、海外輸出取扱商権等をひとつにして各社の無益な競争を避け、また、粗製よりもかなり多くこれを精製して輸出したいという国策上の見地から合併されたのである。創立当時から鈴木商店系の持ち株は五割、三井、竹田、藤沢、三者で五割だったが、昭和二年鈴木の整理に際し鈴木の持ち株は少しばかり減少し四割三七五となった。それでも今なおこれは鈴木の後継会社が所有している。

 長男の戦死を引き金に平和運動へ
  世界連邦運動婦人部長だった白蓮

51hh7yy3GwL._SL500_AA300_.jpgのサムネール画像 NHKの朝の連続ドラマ「アンと花子」の主人公、花子が国際平和協会の機関誌「世界国家」に寄稿していたことは前回書いたが、もう一人の陰のヒロイン白蓮(本名柳原白蓮)が戦後、湯川スミさんとともに世界連邦運動婦人部を率いていたことを紹介したい。

 詩人としての白蓮についてはいまさら紹介するまでもないが、孫文の革命を支援したアジア主義者宮崎滔天の長男龍介と結婚したことが平和主義者として目覚めるきっかけにもなっていた。龍介は東大時代から左翼運動に関わり、無産政党である社会大衆党などで政治活動をしていた。その間も父滔天との関わりから蒋介石の国民党にも深い人脈を持つなど日中のパイプ役も果たしていた。

 この龍介との愛が育まれたのは、筑豊の石炭王と呼ばれた伊藤伝右衛門の妻だった時代である。白蓮が書いた戯曲『指鬘外道』の出版にあたり、出版社にいた龍介が九州を訪ねたのがきっかけである。白蓮は自伝『荊棘の実』に龍介に惹かれたいきさつが書かれている。

「澄子(白蓮)は一人の青年宮川(龍介)を知った。彼は口に貴族を蔑んだ。富豪を罵った。そして今日に飢えている多くの貧しき人々のために、この身を捧げるのだともいった」

 やがて白蓮は新聞に伊藤伝右衛門への絶縁状を書いて、龍介のもとに走った。駆け落ちである。白蓮の愛に生きる姿勢はマスコミの格好の話題となり、白蓮事件としてセンセーショナルに報じられた。

 白蓮が直接的に平和運動に関わるのは学徒出陣した長男、香織が終戦直前に爆撃死したことがきっかけだった。戦後、「悲母の会」(後の国際悲母の会)を結成し、平和を訴える全国行脚を始めた。1949年4月の婦人民主新聞で白蓮は宮本百合子と対談している。香織の死について痛む白蓮に宮本が「母として深い傷になほ疼いてゐるのに、もう一遍、その傷のいたみからかぐはしの香織 を生んで見よう、と思ふことはおできにならないかしら」と言われたことがきっかけではないかともされている。その後、米国から帰国した湯川秀樹の妻スミとの出会いもあり、世界連邦運動に関わり、婦人部長として活躍した。

 1937年の盧溝橋事件の直後に近衛文麿首相から、和平工作の役割を依頼され、上海に渡ろうとするが、神戸港で憲兵隊に拘束された事件はほとんど知られていない。命をかけて日中の和平工作に乗り出そうと決意した龍介の気持ちを白蓮は十分に汲んでいたはずである。

 日中戦争から太平洋戦争にかけての白蓮と龍介のことはあまり調べていないが、義父滔天が自分の国のように愛した中国と敵味方に分かれて血みどろの長い戦いが続いたのだから、苦汁の日々を過ごしたことは想像に難くない。その戦争で長男を失ったことはさらに白蓮の悲しみを深くしたはずだ。

 長男、香織の死を無駄にしないためにも60歳を過ぎた詩人、白蓮は戦争を絶滅するための世界連邦運動に今一度、力を振り絞ったのだ。

 世界連邦運動の高齢化が心配されている昨今だが、われわれも白蓮にならって今一度、奮起しなければならない。白蓮の一生を振り返りながらそんな思いにさせられている。(萬晩報主宰 伴武澄)
modi-sachiro-story_650_090214071844.jpg数日前、東京で岡倉天心の関係者と歓談していて、モディ首相が日本で歓待されたことに関連して、外務省はどうしてチャンドラ・ボースの遺骨を安置してある杉並区の蓮光寺にお連れしなかったのだろうということを話していた。日本とインドを結びつけて先覚者はタゴールとチャンドラ・ボースであることを知らない日本人があまりに多いことを嘆いた。ところが今朝方、Facebookでモディ首相がボースと一緒にイギリス軍と戦った99歳の日本兵、三角佐一郎氏に跪いている写真を見つけた。神々しいその姿にある感慨があった。

http://indiatoday.intoday.in/story/narendra-modi-meets-netaji-aide-japan-saichiro-misumi-syed-akbaruddin/1/380510.html

The meeting was rare and poignant - an Indian prime minister kneeling down to greet a 99-year-old Japanese associate of Netaji Subhas Chandra Bose, in Tokyo.

In a photos released on Tuesday, Narendra Modi was seen peering into the eyes of Saichiro Misumi and then warmly clasping his hands.

"Poignant moment! PMOIndia reaches out to Netaji's oldest living associate in Japan the 99 year old Saichiro Misumi," said a tweet by Ministry of External Affairs Ministry spokesman Syed Akabaruddin.

Earlier in the day, Modi at a function in the Japan capital, spoke about Misumi, saying there was a man in Japan who still vividly remembered all details about Netaji.

This was Modi's second public tryst with an old comrade of Netaji.

On May 8, during the Lok Sabha election campaign, Colonel Nizamuddin, a 114-year-old former INA officer, shared the stage with Modi at a rally in Varanasi. Modi had touched the war veteran's feet.

Netaji Subhas Chandra Bose was the founder of the Indian National Army (INA) that fought the British with help from the Japanese in India during the Second World War.

He was believed to have been killed in a plane crash in Formosa (now Taiwan). The region was under Japanese occupation at the time of crash. The ashes were taken to Tokyo and are kept at Renkoji Temple in the city.
newsplus-1408172237-7.jpg スコットランドで9月18日、独立の是非を問う住民投票が控えている。日本のメディアでは小さな扱いでしかないが、ヨーロッパでは高い関心を呼んでいるはずだ。万が一、独立派が勝てば、イギリスは連合王国の名を返上しなければならなくなるかもしれないから、地政学的にも大きな住民投票となるのだ。

 
サンデー・タイムズの調査の最近の調査では、独立派が、反対派を上回ったというから驚きだ。
英タイムズの調査では、8月4-7日の時点では独立反対が61%で賛成を22ポイントも上回っていたのが、8月12-15日、反対57%、賛成43%と14ポイント差まで縮まり、8月28-9月1日、反対53%、賛成47%で6ポイント差だった。

 スコットランドは1603年、スチュアート朝のジェームズⅥ世がイングランド王ジェームズⅠ世となって両国の国王を兼任し、1701年に国家が合同してグレートブリテン連合王国となった歴史を持つ。スコットランド議会はその時、閉鎖され、ウエストミンスター議会に併合されたが、ブレア首相の1999年、スコットランド議会として復活した。

 住民投票で独立支持が反対を上回った場合、2016年3月24日の独立を予定している。独立後も通貨同盟により引き続きポンドを利用することに英国民は合意すると支持派は主張しているが、英国の主要3党はこれを否定している。

 写真に示したように、ユニオンジャックはイングランドとスコットランド、アイルランドの旗を重ねた図柄となっているが、水色の斜め十字が脱けると間の抜けたイギリス国旗になってしまう。さらに英国王を元首と戴くオーストラリアやニュージーランドなどの国旗も変更を余儀なくされることになる。

 20年前、「北海道が独立したら」というコラムを書いたことがある僕としては何やらワクワク気分なのだ。
 http://www.yorozubp.com/95-97/950228.htm

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