2014年6月アーカイブ

61+BBIIBFDL._SL500_AA300_.jpg バー・モウ(1893-1977)ビルマ(ミャンマー)の独立運動の先駆的指導者。第二次大戦中の1943年8月、日本軍政下で独立を果たした時の首相となったが、日本の敗戦とともに日本に亡命、戦後も政治活動に参画したが、軍事政権下で軟禁状態に置かれるなど不遇な晩年を送った。

 英国統治下、ラングーンの裕福な家庭に生まれ、ラングーン大学、カルカッタ大学を卒業後、ケンブリッジ大学に学び、1924年、ボルドー大学でビルマ人として初めて哲学博士道を得た。帰国後は弁護士となり、1930年、英国支配を揺るがしたタワラデー暴動では独立派の擁護に回り政治家として頭角を現した。

 1937年、英国がビルマをインドから切り離して自治領政府を編成した時にシンエタ党(貧民党)を率いて"初代首相"となったが、まもなく第二次大戦が勃発し、戦争協力を拒否したため、投獄された。

 第二次大戦では日本軍の支援を得たアウンサンらによってビルマ独立義勇軍が編成され、日本軍のビルマ攻略作戦に協力し、バー・モウは監獄から救出された。その後、軍政下ではあったが、フィリピンと共に独立を宣言し、国家元首兼首相として組閣した。ビルマ政府は連合国に宣戦布告した。
絶頂期は東条英機首相が提唱した大東亜会議への参加だった。満州国の張景恵総理、フィリピンのラウレル大統領、タイのワンワイタヤーコーン親王、中国汪精衛政権が東京に集まり「アジア人によるアジア」がうたわれた。この会議ではオブザーバー参加した自由インド仮政府のチャンドラ・ボースとは反英勢力として協力関係を築いた。

1944年、インパール作戦の失敗で東南アジアでの日本軍は劣勢に転じ、ビルマ政府の日本への協力は微妙な関係になった。アウンサンが率いたビルマ国防軍は日本軍に反旗を翻し、バー・モウ政権は事実上崩壊した。

 バー・モウの名を歴史に残したのは晩年に書いた『ビルマの夜明け ビルマ独立運動回想録』(Breakthrough in Burma、横堀洋一訳、太陽出版)である。その中で「われわれの植民地からの解放は、1943年に英国が初めて敗北を喫し、ビルマから去ってわれわれが独立を宣言したときから始まる」と書き、独自の戦争史観をつづっている。

 また、戦後のビルマ史について「物語は半分しか語られなくなった」とし、反英的なものはすべてぬぐいさられ「初めから終わりまであふれるほどの憎悪と反日感情と反日の声のことまでつづられていった」と批判し、「われわれは戦争中のもっとも重要な歴史的業績のひとつを現実に否定してきた」とも書いた。

 バー・モウは戦後、新潟県の寺で数カ月の潜伏を送り、結果的に占領軍に出頭したが、アウンサンのように最期まで日本を捨てることはなかった。1977年にランブーンのビクトリア湖畔の自宅で死去したが、「『ビルマの夜明け』は日本人に読んでほしかった。アジア人によるアジアを忘れるな」という言葉も残した。
namidano400.jpg この詩集を読んで涙しない人はいないだろう。『涙の二等分』いうタイトルには、筆者と読者が涙を分け合うという意味合いが込められている。90年たった現在の大人にも子供にも読んでよしいという思いがある。

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 僕自身の勝手な読後感を書こうと思ったら、自然と詩になってしまった。

今時、こんな詩を読んでどうなる。
そもそも時代が違うではないか。
そんな声が聞こえる。
否、僕は読む。あえて読みたい。
今の時代に足りない、人間の感性にもっと触れたい。
そんな思いでこの「涙の二等分」に向き合う。
一字、一字、キーボードをたたいて
賀川豊彦の実在を確認する。
そして自分の実在をも確認する。
貧民窟に住んだ
その繊細な先人の
人との葛藤が
伝わる。
自らの決断で貧しさの極地に立ち入り
貧民窟の迷路に彷徨いながら、
日を送る人生。

神はいるか。
否、神はいる。
そう信じたい。
でも
でももう一度聞く
本当に神はいるのか。

 与謝野晶子はこの詩集に寄せた「序」で「語法や仮名遣ひの間違いを可なり多く持って居るにも拘らず、其等の外面的なものを超えて、賀川さんのみづみづしい生一本な命は最も旺盛にこの詩集に溢れて居ます」と書いている。

 与謝野晶子のいう通り、賀川の作品には誤字脱字が数限りなくあった。現代に生きる作家であったら、編集者だけでなく、読者にもこっぴどく叱られたであろう。

 賀川の多くの作品は推敲もなく、書きなぐっただけで出版社に送られた可能性が高い。もちろん賀川自身が運動の継続のためにお金が必要で書きなぐったのは確かだ。しかし、賀川の作品には当時の日本社会が抱えていた問題そのものを自らの感性で書き綴ったことも間違いない。それでも当時の多くの人々が賀川の作品に引きつけられたのは、まさに与謝野晶子のいう、この「みづみづしさ」にあったのだといえよう。

 表紙装丁は初版本の内表紙を元に復元した。(2013年8月20日)
009jujika400.jpg 賀川豊彦は昭和に入ると、急速に農村伝道に傾く。ロシア革命の影響を受けた急進派が労働運動を支配し、賀川を「なまっちょろい」と追放した後、農村までもが急進派の勢力に入ったのでは、日本はだめになると考えたのが一つ。もう一つは1924年から25年の欧米旅行で、デンマークの農民高等学校の生み出す力に感化を受けた影響であろう。

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デンマークの復興については、内村鑑三が1911年に『デンマルク国』という本で詳しく紹介していた。普仏戦争でプロシアに豊かな南部酪農地帯を奪われた国民はダルガスという指導者を得て地道にユトランド半島を開拓し緑野に変えたという話である。

 農村の再生は可能であると信じた賀川は、100万人のキリスト教信者獲得のため、農村を歩き語る「神の国」運動を展開する。農村をキリスト教で「武装」しようと考えたのである。その時の講話をまとめたのがこの『十字架に就ての瞑想』である。

 フランスで革命が起きたのに、イギリスでなぜ革命が起きなかったか。賀川はその最大に理由について次のように語っている。

「フランス革命の真最中、英国の宗教運動を指導し、英国を暴力の革命より救ったのは、全く、ジョン・ウェスレーのお蔭であった。トマス・カーライルもそう云っている。」(『雲水遍路』)

「宗教家として、最も早く失業問題に眼醒め、一世紀の昔、既に或る意味の失業保険制度を考案したジョン・ウェスレー。弱者の友であり、貧民の友である彼が、如何に大衆を再びイエス・キリストに結びつけたかは、誠に十字軍以来の奇蹟であった。英国に於ける奴隷解放の運動は、彼の弟子達によって計画せられ、世界の日曜学校運動も、彼の弟子達の間から産れたのである。ブース大将の救世軍運動も彼の感化であり、英国々教会の覚醒も彼の力によるのである。」(同)

 賀川自身は書いていないが、たぶん日本のジョン・ウェスレーになろうとしたはずだった。自らの布教運動によって農村赤化の防波堤になろうとしたのである。賀川はキリスト教への入信を誓う「約束カード」なるものを書かせて多くの信者を得たものの、残念ながら、教会によるその後フォローアップがほとんどなく、賀川の努力は水泡に帰することになる。それでも、その教材が本書だったとすれば、読み方がより深くなるというものだ。

 イエスが30歳にして、大工を辞め、予言者ヨハネの弟子として伝道を始めた直後、国王ヘロデは異端者としてヨハネの首をはねた。怒りに耐えかねた民衆はイエスを戴いて革命を起こそうと立ち上がった。しかし、イエスは民衆の声を無視して旅に出た。帰ってみると、革命の熱はまだ収まっていなかった。

 イエスが目指したのは地上の王国ではなく、神の王国だったのだ。
 歴史上、民衆に王になることを求められて、戴冠しなかったのはアメリカ建国の父ジョージ・ワシントンしか知らない。

 賀川はイエスの生涯を生身の人間として教えた点がとても興味深い。賀川は言った。
「我国の村に、町に、工場に、学校に、病院に、農村に人の犠牲になって尽す人が待ち望まれている。即ちキリストの精神を持つものでなければならぬ。レーニンは『マルクスの旗の下に!』というが、私は『キリストの十字架の旗の下に集まれ』と叫びたいのである」

 農村伝道で農村を復興させようとした賀川の努力は大きくは実らなかったが、この時期、賀川が力を入れていた協同組合病院の設立は大きな共感を得て、現在のJA厚生連病院や生協病院に受け継がれている。国民的健康保険制度がなかった時代に、貧しい農村でも医療にかかれることは当時としては革命的な出来事だったはずである。

 この時代に賀川豊彦なかりせば、日本の農村はもっともっと殺伐とした時代を送ったかもしれない。日本の社会保障制度も大きく遅れたかもしれない。賀川による神の国運動はそういった意味で賀川の面目躍如たるところがあるのだと理解しなければならない。そんな思いにさせられる。

賀川は序文にも述べているが、当時、眼病を患い、自ら筆をとることが不可能だった。テープレコーダーもない時代に何人かの「賀川のペン」と呼ばれた人たちがいた。賀川が口述したものを「賀川のペン」たちが活字化した作品が少なくないことも伝えておきたい。

 解説にはならないが、本書が書かれた時代は多少、ご理解を得られたはずである。
 表紙装丁は初版本表紙のデザインを真似て制作した。(2013年8月20日)
080sekaikokka400.jpg 賀川豊彦との出会いは2001年12月だった。東京・元赤坂にある財団法人国際平和協会の事務所を訪れ、戸棚にあった機関誌「世界国家」を読み始めたことがきっかけだった。

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 終戦の8月、賀川豊彦は東久邇稔彦首相に官邸に呼ばれて、参与になることを求められた。戦争で傷ついた日本を再生するためにグランドデザインを描いて欲しいと要請されたのだった。賀川は直ちにそれまで協力を仰いでいた有力者たちに声をかけ財団法人国際平和協会を立ち上げた。そのメンバーのなんと華麗なことにびっくりした。

 国際平和協会は「戦後の日本が国際復帰を図り、世界の恒久平和樹立への貢献する」ことを目的に東久邇殿下が5万円の基本金を出資して生まれ、1946年4月13日に財団法人として正式に認可された。

 創立時のメンバーは賀川豊彦理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄、河上丈太郎が連なっていた。日本の労働組合の創設者、久留米藩、尾張徳川家の当主、著名な法学者、元宮内庁長官、外務省事務次官、三井家当主、元社会党委員長の衆院議員――そうそうたる顔ぶれだ。

 もともと「世界国家」は国際平和協会の機関誌として発行されていたが、1948年8月6日、広島原爆3周年記念日を期して「世界連邦建設同盟」が結成されてから、世界連邦運動を強力に引っ張る牽引車に生まれ変わった。

 賀川の運動の片腕の一人、村島歸之によれば、「従来の啓蒙宣伝本位のものから、実践運動の報告を主体としたものに変貌し、稲垣氏らの内外の世界連邦運動ニュースが精彩を放った。世界連邦運動は燎原の火のように日本各地に広がっていった」ということになる。

 第二次大戦後に世界連邦運動が世界的規模で強力に推進されていたことを知ったことは大きな驚きだった。世界連邦を単なる夢物語だと思っていた僕の目を驚きの次元へ次から次へと開かせてくれたのが機関誌「世界国家」だった。

 世界の有力者たちの多くが本気で世界連邦を考えていたのだ。世界本部がロンドンにあり、後にノーベル平和賞を受賞するロイド・ボアが会長を務め、シカゴ大学総長のハッチンスが世界連邦憲法草案を書き上げ、アメリカを含め世界各地に世界連邦宣言都市が相次いで誕生していた。その有力者の一人に日本の賀川豊彦という存在があったことも僕のインスピレーションを大いにかき立てた。

 「世界国家」の誌面には知らない終戦直後の歴史が次々と書かれてあった。フランス、イタリア、デンマークの新憲法は世界連邦への主権委譲を書き込んでいた。シューマン・プランなるものが欧州石炭鉄鋼共同体につながったという話は特に新鮮だった。戦勝国の外務大臣が欧州の戦争の大きな原因だったアルザスの鉄と石炭を国際管理しようと言い出すのだから腰が抜けるほどの驚きである。

 賀川はこの機関誌に毎号、精力的に執筆した。特に1949年以降は筆が踊り始めていた。戦前にアメリカで出版した「Brotherhood Economics」は協同組合的経営で世界経済を再構築すれば、貧困が撲滅され、世界平和をもたらすことが出来るということを書いていた。賀川の政治経済社会論の集大成だが、まさにそのような世界を実現できる機運が生まれていたのだから当然である。

 賀川は生物学から原子物理学に到るまで知る限りの知識を駆使して、世界はダーウィンの『進化論』が描く弱肉強食の世界ではないことを繰り返し書いた。弱いものは弱いながらも力を合わせて生きてきた。タコが甲羅を脱ぎ捨てることで逆に億年を生きてきた「進化」の過程を書いた。賀川は「なぜ人類だけがそれをできないのだろうか」という思いだったに違いない。

 賀川は愛に生きたイエス・キリストはもちろん、アッシジのフランシスカン、戦争を拒否して流浪したメノナイトの人々、第一次大戦で敵をも愛した看護婦カベル、北氷洋の聖雄グレンフェルなど愛に生きた過去の人々の物語も多く紹介した。僕にとっては初めて知る物語だった。多分、多くの読者にとっても同様だろうと想像する。

 この「世界国家」はもともと機関誌に1947年から57年までに掲載された賀川の論文、エッセー、詩の中から武藤富男が『賀川豊彦全集』のために編集したものである。今回のデジタル版では全集に掲載されなかった連載「世界連邦の話」などを加えた。

 賀川の世界連邦運動のピークは1952年、広島で開催した世界連邦アジア大会前後であろうと想像している。しかしこのアジア大会開催の様子は世界連邦建設同盟の新聞「世界連邦新聞」に記載されていて、機関誌の「世界国家」にほとんど記述がないのが残念である。

 表紙は1952年の機関誌を元に制作した。(2013年8月20日)
 
007kirisutokyoudaiai.jpg 世界恐慌に直面した時、賀川豊彦は米国で協同組合普及の為の講演を依頼された。その総まとめとして1936年、ニューヨークのロチェスター大学のラウシェンブッシュ講座で「Brotherhood Economics」と題して講義した。講義の内容は同年末、ニューヨークのハーパー社から直ちに出版されて、十数ケ国語に翻訳され、注目された。特に戦後ヨーロッパの欧州連合(EU)構築の思想的背景になったともいわれる名著である。

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「キリスト教兄弟愛と経済改造」はその草稿として1935年3月から翌年6月まで『雲の柱』に連載した賀川の国家論、世界論である。「Brotherhood Economics」は唯一、日本だけでは出版されず、2008年の賀川豊彦献身100年記念事業の一環として『友愛の政治経済学』(コープ出版)としてようやく翻訳出版された。

 賀川の協同組合論としては、大正8年6月に出版した『精神運動と社会運動』の中の「主観経済学の組織」、大正10年6月出版の『自由組合論』(警醒社)がある。

 これらをもとに、協同組合論の総括として昭和15年4月、387ページに及ぶ『産業組合の本質とその進路』(協同組合新聞社)も書いた。

 若干20歳でスラムに入った賀川が取り組んだのは、「救貧活動」だった。貧しい人々を救うのが目的だった。だが、その後の米国留学で賀川が学んだのは「救貧」だけでは人々を貧困から救うことは出来ないということだった。社会システムそのものを改造する必要を痛感したのだった。貧しい人々に必要なのはまず、働く場である。ついで働く人々が団結することも学んだ。つまり労働組合を組織して経営者と交渉することを痛感した。一方で働く人々が購買組合を組織することで商人に搾取されないような流通システムを構築する必要性も考えた。現在のコープショップである。さらに人々には安いお金でかかれる医療施設も不可欠だった。


 本書に書かれた賀川豊彦の通貨論はとてもユニークである。
「金本位は要するに物々交換を合理化しただけのことである。未だ物品本位経済から意識経済本位に移っていない時においては、頗る重要な役割を演ずるものである。しかし、一国内においては不兌換紙幣を流通させても、その国家にある社会勢力の流通が比較的容易に統制がとれる為に(国家に信用ある場合)、物々交換を本位とする金本位制度に頼らなくとも、意識経済の社会勢力本位主義で十分やって行けるのである」

 現代のわれわれはカードで買い物をし、カードで借金をしている。国家が流通させている「通貨」を使用していると錯覚しているだけなのである。すべてが信用を本位として経済が成り立っていることをもっと自覚しなければならない。

 賀川豊彦は、キリスト教の兄弟愛を中心にした協同組合で経済を改造すれば、人々を貧困から救い出すことが出来るという考えに到達した。世界の貧困の原因に資本主義があることが前提にあったのは当然であるが、ソビエトが行った暴力革命には頭から否定した。その第三の道として賀川の中で育まれたのがキリスト教兄弟愛経済だったのだ。

 表紙は初版本を元に復元した。(2010年11月16日、伴武澄)

006hoshi400.jpg 冒頭のエッセー「星より星への通路」は1921年8月15日に神戸の監獄の中で書かれた。前年12月、賀川豊彦は『死線を越えて』で鮮烈デビュー。1921年7月、三菱・川崎造船所のストライキでは労働戦士として脚光を浴びたのもつかぬ間、ストライキの首謀者として逮捕され、初めて塀の中の人となった。

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 本書はそんな時期の賀川のエッセーや戯曲がちりばめられている。実生活で絶頂と奈落の間を行き来しながら、神に守られた自身の安堵感と社会の不正に対する強い不満が心地よく交錯する不思議な読後感がある。

「神に溶け行く心」はイエスがある意味で宗教改革家だったことを書いてあり、賀川自身が「神の子」として、神に溶け行く心境にも触れている。後にYMCA運動などにより、ノーベル平和賞を受賞したアメリカのモットが「現代に生存するキリストに最も近い人」(1931年8月4日、クリーブランドでの全米YMCA大会)と賀川を紹介したこともあった。しかし、自ら「神に溶け行く」心境を語ったことに対して教会から強い反発があったとしても当然のことであった。

 聖書にはキリストの血について多く書かれている。その昔、パンがキリストの肉でワインがキリストの血であると聞いた時には、なんて野蛮な宗教なのだろうかと軽蔑したものだったが、本書の賀川の文章で、ようやく納得した。

「けれど過去の罪悪を神に救っていただくのは、単なる生理的な血で心理的な罪を救う訳でない。血を流したから過去の血があがなわれるのではない。血が持つ愛による命の力を、キリストが与えて呉れたという意味である。血は新陳代謝の力をもって欠点を補ってゆく。血は形の崩れたものを癒し、働き得ないものをも新しく再生せしむる力を持っている。愛もそうで、人を愛するならば形のくずれた者をも再生せしめ得るのだ。キリストが人を愛したのは、ただ口先だけで愛したのではなかった。」

「肉体上の血を流すことと、人を愛することとが一致している。血を流した事実が愛の極致であった。即ち元来、血は一種の譬えとして用いたのであるが、血そのものが救うとまでいっている。ヨハネはさらに血を神秘的力を持つものとして説明している。血は肉体の汚れたものを掃除し、洗ってくれる。汚いものを集め、心臓に持ってゆき、さらに肺に運んで酸素できよめる。即ち「またその子イエスの血、すべての罪より我らを潔む」(ヨハネ第一書一・七)と説明した。イエスの愛そのものが、汚いものを包んで洗滌(せんでき)してくれる。」

 表紙装丁は伴武澄が制作した。(2013年8月20日、伴武澄)

005zakuro.jpg 賀川豊彦を理解しようとするなら、チャールズ・ディケンズを読めと言われたことがある。『オリバー・ツイスト』や『二都物語』など一気に四冊のディケンズを読んで、19世紀半ばのイギリス社会の貧困さを体験したことがある。

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 資本主義が勃興し、労働者が都市に殺到することによってスラム街が形成されるのだが、その代償として農村社会が崩壊した。崩壊したのは農村社会だけではなかった。人口の移動が難しかった時代は、取りも直さず、良くも悪くも助け合わなければ生きていけなかった時代でもあった。

 その助け合い経済が崩壊し、代わりに通貨経済が勃興した。その結果貧困はスパイラル状に広がった。農村とスラムの違いは食い物がないことである。スラムが拡大すると人々は生きるために何でもした。

 通貨経済の大きな特徴は借金である。容易にお金が借りられると人々は必要だからと借金し、欲目にくらんで借金した。その結果、子ども達は金銭を対価として労働力となった。男の子なら丁稚にやられ、女の子は娼婦として売られた。

 もちろん、どこの国にも現在のような社会保障はなかった。そんな中からもう一度助け合いの精神を復興させようと立ち上がったのが賀川豊彦だった。

 賀川はスラム街に住み、貧しい人たちと生活を分かち合う一方で、社会改革に乗り出した。労働運動や協同組合運動がまさにそうであるが、人々の心の中を変革するためにペンの力も最大限活用した。最大のヒットとなった『死線を越えて』で巨万の印税を手にしたが、その金はほとんど彼の社会活動に消えていった。書けば売れることを一番知っていたのは自分自身である。だから、貧しい人たちにもぜひ読んで欲しいという本は意図的に廉価販売した。

『柘榴の半片』は昭和6年に教文館から1万部、定価20銭で発行された。驚くべきは20銭という定価設定である。当時の本の定価は1円以上だったが、賀川豊彦は多くの人に読ませるために安価での発行を決めたのだった。賀川の著作は奥付にある定価の設定で発行の意図を押し図ることができると言われていることが面白い。

『柘榴の半片』は、廃娼運動の目的を持って書かれたものであるが、当時その目的を次のように語っていた。

「廃業の仕方を娼妓に教えようとして本を書いても、彼等の中に入っていかない。たとえ入っていっても彼等にはわからない。それで小説にすれば必ず彼等の中に入っていくし、彼等はこれを読んでわかるようになる」

 賀川は生涯、300冊の著作をものにしたが、文学界に賀川の名前は残っていない。理由は単純である。「賀川が小説を社会運動の手段としたからだ」と考えている。多くの小説家が芸術の名の下に酒と女に溺れていったが、賀川にはそうした世界はまったく無縁であった。

 表紙は初版本を元に復元した。(2013年8月20日、伴武澄)
 
004daisankiso.jpg 1924年から25年にかけての欧米の旅から帰国した賀川は農村運動に目覚める。デンマーク農村の高等福音学校の存在が賀川を大きく動かした。そこらの事情は『雲水遍路』に詳しい。

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 1926年、武庫川の自宅に日本農民福音学校を開設、1930年には御殿場に同高根学園、1934年、北海道空知にも農民福音学校を開設した。

 その間、全国をめぐって農村伝道に努め、立体農業と協同組合の精神を説く、一方で、農村を題材とした多くの小説を出版した。『一粒の麦』(講談社、 1931)、『乳と蜜の流るゝ郷』(改造社、1935)、『荒野に叫ぶ声』(第一書房、1937)、そして翌年『第三紀層の上に』(講談社、1938)を上梓した。

 この時期は大恐慌後にあたり、日本は経済的に行き詰まり、軍事的に満州事変から日中戦争を起こした時期と重なる。東北地方は経済的に困窮した上、働き手である青年たちは徴兵で次々と戦場に送られ、子どもたちが身売りされるなど日本社会が大きく揺れた時期でもあった。

 賀川が農村改造小説を書かざるを得ない時代背景はそんなところにあった。

 第三紀層というのは、日本列島を総面積の85%を占める山岳地帯の准平原の地層のことである。日本を貧困から救うには放置されてきたこの第三紀層を開拓しなければならないというのが、この小説のテーマである。

 舞台は岩手の農村風景から始まり、東京、岩手、八戸、函館、樺太、草津、東京、そして岩手へと戻る。

 賀川の小説では珍しく美しいながらも社会性もしっかりした女性が登場する。そして主人公はその女性と結婚し幸せな人生を送る。そんなシナリオである。

その女性は岩手県の貧しい農村の幼なじみ。主人公が出稼ぎに出た函館のカフェで出会い、見初めるが、彼女は付きまとわれたごろつきの子を孕んだ上、梅毒にかかり顔の皮膚が崩れていく。さらに生まれた子どもは盲目と、不幸は彼女を次々と襲うが、主人公は一心に彼女のために尽くす。

 彼女も主人公の恩に報いるため、ひたむきに学び稼ぐ。主人公はやがて美しさを取り戻した彼女と岩手県の貧しい農村に戻り、新しい村作りに励む。そんなハッピーエンドのストーリーである。

 表紙装丁は初版本の内表紙を元に復元した。(2013年8月20日、伴武澄)

003sonoryuiki.jpg『その流域』は賀川豊彦のふるさと、阿波を舞台にした唯一の小説である。徳島県南部、高知県との県境に近い那賀川の流域は徳島県でもマイナーな地域である。那賀川は2006年に清流日本一に選ばれたこともある自然の美しい流域であるが、全国的知名度はほぼゼロ。その那珂川の巌にほとばしる水や豊富な森林・動植物資源を彷彿とさせる表現がちりばめられてあり、読みながら、那賀町にとって小説『その流域』は貴重な文学資源であるはずだと思わせられた。

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 舞台はその那賀川から始まり、大阪、岩手、そして再び阿波に帰る。時代は1930年。世界恐慌が日本にも影響を与え、東北だけでなく、日本全体が経済の大きな谷間に入りつつあった。

 テーマは教育であるものの、東北の貧しさの一端を描く。人々の家より馬小屋の方がきれいだとか、着るものがないため、子どもが学校に行かないといった悲惨さを描く。このころの賀川文学の特色としてキリスト教精神と協同組合の重要性を説くことはもちろんだが、四国の地質学や天文学から始まり、樹木や鳥の名称を多く取り上げて自然から学ぶことの大切さを教育する側面もある。

 賀川の文学は社会問題を深くえぐり出すのを特徴としているが、この小説で村議会議員に次のように語らせる興味深い部分がある。

「どうも、日本の文部省は、貧乏な村に対する教育の手加減ということを知らないから困るね、この村のような貧乏な村に対しても、東京や大阪と同じような建築規定を設けて、廊下の幅は何尺でなくちゃならんとか、教員の初任給はこれこれ、これこれでなければならぬというのは、少し当を失しているように思われるな、どうです、村長さん、あなたはそう思いませんか?」

 豊かになった現在においても、文科省は80年前と同じことを言い続けているのだからおかしい。それにしても当時の小学校の教員の給与が自治体の財政力に左右されていた事実も現在のわれわれに強く訴えるものがある。

 一方で、ヒロインの由子に天体の動きと地球の気象の関係を語らせる面白い部分がある。
「おや、星を見ていらっしゃるの? 木星がよく光っているのね、今夜は。近頃アメリカでは、木星と太陽と月が一直線に並ぶ時には、地球上に必ず大地震があるって予言している学者があるんですってね。木星の衛星が三つ一直線になった時も、地球の表面に大暴風が起こるということを発表しているニュージーランドの学者もありますのね」

「私は日本のような天災の多い国では、もう少し天文学を盛んにしなければいけないと思いますわ。地震も火山も噴火も、暴風も、天体の引力に大きな関係があると判って来た以上、天文学を知らないで人間の歴史を論じることは出来ないと私などは思いますのよ。私もう少し木星のことが研究したくなったわ」

 素人的にはあまりに当たり前のことであるが、東日本大震災を経た現代の日本人として、従来の地震観測に決定的に不足している地球気象と天体の動きの関係を述べていて示唆に富む記述だと思わせる。

 表紙は初版本を元に復元した。(2013年8月20日、伴武澄)

002unsui.gif『雲水遍路』は賀川豊彦の単なる旅日記ではない。二度目のアメリカの旅は単なる感傷の旅ではなかった。求められるままにアメリカに台頭しつつあった東洋人に対する差別政策への批判の旅でもあった。

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 同時に同時代の日本人にどれほどの刺激を与えてくれたかしれない旅日記でもあった。

 一つは西洋人のコモンセンスであるキリスト教の世界が次から次へと描かれる。もう一つは戦間期の歴史への再認識である。ドイツとフランスが死闘の戦いを繰り広げ、数百万人の戦死者を出すという悲惨な戦争の結果、平和への希求が激しく求められた時代だった。にもかかわらず各国は軍拡に走り、第二次大戦を迎えるに至った。

 一方で社会主義国家ソビエト連邦が誕生し、ドイツで社会主義政権が誕生しそうになった。イギリスでは労働党が政権を取った。賀川の不満は、社会主義政権の誕生は資本主義社会を根本から改革する動きとはならなかったことだった。

 何が足らなかったのか。国際連盟で日本は人種差別の撤廃を求めたが、西洋社会は日本の主張を認めなかった。

その結果、何が起きたか。アメリカでは日本人移民への拒絶など黄色人に対する差別が強まった。列強による経済的な中国分割の動きは強まり、日英同盟を破棄したイギリスはシンガポール基地の強化に走った。つまり黄色人としての日本の台頭に対して欧米は強い危機感を持ち、経済的軍事的に日本への対抗措置を強化していたのだった。

賀川、何回かの長期にわたる海外旅行のたびに自らの思想の集大成を行っている。『雲水遍路』はその第一回目である。旅の間、賀川の心に去来したのは世界経済の協同組合的運営だったに違いない。英国、フランス、ドイツなどで協同組合運動のあり方を精力的に取材したほか、デンマークではフォルクスコーレ(農村高等福音学校)が国家再建の大きな柱となっていることに並々ならぬ関心を示している。社会主義でも資本主義でもない。第三の道への模索が賀川の心の中で始まっていたはずだ。

 雲水遍路を読みながら、我々は忘れ去られたそんな大戦間の歴史を改めて思い起こさせるのである。

 また、後半部分では、待望のエルサレムの旅を実現している。賀川が聖書で繰り返し読んだ風景がそのままに描かれ、興味深い。編集子も繰り返し、この部分を読むことになるが、いつか『雲水遍路』をガイドにエルサレムの旅をしたいという気分にさせられた。

 アメリカやヨーロッパの記述もそうだが、『雲水遍路』をガイドにかの地を旅すれば、たくさんの発見があるような気がする。そういった意味で『雲水遍路』は歴史書であり、旅行ガイドでもあるが、賀川にとっては神への巡礼の旅であり、また、その後の賀川の世界的人脈を形成するきっかけをもたらした意義の多い旅でもあったに違いない。

 表紙装丁は初版の箱のデザインを踏襲し作成した。(2013年12月13日、伴武澄)

001sanjo.jpg はじめに  賀川豊彦セレクションをつくろうという議論が起きてから3年以上が経つ。当初は賀川豊彦ゆかりの東京、神戸、徳島など5つの賀川記念館を中心に編集委員会をつくり、議論を重ねたが、最終的に一般財団法人国際平和協会の仕事とさせてもらった。

 購入する【賀川豊彦セレクションⅩ

  賀川には300冊前後の著作があるといわれる。2009年の賀川豊彦献身100年記念行事が行われ、ベストセラー『死線を越えて』など数冊の作品が復刻されたが、多くは絶版のままである。  毒舌で知られた評論家の大宅壮一は賀川について「明治以降の代表的日本人の名前を10人挙げるとすれば、当然、賀川豊彦の名が挙げられなければならない。労働運動、農民運動、生協運動、平和運動・・・・・・運動と名のつくもののほとんどが賀川にその端を発する」というようなことを書いている。  その賀川の作品がほとんど世の中に知られないままになっているという危機感からこの事業はスタートした。

  できれば紙の本で出版できればとも議論したが、コストの面から、出版するなら電子本しかないと決まった。  電子本の編集は初版本の復刻を基本としたが、一部の作品を除いて現代仮名遣いに改めることとした。当時の時代背景もあり、賀川の作品には今から考えれば、随所に差別的表現が見受けられるが、すべてを書き改めては、作品の時代性が損なわれると考え、あえてそうした表現を残した。読者にはご理解をお願いしたい。

 賀川豊彦セレクションを世に出すにあたり、神戸の賀川記念館ほか多くの関係者にお世話になった。紙面を借りて感謝の意を表したい。

  賀川豊彦の300冊以上の著作の中からどれを選ぶかは大変な作業だった。当初は小説や評論ばかり読んでいたが、セレクションでは賀川の宗教書も不可欠と思い、最初に選んだのがこの『キリスト山上の垂訓』である。  読み進むうちにこれは宗教書ではないと気づいた。「幸いなる哉貧しき者」で始まる短い言葉は、賀川の解説によって、人生の深い意味が込められていることに気づくはずだ。僕は定年退職後、郷里の高知市に帰って母親の介護をしながら、繰り返しこの本を読んだ。母の介護によってすさんだ自分の心がどれほど癒やされたかしれない。

  この本は賀川がヨーロッパ旅行の帰り道にエルサレムに足を運んだ後に書かれた。イエスの暮らしたガリラヤの風景が克明に記され、ありありと目に浮かぶのは賀川の実体験に基づくものだからだ。  賀川の著作が多くの人に読まれたのは、実はほとんどの作品が実体験に基づいているからである。賀川の実質的な処女作である『貧民心理の研究』は後に「差 別書」として糺弾された。賀川自身も「再版はしない」と約束した作品であるが、当時、大都市周辺にあまた存在していたスラムの実態を人々に知らしめるために欠かれたものであったはずである。

  当時、当たり前だった優生思想についても、今読むと踏み込みすぎと思われる描写が多いが、賀川にとって、「小さき者」や「貧しき者」こそが真っ先に救済される人たちであった。イエスもまた同じ心境で「小さき者」や「貧しき者」に対応したものと信じられている。父なる神との心の対話の中に現れるイエスの教えこそ今、われわれが振り返らなければならないものが含まれている。

  賀川の『山上の垂訓』が読まれなければならない意味合いはそんなところにあるのだと思っている。この本に出会ったことは僕にとって幸せなことだった。たぶん、これからの読者も共感してくれるものだと思う。  セレクションの最初の電子本の表紙装丁は初版のままとした。また、誤字脱字と思われる修正、送り仮名の統一の他は原文のままとし、宗教書であることからあえて旧仮名遣いを踏襲した。一部、今日的には社会的に不適切な表現もあるが、賀川が住んだスラムの当時の雰囲気を描写するには仕方がないと考え、そのままにした。ご理解をいただきたい。(2013年12月13日、伴武澄)
 霞山会の広報誌「Think Asia」にバー・モウのことを書くもとになり、何冊かの古い本を読んでいたら、懐かしい名前に突き当たった。ビルマの傑僧オッタマである。田中正明著『雷帝 東方より来たる』(自由国民社、1978年)180-182ページにその記述があり、オッタマを幕末の松下村塾の吉田松陰になそるなどユニークな見方を示し、西本願寺の門主大谷光瑞、松坂屋の伊藤次郎左衛門とのおもしろい出会いも書かれている。これはブログに転載しておかなければと思った。

 田中正明氏は故人であるがかつては財団法人国際平和協会の事務局長をしていたこともあり、縁のある人物である。日本人はもっとアジアのことをしらなければならない。

---------- 以下、転載  ----------

 傑僧オッタマ(田中正明著『雷帝 東方より来たる』=自由国民社、1978年)

 民族革命には一つのパターンがある。最初に民族意識高揚のための啓蒙運動者もしくは教育家があらわれ、これを受けて、情熱的な行動による、破壊活動や大衆運動の先導者となって変革をもたらす革命家があらわれ、最後にこの革命事業を集約大成させる、といった三段階のパターンである。

 ビルマの民族独立革命もその例外ではない。啓蒙期の傑出した指導者の一人に、オッタマと名のる傑僧がいた。明治維新になぞらえるなら、吉田松陰、横井小楠、橋木左内の役割を担った指導者である。このオッタマ僧正の思想を受けて独立革命に起ちあがったのがオンサン将軍を中心とするいずれも20代の「30人の同志」たちである。松下村塾門下の高杉普作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤俊輔、井上聞多を思わせる活動である。そして今日のネ・ウィン政権の時代に入るのであるが、かれもまた「30人の同志」の一人である。ただ、明治維新とのちがいは、この独立革命のドラマは、大東亜戦争の渦潮のなかで起きたドラマであるということ、したがって脇役的な役割を演じたことである。

 二十世紀の初頭、ビルマ人の心をゆさぶった二つの戦争があった。一つは南アフリカのボーア戦争(1899-1902年)であり。いま一つは日露戦争(1904-1905年)である。

 ボーア戦争は、南アフリカに移住したオランダ系農民が、土着民とともに、イギリスの統治に反抗してたたかった戦争であるが、同じイギリスの圧政下に苦しめられていたビルマ人は、この戦争に期待するものがあった。だが、戦争はイギリスの勝利に終わってしまった。

 次いで起こったのが日露戦争である。この戦争に日本は勝った。巨大な軍事力を擁する帝政ロシアに、東洋の一小国日本が孤軍奮闘、ついにこれを打ち負かしたというニュースは、同じアジア民族であるビルマ国民に深い感銘を与えた。かれらは、日露戦争における日本の勝利を、アジア有色民族の勝利として受けとめた。日露戦争がいかにビルマ国民のナショナリズムに影響を与えたかについて、ビルマの歴史家ティン・アウン博士は、その著『ビルマ史』の中でこう述べている。

「ボーア人がその偉大な勇気にもかかわらずついに敗れ去ったことを知ったとき、ビルマ人たちは民族の指導者の苦悩の何たるかを知らされた。ところが間もなく、日本人がロシア人に対して勝利を得たことによって、ビルマ人たちは再び元気づけられたのである。

 当時アジアのどこの国でもそうであったように、ビルマでも、日本の維新以後の急速な発展は、アジア人が横暴なヨーロッパ人とついに社会的・政治的に対等者となりうる新時代の黎明であるとして歓迎されていた。このころビルマに最初の映画館が出現したが、上映されたのはボーア戦争と日露戦争の記録映画であった。観客はスクリーンに写し出されたマフェキソ(イギリス人に包囲されたボーア人の町)のボーア人救出に安堵の溜息をつき、日本軍の兵士が鉄道で輸送されるロシア軍隊を襲撃する場面にはおしみない拍手をおくった」(鈴木孝著『ビルマという国』)。

 一代の傑僧オッタマ僧正が、アジアの強国日本にあこがれを抱いて渡日したのは1910年(明治43年)、日露戦争から5年後のことである。

 オッタマは英国に留学し、帰国後、抗英独立運動を鼓吹して投獄された。日本が明治維新後、外国との不平等条約を撤廃し、当時世界最強の陸軍を誇示していたロシアをやぶるまでに至ったその力の根源は何か、ビルマが英国に抗して独立をかちとるためには日本を勉強する必要がある。--出獄後も抗英独立連動を続けていたオッタマは、そう思いたつと矢も盾もたまらず、苦心して船賃を工面し、訪日の旅にのぼった。

 かれは京都に出てまっ先に浄土真宗本願寺派の門主大谷光瑞を訪ねている。大谷は1902年、パミールからチベットに入り、ホータン、チャックを探検して、その成果を『新西域記』にまとめており、当時日本人として世界的に知られた探検家であった。

 オッタマは、大谷のすすめもあって、あらゆる階層の日本人に接したいという念願から、京都から歩いて東京まで巡錫(じゅんしゃく)した。たまたま名古屋で大きな葬式にでっくわした彼は、もの珍らしく門に立ち、じっと式の様子をながめていた。

「どこの坊様か知らないが、ありがたそうな僧が門にいらっしやる。お経の一つもあげていただいたら功徳になるのでは......」
 というので、家人が鄭重に招じいれた。

 頭はさいづち頭で、体躯は偉丈、眼光するどく、見るからに傑物の風貌をそなえていた。粗末なカーキ色の法衣をまとった旅僧ではあるが、この家の当主は、オッタマの尋常ならざる風貌に魅せられて。僧を引きとめ、いく日か滞留をねがった。これが名古屋の豪商、松坂屋伊藤次郎左衛門との出会いであった。

 伊藤次郎左衛門のうしろだてで、オッタマは3年間日本に滞在し、さらに妹をビルマから呼びよせ、京都の女子技芸学校に通わせた。かれはこの3年間の一時期、東京帝国大学文学部で、仏教哲学とパリー語について教えている。ビルマの歴史学者マウン・マン博士は、オッタマの日本遊学について次のように述べている。

「今まで西欧の歴史や地理の本に、その国民は体躯倭小で取るに足らぬ人間であると書かれてきたアジアの日本が、二十世紀初頭ロシアに大勝を博したため、日本はビルマの志ある青年たちの目に、まさに旭日昇天の国として映った。日本を見たオッタマは、東京の大学で一時、教鞭をとり、インドを経てビルマに帰ってきた。近代国家建設のための日本国民の団結と勤勉について、素啼らしいみやげ話をたくさん持ってきた」(前掲同書)。

 この素時らしいみやげ話を一書にまとめたのが、有名な『日本』という書物である。この書は、ビルマの青年やインテリの間にむさぽるように読まれた。このため、ビルマにおける日本の声望が大いにあがり、日本にあこがれ、日本に留学する学生は急激に増加した。

 オッタマは、この書の結論として、「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結・蹶起すれば、必ず独立をかちとることができる」と説いた。

 オッタマはインド国民会議派のガンジー、ベル-、ボースらと密接な連絡をとりながら、ビルマの完全自治を要求する運動を起こした。かれは民衆に向かって、独立獲得のためには暴力行動も許されると説き、民衆煽動のかどで投獄された。このためかれは、民衆の眼に殉教者として映った。

 出獄すると、各地に青年組織をうえつけ、その後の革命運動の母体となった「仏教青年会」(YMBA)を結成した。三たび投獄され、1927年に釈放されるとただちに納税ボイコット運動を起こし、英国のビルマ統治を根底からゆさぶった。こんどは終身禁鋼を宣告され、1939年に獄死した。

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