解釈などあってはならないのが憲法

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60kenpoukaiseian.jpg この国の政治をみてきてずっとおかしいと思ってきたことの一つが「憲法解釈」である。憲法は政治家や公務員が守るべきことが書かれてあるはずである。本来はその時、その時の政権による「解釈」などあってはならないのだろうと思っている。

 小生もかつては憲法改正論者だった。理由は簡単である。自衛隊の存在である。国の政治の根幹をなす憲法に反する状態が長く続きすぎている。こんなことは子供にも分かることではないか。

 本来は最高裁が自衛隊が違憲かどうかを判断しなければならないのに、これまでその義務を怠ってきた。三権分立の一翼を担う最高裁の判事たちの罪は重いと言わざるを得ない。職務の放棄といっていいかもしれない。

 その代わりに、日本では自衛隊がどこまで武力を行使していいかを、内閣法制局が判断している。内閣法制局は内閣の一部である。その長官は「閣僚」の一人として首相が任命している(認証官ではないが閣議に陪席する)。憲法問題を内閣法制局が判断するのも間違っている。これでは日本に三権分立がないに等しい。

 タイの最近の事例では最高裁が首相の辞任まで求める権利があったことに驚いているが、三権分立とは司法が内閣の行動をチェックするシステムである。日本では最高裁で「違憲」とされた過去の選挙で選ばれた政権が憲法解釈にまで踏み込もうというのだから盗人猛々しいと言わざるを得ない。

   第二章 戦争の放棄

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 日本国憲法にはどこの国にもない不思議な条項があるのだ。ことの善悪は別だ。陸海空軍を持たないと書いてあるのに世界有数の軍事力を誇る自衛隊が存在している。まず「前項の目的を達するため」という文面から「自衛のための陸海空軍は持っていい」との解釈がずっと人口に膾炙されてきたのだ。

 それも相手方が日本を攻撃した場合にのみ、自衛隊が出動できるという「専守防衛」が長年、憲法9条の解釈の中心にあった。

 歴史上ほとんどの戦争が「自衛」のために始められたことを忘れてはならない。そして勝った方が必ず相手方を成敗してきた歴史があることも忘れてはならない。

 安倍晋三首相は「日本人を乗せた米艦船が攻撃された場合、現在の憲法解釈では自衛隊がその相手国に対して攻撃ができないのでは困る、というようなことを言い出して集団的自衛権を認める憲法解釈を求めている。

 メディアによれば、自衛隊の幹部でさえ考えつかない「想定外」の事態なのだ。

 共同通信の世論調査によると、安倍首相が求める憲法解釈変更に51%が反対(賛成は39%)しているというニュースが5月19日に流された。

 本来、持ってはいけない自衛隊を持ち、専守防衛なら「個別的自衛権」つまり「交戦権」があるとしているのが政府の憲法解釈だが、「必要最小限」とはいえ、集団的自衛権を認めるならば、憲法9条は空文と化す。

 安倍首相が本当に集団的自衛権が必要だと判断するならば、堂々と憲法改正の手続きに入ればいい。政治家が本質を議論せず修辞学に翻弄されて終末を迎えた王朝がいかに多いか!

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このページは、伴 武澄が2014年5月19日 17:13に書いたブログ記事です。

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