2013年12月アーカイブ

Apartheid.jpg 昨年12月5日、南アフリカのマンデラ元大統領が亡くなった。人種差別に反対して、27年にわたり国家反逆罪の名の下に投獄されていた。1989年にマンデラさんが釈放され、1991年に南アが人種差別政策を撤廃したニュースに接したときは本当に信じられなかった。

 黒人も含めた大統領選挙でマンデラ氏が当選するのは当然すぎることだったが、マンデラ氏のすごさは同胞に対して、怨みに対して憎しみで返さないよう強く求めたことである。近代西欧社会の最も恥ずべき行為は人種差別を制度化したことであると思っている。

 その最も差別を受けていた国でマンデラさんは有色人種のために闘ってくれた。そして恩讐を乗り越えた愛の重要性を私たちに教えてくれたのだった。

 マンデラさんのことを我がことのように思うのは、僕が多感な少年時代に人種差別(アパルトヘイト)の南アフリカで過ごしたからである。

 大学時代だからいまから40年も前の話である。学友と政治を語ることが多かった。多くの学生は社会主義にかぶれていた。世の中の対立は資本と労働にあり、世の中の矛盾はすべてこの対立構造によって語られる風情があった。だから学生の中では、資本主義社会はいずれ社会主義に取って代わるという意識が多分にあった。

 僕は少々違う体験をしていたから社会主義にはどうしてもなじめなかった。世の中の対立がすべて、資本と労働の論理で解き明かされるほど単純なことはないと考えていた。世界にはもっと根深い差別があるのだと思っていた。

 僕が考えていたのは人種間の問題の方が階級対立よりより深いということだったが、当時、僕の心情を理解してくれる人はほとんどいなかった。

 南アで困惑したのは、差別されている日本人が同じ差別されている黒人をバカにする場面にたびたび遭遇したからだった。もちろん日本人は「名誉白人」の待遇を得ていたから、白人居住区に住むこともでき、ホテルやレストランだけでなくバスも郵便局も白人並みの扱いを受けていた。

 外交官や商社マンたちは美しい芝生を敷き詰めた広大な敷地の邸宅に住み、何人もの黒人の使用人を雇っていた。プールやテニスコートは当たり前である。気候は温暖で物価は安い。人種差別に鈍感でいられたら王侯貴族のような生活だった。

 でも学校だけは別だった。名誉白人でも公立の学校への通学は体よく断られた。当時の南アの法律ではホワイトとノンホワイトの区別しかなく、ひとたび町に出れば、名誉白人などというものは単なる「お目こぼし」にしかすぎないことはすぐに分かることとなった。

 南アでは、同じ顔をしたアジアの人種でも中国人はまた別扱いだった。ほとんどの日本人が南アで短期の滞在の外国人であったのに対して、多くの中国人はそこで生業を営む南ア人だったから、彼らは白人地区に住むことは許されていなかった。中国人たちは黒人とは違う地区だが、「隔離」された居住区にしか住むことを許されていなかった。

 そんな白人たちの身勝手な世界にどっぷり浸かって、それでも黒人ばかにする日本人というものが信じられなかった。

 1960年代、南アに支局を置く日本のマスコミはなかった。ときどきロンドンから記者が取材にやってきた。南アに数日滞在して日本人から南ア事情を聞きかじった記事が日本の新聞に掲載されることがあった。多くの記事はやはり階級史観で南アの人種差別を分析していた。

 冗談じゃないと思った。南アの人種差別はそんな単純な構造で成り立っているわけではなかった。表面的には確かに白人が資本家で、圧倒的多数の黒人が搾取される側にいた。それは間違いないことなのだが、資本家側には一人の黒人もいないのだ。弱い黒人が強い白人に支配されている。高校生だった筆者には、ただそう考える方が自然だった。

 20世紀前半までは、西欧にも白人同士でも資本家による過酷な収奪構造があった。だから当時の南アにも「プアホワイト」という貧しい白人も多くいた。だがその貧しい白人と収奪される黒人が「共闘」を組むという図式は考えられなかった。そのプアホワイトこそが南アの人種差別政策の圧倒的支持層だったのである。

 ある日、ロンドンから朝日新聞社の記者がやってきた。わが家にも一晩来て父親と話し込んでいた。高校生の筆者もその話をそばで聞いていた。難しい話をしていたのではないが、こんな日本人もいるのだと感動したことを覚えている。

「レストランに入ろうとしたら断られたんですよ。I am not Chineseと言えば入れてもらえたのでしょうが、そのひと言が言えなくて」

 その一言に僕は恥じ入った。毎日のように差別されるたびに躊躇なくその一言を発していたのだから衝撃は大きかった。僕のアジアへのこだわりはその日に始まったのかもしれない。

 今回、マンデラさんの葬儀に世界各国から元首クラスが大勢集まった。日本からは皇太子殿下が出席した。しかし、安倍晋三首相含め日本の閣僚の中で本当にマンデラさんの死を痛んでいる風情はなかった。特定秘密保護法案の行方の方が大切だったのだろう。

 その日、僕はとても悲しかった。20世紀の偉人の死を地球規模で悼んでいる時に日本だけはその埒外にいるのだと感じた。そして、寂しいことに人種差別に対して世界で一番鈍感な人種が日本人ではないかと考えた。(伴 武澄)
 船井幸雄氏のサイトで「リレーでつなぐハートの話」で「八田與一を偲ぶ台南での5月8日」を投稿した。萬晩報ですでに掲載したコラムを少しだけ書き換えたものである。
  http://www.funaiyukio.com/heart/

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uzantodam.jpg 昨年5月8日、妻と僕は夫婦で台南市にいました。
 高知から関西空港、台北桃園空港と飛び、台湾新幹線で台南市にたどり着き、一泊して電車で約30分の「隆田」まで行き、そこからタクシーで烏山頭ダムに向かいました。
 隆田から乗ったタクシーの運転手はにこにこして僕らに聞きました。

 「パッテン」
 「パッテンって、八田與一(はったよいち)のこと? 有名なの?」
 「台湾人は誰でもパッテンっていうさ」

 その日は70回目の八田與一の墓前祭でした。14年前、萬晩報に八田與一のことを書いたときから、この地を訪ねたいと思っていたのです。
  この日、台南市の烏山頭ダムのほとり、八田與一の銅像とお墓で開かれた墓前祭には700人を超える人がやってきていました。多くの花がお墓の周りに飾られ ていました。日本からはチャーター機に乗った山野之義金沢市長ら120人も参加していました。八田の故郷は金沢市だったのです。

 烏山頭 ダムは70年前、台湾総督府に勤務していた八田與一の発案で完成させた灌漑ダムで、当時世界第三位、アジア最大の貯水量を誇った土木事業でした。アメリカ が世界大恐慌からの経済刺激策として開始したTVA開発に先立つ巨大土木事業が日本の植民地で終わっていたのです。

 台南市北部の平原は 雨量はあるものの、そのまま海に流れる河川ばかりで不毛の土地でした。この地の農民の生活向上のためにこのダムは計画されたのです。八田與一の頭には植民 地もなにもなかった。貧しい農民の生活向上が第一にあった。当時のシビル・エンジニアとしてはかなり先進的な考えを持っていたといえます。この思想を涵養 (かんよう=※無理をしないでゆっくりと養い育てること)したのは高知県出身の土木技術者、広井勇でした。八田は東京帝大教授だった広井のもとで土木技術 だけではなく、国境を越えた愛の思想も併せて学んでいました。

 広井勇は札幌農学校の二期生で、新渡戸稲造、内村鑑三とともにキリスト教に受洗し、札幌農学校の三羽がらすといわれた俊才でした。アメリカ、ドイツに学び、小樽の築港工事ほか日本の土木の黎明期を担った技術者でした。
  八田與一は烏山頭ダム建設にあたり、当時の世界最新鋭の技術を惜しみなく注ぎ込みました。工事は10年続いたため、住宅だけでなく、テニス場を併設するな ど従業員、作業員の福利厚生にもつとめたそうです。また工事中、不慮の事故や病で倒れた人々を慰霊する碑を建てましたが、その時、日本人、台湾人の区別な く全員の名前を石碑に刻んだことが台湾人に大きな感銘を与えました。

 工事に感謝した村人はダム湖のほとりに八田與一の銅像をつくりまし た。最初、八田は嫌がったのですが、「どうしても」ということで「普段着の自分なら仕方ない」としぶしぶ了承しました。銅像が奇妙なポーズをとっていま す。工事現場で片膝を立てて監督するくせがあったのでその姿を銅像にしたのだそうです。
 太平洋戦争が始まり、八田與一は軍の命令でフィリピンで も同じような灌漑事業をするよう命じられましたが、フィリピン渡航中、その輸送船は米軍に攻撃され沈没します。八田の死を惜しんだ村人は銅像の後ろに墓を 建て、命日の5月8日に慰霊祭を始めたのです。その慰霊祭は1年も欠かさず続けられているというのですから、驚きです。

 終戦後、台湾に 蒋介石軍が進駐し、日本が支配した形跡を片端から排除しました。村民は八田與一の銅像に累が及ぶことを畏れて、村はずれの納屋にその銅像を隠してしまいま した。平和が戻ってから村民は何度か銅像を元に戻すことを政府に要請しましたが、その度に「まかりならぬ」という返事が返ってきました。1980年代に 入って要請した時には、なしのつぶてでした。村民は「これは消極的に戻していいことだ」と判断し、銅像は納屋からダム湖の見える高台に戻されたのです。
 ちなみに八田與一とともに埋葬されている妻、外代樹(とよき)は、終戦直後、夫のつくったダムに身を投げました。この物語も夫婦愛の絆の模範として語り継がれているのです。
  李登輝元総統は、八田與一の物語を小学校の教科書に載せるよう政府を動かし、2010年には「パッテン・ライ」という名のアニメが制作されました。翌 2011年は、ダム近くに八田與一旧宅が復元され、観光地として整備され、昨年はこの日に併せて郵政部から「八田與一記念切手」が発売されました。
  式典では蕭万長副総統が「八田與一は嘉南大圳(かなんたいしゅう)と後世の人々に讃えられ、ダムと水路は80年後の今ももくもくと仕事をしている」と挨拶 しました。山野市長はテレビのインタビューで「70年間、八田與一のために墓前祭を続けてくれている台湾の人々にお礼を言いたい。この誇らしい気持ちを金 沢の子どもたちに伝えたい」と語っていました。
 20年前、八田與一の話を『嘉南大圳の父』に 著した古川勝三氏は、1982年にこの地を訪ねた時、50人ほどの村民が墓前祭を続けていることに驚きをもって書いています。それが今年は700人を超え ました。台湾南部に住む元日本人も大勢墓前に花を手向けていました。嬉しそうに「元日本人」であることを語る人々とも多く出合い、なんとも嬉しい気持ちに させられました。
 台湾での対日感情が比較的いいのは、こんな先人がいたからなのだと実感します。昨年の5月8日、妻と僕にとって、国境を越えた大きな愛の輪がますます大きくなっていっていることに感謝と誇りを感じる1日となりました。
kochishinbun1214.jpg 12月14日の高知新聞「方丈の記 編集委員の回し書き」に「自滅する国会 葬式、出してみるか」という刺激的な長文コラムが掲載された。

 「国会の葬式」は高知県出身で元参院議員の
平野貞夫氏が言いだしたことらしい。できれば、高知市の自由民権記念館でやりたいというのだから、かなり本気であろう。

 実現すれば、絶対におもしろいと思う。明治時代、高知新聞の前身の旧高知新聞が国会開設の必要性を説き、度々発禁処分となった腹いせに「新聞の葬式」を敢行したことに踏まえたものと思われるからである。

 http://www.47news.jp/topics/diary/2007/11/post_119.php
 http://tamutamu2011.kuronowish.com/shinnbunnnosousiki.htm

 日本の民主主義の発祥地である高知ならではの発想だからよけい面白い。

 高知新聞のネットでは掲載されていないが、高知新聞が読めない他の地域の人のために、あえて、全文を転載させてもらう。
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 方丈の記 編集委員回し書き

 自滅する国会 葬式、出してみるか

 誰も覚えてはいないだろう。高知2区選出の中谷元衆院議員が、あの時どうして防衛庁長官を退かねばならなかったかを。

 防衛庁はとんでもないことをやっていた。情報公開請求者の氏名、職業、会社名などを調べ上げてリストを作り、庁内の情報通信網に載せて共有していた。個 人情報たらい回しの、市民敵視とも言える在り方だ。最初は個人の担当者レベルでやっていただけと説明したが、後になって組織ぐるみだったと認めている。

 この問題で野党が攻勢をかけ、ときの小泉政権が成立を期していた有事関連法案などの目算が立たなくなった。弱った小泉純一郎首相は、内閣改造で防衛庁長官の首をすげ替える。中谷長官は詰め腹を切らされたわけだ。

 官僚は組織防衛に走る。時には組織のトップである政治家のはしごも外して。退任時、正面玄関で見送られた中谷長官は「涙が止まらなかった」と当時の記事 にはある。無念をかみしめただろうに、時を置いて特定秘密保護法制定では、特別委員会の与党筆頭理事として先頭に立った。

 成立させたこの法は、秘密の指定も提供も結局は官僚の胸三寸という代物だ。権限は「行政機関の長」に委ねてある。官僚にしてみれば、政治化の「長」をたらし込むことくらい、わけないであろう。

 保護法で官僚組織には情報の独占的支配というビッグプレゼントが手渡された。元防衛庁長官はよほどのお人好しなのか、それとも米国の意に沿うことが最優先なのか。ちょっと測りかねる。

 特定秘密保護法には、行政府(内閣)が立法府(国会)をおとしめる要素が埋め込まれている。
 関係する部分は「特定秘密の提供」について規定した第三章(6~10条)。行政機関同士(6条)、警察庁と都道府県警(7条)、行政機関と民間事業者 (8条)、行政機関と外国政府・国際機関(9条)ときて、最後の10条でやっと国会が出てくる。それも「その他」の扱いで。

 しかも政府原案では、秘密は「提供できるものとする」、秘密の保護措置(漏えい防止策)は「政令で定める」と有無を言わさぬ仕様になっていた。

 ここまで国権の最高機関である国会がこけにされ、さらに行政の監視という議員活動そのものが懲役刑の対象になるような法など聞いたことがない。

 さすがにこれはよろしくないと衆院議長が渋面をしたらしい。秘密は「提供するものとする」、保護措置は「国会において...必要な措置を講ずる」と修正され た。が、国会が今後いくら形を整えようが、あくまで秘密の鍵は「行政機関の長」が握っている。その長さえ、警察庁などを除けば、せいぜい3年で交代する政治家だ。こんな仕組みで「政」が「官」をコントロールできるはずがない。官僚組織を甘くみてはいけない。

 そこのところの危機感が自民、公明の与党や賛成した議員からまったく見受けられないのはどうしたわけか。

 自民党内の人材払底、真正野党勢力の貧弱化...いろいろ思いつくが、国会議員の劣化。これが深刻だ。だから本当に危ない。官僚組織の思うつぼではないか。

 (あっ、そうか。政治家のレベルがこんな具合だから、ここでこんな法案を出してきたのか...)
「こんなひどい法を成立させるようなら、議会政治は自滅。葬式だよ」と法の成立前に憂えていたのは、本県選出の参院議員たった平野貞夫氏。長く衆院事務局 にて「憲政の常道」を知る根っからの議会人だが、自由党在籍時に公明党を「自自公」の枠組みで政権与党の座に引き入れた仕掛け人でもある。

 その贖罪意識でもあるのか、戦前の治安維持法を持ち出して今の公明党の変わりようを嘆く。
 《公明党の支持母体・創価学会の初代会長、牧口常三郎は治安維持法違反で捕され、獄中死している。2代目の戸田城聖も投獄されていた。なのに...》

 こんなことをあえて持ち出すのも、今の公明党が政権の魔力に魅入られた。"下の鼻緒"にしか映らないからだろう。

 「国会の自殺(行為)」
 特定秘密保護法を成立させた国会を指してこう評する向きが少なくない。平野氏は「違憲国会の葬式」を挙行したいと考えている。地元高知で、それもできれば自由民権記念館でやりたい、と。本気で。

 自由民権運動は1874(明治7)年、「板垣退助や後藤象二郎たちが民撰議院設立の建白書を提出したのが起点とされる。第1回帝国議会が開かれたのは16年後の90(同23)年11月。その間、民権派は薩長藩閥政府による激しい弾圧や懐柔と闘い続けた。

 それからこの国の議会政治は123年の時を刻んできたが、この間に国会は一度、大きく姿を変えた。昭和の戦時体制下。大半の政党が大政翼賛会に合流し、 衆院は8割超を大政翼賛会推薦議員が占めた。国会は軍事予算などを追認するだけ。ほとんど戦争遂行の補助協力機関と化した。抵抗を貫いた議員もいるにはい たが、立法府としては死んだも同然だった。

 ところが、今は戦時体制でもないのに、治安維持法まがいの法制度に国会が進んで手を貸している。世が世なら倒閣連動が広がり、こんな「違憲国会」は解散を迫られたに違いない。

 自由民権運動の理論的指導者たった中江兆民や植木枝盛たち。泉下にいる彼等デモクラシーの先人たちの悲憤慷慨はどれほどか、と想像してみる。あまりにシリアスな問題には滑稽の精神も要る。まずは「違憲国会」の葬式でも出してみるか。(須賀仁嗣)

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 安倍内閣の支持率が高いのはアベノミクスのおかげで契機が回復基調にあるからだと思われているが、本当のところはそうではない。中国や韓国が日本に対して反日攻勢をかけてきていることに対して「毅然と対処」していることが国民の溜飲を下げているだけではないか。秘かに僕はそう思っている。しかし、これは国際政治から見れば極めて危険な徴候なのである。

 そもそも、リーマンショックに続く、2011年の東日本大震災で日本経済が大打撃を受けた。それから2年経って、経済が自律的に反転しただけのことである。もちろん日銀によるとどめもない「日銀券の大量印刷」によって円の価値が低下し円安が起きた効果も小さくないが、それは円ベースで見た錯覚でしかない。よく考えてほしい。円が安くなった分、ドルベースでのGDPは縮小しているのである。民主党政権時代と比較して目の子で20%程度縮小しているはずである。

 僕の20年の経済取材の経験からいえば、インフレを起こすには金利を上げるしかないと考えてきた。もちろん通貨の流動性を高めることによってインフレを起こすことも可能であるが。それを可能にするには、まず金利が数%以上あることが必須条件である。

企業の投資マインドは金利動向に極めて敏感であるから、お金がジャブジャブになっても金利が下がらなければ、誰も借りようとしないはず。金利ゼロのままで流動性を高めてもそれ以上に金利が下がることはないから効き目が極めて小さいということである。

もう一つ、日銀が市場にお金を放出しても、銀行が企業に貸し出しを抑えればまた意味のないことが起きる。日銀が出した資金はそのままそっくり国債消化の資金として消えてなくなってしまう。そもそも上場企業は70兆円を超える資金を内部留保として貯め込んでおり、投資資金はすでに潤沢に持っているのだから、日銀マネーに期待するところはほとんどないはずである。

市場が必要としないお金を潤沢に放出する意味はどこにあるのだろうか。まずは円安効果である。確かに輸出企業の業績は向上する。だが、賃金を上げない、配当を上げない日本企業は内部留保を積み増すばかりとなる。

結果、何が起きるか。その潤沢な資金は財政に廻るのである。つまり国債購入の原資となる。巡りめぐって財政はどんなに国債を発行しても金利が上がらないという不健全な経済を形成してしまう。この10年来、まさに政府と日銀がやってきてことである。

本来、借金自体、健全な財政運用ではない。財政法4条に建設国債以外は発行してはならないと書いてある。毎年々々、特例国債法を制定しなければならないこの国の事情がそこらにある。だが、どの国でも借金しなければ財政が廻らないという状況で国の借金を否定しても始まらない。

本来はギリシャのように借金を積み重ねれば金利が高騰して、経済が破綻し、国家財政そのものも破滅するのが正常な経済の動きなのである。日本の財政が破綻しないのは借金額が大きくても「国民の金」で賄っているからだという主張は確かに正しい。

だが、半面、日銀がゼロ金利政策を続けしかも資金を大量に市場に放出しているから「金利が上がらない」ために破綻していないに過ぎない。日銀は現在の金融政策を一切やめたとたんに、国債の金利が急上昇することは専門家であれば誰も知っていることである。

そんな単純なことを専門家たちがほとんど口にしないのはなぜなのか。僕は知らない。

 特定秘密保護法が6日成立した。昨夜、法案が参院で成立した時、安倍晋三首相がみせた笑顔は不気味だった。有権者は必ず安倍政権を選択したことに禍根を遺すであろう。

 この法律の危険性についてはすでに書いたのでもう書かない。いずれにせよ施行は1年後だ。僕としては次の総選挙で自民党政権を倒し、この法律を廃止に持ち込む政権を樹立させなければならないと強く感じている。

 法律は一度できたら永遠ではない。廃止できるのだという期待を持ちたい。この法律だけは「のど元過ぎれば」では困る。経済対策や増税問題とは異質であることを思えておこう。

 そもそも安倍政権が誕生したのは、1年前。野田首相が安倍晋三氏との党首会談で選挙制度の改革を「やろうじゃないですか。この場で確約してくれれば、すぐにでも解散します」とのたもうた。そこで「やります」と国民の前で啖呵を切ったのも安倍氏だった。

 だから自民党政権が本来、まっさきに手をつけるべきことは選挙制度の改革だったはずである。にもかかわらず、通常国会でも今回の臨時国会でも自民党は選挙制度に手をつけようとしていない。ここらを有権者はちゃんと思い出すべきである。

 特定秘密保護法は誰が書いたのか分からない、ぬえのような法律である。本当に重要な法律ならば、長い審議期間がある通常国会で議論すべき問題である。

 これまで国の基本政策となるような問題は新年度の4月ごろに問題提起され、学識経験者を含めた審議会で議論し、その答申を得て、年末に大綱が出来上がり、次の年の通常国会に法案として上程されるというのが常道だったはずである。

 それが今回は降って湧いたように上程されたのである。

 自民党がインテリジェンス・秘密保全等検討プロジェクトチームを発足させたのが、8月27日。9月3日にはこのプロジェクトチームが「法案を大筋合意」している。たった1週間である。さらに10月9日にはインテリジェンス・秘密保全等検討プロジェクトチーム・内閣部会・法務部会・外交部会・国防部会合同会議が法律案を了承した。法案は10月25日、閣議決定され、年末の予算編成までに何が何でも成立させなければならないというのだから、そもそもおかしな話だったのである。
 船井幸雄氏のサイトで「リレーでつなぐハートの話」で「スコットランドでの賀川豊彦再発見」を投稿した。萬晩報ですでに掲載したコラムを少しだけ書き換えたものである。
  http://www.funaiyukio.com/heart/
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 2004年6月、スコットランドのグラスゴーを訪ねました。その2ヵ月前、「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞きました。
 賀川が世界的に知られた人物だということは書物で読んでいましたが、正直言って賀川の信奉者たちが針小棒大に伝えてきた伝説でしかないと思っていました。

 スコットランドのその牧師さんが70歳を超えて病身であるということで、ぜひとも会っておかなければ悔いが残ると思ったのです。
 そのアームストロング氏とはすぐに連絡がとれて、グラスゴー大学の研究室で会いました。
 アームストロング氏は1933年生まれの71歳。温厚な 面持ちに加え、芯の強さを感じさせる信念の人のように思えました。グラスゴー大学を卒業後、新聞社に勤めましたが、牧師になりたいという意志でス コットランド・バプテスト神学校に入り直し、牧師になったという経歴の持ち主です。

 アームストロング氏は賀川との出会いから話し始めました。

 「いささか不思議な出会いでした。その出会いによって、たちまち私は賀川から多大な影響を受けるようになり、60年たった今でもそれは続いています。
 11歳の頃、鼠蹊(そけい)部の腫れ物が膿瘍に悪化する疑いがあって安静にしていた時のことでした。退屈しのぎに私は一冊の本を手にしたのですが、この本が私を賀川という偉大なキリスト教徒に巡り合わせてくれたのです。
 まずその本の背に縦書きされていた『Kagawa』というタイトルに好奇心をそそられました。それはウイリアム・アキシリングという人が書いた賀川の伝記でした。」

 アキシリングによる賀川の伝記の初版本が出版されたのは1932年です。
 賀川はまだ44歳。そんな年齢の人物が伝記に書かれることすら稀有なことです。しかも外国人の手によって書かれたのだからなおさら驚かされます。それほどまでに賀川豊彦という人物が世界の人々をひきつけたということでしょう。
 この『Kagawa』は英語の他、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スカンジナビア語、トルコ語、スペイン語、インドの方言、中国語に翻訳されました。
 アキシリング氏は、1873年、アメリカ中西部のネブラスカ州オハマ市に生まれ、28歳の時、宣教師として日本にわたり、終生、日本での伝道と社会福祉事業に尽くした人物です。
 その日本で出合ったのが、キリストの弟子として貧民救済にあたっていた賀川豊彦でした。太平洋戦争時は、浦和の収容所に入れられ、日本の官憲から言語に絶する取り扱いを受けたにもかかわらず、戦後も日本を離れず、日本の底辺の人々のために尽くしました。
 日本が満州事変を起こして、国際連盟から脱退したその同じ時期に、日本の聖人の物語が世界の主要言語のほとんどで翻訳され、地球規模の共感と感動を得ていたのです。今となっては不思議な感傷を抱かざるを得ません。

 スコットランドのアームストロング牧師に戻りたい。『Kagawa』を読んで病身の少年アームストロングは震えるような喜びに浸ったといいます。極東の小さな国で生まれた一人の伝道者の生き様に出合い、魂を揺さぶられたというのです。

 「こういう人間がいるんだ。自分もぜひこういう人間になりたいと思った。それで僕は牧師になった。」

 当時は日本とイギリスは戦争状態でした。そんな時、一人のイギリスの少年の心を動かした日本人がいたのです。
 「クリスチャンである賀川の本質は私の心を強く打ち、もはや彼の国籍など問題ではありませんでした。賀川の伝記は読む者の心を捕らえて離さず、少年時代の私の想像力に大きな影響を与えました。」

 アームストロング氏は賀川豊彦を語り出すと若さを取り戻すそうです。こんな話もしました。
 「彼の人生はその祈りの実現のために費やされました。長老派の神学校に学んだ後、神戸の新川貧民窟で生活しながら、路端伝道をすることになりました。そこに暮らす労働者たちの生活状態は劣悪で、路地は舗装されておらず、そこに並ぶ家屋はそれぞれわずか畳二畳程度しかありませんでした。衛生状態もひどく、不潔になって病気が発生しました。そこはまた犯罪や売春の温床でもあったのです。」

 「学生伝道者として何度もそこを訪れたことがあった賀川は、神の愛について語るだけでは不十分だ、貧民窟の住人と一体化して問題を解決する、という実践的手段をとることを通じて神の愛は現されるべきだ、と思ったのです。
 その結果、賀川は住む場所のない人には住まいを提供し、病人を引き取っては看病を施したのです。彼が住まわせていた人々の中には、殺人を犯してしまい、賀川の手を握っていないと眠りにつけない、という男もいました。」

 「『貧民窟の生活を見ている時、社会の病弊がわかる』という彼の発言は、誠に深い洞察です。貧民窟における状況(労働条件、乳児死亡率、病気、売春)は、すべて相互に連結しあっている、ということに賀川は気づいていました。都市部の人口過剰により、人々は行き場を失い、貧民窟へと流れました。それはまた小作農の状況とも関係していました。彼がこれらの問題をどれほど真剣にとらえ、その答を見つけることにどれほど心血を注いだかは、後に彼がアメリカヘ行って、自分が経験したり見聞したりしたことの社会学的、経済学的意味を研究した、という事実をみればわかります。」

 アームストロング氏は「昨日来ればよかったのに」と惜しんでくれました。
 私がグラスゴーに着いた前日の6月5日にグラスゴー大学で「Kagawa Revisited (賀川再訪)」と題したシンポジウムを開いていたのです。実はシンポジウム参加を目指したのですが、仕事の関係で間に合いませんでした。
 アームストロング氏は1949-1950年に賀川豊彦が、イギリス各地で行った講演やその講演を聞いた英国人の話、当時の新聞報道等について講演するため、40人以上の人から精力的に取材をしていました。
 シンポジウムには40人ぐらいしか集まらなかったと言っていたが、それだけ集まるだけでも驚きでした。しかも場所はグラスゴー大学です。賀川にゆかりのある人、生前に会ったことがある人、あるいは賀川から影響を受けた人に対して、インターネットやキリスト教の新聞を通じて呼びかけると、100人近くから反応があったそうです。

 一番私が感動したのは、ある老齢の女性の話でした。看護婦さんで修道女として若いころ仕事をしていた時、グラスゴーに賀川が来ました。1950年のイギリス訪問時のはずです。
 彼女は修道院で草取りをしていました。
 「そうしたら賀川がつかつかと寄ってきて、私の手をにぎって『ごくろうさん』とか何か言ってくれた。そのことがずっと私の思い出になった。」
 「あの大賀川に手を握ってもらった」という話をそのシンポジウムでしたらしい。ほとんど神様のように語っていたというのです。

 賀川がイギリスを訪問した当時の新聞を調べると、スコットランドの新聞に「Kagawa Returns」という見出しで賀川の記事が掲載されていました。「もう一度来た」ということ。その前の訪英は、1936年だからその14年前である。新聞記者たちが覚えていて見出しを「賀川リターンズ」にしたに違いない。「おお、すごいな」「戻ってきてくれた」ということなのです。 

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