甦える英雄チャンドラ・ボース墜落死の謎 柳田邦男

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  甦える英雄チャンドラ・ボース墜落死の謎

      週刊文春1975年7月11日号 柳田邦男

225px-Subhas_Bose.jpg 古い書類を整理していたら40年近く前の週刊文春の切り抜き記事が出て来た。航空評論家の柳田邦男氏が書いた「甦える英雄チャンドラ・ボース墜落死の謎」という記事だった。大学生のころ、チャンドラ・ボースを調べ始めたころだと思う。今読むとなんの変哲も無い記事ではあるが、チャンドラ・ボースを取り上げるメデイアがほとんどない中で探し当てた貴重な資料だった。思い切って電子化することにした。以下はその記事である。

  ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 戦後すっかり遠い国になってしまったインドの国の政治ニュースが、六月の末めずらしく日本の新聞のトップ記事になった。選挙違反事件で有罪判決を受け、退陣要求をつきつけられていたガンジー首相が、逆に居直った形で非常事態宣言を発動し、実に九百人を越える野党指導昔を一斉に逮捕したというのだ。
 私がここに書こうと思うのは、そうしたインドの政治情勢に関するニュース解説ではもちろんない。私の頭の中でこの半年ほどくすぶり続けていたある関心事が、インドの政治危機のニュースに刺激されてにわかに鎌首をもたげ、私を取材に走らせた。そのことについて書こうと思うのである。
 ある関心事とは、インド独立史の中で未完の英雄といわれ、あるいは永遠の愛国者と記されているチャンドラ・ボースが実は生きているという奇妙な話のことだ。その話をテレビのニュースで聞いたのは、今年の一月末だったと思う。そのニュースは、「戦後三十年にしてようやくデリーにボースや讃える銅像が建てられ、盛大な除幕式が行なわれたが、同じ日インドのある町では、ボースが現われるといううわさが流れ、十万人が集まる騒ぎにまて発展するなど、インドの人々の間にはいまなおホースを慕い、ボースの生存を信じている人が多い」という内容であった。
 私が聞き耳を立てたのは、戦後三十年も経って十万人もの人々を動員する"ボース生存説"とは何だろう、という点であった。たしかボースは終戦直後に台湾で飛行機事故で死亡したはずである。にもかかわらずインドでは生きていると信じられているとは、どういうことなのか。(續)
 私は詳しい事情が知りたくなって、ニューデリーにいる友人Nに手紙を書いた。
 もっとも、Nに手紙を出した理由には、飛行機事故を聞くとその原因や背景を調べたくなる私の性癖がからんでいたことも、正直なところある。要人の墜落死というものは、一見偶発的に見えても、よく調べてみると、やはりその時代ならではの背景を持っているものである。山本五十六、ハマーショルド、林彪...等々、歴史の節目に起こった墜落死はすくなくない。そうした中に、ボースの事故死もあるのだと思うと、私は益々事故の真相を訓べたくなったのだった。
 チャンドラ・ボースといっても、戦後の若い世代にとっては耳にしたこともない名前であるかも知れない。そこでまずボースという人物について理解してもらうために、当時日本軍の対印工作機関だったF機関長の藤原岩市氏(現・藤原アジア研究所所長)の回想を紹介する。
 「ボースさんが日本に潜行して来たのは昭和十八年の五月でした。ボースさんはそれまでヒトラーを頼ってベルリンにいたのですが、ドイツはヨーロッパ戦線で手いっぱいで相手にしてくれないものだから、日本を頼って来たのです。Uボートと伊号潜水艦を乗り継いでの文字通りの潜行で、東京に着いたことは本人の希望で極秘にされていました。というのはインドの反英闘争の指導者だったボースさんと支持者たちの動静は連合国側から厳しくマークされていたからです――」
 ボースはもともとはガンジー翁の率いる「国民会議派」に所属し、その議長までもつとめたが、一九四〇年(昭15)非暴力主義のガンジー翁と対立して脱党し、インド国民に対し反英独立闘争に立ち上がるよう呼びかけた。で、日本に来てからどうしたか、藤原氏が続ける。

   生存説をめぐり数年来の大論争

「ボースさんはその堂々たる体躯と信念に満ちた熱弁で、たちまち日本の指導者たちの信頼を集めましてね、日本へ来てニカ月後の十八年七月、東条首相のバック・アップを受けてシンガポールへ飛び、そこでインド国民軍(INA)を結成し、その最高司令官としてはじめて内外に存在を明らかにしたのですよ。
 翌十九年三月インパール作戦が開始されたとき、ッボースさんは、インド国民軍を率いて参加し、日本軍とともに英印軍と戦った。そして祖国の一角インパールの南にあるモイランという村に、はじめて独立の旗を立てたものです。
 昭和二十年八月十五日の終戦の日に、ボースさんはシンガポールにいたのですが、独立戦争への情熱は変らず、今度はソ連の力を借りたいから満州まで飛行機を出してくれというのです。終戦の翌日には部下を連れて日本軍の南方軍総司令部のあったサイゴンに飛び、総司令官の寺内元帥に頼んだのです。たまたまサイゴンから四手井綱正中将が関東軍参謀副長として大連に急ぎ赴任することになったので、寺内元帥はボースさんにその飛行機で行くよう許可したということです。それでサイゴンを発って大連に向う途中、終戦三日後の八月十八日台北で事故に遭ったのですよ」
 さて、インドの友人Nからの返事は、その書き出しからして私の興味を一段とそそるものであった。
「ボースの生死については、インドではグレート・コントラバーシィ(大論争)とまで、いわれ、政府が調査委員会に委嘱して、ボースの死を再確認させたほどです。去年の夏発表されたその報告書は入手できませんが、ボースに関る最近の本と新聞の切り抜きを送ります。訪問の見出しに"Netaji"とあるのは、ボースのことです。ネタージとは、頭領、偉大なる指導者の意味です」
 同封された大量の新聞の切り抜きは、最近二年ほどのもので、「グレート・コントラバーシィ」といわれるだけの騒ぎようが生き生きと伝わってくる紙面だった。それによると、調査委員会は元パンジャブ高裁主席判事のG・D・コスラ氏が全権を持つ一人委員会(もちろん数人の調査官はいる)で、一九七〇年に発足し、インド国内をはじめ日本や台湾にまで足をのばして、七三年末まで二百二十四人に上る証人を調べた。ところが、やっかいなことにこのコスラ委員会を補佐する政府機関の顧問弁護士が、証言調書の信用性などについていろいろ疑問を投かけたり、国会議員がボース生存説を唱えたりして、騒ぎの材料を世間に提供たのである。
 例えば――。
 ▽顧問弁護士E G・ムコーティ氏によれば、ネタージは戦後インドシナに逃げ、台湾での飛行機事故にはまきこまれなかったという証言がある。その証言によれば、事故があった一九四五年八月十八日よりずっと後で、ネタージはインドシナでアメリカの特派員に目撃されているという。(74・1・30付ビンドスタン・タイムズ)
 ▽G・ムコーティ氏は、「ネタージは終戦の二、三カ月前、蒋介石やホー・チーミンと接触しており、中華民国から隠れ家の約束を与えられていた」と語った。(74・2・2付マザー・ランド紙)
 ▽G・ムコーテイ氏によれば、台北での飛行機事故は英米をあざむくために、もっともらしくでっちあげられたものである。(74・2・9付インディアン・エクスプレス紙)
 ▽国会議員のS・グハ教授(野党・社会党)は、コスラ委員会の報告書の議会提出を前に、「台北での飛行機事故の物語りは正しいものではない。ネタージはいまでも生きている」と語った。(74・7・26付インディアン・エクスプレス紙)

   離陸直後にエンジンから火が出た

 このような喧噪の中で、コスラ委員会は、七四年九月三日議会に「ボースは死亡した。ポーズ生存説は偽りのものである」とする報告書を提出したが、これに反論する意見はその後も後を絶たず、ついに今年一月にはボース出現のうわさで、十万人が集まるさわぎにまで発展したのだった。
 たしかにインド側の新聞を読む限りでは、ボースの死を確認する客観的記録は何もない。台北での飛行機事故には何となく不確かなところがある。どうも後味の悪い話である。私はNからの資料を読むうちに自分の目と耳でしっかりと確認したくなってきた。
 しかし、三十年も前の事件なので、事故の再現などできるものか、はじめは自信がなかったが、軍関係の収材で便利だったことは、「陸十第○期生名簿」といったものがよく整備されていて、生き証人を探し出すことが案外に容易だったことだ。問題の台北での墜落機に乗っていた四手井中将は、その事故で即死し、「昭和二十年八月十八日、台北飛行場で戦死」の戦死公報が出ている。生存者で事情をいちばんよく知っているのは、当時第七飛行師団参謀で事故機の機長の任務についていた野々垣四郎中佐(現・東京都在住)だということがわかった。野々垣氏は健在で、貿易会社の役員をしていた。
「あの飛行機に乗ったのは、全部で十三人で、このうち二人がインド人、つまりボースさんと副官のラーマンという人でした。ボースさんはできるだけ多くのインド国民軍の幹部を連れて行こうとしたのですが、とても乗せられないので、とりあえず二人で我慢してもらい、あとの方々は次の飛行機が出るまで待ってもらうことにしたのです」
 ――で、みなさん機内ではどのような配置で坐ったのですか?
「機種は、九七―二式重爆でしたから、操縦者以外は床にあぐらをかいて坐りました。操縦桿を握ったのは、主操縦席の青柳准尉と副操縦席の滝沢中佐の二人で、副機長格の河野太郎少佐がすぐうしろでにらみをきかせていました。
 操縦要員以外の人たちは、まず四手井中将にいちばん前に坐ってもらいました。機内中央部右窓際にある増加タンクのすぐ前で、割合ゆったり坐れるところです。次は増加タンク横の通路のようなところに、ボースさんとラーマン副官の席をとりました。足を自由にのばせるところがよかろうというので、そこを提供したのです。私を含めてほかの者は、増加タンクの後ろの方に陣取りました。
 サイゴンを出たのが、十七日の午後五時頃。その晩はツーロンに一泊して、翌十八日ツーロンから六時間位飛び続けて、正午頃台北の松山飛行場へ着きました。給油して松山飛行場を離陸したのが、午後二時頃だった。
 事故は離陸直後に発生したのです。
 ああ浮いたな、と思ったら、急に右旋回するような形で機首を下げて落ちはじめた。高度は十メートルか二十メートル位だった。大きな衝撃があって、はっと気がつくと空が見えている。丁度胴体が真二つに割れたところにいたのですよ。ほかの者はどうなっているのかわからなかったが、エンジンから火が吹き出しているので、はさまれていた飛行靴から足を抜いて、はだしで逃げ出しました」
 ――そのときボースさんがどうしていたか覚えていませんか?
「私はとっさに近くの砂利山の陰にかくれたので、出火直後のことはわかりませんが、しばらくして出て行くと、ボースさんは全身火傷で、はだかになっており、かけつけたプロペラ始動車にそのまま乗せて病院に運びました。後で聞いてわかったのですが、ボースさんは毛糸のジャケツを着ていて、それに増加タンクのガソリンをあびたため、なかなか脱げずに火傷をひどくしたのでした。これについては、私はすまないことをしたなという気持を持っているのです。というのは、松山飛行場を出る前、ボースさんがどれ位の高度を飛ぶのかと聞くから、四千メートルで行くといったところ、ボースさんはその高度で大連まで行くとなると寒いだろうといって、毛糸のジャケツを着込んだのですよ。増加タンクの横に坐ってもらったのも、高度を教えたのも、親切のつもりだったのですが、結果は逆になってしまいました」
 ――墜落の原因は何だったのですか?
「私は、操縦席を見ていたわけではありませんが、プロペラが飛んだのだと思う。そのことは前の方に坐っていた河野君が詳しい。ともかく事故がプロペラのピッチを変えた瞬間に起こったことは、私にもわかりました。九七式重爆はフランスの特許だった可変ピッチのプロペラをはじめて導入した飛行機でした。可変ピッチというのは、離陸するまでは浮力を大きくするために羽根の掻き(角度)を深くし、浮上すると今度は速度を出すために掻きを浅くする、というぐあいにプロペラの角度を操縦席から調節できるこ
とをいいます。ところが、プロペラを回転させながらピッチを変えるとき、当然のことながらプロペラに負担がかかる。台北での事故はピッチ変換時のプロペラ故障に違いない」
 事故機が昭和何年に製作された何号機であるか、という資料はない。ともかく『太平洋戦争日本陸軍機』(酣燈社)によれば、三菱製九七式重爆が実践に配備されたのは昭和十三年からで、初期の九七―二式と改造型の九七―二式とで計二千五十四機も生産され、中国大陸やマレー・ビルマ作戦などで盛んに使われたが、太平洋戦争後期には旧式化して敵の戦闘機に対抗できず、殆ど後方支援にまわされた。
 昭和二十年五月斬りこみ隊を乗せて沖繩の米軍基地に強行着陸した特攻作戦は、九七式重爆の最後の戦闘たった。
 墜落後、台湾の日本軍は事故調査などをきちんとやったのだろうか。台湾軍航空参謀だった渋谷正成氏(現・宮城県在住)によれば、「飛行場大隊はボースが軍資金として持って行こうとした財宝類をしばらく保管した程度で、事故原因の調査などやらなかったと思う。台湾の部隊の飛行機はではありませんでしたからね」という。
 また台湾憲兵隊指令部の高級部員だった高宮広冶氏(現・群馬県沼田市在住)も、「あの種の事故は戦闘行動の一つとして扱われますから、憲兵隊は動きません。戦闘行動となると原因調査などやらないのが普通です」と語る。

 "真相"を語る台北在住の証言者

 つまり、台湾方面軍による公式な事故調査は行なわれず、従って記録も残されなかったと判断してよさそうである。
 やはり、野々垣氏が「プロペラのことは河野君が詳しい」といった河野太郎少佐の話を聞くほかに、事故原因を明らかにする方法はないようだ。河野氏は、当時野々川氏とともに第七飛行師団の参謀をしていたが、現在は台北市内で貿易商を経営していることがわかった。事故現場を訪ねて河野氏の話を聞けるということは、願ってもないことだった。
 私は、台北に飛ぶ前に、防衛庁戦史家で終戦当時の台北の飛行場の地図がないかどうか詞べた。当時の地図そのものはなかったが、戦後、関係者が記憶に従って台北付近のに万分の一の地図上に飛行場の位置を画きこんだ資料があった。それによると、当時台北市の周辺には秘匿用滑走路も含めて滑走路が四力所に作られていたが、主要滑走路は現在の台北国際空港と同じ位置にある幅百五十メートル、長さ千五百メートルのものであった。幅が広いのは、重爆三機が同時に編隊で離陸できるようにするためであった。九七式重爆には問題のない滑走路である。
 台北に飛んだのは七月一日、私にははじめての台湾訪問だった。台北の空は曇りだったが、着陸前に雲の切れ間から滑走路がよく見ることができた。滑走路はジェット機用に長くはなっていたが、市北部の基隆河の近くに東西にのびている形は、三十年前の地図上のものと殆ど変りはなかった。
 河野氏とは事前に電話連絡をしておいたので、すぐに会うことができた。河野氏は、「あの時の滑走路は、現在の空港と同じところで、墜落したのは滑走路の東端のすぐ傍です。現場をよく覚えていますから、一緒に行ってみましょう」と言った。
「滑走路の端の右手の方に当時砂利が積んでありましてね、墜落機はまずその砂利の土手に右主翼をひっかけたのです。私もガソリンをかぶって身体に火がついたので、転がりまわって火を消しました」
 そういって現場を指差す河野さんの手は、いまだに火傷の跡が残っていた。
「私が坐っていたのは左主翼の付け根のところの窓際でしたから、左エンジンの方をよく見ることができる位置でした。離陸したとたんに、すごい震動がしたので、おかしいと思って外を見ると、今度は激しい音がして左エンジンがなくなって、翼に穴がおいていたのです。私はとっさにプロペラが飛んで、エンジンが落ちたのだなと思いました。九七式重爆のプロペラは三枚羽根でしたから、そのうち一枚でも破損すると、回転のバランスがくずれて、激しい震動が発生します。エンジンは五百五十キロもの重量がありますから、激しい震動が起これば、取り付け部に力が集中して脱落してしまいます。その一連の現象が起こったのです。
 高度は二十メートルか三十メートルだったでしょう。こういうときは出火を防ぐためにエンジンのスイッチをすぐに切らなければいけないのですが、九七式重爆のエンジン・スイッチは、操縦席正面上手の天井際にあって、相当に手をのばさないと届かない。操縦席の青柳准尉も滝沢少佐も、後ろの私も、みなスイッチに手をのばそうとするのですが、左エンジンを失って左側が軽くなった事故機は、右へ傾いて加速しながら墜落していくので、どうしても手が届かないのです。
 私の頭の中には、こどものころ川に落ちたことや柿の木から落ちて骨折したことなど、どういうわけか落ちたことばかりが走馬灯のように浮んできました。
 私は顔にも火傷を負って一時的に目が見えなくなってしまったので、ボースさんの姿は見ていません。最初連れて行かれた病院は、ボースさんと同じ台北陸軍病院南門分院でしたが、その夜か次の日かに別の病院に移されるとき、ボースさんは亡くなったという話を聞きました」

 「身体全体がいぶし銀でした」

 ――プロペラの調子が悪いという事前のきざしは何かなかったのですか?
「これは後になって帰国してから同期の参謀に聞いてわかったことなのですが、あの飛行機は以前サイゴンでオーバーランして、逆立ちし、左のプロペラ三枚のうち二枚まで、先端を十センチから十五センチのところを曲げたことのある前科者だったのです。しかも戦争末期で部品がないものだから、金槌でたたいてのばして使っていたのですよ。
 台北を離陸する前に、エンジンを試運転させて、下で見ていたら、どうも変な振動がするので、エンジンを止めて点検したのですが、異常は発見できなかった。あのときプロペラに前科があることがわかっていたら、もっとよく調べてぃたでしょう」

 ――荷物を積み過ぎて、プロペラに負担をかけたということはありませんか?
「サイゴンを出るときには、飛行機が重過ぎて、滑走路ぎりぎりまで行ってやっと離陸できたほどでしたね。どうしてそんなに重いのか、ツーロンに着いてから調べたら、弾倉に誰が隠したのか洋酒や高級服地などがぎっしりつまっているじゃありませんか。全部降ろして現地の兵隊たちにやってしまった。
 それでもボースさんの財宝を入れたケースニ箱を含めてまだ重量はかなりありましたね。それから主操縦者の青柳君には、離陸時にエンジンの回転数を許容限界以上にオーバーさせるくせがあった。サイゴン出るときにも飛行機が重くてなかなか浮き上がらないものだから、最大許容回転数の毎分三千三百回転をオーバーさせて三千五百回転にも上げていたので、後ろから注意したのです。こんな無理な回転をさせると、プロペラが曲って、ついには吹きとんでしまうのですよ。ところが、台北を離陸するとき青柳君はまた回転数をオーバーさせたので、これはいかんと思っているうちに離陸して、異常事態が発生してしまった」
 ――操縦席の二人は?
「副操縦席の滝沢君は即死、主操縦席の青柳君は全身火傷で三週間後に発狂状態で死にました。亡くなったのは、四手井中将とボースさんと、全部で四名、あとは重軽傷でした」
 墜落原因は、河野氏の証言で疑う余地もないほどはっきりした。残るのは、ボースの死の確認だけである。ボースの死に立ち合ったのは、台北陸軍病院南門分院の吉見胤軍医大尉で、現在宮崎県下で開業医をしている。
「運ばれて来た負傷者を見ると、全身火傷をしていて、髪の色は一本も残っていなかった。衣服に火が燃え移ったらしく、すっかり脱がされて、丸裸でしたよ。身体は全体がいぶし銀色で、一目でこれは助からないと察せられた。
 十数人の日本人将校がやって来て、その中の参謀から、『大事な人だから......』といわれたので、広い一般外科病室の一角をついたてで仕切って治療にあたりました。その段階ではまだチャンドラ・ボースとは聞かされなかったのです。
 私はインド語を知らないから、ボースさんが何をしゃべったのかはわかりませんでしたが、『ミジュ、ミジュ』と、日本語で水をとても欲しかっていたのを覚えています。水を飲ませてやると、しばらく目をつむって静かにしている。苦しさにじっと耐えているようでしたね。
 亡くなったのは、その日の午後十一時四十分頃でした。彼の傍にいたのは、私のほかに副官のラーマン大佐と病院の看護婦、衛生兵、それに台湾総督府の通訳の中村さえという方でした。そのときにはチャンドラ・ボースとわかっていましたから、死亡診断書に姓名と死亡日時、それに死因として『全身火傷』と記して、病院の庶務に提出しました」
 ポンコツ飛行機のキズもののプロペラに、敗戦のどさくさの中のオーバー・ロードの無理な操縦、たまたま着ていた毛糸のジャケツと坐った位置の悪さ――ふり返ってみれば、ポースの死は、昭和二十年八月という時期ならではの全く不幸な条件の重なり合いの中で発生したものであった。
 そして、日本人にとってボースの名はその死とともに過去のものとなった。
 しかしインド側の事情は違っていた。戦後イギリス軍は、ボースの率いたインド国民軍の指導者たちを軍事裁判にかけようとし、日本軍関係者も証人としてインドに連行した。この裁判は、場所がムガール王朝の王宮跡で、イギリスがインド統治の本拠にしていた「レッド・フォート」と呼ばれる城壁の中だったため、レッド・フォート裁判ともいわれた。
 ところが裁判を始めたところ、インド国民は、国民軍の指導者は愛国者だとして各地で反英暴動が続発した、イギリスはこれにはすっかり手を焼いて、結局裁判はうやむやのままで終結させ、インドに独立を認めざるを得なくなったのだった。
 インドの独立は一九四七年。初代のネール首相は、レッド・フォート裁判を百パーセント利用して独立を勝ちとったのだが、ネール首相はボースとは政治的に対立していたため、独立後はインド国民軍の功績を無視し続けた。それでもネール首相の時代は、米ソ冷戦の中で、非同盟中立主義や平和五原則などを花々しく発表して、国民の信望を集めたからまだよかった。

  ホースを支援した日本"解放"軍

 それが一九六〇年代になると、中印国境紛争や印バ戦争などの難問が次々に起こり、食糧増産や民生安定の政策に力をそそげなかったため、国民の間に不満がふくれ上がり、それがボース支持者の間では「ボースが生きていたら」という待望論となって現われて来たのだった。
 そうした中で刺戟になったのは、一九六七年三月に、ボースがかつて持っていた日本製軍刀が、東京の古美術商の店で発見され、インド政府に贈呈されたことだった。大きなガラス箱の中に飾られた軍刀は、まるで生けるポースが帰国したかのように、カルカッタからデリーまで特別列車で運ばれ、儀仗隊の栄誉礼の中を、大統領やガンジー首相らによって迎えられた、これがきっかけとなって、ボースの功績を見直そうとする空気がにわかに高まったのだった。
 なぜボースはこれほどまでの人気を集めているのだろうか。藤原岩市氏は次のように語る。
「ボースは、一国にとって一世紀に一人出るか出ないかといってもよい天性の革命児だった。ボースが生きていたら、インドの歴史は変っていたろうと思うインドの人々の気持は、ごく自然だものだ。彼は、宗教的な対立の激しいインドに統一国家をつくるためには、十年間は独裁政治を貫かねばならぬ、強力な政治で豊かな国づくりをするのだ、と言っていたが、ボース亡き後のインドは、独立はしたものの分裂国家の道を歩むことになってしまった。それだけにボースをふり返ってみたくなるのではないか」
 友人Nの話もつけ加えておこう。
「デリーに建てられたホースの銅像は、数百メートル離れたレッド・フォートを指差して、イギリス植民政策の牙城だったレッド・フォードへ進撃せよと叫んでいる姿になっている。インド民衆の中に生き続けているホース生存の伝説は、まさにこの像に象徴されるように、英雄待望論だ。それは義経待望論にも似ているな。しかし不幸なことには、所詮ないものねだりなのだな。
 ただ、ぼくが面白いと思うのは、ボースを通して見るインド人の日本観が、意外な面を持っているということだ。レッド・フォートは、いまでは観光施設にもなっていて、その中庭の芝生では夜になると、『音と光のショー』が展開される。立体音と光の演出でインド独立の歴史を紹介するショーなのだが、印象的なのは、激しい銃声や戦車の地響きやときの声とともに、日本軍に支援されたインド国民軍の活躍の場面が登場するところだ。それは、日本の対英戦争がインド独立に役割りを果たしたという評価なのだ。

  命日なき英雄を祀る三十年目の碑

 戦後、日本とインドは全く違う道を歩んで来た。日本は経済的高度成長を遂げたのに対し、インドは独立を達成したものの、いまだに貧困と餓えの問題をかかえている。ボース生死の確認調査に来たコスラ氏は、消費物資があふれる東京の街を、若干の皮肉をこめて描写している。日本は、いつも目分のことだけを考えている......}と。
 かつてボースという人物を通してあれほどまで肩入れしたインドのことが、いままでの日本で関心を呼ぶことは少なくなっている。
 つい先頃、通産省が発表した「昭和49年度通商白書」によると、日本とインドとの経済関係は、日本の輸入超過になっており、穏やかな状態が保たれている。インドの対日感情が悪くないということは、東南アジア諸国に対するような経済的コミットメントが、インドに対しては希薄であるためかも知れない。だが、裏返して日本はインド亜大陸の貧困に対して、戦後どれだけのことをしたのかと問うならば、コミットメントがすくないということだけで済まされるのかという疑問が出て来る。むろん三十年前のような道が正しかったというわけではない。
 いまホースの遺骨は、東京・杉並の蓮光寺に三重の箱に納められて、丁重に保管されている。蓮光寺にボースの遺骨が持ちこまれたのは、死後一カ月経った昭和二十年九月十八日だった。その夜、陸軍参謀本部の要請で、マッカーサー総司令部目を盗んでの葬儀。ところが、インド側の微妙な政治情勢で遺骨はいまだに引き取られない。
 その蓮光寺の狭い庭内で。いま左官二人が、セメントをこねたり、砕石磯を響かせたりしている。住職望月政栄師が、ボース三十周忌の今年八月十八日のために、私財をはたいて慰霊碑を建てようというのだ。
「このお寺にボースの骨はあっても、墓がないのです。いつになったら遺骨が引き取られるのか。せめて碑ぐらい残してやりたいと思うんです。『ネタージ・チャンドラ・ボースの碑』と刻み、あわせて参拝に来たことのあるインドの要人の中からネール、プラサット、ガンジーの三人のサインを拡大写真にして彫り込む予定です」
 今年一月二十三日のデリーにおけるボース銅像の除幕は、ボース七十九回日の誕生日を祝って行なわれたものであった。本国インドでは、ポースへの追悼はいつも誕生日に行なわれる。そして、なぜか遺骨は引き取らない。ポースは祖国においては、命日のない英雄なのだ。
 蓮光寺の遺骨、つまりボース自身がどのような人々の参拝を受け、どのような扱いを受けて来たか、それはまた別の戦後史のストーリーを教えてくれるかも知れない。

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このページは、伴 武澄が2013年11月19日 22:14に書いたブログ記事です。

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