2013年8月アーカイブ

zakuro.jpg 一昨年前から、賀川豊彦セレクションの発行に取り組んでいる。古本をスキャンしOCRをかけてテキスト化する作業は20冊ほどに及んでいるが、なかなか完成しなかった。自分自身の校閲能力が高くないため、何度読んでも間違いが見付かるという繰り返しが続いていた。

 昨夜、妻にも手伝ってもらって、『柘榴の半片』を"完成"させた。もういいだろうという思いである。校閲を終えた後に残っていた作業は解説文を書くことである。先ほど、それも書き上げた。萬晩報の読者にはまず、その解説を読んでいただきたい。

 なお、販売方法は決まっていないが、500円で頒布したいと考えている。形式は普通のPDFとkindleを準備している。売り上げは国際平和協会の事業収益となるので、ぜひご協力願いたい。

 ご希望の方はugg20017@nifty.comに申し込んで下さい。

--------------------------------------------------------

 賀川豊彦を理解しようとするなら、チャールズ・ディケンズを読めと言われたことがある。『オリバー・ツイスト』や『二都物語』など一気に四冊のディケンズを読んで、一九世紀半ばのイギリス社会の貧困さを体験した。

 資本主義が勃興し、労働者が都市に殺到することによってスラム街が形成されるのだが、その代償として農村社会が崩壊した。崩壊したのは農村社会だけではなかった。

 人口の移動が難しかった時代は、取りも直さず、良くも悪くも助け合わなければ生きていけなかった時代でもあった。その助け合い経済が崩壊し、代わりに通貨経済が勃興した。その結果貧困はスパイラル状に広がった。農村とスラムの違いは食い物がないことである。スラムが拡大すると人々は生きるために何でもした。

 通貨経済の大きな特徴は借金である。容易にお金が借りられると人々は必要だからと借金し、欲目にくらんで借金した。その結果、子ども達は金銭を対価として労働力となった。男の子なら丁稚にやられ、女の子は娼婦として売られた。

 もちろん、どこの国にも現在のような社会保障はなかった。そんな中からもう一度助け合いの精神を復興させようと立ち上がったのが賀川豊彦だった。

 賀川はスラム街に住み、貧しい人たちを生活を分かち合う一方で、社会改革に乗り出した。労働運動や協同組合運動がまさにそうであるが、人々の心の中を改革するためにペンの力も最大限活用した。最大のヒットとなった『死線を越えて』で巨万の印税を手にしたが、その金はほとんど彼の社会活動に消えていった。書けば売れることを一番知っていたのは自分自身である。だか、貧しい人たちにもぜひ読んで欲しいという本は意図的に廉価販売した。

『柘榴の半片』は昭和6年に教文館から1万部、定価20銭で発行された。驚くべきは20銭という定価設定である。当時の本の定価は1円以上だったが、賀川豊彦は多くの人に読ませるために安価での発行を決めたのだった。賀川の著作は奥付にある定価の設定で発行の意図を押し図ることができると言われていることが面白い。

『柘榴の半片』は、廃娼運動の目的を持って書かれたものであるが、当時その目的を次のように語っていた。「廃業の仕方を娼妓に教えようとして本を書いても、彼等の中に入っていかない。たとえ入っていっても彼等にはわからない。それで小説にすれば必ず彼等のの中に入っていくし、彼等はこれを読んでわかるようになる」

 賀川は生涯、300冊の著作をものにしたが、文学界に賀川の名前は残っていない。理由は単純である。僕は小説を社会運動の手段としたからだと考えている。多くの小説家が芸術の名の下に酒と女に溺れていったが、賀川にはそうした世界はまったく無縁であった。(伴 武澄)
4901577042.jpg「萱野長知・孫文関係史料集」の中に驚くべき報告がある。葦津珍彦というどちらかといえば靖国派に属する研究者が中国で見聞した日本軍兵士の蛮行を綴った文章である。

 昭和13年だから1938年、日中戦争が泥沼化していた時期の話である。中国が最近になっても日本を許さない歴史的背景の一光景であるはずである。

 さすがの葦津珍彦も戦前には発表していない。戦後になってしかも友人に配ったパンフレットにしか書けなかった事実なのであろう。


 視察報告記 上海戦線より帰りて
         昭和13年1月 葦津珍彦


 今や中支全戦線は、日本軍に依って荒廃に帰して終った。総ての財物は掠奪せられ、総ての婦女子は辱しめられた。かかる悲惨事は、凡らく近世の東洋史の知らざる所であらう。

 激戦の後に一つの町が占領せられる。民家に兵が突人して来る。「女はいないか」と血走った眼が銃剣をつきつける。恐れ戦きつつも、愛する者のために、男は「いない」と答へる。兵は二三発の弾丸を放つ。弾声に驚いて女の悲鳴が聞える。兵は男を殺して女を辱しめる。かくて数千の夫や親や兄が殺され、かくて数万の女が辱しめられたのである。

 兵はあらゆる所で掠奪した紙幣や貴金属を携へて行軍している。部落部落の牛や豚や馬は片端から徴発されている。五十円、六十円の牛が僅に三百万分ノ一(二銭)の値段で徴発せられる。戸棚も寝具も、衣類も引ずり出されて焚火の燃料に浪費されて終ふ。

 かくて数百里の間、中国の地は蹂躙しつくされようとしている。
 この日本軍が皇軍と僣称する事を天は赦すであらうか。
 我が日本民族の清き血を伝へ来った人々は之を赦し得るであらうか。
 天誅は必ず来るであらう。必ず来らねばならぬ。

 今や祖国は功利のどん底から理想の天涯へと飛躍せねばならぬ。然らずんば、亡国は遂に避け得られぬであらう。
 私は抗日戦線の華と散った数千万の中国の青年子女達に対し、心からなる哀悼の念を禁じ掲ない。私は諸君とこそ力強い握手を交し度かったのである。

 祖国を守らんとして、弱く後れた祖国を防衛せんとして山西の天険に、江南の平野に、若き命を棄てた諸君の生涯は美しい。
 私は諸君の如き中国の青年子女が数万となく失はれた事を想ふ時に、人生の淋しさをしみじみと感ずる者である。

 私は閘北の戦線で諸君の最後を想像した。
 諸君の行動は、真に真摯であり、情熱的であり、精悍であり、又純粋であった。
 諸君は実に中国民族の、否東洋民族の華であった。
 私の知友の一人は、戦線に於て諸君と百余日間(以下滅失)
 
 葦津泰國蔵。葦津珍彦が一九六七年知友に頒布した私家版のパンフレット(書名なし、非売品)より。葦津については本書四一六頁参照。
040-3.jpg 8月7日の講演「萱野長知と孫文革命」のためにひもといた『萱野長知・孫文関係資料集』(高知市民図書館)の冒頭に、萱野が亡くなる直前に「月刊高知」に書いた文章があった。

 板垣退助が「日本は陸軍を強化すれば大陸に進出する、日中融和のために日本は海軍を持てばいい」と話していたことや「日本と中国は兄弟格が逆転したが、兄が弟の饅頭をムシャムシャ食ってはならぬ」と警鐘を鳴らしていたことを明らかにしている。また、国境なき世界を求めて生涯を尽くした萱野が日本の敗戦によって平和憲法が誕生したことについて「人類救済の天業である」と喜んでいる場面もある。終戦の日に読むにふさわしい文章であると思い、萬晩報に掲載することにした。(伴 武澄)

---------------------------------------------------------

  思い出 萱野長知
 (『月刊高知』1947年1月号 高知新聞社蔵)

 少年時代の印象程脳底に深く刻みつけられ、生涯を通して記憶に存するものはない、俗に「三つ児の心は百までと」いうことがある。また「雀百まで踊りや忘れぬ」という。少年時代に蒔かれた種子は一生存在するものと思われる。わたくしが子供の時であった。板垣先生が岐阜の遭難で「板垣死すとも自山は亡びぬ」と千古不磨の金言を残し、傷を包んで高知に帰られた時であった。この先覚巨人を迎うべく土佐人の血は、沸いた。浦戸港内、孕にかけて赤い旗をかかげ、赤い帽子をかぶった老若男女小舟を艤して海面を埋めた。子供心には何が何やら無我夢中、理屈なしに共鳴したことと思う。

 やや長じて年長者の尾馬にのり、「自由は勝利よ」「自由は勝利よ」と叫びつつ、旗を押し立て提灯つけて追手筋、帯屋町、本町、上町、下町、高知街をワッショワッショと練り廻り、「自由民権、こはだのすしよ、押せば押す程味が出る」という流行歌を唱え、「人の上には人はなし」という植木枝盛作の新体詩を口すさみ、これに反対した団体と出会してはスリ合い、則ち喧嘩して、旗も提灯も滅茶苦茶にされたこともあった。

 この時代は憲法草案についていろいろ論議され、馬場辰猪、植木枝盛その他自由党の連中は、「天皇は神聖にして」の文字を「歴史上冒すべからず」としたがよいとか、または「欽定憲法は永遠性のものでない、必ず改変せらるる時代が来る」とか種々論話されたことを記憶しておった故に今度の新憲法が議題に上り、審査さるる時もさ程、耳新しく感ぜず、我等の少年時代の風が今頃吹いてきた位の気持ちがしたのである。

 往事を追懐すると夢の如くである。佐野、吉松事件という京都で発覚した堂〔廟堂大官カ〕暗殺の国事犯計画があった。吉松らは土佐山に隠れておったが捕へられて京都に送られ、一味徒党が残らず刑場の露となった。唯独り大井善友という青年がこの謀反党に加盟していたが、未成年者の故を以て死刑を減ぜられ獄中に在ったが、憲法発布の祝典によって減刑され出獄した。

 当時、わたくしは初めて高知を飛出し、従兄深尾重尭が経営しておった大阪時事通信社に入社した。謂うにこれは大阪における最初の通信社であった。朝日、毎日、東雲新聞社に通信記事を送っておった。中江兆民に代わって寺田寛が一切を主幹しておったので、東雲新聞社とは特別深い関係があった。大井善友の出獄は土佐出身の政友に非常なる感興を与えた。

 寺田寛を始めとして同郷人は勿論、自由党に関係ある有志者相会して最も盛大なる歓迎会を開いた。歓迎も度を過して熱狂的であった、憲法発布され多分の民権は認められたとはいえ、官憲の勢力は依然たるものである。血気に燃え前後の思慮に乏しき青年わたくしの如きは早速ブラックリストにのった、ついに物色されだした。身辺の危険が来たので従兄深尾の世話で谷河という弁護士の宅に一時身を寄せたが、永遠に安全性がないので大阪を立退くこととなり富永安英といふ学友より旅費を貰い、九州に往き苦労に苦労を重ねて、清国上海へ高飛してついに支那革命に一生を投ずることとなった。実に奇しき運命であったとはいえ少年時代に培われた通りの経路を生涯たどったに過ぎないのである。

 この大井善友に就ては面白き後日物語りがある。桂内閣打倒を叫んで犬養、尾崎が先登に立ち、憲政擁護を叫び、日本政党の総立ち運動を起した時であった。吾らは土佐同志会というを組織して、大江卓老人を中心に推し立て、和田三郎などと共に軍閥内閣打倒を宣言して、日比谷原頭に活躍した。その時大井善友が突如として現はれ、吾らの憲政擁護運動に参加し大に気勢をあげた。

 大井とは出獄当峙大阪にて別れて以来、絶えて消息を聞かず、生別か死別か殆ど忘れておったが、数十年を経過してしかも神職の姿にて御幣とお榊をおし立て、日比谷原頭に立て、払い給え清め給え、桂内閣とやったので、つどい来れる群集を驚かしめた。大井の談によれば、彼は憲法は出来ても真の自由はなく、軍閥官憲に蹂躙さるるばまことに残念である、憲法擁護運動に共鳴して駿州の片田舎より出てきたのであるとて、壮年時代の意気をしのばしめたが、桂内閣が打倒されて後は再び駿州の山間に引籠りその後の消息を絶ったのである。生か死か。

 大江卓老人も憲法擁護のため老躯を提げて活躍、往年自由党時代、林、竹内などの豪雄と轡をならべて奮闘せし意気なほ存し、吾人をして当年を追想せしめたのであった。翁は憲政擁護運動の一幕が終って以来、本郷の善福寺において得度式を行い天也と改名した。この時、門司の六連島の僧侶岡本道寿が佐々木安五郎、田中舎身の紹介にて憲政擁護会に来り、水平社平等運動を持ち出したので、これを和田三郎と共に板垣先生に相談した。板垣先生、直ちに「これは大江の仕事じゃ、大江が多年熱中せし一大事業だ。大江に頼むがよかろう」とて直ちに大江に相談すると、大江はこの事業は俺の宿願だと大に賛成し、大木遠吉と相談して、早速帝国公道会を組織し、残年を水平運動に寄与した。四民平等、民主主義の新憲法が生れた今日、板垣、大江両翁、地下で相対して微笑しつつあると思ふ。

 板垣先生は、わたくしに生涯通じて忘るべがらざる金針を与えられ、わたくしはその進路を踏みはづさないよう心懸けた。世間一般、中国問題に関係するよし最大多数は帝国主義的色彩を帯びており、ミリタリズム的の理念と行動を敢てした。いわゆる支那浪人と呼ばれたものは大概軍閥の走狗であった。ことに朝鮮合邦以来、満州問題に対しても、朝鮮を延長する位の主張を持っておった。

 板垣先生は常に卑近な例を引いてこれを戒められた。即ち日本は古来中国の文化をうけて来たので中国は兄分であったが、日清日露の役を済て世界の強国となり、今では日本が兄分の位置となった。とに角、兄弟の国である、しかるにその兄の力が強いからとて弟の持っている饅頭を取あげてムシヤムシヤ食っている、弟はベソをかいて訴えているようでは、兄の資格はないので、ソンナ気持ちをもって中国問題を考えては相ならぬ。

 日本内地では多数の陸軍は不必要だ。陸軍の大縮小をやらねばならぬ。四面海の島であるから国防上海軍は拡張せねばならぬ。陸軍が多ければ、いきおい、中国大陸に発展するようになる。ついに排日の種をおく、日華の平和は破れる。兄弟が垣にせめぐことになるゆえに、陸軍はむしろ中国側において拡張し、海軍は、日本側において拡張し、大陸の責任は中国側にて引受け、海軍の責任は海国日本にて引受けることとすれば、陸軍なき日本に対し、中国は恐るることがなく、海軍なき中国に対し日本が恐るることもなく日華の平和提携が出来る。侵略的野望を抱くはもっての外である。

 これが板垣先生の主張であって、わたくし等を戒められた筋合である。この先輩の理念が遂行されておったら、日本はこんなみじめな敗戦亡国のうきめを見ることがなかったのである、現在の東京裁判を見て、つくづくと思いあたることが多いのである。先覚者の達見、一代華族論、神と人など読めば読む程後人をして襟を正さしむるのである。

 中華革命前、孫文その他革命志士が板垣先生の門を叩いて教を請うたものが沢山ある。先生は喜んで隣邦の志士を迎え、共和政体、民主主義の必要を説かれて、革命のため邁進すべきを論ぜられ、大に鞭撻されたのであるが、その内の一人が「敵国は民度が低いから、共和とか民主とかはもう少し教育啓蒙して、国民の頭をすすめてからでないと、突然民主制を行えば戸惑うでないか」との質問をした。

 その時先生は断乎として「ソンナ尚早論は革命家には禁物だ。やりさえすれば人民はついてくる。やらなければいつまでも開けぬ。いやしくも革命家が尚早など前後を考えるやうでは成功せぬ。これがよいと思えば断乎として行うべしだ。断じて行えば鬼神も避く、否ついてくるのだ」と大に激励されたのである。先生は中華革命に対して大見識をもって指導された。

 或時先生は、馬鹿ちんでなければ政治家、駄目ぞよといわれた。まことに意義の深い、味のある言葉と今において大に感ずるのである。もし日本の輔弼の臣に自己の利害を超越した、捨身の人が一人でもあれば、貴衆両院議員でも、その他の有志家でも、実業家でも、文士でも、海陸軍人でも何んでも保身の術を知らぬだけの馬鹿ちんがあったなれば、日本をここまでどん底に落さなかったろうと思う。この頃の土佐は馬鹿ちんの種切れがしたでないかと思はれる。健依別、即ち和田螺川の書いた、佐野、吉松の記事が土陽新闘か高知新聞の屑かごの中にあると思う。今では遠慮もいらぬ公表してほしいのである。

 わたくしは孫文と提携した当時より「国境の撤廃論」を唱道した。胡漢民など、支那の同志は、わたくしを空論家と評した。妄想狂と笑った。しかし、わたくしはこの空想を棄つることが出来ない。北京でも、香港でも公会の席において発表した。また十数年前に土佐協会の雑誌にものせたことがある。これは日本でも支那でもいずれの国でも、そのまま存在、税関という壁を撤廃して、自由貿易とし、居住その他の制限なく、国際的差別を設けず、その国に行けばその国の法律にしたがい一切勝手たるべし、但し古人「郷に入って禁を問う、郷に入って郷にしたがえ」位のところで国境を眼中に置かぬのである。これを最初中国、日本、南洋、ボツボツ拡大して世界的に提唱したいという観念であった。

 この理想は「椎背図」という中国二千年前の預言書にものっている。李淳夙の蔵頭詩にも黄藻禅師の詩にも、諸葛亮の廻文詩にも劉伯温の焼餅歌にも、その他にも沢山ある、悲惨な時代を逐一示し、飛行機、潜水艇時代より日本が太平洋で惨敗の図まで出ているが、結局は世界大同と平和境となりまた変化を生ずることまで予言して、年代を記して仔々細々であるが、こんな予言などを敢て論ずるに足らぬが、実際において我国の憲法が世界に率先して軍備を投げ捨て、世界平和の魁をなしたことは真に偉大なる天祐である。或る意味において、世界指導者であって、人類救済の天業である。わたくしなどは、この新憲法を遵守して、世界的に範を示したいのである。
uenokatuhiko.jpg父の友人である植野克彦さんは今年80歳になった。小さい時に原爆で裁判官の父と姉と兄を失った。高知市内で陶器店を営みながら、こつこつと日中交流に尽くしている。

今日から、高知市内で日中友好条約締結35周年を記念して「池田大作と中国」展が始まった。日中が尖閣問題で角突き合わせている事態を憂う。憂うばかりでは何も起こらない。展示会のオープニングには中国大使からのメッセージもあった。大阪総領事館から2人が参加してくれた。夕方の講演会で僕は「萱野長知と孫文革命」と題して講演させてもらった。200人ばかりの集まりであったが、多くの人に共感してもらったと自負している。

 その植野さんが毎日新聞の3面トップに取り上げられていた。

広島原爆の日:68回目
鎮魂の夏 平和、今こそ誓う

毎日新聞 2013年08月06日 大阪夕刊

 被爆地・広島は6日、68回目の鎮魂の日を迎えた。1945年8月6日午前8時15分の原爆投下で、心身に深い傷を負った被爆者には、核廃絶への願いを秘めながらも体験を語れなかった人も多い。核兵器なき世界に向けた国際世論は高まりを見せつつあるが、世界の核を巡る状況は予断を許さない。領土問題や歴史認識を巡り日本と近隣諸国との緊張が増すなか、被爆者たちは改めて平和への思いを強くしている。

 ◇陶器通じて日中交流 隣国との緊張憂い

 高知市で老舗陶器店を営む被爆者の植野克彦さん(80)は68年前のきょう、父(当時49歳)と姉(同19歳)、兄(同16歳)の3人を原爆で一瞬のうちに失った。これまで平和記念式典に行く気になれず、被爆体験を語ることもなかった。陶磁器を扱う商売柄、中国との民間交流に尽力してきたが、その中国と日本が領土問題を巡り緊張を高めている。大事に思っている平和憲法を改正しようという動きも見えてきた。「何ができるかは分からないが、このままではいけない」。そんな思いを抱き、初めての式典に臨んだ。

 原爆投下時、広島高等師範学校付属中1年生で12歳だった。広島地裁判事の父・中澤好英さんと姉、2人の兄と広島市中心部の大手町(現中区)で暮らしていた。爆心地から約1・5キロの中学校そばで被爆。大やけどをしてがれきの下敷きになったが脱出し、逃げる最中に気を失った。山口県境の広島県大竹町(現大竹市)の国民学校に担ぎ込まれ、意識を取り戻した時、軍医から「日本は負けた」と知らされた。

 「父や姉、長兄は絶望的だ」。疎開先から迎えに来た母に聞かされた。3人の行方は今も分からず、遺品も見つかっていない。次兄は無事だった。一時は米国を恨んだ。だが、「戦争は狂気。立場が逆なら日本が核兵器を使ったかもしれない」と思うようになった。

 戦後は父母の郷里の高知に移り、高校を出て銀行員になった。その後、妻の実家の陶器店を継いだ。1990年に中国・景徳鎮市を初訪問して以降、現地の陶芸家との交流を続け、96年には愛知県瀬戸市と景徳鎮市の姉妹都市提携の橋渡しをした。

 植野さんの祖父は明治の自由民権運動家で衆院議員も務めた中澤楠弥太(くすやた)氏。「祖父は清(中国)の留学生の面倒を見ていた。中国との関わりは、不思議な縁かもしれない」と語る。

 しかし、昨年9月、高知県の友好都市である中国・安徽(あんき)省の、李斌(りひん)省長を訪問した際、面会を断られた。同氏が前年高知に来た際に交流を深めたばかりだったが、尖閣諸島問題で日中関係が悪化していた。長年積み上げた親交が政治に翻弄(ほんろう)されることに「これまで築いた交流を絶やさないことで精いっぱいだ」と悔しがる。一方で中国も核保有国の一つ。被爆者として核廃絶は願うが、何よりも「最後のボタンを押さない努力、押させない努力が必要だ」と思う。

 「過ちは繰返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑の前で、安倍晋三首相はこの日、「核兵器廃絶に、また世界恒久平和の実現に力を惜しまない」と誓った。

 式典を終えた植野さんは言った。「ぜひその通り、実現してほしいものです」【吉村周平】

notbymayself.jpg 2013年の春、神戸の賀川記念館にオーストラリアで大手衣料品業を打ち立てた故フレッチャー・ジョーンズ氏の長男からジョーンズ氏の著作「Not by myself」が届いた。ジョーンズ氏の成功物語はすでにドキュメンタリーとしてオーストラリアで放映され、その中で賀川豊彦に対する思いが語られている。「not by myself」の中では賀川豊彦と題して一つの章が設けられている。その英文を紹介したい。

  57. Toyohiko Kagawa

   The eminent American journalist Basil Matthews first told me about Toyohiko Kagawa in the early 1930s' He described him as one of the seven greatest men in the world then.
   This inspired me to read everything Kagawa had written which was available in English. Great was my excitement to learn that Kagawa was coming to Australia. I made up my mind he should come to Warrnambool.
   Conditions during the great depression of 1929-1931 certainly made me stop and think and wonder. I wanted to know why the rich were getting richer and the poor poorer.
   Distribution of the world's wealth was and still is the world's most pressing problem. What could 1 do about it?
   I tried to read the writings of the world's great economists and social reformers. Much of the phraseology was beyond my capabilities, but 1 ploughed through works of Victor Gollancz and Professor Harold Laski; through J B S Haldane and the Webbs, then I studied the concept of the cooperatives.
 It was fascinated by the pioneer co-operative movement among the flannel weavers of Rochdale in England. They began by contributing three farthings a day until they could buy their own little flour gristing mill. Thus they made their own bread. Next they began to make their own boots assisted by the shoemakers of Scandinavia.
   But finally the writings of Kagawa seemed most satisfying to me. I dreamed of going to Japan to study his production and consumer co-operatives. In 1936 I did go. Meanwhile in 1934 the great news of Kagawa's Australian visit captivated us.
    The name of Toyohiko Kagawa will not be a familiar one today but his life and work had a tremendous impact on Christian life and witness in Japanese industry. His work created a lot of interest in churches in the western world.
   Kagawa was born in 1888. He died in 1960. He was the son of a wealthy Samurai and a geisha. They both died when he was a mere toddler. He was brought up by his stepmother
and then, after her death, by an uncle.
   When he was a student he became a Christian. His uncle threw him out of the house. He had been brought up in the Buddhist faith and schooled in the thoughts of Confucius.
Now he was rejecting both of these stalwarts of the past.
   He had been taught English by two American missionaries, Dr Logan and Dr Myer. They in their Christian faith gave him answers to some of the doubts he had about his own faith. Jesus said, 'Consider the lilies of the field'.
   Buddhism said material things, even lilies were nothing. Kagawa was converted by the Missionaries's teaching and by the example of their compassion. They even sponsored his  university education.
   He had tremendous feeling for the poor and the sick. He felt deeply that the Church and the individual Christian should practise what they preached. He lived in a two-room
apartment house in the slums of Tokyo for thirteen and a half years. He filled it with the homeless. He lived as a son to one known as 'Old woman of the cats'. He adopted a child who lived with its family in overcrowded conditions.
   He rescued a boy from a mother in prison. He tutored a working boy at five in the morning. He received the sick at 7 a.m. He was persecuted because he preached the gospel
from street corners. He studied the slums and the plight of the unemployed in America. He visited Gandhi in India and he studied the co-operative movements among the dairies and fisheries of Denmark.
   To Japan he brought tremendous social reforms. He established a trail of schools, kindergartens and nurseries in churches throughout the country, in his belief that the
church should be compelled to practise what it preached.
   He helped the growth of the Japanese co-operative movement. He was involved in consumers' co-operatives, university students' credit unions and farmers' co-operatives,
even credit co-operative pawn shops. His book, Brotherhood Economics, published in 1937, advocated brotherly love between producers and consumers. He did not like the materialism involved in capitalism and in communism.
   It was this great man I wanted to bring to Warrnambool. The secretary of the group organising his itinerary was in Brisbane. I wrote him a letter. I received a very nice letter in reply regretting that Warrnambool could not be fitted into the programme. I wrote another by return mail and then another and another. I collected some money from friends and sent a cheque to cover expenses. At long long last the battle was won. The committee was persuaded to yield to what they called my 'extraordinary enthusiasm'.
   We formed a little committee in Warrnambool consisting mainly of Toe H men. On 8(h May, 1935 Kagawa came.
   During his stay in Warrnambool we had sessions at 3 p.m., 7.30 p.m. and 9 p.m. The town hall was packed each time. Excitement was high.
   Kagawa had a high, rather squeaky voice. There was no amplification. To reflect his voice from the stage down to the back of the hall we joined three trestle tables together
and had them pitched over his head, sloping from the floor of the stage upwards and outwards. This sloping canopy carried  his voice most effectively.
   As we looked at this frail little man - he was only about five feet tall-up there under the canopy we marvelled at his open-handedness and human compassion. Many of us
were glad that we had already learned his poem 'Penniless'.
       Penniless awhile
       Without food I can live
       But it now breaks my heart
       To know I cannot give.
       Penniless I can share my rags
       But 1 cannot bear to hear
       Starved children cry.
fletcherjones.jpg   Kagawa and his secretary, Mr Ogawa, stayed at our home in Jamieson Street.  I could  write many pages on what happened to us during this memorable visit. Kagawa and Ogawa were both learned geologists. They were up at day-break wandering around Warrnambool, picking up and examining stones.
   Four of the committee travelled back to Melbourne with Kagawa. The trip was most exciting. There were queues of people lining the road at each township. We made eleven
stops. Kagawa gave eight addresses.
   The committee that brought him to Australia had arranged for him to have a suite at the top of the Victoria Palace. A voluntary staff met visitors at the door of the Victoria and escorted them up aloft. I had several memorable sessions with Kagawa alone, I knew that I was in the presence of a saint:
   I had no doubt that Basil Matthews was right.
   Kagawa had a global mind. For instance, he was fascinated by the many types of honeyeaters in the bush around Warrnambool. (The number was 140.) He enquired about
Adam Lindsay Gordon's home 'Dingley Dell' which was across the South Australian  border.  He even knew and recited two of Gordon's poems.
   Early in the trip he showed great interest in Toe H. He knew that we had a particularly live branch at Warrnambool and it was evident that he had read all that he could about Tubby Clayton and the movement. This gave us a bond in common.
   Certainly it was very challenging indeed to meet and to hear this great man who had thrown himself deliberately into the slums to meet the people, the people, the people.
   Before Kagawa came to Warrnambool in 1935 I wrote Seven thumbnail sketches of Dr Toyohiko Kagawa, the St Francis of the Japanese Slums. They were printed in the Warrnambool Standard as a series over the couple of weeks before his visit to Warrnambool. They are reproduced in an Appendix to illustrate the things that impressed me about this great man.
   With great excitement and gratitude I went to Japan the very nexl year to meet Kagawa again and to see for myself something of what he had actually done.
 Understanding  wife  that  she  was. Rena could see it sticking out a mile lhat I must go.
   It was indeed a great sacrifice for a young wife with three young children, and I knew it.
   June 1936 consequently saw me on the Kama Maru landing in that then weird land, doing my humble best to visualise the possibilities of using the best of what was to be seen back in Australia.
   It seemed that in Japan, well-run co-operatives could handle almost any activity. For example, they even had Christian co-operative pawn-shops to alleviate the distress
of the countless thousands of small shopkeepers, who were forced to pawn last season's left-over merchandise in order to buy in for the coming season.
   The regular pawn-shops charged these poor beggars an alarming 35% compound interest. Kagawa's co-operative pawnshops were supported by overseas friends, mainly churches, and were charging a mere 1%.
   Kagawa provided me with a new student guide each day to guide my study time from town to town. It was cheaper to travel with an experienced native than to travel alone. Five months of this in the field was perhaps as good as a university course.
   Going off the beaten track with the Japanese in those days was jam-packed with difficulties. I travelled third class mainly because there wasn't any fourth class. I ate and slept Japanese style. The food was raw fish, seaweed, eggplant and other raw materials which took some swallowing, but it made me a good strong boy.
   After returning to Australia, the idea of turning my own business into a staff co-operative grew within me. I shared my thoughts with Rcna. She encouraged me, but we waited a while. Then Neil Symons, Master of Laws and our solicitor, framed our scheme with all its Segal and business perplexities. He has outlined the scheme in an appendix to the book. Neil Symons is now the General Managing Director of F J & Staff.

Not by myself
by Sir Fletcher Jones
Pub. by Kingfishse Books PTY Ltd
First Published 1977
   
nakanophoto.jpg
         龍谷大学教授 中野 有

ワシントンやホノルル等のシンクタンクで北東アジアの平和構築の戦略研究を行ってきた。安全保障を軍事の視点のみならず社会的・経済的・歴史的要因も包括して総合的に考察し結果として理想論ではあるが平和構築に向けたビジョンを描くことができたと自負している。

日本を離れ北東アジアの地政学的変化を多角的・重層的に探求してきた過程に於いて習得したことは事実(Fact)と真実(Truth)は展望する立ち位置や歴史的背景によって異なった見方も成立するという見解である。すなわち、異なった文化等に寛容であることが健全なナショナリズムを育む上で重要であるというシンプルな洞察であった。

結論からいうと20年かけて習得したことを一つに集約すると「寛容な哲学」こそ平和構築の推進力となるということである。しかし、この見解の遥か先を照らすユニーバーサルな世の中のパラダイムをシフトさせるだけの説得力のあるスピーチに触れることができた。

それは、通学のスクールバスにてタリバンによって銃で頭を撃たれたマララさん(16才のパキスタンの少女)が国連本部で行った素晴らしいスピーチである。国連事務総長をはじめ外交・安全保障の第一線で活躍する各国の代表や外交・安全保障の分野の戦略を練るシンカーを感服させた教育の本質に関するスピーチであった。


国連の安全保障理事会や世界のブレーンがいくら会議を重ね戦略的に考察しても恒久的で明確な平和構築のビジョンが生み出されることがなかったのにタリバンに教育の機会を奪われたパキスタンの少女の堂々とした一度のスピーチが平和構築に関する潮流に変化を与えたように感ぜられる。

世界は広くて多様である。まだまだ教育の機会に恵まれない人々がたくさんいる。経済的、宗教的、社会的要因によって教育から隔離されたすべての人々が教育の恩恵を受けることによって世界平和への礎が構築されると思う。

アフリカで4年生活して教育に飢えている子供達の目線で教育とは何かを考え現地で悟ったのが「教育とは与えられるものでなく好奇心を持って自らの意思で取るべきものである」という見解であった。パキスタンの少女のスピーチが世界を踊らせたのは人類の目的にかなった理性を探求するという行為が抑圧の中から湧き出たからであろう。

アフリカの奥地で生活する子供達が教科書も鉛筆もないのに現地語の他に英語を話している。一方、何年も英語を勉強しているのに一向に英語でコミュニケーションができない一般的な日本人がいる。この違いは明らかに勉強に対する意思や必要性にあるように思う。豊かな日本にとってアフリカの子供達のように教育に飢えることは無理であろうが、少なくとも教育に対する好奇心をたくましくすることが大切である。

人間が先天的に備えている能力を引き出すことが教育の本質であると思う。そして何千年もかけて築き上げてきた人類の叡智を自らの意思によって学び取る。何のために勉強するのかを自ら問いかけることが重要であるのではないだろうか。

教育というソフトパワーは軍事というハードパワーを凌駕する。世界中のすべての人々が教育の機会に恵まれたなら「協調の理想」が形成され平和構築に向けた大いなる勢力が生み出されると考えられる。人類の歴史、とりわけ近代史を紐解いてみても日本のみならず世界は軍事力で勢力を均衡するという考えから脱却し、「教育は近代兵器より強し」という哲学を実践する時が到来しているのではないだろうか。パキスタンの少女の教育こそ全てであるという訴えは事実と真実の本質を貫いていると感服させられる。
DSC_0627.JPG 昨日、ユーザー車検を体験した。検査登録印紙代1800円と、用紙代25円、合計1825円を支払って、整備場で約10分の検査を終えると「合格です」と言われた。事務所に戻って書類を提出すると10分ほどで新しい車検証が発行された。

 高知県の運輸局整備場は自宅から15分ほどの郊外にある。時間の余裕をとって午後零時に家を出て、2時には帰宅していた。

 車はスカイラインの2500ccである。もちろん、自動車重量税24600円と自賠責保険の27840円は支払わなければならないが、1825円という支出にあらためて驚かされた。東京など大都会では1日仕事になるが、地方都市では片手間である。前日に知り合いの自動車整備工場に出向き「整備記録」をつくってもらった。たくさんある点検項目に「ぺけ」を入れるだけである。もちろん無料だった。

 検査工程を簡単に説明する。まず事前に「予約」が必要となる。電話でもネットでも、1週間先までの予約が可能だ。整備工場には検査ラインが4本ある。まず、小型車は第1コースに入れと指示された。前の車が検査中だったが、待つこと2分、「前進せよ」と指示が出る。ラインまで進むと前照灯とブレーキランプ、ウインカーなどのチェックがある。次にボンネットを開けさせられ、ブレーキオイルなどの残量を調べる。

 次に進むとローラの上で、時速40キロまで速度を上げて、急ブレーキを踏む。ブレーキのチェックだ。さらに進んでヘッドライトの上げ下げをさせられ、排ガスがチェックされる。最後の行程は車の「ガタ」をみるのだろうか、車を揺らすチェックがあり、その間、車体を下から検査される。

 緊張したが、あっという間に終わった。一番驚いたのは車検場がすいていたことである。考えてみれば、多くの自動車は民間車検場で車検が行われ、運輸局の整備場に持ち込まれるのはほんの一部である。本物の車検場がすいているのは当然に思われた。それと「検査」があまりにもあっさりしていたことにも驚かされた。もっと複雑な検査行程があるものと信じていたのだ。

 よくタイヤの溝が浅くなっていると「これでは車検通りませんよ」とティーラーに言われたりしたこともあるが、見ていたのか、そんな検査はないのか分からないが、検査官がタイヤの溝の深さを測ったわけでもなかった。整備工場の人にいわせれば「車検は検査のその時点で一定の性能があることを調べるだけで、車検期間の2年間の性能を保障するものでもなんでもない」ということらしい。車検後の車はユーザーの「オウン・リスク」で乗るということなのだということを知らされた。

 時間のあるみなさん、ぜひユーザー車検を体験下さい。運輸局の人たちもみな親切ですし、ものすごく得した気分になります。以前に川崎市でゴルフを車検に出したら「外車価格」と称して国産車より1万円多く取られた経験がある。検査に外車も国産もないのに「どうして」だったのだろう。

このアーカイブについて

このページには、2013年8月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2013年7月です。

次のアーカイブは2013年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ