2013年7月アーカイブ

img88a6cf21zik9zj.jpeg 高知市の西にある須崎市浦の内に移住して20年、三好朝男さんは毎月、土佐一人新聞を書き続けてい る。今日その240号が配信された。三好さんは元々は香川県白鳥町の手袋会社スワニーの役員だった。20年前、50歳のとき、会社を辞めて奥さんのふるさとの高知県にやってきた。

 スワニーは今もお兄さんが仕切っている。1980年代後半にアジア取材を始めたころ、スワニーは 中国に進出して成功していた数少ない企業だった。結果的にスワニーの中国工場を取材することなく終わったが、僕にとってスワニーというのは大きな存在だっ た。

 三好さんを友人と尋ねたのは昨年暮れ。自給自足をしている面白い人がいるという話だった。スワニーの元役員とは知らなかった。ましてその関係者と高知県で出会うとは思わなかった。驚いたことに三好さんは萬晩報よりさらに5年も前から個人が発信するメディアを持っていた。

 20周年記念号の冒頭のコラムを転載させてもらう。

 一人新聞が20年経過

 今月号を編集しようとして、これが240号だと分かった。つまり20年も経過したのである。三日坊主の私が、毎月発行して20年も過ぎたのだから、自分でも驚いている。信じられない継続なのだ。

 そういえば1993年7月25日、女房と二人で、東京の家財道具をトラックに積んで、私が運転して、この部落の廃屋に住み着いた。そして、その8月末に土佐一人新聞の一号を発行した。廃屋の中で脚立に板を渡した仮台で、ワープロで書いたのを思い出す。

 初回から読者はずっと300名と限定してお送りしていた。始めはスワニー等の仕事関係の方々が殆どだった。が、何時の間にか、段々と読者が変わって行った。理由は一年間お送りして、一度も返事の無い方は迷惑なのだろうと、送付を止め、新しい読者に変えて行ったからです。

 その内、ワープロが故障した。修理に出すと、パソコンの方がこのワープロ修理より安いと言われ、キーの配列が同じだったから、原稿書きをパソコンに変え、それで数年が過ぎた。その内に、パソコンだから、インターネット通信を段々と覚え、今では大半の読者にインターネットでお送りするようになった。

 インターネット通信なら切手代が必要無く、インターネットだけで約300名、パソコンを遣って居ない方への郵送が120数名と言うのが今の読者です。

 一人新聞は、読者が居るから続くのであり、読んで呉れる人が居なくなると自然消滅する運命だが、商売でなく無料だから、自由気ままに言いたい放題を言えるのが良いようで、友人とお酒を飲んで騒いているのと同じ効果があるようだ。つまり発行そのものがストレス解消になり、面白いのです。
 まあ、これから何時まで続くのだろうか。後20年続くと480号になるが、私が90歳になっているから、無理だろうと思う。体は動いても、問題は頭の中身だから。これだけ忘れるようになると、5年やそこいらは良いが、結構廃刊は早いかも。

 この土佐一人新聞を読みたい方は下記のサイトをどうぞ。
 http://plaza.rakuten.co.jp/hitorisinbun/
 miyoshiasao@mb.scatv.ne.jpにメールすると月末に紙版の「土佐一人新聞」を配信してくれます。


 今月号の見出し
1 一人新聞が20年経過
2 漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)と言う本を知ってますか? 
3 アベノミクスはどうなるのか?
4 2度目のインプラント手術 
5 「月光」を毎日練習しているが、 
6 毎晩徹夜で猪番
IMG_4346.JPG 津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。店の造りはどうみても居酒屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じていないからそんな料理は注文しない。

 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。

 話したいのは食べ物の話ではない。この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。氏神さまはさすがに鬼の字を避けて九木神社という。九鬼は戦国時代に海将として名を馳せた九鬼義隆の出身地である。九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織田信長、豊臣秀吉につかえた。朝鮮戦役では表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。徳川の時代になって兵庫の三田の藩主に転封され、海との縁を切られた。
 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九木に住んでいた。九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。
 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」の名のつく地名だった。三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。

 「鬼」が「木」となるのは瀬戸内海の鬼ヶ島が現在、「男木島」「女木島」と表記するのと同様、後々の人たちが「鬼」の字を避けようとかんがえたからであろう。

 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、四戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一から九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあって、順番に一から九まで名を付けられたということだった。

 熊野は水軍が育った土地柄である。連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。水軍が一から九まであってその水軍を熊野別当が統帥していた。つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしてもおかしくない。素人考えの続きである。

 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。

 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白河上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白河法王は熊野に34回も詣でている。朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷-平家-熊野の三位一体の時代が一定期間続いたのである。

その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。これが平家にとって最大の読み違えだった。これは歴史的事実である。弁慶は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。

 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。素人の連想である。熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。

 おー、やっぱりそうだったのか。一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。

 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話をしてきたが、明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。名字だけではあるが五鬼は存在した。だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうなのである。

 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)

image368.jpg 3月、世界連邦宣言都市を日本で最初に行った京都府綾部市の支部に呼ばれて講演した。高知支部、次いで四国ブロックでの大会宣言に盛り込んだ「尖閣諸島を東アジア共同体に移管せよ」というわれわれの主張を述べたところ、「非国民」呼ばわりされ、少々ショックを受けた。

 もともと戦後の日本人に「非国民たれ」と言い出したのは世界連邦運動の尾崎行雄・初代会長である。昔の人はすごいことを平然と言ってのけた。尾崎行雄は、有為の武士たちが脱藩して近代日本をつくったのだから、同じことを地球規模でやればいいと言った。その有為の武士たちによる脱藩という行為こそが「非国民」ということになる。

 小生はもともと青年の多感な時期をアパルトヘイト盛んなりし南アフリカで過ごした。その時の経験が小生の人生観をずっと支配してきた。法律で有色人種を差別し隔離する政策がこの地球上に存在したことに理不尽を感じた。荒っぽい言葉でいえば、白人に対する対抗意識がめらめらと湧き起きたのである。

 明治維新以降、日本が歩んだ道は軍拡に次ぐ軍拡だった。日清戦争で台湾を領有したことをきっかけに日露戦争で朝鮮半島の支配権を世界に認めさせ、第一次大戦ではドイツから青島など山東半島の利権を手中にし広大な南洋群島も配下に置いた。さらに南満州鉄道の経営権を得て満州全体に支配権を拡大して華北に軍を進めた。

 明治維新以降、不平等条約の解消が国策となった日本はいつの間にか、西洋にならってアジア支配に乗り出したことは紛れもない歴史的事実である。西洋諸国からアジアを守ることは確かに必要だっただろう。日本という国家が列強の一員にならなかったら、アジアはいまだに西洋の植民地のままだったかもしれない。確かにそんな思いが頭の中を大きく支配した時期もあった。

 一方で、アジア諸国が日本の後を追って豊かにならなければならないという理想論も同時に持ち合わせていた。1980年代以降、アジア経済がテイクオフし、次々と途上国の汚名を返上していく姿には感動すら覚えた。日本が存在しなくともアジアは自律的に経済的自立を図れるのだ。そう考えると日本はすでにアジアの歴史で一定の役割を果たしたことになる。
 残念なことに、アジア諸国の経済的自立の後にやってきたのは、ナショナリズムの台頭だった。尖閣諸島だけではない。日本海の竹島、南シナ海の南沙諸島、西沙諸島の領有権問題がアジアの安全保障を揺るがす大きな問題となっているのである。

 世界連邦を目指すわれわれが今、考えなければならないのはアジアに台頭した「主権」という問題にどう対処するかという問題である。多くのアジア諸国は多民族を抱える国家である。国境の向こうに同じ民族が住んでいるのが当たり前の状況である。国境がなければ、互いに平和裏に行き来できる関係であったのに、国境が利権となって互いに角を突き合わせなければならなくなった。国家を声高に叫ばなければ「非国民」といわれる時代になってしまった。

 地球上に国境という概念が確定したのは近代以降の話である。ナポレオン戦争後のウィーン会議がヨーロッパに国境という概念をもたらしたといわれる。まさに200年になろうとしている国境という概念に21世紀に生きるわれわれは新たな挑戦を強いられているのである。本来、日本など取り戻さなくていいのかもしれない。日本や中国や韓国などという概念を意識しない地球市民がすでに多く誕生している。普通の人たちの思考に政治はもっともっと近付かなければならない。年度初めに思う所感である。(伴 武澄)
040-3.jpg 日中友好協会高知支部が8月8日から高知市で開催する「理解・友誼・平和・池田大作と中国展」の前夜祭として日中友好に関する講演会を開催します。東京中 国文化センターの石軍センター長に続いて世界連邦運動協会高知支部の伴武澄支部長が「萱野長知と孫文革命」と題して講演します。当日、ぜひご参加ください ますようお願い申し上げます。

 萱野は宮崎滔天とともに孫文革命を支えた日本人の一人として知られていますが、滔天が熊本出身であることは知られても、萱野が高知出身だったことはあまり知られていません。1941年に自著『支那革命秘笈』を書いていますが、ほとんど読まれることなく現在に到っています。しかし、高知市民図書館が歴史研究家久保田文治氏の協力で『萱野長知』『萱野長知・孫文関係史料集』という2冊の本を出版したことでかろうじてその足跡をたどることができるようになっています。日中関係史の秘史にあたる部分かも知れません。

 1925年、孫文が北京で死を覚悟したとき、萱野を呼んだことは有名な逸話となっています。そんな萱野長知を育んだのが高知の風土だったということにもう一度思いを馳せたいと思います。

 日時 2013年8月7日午後7時から
 場所 高新ホール(高知市本町3丁目2−15 ) 
main_img.jpg例年にない暑さですが、なんだか慌ただしい夏を過ごしています。そういえば3年前の夏も厳しいものでした。この時虚血性脳梗塞というのをやりましたが、早い話熱中症の酷いものでした。ストレスと睡眠不足と水分欠乏で簡単に人体はいかれてしまいます。取分けこの夏は友人知人にアクシデントが多いようで、これも直接間接暑さと疲労に無関係ではないかもしれません。くれぐれも健康管理にはご留意くださいね。

いきなり脳梗塞からのスタートで恐縮です。最近気のせいかもしれませんがメディアで「一つの時代の終わりと始まりが同時に来ている」といった趣旨の発信を数多く見かけるような気がします。参院選の影響もあるかもしれません。経済成長と脱原発依存をトレード・オフの関係に仕立て上げて「さぁどっち?」というような構図で有権者に迫る論旨もよく目にしますが、これはどうもいただけません。

有権者を小馬鹿にしています。対立軸を鮮明化、シンプル化して票を稼ぐというやり方は古くはヒトラーから小泉さんまで、選挙上手といわれた人の常套手段として多用されてきました。ヒトラーと並び立てるのは小泉さんには失礼と思うし小泉政権が果たした役割に功績も少なくない気がします。でもこれをやっちゃお仕舞いです。黙して一切を語らぬ小泉さんですが、口を割らせれば、新たな時代のためには壊さねばならぬものあり、終わりの始まりにはそれなりのやり口が必要なんだと云うようなことを吐くのかなと勝手に想像していますがどうでしょうか。今を生きる私たちはこの時代をたまたま経験しているわけです。世界唯一の被爆体験国、日本に生を受け今また広島、長崎に続き福島の核汚染も被ることとなりました。世界に類を見ない国です。見方を変えれば、私たちはこの国の将来を託されたいわば選ばれた人々として生きる覚悟が必要なのではないでしょうか。

関係ないけれど、昨夜NHKのニュースをつけたら宮崎駿監督の特集が組まれロング・インタビューをやっていました。今回封切られる「風立ちぬ」の番組宣伝も兼ねた企画でしょうが、数々の心に残るメッセージがそこにはありました。そして彼もまた終わりと始まりを口にしていました。「今の時代にバブルの頃のようなファンタジーを創るわけに行かないでしょう。製作途中に311が来て止めようかという話もありました。私たちの仕事は時代とともにあるのです。この作品もまた私のものの一つです。新しい時代のファンタジーはもう私ではないかも知れませんが、この先また出来ることを祈ってます」と。
「今回のリアリティを基調とした作品は遺作とも言われていますが・・?」との問いに答えてのものでした。

先日講演会を聴きに行った姜尚中先生にもじんわりと、しかし確実に心に響くボディブローを打たれました。冷めた目と温かい心を具有する先生の著作にはなるべく目を通すようにしていますが何せマルチタレントの故か、カテゴリーで括ることのできない作品群に目眩ましにあったみたいで、肝心要の先生のご専門の政治思想史の著作を読んだことがないことに気づきました。講演は題して「北東アジア共同の家の虚妄に賭ける」物静かな語り口の後ろにある信念と表現していいのか、焔のように燃え立つもの。それは韓国の辿った歴史を引き継ぐものとして、在日韓国人として、敬虔なクリスチャンとして、さらに3年間の独留学を通じて行きついたキリスト的人道主義を通して...溶け合わないそれぞれの軸が縒り合さった同軸ケーブルのような強さに感銘を受けました。この強さこそ日本に必要なのではと感じました。因みに「虚妄に賭ける」という言葉は終戦直後に丸山真男が著した「大日本帝国の実在より戦後民主主義の虚妄に賭ける」から借用したものだそうです。それは満州事変の頃1930年代の流れに酷似する現在の日本で、メディアも含めて幻想の誹りも受けかねない状況下、北東アジアの連帯を考えようというチャレンジャブルな講演でした。

そんなこの夏の極め付けが大阪のお好み焼き屋さん「千房」の中井政嗣社長でした。ご縁というか複数のルートが収れんするように中井社長さんとお会いすることとなりました。中井さんは古くから受刑者や少年院出身の若者たちの就労支援に情熱を注いでおられます。勿論、殺人や性犯罪、覚せい剤中毒といった事案の受刑者は除外です。家庭の問題や環境要因で若くして悪に染まった若者たちは一旦烙印が押されるとなかなか再起の道は険しいとのことです。刑務所や裁判所も更生の道に努力されていますが、引き受け手がなければ徒労に終わってしまいます。成績優秀な連中とはいえ度胸と胆力が問われます。信頼が何よりの力なのか事故は少なく立派に社会復帰を果たしている若者が少なくないようです。

中小企業が多いせいか即断即決のディシジョンが必要とされるこのプロジェクトは関西が先行しています。大企業の組織人が多い首都圏では中々根付かないというお話を伺い関東方面のお世話をお引き受けしました。中井さんの意気に感じた方も少なくなかったと思います。日本財団の正式プロジェクトも発足し、引き受けてくださる企業には月8万円を半年間助成頂けることになっています。しかし思いつきで軽々にできる仕事ではありません。中井さんは初めから受刑者本人、引き受け先従業員、顧客のすべてに情報をオープンにすることを条件にされています。先日首都圏で事前説明会が開かれましたが5~10名の小さな企業の社長さんからお引き受けしたいと8名の方々に賛同いただけました。

茹だるような灼熱地獄のこの夏、そんなことでいつになく濃密な人との出会いがありました。311以降たしかに日本は変わりつつあります。筋肉質の発言する若者も少しづつ増えているような気もします。この人になら騙されても本望と思う人との出会いが印象的な夏になったみたいです。人間65歳も越え相応の鑑識眼は養ってきたという自負もあります。でもこの人に賭けてみたいと思わせるのは相手の人徳です。それでも間違っていたら、それはもうこの夏の暑さのせいでしょう。

zeminokai000.JPG 7月、中嶋ゼミの会の総会が開かれた。先生亡き後のゼミの会については存続することに決まった。今後の仕事として、ゼミの会のサイトを構築することと機関誌「歴史と未来」のデジタル化については小生が担当することになった。7月10日、とりあえず萬晩報の下にゼミの会のサイトをつくった。

 http://www.yorozubp.com/nakajimazemi/

 歴史と未来については、まず27号までの写真を掲載し、それぞれの目次、つまりアーカイブを作成することになっている。いま15号まで到っているから、夏が終わるころには完成する。その後は機関誌のPDF化を行う考えだ。27号までの総ページは数千に及ぶだろうから、そのテキスト化には膨大な時間がかかる。

 それと同時並行して、先生の100内外の著作について「全集」「セレクション」などの形で残そうという機運が高まっている。まずは著作のPDF化が課題となろう。中嶋嶺雄記念館という発想も一部では出ているが、予算的になかなか難しそうである。

 いずれにせよ、中嶋ゼミの会という存在はなかなか強力である。200人を超える仲間の半分以上がいまだに何らかの形で先生とつながり、互いに連絡してきた。そんに長く続く大学のゼミの組織はまずないだろう。総会に出席して、そんな強い意志を感じた。(伴 武澄)
20130710.jpg小生のかねてからの時論はソーラーパネルを水上に浮かべること。フローティング・ソーラーと呼びたい。

ダムは広大な水面を持っている。水上に浮かべる最大のメリットは発電で高熱になり効率が下がるパネルを冷却できることだ。つまり夏でも発電効率が落ちない。
水力発電所があれば、送電設備は完璧なはず。揚水発電ダムであれば余った電力をほとんどロスなく蓄電することも可能となる。

それから、設置費用がほとんどゼロに近くなる。近年、太陽光パネル価格は大量生産によるコストダウンと各メーカーの競争激化で年々低下しているが、設置費用だけはコストダウンが進んでいない。水上の場合、造成費用ゼロ、架台もいらないが浮きは不可欠だろう。

ところが、これまで、僕の時論は専門家からほとんどバカにされていた。鼻から検討する価値すらないというものの言い方をされてきた。

そんな小生の時論をすでに実現しようとしている施設があることが分かった。7月10日付日経新聞の「エネルギー 明日への備え」というコラムの最終回で埼玉間桶川市の工業団地の貯水池にソーラーパネルが浮かべられていることが紹介されていた。

漁協の方は、魚やのりの養殖を海面でしていると思うす。そのブイの上にソーラーを浮かべることもできるはずだ。たぶん養殖よりずっと経営を助けると思う。

こうした楽観論を書くと、必ず台風で流木が流れたらどうするのかなど、多くの疑問が出る。ならば、河川からの流れがほとんどない揚水ダムから始めてみればいいのではなかと思う。揚水発電ダムは夜間の原発の余剰電力を溜め込むためにつくられていて、国内に何十もある。でも、電力会社が所有しているため、「見込みはないか?
thinkasia12.jpg この文章がニュースレターに掲載されるころには参院選も雌雄が決しているはずだ。日は小生が関わっている財団法人霞山会の広報誌「Think Asia」について紹介したい。2年前の創刊号に「孫文、梅屋庄吉、そして滔天、良政」と題してエッセーを書いた。アジアの平和は日中韓の協力無くして成り立たないことは自明の理である。にもかかわらず、この3カ国がこのところ角を突き合わせている。アジアにもう一度燈(ともしび)をという思いがあった。

 100年以上も前のことである。清朝が内部崩壊し西洋列強がアジアに支配を拡げていた時代、アジアには危機感を共有する組織や個人が多くあった。小生がアジアに関心を持ち始めたきっかけは宮崎滔天が書いた『三十三年の夢』にあった。

 熊本出身の滔天が我が身を振り捨てて孫文の革命に尽くした物語である。こんな日本人がいたのだという驚きだった。学校では日本がアジアを侵略したと教わったが、そうでない人たちもいたことにある種の誇りを感じたものだった。

 大学の卒業論文ではインドの革命家、チャンドラ・ボースに挑んだ。第二次大戦中、英印軍のインド人兵士を再編成し、インド国民軍を編成。日本とともにインパールの地を目指した。小生には世上、愚挙とされたインパール作戦が別のものに見えてきたのだった。

 アジアとの共感は定年後の今も続く。高知市に住み始めて、わが郷里に萱野長友という偉人がいたことを知った。滔天の物語に名前は出て来ていたが、長友の物語を学んで、これほどまでに孫文に信頼されていた人物がいたのかという新鮮な驚きがあった。

 Think Asiaはそれこそ国境を意識しない意思を意味する。国際平和協会で生まれた造語である。われわれは日本語で「アジアの意思」を訳している。現在の中国も韓国も戦前の日本にある種似た国民感情があるように思う。「売国奴」といわれたくないという国民意識である。国家に忠誠であろうとすればするほどその意識は強まる。

 両国に共通する「反日」は心からのものではないと思いたい。なにやら分からない大きなものに巻き込まれて「反日」を声高く叫んでいるだけなのだと思いたい。「反日」を叫んでいるかぎりにおいて自分は安全地帯にとどまっておられる。それに油を注ぐのがマスメディアなのである。

 学生時代、ゼミの研究室に韓国の女性が訪れて話したことが忘れられない。「日本人は韓国で悪いことばかりしたのではないのよ」と母親からさとされたというのである。「木を植えることを教えてくれたのは日本人よ」という話だった。今も昔も日本をほめることは韓国において命取りである。プライベートの席とはいえ、初めて会った我々の心をほぐしてくれた一言だった。

 その時以来、小生は売国奴と呼ばれるほどのアジア人になりたいと思っている。本当は地球人といいたいところだが、まだまだ精神修養が足りない。せめてThink Asiaの意思は持ち続けたい。東大を退官したばかりの姜尚中さんが最近、国際キリスト教大学で講演し、「東アジア共同体の虚妄に賭けてみたい」と話したそうだ。「虚妄」というところに姜さんのすごみがあるように感じられ、姜さんもThink Asiaの一人だったのだと一人合点した。(伴 武澄)
yumenonakaniikita.jpg 友人の大塚さんに薦められて前田秀峯『夢の中に生きた男たち』を読んだ。久しぶりに面白くて一気に読んだ本だった。

 戦前の柔道家、太田節三が若くしてアメリカにわたり、プロレスラー、アド・サンテルとの対決でアメリカで名を成した。やがてサザン・パシフィック鉄道の末娘と恋愛の末、結婚し巨額の富を手にしたシンデレラストーリーであるが、物語がそこで終わったのではおもしろくない。

 太田節三が渡米したのは、反日移民法が生まれス前夜、20世紀に経済大国となった日米がいずれ相戦わざるを得ないという国際情勢の中で、アメリカが勝利した後の日本再建を見通して活動する中にもう一つの信じられないストーリーが展開する。

 アメリカの財閥の娘との結婚で手にした巨額の資金で、世界平和財団なるものを立ち上げ、柔道家を中心に軍部、政財界を巻き込んで戦争回避に動くとともに、日本の戦後シナリオをも描くことになる。結論は太田らのシナリオによって戦後の平和憲法が誕生することになるという話である。

 圧巻は戦争直後にホワイトハウスで行われた慰労会の席上にどういうわけか太田節三とその秘書役の林田民子なる女性が登場し、民子がトルーマン大統領になぜ広島、長崎に原爆を投下したか問い詰める場面が設定されている。「100万人の米兵を守るため」というトルーマンの言葉に逆上した民子が一本背負いで大統領を投げ伏せ、次いで助けに入ったスティムソン陸軍長官をも投げ捨ててしまうのである。
 

このアーカイブについて

このページには、2013年7月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2013年6月です。

次のアーカイブは2013年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ