2013年6月アーカイブ

tindokusyu.jpg6月25日、上海で中国共産党第一回大会が開かれたところを訪問した。軍関係者が朝早くから並んでいた。やはりここは中国にとって聖地の一つなのである。中国共産党を生んだ李大釗や陳独秀はどういう評価になっているのかずっと気にかかっていた。展示室の中央部分に二人の肖像写真が大きく掲げられていたまずは安心した。

日本と大きく関わった人生を歩んだから特に気になっていたのだが、陳独秀は中国共産党のトップであった時代に日和見主義のレッテルを貼られて追放処分に遭っているからなおさらだ。

 1879年、安徽省安慶市に生まれ、独学で四書五経などを学び17歳で郷土の「院試」に合格し秀才の名を欲しいままにした。転機は日本留学だった。1900年代初頭から日本と中国との間を何遍も行き 来した。日露戦争前後の日本は中国人留学生であふれていた。日清戦争に敗れ、近代国家を目指した康有為らによる戊戌変法は100日あまりで葬り去られた。危機感を抱いた中国青年が新知識を求めて来日したのだった。陳もまたその一人で20歳から30歳代の多感な時代の多くを日本で過ごし、日本語を通じて欧米の政治社会、科学、文学に接し、多くの同志を得た。明治末期から大正期にかけての日本にはそれだけ西洋の社会主義運動を紹介する書物にあふれていたこと を示している。

陳の中国社会への最大の貢献は1915年の雑誌「新青年」の創刊だった。デモクラシーとサイエンスをテーゼとし、文芸や社会思想を紹介する雑誌だった。また話し 言葉で文章を書く白話運動を展開、広く共感を得た。日本で言えば「中央公論」や「改造」にあたる。知識人に投稿のチャンスを与え、中国社会で初めて論壇を形成した意義は計り知れない。旧社会を批判し西洋の近代思想の紹介が主な役割だったが、やがて胡適を中心に白話運動を掲げられ、新しい文体による小説が魯迅らによって発表される場となった。1919年、李大釗らによって組まれた「マルクス特集」は中国での社会主義思想の浸透に大きな役割を果たし、多くの市民を巻き込んだ五四運動を促す契機ともなった。

現代中国にとっての貢献は1921年7月の中国共産党の誕生である。上海フランス租界の李漢俊の自宅で産声を上げた時のメンバーはたった13人だった。実は陳は当時、広東の国民党の招きで広州市にいたためその場に居合わせていないにも関わらず代表に選ばれた。共産思想の中心的存在だった李大釗もまた欠席している。13人のうち1949年の中華人民共和国誕生に立ち会えたのは毛沢東と董必武の2人だけだった。

旗を上げた中国共産党はその後、終始コミンテルンに振り回されることになる。そして陳独秀も李大釗もその犠牲になった。コミンテルンは孫文の国民党との合作を命じたが、孫文の急死によって国共合作は崩壊する。中国共産党は蒋介石によって壊滅寸前にまで追い込まれ、陳はその全責任を取らされたのである。不幸だったのは日和見主義というレッテルを貼られたことだった。

「新青年」を創刊し新文化運動の旗手としてデビューし、五四運動のリーダーに登りつめた陳独秀は1929年、自らが育てた中国共産党によって除名された。その後トロツキストとして新たに運動するが国民党に捕らえられ、釈放された後は重慶市郊外に引き籠もり、1942年63歳の人生を終えた。

陳独秀の名は世界史を学んだ日本人にとってはなじみが深いが、中国ではあまり評価の高くなかった。90年代以降になって、ようやく再評価が進み、安徽省安慶市郊外の墓は市政府によって独秀園という名の大きな公園に整備されている。
Flag_of_Finland.svg.pngニューヨークから船出して、ノルウェー、スウェーデンへ行くと、気分は一変する。

私はまずノルウェーへ行って、オスローで開かれた万国日曜学校大会に出席した。これには四二カ国の代表者が集まって来た。神に属ける者の情熱と気魄はすばらしい。私は感激に打たれて、全欧州に於ける精神運動の火の手は、ここから上がるのではないかと考えたほどであった。

この国の習慣で、浜には王様の骸が立派な船に乗せたまま葬ってある。世界で一番勇敢な水夫はノルウェー人である。北極、南極の探検家も、この国から出た。軍隊はない。ただ軍楽隊が置いてあるだけである。

国立劇場の前には、文学的功績の多かったイプセンとビョルンソンの銅像が建っている。人口の八割はルーテル教会に属している関係で、民衆の教養が高く、彼等の生活には潤いがある。私は農村へも行って青年男女がなごやかな心で土を耕し、草を刈っている光景を目撃した。

ノルウェーの隣はスウェーデンで、私はそこの首都ストックホルムへ行った。ここは人口七五万人で、水郷の趣きがあり、歩行者の顔が美しい。キリスト教が盛んで、その精神で協同組合をやっている。市民は大部分組合員である。労働者の教養にしても、日本などより遥かに高い。夏期には必ず三週間の休養をする。その中、二週間分の費用は主人持ちということになっている。

協同組合には色々の部門があるが、その一つは住宅組合である。スウェーデンではそれが実に巧く行っている。幸福な国だと私は思った。米国では協同組合の種蒔き運動をやった私も、ここではあべこべに教わる番であった。

協同組合を基礎とした社会改革では、おそらくこの国が全ヨーロッパの模範であろう。第一、貧乏人がいない。酒を飲むには巡査の印判が要る。これは節酒令と云われている。今は労働党が内閣を組織して、日本では思いも寄らないような社会政策を実行している。総理大臣の住居というのを見たが、普通の小っぽけな家であった。私は嬉しかった。

スウェーデンに別れを告げて私は、レニングラードへもう四時間で行けるという所まで行ったが、日露戦争の時、満州軍の総司令だったクロパトキンの甥にあたるという男が、
「賀川さん、あなたが入露したら帰しませんよ。やめときなさい」
と忠告したので、私も諦める気になった。この男は白系である。

スウェーデンと隣り合せたフィンランドは、以前はロシア領であったが、宗教的精神の高挙と協同組合運動の促進によって立派な独立国となった。

その後も協同組合は非常に盛んで、この点ではおそらく世界一であろう。

私は今度の旅行で、欧州では二カ月余りの間に一五カ国廻ったが、最後にぜひ云わなければならないのは、スイスに於ける精神運動である。

スイスには、四つの人種――フランス人、ドイツ人、イタリー人、ロマン人が住んでいる。人種が違えば言語も違い、社会的にも垣が出来そうなものだが、事実はそうでない。彼等は互いに尊敬し合って、暗黙の間に感情の融和を計っている。彼等の立場は純精神主義である。世界で最初に小学校を造ったペスタロッチは、この国の人であった。彼等は今もペスタロッチの精神を精神としている。彼等の最大の関心事は、内なる光、インナー・ライトであることを知って、私は非常に感激した。内なる光が、家庭生活、社会生活の根本基調になっている。

私は昔、二等国主義というものを唱えたことがある。私のこの信念には今も変わりがない。欧州の一等国は、軍備の拡張や外交上の軋轢で血眼になっているのに、二等国三等国は、いつの間にかちゃんと平和な楽園を築いている。

そこには霊火が輝いている。私はそれを満喫して来た。(『雲水遍路』から)
探検家の植村直己は北極圏探検を幾度かしているが、犬ぞりには苦労したらしい。彼が特訓を受けたアラスカは犬の隊形が2頭縦列であった。ところが北極縦断の基地としたのはグリーンランドだった。そこでは全ての犬が一本のロープにパラシュート状に結ばれ、まるで勝手が違った。同じイヌイットでもアラスカからグリーンランドに渡った部族でこんなにも違うのかと探検記にある。

犬のコントロール法がまるで違うらしい。アラスカ型ではリーダー犬を先頭に配して、御者役の人間はリーダー犬とコミュニケートする。グリーンランド型はリーダーはあくまで御者で、リーダー犬はいるものの御者が全体を指揮する。しかも一頭、紐の短い犬を配置してこの犬の役目は鞭を当てられ悲鳴を上げる役割。ヒィヒィキャンキャン泣きわめき全員に緊張感を走らせる。だから声の大きいデリケートなのが選ばれる。泣き犬である。こういう仕事の仕方をする人も泣き犬を命じられた人もこれまでに会社生活で何例も見てきた。でもどうもこれには馴染めない。やはりアジア型の仕事は、人の場合もパラシュート型でなく縦列型なのだろうか。縦列型はリーダー犬が弱いと付和雷同で迷走するらしい。
 
先日のサッカーW杯出場を決めた日豪戦直後の記者会見。席上、本田圭佑選手の発言は見事だった。「各人もっと『個』が強くならないと!僕たち、チームワークは生まれつきの能力として持っているわけで、その上でさらに各々が個を強く高めていかないとブラジルでは勝てない」と危機感一杯に語った。日ごろ国際絡みの仕事をしている人たちはハタと膝を打ったことだろう。そうなのだ!和を尊しとして協調性に富む国柄は十分みんな分かっている、でもそれだけでは世界で戦っていけないのです。この辺りをNHKのニュース9で池上彰さんが解説していた。わざわざ池上さんがゲスト出演して解説するほど、本田発言はアベノミクスの安部ちゃん発言なんかより数段インパクトがあった。

翌日のメディアは一様に「会場が凍りついた・・」、「チームの和を乱す発言」、「先輩を名指し批判」とか面白おかしく書きたてていたが、いつものことで本田選手はこのような反応も百も承知で一石を投じたに違いない。NHKがニュース9で取り上げたのもある意味、発言の意図するところがサッカーに止まらぬものだったからだと思う。それにつけてもマスコミ諸氏の相も変らぬことよ。その方が売れるのかも知らないが、「なかよしくらぶ」を払拭して「個」を強化せねばならぬのはマスコミの方ではないだろうか。
 
                   龍谷大学 社会学部 教授 中野 有
 
最後の土壇場でPKを決めた本田選手には劇的なメークドラマを演出するカリスマ性が備わっている。「真ん中にけって、取られたらしゃーないなと思ってけった」、勝負師の言葉には重みがある。もしキーパーが本田選手の心理を読んでいたら成功の重みと同じぐらいに非難の的になっていただろう。
 
今のアベノミクスの現状は、ワールドカップ最終予選と同じぐらいに失敗が許されない状況にある。PKこそキッカーとキーパーの心理作戦であり、アベノミクスの成功と失敗の明暗は、認知心理学、即ち国民や世界が読む空気によってどっちにも転ぶ。それほどにもろいものであるかもしれし、また本田選手のようなカリスマを備えた人物が行動すれば失敗の確率は極めて低い。
 
そもそも一国のリーダーの重要な役割は、豊かになるための戦略を示し行動することである。リーダーシップ論によればそれが専制的であっても民主的であっても国民の自由に任せる放任主義的であってもいい。とにかく結果がすべてである。
 
アベノミクスに関しては実体経済の結果が出る前に予測を凌ぐ勢いで株価が大きく上昇し、行き過ぎた円高が是正され何か急に社会の空気が楽観的になったような気配を感じる。平成に入りずっとデフレ不況が続いていたのにインフレになり雇用状況が改善されるのではないかとの期待感を高まる。学生の就活の状況からも経済の上昇気流を感じる。
 
アベノミクスの勢いの源は、安倍総理自身が明確なビジョンを提示し、実際に行動しているところにある。また、大胆な金融政策と、機動的な財政政策と民間投資を喚起する成長戦略の三本の矢を国家的なコンセンサスのベクトルとして示したところに帰結する。
 
英国の週刊誌であるエコノミスト誌の表紙に安倍総理がスーパーマンの格好で描かれ、アベノミクスの特集を組んだ。まるで「ジャパン・ナッシング」から34年前の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に回帰したような久々に元気が出るニュースである。
 
日本がデフレから脱却するために米国の経済学者であるポール・サムエルソンやノーベル経済学賞を受賞したジェームス・トービンやポール・クルーグマンは、円を増刷する金融緩和と財政出動による公共投資の推進を何年も前から提唱してきた。
 
これらを実行するベストのタイミングとアベノミクスの実施が一致したところに安倍総理のカリスマ性を感じるのである。
インフラ輸出、文化輸出、農業の所得倍増、グローバルな教育などの成長戦略を見ると1954年から1971年までの世界のいずれの国も成し遂げることができなかった奇跡的成長の軌道を彷彿させる期待感を感じる。少なくとも平成に入ってからアベノミクスが最もインパクトのある成長戦略であることは確かである。
 
アベノミクスの明暗は、ケネディ大統領のフレーズにあるような「国に頼るのでなく国のために何ができるかを問いかけること」にある。何よりも将来を担う若者がアベノミクスを咀嚼し行動に出ることにある。
 
安倍総理の「世界で勝って家計が潤う」という官民一体となったトップセールについての45分の講演を大学の講義で披露した。200人規模の学生の大多数が非常に高い評価をしていた。とりわけ、安倍総理の「そうだ、日本に行こう」というフレーズで日本の存在感を積極的に世界に示し、ビジネスを行うとの「挑戦・海外展開・創造」が響いたようである。
 
アベノミクスの三本の矢は、金融と財政と成長戦略が連動して初めて機能するものであり、その原動力となるのが国民の意思である勢いを生み出す空気や環境である。失敗するなら三本の矢が国民の負の認知と行動により政府・企業・家計が守りに入ったときである。今、希求されるのは本田選手の最後の土壇場のPKのような思いっきりであり、それが日本の命運を決定するのであろう。
lrg_10237547.jpg 第一次大戦で独仏は信じられないほどの消耗戦をヴェルダンで戦った。不毛の殺し合いがEU誕生につながったのだとしたら悲しい歴史となる。しかし、われわれ東洋の人々はこの不毛の殺し合いの事実をあまり知らされていない。賀川豊彦の旅行記『雲水遍路』を自炊しながら考えさせられた。この文章に登場するペタン将軍こそは第二次大戦でナチの傀儡政権の首班となった人物である。

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 ペタン将軍は、また自動車の運転手を射られた。これで7人目である。

 そして、不思議に、彼だけが助かっている。彼の速力は平均60哩を下らない。まるで弾丸の飛ぶようだ、彼はその自動車を5台まで乗り潰し、彼の従卒を3人まで殺されてしまった。それでも、彼はまだその速力をゆるめ無い。

 ペタン将軍の速力が鈍らない間は、ヴェルダンの守りも破ることが出来ないであろう。

 独逸軍は、そこを4年8カ月打ち続けに攻め付けた。砲火の為に、森も林もみな焼け落ちた。それは恰も太陽の前に、水蒸気が蒸発するように、ミューズ川のほとりの美しい樅の林は株だけ残して、みな蒸発してしまった。

 村落も形を没した。一尺四方に弾丸が幾千貫と降り積もった。何人もそんなに完全に人間の破壊力があり得るとは信じなかったであろう。石と石が相重なり、瓦の上に瓦が積み重なっている所は一カ所にだって見ることは出来ない。砲弾の力で、石も、瓦も、煉瓦も、人間までが、完全に粉砕されて、土壌に化してしまった。ここでは、村落までが砲弾と共に昇天してしまったのである。

 5月3日、私の汽車は巴里から約4時間、独逸の国境に向って小山と平原の間を走って、ヴェルダンに着いた。漫遊客の多い、春の回覧季が過ぎたので、私は案内者を発見するに困難を感じた。32哩の間を自動車で見て廻るに客は私一人であった。

 案内者が、私に
「あしこにも300戸ばかりの村があったのです」
 と指差してくれた。そこは、一本の棒杭が嘗てあった村を記念する為に立てられてある切りである。そんな村が「ヴォ」の附近にも、「デュモン」の附近にも、何カ所もある。何万町歩の大森林は、すべて空中に烟として舞い上がり、今はただ松柏類が未だ地上に生え出でなかった前の原始の沈黙に帰って居る。

 細雨がしとしとと降る。そして、地下の英霊がみな泣いている。形ばかり十字架に組み合わせた細い角材が、林檎畑に苗木でも植えるかのように、何万本となく立てられである。それが、ここに、「2万」あしこに「1万」と組になっている。人間の種が生えて来るのであろうか? 十字架に枝が伸びて、アロンの杖の奇蹟のように、生木に芽でも吹くのであろうか?

 春雨に十字架が泣いて居る。私には、1本の十字架に一人の生霊が白い衣を着て立って居るように見える。そこには、敵も味方もない。みな、私の方を向かって立っている。

「徒労! 徒労! それは、あまりに大きな犠牲であり過ぎる」

 こうすべての生霊が私に向かって囁く! 私は、彼等の顔をよう正視しないで、仰向く。私は、彼等を慰める言葉を持たないのである。それを犠牲の死と考えるには、あまり安価過ぎる。それを犬死と考えるには、あまりに高価過ぎる。それは、大きな誤謬の死であったのだ! 文明の錯覚に、袋小路に入った畑鼠が、自分で自分を落し穴に追い込むように、文明人は自分が発明した大砲の前に自分を縛り付けた。その発明は有力なものであった。そして、完全に、自分が自分を粉砕することが出来た!

 吁、機械文明の最後! 呪詛と憎悪を弾丸で打ち貫くことを学ばないで、愛と仁侠だけを破壊することを覚えた商品文化の末裔よ!

「独逸軍は、ここで、1日に4万人死んだのですよ、あの丘を乗り越え、この谷の間に侵入したのですが、みな網に引っ懸かった小鼠のように死骸となって、そこに倒れたのです。彼等のその時の犠牲は、一週間に27万人を降らなかったでしょうー」こう、案内者は云った。――

 デュモンを過ぎ、オサリーの記念会堂を後にして英語で「空(うつろ)の洞と呼びならされている所から、谷間に、降った時に。

 それは、文字通りの死の谷である。未だに燃えくさしの木の株が幾千となく、谷に面した丘陵の斜面に残っている。

 何処を歩いても、「徒労! 徒労!」と、土の中から叫び声が聞こえる。「死の谷」では、二七万人の屍が、一声に、「徒労!」と私に向って叫んだ。

 それは誠に徒労に違いない。1300万人の人間を殺し(正確に云えば1299万571人)、2200万人の人間が傷ついて、独逸が亡びたので無ければ、フランスが勝ったのでも無く、世界はそれによって少しも善くならないで、依然として、暗黒と不安の中に座っている。それを思うとヴェルダンで捨てられた100万人の魂は、全く無用の死であったと考えて差し支えはない。(フランス軍だけでヴェルダンの戦死者は40万人で、その中30万人の屍は全く判別のつかぬ白骨と化した)

 私は、ヴォ Vaox の砲台と、デュモン Doumont の砲台に案内せられた。そこは、今なおフランスの兵士が、遊び半分に番をしている。私達が行くとカンテラをつけて、地下の秘密室を案内してくれた。鉱山の坑道のようになっている所を降って行くと、或る道は塹壕に連なり、或る道は地下の発電所に導かれる。そこには病院あり、礼拝所あり、弾薬庫あり、戎器(じゅうき)室があると云う仕掛けで、兵士の寝室はみな、汽車の寝台のように、ごく粗末な蚕棚になっている。

 地下の温度が高いものだから、天井裏から露がポツリポツリ落ちてくる。地下の要塞は階段の下に階段があって、余程、地理に詳しい人でなければ、一旦入っても出てくることが出来ない。要所々々に歴史があって、ここで、独逸側から掘ってくる塹壕と衝突して、一週間も相対峠していた所だとか、この砲門から、幾千の独逸兵を一度に射殺したのだとか、戦場にふさわしい物語を沢山聞かされる。

 ヴォもドュモンも、深い谷に面した丘陵の上に立っている。そして、完全な地中の要塞になっている。その地中の要塞の小さい砲門からミューズ川の流域を眺めると、如何にも美しい。それは武州八王子附近の景色によく似ている。丘陵の後に、丘陵が重なりミューズ川は、その丘陵の間を銀色の鱗を持った大蛇のようによこたわっている。丘陵と云っても、あまり高くない山ばかりであるから、西北部は、遠く独逸の領域まで遥かに望むことが出来る、誠に一望千里、ヨーロッパの平原は、ヴェルダンで見るほど、荘厳な感を与えるところは、他に無い。

 私はドュモンの地下要塞の砲門から、ミューズの渓谷を覗いている中に考えた。

「こんなに平ったくて、こんなに相接しているから、喧嘩が起こるのだ。もう少し、高い山か、広い川でもあれば、はっきり、区切りが附いて善いのだが.........」

 独仏の喧嘩は、正しく、あまり接近しているから起こって居るのである。相似たものほど競争が激しい原理によって、独逸とフランスは、あまりに能力が相似ているものだから喧嘩をする。それは恰も、共産党と社会党が喧嘩する如く、新教と旧教が相争うが如く。

 然し、それは全く無意味な闘争である。――共産党と社会党の喧嘩が無意味なるが如く、新教と旧教の争いが無用なるが如く。

 然し、そこに人間の愚さと、無智な点がある。無意味だと知りつつも亦、無効だと知りつつも、兄弟を押しのけたい嫉妬と独占の心理が、軈(やが)て共倒れの運命を、両者の為に持ち来らせるのである。

 人間は動く為に出来ている。そして、何かに打ち衝(あた)って行っている間は元気が善い。それで、人間は、時によると、打ち衝らなくても善いものまでに打ち衝って行く。――独逸とフランスの戦争、共産党と社会党の喧嘩、新教と旧教の派争がそれである。

 私はドュモンの記念納骨堂の十字架の聖像の前に立って、キリストが涙を流して居るのをみた。
 塹壕の夜、敵と味方の区別なく、そこに倒れている傷病者の為に、末後の水を汲んで居る白衣の聖者が、毎夜戦場を粛然と歩いているのを多くの兵士等はみたと云う。誰云うとなく、それはキリストだと云い出した。

 銃丸を恐れざる白衣の聖者は、今、納骨堂の御灯の間に立っている十字架の上に泣いて居る。ヴェルダンの戦場を見て、キリストは、どんなに泣いたことであろう。彼は人間の迷妄に堪え兼ねて、永遠に贖罪の死を遂げて居るのではないか!

 私が、聖像の前に跪いて、黙祷して居る間に、霖雨はトタン屋根を叩いて、軒の雨垂れは咽んで居るように聞えた。

 キリストが泣いている! キリストが泣いている! 聖像の上に泣いている! 屋根裏に泣いている! 雨垂れの中に泣いている! 霖雨として泣いている! 私として泣いている! ヴェルダンとして泣いている! 荒れすさんだ高原は、声を立てて号泣している! 救われざる土地! 贖われざる土!

 私は跪いている土の下より、声を立てて泣いている強者の嘆きをきく。――「贖われない、贖われない。何人か、人間の矛盾より解放してくれるもの.........」と。

 ああ、欧州のキリスト教は、あまりに無能で有った! ただ信ずる事を教えて、愛する事を教え無い、偽キリスト教! 贖主を拝んで、贖わんとする意志を抛擲(ほってき)した偽信者!

 いつまで、イエスを十字架につけておくのだ! 永遠にか? そうだ、欧州のキリスト教は永遠にキリストを十字架につける!

 キリストは既に甦ったはずだ。――我等の霊の中に甦ったはずだ! 愛として甦り、救いとして再生したはずだ! それだのに、欧州のキリスト教は、キリスト一人を永遠に、十字架に磔けて、自分はそ知らぬ顔をして居る。

 十字架の上に、キリストが泣いているのは当然である。

 然し、十字架の真理は永遠である。この荒波も軈(やが)ては、花咲く緑の野となろう。贖いの力は永遠だ! やがては、またミューズのほとりに聖歌の声の鳴り響く時が来るであろう。どれだけ人間が馬鹿でも、神の救いはそれより以上に愚かでは無い。根強い救いと、根気の善い御計画に、人間の馬鹿がみな贖れる日がくるのである。ただ、それを信じよう。その救いの計画を、自分を貫いて成長せしめよう。

 十字架の上から、キリストが降りて来て、彼は私の胸の中に入って行った。彼の血は、私の血に混じ、彼の脈拍は、私の脈拍として信ぜられる。贖罪への出発だ! ー人の尻ぬぐいに出掛けるのだ!

 もう、私は泣かない! 私は復活のキリストを見たでは無いか! 私はキリストの事業の後継者ではないか! キリストは私の魂に生きているではないか! 私はキリストの断片ではないか! 「私」としてキリストではないが、神に魅せられたものとして、そうだ!

 私は神の国の世嗣ぎだ! 神の子だ! 「贖罪愛」の後継者だ! 私にキリスト天地の「贖罪愛」(キリスト)が侵入して来た事によって、そうなった。何時まで、私は黒土の嘆きに悲しむか! 私は天の癒しに、既に天につけるものではないか!

 私は、祈っている中に、天にこんな声を聞いた。

 悩むものよ、わび人よ、
 窓の座に、来れや!
 天の力に、癒し得ぬ、
 悲しみは、地にあらじ!

 歴史上に現れたキリストは、宇宙に充つる贖罪愛の現実的表象にしか過ぎぬ。真のキリストは、歴史上のキリストより偉大である。歴史のキリストは1900年前に死んだ。然し、宇宙に満つる贖罪愛のキリストは、永遠に私の胸に生き返って来てくれる。永遠のキリストは、歴史上のキリストの連続性である。嘗て、その愛の泉に涸れたことが無い! 永遠のキリストよ、湧き上れ! 永遠の愛よ、ほとばしり出でよ.........

 私は、ドュモンの瞑想の中にこんな意味のことを示されて、再び立ち上った。それで、私は納骨堂から出て、「空ろの洞穴」まで行く間、「天の力に癒し得ぬ、悲しみは、地にあらじ」を小声に口ずさんだ。

「空ろの洞穴」は、セメント・コンクリートで作った¬形(かぎがた)になった回廊の如き建物である。108人の英雄が、剣突き鉄砲のまま、ここに埋っているのである。回廊に似た¬形の建築物は、塹壕の形である。塹壕が¬形に掘られてあるのだ、その中で、108人の連合軍の兵卒が、剣突き鉄砲で進撃の準備をしていたのだ。

 その時に、空中に、百雷の響き、轟き渡り、一瞬の中に、その塹壕は地中に没し、わが勇敢なる兵士等は、剣突鉄砲を地上にもたげたまま、埋れてしまったのである。休戦の喇叭(らっぱ)響き渡り、戦場を片付ける為に、看護卒が、そこに馳けつけた時に、一〇八つの剣銃は、恰も勇者の墓標の如く、その下に一つ一つの英霊を埋めて空しく立っていた。

 軍司令部は、その悲愴な光景を見て、それを、永遠に記念すベく、その上にセメント・コンクリートの回廊を作った。それは家でもなく、納骨堂と云うのでも無く、吹きさらしの空ろである。さればこそ「空ろの洞穴」と云う名が与えられたのである。

 ヴェルダンのすべての死骸は、もうみな片付けられた。然し、ここだけは、永遠の進撃を記念する為に、そのままに残されている。私は地中の兵士の姿を見透(すか)すわけには行かない。然し、おそらく、彼等は未だに、休戦喇叭を聞かないで居るであろう。その顔を、敵陣に向け今もなお屈せざる進撃を続けているであろう。彼等は死に面して、死を怖れず、振り上げた銃剣を、そのまま降さずに、そこに不動の姿勢を取っている。
 永久の不動の姿勢! そして永遠の進撃! 彼等は、未だに1918八年11月11日の休戦喇叭を聞かずに、地中に立ちすくんで居ることであろう!

 今は休め! 勇士等よ! 我等は、永遠の誤謬から解放して貰おうではないか! 新しき時代には、新しき進撃がいる。私は、君等の進撃を咎めるわけでは無い! 然し、血の為の進撃は、愛の為の進撃に訂正せられるべきはずだ! 

 休め! 兵士等よ! 新しき号令のかかるまで、そこに休め! 我等は兄弟垣に鬩(せめ)ぎ、父子相争う、人間闘争より解放せられねばならぬ。行け、勇士よ、新しき戦いに! そこは、愛と十字架の外には何者もなく、自由と一致の外に何者もなき改造の世界へ!

 欧州は今なお低迷の世界に彷徨いている! 贖ってやれ、勇士等よ、汝の塹壕より躍り出でて。
 霖雨は、私の外套をしっとりと漏らし、私の中折帽の縁を伝って、滴が垂れる。

 ヴェルダンの小山は雨に烟び、私は、永遠に黙せる英雄の剣先を見守って立つ。ミューズ河は白く光り、国境の山々は靄に蔽われている。

 いつ、この霖雨が晴れることか? ヨーロッパは永遠の雨だ!
00226.jpg 伊勢神宮のおかげ横丁の角に「もめん屋藍」という藍染布の店がある。藍染め本家の阿波徳島にもないほどの豊富な品揃えで、藍染め商品を扱う店舗としてはたぶん国内最大だろうと思う。

 津市にいたころは大した物も買ったことはないが、好みの店の一つで伊勢神宮を参った後にはちょくちょく立ち寄った。会社を定年となって高知へ帰ることを決めたとき、途中に伊勢神宮をお参りし、思い切って藍染めの座布団を一揃え注文した。この店では好みの綿布であつらえてくれるのだ。もちろん浴衣でもシャツでも仕立ててくれる。

 何度もこの店に通ううちに藍染めは綿布でなければならないと勝手に決めつけるようになっていたが、寂しいことに藍染めの綿布を織るところは三重県では津市一身田の臼井綿布だけになっている。江戸時代に一世を風靡した伊勢木綿はもはや産業としては成り立っていない。
 伊勢と木綿織りとどういう関係にあるのか。実は江戸時代、伊勢は伊勢木綿と呼ばれるほどの綿織物の一大生産地だったのである。当世風にいえば「コットンファッション」のメッカとでも表現できるかもしれない。〝デザイナー〟たちがそれぞれに江戸にアンテナショップを開いた。店のロゴを染め抜いたのれんが並ぶ大伝馬町の錦絵さえ残っている。発信するファッション情報は町民たちの牛耳を集めた。

 江戸時代のファッションは当然、着物である。着物は洋服と違ってまとうものだから、形に変化はつけられない。だから着物を選ぶ際の決め手は素材と色と柄となる。木綿は日常の着物。コスト的に凝った染め付けなどとは無縁の世界。伊勢木綿が差別化したのは格子柄や縞模様だった。その組み合わせで毎年新しい流行を作り出していたというのだから驚きである。

oharaimachi015.jpg 江戸幕府は士農工商という身分制度を押しつけ、町民に絹織物を身につけてはならないというお達しを出し、町民が華美に走ることを戒めた。しかし戦国時代からの日本経済は商人の存在なくしては立ちゆかないほどの商業の時代に入っていた。交換経済から通貨を基礎とした商業の時代へと大きく転換していた。

 背景には金銀銅鉱山の開発が進み、日本は世界に冠たる産出地としてヨーロッパでも知られるようになっていたこともある。通貨の流通によって商人たちの社会的地位は著しく向上していた。

 それまで日本人の多くは麻を多用していた。絹は貴族のもので、庶民はもっぱら麻の着物を着ていた。インドからイギリスに綿織物がもたらされたのは十七世紀である。その後、イギリスは蒸気機関の発明でインドから綿織物産業を奪うことになる。その産業革命の前に伊勢の地で木綿が大規模に栽培され、綿織物業が勃興したと考えると面白い

。木綿の栽培には大量の肥料を必要としたが、伊勢の地では沿岸でとれるイワシが畑に投入された。日本人の貴重な蛋白源であったイワシが伊勢では畑に肥料としてまかれていたことも興味ある歴史である。農業を含めて日本経済全体が相当程度レベルアップされていた証拠である。伊勢の他に尾張や和泉でも木綿が生産されていたが、畑に海の幸を大量に投入する農業が始まったことは産業の大きな時代の変革だったといえるのかもしれない。

 戦国時代、商人を重用した大名が伊勢の地にあった。近江国日野村から出た蒲生氏郷だ。豊臣秀吉によって松阪の地を得て松阪城を築き、近江商人を多く招聘した。氏郷は短期間で伊勢を去り、会津に新たな知行地を得たが、商人たちは伊勢が生み出す綿布に価値を見出し、農民に綿織物を奨励しやがて大消費地となった江戸に売り込むことに成功した。

 松阪を中心とした商人たちは江戸の大伝馬町に出店をつくり、町人たちが好む織り柄を次々と生み出した。伊勢商人の筆頭格は三井家利高だった。日本橋に三越を経営した。同じ伊勢の小津清左衛門商店は今も東京に紙問屋として続く。安濃津の川喜多商店は明治以降、金融業を営み現在は百五銀行となっている。イオンの岡田商店もまた四日市の織物問屋だった。

 伊勢商人のキャラクターとしては彼らの商売はかなり手堅かったことから「近江泥棒、伊勢乞食」と言う言葉が残されている。近江商人はがめつく、伊勢商人は、貧乏な乞食のように、出納にうるさいと言う意味である。

 興味深いのは白子の型紙である。木綿織りは町人たちの着物として安価でなければならなかった。そこで考案されたのがプリント地のための型紙である。柿渋を何度も紙に染み込ませて切り抜きデザイン化したものである。現在も型紙のカタログ風のものが残っていて、白子の商人たちが全国の染色業者を回って注文を取っていた。

 明治以降、ヨーロッパから新たな機械式織機が入って来て、伊勢は引き続き綿織物産地として発展した。東洋紡は発祥が四日市で三重紡績と名乗っていたものが、1914年、大阪紡績を吸収して東洋紡績を社名変更した。

 面白いことにイオンが全国に展開する巨大ショッピングセンターのほとんどはかつての紡績工場の跡地であるそうなのだ。

314717.jpg 高知県でエピ饅の名で知られたエチオピア饅頭の近森大正堂が5月31日、約100年の歴史に幕を閉じた。何の変哲もない黄饅だったが、ネーミングが土佐人らしかった。初代の店主がイタリア軍の侵攻に立ち向かうエチオピア軍の映画に感銘して命名した。3代目の店主近森悠之さんが4月、亡くなり、閉店を決めた。県下のほとんどの新聞が今朝、エピ饅の終わりを惜しんだ。

 報道によると、最後の日となった31日は昼に用意した1万個を完売したというからすごい。妻の親友は安芸市から車を走らせて最後の日のエピ饅の行列に並んだとFacebookに書いていた。高知の人たちのエピ饅への思い入れは半端ではなかった。数百万円の売り上げである。この10分の1でも毎日売れていたら家族も店を閉めることはなかっただろうにと残念で仕方がない。

 僕がエピ饅を知ったのはそんなに昔ではない。共同通信で47NEWSを立ち上げたころ、地方紙の人たちと地方も面白い食べ物を探した。高知では帽子パンとともに名前の面白さからエチオピア饅頭が評判となった。

 2週間程前、高知龍馬空港に行った帰りに立ち寄ったが、まだ午後2時だったにもかかわらず、完売の看板がかかっていて店は閉まっていた。その2カ月ほど前にエチオピア饅頭がなくなることも知らずに2箱買って家族で食べたのが最後となった。

 店頭には「エチオピア饅頭のしおり」がおいてあった。内容を転載したい。

 大正八年、近森大正堂創業の地、高知県香美郡野市町(現 香南市野市町)一帯は白下糖と呼ばれる黒糖の特産地でした。
 初代店主はこの白下糖に加味工夫し、黄まんじゅうを製造し「のいち名物」として発売し、その素朴な風味は、広く親しまれて居りました。十数年後、エチオピア大国はイタリアの侵略を受けましたが、エチオピア軍は勇敢に迎えうち苦戦のうちにも撃退する事が出来ました。このニュースに非常に感動を受けた主人は、このエチオピアの名を敬意と賞讃を込めて、愛するまんじゅうに名づけ「エチオピア饅頭」と改めたのでございます。
 初代店主のエチオピア国への思いは、約六十年後の平成八年十二月、駐日エチオピア大使アーメット・マハディー大使とザイナバ婦人の訪問を受け、エチオピア饅頭をエチオピア国より公認し支援をしていただきました。

        主人 敬白

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