2013年4月アーカイブ

これまで3回にわたりアメリカに住む日系の人たちについて書いてきた。仕事を通じて、云ってみれば偶発的に知ることになった彼らだが、彼らの暮らしや価値観に接して数多くのことを学んだ。翻してみれば、それはやはり私たち日本と日本人のことに行きつく。最終回はそんなことなどを書き記してみたい。

ポルトガル人のジョークに「英国やスペインは武器の力で世界を征服したが、俺たちポルトガル人は愛の力でブラジルを勝ち取ったよな?」というのがある。これは冗談だとしても、なかなかに的を突いた言葉だ。国を出て行くときの自らの垣根のことでこれが非常に低いのだ。前回も取り上げたが、行った先で子の世代にはその国に同化して生きていく民族性とそうでない民族性がある。その点、日本人はポルトガル人と似ている。日本人が愛でアメリカに潜り込んだとは思えないが彼らと同じように垣根が低いのだ。子や孫の代になっても中国人や韓国人はその国でしっかり自国のコミュニティを作り現地に溶けない。大戦中、アメリカ人に愛される日系人とその誇りのために命を賭して戦った442連隊や第100大隊の働きが象徴している。どちらがいい悪いでなく、そういう民族性なのだろう。

愛で征服する国と愛されるために戦った国、日葡両国の親善のためにもう少しこの話を続ける。ポルトガル語にサウダージ(郷愁)という言葉がある。若いころから僕はこの国の民衆の歌でもあるファドがこよなく好きでレコードやCDを集めたりして来た。このファドの底流にある想いこそサウダージなのである。ある時驚いたことがある。それはこのファドがブラジルのポルトガル人達の郷愁や望郷の想いが歌になったもので、そもそもの始まりだったことだ。だからファドはブラジル生まれだった。それがポルトガル本国にも伝わって広まった。知らなかった。歌は高きから低きへ本国から現地に流れ着くことはあっても、その逆はないという僕の勝手な思い込みを恥じた。

そのサウダージである。望郷の想いとは帰りたくても帰れない境遇から生まれるのだろう。小金を貯めて国に帰る、つまり出稼ぎ根性からは生まれないのだ。すでに書いたが日本からの移民たちも当初は出稼ぎ的な色彩が濃かった。時を経て国の事情も変わり、その国に骨を埋める覚悟が出来たとき、日系一世たちの胸に去来したのはこの望郷の想いであったことは想像に難くない。

40年ほど前、入社して間もないころアメリカが見たくて会社に無理を言って西海岸に出向いたことがある。サンフランシスコの日系街でふらりと入った食堂の壁に大きく「美空ひばり来演!テケツ$10.00」と書かれていたのを想い出す。テケツというのが分からなかった。日系英語でTicketのことだと分かったのは後のことだった。「ひばりが来るならテケツ買わにゃ!ワシらの生きとる間にはもう見れんよ。」ひばりさんは日系一世の人たちにとって紛れもなくファドであったに違いない。

そんな風に、出向いた先の現地では垣根の低い民族性の日本人だが、一方で国の政策として自国の防御のために日本はえらく垣根を高くしてあるのが気にかかる。外国人労働者の流入、難民の受け入れ実績、送り出すのに易く受け入れには難い移民政策など他国と比べてもそのハードルは異常に高く設定されているように思えてならない。

戦後の日本の繁栄はそのような、云ってみれば堅牢な安全装置で守られたビーカーの中の繁栄とも取れなくはない。移民制度を基本として成り立つアメリカは、それはそれで問題も数多く抱えるけれど、来るものは拒まずの国の基本政策にいささかの揺るぎもない。この不器用なまでに貫かれる基本姿勢には教えられることも多かった。

例えば子供たちの教育。小中学校で英語の解せぬ児童、生徒が一定数(それも3%とか5%極めて少数だった)を超えると、学校には特別クラスが編成され英語をまず話せるように努力する。努力ばかりでなく成果を着実に出していくのだ。これは子供を抱える父兄としてはそこまで国や自治体がやるのかと驚きもし頼もしかった。

我が国も一連の国際化への潮流のなかで、日本が一定のプレゼンスを果たすためには相応の覚悟でこれまでの安全装置としての垣根を低くすることを考えねばならぬだろう。仏のアルジェリア人労働者問題、独のトルコ人問題など欧州各国の労働事情は火種を多数抱えながら、それでも正面から取り組んでいる。日本はあまりにこれまで垣根を高くしておいて、知らしむべからず拠らしむべし一辺倒できた。これはもう通用せぬ時代が来ている。

月に一度2時間、神奈川県警外事課の若い刑事さんに当世国際事情をご進講するおしゃべり会をもう2年ほども続けている。不法外国人就労、覚せい剤所持、違法風俗営業取締、垣根を低くすればするほど現場はホントに大変だと思う。ヘイトスピーチなどといった特定の外国人排斥の罵詈雑言、暴言をプラカードにして練り歩くデモなどもこの処出回っているらしい。しかしこれだっていつの時代にもこういうエキセントリックな奴らはいる訳で、これらの悪態を取り締まる法規がないこと自体が問題だと思う。現に欧米諸国でそんなプラカードを掲げたらすぐしょっ引かれる。何も起きない穏やかな金魚鉢を前提に出来ている仕組みがすでにおかしいのだ。「言っていいことと悪いことがある」という法規は国際的にはスタンダードなのだ。垣根は低く問題には厳しく処する。先進国である以上は、国レベルでも応分のノブレス・オブリッジの基本姿勢が求められているのではないだろうか。

異質が混じり合ってこそ新しい文化や潮流は生まれるというのは、今後さらに国際化する我が国の運営に必須のスタンスだろう。古くは遣隋使、遣唐使の時代から我が国は他国に異質を求め国の繁栄の基礎を形成してきた。そして固くガードされた国の内側ではその閉鎖性が故に、日本独自の価値観や美意識も育てた。しかしこれに一方的に依存していては単なるガラパゴス系の進化と揶揄られても致し方あるまい。

単に観光旅行であれを見てきた、これが美味しかったというのも結構だと思う。しかし異文化の狭間で生活し自己のアイデンティティに目覚めることのできる留学生にはうんと頑張って外に出て行ってもらいたい。一方で日本を目差す海外の若者にはうんと門戸を開いて日本をもっとよく知ってもらいたい。日本に来た留学生が日本嫌いになって帰国するケースが少なくないと聞く。残念なことだと思う。そして内向き志向の日本の学生たちだ。彼らが内向きにならざるを得ない背景には彼ら海外へ飛躍する学生の帰国後の審査基準が目先の評価や尺度で決められて留学経験が自身の将来に決して有利に働かないといった要素も少なくないらしい。困ったことだ。

人生のある時期にまるで通りすがりのように日系アメリカの人々と身近に接して来たわけだが、見も知らぬ異文化に身を投じ無手勝流に自己を形成していった彼らと親しくなって本当に教えられることが多かった。それはまたこれからの日本と日本人が求めていかなければならない拠りどころなのだと思っている。最後に、国を出て異国に渡った日系移民の人々が辿った歴史を知ってもらうためにも、日系アメリカ人のこと、日系ブラジル人のことのあらましをWikipediaに求めてみた。ご理解の一助にしていただければ嬉しくおもう。

日系ブラジル人

090906takeuchi300.jpg 日本で失業保険が誕生したのは神戸市である。そしてそれをつくったのは賀川豊彦の弟子の武内勝であることはほとんど知られていない。武内方式がやがて東京市でも採用され、全国に広がった。そう考えると失業保険一つとっただけで賀川豊彦という人物を再評価する必要があると思うのだ。

 このことは賀川豊彦の『日本協同組合保険論』を自炊していて感じたことである。以下、その十四章を転載する。

  第十四章 失業保険組合の諸問題

  道徳危険率の最小限度
 我国に於いて正式に失業保険組合というものは法制化せられていない。しかし、労働者共済組合の名に於いて神戸市役所は既に昭和十年頃より、失業救済の方式を案出した。この方式は神戸市労働紹介所長、武内勝氏の努力によって結実したものというべきであって、我国の労働法制上には特筆さるべきものである。
 西洋に於いても自由労働者の失業保険組合は見出すことが困難である。然るに神戸市に於いては自由労働者は毎日五銭ずつ、共済組合費として出資する義務を負わされている。同時にまた傭主も自由労働者を傭う場合には、共済組合費として賃金のほかに五銭を支出しなければならない。さらにこの上に神戸市役所が相当なる補助金を支出することになっている。
 これは好景気のときでも継続せられているために、不景気になったからと言って。失業保険金の支出に困難を感じることはない。
 しかし、毎日、失業手当金を給付すれば怠惰者を作るので。毎月三十日のうち三日休んで二日は必ず労働しなければならないことになっている。そしてあとの十八日間に対して失業給付の手当が毎日六十銭ずつ与えられることにしてある。それで凡ての自由労働者は毎年十月一日労働紹介所に登録しなければならない。そして失業した者はその登録順によって数班に分ち四日目に二日ずつ仕事が与えられるようになっている。
 三日休んで四日目の労働は土木匡救事業によって仕事が分配されるように工夫せられている。この方式を昭和四年、東京市役所も採用したが、自由労働者は非常に満足し。それまで不平に満ちていた自由労働者は忽ち平静に帰り、いかなる不況時に於いても何等の動揺を見せなくなった。
 数年前、内務省社会局はこの方式を法制化しようと試みたが、不幸にしてち立消えになってしまった。洵に惜しいことだと思う。

  欧米に於ける失業保険組合
 元来失業保険の如き道徳危険率の非常に高いものには、国家的共済保険は怠惰なる風習を労働階級に作る。英米に於いてはこれをドール・システムと言うている。
 「ドール」はローマ時代の「オドール」から転訛して来た言葉と考えられる。昔、ジュリアス・シーザーの時代にローマの自由市民が失業し、ローマ皇帝か権勢を示すために。毎日一人当たり一オドール(約五十銭)を支給して失業者を遊ばせたという話からドール・システムという言葉が生れたのである。
 それで、第一次欧州大戦以後、国家的失業保険の施行せられていた国々は、凡て尨大なる失業保険の出費のために悲惨な状態に陥った。ドイツ然り、英国然り、オーストリア、イタリー皆然りであった。
 それに反して労働階級の自制心に訴え、失業者協同保険組合を組織していた国々は経済的破局には直面しなかった。殊にベルギーはゲント市(Ghent=ベルギーではガンという)を中心として発達した失業者協同保険組合によって、熟練労働者の自助的失業保険が発達した。これはデンマーク、フランス、スイス、ノルウェー等約十箇国にまで波及し非常によき成績を収めた。もちろん政府の補助金も給与せられたが、労働階級自体も平素より積立金をなし、恐慌時に備える式になっている。
 然るに、西洋諸国の失業者協同保険組合は、傭主側なる資本家より何等の補助金を受けないが、日本の失業保険組合に於いては、傭主側よりも労働者と同額の出資が貰えるようになっている。この点、西洋と非常な差違がある。
 神戸市の失業者共済保険組合の特徴は、病気した場合に於いても失業と認めて、失業手当金が貰えることである。この点は労働者災害扶助法に併行したる施設として、労働階級が非常に助かっている。即ち神戸市の自由労働者は、職場先で負傷した場合、労働者災害扶助責任保険より保険金を貰い、失業保険組合より規定の給付金を二重に受け取ることになっている。それで神戸の自由労働者は非常に幸福であると言い得る。

  意識経済を奈礎とする保険組合の勝利
 米国に於ける失業者は大規模の失業保険制度によって、国家より失業手当金を貰うことになっているが、最も特色のある組織は失業者自助協同組合であると思った。これは保険組合の組織ではないが、労力出資によって農家に労働を提供して食物を買い求め、運転手はトラックを運転して物品を運び、織物に関する技術をもっている者は着物を織り、家具製造に熟練している者は家具を製造し、各自己の技術を持ち寄って協同組合を組織し、その組織体によって協同生活を営む方式を執るのである。有名な小説家シンクレア・ルイス氏はこれを小説「協同組合」という書物のうちに面白く書き表している。
 この方式を見ても協同組合がいかに自立的道徳訓練を発揮し得るかが分かる。米国中部ミネソタ州ミネアポリスに於いては一九三一年頃、約一万五千人の失業者がこれに関係し、カリフォルニア州に於いては一九三六年、三万五千人の労働者が、この組織のうちに楽しき失業生活を送っていた。彼らには現金が無い。それで彼らは労働切符を発行してそれを金銭に換えて、その切符に金本位以上の役割を果さしめた。
 恐らくこの後、企画的統制経済がどれほど進歩する時代が来ても、失業問題が無くなる時代は来ないと思う。殊に欧州第二次大戦の後に於いては必ずやまた深刻なる失業問題が発生すると思う。しかし、その時にこそ我々は互助愛に目覚めたる意識経済より出発して、道徳的訓練のある失業者互助協同組合を組織するか、失業者協同保険組合を組織して、国家の危機を打開する必要があると思う。

800px-Population_of_Okinawa_prefecture,_Japan.JPG総務省が16日発表した人口統計では老人人口の急増ばかりが話題になっているが、発表資料を詳細にみるとおもしろいことが分かった。大都市圏以外で人口が増加している自治体はないのだが、唯一沖縄県だけが突出している。0.6%の増加率は日本で一番高いのだ。

ウィキペディアで調べると沖縄県の人口は戦争で激減するが、その後、急角度で増えている。2倍以上である。県の総人口もも高知県並みだろうと想像していたが、あにはからんや、140万人にも及ぶというのだから、驚いた。

この10年で10万人以上が増えているのは、沖縄への移住熱もあるふぁろうが、基本的には出生率の高さが大きい上に、就職のために沖縄から出て行く人口も高知などと較べて少ないことが原因していると思われる。
出生率については以前に下記で書いたことがある。
http://www.yorozubp.com/0407/040726.htm

沖縄県は平均年齢で日本で最も若い。14歳以下の比率が日本一高く、65歳以上の高齢者の比率も日本で一番低い。日本全体の人口動態とまったく違う傾向を示す沖縄県というところをまじめに研究する必要があると思った。




世界を変えた歌(3)
 中澤英雄(東京大学名誉教授)

3 ジョン・レノンの「イマジン」

 今年の3月20日はイラク戦争開戦10周年であった。独裁者サダム・フセインは殺されたが、イラクは安定からはいまだほど遠い。今でも各地でテロが続いている。イラク戦争はなぜ戦われなければならなかったのか、世界に何をもたらしたのか、その検証がなされなければ、同じような悲惨な戦争がまた繰り返されることになるだろう。

 独仏とは違って、日本は大義名分が怪しいこの戦争を支持したが、支持に至った過程の検証はまったく不十分である。

参考:浜地道雄 又々驚愕!「イラク戦争支持検証」議論開示せず
http://www.janjanblog.com/archives/87712

 さて、イラク戦争開始直前の2月1日に、スペースシャトル・コロンビア号の空中分解という衝撃的な事故が起こった。私はこの事故に「戦争をするな」という宇宙の意志を感じ、

「宇宙からのメッセージに耳を傾けよ――スペースシャトル事故と迫り来るイラク攻撃」
http://nakazawahideo.web.fc2.com/others/iraqwar.htm

という論文を書いた。

 この論文では、事故で亡くなったアメリカの宇宙飛行士ウィリアム・マックール氏が、ジョン・レノンの「イマジン」を起床音楽として希望し、その歌詞を引用することによって、間近に迫ったアメリカのイラク攻撃に反対の意志を表明していたのではないか、という推測を述べた。

 そして萬晩報2003年03月04日の

宇宙飛行士の言葉はなぜインターネット上にないのか
http://www.yorozubp.com/0303/030304.htm

で、その推測が正しかったことを確認した。その当時のアメリカでは、「イマジン」は放送禁止曲扱いになっていたのである。

 「宇宙からのメッセージに耳を傾けよ」を英訳し、インターネット上に発表したところ、海外からも多くの賛同のメールをもらった。

 その中に、ドイツの友人ヴィルフリート・フィンク氏からのメールがあった。このメールの内容は英語エッセイではすでに紹介している。

Why Are William McCool's Words not Found on News Sites? Supplement to "Message from Space"
http://nakazawahideo.web.fc2.com/others/message2.htm

 この萬晩報エッセイではフィンク氏の言葉を日本語でも紹介しておこう。フィンク氏の2003年2月22日のメール(原文英語)――

《私は(2002年)のクリスマスに、深い夢のメッセージを受け取りました。
 7羽のカラスが地球の周りを飛んでいました。私は彼らの意識の中に同時に入ることができて、14の目で同時に地球の見事な光景を眺めることができました。彼らは私に、私たちの星がいかに素晴らしいか、そしてすべてが完全であるか、を示してくれました。
 そうですね、おそらくイラクでは戦争になるでしょう。多くの苦難と不安恐怖が起こるでしょう。しかし、すべての人はまさにその人に必要なレッスンを学ぶのです。
 最後に、カラスはピアノの黒い音符に姿を変えました。そこで、メッセージはいっそう明瞭になりました――白い音符だけでは誰も演奏できません。音符のすべてを体験するためには、私たちは白と黒の存在を承認しなければならないのです・・・》

 驚くべき予知夢であると思う。私の夢解釈はフィンク氏自身のそれとは若干違う。「7羽のカラス」がコロンビア号の7人の宇宙飛行士であることは言うまでもない。彼らは、宇宙から息をのむまでに美しい地球の姿を眺め、地球のかけがえのなさを伝えてくれる。夢の最後にカラスが黒い音符に姿を変えるのは、コロンビア号の空中分解事故を予兆している。だが、それは無駄な死に終わるのではない。それは美しいピアノ音楽となって、人類に平和のメッセージを伝えるのである。この音楽はジョン・レノンの「イマジン」と結びついている(「イマジン」の伴奏はピアノだ)。しかし残念ながら、宇宙飛行士らの命と引き替えのメッセージは、戦争へといきり立つアメリカ人には届かなかった。

 BBCの「あなたが選んだ世界を変えた20の歌」の最後に「イマジン」が取り上げられている。この曲を選んだインド・パキスタン系アメリカ人投稿者は、「イマジン」は今でも「戦争、飢餓、宗教に関する対話を励ます曲」だと評価している。

 「イマジン」を踏まえたマックール宇宙飛行士の言葉は、イラク戦争当時には隠蔽されていたが、今ではWikipediaにも掲載されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_C._McCool (Quote)

 スペースシャトルからのマックール氏の音声は、彼の言葉をヘブライ語に通訳したイスラエル人宇宙飛行士ラモン氏の音声、そして「イマジン」の曲とともに、NASAのサイトにもアップされている。
http://spaceflight.nasa.gov/gallery/audio/shuttle/sts-107/wave/fd15blue.wav

《私たちがいる周回軌道上という眺望のよい地点からは、国境がなく、平和と、美と、壮麗さに満ちた地球の姿が見えます。そして私たちは、人類が一つの全体となって、私たちがいま見ているように、国境のない世界を想像(イマジン)し、平和の中で一つになって生きるように努力することを祈ります。》

 「イマジン」を聞く時、私はいつもマックール氏の言葉を思い出す。

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          世界を変えた歌(2)  中澤英雄(東京大学名誉教授)

2 バルバラの「ゲッティンゲン」

 (1)で紹介した英BBCの電子版の記事の冒頭には、フランスの女性シャンソン歌手バルバラの「ゲッティンゲン」という曲のことが紹介されている。実はこの記事は、その1週間ほど前の2013年1月22日に掲載されたスティーヴン・エヴァンスの

《Goettingen: The song that made history》(ゲッティンゲン:歴史を作った歌)
http://www.bbc.co.uk/news/magazine-21126353

という記事のいわば続編なのだ。

 こちらの記事は、仏独協力条約(エリゼ条約)50周年を記念して、バルバラの曲が仏独和解に演じた役割を回顧する記事である。

 周知のように、仏独両国は歴史上、何度も干戈を交えた欧州大陸のライバル国家であった。とくに第二次世界大戦中のナチスの暴虐は、フランス国民に深い反独感情を植え付けた。

 しかしながら、欧州大陸の2大国民がいがみ合っていては、欧州に平和は生まれない。平和なくして戦禍からの復興もヨーロッパの繁栄もありえない。このような大局的視点から、当時のドゴール仏大統領とアデナウアー独首相は、1963年1月22日に仏独協力条約(エリゼ条約)を締結した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%8B%AC%E5%8D%94%E5%8A%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84

 この条約によって、仏独青少年交流事業や仏独間の姉妹都市事業が盛んになり、草の根レベルでの仏独間の和解が進んだ。仏独の和解の上にEUが成立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89lys%C3%A9e_Treaty

 エヴァンスの記事は、仏独和解で演じたバルバラの役割を顕彰している。

 バルバラ(芸名:本名は Monique Serf モニク・セルフ)は1930年にパリでユダヤ人を両親として生まれた(1997年没)。父親は独仏の間で何度も所属を変えたアルザス地方の出身だが、この地方には長いユダヤ人の歴史がある。母親は、やはりユダヤ人にとって重要な町オデッサ(現ウクライナ)の出身。ユダヤ人として、バルバラは戦時中、命からがらナチスの魔手から逃亡しなければならなかった。彼女が当初、ドイツとドイツ人に対していかなる感情をいだいていたかは言うまでもないだろう。

 1960年代初めからシャンソン歌手として有名になったバルバラは、1964年にドイツの小都市ゲッティンゲンに公演に招かれた。

ゲッティンゲン:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3

 内心では反発を感じつつも、彼女はこの招待を受けた。コンサートは大成功に終わった。彼女はゲッティンゲン市民の温かい歓迎に心を開くと同時に、この町に、彼女が幼い時から親しんでいたグリム童話のグリム兄弟の家があることを知った。彼女は予定よりも1週間長くその町に滞在し、その間に「ゲッティンゲン」という歌を作詞作曲した。
http://de.wikipedia.org/wiki/G%C3%B6ttingen_(Chanson)

YouTube http://www.youtube.com/watch?v=jkwaT2mLrtA (フランス語)

歌詞:
http://www.stadtarchiv.goettingen.de/personen/barbara_chanson_goettingen.htm

《そう そこにはセーヌ川もないし
 ヴァンセンヌの森もないわ
 でも 美しい所がたくさんあるのよ
 ゲッティンゲンには

 パリのように悲しげに歌われる川岸もなければ
 よく歌われる流行歌もないわ
 でも そこでも愛は花を咲かせるのよ
 ゲッティンゲンでは

 彼らの方がよく知っている そう思うのよ
 フランスの偉人たちのことを
 ヘルマン ペーター ヘルガ ハンスたちは
 ゲッティンゲンの

 〔......〕

 流血と憎しみの時代を
 二度と繰り返さないようにしましょう
 だって 私が愛する人たちが住んでいるのよ
 ゲッティンゲンには》

 ユダヤ系フランス人としてドイツ人を憎んで当然の立場にあったバルバラが、ドイツの町への愛を歌った。この歌がドイツ人を感激させたことは言うまでもない。そして、歌を通してフランス人の反独感情を和らげたのである。

 1967年のゲッティンゲンでのいわば里帰りコンサートでは、彼女はこの曲をドイツ語でも歌った。

YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Z2TDacy7MIY

 そのコンサートに来ていたのが、当時ゲッティンゲン大学で学んでいて、のちにドイツの首相(1998-2005)になるゲアハルト・シュレーダーであった。

 シュレーダーは、2003年1月22日、ヴェルサイユ宮殿で開かれたエリゼ条約40周年の記念式典スピーチで、バルバラの歌詞を引用し、独仏の和解を讃えた。一つの歌が独仏の和解に貢献したのである。

 エリゼ条約を想起したばかりの独仏両国は、日本やイギリスとは違って、間近に迫っていたアメリカのイラク攻撃(2003年3月20日開戦)に、共同して反対の意を表明することになる。

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       世界を変えた歌(1)  中澤英雄(東京大学名誉教授)

1 坂本九の「上を向いて歩こう」

 産経新聞が3月下旬に《全米チャート1位から50年「スキヤキ」再評価 「日本人は繊細な感情を表現できる》 という記事を掲載した。

《歌手の坂本九さんが歌った「上を向いて歩こう」が、1963年6月に「スキヤキ」というタイトルでビルボード誌の全米チャート1位を獲得して半世紀。英BBCの電子版に今年1月、「世界を変えた20曲」のリストが掲載され、「風に吹かれて」「イマジン」と並んで「スキヤキ」が選ばれた。記事の中で、ワシントンの投稿者は、63年当時の米国人にとって「スキヤキ」は「(戦争で敵対した)日本人が謎めいた民族ではなく、自分たちと同じく美しく繊細な感情を表現できる人たちと気付かせてくれた曲」と記した。》
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130326/ent13032617070010-n1.htm

 産経記事の元になった「英BBCの電子版」はこちらである。

《20 of your songs that changed the world》(あなたが選んだ世界を変えた20の歌)
http://www.bbc.co.uk/news/magazine-21143345
 これを読んでもらえばわかるが、BBC記事は、「歌は真に世界を変える助けになるか」という問いかけに対する読者の投稿をまとめたものである。ここで取り上げられた曲はいずれも、それぞれの時代で社会的、政治的なインパクトがあったと各投稿者が考える曲である。ジョーン・バエズの「ウィ・シャル・オーヴァーカム」やボブ・ディランの「風に吹かれて」のような有名な反戦フォークソングが入っているのは当然だろう。中には私がまったく知らなかった曲もいくつかある。

 「上を向いて歩こう」はビルボード誌のヒットチャートで週間ランキング1位になったことがある唯一の日本の歌謡曲である。アメリカ以外でもイギリスやその他のヨーロッパ諸国でもヒットした。欧米人が日本のポップスとして思い浮かべる曲としてはおそらく最も有名な曲であろう。

 この曲を推薦したアメリカ人投稿者は、1963年当時にこの曲を聴いたわけではない。「(戦争で敵対した)日本人が謎めいた民族ではなく、自分たちと同じく美しく繊細な感情を表現できる人たちと気付かせてくれた曲」という評は、彼よりも年上の世代の人々から聞いた評価である。

 この曲が世界的に流行した理由は、中村八大のメロディーと坂本九の歌声にあっただろう。日本語の歌詞そのものはそれほど大きな役割を果たしたとは思えない。何といっても、日本語歌詞を聴いても、欧米人はその意味を理解できたはずはないからだ。「スキヤキ」という、歌の内容とまったく無関係の題がつけられたことも、欧米人の歌詞への無理解さを示している。

 永六輔のオリジナルの歌詞はこうだ。

 《上を向いて歩こう
  涙がこぼれないように
  思い出す春の日 一人ぼっちの夜

  上を向いて歩こう
  にじんだ星をかぞえて
  思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

  幸せは 雲の上に
  幸せは 空の上に

  上を向いて歩こう
  涙がこぼれないように
  泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

  思い出す秋の日 一人ぼっちの夜

  悲しみは 星のかげに
  悲しみは 月のかげに

  上を向いて歩こう
  涙がこぼれないように
  泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

  一人ぼっちの夜
  一人ぼっちの夜》

 現在では、この歌詞には永六輔の1960年反米・反安保闘争での挫折の気分が込められているということが知られているが、「涙」や「悲しみ」が政治的挫折に起因しているとは、ちょっと読んだだけではとても想像できない。

参考:上を向いて歩こう いかにしてできたか
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2011/07/nozawa22-9.html

 この歌詞は古典的日本文芸の常套句を踏まえている。「春」「夏」「秋」(なぜ「冬」がないのかは謎だが)、「日」「夜」「星」「雲」「空」「月」は、日本の詩歌で頻出する語である。そこに「涙」と「悲しみ」が加われば、日本ではこれはもう(失)恋の歌ということになる。

 ただし、これをそのまま英訳しても、アメリカ人には素直に受け入れられなかっただろう。ということで、英語歌詞はまったく別内容になっている。

《It's all because of you, I'm feeling sad and blue
 You went away, now my life is just a rainy day
 And I love you so, how much you'll never know
 You've gone away and left me lonely
 
 Untouchable memories, seem to keep haunting me
 Of a love so true
 That once turned all my gray skies blue
 But you disappeared
 Now my eyes are filled with tears
 And I'm wishing you were here with me
 
 Soaked with love, all my thoughts of you
 Now that you're gone
 I just don't know what to do
 
 (Chorus)
 If only you were here
 You'd wash away my tears
 The sun would shine once again
 You'd be mine all mine
 But in reality, you and I will never be
 'Cause you took your love away from me
 
 Girl, I don't know what I did
 To make you leave me
 But what I do know
 Is that since you've been gone
 There's such an emptiness inside
 I'm wishing you'd come back to me
 
 (repeat Chorus)
 
 Oh, baby, you took your love away from me.》
http://www.justsomelyrics.com/1337370/kyu-sakamoto-sukiyaki-(english)-lyrics.html

(最初の部分の訳)
  僕がこんなに悲しく落ち込んでいるのは みんな君のせいなんだ
  君は去ってしまって 僕の人生はまったくの雨模様
  君にはわからないだろうが 僕は今でも君をとても愛している
  君は行ってしまった 僕をひとり置き去りにして

 歌詞すべてに私の下手な和訳を付けまでもなく、英語歌詞が日本語歌詞とはまったく別ものであることはよくおわかりいただけるであろう。アメリカ人の作詞だから、「自分たち(アメリカ人)と同じく美しく繊細な感情を表現できる」のは当たり前なのである。

 反米的気分から生まれた歌詞が、日本の古典的な失恋の歌になり、それが英訳によってアメリカ的な失恋の歌に変わり、日米友好に寄与する。一つの歌の不思議な転生の物語である。

中澤英雄のホームページ:http://nakazawahideo.web.fc2.com/
51R61SK0EYL.jpg イギリスのサッチャー元首相が亡くなった。イギリスを蘇生させ、ゴルバチョフに共産党を放棄させた女性である。ある意味で世界を変えた20世紀最大の政治家かもしれない。経済部記者だった僕は後になって、サッチャー改革の意味を知ることになった。

 サッチャーは1979年5月4日、イギリスの首相に就任した。議院内閣制でも日本と決定的に違うところは英国王が首相を指名するというところである。

『サッチャー回顧録』(日本経済新聞社)の冒頭に首相就任の風景が書かれている。

 1979年5月4日の総選挙の開票日、保守党勝利の選挙結果が入ると
「午後2時45分ごろ、バッキンガム宮殿から呼び出しの電話が保守党本部にかかってきた」
「女王からの組閣の命を受けるための拝謁だ」
「拝謁の後、私の新しい主席個人秘書官ケン・ストウが私をダウニング街まで連れていくべく待機していた」
「ケンはほんの1時間前、退任するジェームズ・キャラハンをバッキンガム宮殿に連れてきたばかりだった」
「夫と私は首相公用車でバッキンガム宮殿を後にした」
 そしてダウニング街10番地の首相官邸に入った。

 そしてサッチャー首相は就任のその日から何をなすべきか知っていた。英国の競争力回復のための論議は政権獲得をさかのぼる5年前から始まっていた。労組のと対決や国営企業の民営化、税制改革のスケジュールは出来上がっていた。そして満を持しての組閣が始まった。

  1970年代の英国に蔓延していたのは「栄光ある衰退」という一言に尽きる。「知識人も官僚もだれも英国経済を 復活させるのは不可能だと考えていた」。当時、サッチャー以外だれも英国の明るい将来を展望していなかった。

 サッチャー政権の改革は実に広範な分野におよんだ。国営事業はすべて民営化に成功し、公益事業も民営化を徹底させた。英国経済の衰退を加速させた労組とは徹底的に闘い、炭労の相次ぐストにもひるまなかった。サッチャーの強権ぶりに対して国民的支持があった。

  中曽根さんの民営化は国鉄と日本電信電話公社、日本専売公社の三つの国営企業にとどまり、JTなどはいまだ財務省が株を持っている。小泉さんは郵政と日本高速道路公団を株式会社化しただけに終わっている。サッチャーは鉄鋼、自動車、港湾、航空、通信、ガス、電力など政府保有の株式を100%民間に放出。ブリテッシュ・テレコムや英国航空などは世界有数の優良企業に変身した。 

  サッチャーは「ゆりかごから墓場まで」という福祉制度にも大胆にメスを入れた。医療費は無料でなくなったし、年金も民間への移行を促し た。ファンドマネージャーによる年金運用が始まり、その投資収益によって、一時、引退後の年金生活者の方が現役で働く人々より生活水準が高いといわれるまでになった。

 イギリスの官僚のすごいところは、首相が代わると、その日から新しい首相の意に沿って政治が行われることである。サッチャーがダウニング街に入ってすぐさま大胆な民営化を行えたのは、官僚が首相官邸の指導に忠実に従ったからなのだ。

 それにひきかえ、日本の場合はそうは行かなかった。4年前に鳩山政権が誕生したとき、官僚は徹底的に抵抗した。もしくはサボタージュした。ひどい場合は情報を官邸に上げなかった。これでは政権交代の意味はまったくない。東日本大震災で福島原発がメルトダウンした時でも官僚機構は官邸に十分な情報を上げなかったことを忘れてはならない。

 サッチャーもすごい女だったが、それに忠実に従ったイギリスの官僚制度にもわれわれはもっと注目しなければならない。僕にとってサッチャーさんが教えてくれたものは大きい。

 これまでアメリカに暮らす日本人や日系アメリカの人たちを綴ってきた。この稿はそんな日系の人たちとのビジネスや企業を通しての思い出である。少々仕事がらみで恐縮だが、お付き合い願いたい。

 戦後間もなく日本企業が海外進出を図る時、重要な手がかりは現地の日系の人々であった。
 多くの会社の海外開拓史を開いても、まずその国の日系社会に当たってみたという例が少なくない。サンプルと値段でビジネスが成立する商社の例は別として、販売サービスを伴う製造業では特に顕著だと思う。その理由は商品を成り立たせるビジネスモデルをそっくりそのまま外国に持ち込む方法を模索したからではないか。つまり日本国内で売れている製品をそのまま海外に輸出し、国内と同じ売り方で浸透していくという作戦だ。

 そのヒントは戦前の満州、朝鮮、台湾の統治時代にある。これらの地域の「開拓」に日本企業も挙って参加した。国策でもあった。そこでのビジネス展開は100%日本国内のシステムの持ち込みだった。もちろん当時は準国内であるから当然かも知れないが、曲がりなりにも異文化圏への進出である。それを可能にしたのは日本から渡っていた邦人たちであり、市場もメインは準日本市場であったはずだ。売れている商品を売れるであろう市場に持ち込むProductOutの発想である。

 戦後の海外進出に際して、多くの企業が先人の知恵として選択したのがこのProductOut方式だったのだろう。そして未知の国へのもっとも頼れるパートナーとして日系人の存在がクローズアップしたのだと思う。SHISEIDOもまた然りであった。進出先は歴史的にも日系社会の成立が早かったハワイからだった。ホノルルで映画館を営み成功を収めていたN.Furuya氏をパートナーとして地歩を築いていった。1962年のことだ。真の欧米への進出の準備段階として、まずは日系人社会の開拓からということだった。

 その一方で純欧米市場への参入機会も虎視眈々と窺がってはいたが、ハワイからではいかにも遠すぎた。本土上陸を果たさぬことには手も足も出ない。そこでロサンジェルスへの進出を図る。前述Furuya氏の日系ネットワークを通じての進出であった。当然の成り行きとして、ここでも助っ人は日系人であり商圏は米国西海岸の日系社会であった。欧米人の価値観と嗜好を探ってビジネスに繋げるMarketInの時代到来までは、まだ遠い道のりであった。

 SHISEIDOの国際化のプロセスは日本拡張型のProductOutと現地探索型のMarketInのマーケティング手法の相克であり進化の歴史でもある。SHISEIDOに限らず多くの日本企業の海外進出もおそらく同様の歴史をたどったのだろう。言い換えれば企業の側においても戦前に大陸進出を果たした国際派一世の下で戦後開拓は始まり、その間に欧米ビジネスに真っ向から挑む国際派二世が育っていったということである。

 カウボーイたちがひたすら西へ西へと進んだように、SHISEIDOのアメリカ進出は真逆であった。ゴールは東海岸だった。しかしそんな尺取虫のような東征作戦と関係なく、そのチャンスはいきなり訪れた。1964年のニューヨーク万博である。文献を紐解いてみるとSHISEIDOの東京本社はこの万博への出展に乾坤一擲の勝負を掛けているようにみえる。

「House of ZEN」というパビリオンの出展だった。欧米への真っ向勝負を挑んだ国際派二世たちのコンセプトへの執念が垣間見える。米国人と米国社会へのダイレクト・メッセージだった。この成功を皮切りとしてSHISEIDO Cosmetic Americaは誕生した。販路をデパートに限定した本格的な化粧品ビジネスをスタートし、従来の日系市場部門も内包させ東西の統合を果たした。しかしデパートビジネスは生易しいものではなかった。その後、幾度となく経営危機に見舞われることとなる。だがこれは今回の本旨ではない。

 話を日系の人々に戻す。脚光を浴びるデパートビジネスの陰に回ってしまった日系化粧品チャネルだったが、経営的には金食い虫のデパートビジネスを下支えして着実に利益を生んだ。いわば内助の功の存在だった。しかしデパートの展開が全米レベルになるとこのチャネルの存在は問題となる。というのも日系店のビジネスはきめ細やかなサービス重視でありデザイン・センスなどは二の次だったから、イメージ重視のデパートとは大きくかけ離れていた。村はずれの萬屋さんのような店も少なくなかったのだ。蚊取り線香や蝋燭とSHISEIDO製品が並んでいたのに驚いたこともある。これも草創期の苦闘の名残りなのだが、デパートビジネスからすれば堪ったものではない。

 僕に与えられたミッションは「利益源としての日系小売店部門の業績は落とさずにイメージ上の課題を解決せよ」。つまりは問題店の整理縮小、ダウンサイジングである。時代の流れとはいえ、一番苦しいときに助けてもらった日系の人たちとその化粧品店なのだ。片やブランドイメージをけん引するデパートビジネス。切り込み隊長としてはハムレットの心境だった。試算では日系上位1/3の店で売り上げ全体の9割を確保できる。残りの2/3を整理すれば売上・利益ともに飛躍的に伸び且つイメージの点からも当初目的を果たせる。3年計画だった。やるしかなかった。

 結果的にはこの計画は成功裏に終わった。だが当初の私のイメージと実際の反応は随分違って、内心当てが外れた。こちらの思い入れや心配は杞憂で、整理対象の大半のお店から解約は理解して貰えたのだ。あっさりしたものだった。後に取引先からこの理由を教わることになる。今思えば笑い話だが取引先のご店主からレクチャーされるというのも喜劇であった。

「しかしハットリさんも日本人ですね!時代が変わればビジネスも変わりますよ。何も負い目に思うことはありません。」このご店主は戦前アメリカの放送局に勤め、戦後はGHQの通訳で来日したという日米の事情通だった。ひとことで言えば取引契約の概念が日本とアメリカで大きく違うというのだ。小売店契約の取引に関して契約書は、日本では一定期間で結ばれ両者に異存がなければ自動更新される。だがアメリカでは一回ごとの発注自体が契約であり、その連続で契約は存続するというのだ。

「嘘だと思うならINVOICE(納品書)の裏を見てごらんなさい。毎回の契約が書かれていますよ。」これは目から鱗だった。確かにINVOCEの裏はびっしりと細かい字で契約内容が埋め尽くされていた。契約社会という言葉を肌身で感じた。ご店主はこんなことも言った。「日本人は垣根の低い民族でね、二世になるとアメリカ人になってしまいます。これが中国、韓国系では、こうは行かなかったでしょう。彼らはこの国で何代経っても中国人であり韓国人です。」

 しかし全ての交渉がスムーズに運んだわけでない。言葉の行き違いと当方の英語力の乏しさから不当解約だとブチ切れられて、サクラメントの州政府に訴えられるというような騒動まで起きた。なんとかお縄ともならず違約金も払わずに凌ぎ切ったが、まさに苦あればらくあり、ほろ苦い思い出である。
 賀川豊彦の著作集である『賀川セレクション』を編集である。10冊にしようか20冊にしようか迷っているが、必ず入れようと思っているのが『星より星への通路』というエッセイ集である。神戸での三菱・川崎造船所の大規模ストライキで収監された中でも楽天的にものを考えていた時代の著作である。もちろん、賀川の名はその前の年に出版した『死線を越えて』がベストセラーになったことで津々浦々まで浸透していた。

 この『星より星への通路』で一番短いエッセイ「ノンキ者のノンキ君」を以下に紹介したい。

   ノンキ者のノンキ話

 ninki.jpg △
 世界は終わりが来たところで、それで時間の世界が終わるのじゃあるまいし、世界はそんなに慌てたって片付くものじゃないよ。
  △
 私は慌て者の情熱家のように云われているが、人間というものはいつも緊張してばかりおれるものじゃなし、真の社会改造なんていうものは笑って暮らす気でなければ、改造なんか出来るものはない。つまり社会改造に、笑殺式社会改造と、泣き虫的社会改造との二通りあるわけだが、私は必ず一つの形でなければならぬと云うことに反対するもので、泣く間にも心で笑うくらいの準備がなければ改造は出来るものではないと思う。

 そこで私は昔から有名であった偉人、学者、社会改造家の笑いを思う。アブラハム・リンコルンは有名な滑稽家であったことは誰も知っていることである。英国十八世紀の宗教運動の中心人物ジョン・ウエスレーが笑いと諧謔の人であったことも有名だ。マルチン・ルーテルも笑いの人であった。米国の宗教運動の大立物ビリー・サンデーは笑いの宣伝者であった。

 ルシアンの「笑い」は古代ローマの文明を笑い殺したと云われている。「笑い」が偶像破壊的の性質を帯びる点において、ドン・キホーテの如き文学が中世騎士道文明の吊鐘となったことは面白いことだ。マーク・トインの諧謔文学を見ても私は深くそれを思う。怒るのも善いだろう。しかし怒ることの社会改造は長くは続かぬ。怒る代わりに笑殺する方が社会改造は早くできる。それで私は大工イエスなどが諧謔のある分子を欠いておらぬことを思うとますます諧謔の社会改造的使命を思う。この点から貝塚渋六こと堺枯川氏などのユーモアには感心せられることが多い。

「まァそんなにムキになるない、少し笑顔でもせんかい」と云いながら社会改造するものには温か味がある。堺氏などに人間味の多いのは全くこのためである。
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 私は何でも面倒臭いことが嫌いで、生活様式の如き出来るだけ簡単なことが好きである。私が最も簡単な生活をしたのは、私が肺病であった時に三河の蒲郡で送った生活であった。あそこの生活は私にとっては最も理想的なロビンソン・クルーソー式の生活であった。初め私の入った室は六畳の離れ座敷であった。そこで私は国木田独歩が日光中尊寺で送った一カ月六円の生活の真似をしようと思って出来るだけ簡単な生活を試みた。私は一カ月十五円で生活する決心をした。村は漁村である。しかし私は菜食主義者であった。

 それで独歩のように六円では生活できなかったが、十五円では易々とそれが出来た。私は「二銭」の芝居を見た。一銭五厘の豆腐を買いに行った。私が机の前に座って本を読み出して、飯を食うことが面倒臭くなった時に本を読みながら飯が炊けるように、凡ての日用品を円形に並べてみた。そしてその簡単な生活を悦んだ。

 自分で生活がぴったりと合っていた。私がも一度一人で生活する機会が与えられるなら私は円形に七輪、炭入れ、土瓶、土鍋、エナメル鍋、茶碗、湯呑みを並べて一人で楽しもう。そこには労働問題もなし、直接行動もなし、階級争闘論も起こらずにすむ。私は私の奴隷であって、私は私の主人公であった。ほんとの世界はこんなに簡単にいくべきものであるかも知れぬ。

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