2013年3月アーカイブ

                                                                  龍谷大学 社会学部 教授 中野 有

国際フリーターとしてグローバルに動いていると「Life is funny」とときめく偶然に出くわすことがある。2003年、ワシントンのシンクタンク(ブルッキングス研究所)で勤務している時、ランチのセミナーで同じテーブルについたモンゴル人と話しが弾んだ。当時の僕は、国連機関のモンゴルの地域担当官も経験し、日本の地方政府が主役となるフォーラムをモンゴルで開催した経緯もありモンゴルへの想いは強かった。また、「北東アジアグランドデザイン」を作成するに安全保障の観点からモンゴルの役割は重要だと認識していた。

同じテーブルについたモンゴル人は、ハーバード大学に留学し、国連のプロジェクトに関わっているということ、更に驚いたことにモンゴルの首相も経験したという。相手が前首相でも僕の方が年上だったのでイージーゴーイングな付き合いがスタートした。その後、交流を深める内に冗談で「貴方が再びモンゴルのトップになったら安全保障に関わるプロジェクトを一緒に推進したく思うのでその節は宜しく」と約束を交わしたのが10年近く前。

驚くことに再びこのモンゴル人は首相に帰り咲いたのである。モンゴルに行こうと思っているうちに何と、彼は再び首相の座を追われたのである。タイミングを逸したのでそれ以来、モンゴルの動向から疎くなっていた。

先日、テレビを観ていたら安倍総理が今月の末にモンゴルを訪問されるというニュースが流れていた。テレビに映る安部総理のカウンターパートであるモンゴルの大統領は、驚くことにワシントンで会ったエルベグドルジ氏であった。急ぎインターネットで検索してみると何と数年前に大統領に就任されていたのである。

前置きが長くなってしまったが、安全保障の観点から北東アジアの協調的安全保障、とりわけ北朝鮮問題に大いなる貢献を担う潜在的可能性を秘めているのがモンゴルである。安倍総理がワシントンの次にウランバートル訪問を急に決断され経緯からもモンゴルの重要性を解読できる。袋小路にある日朝関係や拉致問題への解決にモンゴルのカードは有効に機能すると分析する。

第一、朝鮮半島の38度線を境に北朝鮮・中国・ロシアVS韓国・日本・米国の勢力均衡で分断されてきた。しかし、北朝鮮が核と長距離弾道ミサイルを保有することによりステータス・クオ(現状維持)の戦略に変化がみられる。北朝鮮との関係が緊密で北東アジアの一角をなすモンゴルが中露或いは日米と関係を強化するかで北東アジアの地政学的変化が起こる。

第二、モンゴルと中国の内モンゴルとの関係などからモンゴル人は嫌中意識が強く、反対に相撲、ODA等のソフトパワーの側面から日本とモンゴルの関係は極めて良好である。司馬遼太郎の「街道を行く・モンゴル編」にあるように蒙古斑を有する日本人はモンゴルに親しみを感いている人が多いと思う。北東アジアの勢力均衡に影響力を持っているのがモンゴルである。

第三、北朝鮮とモンゴルの産業構造や政治システムに共通項がある。レアメタルを有する両国は緊密に連携する必要があり、モンゴル国と内モンゴルとの関係は北朝鮮と韓国の関係に似ており、冷戦崩壊後のモンゴルの推移は北朝鮮への参考となる。

第四、米ソの冷戦構造が終焉した背景には、中国と米国の接近にあった。両国に外交のパイプが存在してない時に両国を結びつけたのはパキスタンであったとキッシンジャー氏は語っている。日朝の国交がない現在、パキスタンのような役割を演じることができるのはモンゴルである。拉致問題解決に必ずモンゴル・カードが切り札になると考えられる。

以上の考察から、時は今、日本とモンゴルの関係を天然資源や経済連携協定と言った視点だけで捉えるのでなく、東アジアの安全保障の観点からプラグマティズムで外交、ソフトパワーで推進する。ひいては、モンゴルとの戦略的な協力が北朝鮮の拉致問題解決につながると読む。

安倍総理が世界190カ国の中から米国に次ぐ訪問国としてモンゴルを選択された先見性に敬意を払いたく思う。同時に、国連やブルッキングス研究所等での経験が、「Life is funny」というグローバル・ネットワークの奇遇に直結することを喜ばしく思う。
 尖閣諸島をめぐって日中はいよいよ厳しい局面に立たされている。尖閣は日本人の誰もが知っている名称だが、実は誰も見たこともない島である。中国にとっては一〇年前には存在どころか名称すら知らなかった島である。そんなちっぽけな島をめぐって日中が極度に対立している。日本が国有化したばかりに中国側がかみついた、かみつくどころでない。国家海洋局の海洋監視船がほぼ毎日、その海域に出没して日本側を挑発しているのである。

 火花はまだ散ってはいないが、日中戦争の発端となった八〇年前の盧溝橋のようにどちらかの陣営が一発の銃砲を発するだけで何が起きるか分からないほどにまで緊張感が増しているのだ。戦後六八年、日本は平和を守ってきたが、いまになってそんな危機に直面している。どうしたら危機を回避できるか。六三年前にアルザスの鉄と石炭の国際管理を提唱したシューマン・プランに大きなヒントがあるといわざるを得ない。

 安倍自民党政権はTPPの交渉参加を決めた。かねてよりTPPはアジア太平洋といいながら中国を排除した経済ブロック形成を目指している点で、アジアの平和に対する脅威となると考えている。第一次大戦で平和を希求した国際連盟が出来たが、軍縮をめぐって対立し、経済恐慌の後は世界がブロック経済に分断された。二〇年ほど前にウルグアイラウンドが成立し、世界貿易機関が誕生した。そのウルグアイラウンドを強力に推進したアメリカが今度は〝ブロック経済〟を志向しているといわざるを得ない。

 アメリカという国家は二〇世紀に独占禁止法という新たな概念を経済にもたらした点で敬意を表していた。企業が大きくなりすぎると人々に禍をもたらすという健全な発想があった。しかし、二一世紀の世界経済は企業が国家を乗り越える経営をするようになり、多国籍企業が国家を動かす時代となってきている。企業が利潤を求めて国家間を移動するようになる結果、人々の生活が脅かされるようになった。国家に栄枯盛衰があるとはいえ、企業だけが生き延び、国民が衰退する経済がまっとうだとは思えない。

 Think Asiaというタイトルは国際平和協会が開催するシンポジウムの名称でした。アジアをこれからどうするという議論の中から「アジアの意思」という発想が生まれました。評議員をしている宝田時雄さんが台湾の日本代表部の人たちと議論している最中でした。それを英語で「Think Asia」にしようと言い出したのは同じく評議員の大塚寿昭さんでした。大塚さんはIBMでシステムエンジニアをしていて、IBMがパソコンに「Think Pad」と命名したことから「Think Asia」というフレーズがひらめいたのでした。僕はとてもいい表現だといまでも思っています。

 かつてアジアの四龍といわれた韓国、台湾、香港、シンガポールがありました。その後にASEANが続き、中国とアジアの国々が経済成長のトレンドに乗りました。アジアは経済的に確実に豊かになったのです。しかし豊かになった結果、何が起きたかといえば、対立です。何のために豊かになったのか分からなくなりました。

 ヨーロッパは第二次大戦を境になんとか国家間の対立を押さえようとしました。その叡智の結果、欧州連合が誕生したのです。アジアがこのまま対立していてはいけない、そんな発想から「アジアの意思」という概念が生まれました。まだ人口に膾炙されているとはいえません。

 三年前、財団法人霞山会が広報誌をつくるということである会合に呼ばれ、広報誌の名前をどうしたらいいか議論になりました。結果、僕が提案した「Think Asia」が選ばれました。国際平和協会で使っている言葉が初めて外部の組織で使われたのは嬉しいことでした。霞山会の「Think Asia」は季刊発行ですでに一〇号まで発行されています。アジアの現在、過去、未来を語る雑誌となっています。発行部数は四〇〇〇部ですから、なかなか影響力があります。

 あるシンポジウムで元自民党幹事長の加藤紘一さんが「大東亜共栄圏の代わる新たな言葉が必要だ」と言っていました。アジア各国で「Think Asia」が共通語となる日を願っています。(伴 武澄)
 ワシントン州シアトルは米国本土の北西隅に位置し、北へ150kmも走ればカナダ国境だ。

 緯度からいえば北海道より遥かに北に位置するのに海流の関係か冬の厳しさもさほどではない。目にする樹木や植生も何となく日本に似ていて空気もしっとりしている。周辺に北米先住民の居留地が数多くあったためか、住む人の表情も穏やかで静かな印象が強い。

 魚市場に行けば太平洋の懐かしい魚たちを目にすることができ、おまけに鯉まで並んでいる。アメリカインディアンの影響だろう。近年はイチローさんや大魔神が在籍したマリナーズの本拠地として知られるようになったが、日本人のアメリカ本土移民上陸の地がこのシアトルなのだということは意外に知られていない。しかし先ほどのような環境風土で日本人がこの地を最初の地としたのも何となく分かる気がする。1900年頃のことである。

 チャイチャイブーという言葉をご存じの方は四十路を越えた世代かも知れない。1970年頃、颯爽と現れた若手作家がいた。60年代末だったかも知れない。名前を片岡義男といった。ポップカルチャーの旗手という触れ込みで若者に絶大な人気があった。確かに軽妙で乾いた文体はそれまでになかった作品群だった。アメリカの生活や若者を題材に新しいアメリカを数多く紹介した。その中に、前後の記憶は薄れたが「チャイチャイブーの人達」を描いたものがあった。

 チャイチャイブーとは秩父の英語読み、つまり秩父丸でハワイに入植した日本人移民第一号の人々のことだ。彼らのことを次世代の二世三世は誇りと親しみを込めてそう呼んだ。そこには二重の意味が込められている。つまりチチブをチャイチャイブーと英語読みしかできなかったこと、だがしっかりと心に刻み語り継いでいる日系移民の歴史とスピリッツそのものなのだ。片岡義男もまたチャイチャイブーの末裔だった。彼の作品の乾いた硬質のアメリカ文化の記述は新しい時代に触れたような気がしたものだ。

 移民とは移民政策に国同士が合意して、その募集に応募した移住者を指す。ここでアメリカの日系移民史に触れておくと日本人移民の一号はハワイだった。これが前述のチャイチャイブーの人たちである。まだカメハメハ王朝の頃だ。1890年前後から入植は始まった。

 1900年頃からは米国本土が続いた。大きな流れからみれば、シアトルに始まりポートランド(オレゴン州)、サンフランシスコ、ロサンゼルス(カリフォルニア州)と入植地は南下する。沖縄、広島、和歌山の出身者が多かったらしい。30年前はまだ広島や沖縄の方言の入り混じった独特の日本語をサンフランシスコのジャパン・タウンやLAのリトル・トーキョーなどで聞くことが出来た。いずれも広大な国土を耕す勤勉な労働力を国は必要としていた。明治政府も国内の殖産興業と農耕従事者の低減を目的として移民政策に力を入れたということだから、国も応募者も当初は出稼ぎ的な色彩が濃かったのかもしれない。(参考資料:全米日系人博物館より)

 NYからLAに転勤したのは7月だったが、太陽がギラギラ照りつけるのに乾いた風が冷たかった。からっとした空気に何と西海岸は開放的なんだろうと思った。それまでに日本から幾度か訪れていた印象とは全く別物だった。東から西へ距離的には日本に近づいたが、感覚的にはNYの向こうへ渡ったような気がした。

 前任者に子供がいなかったせいでコブ付きの我が家は住居の手当からせねばならなかった。アメリカのネット事情の凄さを目の当たりにしたのはこの時である。NJの家の近所の不動産屋にふらりと飛び込みLAの住宅事情を尋ねようとしたところ、いきなり家賃は? 子供の学校は? オフィスまでの所要時間は? と矢継ぎ早に質問が飛んできた。驚いたことに全米のZIP CODE(郵便番号)単位で平均所得、教育レベル、犯罪発生率などが網羅されていた。つまり東海岸にいて西海岸の物件を絞れるわけだ。ポンとキーを押せば立ちどころに該当物件がいくつか上がった。今では日本で何の不思議もないが1983年のことである。

 そのなかに「日本人に貸したし」というのがあった。早速電話して聞いてみると、何でも知日家の弁護士らしく仕事で日本に行く間、日本人に借りてもらいたいという。理由は日本人は清潔好き、靴を脱いで上がるから家も汚れないとのことだった。ダウンタウンから車で40分ゴルフ場のすぐ脇で環境も申し分なかった。お金で安全が確保できるならと、家計の限度を大きく超えていたが思い切ってこの話に飛びついた。物件も見ずに乱暴なことをしたものだが、結果この家でカリフォルニアを満喫できた。驚いたのは家には前栽が設えられ小さな燈籠まである。大家さんからの書置きには「庭木の手入れは馴染のガーデナー(庭師)が来るのでご心配なく、家賃に込みです」とあった。

 買い物に出てみると地元のスーパーマーケットはどこにも日本食材コーナーがあった。さらに生鮮野菜の売り場では、青菜に「Nappa」茄子には「Nasu」と大書きしてある。海の向こうは日本なのだと実感した。日系移民の人たちが地元に根付かせたものなのだろう。その内、書置きにあったガーデナーさんがやって来た。Oyamaと名乗ったが、尾山さんなのか大山さんなのかオ・ヤーマという発音からは区別がつかなかった。大家さんの日本庭園を造ったのも彼で10年も前からの付き合いとのことだった。折りに触れこのMr.Oyamaから南加の日系人の昔話を聞くことになった。日本語単語交じりの英語で仕事の手を止めて熱心に語ってくれた。こちらが日本人だったので思わず力が入ったのかもしれない。

 彼は日系二世、Mr.Oyamaの先代は戦時中マンザナの収容所にも入れられたらしい。腕のいい庭木職人だった。南加に入植した人たちは園芸や果樹栽培、花卉栽培がその主な仕事だった。面白かったのは、彼らが入植した結果、仕事を追われたのはイタリア系の人たちだったということだ。「自分は長男で庭師の後を継いだけれど、どこの家族も次男三男坊は車の修理やクリーニング業など自分たちのタレントで起こしていったよ。ここでまた仕事を取ったのがイタリア人だったから伊系アメリカ人は僕たちのこと憎んでるよ」と云った。つまり日系人が登場するまでは手先の器用な仕事を押さえていたのはイタリア系の人たちだったということなのだろう。

 アメリカは移民でなり立つ国だ。言葉が喋れなくてもこの国に来てから覚えて勤勉に一生懸命働きさえすれば、それなりの成功は保証されるという前提でなりたっている。欧州からもアジアからも近年は中南米からも移民は引きも切らない。アメリカの歴史は移民の歴史でもある。興味深いのは、どの地方からやって来たかで入植後の地も決まってくるという点だ。

 前述のイタリア人も北イタリアの人たちは北へ、南イタリアの移民たちは南部に住みがちだ。ドイツ系は中西部に固まっているし、東南アジアの人々は南加に多い。従って同じピザでも生地の薄いピザはサンフランシスコ以北、厚いピザは南部が中心となっている。(NYではぶ厚いパンピザのことをシシリアン・ピッツァと半ば軽蔑するかのように呼ぶ)

 自分たちの生まれた国や地方と似た風土を選ぶというのは国籍をこえ共通の感覚なのだろう。LAを中心とする南加に沖縄県人が多いのもやはり気候風土に拠るところが大きいように思う。前回の日本人妻にも言えることだが、望郷の想いで生涯を終えた一世たち、生地アメリカへの忠誠を行動で示した二世たち、自分のルーツ日本になにがしかの拠り所を求める三世・・・すでに四世、五世の時代が来ているが日本人の魂は脈々とアメリカの地で受け継がれている。
hattori13web.jpg仕事でアメリカ合衆国に五年半ほど暮らした。80年代初頭ジョン・レノンが凶弾に倒れた頃のことだ。当初の仕事場はNewYork,NewJerseyの両州であった。2年半後に西海岸のLosAngelesへ移り住むこととなる。一度の駐在で米国の全く異なる両側を経験したわけだ。日本から見ると一つの国として存在している米国が、まるで異国の集合体なのだということを思い知った。

そしてまたこの5年半は、日本人としての自意識を見つめ直す期間でもあったように思う。生まれて30年大阪で暮らし、東京に移って初めて大阪人としての自分を意識したものだ。本拠を出てみて気づくのが本当の自分なのかもしれない。その推論からすれば遠くない将来、人々が地球外に移り住むことが可能となったとき、はじめて人間は地球市民としての自覚と連帯感が生まれて来るのだろうか?などと夢想するこの頃である。

脱線したが、そんな米国での生活の折々で日系アメリカ人たちと知り合うこととなった。特に西海岸に移ってからは日系人の経営する化粧品店を今後どうするかが大きなテーマであったから、彼らとより密接なお付き合いをする機会が増えた。

日系移民と後の世代の人々、日本を捨て起死回生を狙ってアメリカに飛び込んだ人々、国際結婚でアメリカに移り住んだ人々...実に様々の日系人やアメリカの日本人と出会った。それぞれが一つの歴史であり深く印象に刻まれた。そこで今回から何度かのシリーズで私の会った日系アメリカ人の思い出をお届けしたい。
                   ♢♢♢♢♢

NYに駐在する日本人は以前マンハッタンの東側に位置するフラッシング界隈に多く住んだ。だがベトナム戦争以降、韓国人移民の大量流入に追い出されるように西岸のNJ州Fort Leeや北部のWest Chesterなどへ移り始めていた。マンハッタン内は家賃が高く当時の給料では住めなかった。加えて治安や子供の教育を考慮して家族持ちの多くは郊外を選択していた。我が家もハドソン川を渡って少し北に行ったNewJersey州Englewoodという街に住んだ。南に5Kmも行けば、前述のFort Leeだった。

2週間に一度ほど家族でFortLeeへ日本食材の買い出しに行くのが日課だった。食材店ではひとあたりのものは何でもそろう。イタリアから家族で遊びに来た友人家族など、その種類の豊富さに驚いたほどだ。西海岸は別にして東はまだ今ほど日本レストランや日本食材が出回っていない頃だったからこれは重宝した。

そんな秋の終わりのことだった。いつもと店の雰囲気ががらりと変っていた。店内には大勢の初老の日本人の小母さんたちが精一杯おめかしをして、まるで同窓会のようだった。あちこちにつかず離れずで遠慮がちに主人と思しき米人男性たちが控えている。感謝祭、クリスマス、正月準備の時期まで、この集会は続いた。

店のおやじに尋ねたところ戦後日本に駐留した兵隊さんとその日本人妻の集会だった。除隊後全米のあちこちに散った彼ら取分け奥さんが、日ごろ会えない同胞と食料品店へ買い出しのひと時に再会を約束しているのだ。遠来のお客さんは一様に真紅の口紅だった。流行とかけ離れ、ある意味奇異であった。しかし思い当たることがあった。

本社の外国部に赴任して間もない頃、まずやらされたのが化粧品の一品別・色味別の出荷予測だった。海外地区別の注文を予測するのだが、航海と物流の期間を加えて6か月先の出荷見通しを立てなければならない。品切れすると困るので、強気に予測を立てては工場の管理部長からよく叱られた。ついには余った在庫に「ハットリ偏在」などという嬉しくない名前までもらった。

ちっぽけな輸出量を日本国内と同じ尺度で比較することなど土台無理な話だと思った。「工場全体の在庫量にすればゴミのようなものです。将来の飛躍のために輸出品はなんとか大目に見てくださいよ」と煙に巻いていた。化粧品だから流行がある。特にメーキャップ製品など予測が当たるはずがない。当たるも八卦、占いみたいなものだった。そのなかに流行と関係なく毎年確実に一定数が出る口紅があった。仕向地は米国だった。それが真っ赤な口紅だった。

ここからは僕の推測なのだが、おそらく彼女たちが渡航したであろう朝鮮戦争終結の昭和30年前後、当時流行していた真紅の口紅が彼女たちにとっての「口紅」だったのではないか。時代とともに流行が変化しても振り向きもせず、真紅の口紅を彼女たちは使い続けたのだと思うのだ。彼女たちにとって真紅の口紅は口紅に止まらず、自分たちの日本そのものだったのではないか。その真っ赤な口紅をさして、旧い友人たちとひと時の語らいを愉しむ。日本食材店はそんな彼女らの晴れ舞台だったのだろう。
PB Sarker.jpg 2006年10月ムハマド・ユヌス氏のノーベル平和賞の受賞や、北海道の約1・9倍の国土に約1億5000万人が住み、人件費の安さに加え、人口密度が高く、労働者を集めやすいことで2000年代後半から日系企業の進出が進み一躍脚光を浴びるバングラデシュ。

 そのバングラデシュで、子どもが記事を書くというとってもユニークなベンガル子ども新聞の編集長・発行者であるシャーカー・プロビール・ビカシュ氏に日本とバングラデシュの歴史や文化について伺った。

 ―これまでどのような活動をされてこられましたか?

 1984年に来日し出版社や印刷会社で働いて編集の技術を身に付けた。子どものためのメディアを作ろうと07年にバングラデシュで子ども新聞作りを始めた。小中学生が記事を書く新聞として大きな反響があったので、11年、再びバングラデシュに戻り本格的に発行した。各小中学校に投稿箱を設置して子ども達から記事を投稿してもらい、編集は全て自分で行っている。

 子どもが原稿を書く際、大人に話を聞いたり、書物を読んだりするので、子どもの成長に貢献している。財源の問題があり、現在は就き1000部の発行に留まっているが、政府の公認も得たので来年からは1万部に増やしたい。

 もう一つは05年に我妻和男先生と知り合ったことをきっかけに、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したタゴールを研究している。タゴールと日本の関係はとても深い。膨大な資料が日本にあるが、日本ではあまり研究されていない。この二つをライフワークとして日本とバングラデシュを行き来している。

 ―今年はどんなことをしたいですか?

 今年は岡倉天心の生誕150周年、没後100周年に当る。岡倉天心といえば『茶の本』、『日本の目覚め』、『東洋の理想』です。『The Book of Tea』は米国で発行され、西洋人に東洋の考え方、文化、哲学などを知らしめるなど大変な影響があった。

 当時アジアを世界に広めたのは日本人の岡倉天心や頭山満、渋沢栄一などであった。その様なすばらしい日本人がいたことを日本の若者はもっと学ぶべきだ。そろそろ日本人が眼を覚まさないと日本の将来がどのようになってしまうか心配だ。

 ―日本t尾バングラデシュの関係をどのようにすべきとお考えですか。

 日本政府は1971年の独立以来、ODAなど大変支援していただいている。しかし、国民の意識が変らないと本当の意味の発展にはならない。精神的な面と経済的な年の両方の発展が必要だ。現在バングラデシュに日本の文化センターがないので是非作って欲しい。日本のすばらしい文化を通じてバングラデシュの国民は文化に興味を持ち、そして時刻の文化にも関心を持つことになるだろう。

 現在子ども達の多くが学校に行きようになっており識字率も上がってきている。日本とバングラデシュの関係は文化や経済交流を通して大きく発展できると期待している(平成25年2月6日=FECニュース3月1日号「アジアの風」から転載)

【シャーカー・プロビール・ビカシュ氏】チッタゴン大学歴史学部課程の途中で政情不安のため来日、その後日本の出版会社で勤務、拓殖大学日本文化研究所付属近代研究センター客員研究員を経て、現在はベンガル語タブロイド版月刊子どもじんぶん「キショロチットロ」編集長・ベンガル語法定通訳士。
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日本人を哲学する
 組織でなく個を重んじる匠の集団を

          龍谷大学 社会学部教授 中野 有

哲学するとは本質を探索することにある。日本人の本質とは。世界の中で日本はどのように映っており、どのような役割を担っているのかということをビジネスと教育の視点を踏まえ考察してみたい。

世界の様々なところで生活し、異文化コミュニケーションを通じ客観的に感じた一般的な日本人のイメージは、真面目で協調性があり個人を犠牲にしても会社や組織に重きを置くといったところか。

しかし、日本人は組織や会社が好きかと問いかけてみると、本当にそうだろうか。むしろ日本人はある意味ではすごく個性を重んじる本質的なDNAを持ち合わせているのではないだろうか。

例えば、多くの日本人がそうであるように、会社員になり毎朝同じ時間に起き、満員電車で通勤し、40年近く同じ会社や組織で勤務する。定年までリスクを犯すことなく安泰な会社人生を全うすることを成功と考えている。東京で通勤するサラリーマンの朝の無表情は、まるで共産主義国家の末期を連想させる悲壮感に溢れている。30年前もそうであったし今も一向に変化がない。恐らく世界中のどこを探しても朝の東京の通勤の表情ほど笑顔がなく画一化されたものはないだろう。

組織や会社に帰属しなければ生活できないという構造が日本人を組織化していると考えられる。朝の通勤模様から観察されるように本当に日本人は組織に属して幸せなのかと考えさせられる。きっと、日本人は個を磨くことに長けているのではないだろうか。

それを端的に現しているのが日本のスポーツである。欧米のスポーツはサッカーやラグビー、野球といった団体スポーツが主流である。それに反して日本の伝統スポーツは剣道、柔道、空手といった個を重んじるスポーツである。

また、グローバリゼーションの世の中において世界で通用する日本の技術は大企業の画一的な製品よりも中小企業の匠の技術に移りつつある。世界のトップ企業は日本の中小企業の匠の技術をアウトソーシングとして活用している動きが増している。

日本の伝統的なスポーツと匠の技術から観られるように日本人が本来の力を最大限に発揮できるのは「道を極める」ような自分の内部を鍛える個性的な生き方であるようだ。

産業革命の影響や戦後の米国の共産主義封じ込める政策の一環として大量生産や輸出主導型の産業構造が機能してきた。しかし、平成の不景気の本質は日本人が本来備えている個の能力を発揮する環境が制約されたところにあると考える。

結局のところ日本の学校教育に行き着く。進学校やトップレベルの大学に入るためには暗記中心の修行の洗礼を受けなければいけない。とにかく考えたり創造したりする個の能力を制限するのが日本の教育である。世界の大学やシンクタンクで習得したことは、自分の頭で考えるという行為である。それもルソーが「自然に帰れ」と唱えるように歩きながら個人の内なる潜在的な能力を引き出しながら考えるということの重要性である。

日本、それはユーラシアの東の果てに位置する国家。東洋に定住した多彩な血統を持つ柔軟性に充ちた個性的な国家であると思う。アングロサクソンやユダヤ人に見られるように優秀な民族は端にたどり着くと考えると日本人はもっと世界で輝くべきなのである。

世界のトップ企業は日本人が本来追求してきた個を磨く匠の集団のようなグローバルな経営戦略を追求している。日本も会社や組織の歯車として働くのでなく、個人の力が発揮できる匠の集団としての社会にギアチェンジすることが肝要であろう。久しぶりに上昇気流にある日本の政治・経済において日本人の本質が活かされる社会構造が基盤となることを期待したい。
ishikoronoshogai.jpg 昨年10月30日、木浦のオモニと韓国の人々から慕われた田内千鶴子の生誕100年記念行事が千鶴子の故郷高知市と木浦であった。竹島を巡る確執が日韓の軋轢を生む中で木浦と高知だけでは心温まる交流が行われた。田内千鶴子の生涯を振り返り、我々もなにかしなければという思いにさせられた。

 たまたまその時、読んでいたのが清水安三の『石ころの生涯』だった。清水は戦前、約25年にわたり北京のスラムで崇貞学園を営み、貧しい人々の子弟に教育と職業訓練を授けた。このことは山崎朋子『朝陽門外の虹』で知っていた。

 『石ころの生涯』を読み進むうちに、清水安三の北京の知識人との幅広い交流を知り、さらに驚かされた。胡適、李大釗、周作人、魯迅・・・。1920年代の中国を代表する知識人たちである。

 魯迅との交流で知られる内山完造は中国でも日本でもつとに有名であるが、清水安三の名前が日中交流史に出てこないのはなぜなのだろうか。しばし考えさせられた。我々が学ぶ歴史には合点がいかないことが少なくないが、清水安三のことはおかしすぎる。

 魯迅を最初に日本に紹介したのが清水安三だったと知ったら誰もが驚くであろう。そもそも魯迅を内山完造に紹介したのが清水だったのである。

 1920年代に「北京週報」という日本語の雑誌があり、清水自身もその記者でもあった。清水は中国人が近代に目覚めたとされる五四運動に強い関心と理解を示し、当然ながら列強による経済支配に反発する中国の人々に大いなる共感を抱いていた。

 そうした清水の書いた記事の愛読者の一人が大正デモクラシーの吉野作造だった。吉野は他人の本の推奨文などは書かない人だったが、清水安三の著書に巻頭言を送り「清水君の中国情報だけは信頼できる」と絶賛した。

 清水の1930年代における圧巻は盧溝橋事件後の八面六臂の働きであった。北京在住の英米人宣教師、さらには北京大学や北京大学の有名な教授たちから署名を集め、日本の特務機関と北京を守っていた宗哲元に戦闘回避を訴えた。日中の戦闘によって紫禁城や天壇など北京の歴史的景観が焦土となるのをなんとしても防がなければならないと考えたのであった。

「昭和12年7月29日の朝、気が付くと街には兵も巡捕も誰もいない。きのうに変わる今日の姿である。ついに宗哲元は全て兵士7000を率いて北京城から去って行ったのである。そして日本軍は、出城する中国軍に一発の砲撃も加えなかった」というのだ。

 ここまで読んで、ため息が出た。清水安三は単なる朝陽外の聖人ではなかったのである。

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