2013年2月アーカイブ

mtfuji130222.jpg恩師である中嶋嶺雄先生が2月14日、秋田市の病院で亡くなった。秋田国際教養大学の学長のままである。76歳だったからまだ若い。19日の深夜に友人から「新聞発表は明日だが、関係者には事前に知らせたい」と連絡があった。すでに家族葬を終えていて、後に大学葬をするという話しだった。

とにかくと思い、22日、
東京板橋区常盤台の中嶋先生の自宅に伺い、霊前に手を合わせてきた。そして洋子夫人としばした先生の思い出話をした。

僕は1977年に東京外国語大学を卒業した。先生は国際関係論の教授だった。僕の卒業論文は「チャンドラ・ボースとインド独立」という先生にとっては専門外の分野だったが、いろいろ丁寧に指導を受けた。

研究室には伊豆見元という一つ年上の教務補佐がいた。朝鮮問題でよくテレビに出てくる人である。上智大学の大学院に通っていた。僕らは研究室に入りびたりだったが、よく新聞の切り抜きを手伝わされた思い出がある。仕事が終わるとよくみんなで中華の出前をとった。

夏になると先生の故郷の松本市郊外にある望岳山荘に行った。先生の別宅兼別荘だった。先生はその山荘から見える常念岳をこよなく愛していた。ある日、「朝早く起きると正面に朝日にあたった常念がみえるから」といった。翌朝、早起きすると紫色から赤に染まる美しい山のシルエットを拝むことができた。

そのころ、先生は学生に「歴史と未来」という雑誌をつくらせていた。卒業論文のダイジェストを中心にいくつか論文が掲載されるユニークな雑誌である。「歴史と未来」は先生が外語大を辞めるまで続いた。その「歴史と未来」を中心に「中嶋ゼミの会」も生まれた。現在、中嶋ゼミの会の会員は200人を越える。

 ゼミの会は当時、まだ始まったばかりで中嶋ゼミの卒業生はあまり多くはなかったが、その中心の一人だった勝又さんは日経の記者を辞めて、先生が建学した秋田国際教養大学に初期からかかわることになった。僕の姉はマレーシアから帰国して先生が理事長をしていた八王子大学セミナーハウスを手伝うことになった。

それから先生は留学生たちを大切にした。外語大時代に留学生を支援する会をつくり、洋子夫人がお世話をした。正月4日は板橋区の先生の家をオープンハウスにし、ゼミの会と留学生が集まった。なかなかできないことである。多いときは100人を超えたと思う。先生はお酒を飲まないがほんの少しお相伴をして酔っ払うとバイオリンを持ち出して、娘さんたちと合奏を始める。そんな家族的雰囲気が忘れられない。僕は何度か妻も子供も連れて行ったことがある。だから僕の家族にとっても中嶋先生の死は他人事ではないたのである。

かつては先生の家におばあちゃんもご一緒だった。そのおばあちゃんは開けた人で学生だれとも話しをした。洋子夫人から聞いたことがある話であるが、あるとき、おばあちゃんが電話を取ったところ相手は「台湾のリーです。中嶋先生をお願いします」と言ったそうだ。そこでおばあちゃんは大声で「ミネオー、台湾のリーさんから電話よ」と叫んだのだ。何を隠そう相手は台湾の総統李登輝さんだった。中嶋先生は李登輝総統とそんなふうに信頼されていたのだ。

ゼミの学生達の多くは卒業後も何らかの形で先生の仕事に関わりを持つことになる。それは先生が個々の卒業生にその後にも面倒をみてくれたからにほかならない。だから多くの卒業生は中嶋先生の家族とも深いお付き合いをさせていただいたのだ。

先生の家を辞して、夕方の便で高知に向 かう機内の右手に暮れゆく富士が眺められた。隣のおばちゃんは「月に何遍も往復しているけどこんなにきれいな富士山はないよ」と笑顔でした。その向こうに みえるはずの北アルプスの常念岳は雲のかなただった。
600098_432706686809689_1554146887_n.jpg賀川豊彦の『雲水遍路』という1925年に書かれた旅行記を再編集しているが、オックスフォードのクライストチャーチ大学を訪問した時の一節に面白い発想があったので紹介したい。

「会堂の前は、長方形になっていて、法隆寺の境内のような趣きがある。つまり大学は法隆寺をそのまま大学に直したようなものである。そこで、私はすぐ考え たことである。もし日本で、大学の数が足らなければ、京都の大きな寺を凡て大学にして、そこで研究すれば善いのだ。寝泊りにも広いし、建築から受ける感化 も大きいであろうと。然し、何故、日本の仏教の寺院が、直ちに大学になれない理由があるであろうか? そこが、私に投げつけられた一つの疑問であった。

なるほど京都の少なからぬ大学はお寺が作ったものだ。お寺を教室にすれば、絶対の面白い教育ができる。僕はかつて京都の町屋をそのまま大学の研究室にしたらいいと提案したことがある。雨や風の日には少々困るが、先生方の研究室が個性あるものに生まれ変わるだろうし、道そのものが大学の廊下と化して賑わいを増すことになるだろうと想像した。

そんな研究室通りが誕生したら、周辺には学生向けの食堂や本屋、文具店などが多く生まれて町を形成できるのだと信じている。日本の中世の町は城を中心に計画的に建設された。ヨーロッパでは町に中心広場に教会と市場と役場がつくられたと聞いている。学校を中核に平成の日本の街づくりを考えたら面白い。

日本に小学校が2万5000あるそうだ。郵便局の数と同じである。歩ける範囲で一つの教育圏、商業圏がすでにある。たぶん酒屋や米屋といったかつては許可制だった商店もそんな商業圏を考慮して配置されていたはずである。

小中学校はたかだか1000人内外の規模であるが、その家族を含めるとその教育圏に住む住民は5000人とかになる。大学はもっと規模が大きくて万単位である。万単位で毎日生活が営まれる生活圏はもっともっとデザイン力をアップさせなければならない。
 2月3日、高知市の西に位置する佐川町で「広井勇を語る」と題する講演会があった。広井勇の出身地で、つい最近までは地元でも広井の名前さえ知られていなかった。生誕150年ということで、地元の青山文庫が年明けから生誕150年記念の展示が始まった。

 この日は、東大名誉教授の高橋裕氏、北海道大学副学長の三上隆氏、国交相北海道開発局港湾空港部長の栗田悟氏の3人が講演した。田舎の町に北海道や東京から講演に来ることすら珍しいこと。会場の桜座には約400人が集まり、日本の土木の礎を築いた清きシビル・エンジニアの一生を振り返った。

 以下は高橋裕名誉教授の講演録である。

 「東京大学に関する広井勇の功績」

平成25年2月3日
高知県佐川町桜座
東京大学名誉教授 高橋裕

DSC_0234takahashi.jpg 広井勇生誕150年記念の催しがあると伺い、佐川町は牧野富太郎の生誕地で、しかも牧野は生まれた年が広井勇と同じ年であるということを初めて知った。昨日と今日、高知市や佐川町でいろいろ見学されてもらい、佐川町だけでなく高知県では、土木工学のみならず偉大な先輩が多く出ておられることを知って改めて敬意を表さなければと思っている。

 町長さんが牧野富太郎は全国的にもかなり知名度が高いが、それに引き換え、広井勇はいまひとつだと言ったが、広井勇をもっと多くの人に知ってもらわなければといけない。そんなことがこの催しの動機だったと思っている。

 日本ではインフラを作った人に対する世間の教育は劣っているように思う。英仏独ではまったく事情が異なる。たとえばイギリスではテームス河底トンネルを建設したブルンデルという土木の大先輩がいて、イギリスでは誰でも知っている人物なのだ。BBCが100万人に対して実施した「イギリスの歴史で最も貢献した人物」というアンケートで、一位はチャーチルだったが、二位にブルンデルが上った。テームス河トンネルだけでなく、イギリスの土木工学を今日にあらしめた人物だ。その後には日本でも知られるダーウィンやシェークスピア、ネルソンなどが続く。日本では残念ながら土木技術者はベストテンはおろかベスト20にも入らないだろう。それに値する人は多くいるだろうが、一般の人が知らない。

 だから、そういう人を知らしめるためにこうした催しを開いてくれた町長さんに敬意を表したい。

 去年、11月18日の土木の日に松山氏で宮本竹之輔の銅像が完成した。それに苦労された古川さんも今日見えているが、古川さんは「坂の上の雲」であの三人が大変に有名になった。しかし、松山にはまだまだ立派な人がいる。その一人が宮本竹之輔で、どうしても宮本を知らしめたいと考えて、銅像をつくった。インフラをつくった人に対する国民の正当な評価に対して日本は問題があるんじゃないかと思う。そういうことなら私はぜひともはせ参じなければならないと思った。

 札幌から来た二人に技術的にも学問的にもレベルの高い発表をしてもらった。

 多くのすぐれた弟子を生んだ広井勇

 広井勇は私が生まれた1927年の翌年に死んでいる。残念ながらお目にかかったことはない。広井勇は1899年に札幌から東大にスカウトされている。それから1919年まで20年間、東大の教授として多くの成果を挙げた。学問的成果は枚挙に暇がないが、私はその業績のひとつはその20年の間に、本当の意味の技術者教育をして大変すぐれた弟子たちを生み出したことである。私の主観的評価だが、広井勇の大変な功績だったと思う。

 大学教授の評価には諸説あるが、一般には学術論文である。研究者であるから立派な学術論文をださなければならないのは当然のこと。最近では行き過ぎていて、教授になる資格もうるさくなっている。審査付の論文が10以上なければならないとか、30以上なければいけないという大学もある。そこで弟子たちは大きな論文を四つか五つに分けたりして数を稼いだりしている。大体エンジニアリングは数字で評価される世界でそれが災いしていることもある。だが、本当は論文の数は問題ではないと私は思う

 では大学教授の功績とは何か。大学は研究とともに、教育をする場である。教育の成果は何であるか。私はその評価の一つは、世の中に貢献する弟子をどうやって育てるかだと思う。

 今日の三上さん、栗田さんの話にあったように札幌農学校は立派は教育をしていた。知識さえ与えればいいといのではなく、人格教育、全人教育をして、広井勇ほか立派な人を生み出した。はたしていまの技術者教育はどうなんだろう。私もつくづく思う。私も教授時代、教授にふさわしいとは何かを考え、その時、手本にしたのが広井勇教授だった。私は東大の最終講義で「広井勇を目指して教員生活を送ってきたが、足元にも及ばなかったことを悔いる」と話して締めくくった。

 お前、広井勇先生に会ったこともないのに、どうして尊敬するんだと言われた。専任講師とか助教授の時代、昭和30年代、毎週、教授会があった。私が末席の頃だ。先生方は会議の始まる前や途中でいろいろ雑談をする中に広井勇のことがよく出ていた。その長老教授たちの中で直接、広井勇の講義を聴いていた人はほとんどいなかったが、すでに広井勇は伝説化していたのだ。そんな噂話の中にいろいろなエピソードが出ていた。

「製図室に広井先生が現れて、後ろに立たれると製図が書けなくなった。緊張して叱られるのではないか」「先生は毎日寝る直前に床を敷いて、明かりを消し、正座して30分間、今日一日精魂を込めて学生達を教育したか、反省して翌日の生活の糧にした」。そんな話だった。
 凡人は明かりを消せばすぐ寝てしまう。反省して起き上がっても後の祭りで反省するのは「すぐ寝てしまったこと」ぐらいだろう。

 人類のためパナマに向かった青山士

 全人教育は実は講義で教えるものではない。「みなさん責任感を持ちなさい」「10年先のことを考えなさい」と講義で言っても学生は真面目には聞かないでしょうし、あまり効果もない。その先生の生き方や人生観がどうであるかが伝え伝えられることが大切。あの先生はこういうことを言っている、こういう生活態度だ、それが全人教育で、こうした高壇で話すことではない。それが学生を鼓舞し、学生の人生観を育てるのだと思う。立派な弟子を育てることこそが大学教授の大きな成果なのだ。広井勇の場合、その何人かの例を紹介し、広井先生の生き方との関係をお伝えしたいと思う。

 まずは明治36年に卒業した青山士。広井が東大に行って間もない頃だ。優秀な弟子たちは広井勇の教えてもらったからだけではなく、当時の社会背景からして東大に入る前から相当の人生観を持っていたということは無視できないと思う。青山士は一高時代に内村鑑三の教会に通っていて、人生をいかに生きるべきかを悩み続けていた人だった。

 内村鑑三は明治22年、教会で「後世への最大の遺物」という講演を行った。この話はいまも岩波文庫になっていて、誰でも読むことが出来る。その中で「人生いかに生きるべきか、最も近い道は土木技術者になることだ」と書いている。内村鑑三は河川の土木の現場などを全部見ていたんです。そして、「土木事業は将来にわたって君らの子や孫の時代に役立つ非常に大事な仕事だ」と考えていた。さらに土木技術者になれるのは極めてすぐれた何万人に一人しかなれない人だ。教会での講演だから、君らはそうはいかないということで、最後は勇気ある高尚な生涯を送れと締めくくっている。
その講演は青山が一高に入る前だったが、青山はその考えを読み直接いろいろ教えてもらっていたようで、自分は土木技術者になると考えたきっかけは内村鑑三にあると思う。内村と話をしている間に「そうか君は土木技術者になりたいか、それなら東大の土木工学に行きなさい。そこには僕の同級生の広井勇君がいるから、そこに行って薫陶を受けなさい」と言ったそうだ。

 青山は人生で何をすべきかは決まった。土木技術者である。今度は東大の土木に入ってまた悩んだ。「将来、具体的に何をするんだ」。明治30年代に最も人類のためになる仕事をやりたいと考えた。彼が選んだのはパナマ運河だった。大学を36年に卒業するや否やアメリカにわたった。パナマ運河工事は中断中だった。広井勇からバー教授への推薦状を一枚を持って行った。バー教授はパナマ運河建設委員会の委員の一人だった。そこで約一年アルバイトして、いよいよパナマ運河の工事が始まった時にパナマに行った。

 青山はパナマ運河で7年半、工事に携わった唯一の日本人である。パナマ運河の工事では労務者の一割の人が死んだとされる。そんな過激な工事現場は今では許されない。しかし、たぶん、青山はパナマで満足した生活を送ったはずだ。熱帯で現場には医者もいない。熱帯のマラリヤから黄熱病からひどいところだ。そんなところに勇んで行った。「自分は人類のために仕事をするんだ」と考えたからだ。その考えには「広井勇の超国際的発想」がならしめたものでもあった。一割の労務者が死ぬという現場でも彼はきっと満足だったに違いない。

 パナマでの7年半を終えて帰国した青山は、東京をいまも守っている荒川放水路をつくり、その後、信濃川をいまも救っている大河津分水を新潟土木出張事務所長として建設した。そして昭和6年6月24日(20日に完成した)の完成式で、石碑を建て「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ。人類ノ為、国ノ為」と書いた。私は土木に関する記念碑で最もすぐれたものだと思う。

 しかも日本語の下にエスペラント語でも書いた。昭和初期、エスペラント語は世界共通の言語として普及していた。ポーランドのザメンホフが発明した人造語で、世界の国民は自分の国の言葉とこの共通語のエスペラントを話すことが世界平和のためだと信じた。残念ながら現在、世界共通語は英語になってしまった。

 大正末期に治安維持法が出来て、この記念碑をつくると早速、特高、特別高等警察、思想警察が面会に来た。ようするに特高は自分の分からないことはみんな「非国民」とした。青山はエスペラントなどという危険な言葉を使うけしからんやつだということになった。

 青山は昭和5年に内務省を辞めるが、その後、昭和20年までずっと特高に追い掛け回された。先生が内村鑑三で、日露戦争すら反対した人だから、内村鑑三の弟子はみんなにらまれたのだ。

 青山は昭和63年に亡くなるが、その2年前に静岡県磐田の家に二度訪ねて、その記念碑の話や特高に追い掛け回された話、パナマの話などをうかがった。青山さんの後ろの本棚には内村鑑三全集とシュバイツアー全集がまさに所を得たというよう感じで並んでいた。
「どうしてパナマに行く気になったのですか」と聞くと
「広井先生の影響だよ、若気の至りだよ」と照れていた。

 台湾に骨を埋めた八田与一

 明治43年に東大を卒業した八田与一は、古川さんが「台湾を愛した日本人」という評伝を書いたからご存知の方も多いと思う。

 八田与一は大学を卒業するや否や台湾に渡った。台湾のために自分は働くといって烏山頭ダムという当時、東洋一のダムをつくって、嘉南平野60万人が洪水と渇水と塩害に苦しんでろくろく農業生産も出来なかったのを救った。

 八田与一は「一度行ったら現地の人のために働くのが土木技師だ」と考えたが、広井勇も同じことを言っている。海外で仕事をするときに東京の本社にばかり目を向けている人間は技術者ではない。八田与一は台湾に骨を埋めるつもりで行き、本当にそうなった。奥さんも夫と同じだった。だから八田が亡くなった後も日本には帰らず、戦争が終わった直後に自ら命を断っている。奥さんは戦争が終わって日本に帰るような人の言うことは聞かなかった。

 毎年5月8日、八田与一の命日には地元の台湾人200人、故郷の石川県から100人が慰霊祭を行っている。亡くなって70年も経つのに何百人もの人がお墓参りをする。数年前から台湾の馬英九総統も参拝している。そんなことがほかであるだろうか。

 外国へ行ってそこの人たちのため働くという広井精神。大学を出てすぐ台湾に行ってそのまま台湾で亡くなり、まさに骨を埋めに行ったのが八田与一だった。

 世界初の海底トンネルを掘った釘宮磐

 明治45年に卒業した釘宮磐。世界最初の海底トンネルとなった関門海底トンネル工事の初代所長だった。幸いにして私は東大の第二工学部の時、釘宮さんの講義を受けるチャンスがあった。第二工学部は昭和16年にできたが、ほとんどの教授を現場からお呼びした。鉄道あるいは施工については現場から釘宮さんを招聘した。東大に夜間があったのかという人もいるが、私は昼間に通ったのだ。
先生には申し訳ないが、講義内容は忘れてしまっている。覚えているのは体験のエピソードとか、あるいは先生が失敗した話とか先生が間違えたことはばかりだ。釘宮さんの体験談が面白かった。他の先生が面白くなかったというわけではないが。関門トンネルで苦労した話とかは面白かった。
先生はあだ名が「君子」といった。非常な人格者だった。父親が神田のニコライ堂におられて、敬虔なロシア正教徒だったから「君子」と呼ばれても当然だった。だから釘宮さんのお葬式もニコライ堂であった。

 釘宮さんの話にいろいろ外国の話が出てきた。外国のことをきちんと勉強しろと広井勇から教わったと言っていた。

 大正になって宮本竹之輔とか石川栄耀とかも広井勇が現役だった時代に東大を巣立っていった人材だ。宮本も非常に特異な人生を送った人で、他の人と同様にしかるべき人生観を固めてから東大に入ってきた。そして東大に来て国際的感覚を身に着けた。いまでは国際的感覚を養うなど当たり前だが、当時は時代が違った。明治、大正時代にはそういう感覚を教えるというか、学生に漂わせることのできる教授が少なかった。

 大学を出るなり台湾に行った八田与一だとか、人類のためとパナマに行った青山とか、宮本は外国には行かなかったが、出張などで外国に行ったとき、宮本が見たのは普通の土木現場だけでなかった。イギリスではフェビアン協会や労働党も訪ねている。大変に視野が広かった。土木は土木工学だけを勉強していてもだめなんだと考えた。それも広井精神だと思う。

 昭和16年126月24日に49歳で亡くなったので、お目にかかっていない。ただ彼の書いたものとか、東大で講義を聞いた人の話は聞いた。そこで宮本は外国のことになると広井勇のことを話したそうだ。

 そもそも宮本は見識の広い人で、一高時代は芥川龍之介や久米雅夫、菊池寛と同級で、小説家になりたかったで、文才もあった。いまの土木の人は外国へ行っても現場を見て土木の先生に会って、後は観光で終わる人が多い。もともと見識が広かったうえに、広井勇と出会ってさらにものの考え方を広げることも教わったようだ。

 広井勇が57歳ぐらいの年のころの学生に石川栄耀という後の都市計画の大家がいた。「都市計画というものをどう考えるか」を教えた。人々を愛すること、都市を愛すること、それが都市計画であるというのが石川栄耀の考えだった。

 幸いにして私も学生のときに、石川栄耀さんの講義を聞くことができた。東大時代、一番面白く、ためになった講義だった。石川さんは講義中に学生がノートを取ることを一切禁止した。家に帰って記憶に基づいて書きたい人は書けといった。講義中も教室を歩き回って、黒板にはめったに書かない。それは広井勇とは関係ないが、視野の広さ、ものの考え方を教えた。

 都市計画は経済的な計算をして数字をはじいて図を書けばいいというものではない。都市の人を愛することが都市計画である。栗田さんの話にもあったが、広井勇は小樽港の工事の時にも現場で働く人たちを非常に重んじていた。宮本は大河津分水の工事中、昭和2年から6年、毎晩のように現場の人と一杯飲んでいたらしい。高知県は一杯飲むことが大変重要だと聞いているが、毎晩、労務者とか地元のボスとかと酒を酌み交わして、自分から改修の歌を作詞してみんなで歌うとか、広井の影響を受けていた。

 100年先まで責任を持つ工事

 1899年から1919年まで20年間、紹介した人は一部だが、広井勇のもとで東大を出た人たちが、明治の終わりから大正、昭和の初めにかけて日本のインフラをつくった中心人物となった。ただ土木事業をしたというだけでなく、重要なことはそれぞれの仕事に魂を入れたということだ。青山士の大河津分水の記念碑が示すように工事を完成すればいいというのではない。それは何のためにそして何年間責任を持つのか、まで考えた。

 青山文庫に展示されているように、広井勇は自分のつくった仕事について、たくさんのテストピースをつくって、毎年試験しようとした。鉄筋コンクリートを防波堤に使ったのは初めてで、耐久度が分からなかず、10年たって、20年たってどうかなるか分からなかった。だからたくさんのテストピースをつくって、毎年それを破壊試験をした。それは自分がつくったものに対して100年後まで責任を持つという考え方だ。

 つまり土木事業は内村鑑三が話したように、「子供のため孫のため子々孫々のためにつくるから価値がある」というなら、その何十年先までも自分がつくったものに対して責任を持つ、それが本当の土木技術者のあるべき人生であるというのだ。それが広井勇の教えたものだ。

 私がいま、責任感を持てといっても全然、迫力がないが、小樽港でテストピースを100年間使うものをつくったということはすごいことだ。さきほど栗田さんの話があったが、工事中にクレーンが倒れるという大変なことがあったとき、これがうまくいかなければ、自ら命を断つという心構えだった。それくらい自分の仕事に対して生命をかけていた。話によれば、その時、広井はピストルを持っていたという。どうしようもなければ、自らの命を断つ覚悟があった。

 日本三大名橋の一つ、九州の通潤橋の完成式のとき、その設計者は短刀持って立ち会ったという。もし水が吹き出なければ、その場で割腹自殺するつもりだった。つまり土木技術者は自分のつくったものに生命をかける、100年先までも責任を持つ、それが広井魂でしょうね。

 私も含めて、最近の技術者教育でそういう全人教育がちゃんとできているであろうかと考えることがある。特に第二次大戦後の教育は土木に限らないが、ものをつくることのみ集中しすぎて、つくったものに対する責任感やそれに命をかけることがない。どうももののつくり方、計算の仕方、そういうもののみが教育であると思わせるような、本人はそうは思っていなくても結果としてそういうことになってしまっていないか。

 広井勇という人の生き方を多くの日本人に知ってもらうとともに、教育に携わるものは知識を売るのではなく、より大切なことは何かを反省すべきときであろうと思う。残念ながら町長さんも心配になったように牧野富太郎の方が有名だ。牧野の偉大さを否定するものではないが、この町は広井勇という日本のインフラの基礎をつくり、そのつくり方の精神、人生観を伝えた人物を生んだことをぜひ誇りにして、少なくとも佐川町で牧野と同等以上に広井勇を知らない人は一人もいないようにしてほしい。さらには高知県で広井勇をみんな知るようになってほしい。あわよくばイギリスやドイツ、フランス、アメリカで土木技術者が知られていて、通りの名前にしたり広場の名前にしたり、義務教育で教えているように全国民がみんな知ってほしい。高知県ではぜひ広井勇を副読本で広めてほしい。

 松山では古川さんのお陰で宮本竹之輔の知名度が急上昇していたと思う。宮本の先生が広井勇だから、四国で連携して日本のインフラの魂を築いた日本の大先輩をみてほしい。名前だけを知っていても仕方ない。その生き方からどう学ぶべきかが、これからの技術者教育の大きな柱になるべきだろうと思う。

 日本中の土木技術者や土木技術の先生がただ、ものの作り方を教えるのではなく、その技術魂というと昔くさいが、どういう考えで技術者としての生涯を送って、弟子たちにどういう影響を与えたかということを、今日の催しを契機として、土木の人間が思い、自ら実践しようとすることが他の人にも感銘を与えるのだ。

 今日の催しがそういうことにいささかなりとも役立てば大変ありがたいと思う。会場には高知県の人が多いと思うが、東京からも高松からも愛媛県からも来ている。それぞれの郷里でインフラに貢献した人物がいるはず。日本中でいかにインフラ整備が重要であるか。それは子々孫々まで影響するからだ。インフラの重要性は100年先、1000年先まで長い目でみて、責任をもち、自分のつくったものに命を懸ける技術者のあり方であり、それを教えることが土木工学の教授たちの大事な使命である。これを契機に今後すぐれたインフラが次々とつくられることを期待してやまない。
中国人民解放軍の神話            平岩 優(エディター・ライター)

 前代未聞の軍隊

96958A90889DE3E3E6E0E6EAE4E2E0E3E2E5E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2-DSXBZO1142923021072010000001-PN1-2.jpg 習近平次期主席が権力を継承する過程をながめていて、あらためて中国で権力闘争を勝ち抜くためには、軍を掌握することが不可欠であることがわかる。つまり中国人民開放軍は建国60年以上たったいまも、政治やイデオロギーから切り離されないままで、政治に中立的な専門集団として国にうまく組み込まれていないということだろう。

 中学生の頃に、毛沢東の伝記を読み、過酷な状況の中でひたすら前進する紅軍の長征にこころを揺さぶられた記憶がある。2年間で11省を踏破し、2億人の中国民衆を味方につけたといわれている。そのせいか、中国人民解放軍は民衆に支持され、民衆を開放した軍隊というイメージが、私の中でしばらく居座っていた。

 しかし、それは私だけの思い込みではない。例えば、1947年、当時、ル・モンド紙記者だったロベール・ギランは国民党軍が防衛する上海に進撃した共産党軍を唖然として見守る上海市民の様子を描いている。いわく「盗みをせず、女を犯さない兵士、いくさに勝っても略奪せず、住居に侵入せずに歩道の上に寝、住民が飯や茶をすすめても断り、電車に乗れば運賃を払う軍隊。そんなものには上海ではお目にかかったためしは」なかった。その軍隊は「旧式な銃、旧式な機関銃、使い古したサンダル、草に汁で染めたようなぼやけた色の軍服」の農民兵士であり、「将校も兵卒も寸分たがわぬ軍服で、同じ生活をきびしくわかちあっているために、だれが指揮をとっているか分からない」という前代未聞の軍隊だった(『アジア特電1937~1985』平凡社)。

 ロベール・ギランは上海で「実に中国的なエピソード」も目撃している。河川ジャンクの一団が戦闘のとばっちりで炎上した。すると引火していない舟は竹竿で火災した舟との間隔をとる。燃え上がる舟の上では妻子を連れた船頭たちが炎につつまれて格闘する。その間、危険を脱した船頭たちやサンパンの乗り手たちは、仲間を救助しようとする様子もなく、「河岸にしゃがみ、ひやかし気分の見物をきめ込んでいた」。魯迅が医師から文学者へと志望を変える要因となった、当時の中国民衆の姿だ。

 一方、ギランは同じ上海で、国民党軍の機関銃の斉射で路上に転がった浮浪児の死体を、危険をかえりみずに路上に身をおどらせて収容した男たち(地下潜入していた共産党員)も目撃し、「はじめてこの目で、中国人がほかの中国人を、それも最もみじめな奴を助けに、危険を冒すのを見たのだ! 」と語っている。

 もちろん、新中国の夜明けに立ち合った著者は、中国共産党のやり方を全面的に称賛したわけではない。後に青い服を着た4万人の労働者が働くダムの工事現場を見学し、「これは蟻の大群だ!青い蟻なのだ! 」という有名なキャッチフレーズで、国家建設を急ぐ中国が全体主義体制の支配下に置かれていることに警告を発している。(それにしても、アメリカ映画にでてくるベトナムのゲリラ兵の群れしかり、欧米人にはアジア人が地から湧きだしてくる虫のように見えるようだ。)

 製造業から商業施設の運営まで

 人民解放を冠した軍隊のイメージが決定的に損なわれたのは、1989年6月4日の第2次天安門事件だった。人民解放軍はどう動くのか、世界がかたずを飲んで見守る中、結局、中央軍事委員会主席鄧小平の命令下、民主化を要求する学生を中心にした一般市民からなるデモ隊を武力で弾圧し、多数の死傷者を出した。つまり、人民解放軍は国軍ではなく、共産党の軍であることが確認された。

 人民解放軍は日中戦争(八路軍)、国共内戦を経て、文化革命に介入することで膨張した。その後、鄧小平が軍事改革により100万人削減と武器・装備の近代化などを進めたが、天安門事件に関与することで、さらに勢力を拡大し現在に至っているといわれる。

 また中国人民解放軍はさまざまな企業活動にもかかわっている。それも軍需産業にとどまることなく、農業、鉱山、機器、食品加工や、ホテル、飲食店など商業施設の運営にまで手を染めるコングロマリットであることが、よく知られている。

 私ごとでいえば、たしか92、3年頃S氏という人から、「中国の軍が移動体通信事業を企画しているので、NTTなどのキャリアや電気業界に知り合いがいないか」と尋ねられたことがあった。当時、私は新潟、富山などの自治体間に拡がった環日本海運動の応援部隊のようなことをしていた縁で、S氏と知り合った。S氏は僧籍にある人で、中国の中南海にいる僧侶と付き合いがあるとかで、その件もそうした人脈からもたらされたようだった。それにしても、どのようにそうした人脈網を築いたのかも判然としない、奇妙な人物だった。その後、S氏は持病の腎臓病が悪化して入院し、付き合いは途絶えてしまったが。

 ちなみに環日本海運動とは、日本海対岸諸国・地域(ロシア極東、中国東北3省、韓国、北朝鮮)との自治体・民間交流を深めることで、従来太平洋ベルト地帯に偏向していた経済活動やインフラ集積を日本海沿岸にももたらそうという構想である。結局この運動は北朝鮮の拉致問題がクローズアップされたことなどもあって、尻すぼみになっている(当時政府から圧力があって潰されたという声も聞いたが)。

 人民解放軍の起源

 中国人民解放軍のこのように外側から見ると理解しがたい不可思議な存在だ。そもそも人民解放軍はどのように生れたのだろう。

 解放軍は1927年に広東で共産党直属の軍隊として誕生したが、その起源と成長をとげていく過程は神話に包まれている。共産党は地主から奪った土地を小作人に分け与える土地革命を起こし、農民の支持を獲得。農民を兵士として集結した解放軍が誕生したという神話だ。ところが現地の史料を掘り起こすことで、この神話のベールを引き剥がし、解放軍を軍事面から解明した著作が現れた。東京大学の加藤陽子教授(日本近代史)が書評で取り上げた『中国革命と軍隊』阿南友亮著(慶應義塾大学出版会)である(毎日新聞10月7日「今週の本棚」)。

 私は未読であるが、加藤氏の書評の要旨は、次のようなものだ。

 共産党は当初、たしかに農民からなる徴兵制に近い軍隊創設を望んでいた。しかし、当時の中国軍閥の軍隊は金で雇われた傭兵であり、指揮官と兵士が私的関係で結ばれ私利私欲で動く匪賊とかわりない。かといって、社会に対する党の動員体制が整備されていたソ連の赤軍は手本にできない。また日本のような徴兵制を支える組織や制度の整備も期待できない。 そこで孫文の設立した黄埔軍官学校で先端的な軍事教育を授けられた士官を指導部とし、戦利品・略奪品目当ての層も受け入れ兵に仕立てたという。

 さらに地域の防衛拠点と商業経済の中心地などを支配してきた宗族(中国の父系同族集団)間の対立を利用して、武装宗族を取り込んだ。たとえば国民党側に立つ或る宗族がいるとすると、それと対立する二番目の宗族と連携し、国民党とその宗族をともに打倒するという戦略をとった。つまり、「宗族対立を利用し、農民の自衛団や傭兵など既存の地域内の武力を、躊躇することなく自軍へ併呑した」ということになる。加藤氏はこの著作を「中国を考えるための必須の書となった」と評価している。

 これを昨年12月27日の毎日新聞のこんなコラム(「木語」太子党派の復活 金子秀俊専門編集委員)と併せ読むとどうだろう。

 コラムによれば、上海市長に楊雄副市長が内定したという。この人は平党員で、普通では中央直轄市の市長へ昇進することは考えられない。まさに異色の人事である。ところが、この楊氏はかって江沢民氏の息子が経営する投資会社の社長を務めたことがある。さらに上海市党委員会の韓正書記も上海の官僚であるという。これでは「かつての「上海閥」の復活だ」というわけだ。

「江氏が北京の事務所を閉め上海に戻った。すると上海は江氏の居城のようになった。尖閣諸島の上空に接近してくる海監総隊機が尖閣に一番近い福建省からではなく、上海に近い浙江省から飛んでくるのも、江沢民派の高揚と関係があるかもしれない」(木語)。

 揺さぶられる「中国共産党の安全保障」

  ところで、昨年から今年にかけてマスコミは毎日のように尖閣諸島を巡る日中間の軋轢を報じている。尖閣諸島問題に代表される海洋権益の拡大に関与しているのは海監(国土資源部の国家海洋局)、漁政(農業部漁政局)、海巡(交通運輸部海事局)、海警(公安部)、税関総局と多くの組織がからみあっている。中でも、深く関与しているのは当然、解放軍(海軍)であろう。こうした解放軍の動きに対し、日本の特に保守派や強硬派はやがて米国をもしのぐ経済大国になるであろうという先入観のもと、台頭する中国への警戒感を煽っている。

 しかし、先の『中国革命と軍隊』の著者阿南友亮(東北大学准教授)氏は「九〇年代から今日まで続いている解放軍の大規模な増強は、世界最強の米軍に対抗せねばならないという強迫観念に駆られたものであるといえる」(人民解放軍考『外交』Vol10)という。天安門事件による中国共産党の国内における権威の低下、1990年代に勃発した湾岸戦争で米軍を中心とした連合軍が解放軍より先進的な兵器体系をもっていたイラク軍を簡単に打破したことが「中国共産党の安全保障」を根底から揺さぶった。さらに95,96年台湾海峡危機をきっかけに、共産党内では台湾独立の動きを牽制するためには、台湾有事の際に介入する米軍を迎撃できるよう解放軍を強化し、独立派の思惑を挫くことが課題となったという。そのため、米中関係は安定しているにもかかわらず、米国の太平洋艦隊が通る東シナ海、南西諸島海域、西太平洋、さらにペルシャ湾に展開する米第5艦隊の通り道である南シナ海での解放軍の活動が活発化している。

 阿南氏はこうした動きが「台頭する中国による国際秩序への挑戦」というイメージを醸成しているが、「そのような壮大な物語ではなく、民衆の支持を失いつつある支配者がアキレス腱を必死に守ろうとして、なりふり構わず用心棒の数を増やし、見回りの範囲を拡げているという光景である」(人民解放軍考)と捉える。

 そのうえで、日本は中国外交部への外交努力に加え、解放軍総部に対し、解放軍の対外配慮に欠いた行動は長期的に「中国共産党の安全保障」にとってプラスにならないことを伝えていく外交努力が必要としている。

 私は軍事に詳しいわけではないが、冷静に分析し、対処することが大事であろう。  
「大きくなったら外交官になって、アメリカに行ってお母さんに電気冷蔵庫をお土産に買う」まだ日本に電気冷蔵庫がない時代だった。小2の時に書いたこの作文をずっと後になって母が見せてくれた。丁度米国駐在前だったから母も思う所があったのだろう。当人も忘れ、外交官にもならなかったし冷蔵庫も買わなかった。しかし当たらずとも遠からじ。三つ子の魂百までを地で行く話にびっくりしたものだ。

 このように人には誰でも幼い頃から貫かれているイメージのようなものが確実に備わっているのだと思う。ある時はぼんやりとある時は衝き動かすように身体の芯に潜んでいる。歳をとるにつれ、この思いは年々強くなるようだ。子供は侮れない。「今のこいつらの思いは一生ものなんだ」と最近孫と遊びつつ、つくづくそのように思う。

 戦争に敗けて進駐軍が街に来て、アメリカの暮らしや音楽が身近になったせいか僕たちの周りにはいつもアメリカが溢れていた。比較対象がないだけアメリカ一辺倒だった。それに輪を掛けたのがTVの出現だった。少し前に鬼畜英米とか神国日本と叫んでいた時代は一体何だったんだと子供心にも不思議な思いがした。

 子供の頃からの思いが突然弾けて一気に昇華したのが東京オリンピックだった。初めて多数の国の中の日本を意識した。そこで健闘する日本人アスリートに、俄か愛国者になったりもした。しかし何よりも胸が熱くなったのは閉会式だった。セレモニーは整然、粛々と行われるべきものとの思い込みは消し飛んだ。

 突然入場口から選手たちやコーチがなだれ込んで来た。満面の笑みをたたえてぞろぞろと。国の隔ても勝ち負けも男女の区別もなく、ある者は仲間を肩車し、ある者は手まねを交えて異国の選手と話しに夢中だった。すべてTVの画面を通してだが、この一瞬とこの光景は以後の自分の人生を貫く原点となった気がしてならない。

 あの演出は一体誰が仕組んだのだろうか。日本人にはできない演出だと思った。この稿を書くに当たって調べてみて意外なことが分かった。入場準備の態勢が整わぬまま見切り発車で起きたハプニングだったらしい。しかし計算外の効果だった。なかでも印象的だったのはNHKの実況アナウンサーが予定原稿台無しのなかで、眼前に繰り広げられる光景に酔いしれ興奮気味に中継した。アドリブとしては秀逸の実況中継だった。というよりオリンピックの精神は、この光景にこそ極まったと云ってもいい。

 毎回の大会セレモニーで使用されるオリンピック讃歌はこの原点を思い出させてくれる。特に印象的だったのはリレハンメル冬季五輪だった。手作りの色合いが強くとても好感が持てる開会式だった。とりわけ国民的歌手シセル・シェルシェブーの歌うオリンピック讃歌が出色だった。

 それから以降昨年のロンドン大会に至るまで、このオリンピック讃歌が流れると瞬時に東京のあの感動に直結する。大会ごとに主催国は演出の趣向に知恵を絞るが、このオリンピック讃歌の場面だけは不動なのだ。最近の商業五輪も、このひと時だけはクーベルタンの理想に戻り厳粛な気分になる。そして歌詞が開催国の言語で歌われるのがまた良い。

 この原型を作ったのも東京大会だった。第1回のアテネ大会で披露されて後、譜面が散逸し行方不明となった。東京大会直前に譜面が50年ぶりに発見されギリシャのオリンピック委員会から東京に連絡が届いた。そこからの日本オリンピック委員会(JOC)の対応は素早く見事だった。ピアノの譜面をオーケストラ用に編曲し日本語の歌詞まで付けた。その一切のアレンジはNHKが一手に引き受けた。

 これが後にIOCの総会に報告され讃歌をオリンピック憲章に明記することが採択された。それ以降の各大会ではこの讃歌の使用が踏襲されることとなった。歌詞を開催国の言語でという規約はないが、よき慣例としてそのまま現在まで続いている。それぞれのお国ぶりを披露すればするほど、それを超える共通の思いと精神が更に際立つ。作為と不作為のこの象徴的な二つの出来事が東京大会を歴史に残す大きな転換点となっているのは、日本人も大いに誇りに思っていいのではないだろうか。

 クーデンホフの汎ヨーロッパ運動、クーベルタンのオリンピズム、そして第2次大戦後の世界連邦運動・・・根っこにある共通の因子は、国を誇りに思う一方で国を超えた価値共有の大切さを説く運動の理念にあるといえる。愛国心は時として内向きに作用し外の排除や差別に繋がる危険性を常にはらんでいる。青臭い理想論であるとか現実をみない空論と揶揄されようが、国の論理では制御できない小さな地球を以前にまして真剣に考える時期を迎えているのではないだろうか。
130201yamazaki (2).JPG 財団法人国際平和協会は3月4日、「北京の崇貞学園が遺したもの」と題して東京で清水安三を顕彰するするフォーラムを財産法人霞山会と共催することになった。

 清水安三は戦後、桜美林学園を創設した人として知られるが、戦前の中国での献身活動についてはほとんど知られていない。1921年、北京の朝陽門外で、飢饉で飢えた近隣の子ども達を救済する傍ら、スラムの貧困層の子ども達の自立を目指す職業教育学校「崇貞学園」を設立。キリスト教の精神で国境を越えた愛の教育を貫いた。

 一方、四半世紀に及ぶ北京在住で、中国の知識人と積極的に交流を図った。上海の内山完造は有名だが、たぶん内山を凌駕する広い交遊を育んだ唯一の日本人だった。

 その清水安三の胸像が2005年、反日デモの最中に建てられた。北京在住の日本人ですらその胸像の存在を知られていない。フォーラムではその朝陽門外で育った桜美林学園の理事長の佐藤東洋士氏と、『朝陽門外の虹』(岩波書店刊)の著者、山崎朋子氏からお話をうかがう。昨今の日中関係に鑑み、清水安三が生きた時代を振り返り、国境を越えた愛の姿を今一度顕彰したいと思う。ぜひご参加願いたい。

130201yamazaki (1).jpg■演 題:「北京の崇貞学園が遺してくれたもの」
■講 師:佐藤東洋士氏(桜美林学園理事長)、 山崎朋子氏(作家)
■日 時:2013年3月4日(月)17:30~20:00
     17:30:開場
     18:00~18:45:講演(佐藤東洋士氏)
     18:50~19:35:対談 山崎朋子氏vs佐藤東洋士氏
                  (進行:伴 武澄)
     19:40~20:00:質疑応答
■場 所:霞山会館「牡丹の間」千代田区霞が関3-2-1霞が関コモンゲート西館37階
■会 費:無料
■申 込:事前登録制です。メールに①氏名(必須)②連絡先電話番号(必須)③所属(任意)を明記のうえ、メール件名は「講演会申込」として、koudoku@kazankai.org 宛てお送りください。締切:3月1日(金)
■共 催:財団法人霞山会、財団法人国際平和協会
■問合せ:財団法人霞山会 
      〒107-0052東京都港区赤坂2-17-47赤坂霞山ビル
      電話03-5575-6301 FAX03-5575-6306 koudoku@kazankai.org

 清水安三に関して萬晩報が最初にコラムを書いたのは2004年のことだった。賀川豊彦を追悼する冊子に桜美林学園の清水安三の名があり、そのつながりを調べたことから始まった。その後、北京大学の創立100年の式典に当時、桜美林の理事長だった清水畏三氏の講演録を発見し、掲載した。また2010年には朋友、岩間孝夫氏が北京で清水安三の胸像が立ったことを報告してくれた。その間、いくつか清水安三に関する書籍を読み、こんな日中間の時代こそ、今一度、清水安三を顕彰することが必要だと考えた。

 このフォーラム実現のために霞山会、桜美林学園関係らにお世話になった。

北京で貧民救済に尽力した桜美林の創設者 http://www.yorozubp.com/2011/2004/01/post-731.html
清水安三の北京時代 http://www.yorozubp.com/2011/2008/09/post-219.html
北京の学校に立った清水安三氏の胸像 http://www.yorozubp.com/2011/2010/03/post-124.html
                           龍谷大学 教授  中野 有

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 ここは地の果てアルジェリア、「カスバの女」のメロディが蘇ってくる。32年前にアルジェリアでないが戦争中のバクダッドに企業戦士として赴任した。20代前半の若者にとって異国の地で大型プロジェクトに従事することは大いなる憧れであった。大袈裟かもしれないが命をはって仕事をした。そして実際に戦闘にも巻き込まれた。

 日本で平穏無事なサラリーマン生活に何の魅力も感じないあまのじゃくにとって生き甲斐、報酬、危険の狭間の中、国際貢献という抽象的な名目に任せ海外で生活し、自分を鍛えることこそ我がテーゼであった。日本企業の企業戦士としての海外赴任、国連の職員として途上国援助の仕事。戦争という外部要因とマラリアという内部要因との戦いでもあった。

 日本から逃避しながら途上国で学んだことは、「開発協力は人類の義務である」と語った開発協力の父である久保田豊氏の名言である。戦争や紛争の一因として貧富の格差が挙げられる。地域格差とグローバルな経済、技術力の格差を縮めるためにも開発協力は重要な役割を演じている。

 ダイナミックな仕事は、ハイリスク、ハイリターンである。加えて、途上国での大型プラントの仕事や開発援助の仕事は国益を超越して地球益としての崇高な目的をはらんでいる。そこに身を置く覚悟があるなら徹底的にリスクマネジメントを研究し実践することが必要である。

 アルジェリアの悲報に接し、北アフリカの地の果てで崇高な仕事をされた企業戦士に尊敬の念を抱かずにはいられません。同時にリスクが高いから途上国のビジネスを回避する方向に向かってはいけないと思う。恐らく、途上国で勤務した多くの人々は、改めてリスクマネジメントについての戦略が必要であると考えておられると思います。

 途上国の大型プラントがテロのターゲットとなる本質的な要因は何処に起因しているのであろうか。第一に、途上国からみれば先進国による資源の搾取と映る。第二に、中東や北アフリカの不安定な政治、経済、社会、宗教的な要因が政府軍と反政府軍やテロ組織の対立を助長させており、大型プラントが格好のターゲットとなっている。第三、テロ組織が仲間の釈放等で政府と交渉するのに海外プラントに働く外国人を捕虜にするのが手っ取り早いと考えられている。

 かつては人道的な観点から人命が最優先されてきたが、人種、宗教に根ずくテロの温床を根絶するためには、一切の妥協を許さず速やかな戦闘行為を遂行することが正当であるという考えが広がっている。

 要するに途上国でのプロジェクトのリスク要因はかなり高いのである。このリスクを軽減するためには、安全保障(セキュリティ)の情報や知識を拡充させることが大切である。しかし、最高の安全保障の情報に精通しているとされるアメリカであってもリビアのアメリカ領事館がテロ組織により襲撃され大使などが殺害されたことからリスクマネジメントの限界がある。

 海外の大型プロジェクトに関し、現実的に企業から見ればリスクがあっても利益も重要であるし、国家の視点からもエネルギー資源の確保は国是であり、開発協力や技術移転の観点からも建設的な関与が不可欠である。

 企業、国家、国連による多国間協力、集団的安全保障などを充実させ途上国のビジネスを遂行させるシナリオを描く必要がある。情報を拡充させたり経験則を活かすことによりリスク軽減につながるだろうが、特効薬のようなクスリは、中東や北アフリカの現在の特殊状況においては「リスクのクスリ」は存在していないと思う。しいて言えば、信頼のおける現場の状況に精通したローカルスタッフのネットワークを強化することがリスク軽減につながると読む。

 ぼくは思う。開発協力は崇高な仕事であり、報酬も多いがリスクが伴う。世界は不確実性の高い地でもある。日本は安全なように思われているが世界から見れば地震ベルト地帯であり、津波も発生するし、いまだ放射能が漏れている危険な所でもある。そのように思うと、昔ほど途上国で働く元気はないが、どうせ今を生きるなら命がけで途上国の大型プロジェクトに企業戦士として働くのも悪くないと思う。そのためには、企業とか国家に頼るのでなく自分で身を守るという直感に基づくリスクマネジメントの徹底に努めたく思う。

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