2013年1月アーカイブ

3677.jpg NHKオンデマンドをよく見る。なかでもBSで放映されたものの録りだめ「NHKアーカイブス」のファンである。今夜見たプログラムは「花はどこへいった」。我々団塊の世代には懐かしいタイトルだ。このフォークソングにまつわる不思議な謎解きのドキュメンタリーだった。時代のうねりのなかで一つの曲が歌い継がれた社会的背景が甦ってきて無性に懐かしくなった。

 この曲が全米に知られるようになったのはキングストン・トリオのヒットからだった。1960年の初頭のこと。それまで9年間鳴かず飛ばずの彼らを一躍有名にした曲でもある。当時は反戦というより平和を願う歌として登場し、その後フォークシンガーを中心にポップスやロックの歌手たちにも歌い継がれていった。ジョニー・リヴァース、ピーターポール&マリー、ブラザースフォーなど時代に敏感なアーチストがこぞって取り上げた。しかしはっきりと反戦、厭戦の象徴的な歌として意識されだしたのは60年代後半からのことらしい。まだカラオケもない頃、僕たちも何か集会があると決まって歌ったものだ。当時はベトナム戦争の煽りで世界的にフォーク・ソングのブームであった。

 北ベトナムの旧正月いわゆるテト攻勢でアメリカが泥沼に入り込んだ頃のこと。「何のための派兵?何のための戦争?」という米国内の反戦ムードの高まりの中、この曲はさらに浸透していく。番組は映像記録として、当時南ベトナムのケソン基地で米海兵隊員たちが歌うこの歌が残されていたことを探し出す。戦場で歌われることなど士気を損なうものとして固く禁じられるはずの状況下で兵士たちの歌う映像は胸を打つ。当時の海兵隊司令官もこの取材をOKしたという。厭戦ムードは兵士にまで及んでいたのか?それともこの曲と詞の持つ「穏やかさ」ゆえに記録として残る結果となったのか?真相はわからない。しかし同じ反戦歌でも「We shall over‐come」のような挑戦的なものとは一種趣の違う何かが作用したのかもしれない。

 その後この歌は、アメリカからベトナムへ、そして世界の反戦運動へと歌い継がれていく。歌われる状況は様々に異なっていった。第一次世界大戦を題材に生まれた詞が、その後、反ナチズムの歌として、アイルランドのIRAの抵抗のさなかで、そして戦争のない日本で・・・。 世界各地の街頭インタビューがあったが、国や年代を越えて数多くの人々がメロディーを口にできるのは印象的だった。

 番組の核心部分で二人のドイツ人女性を、番組は紹介している。一人はマレーネ・デートリッヒ。冷戦の申し子のような形で定着したこの歌を、彼女は好んで取り上げ世界各地のステージでドイツ語で歌ったという。ナチの贖罪の意味も込めストックホルム、コペンハーゲンで彼女は舞台から語りかけた。セックス・シンボル的女優だった亡命前の彼女とは別の彼女がいた。たまたまストックホルムのステージを見た作家の五木寛之は、前の席で家族とともに聴いていた国軍兵士がすすり泣くのを目撃したと自著の中で紹介している。マレーネの歌はドイツ人としての罪の意識と、ナチに抵抗しナチのプロパガンダとしての誘いを振り切り米国に亡命した彼女自身の人生とも重なる。大戦後、彼女への批判はくすぶり続けドイツへの帰還すらままならなかった。ナチへの、そして共産主義への二重の抵抗を、この歌にこめた彼女の語りは、ドイツ語のわからない僕にも強く訴えかけて来るものがあった。

 そして二人目はフィギュアスケートのカタリナ・ビット。東ドイツから出場した五輪サラエボ大会で彼女は金メダルを獲った。この後、サラエボが内戦で廃墟と化したことを知る。当時ピークを過ぎた28歳という年齢にも拘らず、彼女は東西統合ドイツの代表としてリレハンメル大会に出ることになる。結果は7位に終わったが、クルト・マズアの編曲による「花はどこへ行った」に込めた彼女のメッセージはフィギュアの世界を越え全世界の視聴者の心を打った。冷戦の終焉と新たな民族紛争勃発への憤り。技術偏重に走り始めた当時のフィギュア界で、敢えて表現を重視した彼女の滑りは強いメッセージで語りかけた。番組はこの2人のドイツ人女性を通して、この歌の持つ意味を静かに投げかけている。彼女へのインタビューは15分の予定が1時間半にも及んだと収録後、担当ディレクターがエピソードを紹介している。当初$5000と持ちかけられた出演料も番組の意図を理解したあと、ノーギャラに切り替えられたとも語った。

 そもそも、この歌の詞と曲はフォークの父ピート・シーガーによって作られた。50年代のことだ。彼の名は僕たちの世代にとってはウディ・ガスリーと並らび、すでに伝説の人だったように思う。ところがこの番組で、なんとこのピート・シーガーが突然現われたのだ。現在86歳(当時)NY州北部の農村で健在であった。取材の中で彼はこの歌の誕生のエピソードを語り出す。飛行機の機内誌で読んだロシアの「コサック兵の子守唄」が心に残り、彼はノートにメモした。

 葦の葉を刈る少女はどこへいった
 少女はコサック兵の嫁になった
 そのコサック兵はどこへいった
 戦争に行った・・・

 この短い詞に彼は惹かれるものがあったという。葦の葉を「花」に変えて彼は曲を作った。 3番までの本当に短い歌だったという。この原曲に4番5番を付け加えたのはジョー・ヒッカ―ソンというフォーク研究家だった。パブで皆が一緒に歌う時、あまりに短くてすぐ終わってしまうことから彼が詞を継ぎ足したのだ。

 兵は戦争でどうなった?
 死んで墓場に行った。
 墓はどうなった?
 野に咲く花で一杯に覆われている・・・

 こうして「花はどこへいった」は完結した。完結ではない。文字通り野に咲く花はまた少女に摘まれて・・・。そしてまた繰り返されて・・・人間はいまだに悟っていない。まだ戦争は止まない。

 ピート・シーガーが飛行機の中で読んだコサック兵の物語は、ロシアの文豪ショーロホフの「静かなるドン」であった。まだ健在であったショーロホフとピートの交流がここから始まる。

 結局、ピートとショーロホフの出会いは果たされなかった。第一次大戦から革命までの黒海沿岸部ドン川(ドニエプル)のほとりの農村とコサック兵たちを描いた大河小説『静かなるドン』は彼のノーベル賞受賞理由の一つでもあった。この作品が思わぬ形で世界中の人に知られるようになったことにショーロホフは満足だったという。「それこそ自分が描きたかったことだから・・」と言っていたと彼の娘さんはインタビューで語っている。娘さんは最後に「ピートさんには感謝しています」とも付け加えた。

 作品が反戦を声高に唱えるのではなく当事者や関係者への取材と映像から、淡々と静かに語りかけるスタイルに胸を打つものがあった。それは「花はどこへいった」に流れる曲想にも通じるものでもある。そして僕たちにも馴染みの深いこの曲の裏に、こんなにも多くのエピソードがあったことが新鮮に映り、それらを丹念に紡いでいく丁寧な番組作りに感服した。

 そしてまた、言葉は適切ではないかもしれないが、この曲を作った人たち歌った人たちの「真面目さ」をちょっぴり羨ましく思った。確かに日本でもこの歌は皆に親しまれるほどヒットし、今に至るまで歌われ続けている。でも何かが違うのだ。あの当時、べ平連の活動に見られるような純粋な反戦活動もあった。その類いの歌を歌うフォーク歌手もいた。しかし日本におけるこの歌のヒットの背景はそれらと無関係にファッションとして、時代の先取りとしてのカッコ良さからではなかっただろうか。反戦まで流行りものにしてしまう雰囲気がこの国にはある。このような国内外のギャップ現象をそこここに感じているのはぼくだけだろうか?

 たしかに、「いまそこにある戦争」といった現実感からほど遠い日本の社会状況では比較自体が無理なのかもしれない。でも企業の尖兵がアフリカの砂漠でテロの犠牲となる時代だ。その一方で、他人や他国の痛みには鈍感なまま商業主義に毒され、流行の先取り感覚にばかり走る若者たちを見ていてやるせなくなるのもまた事実である。
 3月に財団法人霞山会と財団法人国際平和協会が共催で、北京の朝陽門外の聖人といわれ、戦後、桜美林学園を創設した清水安三の日中友好に尽くした偉業を振り返るシンポジウムを開催する準備をしている。

 そのため清水安三『石ころの生涯』を数日前から読みふけっている。清水の偉業は単に北京の孤児たちのために尽くしただけではなかった。『石ころの生涯』には多くの驚きがある。今日はその一コマを紹介したい。

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lrg_10161046.jpg 昭和12年7月7日、朝十時ごろだったかと思う。いつものように学校で教えていいると、「朝陽門が閉まりました。昨夜、盧溝橋で日支の衝突があったそうです」とのこと、これを聞いた女学生の一人がサッと顔色を蒼白にした。

「いよいよ戦争だ。2、3年も前から日支は相戦うに至るであろうと予言していたが、とうとうその時がきたんだ」

 昼食の時、遠雷のような砲声を聞いた。十日には北京、天津間の汽車が不通になった。毎日、砲声が西郊、南郊から聞こえるが、私はいつもおと少しも生活様式を変えず、宅に預かっていた東京の青年と共に、町を歩き回った。

 ある日私は、ふと思いついて、東交民巷の特務機関長の公館を訪れた。機関長の松井大佐は折悪しくご不在であった。

 そこで私は秘
書の武田氏に面会して、「むかしナポレオンがモスクワを攻めた時に、クレムリン宮殿を壊すまいと欲して、ロシア軍に協力を申し込んだということです。すなわち、ロシア軍にクレムリン宮殿から程遠い地点に行くように要請したのでした。また日本では西郷隆盛が日光に立て籠もった幕府軍に、一寺の僧を使いとして遣わし、名跡を戦火より救うため、賊軍の山門より出て、何処へなりと移動するよう要請したことが伝えられています。なんとかして北京を戦場にしないでほしい」と詢々と申し上げて家に帰った。

 ところが、帰宅して、恰もひざま
ずいて神にお祈りをささげていると、その武田氏が、しかもフォードになって拙宅へフウフウ言ってやって来られたではないか。

「松井大佐にアナタの来訪を告げたところが『清水氏は一体どういう運動で、北京をして戦禍から免れしめ得ると思っているのだろう。キミ行って、清水氏を呼んで来い』と命ぜられたのでやって来ました」と言う。

 私は「そうですね」と言って、かねがね考えていた事を逐
一申し上げた。

 まず、日本文と中国文でそれから英文で、北京城を戦場にすべきでないことを詢々と書き綴ること、すなわち、大学やジムナジアムや公園のごときは、今後といえども建設されるであろう。けれども宮殿だの城壁だの天壇だのは、一度破壊したなら最後もう再び建設されはせぬであろう。それ故に北京を戦場としてはならない。

 それから北京を戦禍から免れしむるためには、北京城にいる中国軍が北京城から立ち去るべきであるが、それと同時に日本軍はその中国軍の出城を邪魔することなく、また出て行く中国軍を決して追撃してはならぬ。そして日本軍は、中国軍が出城して、最も戦術上有利な地点にまで出て行って、散兵、濠を掘り、完全に陣地を布くまでは決して発砲追撃せぬこと。よろしく中国の発砲を待って、おもむろに迎撃なり追撃をすること。

 そしてこの嘆願書には、北京在留の知名な日本人、それから北京在住の英米人宣教師の著名を乞い、その上に北京大学や北京大学の有名な教授たちの署名をずらり並べておくこと。そしてこの嘆願書を、宗哲元、川辺正三両将軍に認めて、両将軍のところに持って行くこと。

「いかがでありましょうか。こうした運動をこの際やってみてはと思うのですが・・・」とるる申し上げた。

 武田氏は「よろしい。帰って松井特務機関長に申し上げましょう」と言って、お帰りになった。その翌日再びお出でくださって、「自動車を貸してあげるから、急いでやってみてください」と言って、運転手をつけてフォードを一台私に貸与されたではないか。

 そこで私は早速、例の日文、中文、英文の嘆願書を作成し、北
京大学の黄教授に手伝ってもらって、大学教授の署名を集めた、教授の夫人は日本人だったから、第一言葉がよく通じるので実に有難かった。

 当時の北京の北小街には、英米宣教師の中国語学校があった。その校長はペスタ氏であった。ペスタ夫人は日本生まれで、父君は仙台で一生伝道したデフォレス師で、ペスタ夫人の妹は神戸学院の院長であった。このペスタ氏は私のこの北京を戦禍から免れしむる運動に大いに共鳴して、北京美以美会の劉牧師が昔、宗哲元将軍の若い頃、軍曹の頃に、洗礼を授けた牧師がいるというので、私に劉牧師を紹介してくれた。言うまでもなく、その劉牧師を介して宗哲元将軍に嘆願書を届け得たことは、まことに幸いで、極めて有効であったと考えている。

 思えばそれは昭和12年7月29日のことであった。その日は一天コバルト色の快晴であった。朝起きて驚いたことには、街には兵も巡捕も誰もいない。きのうに変わる今日の姿である。ついに宗哲元は全て兵士7000を率いて北京城から去って行ったのである。

 そしてさしもの日本軍は、出城する中国軍に一発の砲撃も加えなかった。実を言うと私はそうと言って、出城したら直ぐ砲撃を加えて、ついに宗哲元軍をせん滅するのではないかと、心ひそかに心配していたが、そのことは全くなく、まことに堂々たる態度であった。かうして古都北京は廃墟とならず、今もなお昔の如くに存在しているのである。

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 ここまで読んで、ため息が出た。清水安三は単なる朝陽外の聖人ではなかったのである。
  今年の世界の潮流と日本の成すべきこと

          龍谷大学 教授 中野 有

51RPJDXZH1L._SL500_AA300_.jpg新しい年のスタートにあたり今、即ち2013年は、如何なる年になるのか考察したく思う。13という数字は西洋では不吉な数字である。東洋の観点では調和を重視するので、バランスを保つ意味でも13の不吉を補う吉兆のための努力も必要だろう。地政学的、歴史的、そして2013年に実行すべきことの三点から世界の潮流を展望してみたく思う。

 第一 地政学的観点

昨年は世界的に選挙の当たり年で内外でレジューム・チェンジが起こった。これから数年は主要国でじっくり腰を据えた長期政権が続く。ロシアと日本の共通項は、プーチン大統領と安部首相の復帰である。主要国の特徴としてリベラルな革新的な動きよりも保守的なナショナリズムの高揚と自国中心の政策が目立つように思う。

米国においては、軍事費削減が意味するのは他国への干渉よりも自国中心の「モンロー主義的傾向」にある。ロシアはユーラシアの東方を強化すると共にエネルギー政策を推進するだろう。中国は米国と並ぶ世界のリーダーとしての道を歩むと同時に急速に経済発展したことによる反動を如何に修正するかの課題がのしかかってくる。韓国の最初の女性大統領として朴大統領は、財閥中心の経済構造を市民中心の社会構造に修正し、永らく続いた北朝鮮への妥協的関与政策からどのように保守的な朝鮮民族の道義を重んじた政策に舵を切るのか。韓国と北朝鮮の共通項は、リーダーである父の姿を見て育ったことにある。親子ほど年の差がある二人の相性は儒教からみてどうなのであろうか。

ヨーロッパの財政危機の問題を主要国であるドイツ、イギリス、フランスがどのように解決するのか。少なくとも自動車産業に見られるような高度な製造業としてのドイツの世界的名声はさらに高まりヨーロッパの代表としてのドイツの座標軸は強固なものとなるだろう。また、南米においては、ブラジルなどの発展は人口、天然資源に加え、数年先のワールドカップ、オリンピックなどの国際イベントの影響とアメリカのモンロー主義の観点から南北アメリカの接近が経済発展の起爆剤となると考えられる。

アフリカの発展の機運は天然資源と政治的な安定にあり、経済成長の速度は急速に高まると考えられる。アラブ諸国はイスラエルとパレスチナの対立のみならず国内の政治・経済・社会の問題が混沌としまさにインシュアラー(神のみぞ知る)である。

 第二、歴史的観点

 百有余年の歴史をひもといてみても、北東アジア特に、中国・北朝鮮・極東ロシアの国境が接する地域は波風 の激しい地域であり、日清・日露戦争、満州事変、大東亜戦争の導火線となった。一方、前世紀初頭のこの地域はシベリア鉄道も通り、インフラ整備も進展し繁 栄していたが、これら一連の戦争や冷戦構造がこの地域の発展を遮断してきた。冷たい戦争が終わり20年有余年が経過したが、北朝鮮を中心とするこの地域は依然冷 戦構造が存続している。

90年の歴史を誇る米国の外交雑誌である「フォーリン アフェアーズ」の戦前の北東アジアに関する論文と、満鉄の経済調査局の大川周明の戦後の述懐に は共通項がある。

 それは、日米協力による満州の開発、特に多国籍企業を通じたインフラ整備の推進で「開かれた経済圏」を形 成することができ、それが地域の信頼醸成に直結し、紛争を未然に防ぐことに役立つとの視点である。例えば、日露戦争後、米国の鉄道王であるハリマンは、世 界一周の陸海の交通ネットワークを作るにあたり、日米協力による満州鉄道の整備の推進等を提案してきた。しかし、日本に不利なポースマス条約の影響もあ り、日本の世論が日米協調を拒み排他的政策をとった。

 当時の国際情勢の流れの中で米国との協力は至難の業であったが、仮に米国等を含む多国間協力で大東亜経済 圏の開発が推進されたなら、日本の孤立化によるエネルギー問題は回避できたであろう。そして、歴史の回転舞台が違った方向に回ったかもしれない。歴史に 「もし」は存在しないが、「フォーリン アフェアーズ」の論文に書かれているように戦争回避の分岐点は確かにあった。

 戦後、米国は共産主義封じ込め政策により、日本を安全保障と経済の両輪から支援した。そのきっかけを作っ たのは、米国の若手国務省官僚のジョージ・ケナンの「フォーリン アフェアーズ」で発表されたX論文であった。この論文により無名の外交官が一躍、冷戦理 論の第一人者になり、世界地図に冷戦の設計図が描かれ日本はその恩恵を受けたのである。このように論文やビジョンにより世界が動くことがある。

 第三、2013年に実行すべきこと

内外で共通する目標は、安定と発展である。それを短期的、中期的、長期的視点で展望すると違いが顕著となる。原発や消費税の問題でも、それぞれの政党が述べていることは長期的には概ね同じでも短期的には差異が見られるだけである。従って、目先のことだけを観て対立を増強させるのでなく、市民の一人ひとりが中・長期的なビジョンを持って「世界の中の日本」をじっくり考え、行動することが大切だと考えられる。

結論として、2013年は長期政権のスタートラインにあり、国の内なる力を蓄える時であり、学生はしっかり考え勉強し、社会人は真面目に働き経済を活性化させ、高齢者は医療に頼らない健康に務め、若い世代に健全な意見を発することに尽きると思われる。
img_1140657_37398130_0.jpeg日本がEU加盟を申請したらどうなるだろうか考えた。昨年末、龍谷大学の中野有さんと一晩飲んだときに思い付いたことである。

EUは90年代に市場統合に成功し、その後、ソ連崩壊後の東欧諸国などを巻き込み、通貨統合にまでこぎつけた。イギリスは通貨統合には参加しなかったが、いまやフランやマルクという通貨は存在しない。

通貨は国家単位の重要な要素の一つであるが、ユーロの登場によってヨーロッパにおいては通貨の乱高下による経済の不安対要因は大きく縮小した。日本の円とドイツのマルクは80年代から通貨高の風雨にさらされ、経済の構造調整の標的となってきた。企業は常に通貨高への対応を求められ続けていた。

それがどうだろう。ドイツは最強の通貨「マルク」を捨て去ることによって、2000年以降も堅調な成長を続けている。否、ユーロの恩恵を最大限に受けているのがドイツ経済といっていいもかもしれない。

高知に帰郷してから思うことは、高知県はもはやギリシャ化しているということである。どう考えても、東京都の債券と高知県債が同じ利率で金融機関に引き受けられるという状態は不自然である。早晩、高知県の発行する県債は引き受け手がなくなり、ギリシャのように高い利率を出さなければ借金ができなくなる状況が来るのだろうと考えている。

高知県財政の破たんである。高知県が生き延びているのは中央政府が高知県の借金の「保証人」になっているにすぎないのだが、日本の財政赤字が国内資金で賄えない時代の到来はすぐそこに迫っている。そうなると必ず地方の脆弱な財政問題が浮上することになるだろう。

高知県の問題はさておき、日本がEUに参加して、通貨がユーロになると、まず「円高」問題は半分が解消する。対ユーロ圏貿易は「国内貿易」と同じになる。つまり日本の自動車も家電企業経営も相当に楽になるということである。ユーロに日本が参加すれば、ユーロ圏がさらに大きくなり、ドルとユーロがほぼ対等となり、原油など資源貿易もユーロで行うことが容易になり、場合によっては最強の日本経済が復活するかもしれない。

ヨーロッパの経済圏に極東の日本が入れるはずがないと考える人もあろうが、アジアの国であるトルコがEU加盟を求めており、旧ソ連下にあったバルト3国はすでにユーロ入りをし、ベラルーシやウクライナも関心がないはずがない。

グローバル経済の共通言語は英語になったのなら、その共通通貨をユーロにすることだって不可能ではない。とにかく80年代以降、世界の経済はマネーが中心になった。巨大な資金を動かして稼ぐ市場の一つが為替市場だった。97年のアジア通貨危機はまさにグローバルマネーがアジアの小さな国家の経済を大きく揺さぶった。その為替市場が縮小することは世界経済にとって悪いことではない。

問題は、日本の財政はこのままではEU参加の基準に達していないことである。財政赤字が大きすぎるため、いまのままでは門前払いとなるだろう。せめてEUに参加できるていどの財政規律を取り戻さなければならない。日本のまず第一の課題はこちらの方を優先せれなければならない・・・。そこまで考えて初夢から醒めてしまった。

2013 賀正

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gasho.JPG昨年夏は三カ月、土佐山に暮らし、
生きることの何たるかを少々学びました。
土づくりから、炭焼き、畑仕事、簡単な木工。
山の暮らしはあるものを工夫して使い、
何でも自分でやることです。
日々自然と向き合うことは簡単ではなく、
危険と隣り合わせでもあります。
そんな関わりを今年も続けたいと思います。

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