2012年12月アーカイブ

buttou.jpg年末に心落ち着けて美しいものを愛でたいと思っていたら、日経新聞「美の美」で興福寺の白鳳時代の仏頭の話が出ていた。

このお顔にはどことなく品のよい厳しさが漂う。

興福寺の仏頭の写真は多くあるが、実はこの角度のものは少ない。多くは左側からピントを合わしている。たぶん、左側の法が柔和なお顔をしているこからだろうと思う。

高校を出て、初めて奈良を一人で散策したとき、最初に目指したのがこの仏頭のある興福寺だった。

種明かしすると、高校の日本史教科書で出会ったことがきっかけだった。その後、何回も興福寺には足を運んで、再会を果たしている。

ギリシャのエーゲ海の大理石彫刻もすばらしいが、日本が世界の誇れるのは、飛鳥以来の仏像彫刻ではなかろうかと思っている。


この物頭は1937年10月31日、興福寺の東金堂の本尊、薬師如来の台座から見つかった。

この仏頭はもともと、東金堂の本尊だったが、室町時代に火災に遭い、焼け落ちた際に焼け出されたものだが、その後、所在が分からなくなり、やがて存在そのものも人々の記憶から消え去っていた。

もともとは桜井氏にあった山田寺の本尊だった。山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の寺だった。が、石川麻呂は讒訴のより自害を求められた。その後もこの本尊がずっと山田寺を守ってきたが、歴史書によると、1180年の兵火で東金堂が再建されたとき、山田寺から持ち運ばれた。
koban.jpg 皆さんは師走の交番を覗いたことがありますか? 僕は昨日お世話になって来ました。

 雑踏の中、そこには悲喜こもごもの物語がありました。
 
 家内に頼まれ行ったお使い。駅前で用事を済ませ帰ろうとしたその時、脇に抱えていた小袋がない。中には結構な額の現金、通帳、カード一式。泣きたい気分で飛び込んだのです。

 既に先客がいて初老の駐在さんと婦警さんが、甲斐甲斐しく動き廻っていました。その旨を伝えると「現金かぁ!出て来るかなぁ?まぁこの届けを書いて下さいね」。婦警さんに言われるままに書いていると、そこへ小父さんが現れて「あのぉ、拾得物です」。そっと差し出す手には、僕が落としたあの小袋が! 

 なんでも、ATMの脇に置かれた物がありますと通報してくれた人がいたらしい。この世知辛い世の中で、日本もまだ捨てたものではないと安堵したのもつかの間。

 小父さんは拾得物の届け、僕は先程からの遺失物届けを仕上げねばならない。しかも二人は話し合わないようにと念入りなことだが、法の番人としては致し方ない。人の好さそうな駐在さんがペコペコ「これもルールでして」と仕切りに言い訳する。向こう側では寒さに耐え切れなくて入って来たお婆さんに、婦警さんが「これから帰れます?」と世話を焼いている。僕が困ったのは、家内の話を適当に聞いて出てきたもので現金が幾ら入ってるかが書けない。銀行小父さんはお札数えて書いているというのに。おまけに「通帳の名義とご本人が違いますね?」、「いや、ですからね、家内がね!」。ここで完全に膠着状態。

 そこへ気の弱そうな少年が小さな声で「あのぉ、○○高校どこですか?」と闖入。駐在さんと婦警さんはそれどころでなくて。本署にTELして「名義違いの通帳はどうなりますか・・」と聞いてみたり「お婆ちゃん、身内の人はいるの?」と掛かり切り。見かねた銀行の小父さんが「○○高校はね、ここ真っ直ぐ行って左、右・・」と助け舟。分かったのかどうか、少年は追い出されるように出て行った。

 でも5分も経たぬうち返って来た。今度は「ケータイでお父さんと話して」と半泣き。婦警さん、さすがにイラッと来て「お父さん何処なのよ!」。少年が小さな声で「日本語よく分かんない」と呟くのにピンと来るものあった。

 僕が代わりに出ると、お父さんは平謝りで「先月フィリピンから来たばかりで、高校受験の下見に一人で行かせたんです」。僕がこの機を見逃す筈もない!「実は、僕警官じゃないんです。でも今日いいことがあったんで、ご恩返しに息子さん学校まで送ります!」。ちょっと見え見えのあざとさに、心がチクチクしたが局面突破はこれしかないと「悪い人でなさそう作戦」を展開。「オジサンいま終わるからね。外で少し待ってて!」。たちまち二人の人の善い警官たちは「え?いいんですか?スミマセンねぇ。」と、ここで立場逆転。

 書類の方は「失くした者も拾った者もまぁ適当に調子合わせて書いていいでしょう」ということになり、「それより受験生!道をちゃんと覚えてね」との応援をバックに、僕はフィリピン・ハーフの保証人よろしく、チャッカリ落とし物もゲットして交番を後にしたのであります。さながら師走の交番は、善意のひとのステーションのようでありました。
keisharyo.jpg 年末も押し迫った。26日に発足した安倍晋三政権は早くも前政権の政策を相次いで葬り去ろうとしている。年明けに大規模補正予算を編成し「土木国家復活」を宣言し、「2030年代原発ゼロ」は見直される見通しだし、、「高校無償化」も風前のともしびだ。

 どうでもいいことかもしれないが、この国の法律はいつの時代のものなのか首をかしげざるを得ない道路標識に最近接した。高知市では「進入禁止」や「歩行者専用」の標識がやたら多い。その大部分に「軽車両を除く」と表示されている。僕はてっきり「軽自動車を除く」と解釈していて、高知に軽自動車が多いのはこのためではないかとも考えた。

 タクシー運転手の友人に「今度買う時は絶対、軽自動車だぜ、軽ならどこでも進入自在さ」と話したところ、数日たって「伴さん、あれは違う、軽車両ってのは自転車や人力車、馬車のたぐいでエンジンのついているものは入らない」と指摘されて驚いた。

 法令を調べると、なるほどそうなっている。道交法や道路運送車両法は次のようになっている。

 道路交通法第「自転車、荷車その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽引され、かつレールによらないで運転する車(そり及び牛馬を含む。)であつて、身体障害者用の車いす、歩行補助車等及び小児用の車以外のもの」
 道路運送車両法」 人力若しくは畜力により陸上を移動させることを目的として製作した用具で軌条若しくは架線を用いないもの又はこれにより牽引して陸上を移動させることを目的として製作した用具であつて、政令で定めるもの」

 まず「動物の力」や「畜力」の車両がいまどき日本の道路を走るとは考えられない時代錯誤。「人力」だってほとんど見られない光景だ。そもそもリヤカーや手押し車が車両だと認識している人はいるのだろうか。一方通行をリヤカーが「逆送」したら道交法違反を問われると知っている人もいないだろう。

 思わず、これらの法令が定義された時代を思い起こしてしまった。子どものころの風景として、東京でも馬車はあったし、リヤカーを引く姿も日常的だった。自動車の数より「人力」や「畜力」の車両の方が多かったかもしれない。だから、「人力」や「畜力」車両を規制する必要があったのかもしれない。

 確かに最近では自転車の「危険走行」が社会問題となっている。歩道を走るべきなのか車道を走るべきなのか議論がある。だが、車道を走っていい場合には必ずといっていいほど自転車の文字や図が標識に掲げられている。じゃ人力車やリヤカーや馬車はどうなるのという議論は一切出て来ない。

 問題は「軽車両を除く」という道路標識である。また道交法には「軽自動車」という概念はないのに、道路運送車両法には「軽四輪」の規定がある。ここがまぎわらしい。

 でもたぶん、ドライバーが一番の苛立つのは道路網に張り巡らされた「進入禁止」「一方通行」の標識ではなかろうか。多くの場合、渋滞時の抜け道とされないようある時代に相次いで立てられた。幹線道路が広く整備され、抜け道として必要がなくなってもまだ立ったままの標識は地元住民にとってもはやじゃま以外もなにものでもない。

 ここらの多くの時代錯誤の法律をもう一度見直す時期にきているのではないか。
17f35272.jpg 若い友人に中国からの留学生がいる。国で獣医になりあとは羊たちとの人生だったろうに一念発起して日本留学を決意し、昨年晴れて工学博士号を取った。内モンゴル出身の彼の半生は、それだけで一冊の本になるほど面白く興味深い。それは又の機会に置くとして、かれは在日中国人留学生75000人の組織の幹部でもあった。自分の研究分野についての関心と同時に、いつも在日同胞を気にしている。10年近く前、初めて会った時からいつもそうだった。

 何より驚くのは国のトップや要人が来日すると必ず滞在中に彼ら幹部は招集を受け、大使館で食事を共にすることだ。そこで留学生達から日本事情を聴き、学生たちと意見交換をする。国が上り坂にある時というのはそういうものなのだろう。川の流れに勢いがあると魚がみな上流を向くように、国のベクトルと個々の学生たちのベクトルが同じなのだ。ある意味怖いことだと思う反面、ちょっと彼らを羨ましくも思う。両国関係が冷えている現在、彼らは何とか日中の架け橋になれないかと模索している。

 司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の舞台である明治の頃の日本も同じであった。欧州諸国や米国に学んだ留学生は渡った時からエリートだった。脱亜入欧の尖兵として一歩でも西洋に追いつく国策の情報源であった。秋山兄弟も森林太郎も長岡外史もそのように扱われ育っていった。西洋諸国と違うとすれば、出自に関わらずエリートの道を歩めた実に健全な国であり時代であったことだろう。彼らの純粋さと天真爛漫な明るさが胸を打つ。その点いまの若者はある意味で不幸でもある。国の指針さえはっきりせず、池の鯉のように淀んだ水の中をてんでバラバラに泳ぐしかないのだから。

 次元は違うが、戦後の団塊世代も或る意味似た体験をしてきたように思う。圧倒的なアメリカ物質文明と豊かな暮らし向きという急流を、団体割引で必死に泳いで来た鮭の軍団のようでもある。ただ戦後民主主義と平等主義に染まって、無私の一途さや無心さからは程遠い自己主張の軍団となってしまったような気もする。

 戦後生まれの私たちにとって、明治ははるか遠い漠としたイメージだった。そんな中で正岡子規は親近感を覚える数少ない明治人の一人だった。大阪住まいの私には東京に大伯父がいて大阪出張のときはよく我が家に泊った。旧制二高から東京帝大に進んだ秀才で、ちょっとおっかない存在だった。ただお酒が入ると人が変わったように饒舌で子供の相手もよくしてくれた。訪阪の際は大阪在住の二高時代の友人と飲むのを楽しみとしていた。正岡忠三郎もその一人だった。当然酒席が用意される。我が家に着いた頃にはすでにお酒も入り賑やかだったが、子供達の陪席も許された。

 その伯父がいわく「お前はマサオカシキは知ってるか?」小学校の4、5年の子供に分かる訳がない。「ここに居る忠さんは、そのシキ先生の息子なんだぞ。」正岡子規を知ったのはそんなことからだった。伯父や父も含め周囲の大人は、みな彼のことを親しみを込め忠さんと呼んだ。忠さんは茫洋と、しかし飲むほどに話は面白く子供にとっても好ましい人だった。それもこれも今思えば忠さんの人柄だったのだろう。

 大学に入ったころ文芸春秋から刊行され始めた「坂の上の雲」の愛読者になったのもそんなことからだったかも知れない。秋山好古も真之もカッコよかったが、正岡子規には特別の愛着があった。折々に聞いた子規の断片のエピソードがそうさせたのだと思う。ここで正確を期すために少し解説が要る。忠三郎さんは正しくは子規の母の実家である加藤家の三男坊であり、子規の急逝で跡取りのいなくなった正岡家が忠さんを養子とした。正確には子規とは従弟関係にある。

 正岡家に入る時、養母となる律は忠三郎に釘をさした。「著述を生業としてはならない」。兄子規の暮らしに向き合っての忠告だったのだろう。忠さんは朴訥にその忠告を守った。二高から京都帝大を出て彼は阪急電鉄に入る。阪急電車の車掌からサラリーマンのスタートを切った。なんで帝大出の学士さまが車掌にとも思うが、思うところがあったのだろう。京大の後輩で後に指揮者となる朝比奈隆があとから入社して来て、彼が運転士、忠さんが車掌でコンビを組んだこともあったそうだ。すでに音楽に傾倒していた朝比奈氏は熱中のあまり駅を素通りしたり、停車駅に忠さんを置いて発車したこともあったらしい。

 二人は生涯の友であった。朝比奈氏はその後京大の哲学科に入り直し、やがてドイツに音楽留学する。思い切り遠回りをして指揮者としてのプロデビューは30歳を優に超えてのものだった。悠々とのんびりした時代がここにも見える。忠さんは車掌から阪急百貨店の呉服売り場の店員となり終戦まではネクタイ売り場もやったり、一貫して律の言いつけを守った。戦後も阪急の子会社を任されたりして現役を終えた。そしてその人生を一介の市井人で通し、子規の遺物の整理と編纂にあたることを自らの主務とし続けた。昭和51年没。享年71歳。葬儀委員長は司馬さんが務めた。その際の弔辞が後に小説となった。

 忠さんのご子息によれば、司馬さんと忠さんの出会いは司馬さんが「坂の上」の構想に取り掛かった昭和43年頃、子規に連なる人たちを大阪北の新地に招待したのが最初だった。子規に関する取材活動で始まった交流であったが、その一方で司馬さんはこの忠さんの生き方に強い感銘を受ける。その興味は忠さんの交友にまで広がっていく。想像ではあるが、司馬さんは、これもまた明治人の特質なのだと直感したのではないか? 「坂の上の雲」の完成から9年後の昭和56年、正岡忠三郎を中心人物として「ひとびとの跫音(あしおと)」は誕生した。

 大らかに明るく坂の上をめざした人々に較べ、忠さんを初めとした「ひとびとの跫音」の登場人物は先人より些か屈折した反骨のひとびとが多い。忠さんの二高時代の友人であり、戦時下の非合法共産党幹部として地下に潜伏、さらには戦後その共産党からも除名されるという二重の縛りに遭った西沢隆二(タカジ)もまたその一人である。みな明治35年前後の生まれだ。司馬さんはこの人たちにもう一つの好ましい明治人像を見て取ったのではないか?明治35年といえば登場人物ではないが白洲次郎やバロン薩摩こと薩摩次郎八もまたこの年代の人だ。脱亜入欧の明治もこの時代になると本格的な第2フェーズを迎えたのだろう。そして大正12年生まれの司馬さんである。憧れにも似た坂の上の人々、そしてそれに連なる忠さんやタカジ、そして自分に繋がる純粋なものとは? 二作品を通じて司馬さんが問いたかったものの一端を感じずにはいられない。

 出典は何であったか思い出せないが、司馬さんの自伝風の読み物の一節が印象に残る。あらましは次のようなことであったと思う。終戦直前、司馬さんは戦車隊の一員として栃木に居た。「もし米軍が東京に上陸したらどうするか」という議論となったとき、上官が言った。「道路に溢れる民衆を轢き殺してでも決戦に向かう」。この言葉を聞いて「日本はいつからこんなばかばかしい国に成り下がったのか。」と忌々しく思った...というようなものであった。ここに司馬さんの作品の原点があると思う。そしてまた司馬遼太郎を嫌う人々がよく指摘する「司馬史観」という批判のポイントもここにある。

 つまり司馬史観とは「明るい明治、暗国の昭和」「英雄礼賛」「幕末の攘夷思想が昭和の軍国思想に直結した」という、ある種決めつけの史観であるといった批判だ。ここで「司馬史観」の正否を述べることは本旨ではない。ただ一つ思うのは、この批判もまたワンパターンに過ぎはしないか。「英雄ばかりを描いて市井人が出てこない」などという佐高信氏の指摘など見当違いも甚だしいと思うのだが。「坂の上の雲」と「ひとびとの跫音」、二つの世代で明治人を重層に描いて見せた司馬さんの方にはるかに共感が湧く。

 財政逼迫、少子化、領土問題、原発など八方塞りの混迷の日本で、いままた国の右傾化が取りざたされている。高度成長期の効率主義や経済一辺倒の煽りを受けて、ついつい脇に置き去りにされた平和の意味を、国というものの意味を、老若男女世代を超えて考え、次の世代に語り継ぐことを私たちは迫られている気がしてならない。

ww2__03.jpg1897年、カルカッタ(現コルカタ)郊外の裕福な家庭に生まれる。ガンジー、ネルーのインド国民会議派と袂を分かって急進的な独立運動を展開、第二次大戦ではインド国民軍を率いて日本軍とともにインパール作戦を闘った。終戦直後に台北で飛行機事故のため不慮の死を遂げるが、英国が報復のため行った国民軍裁判でボースは逆に国民的英雄となった。この裁判でインド中が騒然となり、英印軍までもが反旗を翻したため、英国がインドを放棄するきっかけとなったのだ。

アジアの歴史を描くことは難しい。欧州の史観で書かれることはないにしても独立後、抹殺されてきた人物や出来事があまりにも多い。ボースの場合、インド会議派の議長に二年連続して選ばれたが、ガンジーと対峙したことによって復権には時間がかかった。一方、出身地のベンガルでは「ボースはまだ死んでいない」と信じる人々がいるほど人気が高い。

特に日本と連携したという事実によって日本の歴史でボースの成し遂げたインド独立への貢献がほとんど軽視されてきたことは残念である。

 カルカッタの大学を卒業後、ケンブリッジで学びインドの高等文官試験に合格したが、官吏への道を蹴ってインド独立運動にまい進した。自治法のもとでカルカッタ市長に選ばれたこともあるが、投獄暦はインド国民会議派の逸材の中でも長い。

独立の機が熟した時に運動の展開をやめてしまうガンジーの政治手法に反発。1939年、欧州で第二次大戦が勃発すると会議派内にフォワード・ブロックを形成し、武力闘争に着手するが、逮捕される。断食を敢行して自宅軟禁に変わると、カルカッタを脱出し、アフガニスタン、ソ連を経由してドイツに亡命。1941年、日本の参戦で今度はアジアに登場し、投降したインド兵でインド国民軍を組織し、自由インド仮政府をシンガポールに樹立した。

インパールでの闘いでは三個連隊が参戦、モイランに初めて自由インドの国旗が立った。日本軍の撤兵にあたって、「国民軍がインドの地を踏めば、戦いの形勢は一度に逆転する」と強固に進軍を主張した。

インパール作戦時の国民軍将兵に与えた演説「Give Me Blood! I Promise You Freedom!!」はインドではあまりにも有名。遺骨は東京都杉並区の蓮光寺に安置されており、命日の8月18日には慰霊祭が続けられている。(萬晩報主宰 伴武澄)

220px-PhanBoiChau_memory.JPG11月5日、早稲田大学の大隈講堂でシンポジウム「日本・ベトナム新時代」が開かれ、100年前に日本に亡命して、日本に学ぼうとベトナムから多くの留学生を送り込んだ「東遊運動(ドンズー)を展開したファン・ボイチャウと日本との関係をテーマに専門化が意見を闘わした。

シンポジウムでは当時、小田原で医院を開業していた浅羽佐喜太郎が私財を投げ出してまで、ファン・ボイチャウを支援したことが、その後の日本とベトナムとの関係を築いたことが強調された。

たった100年前、短い期間だったが、日本がアジアの見本であり、アジアの目が日本にフォーカスした時代があった。帝国主義時代の初め、日本が西欧の強国ロシアを打ち破った時代、日本はまだ侵略される側にあった。

歴史にもしは許されないが、日露戦争なかりせば、アジアは日本を含めて西洋勢力に席巻されていたことは間違いない。だが戦争に勝利することでアジアの兄貴分としての日本が生まれた。日露戦争はアジアの独立を目指す志士たちを鼓舞したことは間違いない。

だが、戦争の結果として強い立場に立った日本は今度はアジアを侵略する側に回った。悲しいかな、そのことも事実である。

歴史的にいったん、強者になった国家が弱者を救済する側に回ったことはない。

第二次大戦後、奇跡的に復興を遂げた日本は、再び強者の立場になったが、平和憲法のお陰で地球規模の戦乱に巻き込まれずに澄んだ。強者になった日本に対してアメリカ初め、「応分の負担」を求めるようになった。その契機は1991年の湾岸危機だった。石油王国のクウエートをイラクに侵攻されたことを先進諸国の国々は危機と受け止めた。大きな石油資源を「ならず者」に掠め取られたことは先進諸国にとっては危機だったに違いない。

だか、20世紀のすべての戦争がそうだったように、石油を中心とした資源への権益をめぐる争奪戦だった。先進国企業が開発した権益の維持こそが、先進諸国の最大の橋頭堡だった。

日本は戦前も戦後も有色人種唯一の先進国だった。アジアと西洋諸国の間に挟まれて揺れる特別の国情を
を持たざるを得ない宿命にあった。

ヨーロッパは18世紀から約200年間、国境をめぐって戦争に明け暮れた。国境のない世界である欧州連合のたどり着くまで200年もかかったということである。アジアはヨーロッパの愚を再びおかすのであろうか。

夢であろうが、東アジア共同体という発想は間違いではない。中国もインドも韓国も経済的にテイクオフし、20世紀の弱者ではなくなった。日本が強者となる中国や韓国と角を付き合わせれば合わせるほど、ヨーロッパやアメリカにとって都合のいいことはない。

日本の政治家や識者たちは「民主主義という価値観を共有する」というフレーズがお好みのようだが、霞ヶ関の官僚たちに支配されるこの国家は果たして民主主義国家といえるのか、僕は怪しいと思う。最終的にアメリカの意思を決定するのは本当はアメリカ人民ではなく、もっとどこかにあることは誰も感ずいていることではないだろうか。

日本はもう一度、西洋諸国に飲み込まれる寸前だった幕末の日本の思考を取り戻す必要fがある。


  ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867 - 1940年)

 ホーチミンと並ぶベトナム独立の父。日露戦争の日本勝利に刺激を受けて、百年前のルック・イーストともいえる東遊運動(トンズイ)運動を起こし、祖国独立を目指した越南光復会を率いて植民地支配に抵抗を続けた。

 十八世紀のベトナムは南北二つの王朝に分かれていた。一八〇〇年代初頭、阮福映がユエに統一王朝を築いたが、統一の際にフランスの力を借りたところから、フランスに浸食を許し、百年もたたずにベトナムはフランスの保護国となった。『ベトナム亡国史』でファンは「ベトナムの財産をただ取りするために、五大州の文明国は悪知恵の全部を集めたところで、思いつくことのできないようなあくどい方法でフランスは苛斂誅求をかさねた」と書いている。

 ファンはベトナム北部のゲアン地方に読書人の家庭に生まれ、地域の科挙に首席で卒業するほどの秀才だった。一九〇三年、ユエの王室の王子、彊柢(クオン・デ)侯を越南光復会の党首に仰いで、独立運動に入った。
 
 一九〇五年、国禁を犯してた日本に渡航、多くのアジア主義者の支援を得て、武力闘争より人材育成の必要性を痛感した。ファンは『勧遊学文』を書いて、青年たちに日本への遊学を勧めた。東遊運動である。ファンはまずクオン・デ侯に先頭に立つよう要請し、侯は船の火夫に身をやつし、石炭の中に身を潜めて日本に到着した。侯の日本密航は多くのベトナム青年や知識人を鼓舞した。一九〇五年に始まった遊学は〇八年までに二五〇人を超えた。すべて当時のフランスの警戒網をくぐり抜けた密航である。

 彼らは振武学校や東京同文書院などで学ぶ、中には後のホーチミンの側近の一人となるグエン・ハイタンらもいた。クオン・デ侯とファンは犬養毅や頭山満、大隈重信、後藤新平、近衛篤麿ら有力者と精力的に接触しただけでなく、当時、日本を拠点としていた中国の革命家たちとも深く交わり、期待を膨らませた。

 しかし、留学生たちの期待とは裏腹に日本政府はアジアの革命家に冷たく、一九〇七年には孫文らとともにファンらは国外追放されてしまい、東遊運動は短期間で終わってしまう。

 二人はその後、広東や香港を中心に独立運動を続けるが、ファンは一九二五年、上海でフランス官憲に逮捕、ベトナムに連行され、終身刑を言い渡された。クオン・デ侯は後に日本に再び亡命、流転の日々を送り、再びベトナムに帰ることはなかった。

 昨年五月、ファンが、潜伏先の中国から犬養毅元首相の盟友に宛てた未公開の書簡が成田市で見つかった。
テレビ報道を見ていると、安倍新政権に対しての国民の期待が景気であることを浮き彫りにさせている。たった一年9カ月前、われわれは未曾有の大震災・津波に遭遇したのではなかったか。日本がいま、直面している問題は東北の復興と放射能問題ではないのか!

復興予算を、復興とは関係ない公共事業に流用していたのは霞ヶ関の官僚たちだった。野田政権はすでに20兆円規模の復興計画を立てている。昨年度は12兆円の補正予算を組んだ。百歩譲ってこのお金が日本経済の潤滑油になれば、と思ったこともある。ところが、この大型のな復興予算によっても日本列島に活気が戻ることはない。一向に効果がないのである。

ということは景気に公共事業は役立たないということなのである。90年代に100兆円の国債を発行して景気対策を行ったのは小渕内閣だった。自身で日本一の借金王と豪語した記憶はそんなに古くはない。

自民党が90年代に繰り返し投入した財政資金はほとんど日本経済の立て直しには役立たなかった。それどころか、日本の財政はGDPの2倍にも及ぶ借金を積み重ねた。

景気対策に公共事業が役立たないことは小泉政権時代に学んだはずである。にもかかわらず安倍政権は「大型補正予算」に言及しているのである。国民もまた公共事業を求めているのである。

日本経済の足を引っ張っているのは、霞ヶ関が牛耳る各種の規制であることは、石原前東京知事や橋下大阪市長に言われなくとも分かっている。福島原発事故の後、不可欠なのは再生可能エネルギーを少しでも増やすことであるはずなのに、小水力などでは、相変わらず行政が足を引っ張るばかりである。

ドイツでは再生可能エネルギーが消費エネルギーの20%にも達している。そのドイツでできたことがなぜ日本でできないのか。ひとえに原子力一筋で結束している霞ヶ関が負の情報を流し続け、その不効率性のみを喧伝してきたからにほかならない。

消費税増税に見通しが立ったとたんに「公共事業」の大合唱が起きるのはどういうことなのか。

野田さん、あなたは霞ヶ関官僚に騙されたのですよ、消費税増税は、官僚たちがが社会保障の一体改革などと称して自前の事業資金を調達しただけだったのです。そんなことに政治生命をかけてしまったのです。
576424_230554947076604_333693484_n.jpgあの田中真紀子さんが落選した。一番の驚きである。菅直人さんも小選挙区で負けた。自民党294議席に対して民主党が57議席だった。選挙結果を受けて、オセアニア市場で、円は一時、昨年4月以来の円安ドル高水準となる1ドル=84円55銭まで急落した。

20年前、外務省を担当していた時、外務官僚にやたら評判が高かったのが、安倍晋三さんだった。そのちょっと前に安倍晋一郎さんが外相をしていた時の秘書官として外務官僚とのつきあいが始まったのだが、官僚が賞める政治家はほとんどが、自分たちの政策シナリオをそのまま実施してくれるタイプであることをその時知った。

去年8月に民主党の代表選で書いたコラムで僕は次のように書いた。

野田佳彦財務相は最悪である。人格の問題ではない。財務省を勤めたことが問題なのである。というより財務官僚にフォーマットされた人物がこの国を良くし たためしがないからである。竹下登はもとより、橋本竜太郎氏、ともに消費税導入、増税に関わった。財務省官僚の意のままに増税路線を走った。

今朝方、友人の畑仲さんが、Facebookに東京新聞の記事をアップしていた。見出しは「影の勝者、官僚高笑」とあった。自民党が3年程度で変われるはずがない。外務省が大好きな安倍さんが首相に返り咲くのだから、まさに高笑いである。
予想されたこととはいえ、民主党が惨敗した。NHKの報道では、23時半時点で自民党が264議席に対して民主党はたった41議席しか取れていない。5人のうち4人が落選した勘定である。政権政党による解散総選挙で60議席だとか70議席しか取れないというのはどういうことなのだろうか。

野田首相は会見して、「国民の期待に応えられなかった」と述べ、民主党代表辞任に言及したが、やめればいいというものではない。民主党はもはや政党の体をなしていないのかもしれない。そこまで追い込んだ責任をどう取ってくれるのか。真面目にやれといいたい。

国民が民主党に期待したのは、「改革」だったはずだ。3年前、官僚が跋扈する日本の政治を国民の手に取り戻したという意志が有権者にあったはずである。

脱ダム、高速道路無料化、子供手当、普天間問題・・・、何もマニフェストを実現することがなかった。多くあったマニフェストのうち一つでも実現していれば、3年間、民主党に政権を委ねた有権者の溜飲を下げることができただろうに何一つ実現できなかった。

民主党が掲げるマニフェストのずべてに霞ヶ関が抵抗することは分かっていた。小泉さんのように一点突破を図れば、一つぐらいは実現できたかもしれないと思うと残念である。一つでも実現できていれば、民主党への期待も少しはあったのかもしれないし、マニフェストになかった消費税増税を実現させた野田さんへの支持ももう少しあったはずだ。

それにしても、今回の総選挙で「改革」を強く訴える政党がいなくなったのも残念だった。

いずれにしても改革の火だけは消してはならない。




明日12月16日は衆院選の投票日。

高知県は小選挙区が3つある。僕が住んでいるのは高知1区。自民、民主、維新、共産の4人が立候補しているが、誰に入れればいいのか分からない。民主党には不信感があるが、かといって自民に戻ってほしいとは思わない。維新はよく分からない。いっそ共産党にでもと考えることもある。

事前のメディアの予測では高知の3区とも自民党が優勢である。3年前もすべて自民党が独占した。つまり3年前の民主の風は高知県では一切吹かなかった。

なんともやるせないのは、2区、3区とも候補者が自民と共産の2人ずつしかいないことである。こんな県は全国を探してもそうはない。ざっと見たところ高知県だけのようなのだ。民主も維新も人材がいないのか、戦う意思がないのか。もっとまじめにやれといいたい。高知の選挙民には選択肢すら与えられていないといっていいほどである。

ちなみに昨年の知事選においては対立候補がなく、無投票という恥ずかしい事態だった。自由民権発祥の地の高知だけが、このところの民主主義から取り残されている印象が強いのである。

なんともやるせない思いである。


  • 畑仲 哲雄 今回の選挙は本当に悩ましいですね。僕も決めあぐねていますよ。オリーブの木方式にならなかったし。。。

  • 吉良 義継 悲しい事ですね!!
    残念でなりません!!
    県民性なんですかね??

  • 伴 武澄 今のテレ朝のニュースステーションは面白くないし、サンデープロジェクトもなくなっているが、90年代に思ったことは、高知県に時流というか、新しい政治の風が吹かないのは、テレ朝が映らないという致命的状況にあるからではないかと考えたことがありました。

  • 三崎 敬子 先 月福井県に1週間研修出張してきました。親戚がいるので前から知っていましたが、今現在でも福井ではNHKの総合・教育とフジ・サンケイ系列と読売系列の 4チャンネルしかありませんでした。テレ朝もニュース23も見られなかったです。だから原発があることを前提にしてしか考えられない人が多数派なのだとあ らためて痛感させられました。
    比例代表はずっと支持政党を書いてますが、候補者の方はぎりぎりまで悩むことになりそうです。

  • 立田 恵子 神奈川にも自民と共産の2人しか候補がない選挙区があると聞きました。自民は名の知れた候補だが、やはり自民党に戻ってほしくないと考えている知人は投票する人がいないと嘆いていました。小選挙区は白票で比例のみというのもオプションらしいです・・・。

  • 藤島 和典 かつての社共共闘というか、どこかで合流しないと変わらないですね。

  • 吉良 義継 伴さん、その通りで、"・・考えたことがありました。"なんです。
    今は、私の感触では"既存マスメディア"は同じ!です!!
    信頼があるのは"Web情報"
    "既存メディアに関係ないWebサイト情報"
    だとおもってます。
    高知県も早く、せめてADSLは当たり前、光回線での
    インフラを整えて、
    一番は高知県民性の(私の主観ですが)
    "俺は俺やき、別に解ってくれだったら、エイ!"
    とスグ"居直る"
    ところがあるんでは!!
    FBの普及率(利用率)全国最下位!!
    県外の情報に対して、関心がない!!
    ましてや海外の情報なんて、
    "そんな事知ってなんになるが?"
    "わしの生活が楽になるかえ?"
    なんて発想が多いんではないかと・・・
    帰高するたびに・・・・
    余談ですが、伴さんのコラム以前からMail で拝読してましたが、
    高知県人と知って、どれだけ驚いたか!!
    また、"オー!いごっそがおったー!"
    と喜びもしました。
    長くなりましたが、選択肢がないとは、最悪の状況でしょうけど、
    せめて、過去のイメージは捨てて、
    今現在で判断されてはいかがでしょうか?
    次回は、是非伴さんが立ち上がる!!事も視野に入れて下さい!!
    ありがとうございます。

  • 伴 武澄 つ いに明日になってしまいました。メディアの報道によれば、国民の関心事は「景気」にあるらしいことを知りましたが、調査項目の一番上にあるのが「景気」な のです。『原発」は後ろの方だと思います。世論調査というものは恐ろしいのです。多分意図があってのことではないと思いますが。いちも同じパターンで調査 項目をつくるために、有権者は誘導されやすいのはないかと思っています。

omote.jpg 来年には日本国の財政の借金が1000兆円を超えるのだという。多くの世論調査によると安倍さんが政権に返り咲く可能性が強いとされるが、この借金をつくった最大の責任者は自民党であり霞ヶ関である。15年近くにわたり金利ゼロが続き、ゼロ金利の呪縛から逃れられなくししたのも自民とと霞ヶ関であることをわれわれはもう一度思い出さなくてはならない。

 普通の金利状況だったら、こんなに巨大な借金は抱えられないはずである。僕が大蔵省を担当していた87―89年ごろ、長期金利は6%内外だった。1000兆円の借金に6%の金利がついたらそれだけで60兆円の金利負担となる。40兆円しか税収がない日本財政がこれだけの金利負担を負担することは絶対的に不可能。つまり社会保障どころか公務員の給料すら支払えない。

 1000兆円の借金ができるのはここ10年の長期金利が1・5%から1%だったからである。景気が上昇して日銀は過去何度か金利を上げようとしたが、財務相の強い反対で金利を上げることができなかった。好景気の時に金利をあげておかなければ、不況の時に金利を引き下げることすらできない状況がここ15年間続いているのが日本の経済なのだ。

 僕は日本経済がこの20年間GDPの伸びがないのはひとえにこのゼロ金利にあるのだと考えている。そんな状況の中で安倍さんのいうようにインフレターゲットなと掲げてもまったく意味がない。まず財務相の官僚たちにターゲットそのものが葬り去られてしまうだろう。やはり不可欠なのは「官から民」への権力の移行なのだと思う。

 いま日本に必要なのは日本の財政が借金をできなくなる状況をつくるしかないのだ。そのことをずっと考えている。近い未来、日本国内の資金で国債を消化できない状況がやってくるはずである。その時、確実に金利が上昇し、日本円の暴落が始まる。萬晩報は14年前からそのことばかりを書いてきた。安倍さんの日銀による国債の直接引き受けが始まれば、日本銀行券の価値が暴落する。そのことも指摘しておかなければならない。

 円高が日本経済を苦しめてきたことは事実であるが、円高によって国際的に日本の国債の価値が維持されてきたことも事実である。これまで国借金を膨らませてきた日本財政がまがりなりにも借金を続けられるのはまさに円高のおかげでもあることを知らなければならない。
juncin.jpg 小泉純一郎が2001年、首相になった時、僕はけっこう興奮した。萬晩報はそれまで、景気対策のため、何度も巨額の補正予算を組み、結果的に現在の財政の国際依存体質を築いていた自民党政権を批判しまくっていた。

 萬晩報が主張し続けたと同じことを小泉さんが始めたから、批判が出来なくなって困ったことがある。小泉さんをいまだに評価しているのは、「構造改革なくして景気拡幅なし」をスローガンに景気対策のための補正予算をほとんど組ませなかったことである。もう一つは株価を維持する政策を一つも取らなかった。ほっておけば株価は下がるが、どこかで底を打つという信念があったのだろう。90年代にはPKO(プライス・キーピング・オペレーション)まであったことを思い出してほしい。

 事実、株価は2003年3月を底値に2006年の1万7000円台に向けて一気に上場し始めたのである。もちろん景気も回復基調に戻った。小泉さんの構造改革の最大の仕事は日本道路公団と郵政事業の民営化である。

 その後、小泉改革が日本を駄目にしたというネガティブキャンペーンが起きた。発信源が霞ヶ関であることは間違いない。改革ができない自らの責任をすべて小泉さんに押しつけた。

 小泉さんが自民党総裁になれたのは自民党の地方支部の声だった。衆院と参院の国会議員の支持は橋本龍太郎に集まっていたが、党員投票で小泉さんへの支持が大きなうねりをつくったのだった。田中真紀子外相をめぐる騒動で一時期国民の支持も下がったが、多くの国民は最後まで小泉さんを支持し続けた。

img03b7d04dzikfzj.jpeg 小泉さんをついだ安倍首相は改革主義だったが、胆力が足りなかった。その後福田、麻生と続いたが、霞ヶ関が勢力を巻き返し、小泉改革は元の木阿弥に近づいていた。そんな自民党に国民が最後通牒をわたしたのが2009年の総選挙だった。僕の気持ちでいえば、小泉改革路線を復活するはずだったのが、鳩山民主党政権の誕生だった。

 鳩山民主党で僕が共感したのは「官から民へ」というスローガンだった。思い出してほしい。国交相に就任した前原さんは群馬県で進められていた八ッ場ダムの建設中止を宣言した。そのことは多くの波紋を起こしたが、国民の喝采を浴びた。羽田空港を国際化するとの方針も世の中の趨勢に棹さしただけだったが、国民的喝采を浴びた。

 高速道路無料化や子ども手当は財源不足からその後、形骸化したし、普天間基地を最低でも県外という思いは実現できなかったが、今から考えれば失政でも何でもない。野田民主党政権はマニフェストに出来ないことは書かない方針のようだが、本来は理想を掲げるのが政治ではないのか。

 かつて田中康夫さんが長野県知事に当選したとき、官僚の反抗を招くだろうと書いた。事実その通りになった。哀しいのはメディアまでが田中知事包囲網と築いたことだった。われわれメディアの人間は記者クラブに属していて、主に官僚から情報を得ることに汲々としてきた。いまもそうしているはずだ。多くの場合、政治家の評価まで官僚を通じて得ることが多いのだ。そのことは直接記事にはならないが、記事の行間に多くの場合反映するのだ。

 鳩山さんが政権の座を降りざるを得なかったのは、普天間問題だった。普天間問題の発端は1995年に起きた米海兵隊による少女暴行事件だった。それから14年かかって自民党でさえ普天間問題を解決できなかったのに、鳩山さんが1年足らずで解決できなかったといって、野党である自民党は鳩山さんを責めたのだった。本来ならば自民党には鳩山さんを責める立場にないにも関わらずである。(続)

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