2012年10月アーカイブ

DSC_0380700.jpg 土佐山に観光施設はあるかと問われたら、ないと答えるしかない。ないない尽くしの山村であるが、短期間ではあるが住んでみて、自然そのものが見るべきもの、楽しむべきものだと思っている。山を眺め川を愛で大気を感じるそれだけで意持ちがよくなる空間がそこにある。

 そんな土佐山で「ゴトゴト石はどうやって行けばいいのか」、二度ほど聞かれたことがある。僕自身も春先に同じ質問を村の人にしたことがある。平石にあるバルという地元産品の販売所には土佐山の"名所"を示す大きな地図があり、そこにはゴトゴト石と書いてあるから、たぶん多くの人はその地図をみて興味を示すのだろうと思った。

 桑尾の集落から北に山道を登ったところにある。途中、家は数軒しかない。登りつめると見晴らしのいい場所の向こうに山姥の滝があり、ゴトゴト石がある。5トンほどの大きな石で注連縄が巡らしてある。風水上のパワースポットでもあるらしい。子どもでも動かせるが決して落ちない。それだけのことである。入場料を取るほどのものでもないから人も来ない。

 問題は県道から道案内がないということである。桑尾の集落、といっても小さなものだが、その中を旧道が通っている。実はそこに立派なサインがあるが、ふだん車が通るところではない。

 7月からそのことが気になっていて、いつか自分で案内の板を据え付けてやろうと思った。実現したのは9月22日、アカデミーの終了式の翌朝だった。看板にする板は炭焼きの時にあった太めの樫の木。チェーンソーで三ツ割にしてもらった。杭はまた30センチ以上もあるヒノキの丸太。これはツリーハウスを制作する時に切った間伐材の残りだ。

 問題はどうやって文字を書き込むかだった。焼き入れも考えた。墨汁で書くことも考えたが、手っ取り早く黒のペンキで書くことにした。一つは「ゴトゴト石、右」という簡単な文面と「山嶽社跡 右3km」「山嶽社跡 左300m」のペア。前者はユズの農産物出荷場の前の県道、後者は菖蒲集落に向かう県道16号の分岐点とその先の西川集落への分かれ道に据え付けた。

 最初、杭を道ばたに打ち込むつもりだったが、県道の管理者である高知県の許可が必要だということだった。めんどくさいと思ったのが実行の遅れた原因だ。そこで倒れないような太い杭に看板を打ち付けて道ばたに置いておけば、文句を言われた時に「置き忘れた」と弁明できると考えた。

 この問題に関しては賛否両論があろうと思う。徳島県神山町の町おこし組織、グリーンバレーの責任者である大南さんが話したことがふと思い出された。「町の道路に企業の名前の入った標識を立てることは道路法に違反するということだったが、われわれはそれを強行突破した」。看板ひとつ立てるのにも行政の大きな壁があったというのだ。

 大南さんに言わせると「そんな乱暴な手法は全国でも例がなかったが、1年3カ月後に徳島県が先頭になって企業名の標識を道路に立てられるように動いた。もともとの発想はアメリカにあった。ハイウエーを走っていると企業名の入ったアドプト・ア・ハイウエーという標識がある。高速道路を区切って企業に掃除をさせ、そのスポンサー名を掲示していた。アメリカってすごいなと思ったんです」

 道案内の看板は終了式の準備をしていたその前日に制作した。我ながら無骨な文字を書き込んだ。ペンキで字を書くことはそう簡単ではない。みなにみせると好評だった。素人の手作りらしくていいというのだ。賞められたのかけなされたのか分からないが、誰も見ていない早朝に道案内を秘かに設置した。

 翌日、勘ちゃんから「台風で倒れないように針金で固定して置きました。地元で評判になっています」とのメールがあってなんとなくホッとしている。ゴトゴト石の道案内をみたら、あー伴さんが立てなんだと思い起こして欲しい。
DSC_0695700.jpg 土佐山に信号機などないと思ったら大間違い。1基だけある。役場の前の県道16号にある。以前近くに保育園があって、子どもたちが渡る時に危険だということで設置されたのだそうだ。その後、保育園は移転したため、信号機は不要になったが点滅信号としてまだ存在している。

 僕が7月から3カ月土佐山に住んで一度も「赤」に転じたことはない。正直に言うとみたことがないということになる。信号機のない村といえば、それだけで売り物になると考えたが、だれも関心を示してくれなかった。不要な電気代を払って今日も土佐山唯一の信号機は点滅している。

 とある会合で出席者の一人が面白いことを言った。

「高知で最初に交通信号機が導入されたとき、どんなに説明しても人々は意味が分からなかったに違いない。"進め""止まれ"が分かってもなぜ規則を守らなければならないのか。新しいツールが導入されたときの反応はいつの時代も同じではないか」

 それで家に帰って、その"いつ"を調べてみた。日本では1930年(昭和5年)に、東京の日比谷交差点にアメリカから輸入した電気式の交通信号機(右=縦型だった)が設置され、その年の12月に,国産第1号の自動交通信号機が、京都駅前ほか2か所に設置されたのだそうだ。

 昭和初期ということに驚いたが、そもそも日本に自動車が数千台しかなかったから当たり前といえば当たり前の話なのである。ちなみにその信号機には、青灯に「ススメ」、黄灯に「チウイ」、赤灯に「トマレ」と書かれていた。

 世界初の電気式信号機はニューとヨーク市5番街の交差点に設置されたもので、日本より12年前の1918年で、この時,黄色は「進め」、赤が「止まれ」、緑が「右左折可」であったようだ。交通信号は1868年、ロンドンで始まったもので、当時電気はなく、ガス灯を使った。もちろんロンドンの町を走っていたのは馬車ばかりだった。

 記者になったばかりのことである。滋賀県警の偉い人に言われて合点したことが頭にこびりついているからなのだ。

「伴おまえ、なんでこんなに信号機が増えたか知っているか。交通事故が起きるたびに信号機が設置された結果なんや。交通事故は確かに悲惨なことなんやけど、信号機をつけたからといって交通事故が減るものでもない。信号機のある交差点でも起きる時は起きるもんなんや」

 確かに信号機は交通を潤滑にする優れものである。でもいらないところにまで設置する必要はない。電気代はかかるし維持費だって半端じゃないはずだ。いらなくなれば廃止しればいい。

『交通信号機のルーツをさぐれ! 』(2001年、アリス館)があるらしいが、絶版である。
tagorekimono3.jpg ラビンドラナート・タゴール(1861年-1941年) ベンガルが生んだ詩人であり思想家である。岡倉天心を通じて日本とのつながりが生まれ、イギリス統治下でアジア人としての意識に目覚める。詩集『ギータンジャリ』を英文で出版したことにより、1913年にアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞した。

 タゴールはコルカタの名門家の7人目の子として生まれたが、タゴール家は元々、東ベンガルつまり現在のバングラデシュにあった。領地シライドホの自然を愛し、若い日に度々訪れた。ボートハウスに滞在しながら川を巡り、村の農民たちの生活や祭りを知った。ベンガル文学の担い手や宗教歌謡の歌い手、吟遊詩人らと出会ったことが、その後、詩人へと変貌するきっかけとなった。

 世界的には詩人として知られるが、音楽、舞踊、演劇、絵画など幅広い分野で足跡を残したことはあまり知られていない。1898年、37歳のとき、シャンティニケタンに学舎を建設、古代の森の学園をモデルに緑豊かな学園を創設して活動の拠点とした。現在はタゴール国際大学の名で通っている。

 日本とのつながりは、1902年にインドを訪問した岡倉天心との出会いを通じてもたらされた。天心もまたインド滞在中に英文の著作『東洋の理想』をものにするなどインドに開眼する。タゴールは西洋の科学に対してアジアの精神性を強調し、アジアの文明の源流をインドに求めた天心の強烈な個性に共感したといわれる。1916年の初来日では国を挙げての大歓迎を受け、日本にタゴール旋風を巻き起こした。特に東京大学での講演「インドより日本への使信」は有名である。孫文が1925年に神戸女学院で行った「大アジア主義」に匹敵する講演である。天心はもはや亡き人となっていたが、天心が残した茨城県五浦(いづら)の六角堂を訪問、横山大観や荒井寛方ら日本画家から多くの影響を得たといわれる。

 政治的には終生、反英の軸足は揺るがなかった。1907年、イギリスがベンガル分割令を打ち出すと反対運動に参加、その時、タゴールが書いた愛国歌が集会で唱われるようになり、その一つが独立後、インド国歌となり、さらにバングラデシュ国歌ともなった。

 ガンディーとの親交は1914年、まだ南アフリカで弁護士だった時代にシャンティニケタンにタゴールを訪問したときから始まった。1930年ロンドン滞在中、ガンディーが反英闘争の一環として敢行した「塩の行進」で逮捕されると、イギリスの対応を非難、オックスフォードで後に「人間の宗教」として知られることになる連続講演を行った。1932年からガンディーが獄中で断食を行うたび、イギリス政府に抗議の電報を打ち支援した。

 晩年は日本の中国侵略に批判的となり、インド国民会議派が分裂の危機に陥った1939年、穏健派のネルーと急進派のチャンドラ・ボースとの亀裂を修復するため会談を実現させるなど尽力した。

 1941年8月7日、80歳の天寿をまっとうしたその4カ月後、日本による真珠湾攻撃で、日米が開戦した。
DSC_0276700.jpg 高知市土佐山支所の岩崎さんと話をしていて、この岩崎さんも岩崎鏡川の縁者であることが分かった。

「田中英光を知っていますか。太宰治の墓前で自殺した文学者です」
「その人、ロサンゼルス五輪に行った人でしょ。この前、読みました」

 高知新聞の論説委員をやっていた山田一郎が高知新聞に「南風対談」を連載していて、その単行本を読んだばかりだった。水泳1500メートル自由形で優勝した北村久寿雄との対談で田中英光がボート選手としてロサンゼルス五輪に出たことが紹介されていた。高知県から5人もの代表が五輪に出場したというから、当時の高知県の運動選手のレベルは相当に高かったといっていい。

「そうボートの選手で早稲田大学の学生時代に五輪に出場し、後に文学者になりました。土佐山出身の歴史家、岩崎鏡川の息子です」

 ちなみに父親の鏡川もまた文学を目指したが、後に文部省の役人になって明治維新の資料整理にあたった。代表作は『坂本龍馬資料集』である。当時はまだ幕末関係者が多く生きていたため資料集の編纂を可能にした。鏡川のこの資料集がなかったら司馬遼太郎の『龍馬が行く』も書けなかったかもしれない。

 数日後に図書館に行って探したら11巻の田中英光全集まであって驚かされた。全集は東京五輪の翌年、昭和40年、東京の芳賀書店から発行されていた。英光の代表作『オリンポスの果実』を借りてきて、昼下がりのせせらぎで早速読んだ。

 同じロサンゼルス五輪に出場した女性アスリートとの淡い恋を描いた青春小説で、昭和15年に池谷賞を受賞した。全集には亀井勝一郎が「文化の碑――太宰治と田中英光」と題して英光の自殺について書いている。

 昭和24年11月3日に太宰治の妻とお嬢さんを誘って音楽会に行った。「今ごろ田中英光はどうしていらっしゃるかしら」と話題になった時、田中は三鷹の太宰治の墓前で自殺していたのだという。

 田中英光といっても今知る人は少ないが、終戦後の若者の本棚には太宰治と並んで田中英光の本が一冊や二冊は並んでいたのだそうだ。

 田中英光が当時の青年たちに人気があった理由がある。まずはオリンピック選手が小説を書いたという点である。世界広しといえどもオリンピック選手が運動以外の分野で成功したという話は聞かない。その点で北村久寿雄もまた特異な人生を歩んだ。14歳9カ月で金メダルを取り、オリンピック後、勉学に励んで東大法科に進み、三井物産に入り、戦後は労働界で重きをなし、住友重機や住友セメントの役員となった。

 もう一つは田中英光が書いた『オリンポスの果実』は戦前の輝かしい日本人たちの物語だった点である。敗戦によって米国の占領下にあって打ちひしがれた日本人たちに歓迎されたのは当然だった。解説を書いた奥野健男は「わがもの顔の米兵たちに昔は日本人だって相当なものだったんだよと言ってやりたいような変な衝動にとらわれた」と述べている。

 いやはや土佐山で文学まで読もうとは思わなかった。まして太宰治にまで出合うとは。
DSC_0230700.jpg 永野干城さんに土佐山に電気が来たのはいつのことか聞いたことがある。
「昭和の始めかな、でも平石とか中心部だけのことじゃった」
 干城さんは北の工石山の方を見詰めながらぽつりと言った。

「村に電気会社ができたんですか」
「そんなもんはないない。ほかの村のように村の電気会社はなかった。高知県が電気事業をやっていて、当時は電灯一ついくらという具合に料金が決まっちょった。でも高川の奥の城(じょう)に電気が通ったのは昭和30年代で、もう四国電力の時代になっちょった」

 小さな山村ではあったが、電気が普及するのに30年もかかった。30年といえばサラリーマンの一生にあたる。僕が定年を迎えたばかりだから30年という年月に一定の思いがある。

 そういえば、三重県の熊野全体に電気が通ったのも昭和30年代だった。日本中に電力が行き渡った時期であるが、日本で炭焼きがなりわいとして衰退した時期と重なる。炭やまきが電気に代わったのではないが、日本の山の生活が大きく変貌した。

 つまり山のなりわいだった炭焼きと養蚕、紙梳きが成り立たなくなった。一方で、村に立派な道路ができた。人々は村が繁栄すると思ったが、起こったことは逆だった。村人がどんどん町に出て行ってさびれていった。

 山の風景も一変する。植林である。炭は樫や椎などの広葉樹で焼く。養蚕には桑の葉が必要だった。和紙の原料はコウゾ・ミツマタで大人の背丈ぐらいしか大きくならない。山の植生の中心は広葉樹と桑とコウゾ・ミツマタばかりだった。

 今の土佐山の大半を占めるスギやヒノキはもとからあったものではない。干城さんにいわせれば、昭和30年代に植林されたものなのである。日本の植林は古来からの固有の文化であったとされるが、大規模なものは昭和30年代に始まったのである。農水省が「50年後には育って木材として売れる」と旗を振った。中国ではないが日本山村の大躍進運動だったといってもいい。

 干城さんがまたつぶやいた。
「杉林に入ったらようけ石垣があるろう! ありゃもともとは段々畑やった。畑まで潰して植林をした。そのころの植林事業は苗木一本いくらといって助成金が出たからのう」
 植えれば植えるほど金になったというのだ。

「いま間伐、間伐いいよるけんど、あと先考えずに植えたから今になって手間がかかるこのになった。それから50年が経ったが、ヒノキらぁはまだ細っそい。役人の言うことはみんなウソじゃった」

「干城さんは村を出たことはないんですか」
「昔、長男は家を継ぐことになっちょった。だから学校を出ると家の仕事を手伝った。ずっと農業よ。ところであんたは高知のどこぜよ」
「西町です」
「西町といえば広田という家があろう」
「それは実家の隣です」
「そうか、その広田の妹がわしんくの嫁よ」
「えっ、それは驚きました」

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