2012年9月アーカイブ

 高知新聞9月28日夕刊によると、「尖閣」は高知県出身の博物学者、黒岩恒(くろいわ・わたる)が1900年に命名したとする記事を掲載した。黒岩は沖縄での教職のかたわら、魚釣島周辺を探索した結果を学術誌に報告し、列島には一括した名称がないため、「余は窃(ひそ)かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり」としたという。

 ウィキペディアの「尖閣列島」の項にはすでに書かれていることなので「新発見」ではなさそうだが、筆者にとっては驚きだった。

 外務省は「政府は1895年1月14日に閣議決定で尖閣諸島を沖縄県の所属として標杭を立てることを決めた」と説明しているが、高知新聞の記事が事実ならば、標杭を立てた当時、魚釣島の名称はあっても「尖閣」の名称はまだなかったことになる。

 尖閣列島は長らく無人島だったため、ほとんどの日本人にとってイメージがまったく湧かない島々である。だが領土問題となると、筆者も含めてだれもが日本の領土だと信じて疑わない。そもそも19世紀の後半まで世界で国境の確定していない部分が少なくなかった。ヨーロッパとアメリカ合衆国など近代国家以外ではそもそも国家の概念さえ希薄だった。

 言葉は悪いが取ったもの勝ちだったはずである。北海道でさえ、命名されたのは明治になってから。それまでは蝦夷と呼ばれ、幕府が統治していたのは松前だけである。その先の樺太や千島にいたっては日本人が定住していた形跡さえほとんどみられない。

 アメリカ人が捕鯨の補給基地にしていたボニン・アイルランドが小笠原諸島として日本領に編入された経緯だって本当に不思議なものなのだ。そんな時代に「魚釣島」などが「日本」に編入されたのは事実なのである。

 19世紀の領土のぶんどり合いの結果が21世紀になっても蒸し返される東アジアの政治情勢になんともやるせない思いにさせられる。

 もともと尖閣の問題は、1970年代に海底資源が眠るという調査が明らかになったことに端を発する。中国が領海を越えて海底油田の掘削を始めたが、そもそも有望な油田があるのだとしたら、日本の石油会社が掘っているだろいうし、世界の石油メジャーだって黙っているはずがない。西側の資本が関心を示さないということは現時点で決して有望な油田でない証左である。

 小さな無人島に角を突き合わせるのは国家の沽券にかかわるという部分だけではないかと考える。そういうことならば、その「国家」を取り外して考えられないかというのが筆者の意見である。

 そう共同管理である。現在のEUはそもそも独仏国境の鉄鉱・石炭資源の共同管理という発想から生まれた。欧州石炭鉄鋼共同体である。

 戦争に負けたドイツが言い出したことではなく、戦勝国のフランス、シューマン外相が言い出したところにみそがある。竹島の場合、実効支配しているのは韓国であり、韓国が共同管理を言い出さないかぎり話は前に進まない。日本が言い出すべきは「尖閣の共同管理」である。その場合も日中の共同管理ではなく、き たるべき「東アジア共同体」による共同管理であろう。

 東アジア共同体による共同管理が進めば、南沙、西沙諸島問題、竹島、ひょっとしたら北方領土も同じ土俵で問題解決の道が開けるかも知れないと思う。


 高知新聞はこの記事の冒頭部分しかネットに掲載していないため、全文ではないが転載させていただく。http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=293720&nwIW=1&nwVt=knd
---------------------------------------------------
「尖閣」の命名は高知県出身者/博物学者・黒岩恒 112年前島々を探検

 領有権をめぐり日中の対立が激化している尖閣諸島だが、点在する島々を一括して「尖閣列島」と命名したのは高岡郡佐川町出身の黒岩恒(くろいわ・ひさし、1858~1930年)だ。牧野富太郎とも親交の深かった博物学者で、沖縄師範学校の教員時代に依頼を受けて現地を踏査。沖縄県名護市には顕彰碑が建てられている。
 黒岩は18歳で高知県の佐川小学校の教員となり、県尋常中学校などで教壇になった。1982年、沖縄の動植物や民俗研究に業績を残した田代定安の影響や、幼なじみの牧野の勧めもあって、沖縄に行ったとされる。
 沖縄では教員の傍ら、動植物や民俗などの研究に没頭。多くの学術論文を発表した。牧野にも現地の珍しい植物標本を送っており、・・・。
 (中略)
 黒岩が尖閣諸島を探索したのは1999年5月。明治政府から無償借地した久場島などの開拓に着手していた実業家の古賀辰四郎の依頼に基づき、沖縄県師範学校命で18日間かけて魚釣島などの地質や動植物を調査した。
 黒岩はこれを「尖閣列島探検記事」と題して同年発行の「地学雑誌第12号」に発表。「列島には未た一括せる名称泣く、地理学上不便が少なからざるを以て、余は窃はに尖閣列島鳴る名称を新設することとなせり」とし、釣魚嶼=現在の魚釣島、尖閣諸島(現在の北小島と南小島)、黄尾嶼(現在の久場島)の4島を「尖閣列島」と定義した。・・・・・・・・
DSC_0256700.jpg 土佐山村資料集というものがある。村内に残る歴史的資料を網羅した歴史である。その中に西川地区に残る新聞「民報」への言及がある。中国革命を支援するために高知出身の萱野長知が編集し、土佐山の和田三郎が関わった新聞で、大正初期に短期間、発行された。いまや散逸してすべての発行号を見ることはできない。西川地区にはその大部分が残る。貴重な資料である。

 新聞 「民報」 (西川) 西川部落藏

                〔作者・筆者〕 民報社 〔時 代〕 大正ご丁四年
                〔形状・寸法〕 全判ニツ折
 中国の革命家、孫文(1966(慶応2)~1925(大正14))の運動を支援したといわれる、土佐山村西川出身の元板垣退助秘書・ジャーナリスト和田三郎が、地元の西川青年会へ寄贈したもの。所々に「西川区青年会図書部之印」の朱方印と「和田三郎氏寄贈」の記載がある。現在残るリストは、部分的な欠号はあるが、後記の大正3年(中華民国3年、西暦1914年)7月4日(17号)から翌4年2月7日(117号)までの約半年分である。

 本紙については、東京の国立国会図書館に3年6月27日から同年12月18日までが残り、東京大学の明治新聞雑誌文庫に第13号(大正3、6、30)のみがあるが、高知県内ではまず他に残存していないのではないかと思われる。判明した点を紹介しておく。

 紙名は「民報」。大正2年9月12日第三種郵便物認可。日刊無休であるが、一部休刊があっている。発行所は東京市日本橋区坂本町二十七番地、中華民国通信社内民報社。場所は4年1月末、麹町区有楽町一丁目三番地に移転している。初期の発行人は萱野長知、同じく編輯兼印刷人が岡村周量。

 萱野は高知県出身の大陸浪人で孫文を支援する日本の代表的志士の一人であった。以後のスタッフは太宰雅各、松下善朗、山田正司らと代っている。支局として台北に台湾支局が、大陸に北京、上海、厦門、汕頭、香港、奉天の各支局があった。紙面は四頁立。大様一面が論説と国内政局、二面が華国を主に国外政局、三面社会、四面小説と市況、となっている。振仮名つき、絵入、写真入。
 対外問題についての論調は袁世凱攻撃と大隈外交の非難に終始し、特に袁世凱敵視については徹底している。要約すれば、①袁は国を売り、立憲・自由思想を弾圧し、時代に逆行した帝政に移行しつつある。袁政権の打倒。第三革命の実現。②日本の利権は西欧列強に奪われている。対華二十一ケ条要求はむしろ貧弱にすぎる。大隈外交は拙劣。③大隈は支那分割を云い袁は排日を説く。日支人民のために共に不可。支那の分割反対。④日本は支那の憲政軍を助けるべし。

 以上から本紙は、純民党主義として不偏不党を標榜しているものの、満蒙進出と支那での利権獲得をねらって袁北方政権と外交交渉をする大隈政府と異なり、南方革命軍(中国国民党)を援助しようとする日本の立憲国民党(党首犬養毅)系の新聞で、しかもその背景にはやはり市場と利権の獲得をうかがう勢力が秘められているものと考えられる。明治39年(1906年)東京に生れ26号まで存続した同盟会の月刊機関紙。「民報」とも無関係ではあるまい。

 和田三郎は、土佐山村の篤学者和田千秋の三男で、本紙当時民報社の責任あるポストにあったらしく、社の広告にその名がみえている。

 前記性格に加えて自由民権の残党の新聞たる一面をもうかがわせると同時に、小説に「勤王烈士坂本龍馬」が連載されるなど、強い土佐臭をただよわせている新聞ともいえよう。

〔残存リスト〕。
大正3年077月04日~30日(17-43号)
     08月03~05日(47-49号)、08~11日(52-55号)、
        13~19日(57-63号)、22~31日(66-75号)
     09月03~30日(78-105号)
     10月04~14日(109-119号)、17~21日(122-126号)
     11月03~05日(139-141号)、07~09日(143-145号)、
        11~19日(149-155号)、23~25日(159-161号)
     12月02~14日(168-180号)、
        16日(182号)、18日(184号)、29日(185号)、30日(186号)
大正4年01月05日~08日(188-191号)、10日(193号)、
        12~14日(194号-196号)、16日(198号)、17日(199号)、19日(200号)
        22~24日(203号-205号)、26日(206号)、27日(207号)、29~31日(209-211号)
      02月05日(215号)、07日(217号)

■(破)革史の一部分を記して切に会員諸□(破)猛進を促す
     ■(破)革史の一部分を記して、切に会員諸□(破)猛進を促す

                                  会員 岩門智
 
 我西川部落は遠き昔より現今に至る迄戸数三十戸有余に内外し曽て四拾戸を過ぎし事なしと云ふ。蓋部落の遺積に依りて考察するに、大てい富者にして、富者にあらざるものと云え共貧と云ふべき者無かりしものゝ如し。然るに下りて中頃に至るや皆、怠惰に流れ、昨の富者は今や貧民と化し終り、しかも自ら安んぜしものゝ如し。されど是れ豈我祖先等の特質ならんや。敢て屈するは大いに延びんが為めのみ。

 医を業となすものに和田波治氏なるものおり。常に部落の前途を憂ひて之れが救済を策せんとし、先づ自邸に寺小屋を開きて青少年を集め、和漢学、道徳礼義、其他あらゆる道話を教へ、大いに勤勉にして、家産の増殖を計らざるべからざる事を説けり。

 氏の長子を、千秋氏と云ふ。父に優れる博学多識にして、特に漢学にをいては有数の学者なりと云ふ。良く父の志を継ぎ。青少年を導くや、あたかも子の如く懇切なる指導をなせり。氏の門下には人材雲の如く輩出し(破)右維新の大変革に際するや和田氏の寺小屋□(破)をも変更せざるべからざるに至りぬ。

 和田氏門下の長足、高橋簡吉氏等卒先して師の指導の本に夜学会を起せり。明治三四年の頃遂に部落内に珍々社なる一社を設立するに至りぬ。部落内の中年青年、少年等は毎夜社中に会し学を修め、徳を積み或は討論などして、大いに自ら発展せり。

 之れ即山嶽社の前身とす。珍々社幾何も無くして廃し、山嶽社を組織せり。蓋珍々社の改称にして異名同体なり。益々社の発展に努め、毎夜社員一同必ず参社し、益々修学に力め、新聞を読みては盛に天下の大勢を討論し、昼間は勤勉治産に之れつとめ、山又山の山間僻地に於ける山嶽社は正に天下に号令せんとするが如き滔天の意気を示せり。

 青年等、常に呼号して曰く。一に学問、二に道徳、三に富力、四に腕力、此の四力を合せ有するものは来れ、始めて吾人の好敵手たらんと、当時青年の意気正に察すべきにあらずや。まことに当時の青年は学問もありき、道徳もありき、腕力もありき、富力もありたりぬ。社員の三寸の舌はよく、村治を左右し、郡会県会をも動かすに足るの実■(破)せり。

 社員中には県会議員ありたり、郡会議員■(破)りたり村会議員ありたり、村長もありたり、助役もありたり収入役もありたり、書記もありたり、教師もありたりき。其他人材雲の如く多く、正に此の二十数年間は我部落の大黄金時代とも云ふべきなり、

 蓋、西川部落異数の大発展は和田氏の寺小屋に崩芽を発し、和田千秋氏の教導大勢を定め、山嶽社に至りて大成したるものと謂ふを得べきか。然るに之れ等諸士の飛揚せんには西川部落にては余りに少なりき、諸士の大半は遠大の希望を抱きて、或は市に或は大坂に、東京に或は台湾、北海道、又は遠く北米等に移住するものありて、山嶽社勢力の大半を失せり。

 されど亦、後に残れる諸氏も覇気満々として遂におさゆる能はず資本金参万円の製糸株式会社を部落の中央に起し日夜百数十人の工女を使嗾し昼間三度雄壮なる汽笛をならし、山間老翁の耳を洗えり。

 然るに悲しからずや燈火の正に滅せんとするや其の火は燦爛たりと、西川部落の運命も其の瞬間にあらざるなきか。果せる哉正直一轍の士は遂に奸商にあざむかる処となり。ここに一大失敗を招くに至り、亦立つあたはず。

 嗚呼ヽ悲しからずや、各自の富力□(破)失し尽し果てぬ。しかも悲愁は之れにとどまらず、□(破)と頼むべき青年等は自己の本領を打わすれ、心身軽薄に流れ誘惑に打ち勝つ事あたはず、或は婦女に戯れなどして、只夜遊等を事とし、敢て夜学等を顧みるものなく、今や遂に救済の道すらなきに至りぬ、西川部落の運命や正に急転直下したるなり。

 嗚呼、我等本文を草するにあたり、筆ここに至るや、悲惜、涙を掩ひて、茫然たる事之れ久しくす。されど物、深渕に達せば静止するの外、最早浮ぶるの他ありじ。

 幸なる哉我等は曙光に接するを得たり。明治三十五年、光明正大の気象、爽朗後偉の精神、屹然として動かざる事山の如く、教育を以て自己の生命とせらるゝ救主、河渕隆馬先生を、西川尋常小学校長として迎うるの光栄に浴せり。先生甚だ多忙の身を以て、校友会、父兄会、夜学会等を起しなどして、青年の智識を進め、校下の悪風を一掃せんとさる。

 我西川青年も、菖蒲、梶谷と聯合して西川校に夜学会を開催したりしも都合ありて数年にして廃し、后西川は単独に夜学会をなしたりしも勢揚らず、昨年は亦菖蒲と聯合したりしも好結果を得ず、本年□(破)遂に青年会に夜学部を設置するに至りたる□(破)り。我等は前の大黄金時代に回復せざるべからず、否ヨリ以上の大発展を期せざるべからざる也。

 我等の前途は河渕先生の努力に依りて、己に好箇の兆朕を発見せり。東天些の光明を洩せり。更に十年生聚し、十年教訓せば、理想の楽園に達するや、敢て難きにあらざるべし、乞ふ、会員諸君一曽の努力を期せよ。(松岡)

ph01.jpg アサヒビールの樋口さんがなくなった。経済部にいながら一度も取材したことはないが、1990年代にビール業界を担当したとき、いつも話題になった人物である。樋口さんが日経新聞に「私の履歴書」を書いたとき、いくつもの逸話が紹介されて、さすがはと思わされた。もう一度そのときのコラムを掲載したい。このコラムは萬晩報にとっても500号となる記念すべきものだった。
------------------------------------------
 1月1日から日本経済新聞の「私の履歴書」にアサヒビールの元社長の樋口廣太郎さんが登場した。1986年、住友銀行副頭取からどん底だったアサヒビールに単身乗り込んで経営を立ち直らせた人だけに、なかなか読ませる。

 当時の磯田一郎頭取とそりが合わずに住友銀行を飛び出したのだが、仮に銀行に残って頭取にでもなっていたなら「スーパードライ」は生まれなかっただろう し、アサヒビールという会社だって存在していたかどうか分からない。それよりも樋口さん自身がバブルの後始末で銀行の経営責任を取らされていたかもしれな い。

「人間万事塞翁が馬」という中国の格言をこれほど地で行った人生に出会ったことはない。

 缶コーヒーつくりの代わりに命じた草取り

「履歴書」は連載中だからこれからいくつもヤマ場があるかもしれないが、前半の圧巻は7日付(6)「筋違いの要求は拒否-専用食堂など特権認めず」と題した労働組合との対決場面だ。

 当時のアサヒビール本社には社員食堂の隣に組合幹部専用の食堂があって、社員が行列をして食事をするそのすぐ横で組合幹部だけはゆったりと食事をしてい た。これに頭に来た樋口さんは秘書に入り口のドアを蹴破らせ「みんな行列しているのに、のうのうと食事をしているとは何事か」と一喝。ただちに社員にその 場を開放した。なんともスカッとする逸話である。

 また缶コーヒーをつくっていた柏工場では、コーヒーが売れて品不足になっているにもかかわらず、社員は終業時間の30分前から帰り支度を始めていた。 「職場に戻るように」と言ったら「帰れ」の怒号が返ってきた。樋口さんはここではウィットで切り返した。「工場は動かさなくていい。解雇はしないから」と 言い放ち、缶コーヒー製造のかわりの仕事として「草取り」を命じた。「草はあとからあとからはえてくるので仕事は永久にある」といったら一週間で音を上げ たという話である。

 かつての国鉄をみての通り、傾きかけた企業には必ずといっていいほど労働組合が君臨していて、経営側が組合幹部にペコペコしている状況がある。緊張を 失った労使関係は組織をだめにするという好例がかつてのアサヒビールにあった。現在の日本社会全体に当てはまるのではないかと思う。

 さわやかな印象を与えたキリン佐藤社長の退任

 同じビール業界でこの15日さわやかなトップ交代があった。キリンビールの佐藤安弘社長が会長に退いて後継に荒蒔康一郎専務を昇格させる人事だ。佐藤さんは任期たった4年で社長の座を下り、後任には医薬事業というまったく違う畑の人材を登用した。

 佐藤氏の在任中、キリンの「ラガー」はアサヒビールの「スーパードライ」にビールのトップシェアの地位を奪われた。ラガーの長期低迷に歯止めが掛けられ なかったことに悔しさは残るだろう。しかし発泡酒「淡麗」を世に出して、会社が元気を取り戻した。この功績は小さくない。業界最大手のキリンが「ビールも どき」と揶揄された発泡酒の販売に踏み切るには相当の覚悟があったはずだ。佐藤氏はキリンの本流の営業畑ではなく、総務畑だった。保守本流を歩まなかたか らこそできた決断だったに違いない。

 佐藤さんが常務だったころにあるパーティーで一度お会いした。むろん佐藤さんが覚えているはずもない。そのころ輸入ビールの攻勢でビールの価格破壊が話 題になっており、内外価格差も大きな社会問題だった。筆者は日本の缶ビールの出荷価格の3分の1がアルミ缶代だという問題を取材していた。

 アメリカの缶が3-5円で日本製が20円弱。アルミ缶を輸入すれば利益は何倍にもなることは誰もが確信していたが、ビール会社はどこもそのことになると 口をつぐんだ。佐藤さんだけは違っていた。日本のビール会社が抱える問題点をあっけらかんと語った。そんな佐藤さんが4年前社長に抜擢されたから、キリン ビールは変わるだろうと考えた。案の定、殿様企業から商売人に一変した。

 社長というのは社外でどんなにぼんくらといわれようが、いったん上り詰めれば絶対権力者となる。そして長期間その座にあれば、どんなに評判の良かった人 でもぼろが出てくる。苦言を呈する人は自然と退けられ、社長室はやがてイエスマンに囲まれた楽園になる。佐藤さんは社長室が楽園になる前に住み心地の良 かっただろうその部屋を退室し、取り巻きから後継者を選ばなかったからさわやかなのだ。

 ちなみに樋口さんはアサヒビールの経営を軌道に乗せて4年で社長を辞めることを決めていた。事情があって6年半の任期となったが、当初方針通り、生え抜 きの瀬戸雄三氏を後継者に選んだ。会長になってからは後継者がやりにくいからと言って本社に部屋を求めず、東京支社に会長室を置いた。

sato05.jpg とんぼ返りで東京に行っていた。汽車で瀬戸大橋を渡ると橋の西側と南側は空がまっくろ。台風16号がいま、九州の西を北上しているというから、列車は大雨に向かっている。大橋の西と東の空の明るさがコントラストをなしているから、何やら天気の境目を通っている感がある。橋を渡りきると本当に大粒の雨が窓ガラスを叩き始めた。

 東京駅の本屋で宮本常一『山に生きる人びと』を見つけ、ずっと読みふけっている。この本は昔、読んだことがあるが、山に暮らしてみて読むのでは味わいがまったく違う。

 山に生きるための生活手段は少なくない。畑仕事のほかにまず狩りがある。イノシシやシカ狩りだ。木こり(杣)、大工、炭焼き、竹細工・・・。実は山の仕事はたくさんあったのに、今では町で行われたり、コストが合わなくなったりしてほとんどが衰退してしまっている。

 本を読んで思い出したのは木地師のことだった。津市にいたころ、なぜか鈴鹿山脈の中の君ケ畑を訪ねたことが思い出された。

 君ケ畑は全国の木地師の総本山のような場所だった。平安時代、文徳天皇の第一子でありながら、政争に敗れた惟喬(これたか)親王が隠れ住み、山の人たちにロクロの使い方を教えた。宮廷で使っていた椀や盆づくりの技術が広まった瞬間なのだという。椀や盆はロクロなしにはできない。君ケ畑には当時のロクロが保存されている。回転力は軸に巻き付けた太い縄を向こうとこちらと出互いに引っぱることで生み出す仕組みである。

 いまでも全国に広がる木地師は君ケ畑の神社の氏子で強い連帯感を持ち続けているというから驚いた。君ケ畑から全国に広がった木地師たちは山の道をつたい、トチやブナといった材料を求めた。
いまでも漆の塗り物は高級食器の一つだ。当時の山のなりわいで椀や盆はかなりレベルの高い付加価値を生み出した産品であるといっていいかもしれない。

 土佐山では木地師はいないが、電動ロクロを持ち込めばあっという間に木でお椀やお盆をつくることができる。木工家具や建具づくりよりよっぽど楽にみばえのいい商品ができそうな気がする。
DSC_0351700.jpg アカデミーが始まったころ、おちょうさんが「近所に人から、あなたたちはお客さんやからと言われた」と話してくれた。歓迎会があり、神祭に招かれたりと山の人たちと交流する集まりが続いて浮かれていた僕たちはその一言でシュンとなった。

 そりゃそうだ。山の人たちはアカデミーが何を目指しているかまったく知らないだろうし、受講生は3カ月したらいなくなる。お客さんと言われれば否定できない。でも9人の受講生たちは何かをこの山村に求めていた。

 それから3カ月。この山村に住んでみて村のことを何も知らないままでいることを改めて知らされている。特に僕たちの住む高川のシェアハウスは市営住宅で、ご近所の人たちも村の外から来た人ばかりだから、あいさつ以外に日常の交流はない。

 平石に住むおちょうさんや原っち、桑尾に住む高田夫妻のように朝、玄関先に採れたて野菜が置かれることはない。正直うらやましかった。

 一方で、炭焼きやイノシシ解体などアカデミーの授業に労を惜しまず協力してくれる人たちも少なくなかった。勇作さんは早朝の豆腐づくり、豆蒔き、栗拾いに誘ってくれて時々アカデミーにご機嫌伺いに来てくれた。おちょうさんは早くから車さんのパンづくりを手伝い、岡っちは大崎さんの土佐ジローの養鶏場に出入りするなど積極的に村の生活の入り込もうとしていた。

 誰かが言っていた。
「大切なのはアカデミーの授業ではない。山の生活を知るということは隣のおばあちゃんの話をとことん聞くところから始まるんだよ」

 どういうわけか、気さくに遊びにおいでと言ってくれたり、アカデミーに話をしに来てくれる人は外からの移住者が多かった。アカデミーで学ぶ知識や体験はどうやら、本当の山の生活とは別物なのであろうということを自覚させられたのは最近のことなのだ。

 中切地区の鎌倉さんが、僕の出演した高知放送のラジオを聞いてくれていて、地区の集会で「日本経済と山村経済」について話をしてくれと言われたときは嬉しかった。8月5日の日曜日に集会の後、居残ってくれて話を聞いてくれた。

 竹細工の下村一歩さんのところに言って話を聞いたとき、スタッフの堪ちゃんが「どのように山の人たちに溶け込んでいったのか」と質問した。

 一歩さんは10年ほど前に炭焼き竈をつくりたくて土佐山の隣の鏡村(当時)に移り住んだ。移り住んだといっても祖母が農業をしていたところに家を建てたのだから、まったくの赤の他人ではない。堪ちゃんは高知県でも西部の越知町の育ちで土佐山に住み初めてまだ1年。懸命に溶け込もうとしているのだが、自身で歯がゆさを感じているようだった。

 一歩さんは「この地区の人たちは会えば酒を飲むんです。それもお湯割りをした焼酎を一升瓶に入れてあおる。僕はあまり酒が強くないんです。普通かな。それでもなるべく地区の飲み会には参加しようとしてきました。仕事とかあってまだ7割ぐらいしか参加できない」と答えた。

 そこで僕はちゃちゃを入れた。

「僕なんてお酒が好きだから、万難を排して参加しちゃうな。キムもそうだろうと思う。何もすべてに参加できなかったからとギルティになる必要のないのじゃない? 地区の人だって全員が毎回参加できるはずもないし」

 みなが笑った。

 原っちが物部村谷相に移り住んで陶芸をしている哲平さんを訪ねたときの話をした。

「哲平さんはもともと職人肌で近所づきあいなどしていなかったが、親しくしていた人と地区の世話役をするようになってから祭りの手伝いを始め、子どもが学校に行くようになると自然、溶け込み始めたと言っていました」

 思い出すと哲平さんは移り住んで10年経っても「外人」なのだというようなことも言っていたような気がする。

 個人的に、僕は高川のシェアハウス周辺の掃除にいそしんだ。玄関前の芝生の草抜きは大変だった。2カ月かかってもまだ終わっていないが、ようやく芝生が伸び始めた。たぶん来年の夏は元の木阿弥になるだろうが、一夏でもきれいになればいいと思っている。もともと僕は草抜きが趣味なのだ。道路周辺の草はぼうぼうで、ツツジの木も伸び放題だった。エンジン付きの草刈り機を借りたが、切っても切っても草は伸びる。木にはツルが複雑にからまる。家の前の幅30センチほどの溝は土が埋まりその上に草が繁っていた。思い切ってドブさらいをした。早朝の作業だからこれには3日かかった。1人だけおばちゃんが車を止めて「きれいになったね」と話しかけてくれたには嬉しかった。

 思い出した。僕は土佐山で自由民権を考えるはずだった。平尾道雄の本を1冊を読んだだけて終わっている。いけない、いけない。あと1週間しかない。
DSC_0220700.jpg 14日、アカデミー生は堪ちゃんに率いられて市内はりまや橋商店街の金曜市に「炭屋」を出店した。午前中、西岡燃料の西岡謙一さんから「炭」について簡単な講義を受けて、いざ商い。1時間ごとに交代で露天に立った。僕は午後1時からキムと2人で売り子となった。

 西岡さんに言わせると大量生産大量販売以外にも売り方があるという。商品に物語性をつければいいのだとも言われた。西岡さんはこのところ土佐木炭の販売に力を入れている。高知県の山を元気づけるために「84プロジェクト」というNPOもやっている。自分のところで売る木炭に「84マーク」をつけ、ファンドレイジングの一環として寄付金付きで売り出したところ「けっこう売れるのだ」という。

 商いの原点は「対話」。話を聞いてよかったとなると買ってくれる。商品+アルファである。いま売り方は「競争」から「共感」に移行しているというのが西岡さんの考え。この日の僕のいでたちは雪駄履きに薄茶色のジャケット。まさに寅さんの心境になって来る。

「商売というのは売れても売れなくてもドキドキする。売れたらもちろん嬉しい」
「近江商人の格言として、相手を知り自分を知り、世間を知るというのがある」
「土佐弁でずるい人のことをへこまんという。でも真面目な人が緩やかにつながったら勝つかもしれん」

 最初は「土佐山で僕たちが焼いた炭はいかがですか」などと呼び込みをやっていたが、考え直した。形のいい丸い切り炭を売るに当たって、そこらへんに生えていた草花をいくつか切ってきていたので、実演に移った。

「おばちゃん、こうやってすすきの葉をさすときれいでしょ」と問いかけると、3人に1人は興味を示してくれる。そこから客との対話が始まるのだ。一番多く買ってくれたのは隣でお店を開いていたおばちゃん。5個も買ってくれた。3個かってくれたおばちゃんは「友だちにもあげたい」と言ってくれた。

 1個も買ってくれなかったおばあちゃんは「なつかしいね。私、土佐山で育ったのよ」と昔話をしばししてくれて去った。「来週も店を開くかよ」と言ってくれた客もいた。正直、嬉しい。1時間は瞬く間に終わった。

 西岡さんがいま力を入れているのは七輪と土佐木炭(6キロ)の販売。「震災で電気もガスも止まったとき、七輪と木炭があれば大丈夫」というのがキャッチコピー。6キロの炭は約30回の使用だから最低での10日の煮炊きができる。「高知県に10万世帯ある。ということは10万セット売れる可能性がある。売れれば町の人は安心を買うことになり、山の人には炭というなりわいを増やすことになる」のだ。

 まっことよう分かった。僕たちの金曜市での商いは1万4400円となった。西岡さんも「よう売れたね」とほめてくれた。堪ちゃんは「こればぁ売れるのなら毎週売りに来ようかな」と欲を出していた。

 受講生の1人、高田さんはおもしろいことをFBに書いてくれていた。

高知での人との繋がり方はとてもドラマティックでスピーディーだと感じた。自分がどうこうではなく、水が高い所から低い所へ流れるようにただナチュラルに。ただ起こった事をそういうものだと感じることにしよう。そういうものなのだ」

はりまや橋アーケードすごくやわらかい雰囲気の商店街。通行人も出店者とコトバを交わすことをナチュラルに楽しんでいるように感じた。この見えない暗黙の了解にも似たような粋というかアーバンというか。そういうエリアなのだと思った。悪くない

高川の山で切った木を高川の炭焼き小屋で焼いて、切って、売った。都会で炭に火を着けた時土佐山を感じた。何故か山に戻りたい気分になった。炭は山と繋がるアイテム。炭に火を入れる瞬間、山と繋がる。それは自分が体験したからでこそ
DSC_0305700.jpg
 午前中、土佐山アカデミーがある山の頂に五右衛門風呂が出来上がった。さっそく薪に火を付けた。昼に山に上ってきたおちょうさんが嬉しげに風呂桶のへりをなでつけた。

 アカデミーの生活も終盤を迎えている。先週、完成する予定だったツリーハウスは大雨のために休講となり、スケジュール的に僕らの手で完成することができなくなると心配していた。しかし、今日、浜氏先生らがお助け作業をしてくれることになり、こちらも夕刻に完成した。われわれ二期生のモニュメントとなる。

 午後は隣の旧鏡村で炭焼きを始めいまではお玉など竹で家庭用品を制作する下本一歩さんを訪ねた。一歩さんはまだ34歳、10年前に炭焼き窯をつくりたいと思い講習に通い、ほとんど独学で炭焼きを始めた。

 一歩さんのお玉やスプーンは趣味で作り始めた竹細工だった。炭焼きのことが高知新聞に取り上げられ、それを読んだ高知市内の婦人とハガキのやりとりが始まった。その婦人の紹介で高知市内のギャラリーで作品展を行うことになった。たまたまその作品展をみた東京の業者の目にとまり、次々と評判が高まった。今年に入り、イギリスからも注文が入るようになった。

DSC_0314700.jpg 質問されると、しばらく宙を見つめ、とつとつと語る自然児だ。炭焼きはなりわいとして始めたものではなかったが、その延長で竹細工が世に認められた。話しぶりからすると「出会いに恵まれた」ことになる。

 作品づくりは「使えるもの、使いたいもの、満足してもらえるもの」が基本。作業場に作品はほとんどなかった。「在庫はありません。追われてつくっている感じ」だからだ。5年ほど前、子どもができた。生活ができないので辞めようかと思ったときに、半年一生懸命つくってみた。展示会で作品はほとんど売れてしまった。「子どもが生まれたことが人生の分かれ道となったんですね」と淡々と話す。

 一歩さんの作品は家庭用品としては比較的高価だ。お玉は4200円もする。それがちゃんと売れてしまうのだから、ファンからすると高くはないのだろう。一歩さんは「伝えるものをつくりたい」と最後に言った。

下本一歩 竹のお玉 http://shop.wisewise.com/shopdetail/054000000013/order/
DSC_0269700.jpg 12日は横倉山フィールドワークだった。植物は多少興味があるが、岩石はまったく未知の分野だ。高知県は地質学的に非常に興味深い土地柄なのだそうで、4億年も昔に南半球にあった大陸が移動して隆起し、横倉山周辺の表層に突き出ているというのだ。だから日本最古の植物化石の産地ともなっている。かつてナウマン博士も来日したおりにこの地を踏査した。

 案内してくれた安井敏夫学芸員はいかにも楽しそうに「4億年」を繰り返す。「ハワイ諸島は西に移動していて7000万年経つと日本列島とくっつきます」と言われた時は、なにやら嬉しくなったが、「7000年じゃなくて万年ね」とダメを押された。

 考えてみれば7000万年前に人類は存在しなかったから、日本もハワイもへったくれもない。7000年前だってエジプトも黄河文明もない。土佐山アカデミーは100年先を標榜しているが、地質学の範疇では100年など瞬間にもならないのかもしれない。安井さんはそんなことはおくびにも出さず、ニコニコと楽しげに地球の歴史を語ってくれた。

 横倉山は伝承として安徳天皇陵墓が整備されていることで知る人ぞ知る土地なのだが、最大の宝は「コオロギラン」という植物。希少植物としては超一流なのだそうだ。牧野富太郎博士が命名したそのコオロギランがちょうど「開花」しているというのだから運が良かった。

 横倉山の中腹はアカガシの原生林が続く。巨木だ。倒れて腐りつつあるアカガシもある。足下の腐葉土はフワフワしていて絨毯のようなところもある。やがて杉原神社に到着、ちょうど弁当の時間となった。満腹になったころ、安井さんが「ここらあたりにコオロギランが多く咲いています」と言った。

 探してもそれらしき花はない。「小さいですから根元をよく探して下さい」。安井さんの声がした。誰かが「これちゃうかな」といって杉林の根元の腐葉土の上に生えた数センチの物体を示した。なるほどよく見るとコオロギが羽を伸ばしたような花がいくつか点在していた。

 あちこちで「オー」という歓声が上がった。僕たちが見つけたコオロギランがそこに群生していた。 
DSC_0218.JPG 9・11から11年。同時に3・11から1年半の今日。東日本大震災関連ニュースは盛り沢山だったが、ニューヨーク同時多発テロに関するニュースは例年になく少なかった。3・11は風化したのだろうか。

 今日の土佐山アカデミーは、病児保育のNPOであるフローレンスの岡本佳美さんの「伝える力」に関する講義。フローレンスをどうブランディングしてきたか興味深い報告があった。岡本さんは昨日から、ご主人と赤ちゃんを連れて土佐山にやってきた。昼食をはさんでほぼまる1日するどい問答が続いて非常に刺激を受けた。

質疑応答で岡本さんに質問した。

「土佐山の人にアカデミーって何をしているのとよく聞かれる。答えるのが難しい。ブランディングを生業としている立場から何と答えたらいいのでしょうか」

 岡本さんはしばらく考えてこう言った。

「土佐山に村民憲章ってあったでしょう。土佐山にはそもそも人を育てる風土がある。そのコンセプトは輸出できる。そのできることを村の人に理解してもらうことがアカデミーの使命なんではないでしょうか。アカデミーのスタッフも受講生もそれをどう形にしてみせるかを目指すべきなのです」
「NPOってわれわれフローレンスのように問題解決型と価値創造型がある。前者は目の前に見える課題があるが、後者は見えない。だから難しいと思われがちだが、私はそうは思わない。価値創造型には潜在的課題があるでしょ。気づいていない人にとっては大きなお世話になるが、気づいてもらうためのアプローチが重要となると思う」
「土の人、風の人ってあるでしょ。ただ台風のような風では荒らされるだけだが、本来、土の人には風の人が必要なの。外から違う価値観を持ち込んでくれるのは風の人。何を置いていき、何を担うのか重要だ」

 もう一つ質問した。

「先ほどの講義で『未来と他人を理解するのにデータは必要ない』と言った。僕も同感だ。最近、20年先、30年先の話が多く語られる。特に社会保障の分野はそうだ。長年、記者をやってきたが20年前に語られた将来像と現在はまったく違っている。10年先だって分からないのに」
「企業は5年計画、10年計画を公表するが、アナリストたちもまともに受け止めていない。将来の夢を語ることは必要だが、あくまで夢の話。フローレンスでは3年以上の経営計画は立てないことにしている。なぜか。それはムダだからだ」
「ドイツのメルケル首相が脱原発を決めるに当たってデータに頼らなかった。宗教者や哲学者などによる倫理委員会を招集して参考にしたのを知っていますか」

 そもそも僕が土佐山アカデミーにやってきたのは「おもしろそうだ」という興味本位だった。自分の余生をどう生きるか考える場が誕生したという意識でしかない。土佐山をどうするかという課題は村の人々が考えるべき問題であって、本来的には外部の人が口をはさむのは「余計なお世話」なのだ。

 そうはいっても、この魅力的な山村がこのまま衰退するのを見て見ぬ振りはできない。この2カ月半、自分の中にそんな問答を繰り返してきた。モノ中心の町おこしばかりが叫ばれる中で「学舎」を標榜するアカデミーはユニークであるに違いない。

 岡本さんがいうように「憲章」にある「学び」とアカデミーの発想は同じベクトル上にある。

DSC_0221700.jpg
 賀川豊彦の伝記を書いたことでも著名なアメリカのロバート・シルジェン氏の講演を昨日、徳島市まで聞きに行った。この人は全米最大の生協だったバークレー生協の広報誌の編集長だったが、現在は環境問題を取り扱うSierra Clubの機関誌編集長である。

 賀川豊彦の縁で、2012国際協同組合年のイベントとして招聘され、東京、神戸、徳島で「環境・エネルギー問題と協同組合」と題して連続講演した。

 かつては生活者のために協同する組織だった協同組合はいまこそ「環境とエネルギー問題」で力を合わせなければならないことを強調した。

 シルジェン氏は「アメリカはすでに化石燃料の確保のためにイラクで戦争をしてしまった。決してイラク国民の解放のためではなかった」と断言し、「第二次大戦すら日本とドイツがエネルギー確保のために始まった」と述べた。

 賀川豊彦の『Brotherhood Economics』(友愛の政治経済学)については「いまこそ読まれる本である」「日本語訳が最近ようやく出版されたことを日本に来て知って驚いた。もともとアメリカで協同組合運動を広めるために船中で書いた」「1930年代に世界経済が破綻したとき、資本主義でもない、共産主義でもない第三の道を模索した」「Brotherhoodというクリスチャンの教えを実践に移そうとした」などと高く評価した。

 協同組合の第一にやるべきことは「Save Energyの教育だ」と強調。「省エネを第5のエネルギー源と位置付けるべき、20%の省エネをやった友人がいる。できるということである。日本の原子力の依存度が26%であると聞いている。20%の削減は原発の発電量に相当する」。とした。

 次いで「再生可能エネルギーの啓蒙」が不可欠だとした。アメリカのBasin Electric Powerという協同組合はノースダコダ州を中心に中西部136の会員協同組合を通じて280万人の消費者に電気を供給している。10%は再生可能エネルギーであり、大半は風力から調達していることを紹介した。

 興味深かったのはSierra Clubの「Carbon Offset」という活動だった。「航空機で移動したとき、その距離で輩出する二酸化炭素量に応じて運賃を余分に支払い、スマトラの水力発電やインドでの廃棄物発電の資金にしてもらおうという運動だ。みんなに強要するのではないが、支払いたいという人は決して少なくないのだ」という。

 エネルギー問題は「退屈なのだが、エキサイティングでなければならない。楽しみや娯楽にしよう。コンペがあってもいい」という提言にはうなずかされた。
DSC_0271700.jpg 高速の高知道で大豊町に入るとすぐに「太平洋まで50キロ」というサインが登場する。誰が考えたのか、いい響きの看板だと思う。

 JR土讃線も高松から百いくつのトンネルを抜けると視界が急に開けて明るい南国の空が広がる。その先の大海原を予想させる瞬間である。それほど高知は太平洋のイメージが強いのである。楽天的な県民性はその太平洋のおおらかさがもたらしたものなのかもしれない。

 水平線のかなたには何もないが、時代を遡れば、そのずっと先のミクロネシアとの行き来があったかもしれない。そもそもアカデミーのスタッフリーダーの内野加奈子さんは5年前、ハワイからミクロネシアの古代船「ホクレア」に乗って日本にやってきたことがある。

 逆に明治期に高知からミクロネシアに渡った日本人がいる。森小弁といい、自由民権運動に敗れて南洋開発に携わるうちにトラック諸島の酋長の娘と結婚し、現在、子孫は3000人にまで増えている。トラック諸島はその後、チューク諸島と呼ばれ、ミクロネシア連邦の1洲となった。大統領のマリー・モリはその4代目にあたる。

 ちなみにパラオの初代大統領、クニオ・ナカムラ氏は伊勢市の船大工の末裔である。

 4代で3000人に増えるというのはにわかに信じがたい。日本が第一次大戦後に統治したとき、戸籍制を導入し、名字をつけさせた。どさくさまぎれにモリ姓を名乗った人も少なくないのではと考えているが、人口10万人の連邦国家の中に森姓が3000人もいることは心強い。

 土佐山にはもちろん海はないが、瀬戸内海の海の民たちがそのむかし、山に追い込まれ、さらに南下して土佐山までやってきた。何十世代も後の子孫たちが、ついに南の明るい高知の平地に到達して海原を見つけた感慨は決して小さな物ではなかったはずだ。もちろんその時、ミクロネシアの子孫たちとも海岸線で出合っているはずである。

 土佐山にはぜひとも「太平洋まで20キロ」の看板を掲げたい。

 森小弁については高知新聞の記者がかつて連載記事を書き、『夢は赤道に-南洋に雄飛した土佐の男の物語』として出版された。

 尖閣諸島をめぐる日中の領土問題や、普天間基地へのオスプレイ配備をめぐる動きなど、昨今、マスコミで沖縄のことが報じられない日はない。そういえば、沖縄振興策として鳴り物入りで導入された日本で唯一の経済特区(一国二制度)、沖縄特別自由貿易地帯(フリートレイドゾーン)はどうなっているのか。そう思っていたら朝のNHKラジオのビジネス展望というコラムで、フットワークの良さで定評のある経営学者の関満博氏が、その近況を報告していた。

 東日本大震災後、あらためて沖縄経済特区の立地とその仕組みが注目されているというのだ。

 1999年3月、経済特区は沖縄本島中部東岸の中城(ナカグスク)湾の埋め立て地400haのうち122haの区域が経済特区として指定された。特区内では保税制度が活用でき、輸入原材料にかかる関税を保留のまま、加工した製品を輸出できる。さらに進出した企業は、日本の法人税の実効税率が約40%なのに比較し、設立5年までが19.5%、6~10年までが23%と中国の特区に近い優遇税制が受けられる。関氏によれば、特区は分譲区画と賃貸工場の区画に分かれていて、分譲区画は大半が空いているが、賃貸区画は本土から約20社が進出し、ほぼ一杯とのことだ。

 沖縄の2次産業は建設業が中心で、機械、電気などモノづくり系産業を誘致・育成することが沖縄県の悲願となっているが、進出企業の多くがモノづくりの基礎となる金型等の素形材産業が占めるという。

 たとえば半導体製造装置に組み込む流量計などのトップメーカーである東京計測は東日本大震災後、10日もたたないうちに特区への進出を決定したという。同社の生産拠点が東日本に集中していたため、リスク分散を図ることが狙いだ。しかも、沖縄は今後世界経済の中心となる東アジアの真ん中に位置している。
 http://www.pref.okinawa.lg.jp/tokku/point/05/index.html

 さらに関氏によれば、沖縄では琉球大学工学部、沖縄工業高等専門学校や工業高校8校から、毎年約2500人の理系の新卒が輩出されている。高いといわれる電気代も冬場暖房が要らないため通年では本土並み。欠点としては部品・材料関連の周辺産業が乏しいため運賃負担が大きいことくらいだという。ちなみに沖縄本島は近代的な地震観測を開始以来、震度5以上の地震は1回しかないそうだ。

 沖縄というと国防や領土問題ばかりがクローズアップする昨今、沖縄のポテンシャルをもう一度見直す必要がある。

 もう随分前になるが沖縄大学の緒方修氏(現在、地域研究所所長)に那覇市内の綺麗に管理・整備された孔子廟に案内されたことがある。聞けば、台湾政府も管理費を負担しているそうだ。この孔子廟が立地する久米は琉球王朝のブレーン集団・久米三十六姓に由来するが、緒方氏によれば久米氏はリー・クワン・ユーや鄧小平などと同じく客家を出身母体とするという。また、現在も大勢の沖縄の若者が対岸の福建省アモイ大学に留学しているとも聞いた。

 8月22日の毎日新聞(夕刊)で、沖縄近現代史の新崎盛暉氏は「尖閣諸島をめぐる日中の一部の人たちの挑発合戦にもっとも迷惑しているのは沖縄だ。......最も近く、漁業で利用してきたのは沖縄だ。日本が台湾を植民地にした時代、漁業技術の進んでいた沖縄から台湾へ指導に行き、台湾から尖閣周辺に出漁するようになった。一方、台湾の農民が石垣島でパイナップル栽培を教えた。尖閣諸島が共栄圏になっていたのだ。この歴史を参考に、沖縄や台湾の漁民、歴史研究者が時間をかけて話し合えば良い方向に進む。こういう平和的解決を探るべきだ。......米国は沖縄を施政権下に置いていたのに尖閣の位置づけをあいまいにした。日本に紛争の種を残しておく方が、日本を日米同盟に縛り付けるのに有利と考えたのではないか」と述べている。

 ところで、地震の話に戻るが、先日、南海トラフ地震の政府による被害想定が出され、あらためて被害の甚大さに衝撃を受けた。しかし、東日本大震災から、すでに1年半が経過するのに首都機能移転の議論がなされないのは、どういうことだろう。もちろん、震災後の復興支援策や除染を優先させなければいけないが、今回の大震災でも地震予知が不可能なことをあらためて知らされた。早めに準備を始めた方がよい。

 経済面で日米を機軸に据えることはすでに過去のことになりつつある。とすれば太平洋側から、アジアに近い福岡県や富山・新潟県あたりに遷都することも考えられる。

 世界史が大きな転換点を迎える今、明治以来続いてきた日本という近代国家が制度疲労を起こしている。そろそろ新しい設計図が必要だ。
DSC_0219.jpg 火曜日の授業は「会社」とつくるというブレーンストーミングだった。土佐山を拠点に何ができるか、3チームに分かれて考えた。僕らのチームは「猪竹山水舎」という名前の協同組合だ。「ちょちく」と読ませるか「いのたけ」と読ませるか決めていないが、山の仕事をアミューズメントに仕立てて「入場料」を取ろうという魂胆である。

 僕が土佐山でやりたいのは木工と野菜づくりである。土地と木材はなんぼでもある。場合によっては山から切ってくることもできる。

 木工は昔からのあこがれである。都会ではまず場所がない。道具もない。アメリカの多くの家には広大なガレージがあって、わくわくするような電動工具が多く並んでいる。材料さえあれば自分で何でもつくってしまおうというのがアメリカ人気質である。

 土佐山での生活が2ヶ月を超えてきたが、農家がそれぞれ作業部屋を持っていることに驚いた。木工の電動工具はないものの、農機具の他、木や竹を切る道具には事欠かない。アメリカのガレージを思い出したのである。おかげでのこぎりとナタの使い方は相当熟練したと思っている。

 高川地区に斎藤工芸という木工所がある。土佐山夢開発公社のかなり広い土地に作業場があるが、そこは斎藤さんちであり、だれでもが作業をさせてくれるものではない。僕が夢見るのは会員が週末に木工をできる空間である。だれでも入場料を支払えば、1日遊べる空間である。

 共有空間には一定の電動工具が自由に使えるほか、自分の工具を持ち込みたければ、その空間を提供するし、自分の作業部屋を設けたければ「84ハウス」を建ててもいい。84ハウスは高知の山の知恵を集めた84プロジェクトの売り出している「小屋」で、3×3メートル四方の広さで数時間で組み立てられる。もちろん素材は高知の間伐材である。

 猪竹山水舎は木工所のほか、耕作放棄地となった畑や田んぼも借りていて、希望に応じて「農耕」も出来るようにする。この場合、猪竹山水舎が行う農耕を手伝う方法と小さな土地を占有する方法と二つ考えている。

 頭の中で考えたことだが、初期経費が100万円ぐらいかかるため、組合員に出資を促すことにする。1口=1万円で募集したら、どうだろうか。また木工所や畑には週末には10人ぐらい、ウイークデーでも3、4人が来るだろうから、最低でも月に150人来場することを想定すると15万円の収益となる。

 家賃と畑の賃料、光熱費を差し引くとなんぼも残らないだろうけど、そんなアミューズメント空間を求めているシニアが相当いるのではないかと考えている。

 そんなことを夢想していたら高知新聞に「土佐町『大工の学校』解散 横領の2億円債権放棄」という悲しい記事が掲載されていた。嶺北4町村(土佐町、本山町、大豊町、大川村)などが1991年に第三セクター方式で財団法人「土佐人材養成センター」を設立、大工育成施設として注目を集めたという。大工の学校は通称である。お金があるとろくな事が起きないという例である。
 http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=292856&nwIW=1&nwVt=knd

 僕らが考えているのは人材養成などという大それたことではない。学校や塾はいらない。山の仕事をアミューズメントにしてシニアが気軽に時間を過ごす空間をつくりたいだけの話である。どう思いますか。

tsunami.jpeg 今日、高知市の植野勝彦さんが、7月に上海で作家の于強さんと出合った話をしてくれた。于氏は7月末、 文匯出版から『海嘯生死情』を上梓したばかり。東日本大震災による津波で20人の中国人研修生を避難させた後、命を絶った宮城県女那川町の水産加工会社の佐藤充専務の話に感動して書かれた小説だ。

 尖閣列島問題が再び日中間で再燃し、日中の世論が激しく揺れ動く最中だったため、残念なことに、この出版は大きく取り上げられることはなかった。植野さんは長らく日中友好協会高知支部の幹部として両国の友好に尽力してきた人で、双方のマスコミによって煽られる日中対立に胸を痛めている。

 于氏は日中関係を素材に多くの小説を書いてきた。今回はその第5弾。当時、佐藤専務の美談は中国のメディアを通じて大きく報道され、中国のネット上でも「感動した」との書き込みが相次ぎ、多くの感動を呼んだ。その5月に来日した温家宝首相も「国籍にかかわらず救助した。高く評価している。災難の中で得た友情はとても大切で貴重だ」と最大限にたたえた。

 そもそも于氏が小説を書くきっかけとなったのは、于氏が安徽省馬鞍山の外事弁公室にいたとき、日本人孤児の古蓮雲(日本名=西山幸子)さんとの出会ったことだった。共同通信社の辰巳知二記者による記事「日中の人間ドラマ紡ぐ作家」によると、
古蓮雲は終戦の翌年、大連で中国人に預けられ、中国人として育った。文化大革命の最中、夫に日本人であることを告白したことから苦難が始まった。于氏と出会ったとき「ぼろぼろの服を着て、何を話してもすぐ泣き崩れてしまった」という。

 その光景がそもそも小説家を目指していた于氏の創作意欲を書き立てたのだった。
日中の友情を題材として小説を書き続ける于氏に日中の度重なる騒動はどう映っているのだろうか。まもなく『海嘯生死情』の日本語訳が出版される。

このアーカイブについて

このページには、2012年9月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2012年8月です。

次のアーカイブは2012年10月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ