2012年7月アーカイブ

P1000990700.jpg よさこい踊りのシーズンがやってきた。ここ数年は山中千枝子さんという元越知町の小学校の校長先生が主宰する「響よさこい国際交流隊」で踊っている。今年は辞めようと毎年思いながらも山中先生と会ってしまうと断り切れなくなりずるずると参加を続けている。なんと今年は連のスタッフに"昇格"してしまった。

 土佐山アカデミーは昨年、福島県の「ワンダー浪江」の踊り子たちのお世話をしたことから今年は本格的に受け入れることになった。浪江の踊り子たちは菖蒲地区の公民館で宿泊し、市内に繰り出すことになる。受講生は特待生として連に招待されているが、僕は一人国際交流隊で踊ることになる。すでに練習は3回ほど参加した。

 国際交流隊は元々、高知県の肝いりで発足した。県内在住の外国人にもよさこいの門戸を開こうと始まった事業だが、数年で助成金が途絶えてしまった。後は山中先生の奮闘で活動が続いている。貧乏所帯であるから他の連のように市内の移動にバスはない。ひたすら歩く苦行を強いられる。その分参加費は格安である。いつもは50人内外のチームであるが、今年はAEONのショッピングセンターに参加申込書を置かせて貰ったところ、120人を超える申し込みがあった。

 もう一つ高知工科大学が中国とタイからそれぞれ5人ずつよさこいへの参加者を募集したため国際色が一層強まっている。彼らは8月5日に高知に到着し、速成でわれわれの踊りを習得してもらうことになっている。中国とタイとの橋渡しをしたのは工科大学に勤務する僕の姉だった。日本の若者が熱狂する「よさこい」にアジアの学生も巻き込もうという魂胆である。

 何を隠そう、山中先生と僕は国際交流隊をクアラルンプールに"輸出"した実績を持つ同志なのだ。2002年は地元のショッピングセンターで踊り、2003年は5万人が集まる世界最大のBONODORIに参加した。記者会見をしろという地元メデイアに応えたこともあった。中国語で「鳴子舞」というよさこいの中国名を即興で考えたのもその時だ。翌日の華字新聞にそのまま使われていたのには吃驚した。ちなみに現在、高知県のオフィシャルページでは「夜来節」で表現している。
DSC_0253700.jpg 7月27日(金)。前回の日記から一週間が経った。今週は安芸市の山奥の土佐ジローの里を訪ね、株式会社相愛の会長でもある高知工科大学の永野正展教授のインタビューがあった。土佐山の斎藤工務店で木のスプーンもつくった。その間にアクアポニックの管理、スタードーム作り、畑仕事もあった。

 今日は土佐の文化を守る会事務局長の岩井信子さんによる「暦を読み、自然を読む」という講話を聞いた。メモをもとに岩井さんの話を再現すると以下のようになる。

「今日は旧暦でいえば6月9日です。6月はよく雨が降り雷も鳴ります。だから高知では"お鳴り月"と言っていました。鳴神月ともいいます。雷が神さまなのです。日本の古い表現が比較的よく残っているのが高知県と長野県なのです」
「雷さまのことを高知では稲むこ様と呼んでいました。田んぼは女性で、梅雨時に雷となった神さまが田んぼにやってくるのです。雷のことを稲妻というでしょ。本来は稲夫でなければなりません。夫も"つま"と読むんですから」
「そして今日は土用の九日目ですね。大暑と土用が同時進行しています。むかし土用には十八日あって、太郎、次郎、・・・・、十八日目は十八郎(とはちろう)って言っていましたね」
「暑中見舞いってあるでしょ。かつては土用見舞と言いました。一緒に厚い夏を乗り切ろうということでハガキを出しました。よく餅を食べました。体力をつける意味で土用シジミとか土用卵とかも食べました。栄養価の高いと解釈していたのでしょう。土用のウナギは平賀源内がウナギ屋に促されて書いたもので、広告のたぐいです」
「月の読み方は稲作と関連が少なくない。6月を鳴神月と呼ぶのもそうですが、7月を文月(ふづき)と言うのは"ふふみ"つまり稲が穂を含むことからで、8月は穂が張るために"張り月"ともいいます。9月の長月は穂が長くなることを意味しているのです」

 弾むように楽しく話が進む。日本が西洋のグレゴリオ暦導入を決めたのは明治5年11月9日。その年の12月3日を明治6年の正月とすると決めたから世間は大騒ぎとなった。歴史教科書にはちゃんと書いてあるが、その騒動については記述がない。

 庶民にとって徳川の時代から天皇親政に変わって一番大変だったのは暦と通貨の変更だったのではないかと思う。テレビもラジオもない時代にたった23日で暦を変えろというのだから大変だ。まず明治6年の暦はすでに発売されていたから暦業者は大損を背負った。誕生日がなくなった人も少なくないはずだし、2カ月先に来るはずだった正月の準備はもっと大変だった。当時は盆と暮れに取引の手じまいをしていたから金策に困る人が大勢いたはずだ。人々にとって「晦日に月が出る」ことは太陽が西から出るほどの驚きだった。

 岩井さんによると当時、新暦導入の急先鋒だった福沢諭吉は『改暦辨』という本を書いて「日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい」と書いた。

 それ以降、われわれ日本人は新暦ですべての物事を考えるようになってしまっているが、アジアの他の国々のように農業や祭祀などの年中行事は旧暦を残してもいいのではないかと思うようになった。季節感を失った民族はそもそも民族性を失ったに等しい。

 以下は岩井さんに教わった古い月の読み方。
 1月 祝い月、太郎月
 2月 次郎月
 3月 竹秋月
 4月 麦秋月
 5月 早苗月(サは田植えに関係する)
 6月 夏越し月、鳴神月、お鳴り月(高知)
 7月 含(ふふ)み月、盆月、花折れ月(花はシキビ)、女郎花月
 8月 張り月、花月、萩月
 9月 穂長月、菊月
 10月 神無月
 11月 霜月
 12月 雪月
               平岩 優(ライター&エディター)

2010092409313519.jpg 日本でも再生可能エネルギーの買取制度がようやくスタートしたが、先進するヨーロッパではこんな話がまことしやかに喧伝されている。

 スコットランドでは、現在、スコットランド民族党が地方議会で多数派となり、英国からの分離独立運動が再燃している。独立後、そのスコットランドの屋台骨を支えるのが、洋上風力発電だというのだ。スコットランドでは、1960年代にも、沖合に北海油田が発見されたことで景気がよくなり、独立機運が高まったことがある。風力発電は電力を生むばかりではない、かつて盛んだった同地の製造業を再生する梃子になると期待されているのだ。

 そうした話が飛び交うほどに、いまヨーロッパでは、各国の洋上風力発電プロジェクトが目白押しだ。とくにその先頭を走っている英国の動きは突出している。

 つい最近、日本風力発電協会を訪れ、壁に張られたヨーロッパのウインドファームの分布図を見て、驚いた。英国の洋上ウインドファームといえば、ノースホイル(60MW)、世界最大といわれるサネット(300MW)などが知られているが、地図上の英国周辺海域にびっしりと開発計画エリアが書き込まれていたからだ。

 ラウンド3と呼ばれる英国の巨大プロジェクトの開発区域は9つで、開発が完了するのは2020年である。総事業費約13兆円、風車の数約7000基、総発電能力32GW。関西電力最大の大飯原発3号機の出力が1.18GWであるから、ざっと原発32基分に匹敵する。

 ヨーロッパでは1986年のチェルノブイリ原発事故後、デンマーク、ドイツから風力発電が広まっていった。1990年代後半には、陸上が飽和状態となり、風力発電の建設が洋上へ波及する。中でも、英国では地域住民の反対にあい陸上での風力発電の建設許可が得られず、早くから官民をあげて洋上風力発電の基盤整備に乗り出した。たとえば英国では風車を建てる大陸棚の所有権が王室にあり、利用するためには王室の資産管理を行なう機関とリース契約しなければならない。そして2001年にはラウンド1(1.5GW)が、2003年にはラウンド2(7.1GW)のプロジェクトがスタートした。

 英国以外でもドイツが2030年までに北海・バルト海に25GWの洋上風力発電を、オランダは2020年までに6GWの洋上風力発電を計画している。ちなみにドイツでは電力の16%を賄う再生可能エネルギーのうち風力が4割を占める。風力先進国デンマークでは電力の約26%が風力で賄われている。またスペインでも電力の約16%が風力由来であるが、2012年4月16日早朝には全消費電力の60%以上を風力発電の出力が占めたという。

 ヨーロッパを中心に多くの風力発電プロジェクトにコンサルタントして関わるGLガラードハッサン社の日本法人社長、内田行宣氏は「2011年、ヨーロッパで建設された風力発電のうち洋上風力発電は1割だが、2020~2030年には5割に達する」と予測する。

 風力発電の部品は1万点以上といわれる。風力発電が産業として成り立つためには、風車メーカーだけではなく、タワー、発電機、ベアリング、制御装置、さらにそれらの素材となる鉄鋼、FRPなどサプライチェーンが必要となる。内田氏は「洋上風力発電のサプライチェーンは成長期に入り、産業段階に移行した」と断言する。

 そもそも当初は陸上の風車をそのまま洋上で使用したが、整備・保守を容易にするために改良されたり、障害物がないので5MW以上の大型化が可能となるなど、洋上向けの風車が続々開発されている。また、水深5~10メートルの沿岸部には適地が少なくなり、現在、開発は沖合の水深50メートルの海域に移行している。そのため、工法も海底に円柱形のモノパイル基礎を打ち込む方式から、トライポッド(三脚)による着床式などに移行している。さらに深い海域でも可能な浮上式風力発電の実機による試験もノルウェー、ポルトガルで行なわれている。

こうして洋上風力発電市場が形成される中で、斜陽化した造船所が買収されて、トライポッドの製造・積み出し基地に再生され雇用を生み出すなど産業の新陳代謝も活発だ。深い海域の建設作業にも対応できる専用船舶や風況を簡易に計測するシステムも開発されている。

 ヨーロッパではEU指令により、2020年までに域内の消費電力の20%を再生可能エネルギーで賄う計画であり、もはや後戻りはない。

 そういえば、先日、日本の風力発電のメッカの一つである長崎県のメンテナンス事業者が全国の風力発電所から受注しているという話を聞いた。早くからグリーンエコノミーの掛け声ばかりが目立つ日本。再生可能エネルギーの導入に弾みがつくかどうか、最後の正念場を迎えている。

 世界最大の洋上風力発電所、サーネット・オフショア・ウィンド・ファーム。英国南部のケント沿岸にて。2010年9月23日(ロイター)

22132_600x600.jpg どうでもいい話だが、先日、財団法人霞山会でThink Asiaの編集会議の議論で面白い話があった。最近、中国でマヨネーズが人気となっていて、それもキユーピー(丘比)の製品でなければならないのだそうだ。北京ではなん と85%シェアなのだそうだ。中国製もあるだろうし、アメリカやヨーロッパは本家なのに日本のキユーピーだけが売れているのはなぜか。

 中国語の専門家が多くいる会議で誰もマヨメーズの中国語を知らなかった。ウィキペディアで調べたら「蛋黄醤」(タンホアンジャン)ということが分かった。マヨネーズは油と酢と卵でつくるが、卵の黄身でつくるのはキユーピーだけなのだそうだ。ここらに人気の秘密があるのかもしれないし、チューブ容器に入っているのは日本だけなのかもしれない。

 かみさんに輸入物のマヨネーズの容器を聞いたら「ガラス瓶」に入っているといっていたから、たぶんそうだろう。

 中国でのマヨネーズ消費量はまだ日本の数十分の一だから、中国での消費量が日本並みになるとキユーピーという企業は大化けするかもしれない。そんな予感がするというのが今日のどうでもいい結論である。


 てなことをFacebookで書いたら、コメント欄がいつになく賑わった。「蛋黄醤」という表現は聞いたことがなく、普通は「美乃滋」というのだそうで、勉強になった。と思ってさらに調べたら中国で売っているキユーピーマヨネーズの写真がウエブ上にあり、商品名は「丘比沙拉醤」と書いてあるではないか。中国でも「蛋黄醤 沙拉醤 美乃滋?」の議論があるのだ。
DSC_0590plus.jpg 7月20日(金)。朝から晴れている。夏空になりそうだ。昨日は長躯車を走らせ、旧物部村谷相を訪れた。常滑から移り住んだ陶工の小野哲平さんと布作家の早川由美さんが暮らしている。ともにその道では知られた人であるが、僕は知らなかった。アカデミーには二人の著作やDVDがいくつかあった。

 若いころは子ども連れでアジアを歩き回る奔放な生活を続け、いったん常滑に住んだが、1998年、哲平さんの作品の展覧会が高知で開催された時に谷相を紹介されて永住を決意した。哲平さんは最初から直感的に「山の上のこの地だ」と気に入ったが、由美さんによれば「私も子どもたちも常滑に帰りたいと毎日泣いていた。でも今は本当によかったと思っている」という。

 谷相は雲の上とまではいかないが、物部側に沿う県道から細い林道を30分近く上ったところにある。周囲はハウスと田んぼの段々畑が広がる。アカデミーのフィールドワークの一環として二人から「生き方」や「暮らし方」を学ぶ授業だ。

 冒頭、受講生は「自己紹介」を"強要"された。哲平さんの遣り方なのだろう。金さんが「学校でITを習い・・・家具職人になりたくて・・・庭師の見習いに・・・」と話はじめると、哲平さんが「ぐるぐる回っているだけじゃないか、早く家具をつくれよ」とするどく切り返した。言外にアカデミーなどで学んでいる場合でないというようなことを言った。「主体は自分の中にしかない。他者に頼るとかじゃなくてやりたいことを自分でやるというのがおれたちの選択だ」

 植松さんが「ウエブデザイナーを11年やってきて、好きだったが、辞めてしまって・・・」。ここでもするどく突っ込まれた。「好きなら続ければいいじゃないの。一人でやってみればいいじゃないか。経営できるとかできないかじゃなくて、あなたのウエブが欲しいという人は必ずいる。そういう思いでやればいいんだ。強い思いがあれば結実するものだ」

 気まずい雰囲気になった。短い一言一言すべてにうそはない。反論すらできない。そこにスタッフの内野さんが柔らかく受講生の質問を代弁してくれる。

「みなさんは哲平さんたちがどうやって村の人たちに受け入れられていったか興味があるんです」

「常滑にいた時は一切地域との関わりがなかったが、子どもを学校にやるようになり地域との関係ができ、おんちゃんやおばちゃんが好きになった。PTA会長をやったり、区長もやるようになった。ここで一生を、と思ったことは大きい」

 哲平さんはつまり、村の人たちとの距離を時間をかけて縮めていったというのだ。

 由美さんの方はちょっと違う。農業を通じてご近所との対話をどんどん拡げていった。梅取りの楽しさ、栗の木を3本植えた話、ハチを飼い始めたこと。

「ここで暮らすことが知恵なの」
「村の人の手の力にすごいものがある」
「種つくって次の世代につなぐことができるかな」
「村の経済学って書けないか考えているのよ」

 村人の名前が次々と出て来てあふれんばかりの笑顔をふりまく。男と女の違いもあるだろうが、ともに村と生きる人間となっていたのが印象的だった。 ここまで書いていると外は大変な雨になっていた。

 哲平とユミ http://www.une-une.com/
 近視眼的消費税増税を是正せよ 龍谷大学社会学部 教授 中野有

 世界と比較して日本の消費税は低い。少子高齢化社会に対応した「大きな政府」に伴う消費税増税は否定すべきでない。しかし、民主党の公約違反も然りであるが、増税前にいくつかの税収を増やす戦略を語らずして何が民主国家であろうか。

 三人の経済学者の視点で問答してみたい。

20120705.jpg

 まずは、自由貿易と比較優位を唱えた古典経済学派のデビット・リカード。 「リカード中立命題」で示されているように福祉政策などを含む財政政策は将来の更なる増税を引き起こすことが予測されるので国民は消費を控えるので経済成 長が妨げられる。不景気や将来への不安が蔓延する状況の中で、一般市民の生活に直結する消費税を上げることは何のメリットもないと考えられる。

 第二は、レーガン政権の双子の赤字の解消に貢献したマネタリストでノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマン。増税や財政主導で経済に渇を入れるのでなく、貨幣の供給量を一定のルールに則って増加させることで経済成長が達成されるという視点。

 円が実力以上に評価されているのは、単純に円のマネーサプライと比較してド ルとユーロの市場への供給量が2倍ほど多いことに起因している。とすると、円のマネーサプライをドルとユーロの供給量に一致させ一定のルールに従って増加 させることにより極端な円高の是正が可能となる。マネーサプライを増加させることで相対的に円の価値が落ちる。このような政策を実施できるのも円高という 状況にあるからであり、そのメリットを活用できる絶好のタイミングである。

 マネーサプライを増加させてもそれが消費や投資に回らなければGDPは増えない。GDPは、消費、投資、政府支出、輸出と輸入の差である。従って、経済を活性化させるためには、マネーサプライの増加分が貯蓄に吸収されるのでなく市場に出回らなければならない。

 マネーサプライの増加分を市場に供給する方法はあるのか。3・11により人 命やインフラの被害のみならず、たんす預金として貯蓄されていた莫大な円が海に消えた。仮にその額が数兆円と仮定すれば、その同額を印刷し、復興支援とし て各家庭に提供すれば良いのではないだろうか。そして、そのために増刷されたお金は、必然的に消費に回すように規制を加える。3・11で消滅した現金は、 本来市場に出回るお金であるので、それを補充するために増刷されたお金は復興支援のための正義であると考える。

 第三は、トービン税の実現にある。 1981年にノーベル経済学賞を受賞し たジェームス・トービンは、為替投機の抑制のために外国為替取引に対して定率の税を課すトービン税を提案している。毎日36兆円売買される日本円の外国為 替に1%の税金をかけるだけで、日本政府は年間132兆円の税収を得ることができるのである。

 現在の国税と地方税を足しても100兆円である。消費税を1%上げても2兆 円である。経済の不安定要因の本質は、金融のギャンブルにある。投機を抑制することにより、世界経済は実体経済で動く。市場経済には限界がある。故に、余 りにも無謀な投機による市場経済を抑制するトービン税の導入により、日本経済の復興と世界経済の秩序が構築されるのである。日本は余りにも急速に資金を蒸 発させたが、トービン税の導入により、それを取り戻すことができるのである。

 少子高齢化の問題を解決するためには消費税は必要であろう。しかし、リカード、 フリードマン、トービンが提唱している政策の一部をタイミング良く戦略的に実施することが現在の日本の閉塞感を打ち破り楽観的な市場を形成する意味でも期 待されているのではないだろうか。これらを試行錯誤してから消費税増税を実施したほうが福祉に必要な財源が確保されると考えられる。


DSC_0763700.jpg 7月19日(木)。昨夜来の雨が続いた。土佐山の雨はというより高知県の雨の降り方は凄まじい。雨粒が跳ね返って下からも雨が降るという感じである。その昨夜は菖蒲という土佐山で一番東の地区の杉本商店で酒を飲んでいた。

 杉本さんは元みずほ銀行の銀行マンだった。定年を待たずに帰郷し、お店を引き継いだ。土佐山には見た限り商店が五つしかない。二つは地元の農産品を中心とした直販店、一つは農協のAコープを引き継いだ土佐山ストア。後二つは杉本商店と桑尾地区にあるもう一つの酒屋。杉本商店は高知新聞の土佐山での販売店でもある。朝4時に起きて新聞を配達した後、高知市内まで車を走らせて市場で食料品を仕入れて販売する。夕方からは店先に村人が寄り合って飲み屋に変身する。だから村で一番営業時間が長い。土佐山アカデミーのスタッフたちは杉本バーと呼ぶ。

 昨夜は杉本さんと僕と後二人お客がいた。僕は缶ビールを飲んでいた。杉本さんが二人を紹介してくれた。一人は永野さんでもう一人は岩崎さん。岩崎さんに名前を聞いたら豊秀という。何やら戦国時代にいても良さそうな名前である。祖先は伊予の河野一族で戦国時代に高知にやって来て長宗我部に仕え、山内の時代になって土佐山に逃れた。だから豊秀という武将のような名前を持っていてもおかしくない家柄なのである。

 杉本さんが「伴さん、この岩崎さんの祖先は有名人ぜよ」といった。「鏡川ですか」「そうそう」。鏡川は「きょうせん」と読む。土佐山を源流として西に流れ180度回って浦戸湾に流れる川の名称であるが、こちらは「かがみがわ」と呼ぶ。

 岩崎鏡川は本名秀重といい、明治7年に生まれ、大正15年に亡くなった。村史によると「村不出世の文筆家」ということになる。祖父の秀生(ひでなり)は菖蒲の白山神社の神主で桜陰(おういん)という雅号を持つ国学者でもあった。鏡川は地元の小学校を卒業した後、高知市の中学に入り、中退して東京に出て出版や新聞編集に携わった。明治維新史に没頭し、名前が残ったのは「坂本龍馬関係文書」を編纂したことによる。この文書はその後の龍馬研究者のバイブルのような存在になったためだ。

 今も土佐山菖蒲1441番地にその家が残り、豊秀さんが住んでいる。ただ鏡川は村を出て帰って来なかったので家は鏡川の弟が引き継いだということらしい。

 杉本バーは酒飲みの僕にとって理想の飲み屋だ。一時期、飲み屋をやりたいと思ったこともある。しかし自分が酒に飲まれて勘定を取れなくなると思った。だが酒屋の店先でやれば少なくともビール代とあての缶詰やら乾き物の代金はいただける。ご近所と楽しみながら「損」をしないで営業ができる。そんな思いが頭をよぎる。

 アカデミーのスタッフによると今、土佐山で一番元気のいいのが菖蒲地区らしい。村唯一の「バー」もあるのだからそりゃそうだ。

 土佐山14の地区では年に2回氏神様の祭りを行うが、菖蒲だけは8回も行っていると説明するがそれだけではない。15日の日曜日に年に一度だけのビヤガーデンが開かれたが、200枚発行する3500円の前売り券はあっという間に売り切れるそうだ。高知市内からも大勢やって来る。今年は来なかったが現知事の尾崎さんも常連で、元防衛庁長官の中谷元さんも顔を出していた。村のビールを飲みに20キロ、30キロ車を走らせて来る楽しい一夜だ。断っておくがみんな帰りは代行タクシーである。

DSC_0753700.jpg 7月18日(水)。村の野菜などを売っているバルという小さな店で昼ご飯を食べていると、アカデミーの内野さんもやってきた。四国地方は梅雨明けだと聞いた。ここらでは昨日から夏空が広がっている。真っ青な空と雲、そして山の深い緑のコントラストがいい。

 村では祭りが多い。17日は旧暦6月20日、高川地区で虫送りがあった。蝗送りともいい、春から夏にかけて火を焚いたり鉦や太鼓で悪霊を村から追い出す祭りだ。普通はわら人形をつくって悪霊をかたどるのだが、高川では大きなわらじに木の大刀を貫き通したものに笹に人形をくくりつける。大わらじは村の境に立てられて一年間の豊作や無病息災を祈る。大わらじはダイダラボッチを連想させる。そして村人には呪文を書いたお札とビワの葉が配られる。

 かつてそれぞれの部落であったが、今では高川だけに残る。高川の虫送りの面白いのはお堂で行われることだ。以前に土佐山に寺がないと書いた。しかし地蔵堂というお堂はあった。ただ僧侶がいない。京都から毎年坊さんを招いて、京都の地蔵盆のように読経に併せて何メートルもある数珠を参加者がぐるぐる回す行事が始まる。虫送りと地蔵盆が合体したものが高川の虫送りなのだ。

お堂は高台にあって部落が見渡せる。家々には屋号があるというのだ。

「区長の高橋さんちは風呂の元。昔、部落に風呂がひっとつしかなかったから」

「向こうの一番高いところが林元(はえのもと)、その下に宮前と花屋でしょ、右に佐古(さこ)、新宅と続いて、中谷、大屋敷(おやしき)。下坂(おりさか)、木戸浦(きとうら)なんて面白い読み方もぜよ。今では小字になっている屋号もある」

「それから小さな道にもみんな名前がついちょった。調べたら面白いぜよ」

 なるほど小さな村の小さな部落のさらにその小さい部分にまで固有の名称をつけた時代があったのだ。番地がなかった時代である。近代国家になると面倒だったのかすべてが「何丁目何番地」と番号になってしまった。味気ないことである。
hose.jpg ホセ・リサール(1861年-1896年) スペイン植民地下のフィリピンで、文学を通してフィリピンをフィリピンたらしめようと立ち上がった英雄。いまも建国の父とされる。フィリピン独立革命に連座され、志半ばにして処刑された。曽祖父に日本人の血が流れているとされ、来日時に心を寄せた恋人おせいさんの肖像画がリサール博物館に飾られているなど日本との関わりも小さくない。

 スペインに対して最初の反乱「カビテ暴動」が1872年に起きた。カビテ兵器廠で働く人々が待遇改善を求めてストライキを起こしたことが引き金となって僧侶を中心に自由主義者や知識人が抗議行動を起こしたが、騒動を指導した僧侶3人が死刑に処せられたのを含めて多くの犠牲者を出した。

 リサールはマニラ南方のラグナ州に生まれた。父は中国福建省系、母はスペイン系のフィリピン人である。マニラで哲学、医学を学んだ後、スペインに渡った。留学中、この事件をテーマに最初の小説『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触れるな)をスペイン語で書いた。植民地支配の実態を明らかにし、どうしたら悲惨な支配から脱出できるかをフィリピン人に問いかけた内容で、二番目の小説『エル・フィリブステリスモ』(反逆者)でもスペインの隠された圧政の歴史を次々と暴露した。

 リサールはスペインで留学生を糾合してフィリピンに改革を求める雑誌「ラ・ソリダリダート」(団結)を発行するなどして、その名は母国はもとよりヨーロッパでも一躍、若者に大きな影響を与える存在となった。中国で言えば魯迅と孫文を合わせたような存在だったといえるかもしれないが、平和主義者でフィリピンの独立を求めたことは一切なく、母国の法的平等を求めるなど当時としても穏健派に属していた。

 しかし1892年、リサールが帰国後に「フィリピン民族同盟」の結成に着手するやいなや反逆罪に問われて、ミンダナオのダビタン島に流罪となった。カビテ暴動後もフィリピンではスペインの過酷な土地支配に対する暴動が頻発し、カティブナンと称する秘密結社までが生まれていた。カティブナンは「崇高なる人民の子の団体」という意味で、リサールの民族主義から発展して武力によって独立を求めた。

 そのカティブナンが1896年、マニラの弾薬庫を襲撃し、武装蜂起した。最初は革命軍が優勢だったが、スペイン本国から3万人の援軍が到着すると形勢は逆転、革命は一気に鎮圧された。植民地政府はこの蜂起の指導者でもなかったリサールをみせしめのために銃殺刑に処した。

 当時、日本はまだ日清、日露の戦争もなく列強の圧力の下にあり、知識人たちはフィリピンのリサールの非業の死を大きな悲しみを持って受け止めた。『ノリ・メ・タンヘレ』が翻訳出版されたり、フィリピン独立運動を主題とした多くの作品が世に出たのは当然のことだった。(伴 武澄)

Scan111-thumb-200x290-104.jpgのサムネール画像 3連休の最終日、山を下りて日帰りで神戸に行った。賀川記念館から賀川聖誕祭の記念講演会で講演して欲しいという依頼があったためだ。演題は「協同組合と国際平和」と題して、どうしてアジアで対立が続くのかというような話をした。講演の後、駅前で短時間ビールを飲みながら語り合った。アカデミーでは土作りばかりをしているのではない。かつてこの地にあった「夜学会」を英訳すれば、Night Academyだろう」と西さんが言い出した。なるほどガッテンだ。

 賀川豊彦は戦後、財団法人国際平和協会をつくり、平和日本の国づくりの拠点とした。機関誌「世界国家」は数万部発行されていただろうと推測される。全国に世界連邦運動の支部が立ち上がり、多くの自治体が世界連邦宣言をおこなった。今からは考えられないほど「世界連邦」への渇望が強まったのは日本だけではなかった。アメリカでもヨーロッパでも大きな社会的うねりが起きていた。

 ヨーロッパでは、現在の欧州連合(EU)につながる欧州石炭鉄鋼共同体が誕生し、ストラスブルグに欧州議会が生まれていた。賀川豊彦は「なぜアジアでできないか」ということを考え、広島の地に世界連邦アジア大会を誘致した。以下、当時の「世界国家」 (1952年7月号)からの抜粋を掲載する。

 世界連邦アジア会議の推進

 日本の敗戦によって、アジアに於ける八つの国が独立した。だが軍備的にいって、みな丸裸である。経済的に考えて、みな相当、苦しんでいる。
 ヨーロッパに、連邦議会が既に成立している如く、このアジアの丸裸の国々を連絡して、共栄共存の連邦議会を作ることは、世界平和のためにも、是非推進せらるべきものである。
 日本が軍備を持っていれば、アジアの諸国は、日本に付いて来ないだろう。日本が丸裸であるから、アジアの他の丸裸の国々も、日本を疑わないだろう。
 世界連邦の理想は高い、然しアジアが安定すれば、世界の安定は、更に容易になる。
  来る十一月三日から、広島で開催されんとするアジア会議は、民間外交の仕事としては、破天荒的な出来事である。我々はそれを成功させたい。然し、たとえそ れが十全に成功しなくとも、世界に与うる影響は絶大であることを考える時に、どんな小さい集会でもよい。我々は広島に於けるアジア会議を推進する必要があ る。
 もし、アジア会議の結論として、ルクセンブルグ国・ストラスブルグ市に中心を置くヨーロッパ議会の如きものが、アジアに於て結成さ れる緒口が見付けられるならば、アジアの幸福は大である。そしてアジア連邦が成立するなら、日本は、敗けたことによって、百六十万の戦死者の犠牲を新しい 意味に於て、民主的に生かすことになる。  (一九五二年七月号)
DSC_0645700.jpg 7月13日(金)。今日は土佐山の人たちが僕ら受講生を歓迎してくれる宴会が午後6時からある。それまでになんとか日記を仕上げたいと思って書き始めている。

 今日の授業は山のてっぺんで直径3メートルほどの池を作る作業だった。先生である林さんがホワイトボードに二つの池の絵を描いて説明を始めた。

 左の池で魚を飼います。右の池では野菜を水耕栽培します。左の池では魚が生息するため餌の残りや糞などで水質が悪化します。しかし逆からみれば栄養分でもあります。その水をポンプで右の池に送り込むとその栄養分で野菜が栽培されます。栄養分は野菜が生育する中で野菜に吸収されるので、水質が浄化します。浄化した水を再び左の池に戻してやれば、左の池の水がきれいになります。それをくり返せば、栄養分の補給なくして永遠に野菜栽培が可能となるというわけです。このシステムはアクアポニックといって5、6年前にハワイで商業化に成功した循環型植物栽培です。

 林さんは「では始めましょう」といって我々を二つの班に分けた、第一班は「土木」つまり池づくり。第二班は苗床づくり、ハワイでは椰子の実の繊維を使うが高知に椰子はないから「シュロ」の繊維。この繊維に野菜の種を埋め込む作業だ。

「どちらを希望しますか」という林さんの声に3人が「苗床」といった。僕を含めて残りの6人は力作業となった。

 林さんの魂胆は土佐山でアクアポニックの実験をやって成功させることにある。お金がないからすべて手作りから始まった。池はもちろん僕らが掘ってビニールシートを敷いたものである。ポンプを動かす動力は75ワットの太陽光パネル1枚。電池に電力を溜めて24時間稼働させる。魚は後で食べられるようにと「あめご」が撰ばれた。育てる野菜はミツバとケールである。

 アクアポニックのシステムでは、土で育てるのに較べて、3分の1から4分の1のスペースで野菜をつくることができ、しかも育つスピードが通常の2倍以上。必要なエネルギーは70%から90%も少なくていいという報告がある。

 日本ではまだ珍しいこの実験をド素人の受講生たちが土佐山で行う。穴掘りに疲れた我々だが、何かわくわくする瞬間である。炎天下に始まり、豪雨の中で終わった。本当にそうか、結果はこの3カ月で分かるはずだ。

 作業が終わって池に水を張ると歓声が上がった。まもなくオニヤンマが飛来して、水面に尾っぽを向けて産卵した。初めて見る光景だった。
DSC_0610700.jpg  7月10日(火)。オリエンテーリングの時、スタッフの山本堪さん、ぼくらはもう堪ちゃんと呼んでいるのだが、その堪ちゃんが手作りの「土佐山日記」をみんなにくれた。僕が土佐山日記を始める前にすでにアカデミーでは土佐山日記が用意されてあったのだ。

 日記の表紙は、紺色と鶯色ともう一つ色があって、どういうわけか最初に売り切れたのは紺色の日記だった。最初の日が7月2日で最後は9月22日である。線は引いていないから、縦書き、横書き、自由自在である。天気や気温を書く欄もある。毎日気づいたことを書いて欲しいと言った。

 なかなかよくできた日記帳で、旧暦の日付もついている。堪ちゃんは「農業は基本的に旧暦で行うのだ」という。説明もうまい。「太陽暦で七夕の7月7日は梅雨時で天の川なんて見えないが、旧暦でいえば8月末だから、たぶん天の川が見えるんだ」とも言った。なるほど日本の季節感というやつは太陽暦では分からないのだとガッテンした。

 金さんがいうには「韓国では正月は旧暦で祝う」のだそうだ。中国でも正月といえば旧暦である。たまたま土佐山で読み始めた『土佐百年史話-民権運動への道』(高知新聞編)に明治4年、日本で太陽暦が導入されたと書いてあった。その本では坂本龍馬が暗殺された日は11月15日で、季節はまだ冬ではない。龍馬がシャモ鍋を食いたいと宿の小僧に買いに行かせたところを急襲された。旧暦の11月は今で言う12月だからその寒さが分かるはずだと書いてあったことを思い出し、その話を受講生に披露した。

 土佐山に一週間も住んでいるわけでもないのに、話は旧暦にまで及んだことにびっくりしている。なにげない会話の中から過去に学んだ多くの知識がバチバチ繋がり始めているのが面白い。僕にとって土佐山は大きな思考の触媒になるのかもしれない。そう思うと土佐山の生活に感謝せざるを得ない。

 きょうは堪ちゃんのことばかり書いてしまったから、堪ちゃんのことも紹介しておこう。堪ちゃんはドイツ、スイスでアートを学んできた人で、生まれは高知県越知町。元来が山の民なのである。ITにも精通していてアカデミーのホーム―ページをデザインしたのも堪ちゃんである。僕が最初にアカデミーに興味を持ったのはこのホームページの美しさからだったことも付け加えておきたい。
Robert_Schuman.jpg シューマン・プランを知っているだろうか。シューマンは200年にわたりドイツとフランスが争った鉄と石炭の宝庫アルザス/ローレンヌ地方を国際管理することを提案したフランスの外務大臣。恩讐を越えてヨーロッパ連合が誕生する大きな引き金をつくった人物である。名前の通り、戦後まもなくドイツ系の人物がフランスで閣僚になったヨーロッパ。

 在日韓国人が日本国の外務大臣になって、竹島問題や尖閣問題を解決する奇想天外な問題提起をし、東アジアに平和をもたらす。・・・・われわれはそんなことを想定することができるだろうか。財団法人国際平和協会に残る機関誌「世界国家」を自炊しながら、賀川豊彦の貴重な論文を転載したい。

 世界の危機とその救

 ――シューマン・プランの教うるもの――

  鉄と石炭の宝庫

 第一次世界大戦の結果、ドイツは鉄と石炭の宝庫=アルザスローレンを、フランスに割譲しなければならなくなったが、その後、人民一般投票によって同地方は独立国家を作ることゝなり、ルクセンブルグが生れた。

 ついで第二次大戦ではルクセンブルグの東南、石炭地区のザール地方が同様の運命に陥って、ザール自治領が生れようとしているし、さらにベルリンの西北、エッセン地方もまた英国の支配の下にある。

 エッセンの中でも特にルール地方は良質の石炭と鉄鉱を豊富に産出するので著名で、そのため早くから製鉄業と、それに伴う機械製造業が発達し、有名なクルップ工場も、その中にあって、これほど繁栄したところは世界にも稀れだといわれた。

 これをわが国でいえば、東京、大阪、名古屋の三市を合わせたような大工場地帯で、第二次大戦中、米英空軍は烈しい爆撃をこれに加えたので、徹底的に破壊されたと伝えられていたが、戦争がすんで見ると、工場施設の五割以上が、残存していた。そして戦後、製造能力が漸次回復し、今では年産一千五百万トンの鉄鋼を生産する能力かあるといわれる。

 以上にあげた諸地方の工業生産力は、そのまゝ軍需生産となるものだから、現下の不安な国際情勢下にあっては、各国の神経を刺戟するところ甚大で、ルール地方のごとき、ソ連が支配権を得ようとして画策したが、西ヨーロッパ諸国はソ連の割りこむ余地を与えず、米英は、これを国際管理の下に置こうとするが、西ドイツはそれを承知しないというような複雑微妙な状態にある。いずれも、この地方の工業生産力に垂涎してのことであった。

 西ドイツは人口四千五百万人を擁しているが、鉄、石炭の宝庫といわれる地方は、以上あげたような英米仏、その他の管理下に置かれているので、産業の復活は、なかなか至難な状況にある。もし真に西ドイツを復興せしめようとするなら戦勝国が、こぞって、これらの地区の管理権を放棄し、ドイツに返還してやるよりほかはない。しかし、そんなことができよう道理はなかった。ところが、国際問題の通念を、ひっくりかえすような事件が起った。それはフランスのシューマン外相が投じた爆弾的提唱であった。

  シューマン外相の爆弾的提案

 一九五〇年五月九日、西ヨーロッパ連邦議会の外相会議の席上で、シューマン外相は次のように提議した。「フランスはドイツにおけるその勢力圏の石炭と鉄との管理を、すべて投げ出して、超国家機関に託し、ドイツと握手し、ザールの石炭、ローレンの鉄を共同経営に移す用意がある――」と。このシューマン提案は世界を驚かした。一ばん驚いたのはフランスそのものであった。ドイツの復興を最も警戒しつゞけて来たフランスが、他国にさきがけてドイツと仲直りをし、その復興を助けようというのだから、驚くのが当然である。イギリスも驚いた。石炭は国有となし、鉄も国家管理に移すことに議決しているイギリスとしては、ドイツが、鉄と石炭とを手に入れて、イギリスの競争相手となることは由々しい一大事だからである。

 しかも、ドイツを復興させ、ヨーロッパ連邦議会の結束を強化するためには、この思いきった処置に出るよりほかに道はないのだ。そこでイギリスのアットリー首相も、具体的方策が明確になればイギリスとても決して反対するものでないと声明し、アメリカのアチソン長官も全幅の賛意を表した。デンマークのコペンハーゲンに開かれたコミスコ会議参加国は、みなこのシューマン提案に賛成し、労働組合会議も、これに参加すべきだと決議した。各国ともに、この事によって独仏の平和が確保され、ひいては西ヨーロッパの結束の強化となり、鉄のカーテンに対する抵抗力も増し、世界平和への一歩前進となると思ったからである。

  宗教的背景に注目せよ

 それにしても、シューマン外相のこの提案は、よほどの決心がなければ、できない事である。もし単に自国の利益をのみ考え、万事を国家利己主義的なソロバンから、はじき出している限り、こうした思いきった提案は、できないはずである。

 では、何がシューマン外相をして。かゝる大英断に出でしめたか。わたしは断言する。この事は、フランスの国策もさることながら、シューマン外相その人の宗教的背景を無視しては考えられない事である――と。

 一九四八年はマルクスが共産党宣言を起草して、ちょうど百年に当ったこの年の八月、スイスのコーで催されたMRA運動の大会には、ルール地方の共産党員も多数参加して、道徳復興なくして世界の平和はあり得ないとし、熱心に討議した。その会合に列席したシューマン外相は大きな感銘を与えられ、宗教、道徳が世界平和運動に大きな役割をもっているということを、今さらのように痛感した。そしてヨーロッパの平和のために、各国は単に政治的、経済的利害のみにとらわれず、宗教的に考慮せねばならぬと考えるようになった。そのために、フランスがまず自己反省をして、過去の行きがかりを一擲し、ドイツの復活のために考えねばならないとし、案を練り、一九五〇年四月、イギリスを訪問、皇帝に謁見し、大統領以上の外交秘策を講じた後、前記の世界を驚かす提議となったのであった。この提唱は既に六力国の賛成を得、プールシステムによって着々実施を見つゝある。これは全くシューマン外相の宗教的情熱が西ヨーロッパ諸国を動かした結果であって、これにより西ヨーロッパの平和は、著しく促進されたといわねばならない。

  シューマン外相の横顔

 では、シューマン外相とは、いかなる人物なのだろうか。彼はロバート・シューマンといゝ、ルクセンブルグの生れ、本年六十四歳、一九一九年以来代議士に当選、四年ペタンのヴィシー政権の国防次官となって、その鋭鋒が認められた。一度はドイツ軍の手に捕えられたが脱走し、レジスタンスに従事、終戦後、人民共和派の幹部としてビドー・ラマディエ内閣の蔵相となり、一九四七年十月、自ら内閣を組織、十ヵ月後に辞職し、こんどはクイーユ内閣に一外相として入閣して今日に及んでいる。

 彼はフランスでも珍らしいプロテスタントの子孫で、ヂシュイット派の基督教信者である。彼は同じプロテスタントの指導者であったジャン・ジョーレス(一八五九―一九一四年)の衣鉢を継いだ政治家ともいよえう。

 ジョーレスは人格的社会主義者であり、哲学者であり、そして立派な政治家であった。一九〇六年、統一社会党を創設し、第一次大戦の危機の迫るのを見て、強く戦争に反対し、動員の始まろうとするや、敢然として総同盟罷業を決行しこれを阻止しようとしたが、惜しくも反動陣営の狂信的愛国者のテロの手にかゝり、夕食中、ピストルで射殺され、その翌日、宣戦が布告された。

 シューマン外相の此度の処置は、ジョーレスが第一次大戦直前に打った手と、その宗教的情熱の裏付けのある点において、一脈相通ずるものがあるといわれないだろうか。そして、わたしは、日本にも、こうした人が出なければ、世界の平和は招来されないと思うのだ。

  世界よ、精神的に結束せよ

 ヨーロッパは、ヨーロッパ連邦の結束とその強化によって、着々平和の方へ進みつゝある。ところが一方、アジアは朝鮮動乱以来、唯物暴力主義者の魔手が伸びて、危機をはらんでいる。今こそ、シューマン外相にならって、アジア十数力国が、国境を越えて精神的結合を固くすべき時ではなかろうか。ヨーロッパに、ヨーロッパ連邦議会の作られているように、アジアにも、太平洋連邦議会を作り、精神的に結合して、各国が目前の利害を離れ、アジアの平和のために協力すべきではなかろうか。

 わたしはアメリカ巡講中、この案を、同志に託し世界連邦の会議に提案したのだが、世界の危機を救うためには、各国が友愛互助の精神によって、平和な手段により世界連邦を樹立する以外に道のないことを確信するものである。

 世界の諸国は日本が新憲法において戦争を放棄したのに範をとって、軍備を撤廃し、宇宙目的に結ぶ協同体としての世界連邦を作るところまで行かねば、世界は破滅の淵に陥ちるより外はない。

 これがためには、シューマン外相の驚天動地の外交施策に、われらは学ぶところがなければならない。すなわち、各国が国際間の憎悪を一擲し、キリストの「敵を愛する精神」を身につけ、これを具現することによってのみ、世界の危機は突破し得るものと、かたく信ずるものである。

 宇宙の協同体においては、キリストが人類の贖罪のために、自ら十字架にかゝって血を流し給うたごとく、世界人類の救いのために、誰かゞ自らをすてゝ血を流す必要かがある。世界の人々のために、苦労を惜しまないシューマン外相のような人格が出ねば、世界は救われない。

 母親が嬰児のおむつを厭わぬように、喜んで人の尻ぬぐいをする気持にならねば、日本も、世界も救われない。シューマン外相のように、石炭や鉄を、敵国の復興のために喜んで返して、これをプールしようという気持が、各国によって把握されねば、日本も、世界も救われないのである。  (一九五一年四月号)
 DSC_0632700.jpg7月9日(月)。受講生の一人に東京から夫婦で土佐山にやってきた高田さんがいる。ある日Facebookに「ヤギを飼いたい」と書いた。
「草刈り→ヤギが食べる→エネルギーいらない→ヤギのミルクで加工品を作る。高級おワンコどもはヤギミルクなぞ飲んでるからニーズはあるのさ」

 早速、スタッフの林さんがフォローした。
 林 篤志 土佐山では昔各家でヤギ飼ってたみたいです!飼うなら紹介しますよー
 高田 憲明 飼いたいです!
 林 篤志 わかりましたー、ちょっと様子を伺ってみます。
 高田 憲明 アザース!刈り払いの人の仕事がなくなったらどうしようw
 林 篤志 がんがん食ってもらいましょう。チーズつくりたい!
 高田 憲明 エル(高田さんちの犬の名)に牧ヤギさせよう!

 こんなやりとりが続く。アカデミーで何をするのか、それぞれに思いは違うはずだが、高田さんがヤギを飼ったら、何かが一つ前に進んだことになる。先週の木曜日に山道の脇ですでに腐葉土化している枯葉を集めて畑に入れる作業があった。

 その時、大阪から来た金さんが道路端でモミジの小さな苗を見つけた。葉っぱが四つ、五つしかない。「モミジって5月ごろ花を咲かせて直ぐに種ができるんだ。竹とんぼみたいにくるくる回りながら地に落ちて、それがすぐに芽を出すんだぜ」。しったかぶりが言った。金さんは「これでコケ玉とつくりたい」と言い出した。僕は枯葉の下にコケが群生しているのをみつけて「金さん、これでつくろう」と言って、モミジの苗に巻き付けた。金さんはさすがに造園業で修行していただけある。ポケットからシュロの縄を取り出して、その「コケ玉」に巻き付けた。

「もう作品ができたやん。それ日曜市で売れるで!」
 歓声が上がった。これもアカデミーの作業の一つではないかと思った。

 高田さんのヤギの話で思い出したのは、賀川豊彦の「立体農業論」だった。戦前の日本の農村が貧しいのは「コメばかりに依存しているからだ」というのが賀川の持論だった。ドングリやカヤなど山には食べるものがたくさんある。何とか食用にできないか考えた。ウサギやコイを飼えば金になるだけでない。飢饉の時の重要なタンパク源になる。

 こんなことも書いている。「日本ではソバをバカにしているが、アメリカではそば粉でおいしいパンケーキをつくり、山のカエデからとったメイプルシロップをかければとてもおいしい朝食になる」「ツバキなど誰も見向きもしないが、椿油は立派な商品だ。山の恵みはもっともっとたくさんある」

 7年前に三重県にいたとき、「榧太郎」というそれはそれは上品でおいしいお菓子を食べたことがある。そこの久子さんという奥さんは嫁入りしたときに家に出入りしていた職人さんたちのおやつに作っていたそうで、裏庭のカヤの実でそのお菓子を作り始めたのが評判になり、榧太郎はその後、新聞記事にもなった。

 今の日本は豊かであるから、山の恵みなど誰も見向きもしないが、手をかければおいしいものがたくさんありそうだ。

DSC_0726700.jpg 7月7日。七夕。散髪のために山を下りた。いつも行く上町の北山理容室で髪をつんでもらいながら(ちなみに、高知では髪をつむと言う)土佐山の話をした。

 昨日、生ゴミから有機肥料をつくる作業が始まった。肥料を雨に濡らすわけにいかないので、簡素な建て屋づくりから始まった。柱の杭内から屋根材のための竹割りもした。けっこうな肉体労働だった。生ゴミはとてつもなく臭かった。「よくあの臭いに耐えられたね」と言うと異口同音に「口で息をしていた」という答えが返ってきて一堂爆笑した。

 そんな四方山話をした。

「土佐山のお客さん、たくさん来てもらいよります」
「そうやね。土佐山には床屋がないというちょった。美容室が1軒あってよっぽど髪をつんでもらおうと思ったけんど・・・」
「やめちょいて下さい。ははは。それそうと土佐山オーベルジュのずっと先の工石山の方に画家がアトリエをもっちゅうが、知っちょりますか。名前はなんじゃったっけ。そう、土佐山で校長先生をしちょった人じゃ」
「あんな辺鄙なところでどうやって住んでいるだろうか」
「いや住んじゃあせん。絵を描くときと酒を飲みにいくのに使っちゅうにかわらん」
「ぜひ一度、お訪ねしたい」

 どうでも話いいが延々と続く。ついでにいうと、この北山理容室はおじいさんの時代からあって、国家公務員を辞めてUターンした父親も世話になっている。僕で3代目。この間、孫も髪をつんでもらったから、5代にわたる。当主は変わっているが、5代にわたって同じ床屋に世話になっている人はざらにはいないだろうと多少威張りたい気持ちになっている。

 自慢話のついでに、4日に高知放送のラジオ番組に生出演したところ、何人もの土佐山の人が聞いていて「あんたがラジオに出よった伴さんかよ。土佐山アカデミー受講生いいよったからどんな人かと思いよった」という感じで一躍、地元住民の知れるところとなってしまった。思わぬところで土佐山アカデミーを宣伝することになってしまったことも嬉しい。(写真は7月3日の高知新聞に掲載されたアカデミーの入校式)
DSC_0747.jpg 7月6日。土佐山に居着いて5日目。正確に言えば、昨日のことであるから4日目である。村にとって年に二度の大きなお祭りがあった。ここでは神祭(じんさい)という。アカデミーは最初から祭りをプログラムに入れてあった。9人の受講生は3カ所に分かれて神祭に参加した。

 参加したのは高川地区の高川仁井田神社の神祭だった。僕らが住んでいるのも高川地区なのだが、高川の中心集落はそこから数百メートル上がったところにある。それこそ雲の上である。神社はその集落から急な石段を100メートルも上がった鬱蒼とした杉林の中にあった。本殿は江戸時代のもので、元来は茅葺きだったが、今は杉板で葺いてありなかなか立派である。

 かつてはお神楽や相撲が催されるなど賑やかな祭りだったそうだが、いまでは大夫(たゆう=神職)さんが祝詞を上げて、宴会となる簡素なものである。この日、高知市の土佐神社から来た年配の小笠原という大夫さんは午前に菖蒲地区で祝詞を上げて、高川にやってきた。その後、平石地区で祝詞を上げて、桑尾地区でも祝詞を上げなくてはならない。どういうわけか明治このかた土佐山では同じ日に神祭を行うことになっているから大夫さんは忙しい。

 祝詞が終わってから小笠原さんに「ここの祭神はどなたですか」と聞いた。「祭神不詳です」というから仰天した。「とにかく氏神さま」なのだ。祭神が分からない神社は初めてだ。さらに「8月14日には日月祭があってその時は、天照大神と月読大御神をお迎えする儀式があります」という。

 四国山地には平家の落人伝説が各地にあり、土佐山にも伝わる話がある。今では棚田と斜面を利用した畑があるが、焼き畑という農法もそんなに昔の話ではなかった。

 土佐山村史によれば、「古くから寺院があったとの記録は皆無で、寺に関係があったのではないかと想像される地名と、五部落に寺堂が残っているにすぎない」「一方、神社は御霊神社を中心に各部落ごとに氏神を祭り、夏と秋の神祭は村人たちの最大の行事となっている」とある。

 つまり村にはお寺がない。神さましかいないのだという。仏教ゆかりの地名がないわけではないが、お寺が存在していた形跡が一切ない。仏さまのいない村落はまだありそうだ。本当かどうか知らないが、かつての仕事仲間の母親が奈良県十津川村の出身で「母親の話によれば十津川には寺がない」という話を思い出した。

 仏教が日本に入ったのは飛鳥時代に遡る。蘇我氏と物部氏が仏教導入を巡って争い、蘇我氏が物部氏を滅ぼし、飛鳥寺を建立し丈六仏を鋳った。それ以来、日本の各地で寺院が建設され仏像が刻まれた。四国はその中でも弘法大師の影響を最も強く受けた地域である。日本文化の形成に仏教は欠かせない存在であった。仏教は土佐山まで入り込まなかったのか、はたまた何かの理由で排除されたのか、どちらかは分からないが、1500年近くにわたって仏教と無縁だった地域が日本にあることが新鮮だった。

 小笠原さんに聞くと土佐山14地区にそれぞれ氏神さまはあるが、どこも「祭神不詳」なのだという。天照大神は年に一度村を訪れるお客さまにすぎない。ということは日本神道の系譜すらこの村に入っていなかったことを示すのではないか。そんな思いにさせられた。

 やがて雲の上の高川仁井田神社で日本酒の酌み交わしが始まった。土佐では神事という。真向かいにいた高橋さんは、その隣の永野さん。二人高橋さんがいて、また永野さんがいた。すぐに分かったことは60戸ほどの住民のほとんどが高橋さんか永野さんであることだった。「満博さん」「干城さん」「善三さん「文明さん」。名字を呼びあう人は一人もいない。

 隣にいたおばあさんに自己紹介をして、「どこからお嫁に来たのですか」と聞いたところ「隣の家」との答えが返ってきたのには仰天した。周りの人に解説を求めたら「高橋さんが隣の高橋さんに嫁入ったんだ」といった。神さまに名前がなくても当たり前のはなしかもしれない。雲の上の村で妙にガッテンした。
DSC_0639.jpg

7月5日。台湾から鄭さんが高知に来るというのでいったん山を下りて高知市内で妻と一晩接待した。5月に台南市の烏山頭ダムで行われた八田與一の70年目の慰霊祭に参加した。昨年公園化された一角に八田與一邸が復元され、多くの観光客で賑わっていた。テラスで休息していた僕らに声を掛けてくれたのが鄭さんだった。

 一昨年前のNHK大河ドラマの龍馬伝は台湾でも放映されて、一気に龍馬ファンが増えたのだそうだ。鄭さんは毎年6回ぐらいビジネスのため日本にやって来る。四国は初めてだが、相当の日本通である。龍馬の故郷と松山の秋山好古、真之兄弟の記念館を訪ねるのが目的だった。

 鄭さんに土佐山アカデミーで学んでいる話をした。話しているうちに日本が緑なす森林資源の国であることに今更ながら感づかされた。

 高知の山についてはまだ素人の域の知識しかない。2日にオリエンテーリングを兼ねて土佐山のさらに山の中をドライブした。大雨の中、林道ばかりを走った。3時間で30数キロしか走れない。視界には水と森林しかない。受講生のみなが一堂に漏らした感想である。話を聞くと昭和30年以降の植林によってその森林が形成されてきたことが分かった。

 昭和30年ごろの土佐山の写真と較べてみると圧倒されるほどの変化がある。当時の写真には巨木がほとんどなかったといっていい。養蚕がまだ盛んで山には多く桑の木が飢えられていた。換金作物としてミツマタも健在だった。これは和紙の原料となる。

 日本の山がスギとヒノキの針葉樹ばかりであることへの批判は確かにある。しかしオリエンテーリングの第一印象は「よくもまぁこれだけ植林したものだ」という驚きだった。

 高知県の森林は県面積の84%を占め、日本一なのだそうだが、土佐山はそれを遙かに上回る。当たり前の話だが、鏡川とそのいくつかの支流で構成されるのが土佐山で、川と道路を除いた面積が森林なのだから、100%に近いといっていいかもしれない。

 ふと思いついたのはこの森林をエネルギー換算できないだろうかということである。森林は大気中の二酸化炭素を吸収して長い年月をかけて形成されたものである。はやりの温暖化議論での森林の二酸化炭素吸収量から逆算すれがそう難しいことではなさそうである。つまり原油埋蔵量のような形で日本の森林資源をエネルギー価値として再評価するということである。日本の森林の資源化などはコスト的に割が合わないのが現状だが、少なくとも数値としてわくわくするような結果が出そうな気がする。

 メソポタミアもインダスも黄河も古代文明といわれたところにはすべて巨大な森林資源があったとされる。これは定説である。人間がその森林を破壊したためその地が砂漠化し、人が住めなくなった。戦前、八田與一が台南につくった烏山頭ダム建設は嘉南大洲という下流域を穀倉とするためだった。当時、台湾は雨量があっても保水力が不足していたため下流域は水不足に悩まされていた。

 10年も前のこと、鳥取大学の遠山正瑛さんを取材したことを思い出した。内モンゴルに30年かけて植林を続けていた人である。「木を植えるとやがて森となり、動物たちがよみがえり、川や湖までできてしまう」という夢のような話である。森林が気候までも変えてしまうというのである。

 日本は森林というエネルギー大国であるという意識が生まれたらどうだろう。ほとんど逆転の発想が土佐山にはあるかもしれない。

八田與一を偲ぶ烏山頭ダムでの5月8日 http://www.yorozubp.com/2011/2012/05/0516.html
台湾で最も愛される日本人-八田與一 http://www.yorozubp.com/2011/2012/02/02082.html
内蒙古で木を植え続ける遠山さん http://www.yorozubp.com/0104/010406.htm


DSC_0678.jpg 7月4日(水)朝6時、山には霧がかかっていたが、6時半、山のかなたに太陽が差し出し青空が山の上に広がった。山の朝だ。2日前から住んでいる家は高川川が鏡川に合流するあたりにある。

 夜来というか、絶え間なく瀬の音がしている。家にはテレビはない、ネットはおろかラジオも電波が弱く、持参した小型ラジオは使えない。瀬の音以外にこの家では音のするものがない。いやさっき時報を知らせる「有線」が突然入り、短時間クラシック音楽を流していた。

 土佐山唯一のストアで新聞を買おうと散歩した。店には「閉店」の看板がぶらさがっていた。そうだ開店は午前9時だった。あたりは土佐山の中心地で、高知市役所土佐山支所やJA、郵便局、土佐山ストアがある。30分歩いて犬の散歩をさせているおばちゃんに一人だけあった。「おはようございます」。今朝初めての会話を交わした。県交通のオレンジ色の車体のバスには3回遭遇した。さすがに朝夕はバス便があるのだと知ってホッとした。

 ちなみに新聞宅配はここでは一般的ではない。道沿いにあるポストまで下りて取りに行く家が少なくない。もちろん統合版であるから夕刊はない。県都の中心から30分圏内で地元紙の夕刊がないところも珍しいだろう。

 30年以上も前のことである。新聞記者になりたかった。父親の仕事の関係で引っ越しばかりの生活が嫌で、故郷の高知新聞を受けた。結果的に共同通信にお世話になることになったが、その時に聴いた話である。高知新聞は全国有数のシェアを誇っていた。80%近いと言っていた。朝日や読売は大阪で印刷して高知まで陸路・海路を経て運ばれていたから、ニュースは一日遅れだった。高知新聞は共同通信から多くの記事が配信されるから、それこそ「新聞」だったが、それ以外の新聞は旧聞に属していた。シェアが高いのは当然に思われた。

 高知新聞の問題は山間地の宅配だった。隣の家まで何キロもあるようなところで一軒一軒配達はできないので、小学校の下駄箱に新聞が「配達」され、子どもたちが下校するときに家に持ち帰る。そんな地域のあることを聞かされた。それから数十年たった今その山間地に住んでみて情報のありがたさが実感として分かるようになった。
wadasaburo800.jpg
 土佐山の存在が気になったのは、和田三郎の名を知ってからである。昨年夏、土佐に生まれ孫文の革命に尽くした萱野長知を描いた『萱野長知研究』を読んでいるうちに、土佐山の和田三郎の存在を知った。

 孫文に尽くした熊本の宮崎滔天は誰でも知っている。萱野の名も度々登場するが、土佐の出身であることは知られていない。『萱野長知研究』は、その足跡を克明に調べた崎村義郎(元檮原町長)の後を引き継いで久保田文次が高知市民図書館 の協力を得て1996年に 出版した。中国革命を知る貴重な資料が高知に存在していたことにまず驚き、高知県の一級の知的財産だと確信している。

 和田三郎は板垣退助の側近として『自由党史』を編纂したことでしられる。一方で萱野の朋友と記されている。孫文と黄興が1905年、日本で中国同盟会を結成した後、宮崎滔天らは機関誌「民報」の編纂に協力した。その「民報」が日本で印刷され、中国の同志の革命意識を鼓舞したことは歴史的事実である。1911年10月に起きた武昌起義が引き金となって辛亥革命が成功する。清朝皇帝は退位し、孫文は中華民国初代大総統に就任する。しかし中華民国は袁世凱によって乗っ取られ、孫文らは日本への亡命を余儀なくされる。第二革命に必要だったのはまたしても機関誌だった。萱野に促され、和田三郎は1913年、東京で日刊紙「民報」を発刊する。

 その日刊紙の存在はほとんど知られておらず、国会図書館と東大の部分的に保存されているにすぎない。和田三郎宅にすべてではないが、短期間存在した中国革命を支えた「民報」が保存されているという。現物はまだ見ていないが、楽しみにしている。

自由民権結社「山嶽社」跡の石碑文

 山嶽社は、土佐山村の民権結社であり、当村からは多くの民権家を輩出している。前身はこの場所で和田波治、千秋父子が始めた寺子屋的なもの。その後、門下の高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党成立の頃、民権結社に発展、名称を「山嶽社」とし、明治22年2月26日以降「山嶽倶楽部」と改めた。土佐山村は明治15年11月12日に県下の民権家、総勢2000人が桧山で巻狩大懇親会を行ったことや、秩父事件の指導者、落合寅市が高橋簡吉の家で匿われたことでも知られている。
 現在、当地には民権期に作られた「山嶽倶楽部の旗」が保管されている。(藤原和雄・記)

和田三郎・生家
 和田三郎(1871~1926)
 自由民権家・言論人
 明治4年6月22日、医業の千秋を父、母は土、その三男としてここに生まれる。高知共立学校で学び、のち植木枝盛らと接触、明治学院を卒業して土陽新聞記者となり、板垣退助監修「自由党史」を執筆。孫文らの中国革命を支援するために宮崎滔天、菅野長知らと革命評論社を創立、滔天が編輯人の「革命評論」の同人となる。また、板垣退助がおこした「社会政策」の発行兼編輯人にもなり、板垣の秘書として活躍、筆まめなことで知られたが、大正14年中国旅行中、病を得て帰国、翌年没した。55歳。(藤原和男・記)

このアーカイブについて

このページには、2012年7月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2012年6月です。

次のアーカイブは2012年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ