2012年6月アーカイブ

jidokotu_01.jpg とある会合で出席者の一人が面白いことを言った。

「高知で最初に交通信号機が導入されたとき、どんなに説明しても人々は意味が分からなかったに違いない。"進め""止まれ"が分かってもなぜ規則を守らなければならないのか。新しいツールが導入されたときの反応はいつの時代も同じではないか」

 それで家に帰って、その"いつ"を調べてみた。日本では1930年(昭和5年)に、東京の日比谷交差点にアメリカから輸入した電気式の交通信号機(右=縦型だった)が設置され、その年の12月に,国産第1号の自動交通信号機が、京都駅前ほか2か所に設置されたのだそうだ。

 昭和初期ということに驚いたが、そもそも日本に自動車が数千台しかなかったから当たり前といえば当たり前の話なのである。ちなみにその信号機には、青灯に「ススメ」、黄灯に「チウイ」、赤灯に「トマレ」と書かれていた。

 世界初の電気式信号機はニューとヨーク市5番街の交差点に設置されたもので、日本より12年前の1918年で、この時,黄色は「進め」、赤が「止まれ」、緑が「右左折可」であったようだ。交通信号は1868年、ロンドンで始まったもので、当時電気はなく、ガス灯を使った。もちろんロンドンの町を走っていたのは馬車ばかりだった。

 なぜこんなばかばかしいことが気になったかというと、来月から住む土佐山に交通信号機が1基もなかったが、最近、初めての信号が設置されたと聞いたからだ。人口が1000人と少なく、それに伴って交通量も少ないからこれまで信号の必要がなかったのである。

「信号のない村」っていい響きじゃないですか。高知県県警で土佐山の交通事故の様子を調べたらもっと面白いことが分かるかも知れない。それにしても日本は信号機の多い国だ。

『交通信号機のルーツをさぐれ! 』(2001年、アリス館)があるらしいが、絶版である。 
mw_4.jpg
 5月25日、ドイツでの太陽光発電が22ギガワットに達し、同国での昼間のピークの半分を発電したのだそうだ。驚くべきニュースだ。東京新聞が5月29日夕刊で報じたことを某ブログで知った。Googleで検索すると時事通信が26日のロイター電を翻訳して28日に流していた。

 もちろん瞬間風速値であるから、同国の電力使用量の半分を賄ったということではないが、ロイター電によると、ドイツの再生可能エネルギー関連シンクタンク、国際経済フォーラム再生可能エネルギー(IWR、本部ミュンスター)のディレクター、ノルベルト・アルノホ所長は「先進工業国の一つが平日(25日)に電力需要の3分の1、工場やオフィスが休みの土曜(26日)には半分近くを太陽光発電で賄えることが示された」と話しているという。

 右のグラフはいささか古いが各国の太陽光発電の能力の推移を示したもの。2009年で10ギガワットに達し、その後も太陽光発電の設置スピードを加速させている。二番目がスペインで三番目が日本のグラフだ。重要なのはドイツは「ドイツの太陽光発電装置の能力は11年に7.5GW増え、さらに12年第1四半期(1~3月)に1.8GW拡大して、合計26GWとなった」ということである。15カ月で原発9基分の発電装置を増強しているのだ。日本は福島原発事故からちょうそ15カ月経つがどれほど再生可能エネルギーが増強されているのだろうか?

 また日本の他のメディアはどうなっているのだろうかという疑問を持たざるを得ない。日本社会がガラパゴス化していると多くの識者が指摘してきたが、海外で起きている電気通信やエネルギー技術の変化がほとんど伝えられて来なかったメディアの責任は大きい。また、海外に住む多くのビジネスマンや官僚たちにセンサーが欠如しているのか、本社や本省にそうした報告がなされたということも聞かない。

【参考】
22 Gigawatts of Solar in Germany on May 25
A new world record
Eric Wesoff: May 29, 2012

/http://www.greentechmedia.com/articles/read/22-Gigawatts-of-Solar-in-Germany-on-May-25/

ニュースリリース(ドイツ語)
http://www.renewable-energy-industry.com/business/press-releases/newsdetail.php?changeLang=de_DE&newsid=4168/


太陽光で原発20基分 ドイツ 過去最高2200万キロワット発電

2012年5月30日 東京新聞夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2012053002000226.html

 【ベルリン=弓削雅人】ドイツの太陽光発電能力が、五月二十五、二十六日に原発二十基分に相当する過去最高の二千二百万キロワットに達したことが、同国の再生可能エネルギー研究所(IWR)の調べで分かった。好天の影響だが、同研究所のアルノッホ所長は「過去にこれほどの太陽光発電をした国はない」と指摘している。欧米メディアが伝えた。

 同所長は、工場やオフィスが稼働した平日(二十五日)で電力需要の三分の一を、休みの土曜(二十六日)では、ほぼ半分を太陽光発電で賄えることが実証されたと強調した。エネルギー業界の調査では、同国の昨年の発電量に占める太陽光の割合は約3%。

 ドイツは、東京電力福島第一原発事故を受け、二〇二二年までに国内十七基の原発を全廃する脱原発政策を決定。再生エネの電力比率も、現在の約20%から二〇二〇年に35%まで引き上げる計画だ。太陽光発電の能力も昨年までの二年間で約千五百万キロワット増強し、計二千五百万キロワットとしている。

 ただ、太陽光発電は従来の電力買い取り制度が、安価な中国製発電パネルに対抗する競争力向上を妨げている上、電力価格の上昇につながるとの指摘が政府内で噴出。メルケル首相は三月、太陽光発電への補助の大幅削減を連邦議会(下院)で可決させた。しかし、連邦参議院(上院)は、太陽光発電メーカーの破綻を招き、エネルギー転換が進まなくなるとの立場から削減を承認していない。

ajisai800.jpg 土佐山に住むにあたって限界集落という表現が気になり始めた。困ったもんだという語感があり、なんとなく不愉快である。住んでいる人々にとっては、もともと不便な土地であり、お金で計る価値観もないはずである。高齢者としての不安はあるだろうが、「限界」などは余計なお世話である。

 子どものころ、アジア・アフリカ諸国は低開発国と呼ばれた。世界には先進国と低開発国があったわけだ。当該国にが失礼になるということでいつの間にか途上国という呼称に置き代わった。そのアジアの一部から経済成長を早めた国家群が登場した。Nics。Newly Industrializing Countries(新興工業国)の頭文字からとった。

 アジアでは韓国、シンガポール、台湾、香港、中南米ではメキシコ、ブラジルなどで急速に工業化が進み、OECDが1979年に命名した。一人当たりGDPが2000-6000ドル程度の国家群だった。その中で台湾や香港は国家でないとされ、1988年、NIEs(Newly Industrializing Economies、新興工業経済地域)と呼称変更した。アジアの4カ国はその後も成長を続け、GDPは先進国の領域に達した。日本を含めた先進国は追いつかれある部分追い抜かれた。

 7月から学ぶことになる土佐山アカデミーは高知県の旧土佐山村にある。人口は1000人。いわゆる限界集落と呼ばれる地域である。年齢65歳以上が人口の過半を占めている地域で都会の人々がかってに呼び名をつけたものだと考えていたが、高知大学の社会学者である大野晃教授が1991年に言い出したというから驚いた。低開発国は先進国側が言い出した呼称だが、限界集落は高知県で生まれたのだから、自虐的呼称といってもいい。

 都市部にある自治体はこの限界集落になんとか雇用を生み出し、若者を定着させたがっている。だが、そもそも農業や林業地域は自給自足を基本としているから雇用という概念がない。人口1000人のわが土佐山には小さなスーパーが一軒あるかぎりで、食堂はおろか喫茶店も飲み屋もない。アカデミー受講生としての一番の心配は昼飯をどうするかということである。朝夕は自炊ということでも毎日、お弁当までつくらなければならない。

 20キロ車を走らせて毎日ランチというのではしゃれにもならない。

taue800.jpg 7月から土佐山アカデミーの受講生になる。その予行演習のため、同アカデミーが主催する棚田の田植えに参加した。

 鏡川の支流の渓流沿いの棚田8枚を約20人で一緒に作業した。田植えは初めてだった。天候は予報が300ミリの雨を予想して いた。畔は狭くぬかるんで一歩間違えば下の田圃に落ちそうになる。棚田にはイモリやカエルがそこかしこにうごめいていた。深いところでは膝小僧まで埋まる。

 引かれた線の通りまっすぐに植えるのはなかなか難しい。「だから前向きに田植えした方がいいんですよ」。そんな指摘を受けて方向転換。とたんに田植えのスピードが増した。夢中になるとみんな黙ってしまう。「むかしは早乙女たちが田植え歌を歌ったんなよな」。そんな会話をしながらまた黙々と田植えが続いた。

 僕は最後ま でブーツでがんばったが、2時間後、田植えが終わるころに多くの人は裸足になっていた。植えた苗はゆるい土に申し訳程度しか差し込まれていない。こんなものでちゃんと根が張るのか不安になる。不思議なことだが苗の横をずぼずぼ歩いても苗が傾くことがない。

 広さは合わせて1反もないということだった。秋には5、6俵のコメが穫れるのだろうと思うと雨も苦にならなかった。

shishi800.jpg 田植えの後はオーベルジュ土佐山の温泉に入って、近くの囲炉裏小屋で楽しみのバーベキューが始まった。肉はシシ。3日前に仕留めたイノシシは焼き肉用はもちろん、大きな鍋に骨付き肉の煮込みもあった。「これは頭、これは骨盤」と説明が続く。「味 がついていないので、自分で塩こしょうをしてかぶりついてください」。

 かなりワイルドだが、若い女性も無心にシシの骨にかぶりついている。だが考えてみれば、シシ肉にかぶりつくなどということは大したことではないように思えてきた。

 山に生きるというこ とは、タンパク源を確保するためにシシを仕留めたり、解体したりすることも含まれる。血が残ると臭いが残るから血抜きも大変だ。そんな話も聞いた。土佐山アカデミーの授業にひょっとし てそんな体験があるとしたら大変だ。これは覚悟がいるな、そんな思いが脳裏を駆け巡った。
suiteki800.jpg
 右の写真は鈴木大拙館の池の雨の波紋である。雨の水滴が次々と波紋をつくり、交叉し合い、消えていく。音があるわけでない。色彩もほとんどない。それでもその繰り返しをいつまでも見ていたくなる心地よい造形だった。

 似たような波紋は普通の池でも見たことがあるが、この池は底が一面黒い石が敷き詰めてあり、深さも均一で数十センチほどもない浅さ。設計者の建築家、谷口吉生氏がここまで計算していたかどうか分からない。たぶん偶然の造形なのではないかと想像している。

 昨年秋に金沢を訪れた時の驚きは「鳥肌立つ鈴木大拙館のある空間」で書いた。それは館内の光の芸術について言及したものだった。最近の全日空の機内誌に鈴木大拙館の池を絶賛する記事が掲載されていた。

「展示室を出ると、突然、視界が広がり、水盤の庭と白い建物が姿を現します。水盤に面した廊下を進み、この建物に入ると、そこは展示も何もない空間です。ここまでこの建築をめぐってきて、最後の空間で出合う突然の空間に戸惑ってしまいました。なんだか迷子になったような不安感が滲みよってきます。しかし、ここからもう一度水盤を眺めて気づくのです。ここに至るまでの行程が、ここで始まる「思索の時間」のプロローグだということに」

 筆者の広谷純弘さんはその水盤を絶賛する。「この水鏡に時々、小さな音と共に波紋が生まれます。波紋は静かに広がり、やがて水面に吸収され、元の完全な水平面が姿を現すのです。その繰り返しを眺めていると自分もそこに同化したような感じとなります。・・・」

 全日空の機内誌を読むまで、なんとも表現のできない不思議な池だと単に思っていた。文筆家の手にかかるとここまで表現できるのかとあらためて自らの表現力のつたなさに思いを寄せた。それでも安心したのは広谷氏が最後に「ここでの体験を、うまく伝えることができるでしょうか」と文章を締めくくってくれていたことだった。それほどに伝えることの難しい空間の美が金沢にはあるのです。
2005年02月28日(月)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
leaf_line.gif
 今年2005年は、アインシュタインが特殊相対性理論を発表して100周年、彼の死後50周年ということで、世界各地でアインシュタイン年の行事が催されている。

 ドイツ http://www.einsteinjahr.de/
 イギリス・アイルランド http://www.einsteinyear.org/
  (このサイトになぜ日本語表記があるのだろう?)

 アインシュタインは日本と深い縁がある。E=mc2という公式で有名な特殊相対性理論は、物質がエネルギーに変換されうることを示した。言うまでもなく、広島・長崎に投下された原爆は、この公式の現実化であった。

20110329150344e98.jpg 原爆開発のきっかけを作ったのもアインシュタイン自身であった。1939年8月、彼は数名の科学者たちの代表として、アメリカ大統領ルーズヴェルトに原 爆の製造を進言した。ドイツ系ユダヤ人である彼は、ヒトラーが政権を取った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに移住していたが、ユダヤ人迫害を 進めるドイツが原爆開発に着手したとの情報に接し、強い危機感をいだいたのである。

 アインシュタインはその後のマンハッタン計画にはまったくノータッチであった。原爆が完成した時にも、彼は日本に投下することに反対した。彼は広島・長崎の惨事に直接の責任はない。しかし、彼はこのニュースを痛恨の想いで聞いたのであった。

 アインシュタインは1922年(大正11年)に来日し、大の親日家になっていたからである。

 ■来日

 アインシュタインは、雑誌・改造社が企画した日本講演旅行を承諾し、1922年10月8日、妻のエルザとともにマルセーユで日本郵船の北野丸に乗船し た。彼がまだ香港から上海に向かう船上にいた11月10日、1921年度のノーベル物理学賞が彼に授与された。このニュースは、相対性理論という神秘的な 学説を樹立した世紀の天才物理学者に対する日本人の熱狂的崇拝をいやが上にも高めた。

 11月17日に神戸に上陸したその瞬間から、日本中、彼が行くところ、アインシュタイン・フィーバーが巻き起こった。それは、最近のベッカム様人気やヨ ン様ブームどころの規模ではなかった。物珍しいものに熱狂する日本人の国民性は、昔も今もあまり変わっていないようだ。あまりの騒動に最初は驚きあきれ、 時には殺人的なスケジュールに閉口していたアインシュタインであったが、その背後に日本人の純粋な敬愛の念があることを知って、彼は日本と日本人を心から 愛するようになった。

 ここでは、日本におけるアインシュタインを詳しく描いている金子務著『アインシュタイン・ショック』(1)(2)(河出書房新社、1981年)と、杉元 賢治編訳『アインシュタイン日本で相対論を語る』(講談社、2001年)を中心に、アインシュタインの日本および日本人観を紹介したい。

 まず北野丸に乗船した最初の日の印象――

「乗組員(飾り気のない日本人たち)、友好的、まったくペダンティックでなく、個性的なところはない。日本人は疑問を持たず非個性的で、自分に与えられた 社会的機能を晴れやかに尽くし、思わせぶりもなく、しかもその共同体と国家に対して誇りを持っている。その伝統的な特色をヨーロッパ的なものの故に放棄し て、その国民としての誇りを弱らせることはない。日本人は非個性的だが、実際はよく打ち解けている。おおむね社会的存在として自己自身のためには何も所有 しないかのようであり、何かを隠したり秘密にしたりする必要はないようだ。」(金子(1)199頁)

 アインシュタインの日本人に対する第一印象は、その「非個性」と「共同体と国家に対する誇り」である。これは、欧米人と比較して日本人の特色としてあげ られる集団主義に、彼が最初に違和感をいだいたことを示している。しかし彼は、ヨーロッパ中心主義的に、それをすぐさま否定的評価につなげることはしな かった。彼は事実は事実として冷静に観察している。日本人と日本文化により深く接触するにつれ、彼は「非個性」の背後にある純真なものに気づいていくので ある。

 ■脱西欧の夢

 アインシュタインが日本行きを承諾した背景には、彼の東洋への憧憬があったように思われる。すでにベルリンで数名の日本人が彼の住まいを訪問していた。彼らの報告によると――

「もともとベルリンのアパートは、東洋趣味の絵や陶製人形で飾られ、茶器も菓子器もそれで統一していたという。《私が行きたいのは東洋だけ》と、アインシュタインは日本人の来訪客にしばしば語っている。」(金子(1)196頁)

 神戸に上陸したときの記者会見で来日の目的を聞かれて、彼はこう答えている――

「それは2つあります。1つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめてみたい――とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きして みたい――ということ、もう一つは、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことは自分の使命であると考えることです。」(金子(1)28頁)

 アインシュタインもまたハーンと同じように、脱西欧の夢を見ていたのかもしれない。

 第一次世界大戦敗北後の社会的・経済的混乱の中で、ドイツでは反ユダヤ主義が高まっていた。フランスとの賠償交渉をしていたユダヤ系の外務大臣ラーテナ ウは、1922年6月に暗殺されていた。当時、学術で文字通り世界最高峰のベルリン大学正教授の地位にあったアインシュタインも、ユダヤ人であることを理 由に度々不快な経験を味わっていた。

 日本は第一次世界大戦では戦勝国になっていたが、まだ軍国主義がそれほど濃厚にはなっておらず、いわゆる大正デモクラシーの自由な雰囲気が残っていた。 しかし、あとでも見るように、アインシュタインは日本に忍び寄る軍国主義の気配も鋭く感じている。ともあれ、彼にとって日本旅行は、騒然としたドイツから 離れられる、心休まる解放の一時となったのである。

 ■国民性、自然、芸術

 来日2週間目にアインシュタインは、雑誌『改造』のために、「日本における私の印象」というエッセイを書かされている。ここでは杉元賢治氏の訳からその一部を紹介しよう。

「もっとも気のついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極と うぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみと るための熾烈な闘いがあるのです。・・・
 しかし日本では、それがまったく違っています。日本では、個人主義は欧米ほど確固たるものではありません。法的にも、個人主義をもともとそれほど保護する立場をとっておりません。しかし家族の絆はドイツよりもたいへん固い。・・・」(杉元141頁)

 アインシュタインはこのように、欧米の個人主義が行き過ぎであることを指摘し、むしろ日本の家族主義、集団主義に親しみを感じている。この文章を今日の 我々が読むと、現代の日本も相当に「すさまじい個人主義」の社会になりつつあることに気づく。経過した時間の長さと社会の変化を思わずにはいられない。

 彼はさらにこう続けている。

「日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれる一つの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。・・・
 個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそう思えません。この伝統が発達して きたのは、この国の人に特有な感情のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優れていると思われる同情心の強さゆえでありましょう。」(杉元142頁)

 来日2週間で彼はすでに、ヨーロッパ人よりも自己主張の少ない日本人の「非個性」、感情表現の抑制の背後に、ヨーロッパ人よりも「同情心」に富んだ繊細な魂を感じ取っている。

 今日でも欧米人の中には、何年日本に住んでいても、日本の生活や文化をすべて欧米中心的な価値観でしか判断できない人びとが大勢いる。それに比べると、 これは希有な観察力、感情移入力と言わなければならない。アインシュタインは、科学者として超一流であったばかりではなく、人間としても、偏見のない豊か な感受性に恵まれた人物であった。彼は、人種や宗教や文化の違いによって他国民を軽蔑することがなかった。

 そういうアインシュタインの人間性が知られるにつれ、日本人はますますアインシュタインが好きになり、尊敬するようになった。

 アインシュタインが日本で最も強い感銘を受けたのは、日本の美しい自然と、自然と一体になった芸術であった。やはり「日本における私の印象」から――

「この点〔日本の芸術〕、私はとうてい、驚きと感嘆を隠せません。日本では、自然と人間は一体化しているように見えます。・・・この国に由来するすべてのものは、愛らしく朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。
 かわいらしいのは、小さな緑の島々、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている 小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。」(杉元142~3頁)

 ■離日

 日本で数々の心あたたまる歓待を受けて、12月29日、アインシュタイン夫妻は門司港から日本郵船の榛名丸に乗船し、帰国の途についた。

 離日の前日、『大阪朝日新聞』は彼の日本国民への感謝のメッセージを掲載した。

「予が1ヶ月に余る日本滞在中、とくに感じた点は、地球上にも、また日本国民の如く爾(しか)く謙譲にして且つ篤実の国民が存在してゐたことを自覚したこ とである。世界各地を歴訪して、予にとつてまた斯くの如き純真な心持のよい国民に出会つたことはない。又予の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然に ついては、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然にかなひ、一種独特の価値がある。故に予はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感 染をしないことを希望する。又福岡では畳の上に坐つて見、味噌汁も啜つてみたが、其の一寸の経験からみて、予は日本国民の日本生活を直ちに受け入れること の出来た一人であることを自覚した。」(金子(1)245~6頁)

 ここでもアインシュタインは、日本人の国民性と芸術と自然をほめることを忘れない。翻訳や郵送の時間を考えると、この文章は数日前に書かれたものであろう。福岡の味噌汁のことが触れられているので、12月25日かもしれない。彼は乗船のためにそれから門司に移動した。

 新聞の文章はやや社交辞令的であるが、12月26日の門司での記者会見では、彼はもう少し率直に印象を語っている。

「日本にきて特に気になるのは、いたるところに軍人を見かけ、平和を愛し平和を祈る神社にも武器や鎧が飾られているのは、全人類が生きていくのに不必要な ことと思います。それからもう1つは、大阪の歓迎会では会場が日本とドイツの国旗でうめつくされていて、日独親善の気持ちは感謝しますが、軍国主義のドイ ツに住みたくないと思っている私には、あまりいい気持ちはしませんでした。」(中本静暁著『関門・福岡のアインシュタイン』新日本教育図書、71頁)

 あらゆる日本への賛嘆にもかかわらず、平和主義者アインシュタインは日本の軍国主義を受け入れることができない。彼のこの言葉は、その後の日独関係を知っている私たちには、まさに予言的に響く。彼はさらにこう続けている。

「また、いたるところで外国のものにかぶれているのは、日本および日本人のために好ましくありません。着物は非常に優美だが、活動に適していないので、こ れからは洋装になっていくでしょう。とにかく日本の風習の中で、保存すべきものまで破壊しようとする気風には感心しません。日本の建築はすみずみまで手が 入り込んでいて、外国の彫刻をみるようでした。一言でいえば、日本は絵の国、詩の国であり、謙遜の美徳は、滞在中最も感銘をうけ忘れがたいものとなりまし た。」(同、71~2頁)

 何度も見てきたように、アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建築をはじめとする日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であった。しかし、欧米化の潮流の中で、日本が伝統的な美質を失いつつあることも、彼は鋭く見抜いている。

 もちろん多少のお世辞も含まれて入るであろうが、これらのメッセージは、アインシュタインの日本と日本人への敬愛の念を証明している。船上で日本に別れ を告げるアインシュタインの目には涙が浮かんでいたという。日本は彼にとってまさにアルカディア(楽園)になったのである。ドイツに帰国後も、アインシュ タインは手紙を通じて日本人とたえず交流を続けた。

 ■原爆と世界平和運動

 広島に原爆が投下されたニュースを聞いたとき、アインシュタインはドイツ語で"Oh, weh!"(ああ、なんたることだ!)という悲痛な叫びをあげたきり、沈黙したという。彼は後年、

「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。それはルーズヴェルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です」(金子(2)270頁)

と語った。また、

「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」(ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』工作舎、188頁)

とさえ述べている。

 アインシュタインはドイツにいた当時から断固たる平和主義者であったが、この罪意識は、晩年の彼をいっそう強く平和運動に駆り立てた。それは世界政府建設の運動である。

 アインシュタインの平和運動にも、日本人が関わっていた。

 1922年の来日の時、アインシュタインの通訳として彼の身の回りの世話をしたのは、稲垣守克であった。アインシュタインは彼を親しみを込めて「ガキ」と呼んでいた。

 終戦後、財団法人「世界恒久平和研究所」に関係していた稲垣は、1947年(昭和22年)、アインシュタインに協力を求める手紙を書いた。稲垣の要請によって書いたアインシュタインのメッセージは、昭和23年の年頭に朝日新聞に発表された――

「このような〔原爆のような大量破壊兵器の〕不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政府を樹立することである。
 こういう広範な権限をもつ世界政府の樹立は、すべての国の民衆が次のことを十分に理解した時にのみ可能である。すなわち諸国民の伝統的思想と気持にこれほど適応した、そして安い道はないということを。
 こういう根本的変化を可能ならしめ、そしてこれを手おくれにならないうちになしとげるためには、すべての国で教育啓発事業を熱心に辛抱強く行うことが必要である。」(金子(2)240頁)

 稲垣は、アインシュタインの後押しもあって、ジュネーブの「世界連邦政府のための世界運動」と連携を取り、日本に「世界連邦建設同盟」(世連)を作っ た。稲垣が理事長で、総裁に尾崎行雄、副総裁に賀川豊彦をすえた。のちに湯川秀樹も世連にかかわるようになった。世連の組織は現在も存在している。

 1949年にソ連が原爆実験に成功、53年にはアメリカに先んじて水爆実験にも成功した。アメリカも54年にマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験に成功。その時、死の灰をかぶったのが第五福竜丸であった。

 世界の行く末を憂慮したアインシュタインは、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに1955年4月11日、核兵器廃絶と戦争廃止を訴える 「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。その2日後、彼は病に倒れ、18日に帰らぬ人となった。彼の遺言とも言えるこの宣言には、湯川秀樹ら世界 の著名な学者9名が署名に加わり、のちのパグウォッシュ会議へて発展していくことになった。

 ■アインシュタインの予言?

 ところでインターネットの世界には、「アインシュタインの予言」という奇妙な文書が出回っている――

「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
 一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
 私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
 世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。
 その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。
 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
 それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。
 われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」
http://www.aiweb.or.jp/en-naka/column-5/column.htm

 これは、清水馨八郎氏の『日本文明の真価』(祥伝社黄金文庫、平成14年)から取られているという。ほかにも、多少文言は違うが、インターネットには似たような文章があちこちにある。

 清水氏の著書を参照したが、上の文書とは文言が若干異なっているが、ほぼ同じである。しかし、清水氏の著書にもその出典が出ていない。清水氏も、何かの 本から引用したのだろう。引用していくうちに、少しずつ文言が異なってしまい、色々なヴァージョンがインターネット上に出回る結果になったものと思われ る。私も、昭和40年代後半~50年代にこの種の文書を読んだ記憶があるが、その本は、書棚のどこかに紛れ込んで見つからなかった。

 今回、アインシュタインと日本というテーマに関係する本を何冊か読んでみたが、このような「予言」はどこにも掲載されていなかった。明らかに、新聞や雑誌に発表された文書ではない。それでは個人的な私信なのであろうか? この文書はそういう趣からもほど遠い。

 おそらくこれは創作(インチキ)である。その理由はこうである。

 来日の時、アインシュタインは天皇あるいは天皇制にはほとんど関心を示していない。彼は赤坂離宮での観菊御会に招待され、皇后陛下の謁見を賜わったが (大正天皇はご病気、摂政宮〔のちの昭和天皇〕は関西での陸軍大演習のためお留守)、この日の彼の日記には、フロックコートを借りるのに苦労したこと以外 には、とくに目立った記録はない(金子(1)172頁)。

 日本で彼の印象に残ったのは、いつでも自然と芸術の美しさ、そして日本人の素直な国民性であり、日本の歴史への関心は薄かった。

 彼はまた、どちらかというと社会主義的な信条の持ち主であった。彼は1930年に、彼をキリスト教に改宗させようとしていたヘルマンスにこう語っている。

「ご存じのとおり、私は社会主義者だ。関心があるのは、すべての人の幸福と、社会主義国建設のために個人の知的自由を獲得する必要性を若い人たちに教えることだけだ。」(ヘルマンス27頁)

 そういう彼が君主制の一種である天皇制をわざわざ賛美するということは、まずありそうもない。また、戦後の彼の世界政府構想においても、「世界的な盟主」の必要性については一度も触れられていない。

 アインシュタインの目が常に日本の一般民衆に注がれていたのに対し、上の文書は「一系の天皇」「尊い家柄」「尊い国」を強調する、典型的に右翼的な発想である。

 さらに彼は、日本が西欧化の中で伝統的な生活文化を失うことへの危惧を表明していたが、「予言」は「近代日本の発展」を素朴に肯定している。

 上の文書は、アインシュタインの思想とは相いれないのである。

 古い伝統と近代的な科学技術の両立を誇ることは、いわゆる日本人論によく見られる発想である。日本の美点を外国人の口を借りて賛美するために、外国人に なりすますという手法も時々見られる(イザヤ・ベンダサン=山本七平)。ここでは、自分の個人的信念をアインシュタインの名前によって権威づけているわけ である。

 このような創作は、明らかに清水氏に始まったものではなく、相当以前から行なわれている。その最初の出どころがどこなのか、ぜひとも知りたいものである。萬晩報の読者で、何かの情報をお持ちの方は教えていただければ幸いである。

 ■日本とアインシュタイン

 1949年、プリンストンにアインシュタインを訪ねた稲垣は、彼を日本に再招待した。老齢でしかも健康を害していたアインシュタインは、

「いやもうどこにも行けない。こんど生まれ変わったら第一に日本を訪れよう」(金子(2)251頁)

と答えたという。

 大好きな国・日本――直接的責任ではないとはいえ、自分はその国に原爆を落とすきっかけを作ってしまった。アインシュタインの心情は察するにあまりあ る。アインシュタインが生まれ変わったなら、まず第一に広島・長崎を訪れようとするにちがいない。そして、慰霊碑の前に額ずき、まず「安らかに眠ってくだ さい。過ちは繰り返しませぬから」とつぶやくのではないか。

 今年は相対性理論100周年、アインシュタイン死後50周年であるばかりではなく、広島・長崎原爆60周年でもあり、第1回原水爆禁止大会開催から50周年でもある。

 1954年の第五福竜丸事件をきっかけに、日本では原水爆禁止運動が高まり、翌55年に、第1回原水爆禁止大会が広島で開かれた。しかし、この運動には 当初から社会党・共産党の政治的イデオロギーが持ち込まれ、日本の平和運動は政治に翻弄されることになる。左翼イデオロギーが、被爆国民・日本人の素朴な 平和への願いを、反米・親ソ・親中という政治的目的に利用しようとしたことは紛れもない事実である。

 ごく最近、北朝鮮は核兵器を所有していると公言し、アメリカもまた戦場で使える小型核兵器の開発を計画しているという。核の危機はいまだ去っていない。

 「このような不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政 府を樹立することである」という言葉は、今日でもますます強く妥当する。世界の現状はいまだアインシュタインの理想からほど遠い。

 日本人はこの節目の時にあたり、日本の平和運動を、右翼的であれ左翼的であれ、政治的イデオロギーから解放し、国民の大部分が心から賛同できるものに再 構築する必要があるのではなかろうか。その時、アインシュタインの世界平和への願いと平和構想は様々な示唆を与えてくれるにちがいない。広島・長崎で彼が どのような平和への指針を語るか、ぜひとも聞いてみたいものであるが、それは叶わぬ夢である。

 言い古されて手垢がついてしまった言葉ではあるが、核廃絶への努力は、被爆国民としての日本人の人類に対する責務であると思う。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

515+QbmjnzL._AA300_.jpg 羽田空港は梅雨空。

 東京で、マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』を読了した。題名の割にはそんなにショッキングの内容ではなかったが、一つ学んだ部分がある。第三章「いかにして市場は道徳を締め出すか」の中で、スイスでの核廃棄物処理場問題について興味深い記述があった。

 多くのコミュニティーが核廃棄物の貯蔵に反対する中で、スイス中央部のヴォルフェンシーセンという小さな山村(約2100人)が住民投票を行う前に数名の経済学者が意識調査をした。「連邦政府がこの村に核廃棄物の処理場を建設すると決定したら、受け入れに賛成票を入れるかどうか」を聞いた。

 驚くべきことにぎりぎりとはいえ51%の住民が賛成すると答えたというのだ。さらに面白いのは次の段だった。

 続いて質問したのは「もし連邦政府が核廃棄物処理場の建設に併せて住民に毎年補償金を支払うと申し出たらどうするか」と問うたところ。今度は賛成票が25%に減ったというのだ。しかも補助金は一人当たり年間8700ドルにものぼる金額だ。補償金の金額を増額してもその結果は変わらなかったというのだから面白い。

 調査した経済学者ブルーノ・フライとフェリックス・オーバフォルツァー=ギーは「共通善への貢献を含む道徳的配慮によって、ときとして価格効果が打ち消される場合がある」と指摘しているという。

 スイスという国家が原発を選んでしまったことに「どこかが犠牲にならなければならない。もし国家が求めるなら・・・」という村人の矜持なのだろう。お金で解決できないことがあることをスイスの村民が示した例であろう。

 【参考】財団法人原子力研究バックエンド推進センターの「RANDECニュース」2006年1月号No.67に下記のような記述があった。
  1994年にヴェレンペルグの属するコミュニティ「ヴォルフェンシーセン」で行われた住民投票では、建設及び操業の実施会社(GNW)を受け入れることに対して63%の賛成が得られた。また、処分場としての土地利府計画に対しては71%の賛成が得られた。

北東アジア経済圏構築の重要性
EUの危機とドイツ景気から学ぶ

龍谷大学社会学部教授 中野 有

180567_100439453368154_3580749_n.jpgかれこれ20年ほど、一貫して北東アジア経済圏の重要性を唱えてきた。理由は北朝鮮問題を解決するベストのシナリオは、日本と韓国の技術力と資金、中国の労働力、極東ロシアの天然資源、北朝鮮の労働力が相互補完的にシンクロナイズされることにある。北米とEUに並ぶ自然発生的経済圏が構築されることにより対立から平和にベクトルが変化し、アジア太平洋時代の繁栄の主軸となるからである。

仮にこの地域の対立が先鋭化し紛争が勃発した場合、天文学的数字の損失が発生するのは自明の理である。また、予防外交の視点で北東アジア経済圏の重要性が利害関係国の同意のもとに推進された場合のシナジー効果は政治、経済、社会、安全保障と全ての分野に浸透する。

特に、勢力均衡型や集団的安全保障を超越した経済協力や共生を主眼とした協調的安全保障が成立する。この安全保障のパラダイムは21世紀型安全保障として歴史に刻まれる可能性もある。

20年前にこのような理想を抱き実現のための活動に関与してきたが、今、新たな視点でこの構想の必要性を感じている。その発想の源泉はギリシャに端を発するヨーロッパの経済危機を尻目にドイツが一人勝ちしていることにある。

東西ドイツの統一にあたり西ドイツの負担を軽減することや統一ドイツのパワーを削ぐなど経済や安全保障等の様々な角度から協議が重ねられEUの構築が実現した。恐らくドイツの戦略家は、マルクからユーロにシフトされるメリットとして高付加価値製品を基軸とするドイツ産業が一人勝ちすることを戦略思考していたのではないだろうか。と考えられる。ユーロが弱くなることでドイツの輸出産業が活性化される。という単純なことを。

日本とドイツの産業構造は似ている。両国ともに天然資源に恵まれず先の戦争の敗戦国であり自動車など付加価値の高い輸出産業で国が栄えてきた。似た国であるがユーロ安と円高という対極的な外国為替の動向が経済成長の命運を分けている。ドイツが賢いのは、EUの中心的存在となりその経済圏内で不協和音が生まれユーロ安になったケースにおいてもなおドイツ経済が活性化されるというシナリオを創造したことにある。

一方、日本は中途半端な規制緩和やグローバリゼーションの推進によりリカードの唱えた比較優位理論による貿易や国際水平分業が効率的に行われていない。財政赤字が膨らみ貿易赤字も発生し、株価が低迷しているのに異常なレベルの円高水準が継続している。従って、産業の空洞化が継続して発生する状況にある。

これを打開する方法として冒頭に述べた北東アジア経済圏構築が考えられ、加えて円、人民元、ウオンが北東アジアの共通通貨に成長することにより異常な円高を修正することを可能にする。つまり、ドイツがEUとユーロの メリットを生かし付加価値の高い産業を中心に経済成長を達成しているように、日本も北東アジア経済圏構築による恩恵を得ることができると考察される。

今月から円と人民元の直接取引が始まった。ドルとユーロの価値が落ちる中、アジアの主要通貨が注目されている。今こそ、経済、社会、安全保障そして歴史の潮流を鑑みると北東アジア経済圏構築の絶好のタイミングではないだろうか。

むかし他社の先輩記者に聞いた話である。

「入社したばかりのころデスクからお前いつになったら記事書くんだっていわれたんだよ。『毎日、毎日、書いているじゃないですか』って言い返したら、「発表ものは記事じゃない」って言われてぐうの音も出なかったんだ」

昨年8月、請われて関西のある大学のジャーナリスト講座で授業をしたとき、「ジャーナリストなんて偉そうなことをいっているが、記事の95%は発表ものだ。残りの数%も発表を予定している内容を数日早く書いただけで、世の中でスクープと評価されているが、観音様の手のひらの孫悟空を演じているに過ぎない」と話した。記者として34年を終えた実感だった。

授業が終わって担当教授から「あんまりですよ。ジャーナリストを目指している若者が失望するじゃないですか」と強い口調で講義された。定年後に大学の先生も悪くないと思っていたが、「これじゃ、大学の先生にもなれないな」と実感した。
野田内閣のいまごろの内閣改造はまったく意味が分かりません。消費税増税のためなら、自民党にすり寄り何でもいうことを聞きますという姿勢を鮮明にしています。このまま民主党が二分し、解散総選挙で自民党に政権が戻ったのでは元も子もありません。

現在の民主党がいいとは思いませんが、自民党よりは多少ましだと思っています。自民党は官僚におもねることで存続してきた政党です。

ここ20年、日本の政治は短期政権が続いていて国際的にも信頼性を失っています。政治家にビジョンと決断力がないのはもちろんですが、傍から見ていて官僚のミスを政治家が取ることがいかに多いかということを思い知らされています。

福島原発事故で菅首相の指導力が問題視されましたが、あれほどの国家的危機においても、経産相と東電がも福島の原発をなんとか存続させようとしたことが混乱の引き金となっていると思います。初動段階で、福島原発が使えなくなっても仕方ないという判断があったなら、事態はもっと違っていたと思います。
 有名なメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」で驚きのニュースが中国情報が配信された。「共産党トップの85%の家族が外国籍」という5月28日発売号の香港誌『動向』のニュースだ。驚きと言うより、アジアの経済大国として哀しい思いである。

 メルマガによると「共産党ヒエラルキーは政治局常務委員9人、政治局25人(左常務委員を含む)。そして、中央委員、中央委員候補の四層からなるが、中央委員204人のうち187名の家族親戚は海外居住、すでに外国籍を取得しており、中央委員候補167名のうち142名が同様に海外拠点、外国籍保有という凄まじい実態が判明した」という。

 つまり中国共産党幹部の家族親戚のほとんどが中国人でないということである。20年以上前、アジア経済を取材していたとき、台湾で聞いた話であるが、海外留学組の3分の1も帰国しないという悩みである。欧米に留学してそのまま欧米有力企業に就職してしまう、「頭脳流出」という悩みだった。

 台湾ではいつか中国に飲み込まれてしまうという懸念があり、海外に籍を置いて仕事をすることにはある程度理解ができることだった。しかし、世界第二位のGDP国にのし上がり、いまだに高い経済成長率を維持している国家の指導層が国を捨てるという意味が分からない。

 宮崎さんは「嵐の前に蟻も蛙も安全地帯へ逃げる。共産党支配、まもなく瓦解するのではないか」と書いているが、もし本当ならば、中国は国家の体をなしていないということになる。それどころかアジアの矜持すら持っていないのかもしれない。そう考えると哀しくなる。

 20年前まで日本がアジアで唯一の経済大国として欧米と互角に戦ってきた。筆者としては中国にその矜持を引き継いでほしいと考えてきた。人口や国土の広さからみて本来は中国がアジアのエンジンの役割を果たすべき国家と考えてきた。日本が20世紀にエンジン役を果たしてきたのは「仮の姿」なのだと思ってきた。

 その中国が21世紀に入ってようやくその役割を果たす段階に入ってきたはずなのに、中国共産党指導層の志がこと体たらくである。その程度の志の国家だったのかと思う時、だから中国が西洋各国によって分割されたのだと考えざるを得ない。

 もう一度、孫文の革命精神に立ち戻り、アジア復興の中国であってほしい。



このアーカイブについて

このページには、2012年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2012年5月です。

次のアーカイブは2012年7月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ