賀川豊彦が語るメノナイトの絶対反戦主義

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Scan111-thumb-200x290-104.jpg 賀川豊彦の著作の「自炊」を続けている。4月からは財団法人国際平和協会がかつて発行していた機関誌「世界国家」に掲載された賀川論文やエッセイの作業を続けている。この中で絶対平和主義を貫くキリスト教の一派「メノナイト」について書いているのが興味深い。

 ルーターの宗教革命に端を発した運動で、もともとはドイツ系の人々によって起こされた。戦争に反対するということは兵役を拒否することにつながり500年にわたって各地で迫害を受けた。ドイツ語圏で迫害を受けた彼等はロシアのウクライナに移り、レーニン革命時にはブラジルに移住した。その一部がアメリカにも移住し、クエーカーともども兵役拒否を認められているという。

 トルストイの平和主義もメノナイトにから始まっているという。画家のレンブラントもまたメノナイトだったという。500年の年月、主義主張を変えない「宗派」がいまも存在すること事態が驚異的である。今日は憲法記念日。風化しつつある日本国憲法の平和主義をもう一度考えたい。

 メノナイトの絶対反戦主義 賀川豊彦

  山羊を送ってくれる人々

  戦後日本に山羊や牛を親切に送ってくれる人々は、普通ブラザレンとよばれているけれど、実はメノナイトと称せられている団体に属しているのである。メノナイトは400年以上もつゞいている誠に珍しい宗団で、絶対反戦主義キリスト教的共産主義を実践し、一種の無政府主義さえ実行して、官吏拒否、世俗解脱を唱えて来た興味ある人々である。世界の歴史に於て、宗教的共産主義生活を喜んで一同がやっているのは彼等だけであるといえよう。

 私は12年前、米国のインデイアナ州其他で彼等と親しくなったので、戦後日本を助けるのに官吏を認めぬ彼等は、私と連絡をとってくれた。生き物なら一時的に消耗してしまわず、だんだん殖えて長く役に立つから山羊を送ろうかと交渉して来たので、私は「是非ほしい」と電報をうった。250頭ずつ10ヶ月間合計2500頭送ってくれることになっている。彼等はこの事業でも解るように、山上の垂訓を文字通り実行しているが、その点を我々も学びたいと思う。

   剣を持たなかったフッタア

 メノナイトの歴史は宗教改革の昔にかえらねばならない。ライン河はスヰス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダの諸国を流れていて、鉄道のなかった時代には、ヨーロッパ諸国を連絡する脊髄ともいうべき、地理的ルートであった。ルッターは1521年にウヰッテンブルグ教会の入口に、法王排撃の改革的95ケ条の宣言文をはりつけた。ウイッテンブルグはライン河畔フランクフルトに近い町だったので、ルッターの宗教革命はスヰスにもすぐ影響を与えた。ルッターの主張に動かされて聖書をよむと、今まで聖書をよまさなかった法王のやっていることに、色々と間違ったことが発見された。そして今迄圧迫されていた農民達が、一斉に革命をやりたいと思うようになって来た。

 それらのスヰス人のうち最も厳格な信仰を把持していたのは、ヤコブ・フッタアに指導された一団であった。フッタアは宗教改革の先駆者達が剣をもっていたのに極力反対した。スヰスより起ったツヰングリーは強力なカトリック側のハップスブルグ家と激しい戦を試みて、遂に戦死をとげた。ルッターもウイッテンブルグでは身辺が危くなったので、北方のサクソニー侯の城に逃げて活動をつゞけた。その時いつ危険が迫って来るかわからぬので、ルッターはサクソニー侯から武士の待遇をうけ、いつも剣を携えていた。しかしフッタアは山上の垂訓を文字通り実行すべきことを主張し、ツヰングリーやルッターに反対して、戦争は絶対に神の心に反するものであるとし、絶対非戦論を唱えた。当時新教の牧師でサアベルや懐剣を待たずに歩いて活躍したのはフッタアだけであったと伝えられている。

 彼は同志にも剣を持たさず、家に鍵をかけさせず、徴兵にも反対させた。当時ドイツには数十名の大名があり、その上にハップスブルグ皇帝がいて、お互に勢力を張り合っていたので、どうしても強力な兵士を持っていなければならぬために、戦争に反対するフッタアの群は大名たちからひどい迫害を受けていぢめられ通した。ルッターさえサクソニー侯の助をうけていたので、宗教と政治とがからまっていた。それをフッター達は否定し、官吏の拒否と戦争反対を実行していた。

  農民戦争の失敗

 宗教改革の流はオランダに近いコローンから少しはなれたミュンステルの農民達の中にも大きな感化を与えた。そこへオランダのライデンから来た普通「ライデンのジョン」という人物が彼等を指導して大きな運動となった。ライデンのジョンはフッターと同じく、赤坊の時に洗礼をうけても意識がないのだから無駄であると主張し、赤坊の洗礼を禁止したのでアナバプテストと呼ばれている。アナバプテストの運動は猛烈になって、農民達は税金、徴兵に反対して小作争議を起したが、それがだんだん大きくなって遂に大名達への謀反となり、歴史上有名な農民戦争となってしまった。

 勢力が強大になるにつれ、ライデンのジョンは妙なことをいい出した。初めは純粋な宗教的動機から謀反していたのであるが、余り過激になったため脱線したのであろう。自分は来るべきキリストの生れ代りだというのである。

 洪秀全がバプテスト教会のリーフレットをよみ、太平天国運動を起したが、やはり同じようなことをいって失敗したようなものである。純な宗教運動が余り過激になると間違を起しやすいことはよほど注意しなければならない。ジョンは間もなく、ダビデ王の生れ代りである、ダビデは妾を持っていたから自分も妾を持ってもいゝといい出した。

 山上の垂訓とすっかり離れた彼の指導が失敗するのは当然で、ミュンステルで敗北を告げてしまった。

  サイモン・メノール

 その後、オランダのカトリック教徒だったサイモン・メノールという人が、山上の垂訓を実行するためには、カトリックのように法王制では地上の権力と妥協される危険があるので、先ず政治的勢力を否定しようと主張し出した。官吏になると権力を利用して堕落するから、信者全部が世俗と結ぶことを避けることになった。それで個人の隠遁のみならず信者全体が隠遁せねばならぬと考え、信者は山の中や谷の中にはいり、貧しい生活をつゞけた。彼等は社会から全く分離していたので、どうしてもお互に助け合いをしなければやってゆけぬから、自然共産主義生活を実行するようになった。

 かくて山上の垂訓を文字通り実行せんがために、彼等の苦労にみちた努力が始められた。彼等はルッターもサーベルをつけているから、口だけで信仰信仰といってもうそだと考え、カルビンも人を救うのが神の予定であるといっているが、それならば人が罪を犯したのも神の予定だといわねばならぬからいけないと考えた。そして唯あくまで山上の垂訓を実行して、キリストの教訓を完全に実現することを求めて全力をつくした。

  散らされたメノナイト

 このメノールの教を奉じた人々は、余り激しく迫害せられたので、一部は「低地ドイツ」の政府と妥協してその地に止まったが、あく迄徹底を求めた人々は、ロシヤに逃げ込んだ。1725年ロシヤの女王カザリンがシベリヤは人口が足りなかったので、戦争はしなくてもよいという条件で招いたのに応じて、シベリヤに移住した。彼等はあく迄徹底して戦争に反対し、セブンスデー・アドヴェンチストの如く、キリストの再来を祈り求めて、教育も余り重んぜず、余裕のない生活を送った。大体農業をやり、人口が増加すれば他の地方へ移住して開拓した。

 ところがシベリヤへ移住した人達は、蒙古人から非常にいぢめられた。蒙古人は彼等の無抵抗なのを知り、美しい妻や娘達や、牛や羊を盗むために再三襲撃したので、それで止むを得ず蒙古人と争わねばならなくなり、一ばん可哀想であった。そのメノナイトが文豪のトルストイに強い感化を及ぼし、彼の反戦主義はこゝから来たのである。トルストイが晩年逃げて来たのも。メノナイトの修道院であった。

 そんな事情で大体のメノナイトはウクライナ地方におさまり、現在はバプテスト系の数百万になっている。ウクライナ共和国がドイツ系の人々によって成り立っているのは其のためである。彼等のうち皇帝政治と妥協したものは、バプテスト教会と称して、今日も教会が盛んであって、徴兵に賛成したものはレーニン時代になって認められて無事だった。

 が、あく迄徴兵に反対し、独裁的な共産主義に服さぬ者はブラジルへ大挙移住したり、又北米合衆国やカナダへ逃げ出した。米国のメノナイトの本山ともいうべき所は、ペンシルバニアのジャーマンタウンで、彼等が最初に移住したゆかりの地である。

  米国のメノナイト

 米国のメノナイトは全部農業をやり、此頃は教会に二人の牧師をおき、一人は思想牧師といって説教や教育に従事し、他の一人は財産監督のために働く。全信徒は大家族主義で、全部の者が皆労働し、その持物を凡て持ちより、その財産監督牧師の処理にまかすのである。400年来この同じ型の生活をつゞけているのであるから、偉大だといわなければならない。

 彼等は余り自然科学を持たず、多くの人々から時代遅れだと笑われるが、貧乏人も金持もなく、皆がかなりの生活を送っているのは羨まれている。宗教的儀式は簡単であるけれども、深い信仰に生きていて、多くの尊敬をかち得ている。ロシヤに行った人々のうちには、ハンガリーに流行していたソシニアンの信仰に走った者もあった。何しろ社会的な圧迫が多いので、しばしば分裂を来たした。

 米国へ来たメノナイトは大体政府と協調し、政府の方でもクエーカーと共に徴兵はせず、戦争の時はその代りに。強制勤労を課している。

   学ぶべき点

 日本は新憲法をつくり、絶対平和に変ったのであるから我々はそれを意識して自ら進んで積極的な平和論を持たねばならぬ。然し絶対の平和を主張することが如何に苦難多きものであるかを知らねばならない。彼等はロシヤが唱えるような強迫的な平和でなく、全く信仰による意識的な平和と強制なき共産主義生活を守って来たのである。米国に於ては共産主義をよぶ時にも、唯物的とか、暴力的とか、ボルシェビキー的とか、ソビエット的とか必ずいって、メノナイトなどの宗教的共産主義と区別をしてゐる。

 彼等に学ぶべきは、余り教条斗争をつゞけざることである。あまり議論をするとルッターが失敗したように、愛の実践から遠ざかることである。その反対にメノナイトはいゝ影響を与えて来た。メノナイトのよいところをうけたロヂーウイリアムス牧師は、ボストンの南のちかい州にバプテスト(此派はアナバプテストの修正派)として移民して来たが、宗教儀式を重んじ、カルヴィン主義のピューリタン(清教徒)と意見が合わず、いつも圧迫を受けつゞけたが、そこにたてられたロードアイランドのブラウン大学は非常によい成績をあげ、八人の大統領を出すに至った。

 余り教条をやかましくいわず、個人的自覚を重んじ、良心的たらんことを求めて来た。人口八十万ばかりのロチェスター市にあるバプテストの神学校にラウセンブッシュという教授がいたが、教条以上に自覚を基礎とする良心を重んずる立場から、戦争反対のキリスト教社会主義の哲学を創述した。そのために種々な反対を受けて苦しんだ。

 英国に於てもメノナイトに近いバプテストに属するジョン・ミルトンやジョン・バンヤンなど立派な人々が出た彼らは戦争は皆政治的に妥協したが、メノナイトのみが今日迄徹底して山上の垂訓を実行せんと努力して来た。私はメノナイトの足跡を見て、キリストの教訓を実践することが、如何に困難なものであるかを見つめなければならないとつくづく考える。真のクリスチャンは常に迫害されることを覚悟する必要がある。然もメノナイトのうちから世界的画家レンブラントの芸術や、トルストイの偉大な文学が生れたことは、彼等が如何に美しいものを持っているかを示している。

 現在日本へ親切な慰問として山羊や牛を送って来ているが、それに一々謝罪の手紙がついているのを見ても、キリストの精神に徹した愛の心持が了解出来るのである。勿論メノナイトには欠点もあるけれど、キリスト愛の実践に真に苦労していることに、燃えあがる共鳴を感ぜずにはいられない。

 我々も平和世界の実現をめざして、メノナイトの精神にならい、死物狂で山上の垂訓の実践のため、あらゆる困難と戦い邁進したいものである。  (「世界国家」1948年12月号)

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このページは、伴 武澄が2012年5月 3日 07:11に書いたブログ記事です。

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