2012年5月アーカイブ


 江戸時代、贅沢を禁止され、灰色や茶色といった地味な色合いの服地の着用を余儀なくされた町民たちが目指した粋の先に微妙な変化の色彩文化が育まれた。

 百もの鼠色の違いが分かるのかと問われても答えようがない。しかし、「桜鼠」(さくらねず)と書かれるとなるほどイメージがわくではないか。

 茶色では「利休色」、「藍墨茶」。利休の着用していた帽子の色なのか。茶色に一滴、藍を落とした色ではないか。想像をたくましくすることができる。

桜 鼠 利休色 藍墨茶

 たくさんの色を並べて見るのは楽しいことだ。子ども時代に色鉛筆のセットは12色あった。ぜいたくなセットは24色だった。たくさんの色鉛筆を持つことが楽しかった。本物の色の違いを見比べるのも楽しいが、言葉の上で色を思い浮かべるのも実は悪くない。

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 吉岡幸雄著『日本人の愛した色』(新潮選書)を読んで、日本の色を一つひとつ自分のものとして覚える楽しみが増えた。

 ここからは蛇足。コンピューターは何百万もの色を表現することができる。ウエブで日本の色を表現できたらと考えた。1000足らずの日本の色を表現するのは難しいことではないはずだ。瞬時にそう思った。が、おっとどっこいそう簡単に問屋はおろしてくれなかった。

 日本の色の見本を見せるウエブページはいくつも見つかった。それらのページをたんねんに見ていって、ウエブにはすでに限界があることを知らされた。

 東雲色(しののめいろ)と曙色(あけぼのいろ)の色表示コードはともに「#f19072」。紅掛空色(べにかけそらいろ)と紅碧(べにみどり)もともに「#8491c3」であることが分かった。色表示コードは6桁、アルファベットのa-fと数字の1-10で表示するから数十万の組み合わせがあるはずだが、日本の色の微妙な違いを表現できないのである。

東雲色 曙色 紅掛空色 紅碧

 47NEWS編集長 伴 武澄

DSC_0553.jpg またまた土佐山の話である。高知県にはやたら「土佐」をつけて自治体がある。土佐市を筆頭に土佐町、中土佐町、西土佐町、そして高知市に合併された旧土佐山村。なぜ安易に旧国名を使用したのか不思議だった。

 知り合いの高知新聞記者にその話をすると、過去の市町村合併で新しい自治体名でもめにもめて、落ちどころとして「土佐」を冠する自治体が次々と誕生したのだという。いごっそうの多いお国柄にありがちな決着の仕方なのかもしれない。その記者によると「東洋町」「南国市」という自治体名も同じようにして誕生したのだという。

 だから高知県は、平成の大合併で誕生した「四国中央市」や「南アルプス市」などを批判できない過去を持つ。

 県立図書館で「土佐山村史」をひもとくと、長宗我部元親時代の検地帳にすでに「土佐山」があり、明治22年の市町村制度の導入時から「土佐山村でスタートしたから、「土佐」の名のつく高知県の自治体としては最も古いことになる。どうやら土佐山だけは妥協の産物として誕生した自治体名ではないようだ。

 土佐はもともと土左とあり、都佐とも書いた。土佐国に呼称の由来は分かっていないが、現在の高知県の西部には幡多国があったから、今の浦戸湾を囲む地域から四国山地に向かう中心部をさす呼称だったようだ。

 筆者の戸籍がある高知市西町は昭和2年までは土佐郡小高坂村と言った。

 ちなみに駅名に旧国名をついているのは、明治時代に同じ駅名が多くあるため、それぞれを区別するたもの方便である。地名は奥深いものがあるのに、近代の人々は歴史的継続性を断絶するような自治体名を安易につけすぎている。
20120521-00000059-mai-000-2-view.jpg NHKの番組で首相の「不退転の決意」という表現についてある女優が「おかしい」と言っていた。本来「不退転の決意」というのは強者に立ち向かうときに使う言葉であって、弱者に向かって言う表現ではないと言うのである。なるほどと思った。

 「命をかけて」も同じような表現かもしれない。家来が主君に向かって「命をかけて」といえば、それなりの決意として受け止められようが、主君が「命をかけて」という場合、自分の立場が危ういことを吐露しているようなもので、家来が先に斃れるのが必然となろう。

 一国の首相が、戦争でもする場合ならまだしも、増税という内政問題で命をかけられては国民はたまらない。

 同じような気分にさせられたのは、ブッシュ大統領がイラク侵攻作戦だった。表現は忘れたが、「正義は必ず勝利する」というようなことを言った。史上最強のアメリカ軍が制空権も制海権もないイラクに戦争を仕掛けて、イラクが勝つ見込みがあるはずがない。誰が考えても片手でひねり潰せると思うはずである。「正義」でなくとも勝利できる戦いだったのだ。

 野田首相のその「不退転」があやしくなってきた。不退転の決意で消費税増税ができなかったら、退陣するのが道理であろう。不退転の決意とはそれほどの重みをもつ表現であるはずなのに、国会での論戦では、成立の見込みがなくとも「投票」に持ち込むようなことを言っているのだから、何かおかしい。

 野田首相の最近の言動は「玉砕する」と言っているに等しいような気にさせられている。

 日経新聞のスポーツ欄のコラム「チェンジアップ」で野球評論家の豊田泰光氏が「セパ交流戦」が新鮮みを欠いているので、韓国、台湾との交流戦をと提言している。プロ野球の世界から国境をなくすという意味に於いて非常に魅力的な提案だと思う。以下、日経サイトから転載させてもらう。
 http://www.nikkei.com/sports/column/page/p=9694E0EBE2E3E0E2E3E2E1EBE3E4

 8年目のセ・パ交流戦が始まった。目新しいカードの真剣勝負がみられるのが売りだけれども、12球団しかない日本では組み合わせも限られ、そろそろ飽きてきた。
 セ・リーグ球団の初優勝なるかが、今年の焦点だという。とはいえ、昨年優勝のソフトバンクからエース級2人を獲得した巨人あたりがもしも優勝したところで、それがどうした、だろう。
 昔は日本シリーズに出るしか、セ・パの真剣勝負の場はなかった。その舞台で西鉄ライオンズが強かったのも、巨人戦への飢えがあったからだ。
 当時交流戦があって、シーズン途中に対戦していたら、日本シリーズであそこまでの力が出たかどうか。
 交流戦導入以来、オールスターも盛りあがらなくなった。長嶋茂雄(巨人)と杉浦忠(南海)がプロ入りした1958年の球宴では、我々選手も、立大の同僚だった2人の対決を客の気分で見守った。
 注目の初対決は平和台での第1戦。「杉浦、三振取れよ」とパのベンチはけしかけた。
 ところがまじめな杉浦は硬くなった。初回、セの1番に入った長嶋に四球を与えて失点、二回は右前適時打。長嶋ってやつは――。ほかにもワクワクする対決があり、ベンチの中で「誰々まで打順を回せ」という声が出ていた。
 両軍ベンチが盛りあがるような対決も、PL学園の同級生、清原和博(西武)―桑田真澄(巨人)の対戦あたりまでか。
 1987年、舞台もぴったりの甲子園での初対決は清原が左翼へ2ランを放ち(その後二ゴロ)「巨人入り」を桑田にさらわれた無念を晴らした。プロ野球の名場面の一つだ。めったにない対戦だから記憶に残った。
 12球団制となって55年。球団数は増えもせず、減りもせずにきた。一般の業界からみると天然記念物的な、悪くいえば化石みたいな業界だ。そこに新風を入れた交流戦だが、もう4年に1度くらいでいいのではないか。
 韓国、台湾勢との対戦こそ「交流」の名にふさわしくないか。やるなら思い切ったことをしないと交流戦、球宴、日本シリーズのどれもが半端な行事になる。(野球評論家)
hattayoichi700.jpg 5月初め、夫婦で台南市を訪れ、八田與一の墓前祭に参加した。14年前、萬晩報に八田與一のことを書いたときから、この地を訪ねたいと思っていた。高知から関西空港、台湾桃園空港と飛び、新幹線で台南市にたどり着き、一泊して電車で約30分の「隆田」まで行きそこからタクシーで烏山頭ダムにたどりついた。直行しても丸一日かかる行程である。

 5月8日、台南市の烏山頭ダムのほとり、八田與一の銅像とお墓で開かれた墓前祭は約700人が参加、多くの花が贈られた。日本からは金沢市から山野之義市長ら120人を乗せたチャーター機が飛んだ。䔥万長副総統が「嘉南大圳の父と後世の人々に讃えられ、ダムと水路は80年後の今ももくもくと仕事をしている」と挨拶した。

 烏山頭ダムは70年前、台湾総督府に勤務していた八田與一の発案で完成させた灌漑ダムで、当時世界第三位、アジア最大の貯水量を誇った土木事業だった。アメリカが世界大恐慌からの経済刺激策として開始したTVA開発に先立つ巨大土木事業が日本の植民地で終わっていた。

 台南市北部の平原は雨量はあるものの、そのまま海に流れる河川ばかりで不毛の土地だった。この地の農民の生活向上のためにこのダムは計画された。八田與一の頭には植民地もなにもなかった。貧しい農民の生活向上が第一にあった。当時のシビル・エンジニアとしてはかなり先進的な考えを持っていた。この思想を涵養したのは高知県出身の土木技術者、広井勇だった。八田は東京帝大教授だった広井のもとで土木技術だけではなく、国境を越えた愛の思想も併せて学んだ。

 広井勇は札幌農学校の二期生で、新渡戸稲造、内村鑑三とともにキリスト教に受洗し、札幌農学校の三羽がらすといわれた俊才だった。アメリカ、ドイツに学び、小樽の築港工事ほか日本の土木の黎明期を担った技術者だった。

 八田與一は烏山頭ダム建設にあたり、当時の世界最新鋭の技術を惜しみなく導入した。工事は10年続いたため、住宅だけでなく、テニス場を併設するなど従業員、作業員の福利厚生にもつとめた。また工事中、不慮の事故や病で倒れた人々を慰霊する碑を建てたとき、日本人、台湾人の区別なく全員の名前を石碑に刻んだ。

 工事に感謝した村人はダム湖のほとりに八田與一の銅像をつくった。最初、八田は嫌がったが、「普段着の自分なら仕方ない」としぶしぶ了承した。銅像が奇妙なポーズをとっている。工事現場で片膝を立てて監督するくせがあったその姿を銅像にしたのだそうだ。

 太平洋戦争が始まり、八田與一は軍の命令でフィリピンでも同じような灌漑事業を命じられたが、フィリピン渡航中、米軍によってその輸送船は沈められた。八田の死を惜しんだ村人は銅像に後ろに墓を建て、命日の5月8日に慰霊祭を始めた。その慰霊祭は1年も欠かさず続けられている。

 終戦後、台湾に蒋介石軍が進駐し、日本が支配した形跡を片端から排除した。村民は八田與一の銅像にも累が及ぶことを畏れて、村はずれの納屋にその銅像を隠してしまった。平和が戻ってから村民は何度か銅像を元に戻すことを政府に要請したが、その度に「まかりならぬ」という返事が返ってきた。1980年代に入って要請した時には、なしのつぶてだった。村民は「これは消極的に戻していいことだ」と判断し、銅像は納屋からダム湖の見える高台に戻された。

 ちなみに八田與一とともに埋葬されている妻、外代樹は、終戦直後、夫のつくったダムに身を投げた。この物語も夫婦愛の絆の模範として語り継がれている。

 李登輝元総統は、八田與一の物語を小学校の教科書に載せるよう政府を動かし、一昨年は「パッテンライ」という名のアニメが制作された。昨年は、ダム近くに八田與一旧宅が復元され、観光地として整備され、今年はこの日に併せて郵政部から「八田與一記念切手」が発売された。

 山野市長はテレビのインタビューで「70年間、八田與一のために墓前祭を続けてくれている台湾の人々にお礼を言いたい。この誇らしい気持ちを金沢の子どもたちに伝えたい」と語っていた。

 
20年前、八田與一の話を『嘉南大圳の父』に著した古川勝三氏は、1982年にこの地を訪ねた時、50人ほどの村民が墓前祭を続けていることを驚きをもって書いている。今年は700人だった。台湾南部に住む元日本人も大勢墓前に花を手向けていた。嬉しそうに「元日本人」であることを語る人々とも多く出合い、なんとも複雑な気持ちにさせられた。

 今年の墓前祭は第70回目だった。われわれは国境を越えた大きな愛の輪がますます大きくなっていっていることに感謝と誇りを感じた。
Scan111-thumb-200x290-104.jpg 賀川豊彦の著作の「自炊」を続けている。4月からは財団法人国際平和協会がかつて発行していた機関誌「世界国家」に掲載された賀川論文やエッセイの作業を続けている。この中で絶対平和主義を貫くキリスト教の一派「メノナイト」について書いているのが興味深い。

 ルーターの宗教革命に端を発した運動で、もともとはドイツ系の人々によって起こされた。戦争に反対するということは兵役を拒否することにつながり500年にわたって各地で迫害を受けた。ドイツ語圏で迫害を受けた彼等はロシアのウクライナに移り、レーニン革命時にはブラジルに移住した。その一部がアメリカにも移住し、クエーカーともども兵役拒否を認められているという。

 トルストイの平和主義もメノナイトにから始まっているという。画家のレンブラントもまたメノナイトだったという。500年の年月、主義主張を変えない「宗派」がいまも存在すること事態が驚異的である。今日は憲法記念日。風化しつつある日本国憲法の平和主義をもう一度考えたい。

 メノナイトの絶対反戦主義 賀川豊彦

  山羊を送ってくれる人々

  戦後日本に山羊や牛を親切に送ってくれる人々は、普通ブラザレンとよばれているけれど、実はメノナイトと称せられている団体に属しているのである。メノナイトは400年以上もつゞいている誠に珍しい宗団で、絶対反戦主義キリスト教的共産主義を実践し、一種の無政府主義さえ実行して、官吏拒否、世俗解脱を唱えて来た興味ある人々である。世界の歴史に於て、宗教的共産主義生活を喜んで一同がやっているのは彼等だけであるといえよう。

 私は12年前、米国のインデイアナ州其他で彼等と親しくなったので、戦後日本を助けるのに官吏を認めぬ彼等は、私と連絡をとってくれた。生き物なら一時的に消耗してしまわず、だんだん殖えて長く役に立つから山羊を送ろうかと交渉して来たので、私は「是非ほしい」と電報をうった。250頭ずつ10ヶ月間合計2500頭送ってくれることになっている。彼等はこの事業でも解るように、山上の垂訓を文字通り実行しているが、その点を我々も学びたいと思う。

   剣を持たなかったフッタア

 メノナイトの歴史は宗教改革の昔にかえらねばならない。ライン河はスヰス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダの諸国を流れていて、鉄道のなかった時代には、ヨーロッパ諸国を連絡する脊髄ともいうべき、地理的ルートであった。ルッターは1521年にウヰッテンブルグ教会の入口に、法王排撃の改革的95ケ条の宣言文をはりつけた。ウイッテンブルグはライン河畔フランクフルトに近い町だったので、ルッターの宗教革命はスヰスにもすぐ影響を与えた。ルッターの主張に動かされて聖書をよむと、今まで聖書をよまさなかった法王のやっていることに、色々と間違ったことが発見された。そして今迄圧迫されていた農民達が、一斉に革命をやりたいと思うようになって来た。

 それらのスヰス人のうち最も厳格な信仰を把持していたのは、ヤコブ・フッタアに指導された一団であった。フッタアは宗教改革の先駆者達が剣をもっていたのに極力反対した。スヰスより起ったツヰングリーは強力なカトリック側のハップスブルグ家と激しい戦を試みて、遂に戦死をとげた。ルッターもウイッテンブルグでは身辺が危くなったので、北方のサクソニー侯の城に逃げて活動をつゞけた。その時いつ危険が迫って来るかわからぬので、ルッターはサクソニー侯から武士の待遇をうけ、いつも剣を携えていた。しかしフッタアは山上の垂訓を文字通り実行すべきことを主張し、ツヰングリーやルッターに反対して、戦争は絶対に神の心に反するものであるとし、絶対非戦論を唱えた。当時新教の牧師でサアベルや懐剣を待たずに歩いて活躍したのはフッタアだけであったと伝えられている。

 彼は同志にも剣を持たさず、家に鍵をかけさせず、徴兵にも反対させた。当時ドイツには数十名の大名があり、その上にハップスブルグ皇帝がいて、お互に勢力を張り合っていたので、どうしても強力な兵士を持っていなければならぬために、戦争に反対するフッタアの群は大名たちからひどい迫害を受けていぢめられ通した。ルッターさえサクソニー侯の助をうけていたので、宗教と政治とがからまっていた。それをフッター達は否定し、官吏の拒否と戦争反対を実行していた。

  農民戦争の失敗

 宗教改革の流はオランダに近いコローンから少しはなれたミュンステルの農民達の中にも大きな感化を与えた。そこへオランダのライデンから来た普通「ライデンのジョン」という人物が彼等を指導して大きな運動となった。ライデンのジョンはフッターと同じく、赤坊の時に洗礼をうけても意識がないのだから無駄であると主張し、赤坊の洗礼を禁止したのでアナバプテストと呼ばれている。アナバプテストの運動は猛烈になって、農民達は税金、徴兵に反対して小作争議を起したが、それがだんだん大きくなって遂に大名達への謀反となり、歴史上有名な農民戦争となってしまった。

 勢力が強大になるにつれ、ライデンのジョンは妙なことをいい出した。初めは純粋な宗教的動機から謀反していたのであるが、余り過激になったため脱線したのであろう。自分は来るべきキリストの生れ代りだというのである。

 洪秀全がバプテスト教会のリーフレットをよみ、太平天国運動を起したが、やはり同じようなことをいって失敗したようなものである。純な宗教運動が余り過激になると間違を起しやすいことはよほど注意しなければならない。ジョンは間もなく、ダビデ王の生れ代りである、ダビデは妾を持っていたから自分も妾を持ってもいゝといい出した。

 山上の垂訓とすっかり離れた彼の指導が失敗するのは当然で、ミュンステルで敗北を告げてしまった。

  サイモン・メノール

 その後、オランダのカトリック教徒だったサイモン・メノールという人が、山上の垂訓を実行するためには、カトリックのように法王制では地上の権力と妥協される危険があるので、先ず政治的勢力を否定しようと主張し出した。官吏になると権力を利用して堕落するから、信者全部が世俗と結ぶことを避けることになった。それで個人の隠遁のみならず信者全体が隠遁せねばならぬと考え、信者は山の中や谷の中にはいり、貧しい生活をつゞけた。彼等は社会から全く分離していたので、どうしてもお互に助け合いをしなければやってゆけぬから、自然共産主義生活を実行するようになった。

 かくて山上の垂訓を文字通り実行せんがために、彼等の苦労にみちた努力が始められた。彼等はルッターもサーベルをつけているから、口だけで信仰信仰といってもうそだと考え、カルビンも人を救うのが神の予定であるといっているが、それならば人が罪を犯したのも神の予定だといわねばならぬからいけないと考えた。そして唯あくまで山上の垂訓を実行して、キリストの教訓を完全に実現することを求めて全力をつくした。

  散らされたメノナイト

 このメノールの教を奉じた人々は、余り激しく迫害せられたので、一部は「低地ドイツ」の政府と妥協してその地に止まったが、あく迄徹底を求めた人々は、ロシヤに逃げ込んだ。1725年ロシヤの女王カザリンがシベリヤは人口が足りなかったので、戦争はしなくてもよいという条件で招いたのに応じて、シベリヤに移住した。彼等はあく迄徹底して戦争に反対し、セブンスデー・アドヴェンチストの如く、キリストの再来を祈り求めて、教育も余り重んぜず、余裕のない生活を送った。大体農業をやり、人口が増加すれば他の地方へ移住して開拓した。

 ところがシベリヤへ移住した人達は、蒙古人から非常にいぢめられた。蒙古人は彼等の無抵抗なのを知り、美しい妻や娘達や、牛や羊を盗むために再三襲撃したので、それで止むを得ず蒙古人と争わねばならなくなり、一ばん可哀想であった。そのメノナイトが文豪のトルストイに強い感化を及ぼし、彼の反戦主義はこゝから来たのである。トルストイが晩年逃げて来たのも。メノナイトの修道院であった。

 そんな事情で大体のメノナイトはウクライナ地方におさまり、現在はバプテスト系の数百万になっている。ウクライナ共和国がドイツ系の人々によって成り立っているのは其のためである。彼等のうち皇帝政治と妥協したものは、バプテスト教会と称して、今日も教会が盛んであって、徴兵に賛成したものはレーニン時代になって認められて無事だった。

 が、あく迄徴兵に反対し、独裁的な共産主義に服さぬ者はブラジルへ大挙移住したり、又北米合衆国やカナダへ逃げ出した。米国のメノナイトの本山ともいうべき所は、ペンシルバニアのジャーマンタウンで、彼等が最初に移住したゆかりの地である。

  米国のメノナイト

 米国のメノナイトは全部農業をやり、此頃は教会に二人の牧師をおき、一人は思想牧師といって説教や教育に従事し、他の一人は財産監督のために働く。全信徒は大家族主義で、全部の者が皆労働し、その持物を凡て持ちより、その財産監督牧師の処理にまかすのである。400年来この同じ型の生活をつゞけているのであるから、偉大だといわなければならない。

 彼等は余り自然科学を持たず、多くの人々から時代遅れだと笑われるが、貧乏人も金持もなく、皆がかなりの生活を送っているのは羨まれている。宗教的儀式は簡単であるけれども、深い信仰に生きていて、多くの尊敬をかち得ている。ロシヤに行った人々のうちには、ハンガリーに流行していたソシニアンの信仰に走った者もあった。何しろ社会的な圧迫が多いので、しばしば分裂を来たした。

 米国へ来たメノナイトは大体政府と協調し、政府の方でもクエーカーと共に徴兵はせず、戦争の時はその代りに。強制勤労を課している。

   学ぶべき点

 日本は新憲法をつくり、絶対平和に変ったのであるから我々はそれを意識して自ら進んで積極的な平和論を持たねばならぬ。然し絶対の平和を主張することが如何に苦難多きものであるかを知らねばならない。彼等はロシヤが唱えるような強迫的な平和でなく、全く信仰による意識的な平和と強制なき共産主義生活を守って来たのである。米国に於ては共産主義をよぶ時にも、唯物的とか、暴力的とか、ボルシェビキー的とか、ソビエット的とか必ずいって、メノナイトなどの宗教的共産主義と区別をしてゐる。

 彼等に学ぶべきは、余り教条斗争をつゞけざることである。あまり議論をするとルッターが失敗したように、愛の実践から遠ざかることである。その反対にメノナイトはいゝ影響を与えて来た。メノナイトのよいところをうけたロヂーウイリアムス牧師は、ボストンの南のちかい州にバプテスト(此派はアナバプテストの修正派)として移民して来たが、宗教儀式を重んじ、カルヴィン主義のピューリタン(清教徒)と意見が合わず、いつも圧迫を受けつゞけたが、そこにたてられたロードアイランドのブラウン大学は非常によい成績をあげ、八人の大統領を出すに至った。

 余り教条をやかましくいわず、個人的自覚を重んじ、良心的たらんことを求めて来た。人口八十万ばかりのロチェスター市にあるバプテストの神学校にラウセンブッシュという教授がいたが、教条以上に自覚を基礎とする良心を重んずる立場から、戦争反対のキリスト教社会主義の哲学を創述した。そのために種々な反対を受けて苦しんだ。

 英国に於てもメノナイトに近いバプテストに属するジョン・ミルトンやジョン・バンヤンなど立派な人々が出た彼らは戦争は皆政治的に妥協したが、メノナイトのみが今日迄徹底して山上の垂訓を実行せんと努力して来た。私はメノナイトの足跡を見て、キリストの教訓を実践することが、如何に困難なものであるかを見つめなければならないとつくづく考える。真のクリスチャンは常に迫害されることを覚悟する必要がある。然もメノナイトのうちから世界的画家レンブラントの芸術や、トルストイの偉大な文学が生れたことは、彼等が如何に美しいものを持っているかを示している。

 現在日本へ親切な慰問として山羊や牛を送って来ているが、それに一々謝罪の手紙がついているのを見ても、キリストの精神に徹した愛の心持が了解出来るのである。勿論メノナイトには欠点もあるけれど、キリスト愛の実践に真に苦労していることに、燃えあがる共鳴を感ぜずにはいられない。

 我々も平和世界の実現をめざして、メノナイトの精神にならい、死物狂で山上の垂訓の実践のため、あらゆる困難と戦い邁進したいものである。  (「世界国家」1948年12月号)

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