2012年3月アーカイブ

newsimg.php.jpg 日経新聞3月20日の文化欄。「モンゴル力士 開花の歩み」と題して大島武雄親方が「スカウトから関取誕生まで、泣き笑いの師匠時代」を書いているのが面白い。八百長問題や暴力問題を抱える大相撲ではあるが、大相撲こそはもっとも国際化した日本社会だと考えてきた。

 現在、外国勢なくして大相撲はない。横綱は何年もモンゴル勢が支えてきたし、日本人が大関になることすらがニュースになる時代である。にもかかわらず大相撲の世界は純粋日本である。プロ野球やJ リーグでも多くの外国人選手が活躍するが試合後のヒーローインタビューではほとんどの選手が母国語で語る。しかし大相撲で外国語をしゃべる力士は皆無である。日本人ですら忘れてしまったような表現をすることすらあるから驚きである。

 柏手から塩撒きなど相撲の所作そのものは神事である。グルジアやブルガリアなどキリスト教世界からやってきた力士にとって日本の宗教的所作はどう映るのか聞いてみたい気もする。津支局にいた時分、伊勢神宮では毎年4月、地方場所が開催され、場所に先立って、横綱の土俵入りが伊勢神宮に奉納される。そのころの横綱は朝青龍だった。毎年毎年、朝青龍が伊勢市にやってきて土俵入りをしていた光景は筆者にとって少々違和感があった。

 伊勢神宮は日本の最も日本らしい場所ともいえる。今年は白鳳が土俵入りをするはずだが、将来、把瑠都だとか琴欧洲ら西洋勢が土俵入りする可能性もある。キリスト教圏やイスラム圏出身の力士が伊勢神宮で土俵入りを奉納する姿こそが究極の日本の国際化なのだと思う。

 もちろん日本人が英語や中国語を駆使することも国際化であるが、外国人が日本の言葉や文化を解して日本化することこそが真の意味の国際化であると考える。そのためには異なるものを受け入れる度量が不可欠である。

 大島親方の話には、日本になじまないモンゴル青年たちを母親代わりになって涙ながらに説得する場面が登場する。

 おかみさんが、稽古場の桟敷で、相撲用語の解説や挨拶の仕方や歌を毎日夕方、1時間みっちり教え込んだ。旭天鵬は「言葉をどんどん覚えたら楽しくなって相撲も少しずつよくなってきた」と言っている。それまで3人の会話だったが、周りとの交流で自分たちの世界が広がっていったようだ。

 旭鷲山がモンゴルに凱旋し、パトカーの先導で空港からパレードする催しがあった。大統領が出迎える光景を見て自分のやってきたことは間違っていなかったのだとじーんとくるものがあった。
 民主党の消費税引き上げ法案の議論が迷走している。民主党が法案を了承したとしても連立を組む国民新党は引き上げに反対であるし、閣議決定して国会に上 程されたとしても法案の成立はおぼつかない。消費税引き上げについていくつもの「なぜ」がつきまとう。一番大きな「なぜ」は東日本大震災からの復興、そし て放射能の問題が国全体を揺るがしているその時に、なぜあえて大きな争点を政治に持ち込もうとするのかという疑問である。

 復興に必要だ とされる財源についてはすでに所得税と法人税の暫定的引き上げが決まっている。消費税増税は復興とは関連がない。あわてる必要はない。民主党が引き上げを 提起したのは、社会保障費の財源だった。迷走するのは財政全体の問題となったり、社会保障費の問題となったりと議論が行き来するからである。財務省がもく ろむのは財政の立て直しであって、社会保障という一部の問題ではない。極論すれば官僚制度を維持するための財源確保といっていいもかもしれない。

 ショック・ドクトリンというものがあるそうだ。戦争や自然災害など人々が茫然自失である状態で、国民にありがたくない政策を矢継ぎ早に導入していく手法をいうのだそうだ。消費税引き上げはまさにショック・ドクトリンの典型だ。

 その「なぜ」ではないが、今回の消費税引き上げ法案には巧妙なからくりが組み込まれている。消費税引き上げ反対の勢力に「条件闘争」をさせるためのからくりである。まず法案に盛り込まれた「追加増税規定」である。

  二段階で消費税を10%に引き上げたとしても財政は健全化しないため、さらなる増税が必要だと法案に書き込んだ。だれもが驚いたであろう。心情として「そ れだけはやめて」となり、論点は引き上げの是非から、その先の再引き上げへと移ってしまう。これは結果的に「引き上げ容認」をもたらす効果をもたらした。 民主党の議論でもそうなった。

 執行部が妥協するのは、再引き上げに関わるその文言である。「平成16年後をめどに」が「法律尾公布後5年をめどに」と修正された。その後、メディアの報道の中で「引き上げ絶対反対」の論議は影をひそめ、修正案のありかたに焦点があてられるようになる。

 メディアは本質的に、本質的議論より、新たな提案や妥協に新しさを求め、常のその落としどころを求めていく習性がある。そして「景気弾力条項」が登場し、さらに「歳入庁の設置」のなど消費税引き上げに伴う周辺整備のあり方に議論が進む。

  うらでほくそ笑んでいるのは、財務相に違いない。シナリオ通りに民主党もメディアも関心を移していって「いまなぜ増税なのか」という本質的議論に戻ること はない。萬晩報はあえて言いたい。現政権の喫緊の課題は復興と原発問題である。消費税引き上げにエネルギーを消費している場合でないと。
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 すでに2週間も経ってしまったが、3月4日、伊勢神宮で式年遷宮を控えて「立柱祭り」が行われた。正殿の御柱を立てる儀式。真新しい檜の太い柱が象徴的で、こんな贅沢な素材は世界でも日本でしか見ることはできないはずだ。

 昨年末、伊勢神宮を参拝した折、取材できるか聞いたところ、正殿は建築用の覆いの中にあり、一般の参拝者どころかマスコミにも公開しないと聞かされたため、3月の伊勢行きは断念した。

 人々が新しい正殿を見られるのは来年の御白石持行事(おしらいしもちぎょうじ)を待たなければならない。6年前にお木曳きに参加した人はこの御白石持行事に参加する権利があるそうで、身近に正殿を拝謁できる20年に一度だけのチャンスである。


 社殿などを建て替える20年に1度の「式年遷宮」を来年に控えた伊勢神宮(三重県伊勢市)の内宮で4日、新しい正殿の御柱(みはしら)を木づちで打ち固める神事「立柱祭」が厳かに営まれた。

  神職と紺色の装束に身を包んだ宮大工の「小工(こだくみ)」ら約65人が奉仕。神職らが建物の守り神である屋船大神(やふねのおおかみ)にお供えをした 後、8人の小工が正殿を支えるヒノキの御柱10本を木づちで3回ずつ打ち固め、静寂に包まれた神域につちおとを響かせた。(産経新聞)

102700.jpg これは天下の公論にして、一人の私言にあらざりるなり。その義たるや天地にわたり、古今をきわむ。微にして顕なりというべし。しかるに古聖賢の言たる。ここに及べるものなし。すなわちこれを知らざるなり。ただ世運未だひらけず、時機至らざるなり。

 今や人文まさに開け、舟車その妙をきわむ。加うるに電気は信を瞬息に通じ、天下至るべからざるの地なく、通ずべからざるの信なし。

 これに以て之をみれば、天下すでに小なりというと雖も可なり。かつさきに万国公法あり。各国これに依って交際す。隠然として一致の形をなす。しかもその実未だあらざるのみ。故にいま救民の術を論ずるに、必ず六合一致を以て首とすべし。みる者諒とせよ。かならず往時に徴して論ずるなくんば可なり。ここにおいて序とす。

 天の生民を愛育するや、宇内同一、各土彼此の別にあらざるなり。すでにこれに命ずるに相養い相生ずるの道を以てし、これに与うるに自主自由の権を以てす。
 しかしこれに依って生命をたもち、福禄をうけしむ。ああ盛なるかな。天の徳や、これ古今これを仰いでやまざる所以なり。往古の人々相凌辱することなくたがいに保護して以て天徳を仰ぐ。
 人類日にしげく、風俗月に移るにおよんで、はじめて強きは弱きをしのぎ、大は小を辱しむるの弊を生ず。生民これがためにほとんど生命を保ちあたわざるに至る。ここにおいて賢哲の士はじめて政府を建て、強きをこらし弱きをすくい、上下同一、相生じ相養うの道を全うし、自主自由の権を伸ばすを得たり。
 ゆえに人々戸給し家足り。おのおのその所に安んず。かくの如くんば政府たるの肯かずというべし。惜しいかな後世姦雄の徒、政府を以ておのれの肆欲の具となし、生殺与奪その権を専らにして、公儀に出ださず。生命の窮困日一日より甚だし。ただ政府の暴威をおそれ左視右顧し、その忿怒を避くるを知るのみ。
 たまたま良政府と称する者ありといえども、しかも一隅に画す。なお今だ凌辱弱小の弊あるを免れず。宇内の乱従って止むことなし。生民の窮困いつの時にか救われん。いま宇内の生民の計をなすに、一大合衆政府を建て、宇内負望の賢哲を推し、これをして宇内を総理せしむに如くはなし。

 大議事院を置き、各土の秀才を挙げ、公法を確定し、宇内の事務を議して、そのまつりごとを善くする者これをすすめ、そのまつりごとを善くせざる者これをこらす。

 大いに生民教育の道を起して、はじめて宇内の民をあげて相生じ相養うの道を全うし、自主自由の権をのばすを得しむというべきのみ。あに人間の一大楽事にあらざらんや。しかり而してこれを首唱し、これを成就するもの、各土の政府の任なり。願わくは各土の政府、天意を体し、己私を去り、ここに従事せよ。

 いやしくもその民すでに安きを以て、ここに従事せざれば、すなわち天意に背きて生民彼此の別なきを知らざるなり。もし他日強暴の政府ありて外よりこれを凌辱せば、その民の安き、また保つべからざるなり。ああ真に豪傑の士ありて、起てば必ずこれを唱就し、以て斯民を禍乱の中に救うを知らん。宇内同一、天生民を愛育するの意を全うするを得ん。(本文は漢文体 1968年、世界連邦建設同盟発行の小冊子『世界連邦思想の系譜』田中正明「小野梓の世界連邦論」から転載)



 小野梓を知っているだろうか。だれもが早稲田大学の開祖は大隈重信だと思っているが、大隈が夢見た育英事業を実際に実現したのは土佐出身の小野梓という青年だった。

 小野は土佐の西のはずれの宿毛という町の出身。どういうわけか宿毛から多くの民権論者が輩出している。吉田茂の実父である自由党の竹内綱、林有造、岩村通俊、大江卓と続くが、先陣を切ったのは小野梓といっていい。

 ペリーが日本にやってきた嘉永5年(1852)、に生まれ、明治3年7月、18歳の夏、ひとりで上海にわたり、西洋の東洋侵略のありさまをつぶさに見て目を開かされる。上海の宿で世界連邦論ともいえる『救民論』を漢文で書き上げていた。
 翌年、アメリカに遊学し、さらに明治5年には大蔵省派遣の留学生としてロンドンに逗留する。ロンドンでは財政 学を学ぶが、小野の関心はイギリスの政治にあった。英国国会に通い、グラッドストーンとディズレリーの議論を目の当たりにして、非常な感動を覚えたとい う。帰国してさらに著したのが『国憲論網』。日本での立憲政治の実現を訴えた。まさに民権運動の先駆け的存在が小野梓だったといっていい。

 明治9年には司法省入りし、民法課副長として民法制定の基礎づくりにあたる。参議だった大隈重信に見いだされたのはこの時だったようだ。その後、元老院書記、会計検査官を歴任し、北海道開拓使官有地払い下げ問題では大隈とともに黒田清隆らを糾弾する先鋒に立った。

 小野は若くして肺結核を病んでいたため、35歳にしてこの世を去ることになる。1887年

 この事件の後、大隈らは明治政府からたもとをわかって下野した。大隈を党首として立憲改進党が誕生したのは明治15年のこと。小野は改進党の最高幹部の一人として活躍する。

 早稲田大学の前身である東京専門学校が生まれたのは改進党創設から半年後のこと。早稲田にあった大隈の所有地に建設された。小野は会計検査官時代から浅 草・橋場に住んでいたが、当時から小野の家は学生のたまり場となっていて、毎夜、天下国家を論じていた。いつのころか「鷗渡会」と呼ばれる集まりとなり、 この若者集団が改進党や東京専門学校設立をバックアップしたのだった。

 小野梓なかりせば、たぶん今の早稲田大学はなかった。

 小野は若いころから肺結核を病んでいて33歳で世を去る。1886年であるから帝国議会の開設を知らない。 

422770_265688840178142_100002110852549_598759_1650136815_n.jpg 2月25日、国際平和協会と世界連邦高知支部の共催で開催された講演会「絆つなぐ一杯の珈琲-学生たちの震災支援」で講演した麗澤大学(千葉県)4年生の関口和宏さん、大橋惇一さんの話が高知新聞夕刊の「ぴーぷる」で紹介された。高知デビューである。

 被災者の心に寄り添う 仮設住宅でカフェ運営 関口和宏、大橋惇一さん
 【高知新聞3月1日夕刊】

 ★宮城県の仮設住宅で「学生カフェ」を運営している麗澤大学(千葉県)4年生の関口和宏さん、大橋惇一さんが来高し、学生の手による支援について市民に語った。

 大震災発生から間もなく、仮設住宅で孤独死や自殺が起きていることを知った関口さんらは『何かできることはないか」と模索。取り合えず、募金活動を始めた後、「細く長く心に寄り添う」ことのできる場所づくりを目指したという。
  明治の政治家や軍人、経済人、文化人は多く歴史教科書にその名を残しているが、近代日本は文系の人材のみでなしえたものではない。築港やダム建設、河川改 修などの礎を築いた理系の工学技術者たちの生き様にもう少し光を当てたい。明治期の土木工学界の先駆者を一人挙げよと問われれば、だれもが高知県出身のクリスチャン、 広井勇(ひろい・いさみ)の名を挙げるだろう。

 公共事業といえば、技術官僚の天下りを通じた談合の元凶としていまや無駄の代名詞となりはてているが、明治・大正期の日本の多くのシビル・エンジニアた ちは日本を背負いながら、西洋から最先端の技術を吸収して発展のグランドデザインを描いた。現在の豊かな日本はそうした先人たちの労苦に負うところが少な くない。

 歴史に残る小樽港工事

 広井の名を全国に知らしめたのは明治30年(1897年)から始まった北海道の玄関としての小樽港の工事だった。アメリカ、ドイツでの実務、研究から帰国した広井は札幌農学校の教授として迎えられた。

 それまでの日本の土木工事はお雇い外国人に多くを依存していた。小樽築港は北海道開発の物流の拠点として不可欠な土木工事だった。しかも日本人による初めての計画、設計の仕事だった。
 広井は教授のまま小樽築港事務所長となり、工事にとりかかった。難関は北国の荒波と暴風雨に耐えうる防波堤工事だった。中でもコンクリートの強度につい ては100年以上使用できるよう耐久試験を繰り返した。またコンクリートブロックを斜めに積み重ねるという新たな工法も多く生み出した。

 25年にわたる難工事は大正11年(1922)に完成したが、広井はこれらの経験を『築港』という5巻の本にまとめ、日本で初めての築港工学に関する専門書となった。函館、室蘭、門司など多くの日本の港は広井の手によって構築され改良されたことを忘れては成らない。

 広井はその後、東京帝国大学に招かれ教授となり、各地の橋梁や鉄道の設計に足跡を残した。晩年は土木学会会長にまで登り詰め土木工学界の第一人者となったが、宴席を嫌い贈答には手を触れなかったといわれる。清廉さを失わなかった明治人の一人だった。

 札幌農学校二期生の三羽がらす

 広井は文久2年(1862)、土佐藩の筆頭家老深尾家に仕える藩士に生まれた。早くして父を亡くし、伯父を頼って11歳で上京。13歳で東京外国語学校に入学、工部大学校予科(現在の東大工学部)を経て、16歳で札幌農学校の第二期の官費生に合格した。

 札幌農学校は初代北海道開拓使長官となった黒田清隆がグラント・アメリカ大統領に協力を求めて来日したケプロン農務長官の建議のよって設立された。北海道開発のための人材育成が目的で、初代教頭は「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士である。

 授業は3年間、学生は一学年10人内外の少数精鋭教育だった。農業と工学が中心で、もちろんすべて英語で行われた。札幌農学校で興味深いのは、官営の学 校であったにもかかわらず、プロテスタンティズムの精神が貫かれていたことである。キリスト教はその数年前まで明治政府によって禁止されていた。黒田長官 が「学生に最高の道徳を伝えてほしい」と要請したことに対して、クラーク博士が「最高の道徳、それはキリスト教以外にない」と答えたそうだ。黒田長官はク ラークの教育方針を黙認した。北海道という新天地にはそういう自由な気風があったのだ。

 その結果、同期11人中、7人が在学中に洗礼を受けることになった。その中の三羽がらすが広井と新渡戸稲造と内村鑑三だった。新渡戸は太平洋の架け橋た らんと大志を抱き、英語で『武士道』を書いた。後に台湾総督府民政部で台湾経済の振興に心を砕き、第一次大戦後は国際連盟の事務局次長を務めた。内村は萬 朝報主筆の一人として日露戦争で反戦の論陣を張り、自ら発行した「東京独立雑誌」を通じて明治後期の多くの進歩的若者の思想的支柱となった。

 札幌農学校という精神風土はいわば「サムライ・クリスチャン」だったのだ。内村は無教会派の伝道師となった。広井もまた一時期、伝道師を目指したが、そ の思いを断念、エンジニアとして事業を通じて博愛を広めた。札幌農学校での3年間は広井の生涯を通じての思考や行動の規範となったことは間違いない。

 ■育まれた国際的エンジニア

 広井は日本の土木工学界の先駆者として名を残しただけではなかった。東京帝大の教授時代には青山士、八田與一、久保田豊という三人の国際的な土木エンジニアが彼の研究室から相次いで巣立っていった。

静岡県出身の青山士は大学卒業後、アメリカに渡りパナマ運河の設計メンバーに加わったことで若くしてその名を轟かした。しかしアメリカで起きた日本人排斥 運動の煽りを食らって完成を前にして帰国を余儀なくされた。帰国後は荒川放水路や信濃川大河津分水可動堰という国土大改造の指揮をとった。

 八田與一は石川県生まれで、台南の嘉南に烏山頭ダムを建設し不毛の地とされた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。命日の5月8日にはいまも故人を偲 んで地元民による墓前祭が行われている。李登輝前総統は日本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも偉人として紹介されている。

 久保田豊は戦前、朝鮮と旧満州の境を流れる鴨緑江に当時としては世界最大規模の水豊ダムを建設。70万キロワットという巨大な水力発電はいまもなお中朝 両国に送電され、産業インフラとして不可欠な設備となっている。戦後はアジア・アフリカで多くのダム建設開発のリーダー的役割を果たした。

 土木は本来、経世済民の一環として国土を災害から守ったり、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものだった。広井とその弟子たちに共通 しているのは国際的広い視野と開発の中心にヒューマニズムを据えた事業の経営哲学である。半世紀を優に超えたいまも彼らの作品である構築物は国境や民族を 越えて人々の生活を支えているのである。

 朋友、内村鑑三は広井の葬儀で「広井君ありて明治・大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだ。
okyaku.jpg 土佐といえば酒豪の国の誉れがある。独特の文化は「おきゃく」である。宴会のたぐいはすべて「おきゃく」と呼ばれる。人を招いて喜ばす。高吟放歌、談論風発。知らない人でも「うげてもらえる」。まあ酒を飲む機会がすこぶる多い国柄だといっていい。

 高知市が街をあげて開催する「土佐のおきゃく」が今日3月3日から始まる。観光目的で数年前に始まったが、一番楽しむのは自分たちである。自分が楽しければ客も楽しいはずだという自己中心的な発想が土佐らしさでもある。

 会場はどこだと妻に聞かれたが、「街」と答えるしかない。店でも道路でも「おきゃく」が始まる。よさこい祭りと同じである。ガイドブックには一応「会場」が地図に示されているが、明確な定義がないから「高知市中心街」としか言えない。そんな祭りが11日まで続くというのだからおふざけが過ぎていると嘆くひともいる。


h21_02_img01.jpg 日本でその存在がほとんど知られていない揚水発電所についての記事が2月26日の日経新聞朝刊に掲載されていた。電力が余っている夜間に下池から上池に汲み上げ、必要な時間帯に水を流して発電する仕組にである。

 兵庫県にある関西電力の奥多々良木発電所はなんと原発約2基分193万キロワットの発電能力を持つ。瀬戸内海に流れる市川の上流にあり、高低差が400メートルもあるため、普通の水力発電より高い効率で発電できるという。

 東電が、群馬・長野県境に建設中の神流川発電所はなんと6号機まで完成すると282万キロワットもの発電能力を持つというから驚きだ。
sonata.jpg 日本のマーケットでいつも不思議に思うのは、世界のトップランキングの製品がほとんど見られないということである。タバコのフィリップモリス、トイレタリーのP&Gぐらいで、おもちゃのトイズラス、大手スーパーのカルフールも鳴り物入りで進出したが、いまは見る影もない。円高差益還元ブームで輸入ビールが売れた時期もあるが、国産の発泡酒や第3のビールに市場を奪回されてしまった。

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