2012年2月アーカイブ

 こういうニュースが欲しかった。徳之島の3町役場が電気バスの運行を決意したと南日本新聞が伝えている。http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=38766

20120228D00-IMAG2012022767996_imo_02.jpg 徳之島3町でつくる「徳之島愛ランド広域連合」が運行する電気バスの出発セレモニーが26日、徳之島町役場であった。同連合によると電気バスの路線運行は全国の離島で初。3月1日にスタートし、3年間かけて低炭素型交通システム構築に向けた検証を進める。
 環境省の「チャレンジ25地域づくり事業」の一環。全国で13件が採択され、県内では徳之島だけが選ばれた。走行コストは約5分の1ほどに抑えられる見通しで、燃料費が割高な離島で電気自動車の普及にもつなげたい考え。(南日本新聞2月28日)

 離島は小さい。1日に何百キロも走る必要はない。電気自動車がぴったりの環境にあるはずだ。以前、萬晩報で沖縄のレンタカーを電気自動車にすればいいと提言したことがある。できれば、さらにエネルギーを自前で生産するところまでやってほしい。風力プラス太陽光発電、足らない時間帯は簡抜材を炊けばいい。 1バーレル=120ドル時代のエネルギー防衛策を考える必要があると考えるがどうだろうか。

120225.jpg 2月25日、「絆つなぐ一杯の珈琲ー学生たちの震災支援」と題して高知市の文教会館でトークショーを行った。人の集りはいまいちだったが、参加者とともに積極的なやりとりを交わす面白い企画だった。

 学生たちは千葉県柏市にある麗澤大学4年生の関口和宏氏と大橋惇一氏。一年前の東日本大震災の直後、南柏の駅頭に立って始めたのが募金活動だった。120万円ほどのお金が集った。学生たちが考えたのは、赤十字に寄附することではなかった。

 まず募金を三つに分けて使うことを決めた。三分の一は物資、三分の一は他の団体への支援、そして残った三分の一は自分たちで使うことにした。自分たちといっても飲み食いに使うのではない。自分たちの支援活動の費用とすることにした。

mImage.cgi.jpg 租税はふだん聞き慣れたことばであるが、「租」と「税」と分けると別の意味があるのだそうだ。律令制度の時代の話である。小堀邦夫氏『伊勢神宮のこころ 式年遷宮の意味』を最近読んでなるほどを思わされることが多くあった。その一つが「租」と「税」だった。

 租庸調はワードでも一発変換できる。律令制度時代の税制であることぐらい中学生でも知っている。租庸調のうち「租」はおコメで納めるもので、「庸」は労働力、「調」は絹などの特産物である。だがそこに「税」という文字はない。律令制度で「税」は特別の意味を持っていたのである。

 延喜式に伊勢神宮は20年に一度建て替えることを定めてある。「太神宮は、廿年に一度、正殿と宝殿及び外幣殿を造り替へよ。(その経費は)神税を用ひ、もし神税足らずんば正税を用いよ」と書かれている。ここでは「租」と言っていない。わざわざ「税」と言っている。


41Fg7j1xr6L._SS500_.jpg 由紀さおりのCDが国際的にヒットしていることを、1カ月前に知った。1月25日放映の「SONGS」でポートランドのジャズバンド、ピンク・マーティーニとの共演でアメリカで「デビュー」して、全米ジャズ部門でビッグヒットとなっていると紹介されてびっくりした。

 ニューヨーク タウン・ホールのコンサートでは、当たり前のように由紀さおりの歌声に魅了されているアメリカ人がいた。日本語の分からない人たちが日本語で歌う由紀さおりのCDを買う動機はどこにあるのか、専門家たちがくどくど解説していたが、考えてみれば、そんな不思議なことではない。われわれだってかつて、意味の分からないシャンソンやカンツォーネのレコードを買った記憶があるだろう。
126966638928016230473.JPG 2006年12月、47NEWSが誕生して、初代編集長になった。就任したのではない。そんな職責は共同通信にはなかったが、みんなが編集長と僕を呼び始めたから自ら自覚して、名詞にも「編集長」と摺ってしまった。47NEWSの課題は低迷するページビューだった。

 全国53の地方紙のニュースを纏めればユニークなニュースサイトが誕生するという発想は間違いではなかった。如何にも知名度が低すぎた。月間ページビューはasahi.comの100分の1では広告で生きようとするサイトとはいえなかった。

works03_image01.jpg 賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカのプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、それまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。
n648637196_439478_1029.jpg 昨年11月の日経新聞の「私の履歴書」を書いたのは元米国野村證券会長の寺澤芳男氏だった。最終回に自らWorld Federalistであることを明らかにした。自分のこれからの仕事として「国際人の育成と世界連邦の実現に向けた努力である」と述べ、尾崎行雄につい て言及した。

 私が尊敬する政治家・尾崎行雄(1858-1954年)は憲政擁護運動で有名だが、世界市民が同じ条件で暮らせる連邦思想 を持ち、それを理想とした。その構想は選挙区を持つ政治家ではなく、市民によるものとして尾崎行雄記念財団が引き継いだ。キリスト教でもイスラム教でもな いヤオヨロズの神をもつ日本人として世界連邦のお膳立てを手伝いたい。特に世界で唯一の核の被爆国として、日本人がそのイニシアチブを取ることに意義があ る。
 萬晩報のサイトにMovableTypeというブログを昨年11月に組み入れてから、編集がたやすくなった。個々のページへのアクセスも逐一分かる。不思議なことにアクセスが圧倒的に多いのが1999年7月に書いた「台湾で最も愛される日本偉人ー八田與一」である。改めて、掲載したい。
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1999年07月18日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

hatta060508.jpg 八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業用水建設の恩人として人々の 心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこの明治生まれの日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科書『認識台湾』に登場 し、学校教育の場でも語られ始めている。

 6月21日の北國新聞に小さな記事があった。6月20日、台湾の嘉南農田水利会(徐金錫会長)の一行11 名が金沢市を訪れ、八田與一記念資料室をつくるため、八田與一の故郷である金沢市に資料収集など協力を求めてきたという。

FH040018.JPG いまだに理解できないのが修験道の世界である。役小角(えんのおづぬ)を開祖とし、天台宗系と真言宗系があるそうた。三重県に勤務していたときに、熊野を中心とした紀伊半島の山岳宗教に触れる機会があったが、よくわからなかった。かつて山に棲む民が日本列島にいたとされ、ワッパつくりを生業とする人々もいたが、彼らが修験道を極めていたかどうかと問われれば首をかしげるしかない。

 学生時代によく九州を旅したが、必ず行ったのが国東半島だった。半島をめぐる幾多の沢の奥に必ず寺院があって門前にユニークな仁王の石像があった。それぞれのコミカルな表情をみるのが楽しみだった。大分の石像といえば、臼杵の石像と熊野権現の磨崖仏があまりに有名だが、数多き名もない仁王たちは自分にはけっこう大きな存在だった。

 他の人が知らない自分だけの宝である点がたぶん魅力的だったのだおると思う。地元の説明では、国東では古くから修験道が行われ、修行中の人々が石像を刻んだ作品ということだったが、ここにも修行の厳しさは具象化されることなく、生きることの楽しさだけが表現されているように思われた。

 石像で思い出すのは道祖神とかお地蔵さまであろうが、そもそも日本に石仏はあまり多くない。金属か木像がもっぱらである。国東だけにどうしてこんなにも多くの石仏があるのかも疑問だった。大分県には青の洞門といって岩をくり貫いた道だあるように石が多い地形であることは間違いないが、石の多き地方は大分に限ったことではない。

 国東の石像は必ず、仏像は石を彫るものだと考えていた仏師たちによって彫られたに違いないと思っていた。つまり外国の影響を考えていたのである。思いついたのは、韓半島の影響である。韓半島の仏像には石像が多い。シルクロードから伝わった石仏は韓半島まではやってきたが、日本列島では木像になったことはすでに書いた。

 答えは意外ないところになった。国東半島から少し西に行ったところにある宇佐の八幡さまである。渡来人である「秦族」が住み着き、半島からの文化をもたらした。半島の人々が祀ったのが八幡神社の由来であることを聞いて合点がいった。

 そうか、国東の石仏は半島から渡ってきた渡来人によってもたらされたのだと考えれば分かりやすい。
 国会では予算の審議が続いている。平成24年度予算では、建設国債、赤字国債とは別に交付国債を発行する計画である。政府によれば、交付国債は震災の復興のための原資とするとの説明なのだが、お金に色がないのと同様、国の借金にも色はないはずである。

 交付国債の理屈は将来の時限的増税で賄われるのだから、普通の国債とは違うというのだ。そこまで言葉にこだわるのなら、普通の国債は「返済予定がない」ということにもなりかねない。

 国家経営は詐欺的にみえることがあまりに多すぎるとずっと考えてきた。ここでは「特例」だ。

 近代国家は法定主義といわれるぐらい、すべての行為が法律でさだめられることになっている。その中で、日本は戦後まもなく財政法を制定した。戦前のことは不勉強で知らないが、膨大な国債が紙切れになった反省から、財政法では、借金を厳しく戒めている。

zaiseiho.jpg 財政法4条ではまず国債の発行を禁止している。

  しかし、ここに「但し書き」がある。「公共事業」についてはOKであるというのだ。道路やダムは国民の財産になるのだからというのが、その理屈だった。 1966年に戦後初めて発行した経緯からみて、それまではこの「但し書き」はなかったのかもしれない。そこらの事情を熟知している方がいたら教えてほしい が、法律を改正したのだったら、それまでは「公共事業」すら原則通り借金で建設できなかったことになる。

 逆にいえば、1966年に日本の厳しい財政法が「例外」の名の下に蟻の一穴があいたことになる。

  実は国債を発行したのは1966年が初めてではない。その前の年の1965年。政府はすでに赤字国債を発行していたのだ。税収が足りないという理由で「1 年だけ許して」というのが赤字国債なのである。財政法で禁止されていることが、どうして可能になったのか。不思議なことである。官僚の発想は理屈さえあれ ば何でも出来るという世界である。

 当時の大蔵省は「昭和四十年度における財政処理の特別措置に関する法律(昭和41年1月19日法律第4号)」という特例国債法を編み出した。赤字国債というのは通称で、以降「特例」の名の下に計37回、つまりほぼ毎年のように「特例国債法」を制定して来たのである。

「1年だけ許して」が毎年続けられているのだから、日本はもはや特例国家と呼んでいいのかもしれない。法律で禁止していることを別の法律で「特例」と称して風穴をあけてきた結果、GDPの約2倍にもなる借金が積み上げられてしまったということである。

 人間社会は理屈だけで貫徹しない。だが財政法が厳しく借金を禁止したのは日本をこんな悲惨な状況にしないためだったはずである。赤字国債を解禁し、建設国債を解禁し、こんどは交付国債を解禁しようとしている。借金の色をつけても国民の目はごまかせない。

 民間企業であれば、競争があるからむやみに価格を上げることは出来ない。株価も横にらみしなければならない。生き延びるにはコストダウン、コストカットしかない。官僚は増税するか、もしくはどう借金できるかしか考えない。そんな思いが募る。
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 高知に住んで9カ月になる。国会では騒々しく参院予算委員会で補正予算の議論をやっている。いや、不思議なことに補正予算の内容について、ほとんど議論はない。野党は内閣設置法というややこしい法律を持ち出して、政府を激しく追及している。東日本大震災の復旧が目的なのだから一日も早く採決してほしいのに、国会はこのありさまだ。

 本来ならば、このくだらないやりとりを批判するニュースが出てこなければならない。新聞は当たり前すぎることはニュースにしないのを特徴とするからあまり期待して名ならない。

 さて2月は寒いばかりでニュースはあまりない。このころ庭の苔が鮮やかな新緑となる。ずっとふしぎなことと考えてきたが、梅は1月から咲くし、温暖な地域では菜の花も咲く。

 高知県の足摺岬では来週11日から椿祭りが開催される。すでに開花は始まっている。足摺旅日記というブログから1月に撮影されたきれいな写真を拝借したい。

 生物は、冬に春の準備を始めている。炬燵にくるまっていることはない。ちゃんと準備してくれていることに人間は感謝しなければならない。

 多くの木々は秋に落葉する。春に落葉する木々も少なくない。聞いた話だが、落葉するのは枯れるからではなく、次の葉っぱが生える準備ができたことを示す現象なのだそうだ。なるほどそういうことだったのかと納得したことがある。

 サクラに狂い咲きという現象があり、晩秋に花が咲くことがある。寒さの後に暖気が流れ込むとサクラが「春到来」と勘違いをするのだ。しかし、生物が偉いと思うのは繰り返し繰り返し花を咲かせて種をつくるということである。決められた道をさだめのままに生きるということである。ウメがサクラになりたくてもすぐになれるものではない。

 人間の営みにもすべて意味がある。粛々と日々と送りたいと考える日々である。


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 四天王・広目天像

 東大寺に戒壇院がある。観光客はあまり訪れることはない小さなお堂であるが、ここに天平の傑作がねむる。塑像の四天王4体。なかでも広目天はその眼光のするどさには際立つものがある。大学時代にこのお堂を訪ねたとき、瞬時に鳥肌が立った思い出がある。そんな傑作がほこりにまみれて粗末にまつられてあった。

 このまま、人知れずいてほしいと思った。その後、数年に一度はこのお堂を訪ねるが、ほかの参拝者と出会ったことはない。自分だけの厳粛な空間が戒壇院である。





559296d1rokuhara2.jpg 六波羅蜜寺・空也像

 平安時代、平家が拠点を置いた場所に建つのが六波羅蜜寺。空也像はそこに静かに佇む。小ぶりの木彫であるが、慈悲深い表情の口から六体の小さな阿弥陀仏が吐露される。「南妙法蓮華教」の六文字がそのまま続けて阿弥陀仏を生み出した。言葉なしで、心が穏やかになる空間である。

 このお像も高校の教科書に写真があった。




douganji.jpg 渡岸寺・十一面観音菩薩像

 滋賀県は別名湖国(ここく)と呼ばれる。初任地となった大津から湖北を訪ねた。ひなびた琵琶湖の北に面した小さな堂宇に美しい十一面観音菩薩像が背筋を伸ばしている。初めて渡岸寺を訪れたときは雪混じりの寒い日だった。受付の炬燵に入れてもらって、寺人から湖北の話を聞いた。

 湖北は十一面観音の里といわれて、村人が多くの尊像を守ってきた。これらの十一面観音はいまも村人に守られている。当時、お堂の鍵は村人が交代で管理していて、拝観希望者はその家に行って案内を請わなければならなかった。ちなみに渡岸寺は寺名ではない。地名である。
 





muroji.jpg 室生寺・釈迦如来坐像

 女人高野とよばれ、奈良から伊勢に向かう伊勢街道沿いにある古刹である。春のしゃくなげ、秋の紅葉、冬の雪景色、何度訪れたか知らない。

 その昔、女人は真言宗高野山には登れなかった。空海は代わりに室生寺を建立した。五重塔を含めて伽藍群は小ぶりで女性趣味であるのかもしれない。

 弥勒堂のその本尊が釈迦如来坐像。端正という表現を彫刻するとこんな仏像になるのだと感嘆するのは自分ばかりではないだろう。

 いまでこそ近鉄からバスを乗り継がないと訪れることはできないが、いにしえから伊勢街道は賑わいを見せていたはずである。一度、奈良からこの道を伊勢まで歩いてみたいと思っている。





hokkeji.jpg 法華寺・十一面観音菩薩像

 平群の佐保道に法華寺がある。光明皇后をモデルにしたといわれる十一面観音像は平安時代初期の作とされるが、古さを感じさせないのが不思議だ。厨子に入っていたことも影響しているが、もともと彩色をせずに素木のまま仕上げてあったことも影響していると思う。

 なまめかしさでは、湖北、渡岸寺の十一面観音と双璧ではないかと考えている。光明皇后は民間からの初の皇后として聖武天皇を支え、歴史書は、光明皇后について、ハンセン病の療養所を設けて、自らその治療にあたったと伝える。
 ガンダーラ仏との出会いから約10年、1977年の3月、僕は中国大同石窟寺院(雲崗)を訪れた。当時の中国はまだ文化大革命の余韻がそこかしこに漂っていた。大同市は北京から汽車で約10時間の旅だった。ウランバートル行きの国際列車に夜乗ると、明け方に大同駅に着いた。

 ホテルで少しばかり仮眠して、郊外の大同石窟寺院を訪ねた。大きな石仏群の片隅に、京都、広隆寺の弥勒菩薩の薫りをとどめた小さな菩薩像をみつけた。アルカイック・スマイルである。その驚きややがてユーラシア大陸を鳥瞰する大きな想像力として脳裏を駆け巡った。

 大同石窟寺院が建設されたのは北魏の時代。鮮卑という遊牧民族、匈奴の流れをくんだ拓跋氏が華北に建国した国家である。シルクロードの流れをついだ仏教美術がそんな塞外民族により花開いたことに驚きがなかったわけではない。仏教はもちろん、中原でも盛んになったが、美の系統は塞外民族につがれていったと想像した。その仏教美術を継承したのが、日本人だったと直感した。

 中国の塞外民族で中原を支配した勢力もあったが、多くの時代支配、抑圧の対象だった。仏教はもともとインドの被差別民の中に広がった教えである。いつしか祈りの対象となったのが仏像である。厳しい修行の末に悟りを開くのも宗教であるが、弱きもの小さきものであっても救われることを伝えたことにより大きな広がりを得た。拓跋氏の人々が大同石窟を訪れて、どんな思いでこの小さな菩薩像に対座したことを想像してほしい。

 しばらくして、日経新聞に井上靖が僕に直観力をもたらしたその大同の小さな弥勒仏について随想を書いていた。内容は忘れたが、大作家と同じ直観力を共有していたことがすこぶる嬉しかった。

井上靖は『敦煌』や『楼蘭』などシルクロードを題材とした多くの作品を残した。日本の仏教美術に関しても珠玉の小編を書き続けた。消え行く小さきものへのこよなき慈しみが作品の底流を流れる。

 仏教の興隆の背景には強い国家の意思があるのだが、寺院を飾る一つひとつの仏像は多くの名もなき仏師が丹念に鋳造したり彫刻したものであることを忘れてはならない。
59779981.jpg 奈良盆地を旅するようになったのは大学浪人時代である。国立高校の日本史の教師は渡辺忠胤という人だった。黒板に白墨で書く文字が達筆だった。習字の授業のようだった。歴史の現場をあたかも旅するように解説してくれた。

 浪人時代のゴールデンウイークに初めて一人で明日香を歩いた。日本史の教科書に載っていた白鳳仏がみたかった。飛鳥寺を回り、興福寺で山田寺の仏頭に手を合わせた。

 山田寺の仏頭はもともと明日香の山田寺の本尊。山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺だった。大化の改新で中大兄皇子、中臣鎌足側についたが、後に謀反の疑いをかけられ自害する。やがて疑いは晴れ、 天武14年(685)に天皇は亡き蘇我倉山田石川麻呂のために山田寺を建立した。

 時代は移り、山田寺の本尊は鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられたが、応永18年(1411)に堂とともに被災。そ の後、行方が分からなくなっていたが、昭和12年に現在の東金堂本尊の台座の中から頭部だけが発見された。応永22年(1415)に再興された現東金堂本 尊台座の中に納められた記録が残っていたため、白鳳仏としての造立年代も明らかにされた。

 当時、アルカイックスマイルという表現を知った。その仏像は右からみると厳粛な顔つきだが、左からみると慈悲深い母のような笑みを表現していた。左右は逆だったかもしれない。飛鳥寺の大仏もまた同じ表現方式をとっていた。ともにその流れをギリシャ彫刻に求められるというので興味をもった。

 タキシーラにあったガンダーラの仏像にそんな微笑があったかどうかは覚えていないが、飛鳥時代、白鳳時代につくられた仏像にギリシャの影響が残っているというだけで、日本の仏像にのめりこむのに十分だった。

 日本の仏教がはるけくも長い旅路の末にこの島に伝わったのだという感慨があった。そういう意味で山田寺の仏頭は私の中で日本仏教の原点に位置する存在となった。

 飛鳥時代と白鳳時代は日本仏教の黎明期にあたる。大陸から日本列島にやってきた仏師たちが新天地に新しい美を創造しようと試みた。当時の日本には、異なるものを受け入れる素地が大いになったのだろう。そんな仏像をみなが珍重した。美しいものだと思ったに違いない。

 宗教は教えである。民族のなりわいからそれぞれの生き方を戒めたものでもある。だから宗教を守るには厳しさがあったはずだ。しかし、日本の初期の仏像にはその厳しさがない。日本の仏教の受容は「ほほえみ」から始まったと考えれば興味深い。「うつくしさ」から始まったとすれば、なお面白い。
barmiyan.jpg バーミヤンには真夜中に着いた。渓谷は星ばかりが輝いていた。首都カブールを出発したのは早朝だったから十数時間、沙漠の山々を走り続けたことになる。案内人兼運転手は岡の上にテントを張りながら言った。
「明日早く起きてください。朝日が山から上がって仏像を照らし始めますから」
 簡単な夕食を取ってわれわれはテントの中の寝袋にくるまった。

 翌朝、朝日が対岸の岩山の巨大な仏像を照らし出した。荘厳な瞬間だった。千数百年前、玄奘三蔵がはるけくもこの地にやってきて数千の僧侶が修行していたことをそのたびの日記に記している。仏像の顔はその後にやってきたイスラム教徒のために削がれているものの、沙漠の真ん中にスッくと立つ姿には圧倒させられた。

 日本で感じる仏教とは異次元の祈りの空間がそこにはあった。いまはタリバンによってバーミヤンの仏像は破壊せられたが、世界の仏教史を語る上で欠かすことのできない存在であることは間違いない。

 ゴーダマは、自らの像を崇拝してはならないと弟子たちに戒めた。この点、ユダヤ教、キリスト教と何ら変わらない。しかし、不思議なことに、仏像は遠くインドまで遠征したギリシャ人たちによって誕生した。ギリシャの彫刻とインドに生まれた仏陀の教えが融合した。その尊顔の変遷はガンダーラからアフガニスタンを経由し、タクラマカン沙漠に到るまではアーリア系の血を残した。

 インドを東洋と分類することは難しいが、少なくとも西洋ではない。仏教が西洋化し、さらに東進することで東洋の美を増していった変遷は興味深いものである。中国の仏教は、西方の異なる教えとして伝えられたことは間違いない。その後の景教(ネストリウス派キリスト教)も回教も同様である。

 初め粘土でこねられた仏像は巨大化した結果、シルクロードに多くの石窟寺院を残し、中国でも竜門や大同では仏像は石に彫られるようになり、金属の仏像も鋳造されるようになった。そして、さらに日本に伝わると、今度は木造の美しい仏像が数多く誕生することとなった。

 忘れてならないのは、いま沙漠であるバーミヤンの山々もシルクロードも仏教がさかんだったころには森林が生い茂っていただろうということである。地球の気象が大きく変わり、乾燥化することによって、人々の営みの仕方も変化を余儀なくされ、信じる教えもまた変遷していったと考えれば、古代史の読み方も一層興味を増すものとなろう。
zPutImg.php.jpg 1968年8月、16歳の夏休み。両親が住むパキスタンの首都イスラマバードを訪れた。インダス川が形成するパンジャブ大平原の北限である。北には世界の嶺パミール高原がひかえるといえば大げさだが、イスラマバード周辺の山々パミールにつながると考えれば気宇壮大になる。建国20年を迎えたアユブカーン大統領が建設をはじめた新首都である。原野の中に白亜の政府ビルが建ち初めたばかりであたりはまだ建設の土音が響いていた。貧しさはあってもカオスをイメージするインド的バザールはない。

 しばらくして連れて行かれたのがタキシラという古都の跡だった。仏教を国教とした遊牧国家クシャン王朝時代のシルカップ古都だったところである。衝撃を受けたのは出土されたギリシャ彫刻そのものの仏像群だった。明らかに西洋の顔立ちでウエーブのかかった頭髪。多くはストゥッコという塑像でストゥーパの周辺を飾っていた。

 広い古都の跡地に入るとどこからか案内人が現れて、チップをあげると見るべき遺跡や仏像のありかを教えてくれる。しかし歴史的価値や美術的価値を十分に分かっているかどうか。「これは本物」「これはコピーで、本物は博物館」といった説明しかできない。

 タキシラ博物館に回ると収蔵品の多さには圧倒された。2000年近く前に仏教の一大拠点だったことを考えれば当たり前かもしれない。「掘れば何か出てくる」という表現が決して言い過ぎでないような気がした。タキシラ博物館では展示品を一応ガラスケースに入れてはいるものの、年代別に粗雑に並べてあるだけ。なんとももったいない話である。日本だったらその一つひとつが国宝なり重要文化財なりに指定され、展示会ではビロードの敷物の上に飾られライトアップされるような逸品ぞろいだった。

 仏教を東洋的なものと考えていたものにとってギリシャ風仏像が存在することは予想外のことだった。仏像そのものがこのタキシラで生まれ、その後、シルクロードを経て中国に渡り日本にやってきてようやくわれわれが仏像と認める形相となったことも新鮮な驚きだった。

そもそも仏陀は偶像崇拝を禁じたから、初期の仏教は仏陀の骨を詰めた仏舎利や仏陀の足跡の仏足跡を崇拝の対象にしていた。日本や中国に残る「塔」は仏舎利を埋めたストゥーパが卒塔婆となり、なまったものである。塔の五重や三重の建物の部分はもともとの基壇が発達したもので本当のストゥーパは屋根の上の部分に残るのだそうだ。

 僕の仏像を訪ねる遍歴が始まった瞬間だった。

 タキシラやペシャワールを中心とした地方はインドという概念に含まれていたかどうか分からない。ガンダーラという呼び名でも呼ばれていた。当時、ガンダーラには京都大学の水野清博士が率いる調査隊が山深くパキスタンからアフガニスタンを踏査していた。水野博士は戦後の大谷光瑞といってもいい存在だった。仏教伝来の道を東北インドに求めていた。著書の「文明の十字路」というタイトルは実にいい響きを持っていた。

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