2011年12月アーカイブ

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 一週間前から、高知の家の一階に囲炉裏の間を作り始め、24日ようやく完成した。十二畳の半分が畳で半分が板の間。相変わらず自分の家ではないが、初めて自費でつくった空間であるから嬉しい。

 ステレオなんてものはない。写真右上の棚にあるラジオだけ。親戚の古家を解体する際に頂戴したレトロの真空管式5球スーパー。若い人は知らないだろうが、HiFiのロゴが入っており、当時としては超高級ラジオだった。調度品で新しいのは伊勢木綿の座布団だけ。これは2週間前に伊勢神宮のおかげ横丁で注文した。すでに祝儀の日本酒4本が並んでいて、「おきゃく」の日を待っている。

 部屋の改築は林という知り合いの大工さんに頼んだ。「よし仕事が暇になったらやっちゃう」と意気に感じて請け負ってくれた、材料費はタダ。壁の下部は木目をあしらった杉板、上部は伊野和紙を自力で貼った。クロス屋さんに断られ、やむなくやってみたが林さんから素人にしては上出来といわれた。

 正面の障子まがいも林さんに手習いを受けながらの自作。和室にアルミサッシの窓枠は無粋。障子まがいを貼ることにした。林さんが「やってみるかえ」と言ってくれ、鋸とノミで組み木と試みた。悪くない出来ばえである。中央に垂れ下がる自在は義父の家にあったものをいただいた年代ものである。これだけはどこでも買えない。天蓋は大工さんがおもしろがってつくってくれた。

 この一週間は朝から晩まで林さんと一緒に作業をした。寒風ふきすさぶ中、ほとんど寒いと思うことはなかったが、さすがに夜になると筋肉が硬直した。三十数年、ペンより重いものを持ったことがなかったが、たった一週間だけだが、肉体労働をやってみて「こりゃ大変」な仕事であることを改めて知らされた。

 それにしても高知に帰って半年でこんな「おきゃくの間」をつくってもらって幸せなことだ。明後日、27日はここで餅つき大会を行う予定で、義父を含めて20人ぐらいの仲間が手伝ってくれることになっている。高知に帰ってきてよかった!(伴 武澄)
inuzuka.jpg 筆者が会長をしている財団法人国際平和協会。世界連邦を目指す団体の一つであるが、世界連邦というと誰もが「そんな夢みたいな」という顔をする。世界連邦運動協会という兄弟団体があって、実は1948年から活動を始め、全国に支部網まである。日本での世界連邦運動はこの運動協会を核に国会委員会、自治体協議会、宗教委員会がある。国会委員会は国会内に事務局をおき、会長は中野寛成衆院議員が務める。

 その国会委員会主催の講演会が12月8日、衆院議員会館で開催された。講師は元参院議員の犬塚直史氏。世界連邦運動協会の国際委員長でもある。10月にワシントンで開かれた世界連邦運動の国際理事会に参加した報告会でもあった。

 犬塚氏によると、内戦などで国民の生命 が危険に瀕している場合、国際社会が積極的に関与すべきだという意識が強まり、国連で保護する責任の役割が年々大きくなっている。またEU議会 にならって国連でも国益を乗り越えた議員総会の設立が急務であるとの認識を示した。

 21世紀に入って世界連邦運動が再評価されている背景には現在のペイズ専務理事の功績が大きい。世界のNGOに働きかけて、国際刑事裁判所を設立させ、日本もその条約を承認している。旧来の国際司法裁判所が「国家」を裁くのに対して、個人を対象に国際社会が裁く裁判所として注目されるのだ。

 以下、講演の要旨である。

 最近、注目されているのが「保護する責任」。従来、国際社会は「内政不干渉」が原則だったが、ルアンダでの虐殺を契機に意識が大きく変化した。政府が国民 を保護する能力がなかったり、保護する意思がなかったりする場合、国際社会が代わりに責任を負うというものである。2005年の国連総会で全会一致で採択 され、今年のリビア内紛では国連が保護する責任を発動した。世界連邦ができた場合は、この保護責任原則に基づいて動くはずである。

 2009年からWFMが保護する責任の事務局となっていて、2011年11月だけでも世界各地で10回もセミナーが開催されネットでも報告されている。日本に世界で起きている動きを伝えるため、日本語サイトを立ち上げたい。

 もう一つ注目してほしいのが国連議員総会(UNPA)の考えだ。現在の国連は政府代表によって成り立っているが、EU議会にならって世界や地球全体のことを考えるために、国益代表でない代表を選出しようというのである。

 すでに国連憲章22条で補助機関を設ける規定があるので、これを用いれば国連憲章の改正をしなくても議員総会は設置できると考えられている。国連議員総会 の設置に対して反対しているのが列国議会同盟(IPU)であるが、列国議会同盟を議員総会に発展させるということを提案していっても良いのではないかと思 う。

 世界連邦運動ニューヨーク本部では約4億ドルの寄附を集めたが、74%は国際刑事裁判所問題NGO連合、21%は保護する責任の国際連合へのもので、世界 連邦運動そのものへの寄附は4%に過ぎない。本部の運動は世界連邦そのものを直接前面に押し出すのではなく、国際刑事裁判所、保護する責任などのプロジェ クトで進めて成功している。

 1998年に国際刑事裁判所のNGO連合を立ち上げた時は17の団体しか加盟していなかったが、現在はなんと2500ものNGOが加盟している。世界連邦 運動のウィリアム・ペイス氏がその代表を務めているが、世界連邦であるということを前面に出してはいないので、他のNGOは中心が世界連邦とは知らないで あろう。

 2003年国際刑事裁判所が実際に設立されたのは、世界連邦運動の大きな成果である。スーダンでは元大統領が責任追及されることまで起きている。「侵略の 罪」について個人責任を追及するようになったのも大きな前進である。今後は核兵器の使用についても対象とすることを求めていくべきである。(伴 武澄)
sominnsshourai.jpg 師走も半分が過ぎ、注連飾り(しめかざり)が話題になる時期になってきた。そもそも注連縄は、神社などで結界を示すしるしとして稲わらなどを束ねて巻き、紙を切った紙垂(しで)を挿したものである。それが正月になると個人の家の玄関や門に飾るようになった。各地で特徴のある注連飾りが飾られているが、伊勢・志摩では一年中、注連飾りがあるのがおもしろい。

 伊勢市を歩いていて真っ先に気になったのは、この注連縄だった。注連飾りに文字が書かれ、半分くらいは「蘇民将来子孫家門とあるから目立つのである。神領民といわれる市民だけあって信仰深いのだとも思ったが、そもそも伊勢神宮の正宮、別宮、摂社、末社が4市以上にまたがって点在している広大な神域であるから結界も何もあったものではない。伊勢、志摩ではそこかしこに神が宿っているのである。

 注連縄で思い出すのは、大相撲の横綱である。土俵入りに締める太い綱は稲わらではないが紙垂があり、注連縄そのものである。古来日本では舞や演劇は神に奉納するもので、相撲もまたその作法を継承したから、神事が伴う。相撲で仕切りの前に拍手を打ったり、塩をまいたりする所作は神道そのものである。力士の相撲が神技になってようやく横綱になれるのだから、最高位の力士が注連縄を締めても一向におかしくない。

sominnsshourai700.jpg 伊勢市では毎年四月に大相撲の地方巡業場所が開催される。毎年開催されるのは伊勢市だけである。横綱が伊勢神宮に土俵入りを奉納するしきたりがあるため、伊勢市民は毎年、大相撲を観戦できる栄誉に恵まれている。それしても筆者が津支局に在任した2004-2006年は横綱が朝青龍一人だけだったから、モンゴル人である朝青龍のみの土俵入りとなった。大相撲会を代表した年一回の神さかへの儀式が外国人によって続けられることにある感慨があった。神道の儀式をここまで見事にまっとうできるなら国籍の有無に関係なく「日本人」なのだと考えさせられた。

 話を注連飾りに戻す。伊勢と志摩では年中、注連飾りを飾り、多くに「蘇民将来子孫家」の文字が入っていることはすでに書いた。理由はスサノオノミコト伝説にあるらしい。詳しくは聞いていないが、以下のような話である。 ある村に二人の兄弟がいた。旅をしていたスサノオノミコトが一夜の宿を探していたところ、お金持ちの弟の巨旦(きょたん)はスサノオの汚れた身なりを見てことわった。貧しい兄の蘇民将来は家に行くと、招き入れもてなしてくれた。スサノオは蘇民の妻となっていた巨旦の娘に茅の輪を授け、蘇民の家に今後、「蘇民将来子孫家」と書いた護符をつけるよう命じ、巨旦の一族を滅ぼした。おかげで蘇民将来の一門は疫病や災難を免れたという。その護符が伊勢や志摩の注連飾りとして伝わり残っている。

 蘇民将来伝説は日本各地に残っていて、「茅の輪くぐり」によって疫病から免れる儀式が執り行われているが、注連飾りに無病息災を託す風習は伊勢と志摩だけのもののようだ。(伴 武澄)

 厚労省は、企業に対して再来年度から希望者全員を65歳まで再雇用するよう義務付ける方針が14日明らかになった。、そもそも政府が企業に「雇用」を義務付けることなどできるのだろうかという疑問があるが、実は公務員の定年延長の前触れではないかと直感している。

 じょうだんじゃない。すでに消費税増税路線を進めているのだから、次に来るは公務員の大規模リストラと給与削減のはずである。年金一元化で公務員共済や私学共済などが一向に一元化しないのは、掛け金や支給額が民間より「有利」であるからでしょう。そうでなければ20年以上前に厚生年金と一緒になっていてもおかしくない。今回の民間の払い過ぎ年金問題についても公務員だけは何も決まっていないのは、手抜きとしかいいようがない。

 労働組合が長年の労使交渉で勝ち取ったもの。雇用するかどうかは、企業の自由意志であるはずだ。企業が勝手に従業員の首を切ることはなかなか難しいが、そんな難しいことでも労使合意を経ることで不可能ではない。企業が存廃の危機に直面したとき、実際に多くの企業でリストラが行われた。こんな法律が通ったら、たとえば円高で工場を閉鎖したくとも何もできないことになる。

 そもそも65歳までの雇用について、すでに企業は(1)定年の廃止(2)定年の延長(3)継続雇用-のいずれかの方法で雇用の維持を求められている。現在は希望しても企業側が必要がないとされた人まで雇用する義務がないが、今回は「希望者全員の雇用を義務付け」ようとしている。

 民間に65歳まで雇用義務が生じた暁には、政府も公務員を65歳まで雇用する義務が生じるという話が出てきてもおかしくない。公務員だって労働者だ。無理のない論理だ。この15年、民間では年収ベースで2-3割に給与ダウンは常識だ。ところが公務員の場合、目だって下がったという話は聞かない。そんな公務員を65歳まで高額給与を支払うことになったら、せっかく社会保障のために引き上げた消費税などあっという間になくなってしまう。

 それよりも、2カ月前、厚労省は年金の支給開始年齢を68歳に引き上げようとしたばかり。政府は税と社会保障の一体改革で消費税を増税する方針だが、増税した上に年金支給を遅らせ、さらに企業には65歳までの雇用を義務付けようとするなど、次早に国民への負担を増やそうとしている。過去の政権で何度も国民負担は増やされたが、一度にこんなに負担増を図ろうとしたことはない。

 野田政権があほなのか。あるいは霞ヶ関が民主党政権をつぶすために策を弄しているか。いずれにしても野田政権は官僚になめられすぎている。

 野田政権が発足して、党内融和のために小沢派にすりより、その後は財務官僚の言うがままの国政運営を続けている。そんなことは百も承知で野田さんも悪くないと思ってきたが、そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ。

 野田さんでも仕方ないと思った理由は自民党政権に戻っても同じことしか起きないからで、せめて民主党政権が一定期間存続して政権交代の礎ができてほしいという願うがゆえであった。ところが、民主党がマニフェストに掲げた子ども手当てを放棄し、高速道路無料化も骨抜きにされた。コンクリートから人へというマニフェストのさきがけとなるべき八ツ場ダムも建設再開の動きが強まっている。民主党マニフェストの全否定では政権を維持できない。維持する意味もない。

 定年延長、人事院の国家公務員定年延長案は年収30%減?
 http://nenkin.co.jp/lifeplan-blog/news/archives/2011/09/29-141743.php
DSCF0009.jpg 伊勢神宮が現在の地に祀られたのは天武・持統天皇の時代とされる。天皇家のご先祖さまである天照大神を祭神とする内宮と豊受大神を祀る外宮に分かれ、二つの正宮を持つ不思議な神社である。天皇支配の時代に立てられた皇祖を祀るための神社で、豊受大神と並んで崇拝されてきたことが興味深い。

 両正宮には天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は許されていないから、ご神体を拝むなどということはありえない。神秘の世界である。もちろん衛視が目を光らせていて写真撮影などはご法度である。

 正式な参拝は外宮を先に参って、後に内宮を参るというのもおもしろい。地理的にいって、奈良や京都の都からやってくると、宮川を渡って神域に入るため、北側にある外宮が先だといわれれば納得できないこともない。しかし、それでは皇祖がないがしろにされているような気になって仕方がない。

 そもそも分からないのは、皇祖を祀る伊勢神宮が伊勢国度会郡に存在することである。都から遠隔地であっても天孫降臨の地にあるのだったらまだ理解できるが、奈良の明日香から山を越えたはるか東方に位置するのだから、説明不能である。

 それにしても歴代天皇が伊勢神宮を参拝した記録はなく、明治天皇が江戸への行幸の際に参られたのが、最初だというから不思議だ。平安末期には熊野信仰が盛んとなり、後白河上皇は34回も熊野詣でをされている。天皇であっても行幸は一般的だったから、皇祖参拝があってもおかしくない。

 歴代の天皇は皇祖を祀るために、皇女を斎宮(さいくう)として伊勢の地に派遣した。この制度は平安時代になっても続いた。斎宮は実は京都の上賀茂神社にも送り込んでいたから、賀茂はまた別格の待遇だったといえよう。斎宮は神に仕えることから穢れと仏教用語を忌み詞として禁じていた。

 また伊勢神宮は二つの正宮にそれぞれある別宮、末社摂社を含めると計125の社があり、その範囲は4市2町にまたがる。その一帯は神領とされ、律令制度の国衙の管理下にはなかった。単なる一神社ではなく、イタリアのバチカン公国のような存在ともいえるかもしれない。

 神さまの社を一般的に神社という。日本最古の神社は奈良の大神(おおみわ)神社とされるから、伊勢神宮はそれより相当に新しい。にもかかわらず神宮といえば伊勢神宮のことだった。いまでもし正式名称は宗教法人神宮である。

 神社にも格がある。江戸時代まで、神宮といえば「お伊勢さん」のことで、そのほかに神宮を名乗ったのは熱田、鹿島、香取の三神宮、大社は出雲と熊野のみだったそうだ。神宮が神社の上にあり、大社は別格ではないかと考えている。
DSCN0804.jpg 久しぶりに伊勢神宮を訪ねた。早朝の木漏れ日が美しかった。再来年10月、この地で式年遷宮が行われるのはご存知であろう。

 内宮にある山田工作所では宮大工による槌音が響いている。その日のために150人の宮大工が日々、社殿の木造りに励んでいるのだ。たぶん日本で最高レベルの木造建築の技が磨かれているのだと思うと厳粛な気持ちにならざるを得ない。木造で日本一ということは世界に類を見ないということにもなる。

 式年遷宮は神道の宗教儀式であるとともに、日本に伝わる古来の伝統木造技術の伝承のためにあるとさえいわれている。コンピューター抜きで生活ができない21世紀に、伊勢神宮だけは別世界といっていい。コンピューター技術に劣らない精緻な作業が宮大工たちによって続けられているのだから、ユネスコの世界遺産などとは異次元の人間の知恵と技による空間である。この時代に、何とも表現しがたい気持ちにさせられる。

 伊勢神宮の参拝者は年間400万人を数える。式年遷宮の年には倍増するといわれているが、今年は遷宮2年前にもかかわらず800万人に近い参拝者になるとみられている。遷宮に向けて国民の関心も否応なく高まっているのだそうだ。

 伊勢神宮の社殿はすべて萱葺きである。萱職人もまた全国から集められ、今年4月から工作所で働いている。新しく葺き替える屋根は40棟近くあるため、使用する萱の量も半端でない。山田工作所には専門の萱小屋が4棟もあり、8年かけて刈り取られた萱ですでに満杯となっている。萱の一束は1メートル20センチの縄で束ねられており、重さは約40キロ。それが2万3000束を数える。

 遷宮の作業を7年前から日々、記録している人がいる。伊勢文化舎の中村賢一さんである。かつて伊勢市に「伊勢人」という隔月の雑誌があり、その編集者でもあった。7年前、遷宮の儀式が始まり、ご神体を奉納する器である御樋代木(みひしろぎ)をつくるご神木を切り倒す壮麗な儀式が木曽山中のヒノキの天然林であった。偶然となりに座っていたのが、中村さんだった。たがわず伊勢の生き字引のような人だった。12日の夜、その中村さんと遷宮について語ったことも付け加えておかなければならない。(伴 武澄)
 5月に高知に帰ってから月に1回以上、高知と東京を往復している。航空運賃はもちろん「特割」などで事前に購入するし、宿泊付のツアーの場合もある。どうしようもない時は8000円内外のANAの株主優待をチケットショップで買うことにしている。

 機内に搭乗していつも考えさせられるのは、この乗客の中で「正規運賃」を支払っている人はどのくらいいるのだろうかということである。高知-東京の正規運賃は季節により異なるが片道、3万3000円から3万1000円である。東京のホテル1泊付のツアー料金はホテルにもよるが安いものだと3万3000円からある。前日まで購入できる特割は片道2万5000円、株主優待も同じようなものである。

 おおよその推測だが、往復の航空運賃分は往復3万円以下であろう。つまり、僕の場合、いつも半額で搭乗していることになる。たぶん、ほとんどの客は僕と同じように、割引運賃で搭乗しているはずである。

 正規運賃の半額しか受け取れないのだったら、航空会社は初めから半額の運賃にすればいいのではないかと考える。
DSC_0302.jpg 週末、宿毛を訪ねた。歴史館でびっくりしたのは、古代に土佐国とは別に「波多国」があったと解説されていたことだった。「都佐国にさきがけ、波多国造に任命された大韓襲命(おおからそのみこと)は、県下で唯一の前方後円墳である平田曽我山古墳に埋葬されたと考えられる。平田には前期古墳が三基もあり、すべて波多国造の一族の墓と思われ、この付近が波多国の政治経済の中心だったことを物語っています」

 高知県西部は幡多郡というが、古代の幡多の文化は瀬戸内海から伝えられたようである。現在、高知と呼ばれる県都は江戸時代に山内一豊が築城して城下とした場所で「河内」がなまって「高知」となった。長宗我部は岡豊を築きその後に桂浜のある浦戸に移った。最初から「高知」があったのではない。

 紀貫之が土佐の国司に来たころは南国市に国府があったから政治の中心は香長平野にあったのだろうが、もう一つの中心が一条家が支配した幡多郡にあったことは歴史的事実である。

 歴史が面白いのは、地元にいくと教科書には書かれていない展開があるということである。幡多郡のキーワードは「波多国」と国造の「大韓襲命」に加えて、「高知坐神社」である。幡多郡に「高知」があった。「たかち」と読む。奈良の「高市」と通じるのだそうだ。

 さらに宿毛市のホームページに続きを読みたい。

 宿毛市平田町戸内にある高知坐神社の祭神は都味歯八重事代主命である。『土佐式社考』に「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるからあるいは高知坐神は事代神主命であろう。高知・高市は相通ずる。......国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」とある。
 また、『中村市史』には次のように述べている。「幡多郡に高知坐神社があり、大和国高市郡には高市御県坐、鴨事代主神社がある。また、高市郡に波多郷があることからみると、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和の名を移したものであろう。幡多郡には賀茂神社もあることから考えると、天韓襲命は事代主命の神裔で大和から移住せられたものかも知れない。
2030cost.jpg 日経新聞の12月6日一面トップ記事によると、「政府のエネルギー・環境会議が電源別の発電コストを試算する「コスト検証報告」の原案が5日、明らかになった。原子力は事故費用などを加味し、1キロワット時あたり最低でも8.9円と2004年の試算に比べ約5割高くなったが、なお液化天然ガス(LNG)並み。太陽光は30年までにほぼ半減するものの、割高な状況は変わらない。新試算を踏まえ、政府は最適な電源の組み合わせを示す「ベストミックス」を柱とする新たなエネルギー基本計画を来夏までにまとめる。」

 日経新聞が掲載したエネルギー環境会議の試算の問題は「送電コスト」が含まれていないことである。以前、東電の広報部の人に聞いた話では、福島県から首都圏に送電するコストは発電コストに匹敵するし、仮に下北半島から送電するとなるとその何倍ものコストがかかるということであった。遠隔地に発電所を置く原発と基本的に屋根のおく太陽光とでは発電コストのみを比較しても意味がないということである。

 表のように太陽光の発電コストがキロワット時あたり30.6-16.4円であるとすると。これは屋根の上にあるから送電コストはゼロ。原子力の場合、同8.9円はで送電コストを加えると太陽光とおまり変わらない水準となる。本来のニューズの価値はここらにあるのではないかと考える。

 また、エネルギー環境会議の試算には営業経費や点検費用は含まれていない。個人が太陽光を屋根の上に設置する場合には、営業費など間接コストが一切かからないということも加味すれば、太陽光発電は将来、原発より相当安いエネルギー源になりうることを示している。そうはいえないだろうか。

DSC_0257.JPG クリントン米国務長官がミャンマーを訪問し、アメリカとミャンマーの関係修復に乗り出している。民主主義が行われていないと軍事政権を非難し続けたアメリカが豹変した。ミャンマーが国際社会に復帰できることは喜ばしいことではあるが、あまりにもご都合主義でなないか。長年、経済制裁を行ってきた国に対して態度を変えたのは、中国に対する牽制である。

 実はミャンマーはアジアでマレーシアに並ぶほど親日的な国である。国の成り立ちに、戦前に多くの日本人が関わってきたからにほかならない。ミャンマーの歴史を葉たる際に、イギリスがどのようにこの国を統治してきたかということを知らなくてはならない。

 そのイギリスを追い出すことに多くの日本人が関わっていたことはほとんど記憶のかなたに去っている。竹山道雄が執筆した少年向けの小説『ビルマの竪琴』すら、現在の日本人は忘れている。不思議なことに、豊かになった日本で起きているのが、アジアへの無関心なのである。

 田中正明『雷帝 東方より来る』(自由国民社)、バーモウ『ビルマの夜明け』(太陽出版社)、泉谷達郎『ビルマ独立秘史 南謀略機関』(徳間書房)を相次いで読んで、ビルマ(ミャンマー)建国の父であり、スーチーさんの父親であるアウンサン将軍に思いをはせた。

 アウンサン(1915年-1947年)はオンサンとも呼ばれたビルマ(現ミャンマー)建国の父である。学生時代から反英闘争に入り、第二次大戦では日本軍と協力してビルマ独立軍を編成、軍政の中、バーモウ首相をいただいて独立するが、日本軍が劣勢に転じると英国側に寝返る。戦後、イギリスとの独立交渉のリーダーとなる。1948年の独立を見ることなく、反対派に暗殺された。

 アウンサンが独立運動の闘士として注目されたのはラングーン大学の学生時代。運動の機関誌の編集長として活躍。過激な記事を掲載したことで中途退学を余儀なくされるが、その後全ビルマ学生連盟のリーダーにのし上がった。

当時、イギリスはビルマに自治制度を取り入れ、独立闘争の矛先を緩和しようとしたが、唯一屈しなかったのが、学生を中心とするタキン党だった。タキンとは主人という意味でビルマの統治はビルマ人によらなければならないという主張を掲げた。アウンサンもまたタキン党の有力メンバーだった。
第二次大戦が始まると、イギリスはビルマ統治を強化しようと、自治政府の閣僚も含めて危険人物を一網打尽にした。そんな中、アウンサンは中国アモイに脱出していた。

 アウンサンの反英闘争は日本軍の目にもとまり、逃亡先に逃亡したラミヤンとももに参謀本部の鈴木敬司大佐によってアモイから救出され、33人の仲間とともに海南島で「死の軍事特訓」を受ける。

 1941年、日本軍の南方進出が進む中、ビルマ独立義勇軍を編成し、陸軍の南機関のもとで、ビルマ進攻作戦の先鋒役を果たす。翌年3月、ラングーンが陥落すると義勇軍は国防軍と名を変え、43年8月、バーモウを首班とするビルマ独立に際しては28歳で国防大臣に就任する。

日本とビルマの蜜月時代は長くは続かなかった。戦争中の独立は軍政下における自治にも満たなかったため、ビルマ側の不満は到るところで噴出した。44年、インパール作戦が失敗に終わると、完全に日本軍から離れ、ビルマ共産党などと反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織して日本軍に反旗を翻した。

 戦後は、このAFPFLがイギリスとの独立交渉にあたったため、アウンサンの国際的知名度は一気に高まった。47年1月、一年以内に独立を約束するアウンサン・アトリー協定が結ばれたが、国論の統一は難しく、48年1月、政敵のウー・ソー派に暗殺された。

 独立を見る前に暗殺されたという点ではインドのガンジーと同様であり、日本軍に協力した面では同じインドのチャンドラ・ボースと似ている。海南島時代、アウンサンは仲間とともに日本名をもらい、緬甸(ビルマ)から面田紋次を名乗っていた。南機関の鈴木機関長もまた、ビルマ名、ボ・モージョを名乗った。33人の志士からはネ・ウィンら戦後に首相になる人物も含まれていた。

 

 
index.jpg 中野総合病院の前の賀川豊彦胸像がなくなっていると聞いたのは2週間ほど前のこと。一瞬、耳を疑った。胸像は病院創立35年を記念して昭和42年に建立されたもので、その後の手入れもなかったのか、2009年に訪ねた時にはすでに眼鏡がなくなっていた。

 中野総合病院は日本初の医療組合による病院として発足した。健康保険もない時代に労働者たちの医療事情は現在とは比べることのできないほど厳しいものがあった。病気になっても医者にかかる金がない。その病気を放っておけば病状はますます悪化する。病状が悪化すれば、収入の道が閉ざされる。その悪循環が巷に横行していた。

 そんな時期に労働者の共同出資による病院をつくろうとしたのが賀川豊彦だった。賀川の構想は日本医師会の猛反対で設立が危ぶまれたが、藤沼庄平東京府知事の英断でかろうじて認可された。この医療組合の発想は燎原の火の如く全国に広がった。現在、全国に約200カ所あるJA厚生連や生協経営の多くの病院は1932年の中野総合病院の設立を契機に誕生したといって過言でない。

 そうした意味において、中野総合病院は日本の医療の原点ともいえる存在なのである。その原点の病院がなぜ、創業の父である賀川豊彦の胸像を撤去しなければならないのか。また、それに対して、どうして疑問の声が起きないのか。高知にいながら苛立たしい思いが募る。

 聞くところによると、中野総合病院は賀川なき後、娘の冨美子氏が院長として跡を継いだが、賀川をないがしろにする勢力が病院内を支配し、革命に反対した賀川精神を骨抜きにしたという。今はだれが経営しているのかも知りたくはない。

 少なくとも、賀川の胸像は中野区の公園に存在していた。病院側が薬局をつくるために、土地を買収し、産廃業者にその作業を委ねたという。知人がその産廃業者にたずねると、胸像はすでに溶融されてしまったそうだ。

 買収した土地にあったものを所有者がどのように処理しようと勝手である。しかし、中野総合病院の前の胸像はすでに歴史的意味を持つ存在であったはずである。日本が貧しかった時代に、貧しい人たちのために病院を設立した先達の偉業を象徴する存在なのである。ある意味で、文化財的存在であるともいえなくもない。

 どんな理由があろうとも、そんな胸像を安易に葬り去った中野総合病院はもはや地域医療を担う資格はない。そもそも平時に銅像が撤去された話など聞いたことがない。自らが維持できなくなったら、まず関係する組織に相談すべきである。世田谷の賀川豊彦記念松沢資料館、神戸の賀川記念館ともに銅像はないから喜んで受け入れたはずである。

 いまからでも遅くない。病院は賀川豊彦の胸像を撤去したことに対しに社会に謝罪し、猛省して胸像の再鋳造を求めたい。
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『イエスの宗教とその真理』が再販されていることを知らなかった。ミストル社の河合一充氏が、「後世に残したいキリスト教関連の古典」復刻版シリーズ第一弾として復刻したもので、以下のような解説を書いている。

 「傷つけられたる魂にイエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である」の序で始まる本書は、イエス・キリストの福音を、著者の体験を通して分かりやすく語った名著。

 賀川豊彦の行動と思想の原点である「新約聖書」を分かりやすく伝える、古典的名著(1921年初版)の復刻版です。クリスチャンでなくとも、キリスト教に関心ある人にはベストの入門書と言えます。

 大震災を機に、日本人に宗教への関心と要望が高まっているとき、復興への力と勇気、生きる希望を与えてくれることでしょう。

――賀川豊彦(1888~1960)とは――

 貧しい人々の救済と民衆のための伝道に生涯を捧げたキリスト教伝道者・社会運動家。明治42年(1909年)、神戸のスラム街(貧民窟)に移り住み、貧しい人々のために救済事業に立ち上がる。

 大正年間に、神戸で労働運動、生協の前身・購買組合運動、医療福祉運動等を創始する。広く日本の社会運動の先駆者となる。戦後、日本生活協同組合連合の初代会長。「生協の父」と呼ばれる。

 著述家・詩人としても天才的才能を発揮。彼の自伝的小説『死線を越えて』(1920年)は改造社より出版、戦前の空前のベストセラー。復刻版がPHPより出る。

 評論家・大宅壮一は言う、「賀川は明治・大正・昭和の3代を通じて、日本民族に最も影響を与えた人物ベストスリーに入る。近年日本を代表する人として、自信と誇りをもって世界に推挙したい」。

 事実、20世紀において世界で最も知られた日本人は"カガワ"であった。彼の偉大さは今も記憶から消えない。

 【復刻版】 イエスの宗教とその真理 賀川豊彦

 河合一充 くだん日記

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