2011年10月アーカイブ


  自称「毎週金曜日はりまや橋商店街に出没する占い師」の源さんのブログ「占いから未来へ」が土佐論を展開していておもしろい。2009年7月13日の「土 佐人民党を立ち上げましょう」では、地域政党として「土佐人民党」の設立を提案している。名称は「四国独立党でも何でもいい。土佐人民党は省略すると、土 人(どじん)党。インパクトのある名前ではありませんか」というのである。
 http://sachiare.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ec2d.html

 使命は「食とエネルギーの自給」で、これならば高知県1県で不可能ではない。源さんによれば土佐人民党は「単なる政治団体というより、地域おこし研究・ 実践団体、教育団体の性格が濃いもの」「討議の末、あるべき姿が見え、政治家の力が必要になれば、地方議員にでも国会議員にでも働きかけて、実現させてい けばよい」「政争に巻き込まれるのではなく、あくまでも「くにづくり」を志向」するのだという。

 源さんの提案は、いわば県民シンクタンクのようなもので、。党員が立候補して政治を行うのではなく。人民党の政策・綱領を推進してくれる「政治家」を選んで「委託する」存在とでもいえまいか。

 これまでの「勝手連」が候補者を応援する場面が多々あったが、勝手連は候補者の考え方に賛同した有権者が立ち 上げたもので、自ら政策を立案するのではない。土人党はそうでなく、シンクタンク機能を持って常々、日本のあり方、土佐のあり方を議論し提言を発信する組 織なのである。

 少なくとも「食とエネルギー」の自給という命題はいい。ぜひとも実現したい構想である。(伴 武澄)
DSC_0623700.jpg10月21日、雨天の中を高知から山を越えて旧土佐山村西川を訪ねた。自由民権時代の新聞記者、和田三郎の旧宅がある。市内からたった15キロしかないが まさに山村である。そこに自由民権結社「山嶽社」があった。土佐山村は多くの民権家を輩出したことで知られる。もともとは和田波治、千秋父子が始めた寺子 屋だった。門下生のの高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党が成立したころ、民権結社「山嶽社」に発展し。明治22年2月26 日に「山嶽倶楽部」と改めた。

  『土佐自由民権運動日録』や『土佐山村史』などによると、土佐山郷西川の桧山で「巻狩大懇親会」という催しが開かれ、県下の壮士約2000人がこの山 村に集まったというのだから驚きだ。7日後、今度は香美郡赤岡の海浜で、「旧海南自由党魚漁大懇親会」も開かれ、中江兆民らも参加している。海、山で自由 民権の大絵巻を繰り広げたのであるから痛快だ。

 高知の「立志社」は、2隊に分かれて山越えで野宿しながら会場へ到着したという。高張提灯や旗を掲げ、銃や槍、薙刀(なぎなた)、野太刀などを携え、ま た毛布や食料などを背負った集団が山を越える姿は異様に違いない。現在でも15キロの山道を2000人のデモ隊が越えるという光景は想像できない。

DSC_0617700.jpg なるほど植木枝盛が「自由は土佐の山間より発する」と言った意味が少し分かり始めた。 和田三郎(1872-1926)になぜ興味を持ったかというと、『萱野長知研究』に萱野の朋友として度々登場するからである。祖父や父の薫陶を受けたもの の、自由民権運動には遅れて出てきた人物で、アジア大陸で自由民権の流れをつくり、日本に逆輸入しようと考えた点では多くのアジア主義者と共通項を持つ。

 明治治5年6月22日生まれ。明治学院を卒業、,郷里高知県の土陽新聞の記者となる。明治39年、中国同盟会の発足を支援するため宮崎滔天(とうて ん)、平山周らと「革命評論」を創刊、大正4年、中華民国通信社を興して新聞「支那と日本」、「民報」を相次いで発刊、孫文らの中国革命運動を支援した。 宇田友猪(ともい)とともに板垣退助監修の「自由党史」を編修、43年刊行。大正15年11月1日死去。55歳。
 高知工科大学に勤める姉から大豊町の村祭りへの誘いをもらった。「神輿の担ぎ手がいなくなって留学生に助っ人を求めてきている」というのだ。

 そもそも村祭りなどと縁のない生活を送ってきたから、二つ返事で行くことを約束した。会場の星神社をネットで検索すると大豊町の大田口から山に入ったと ころにあった。16日の日曜日、吉野川沿いの約束の場所に向かった。副町長が出迎えてくれて「その車では無理なので町の車に乗りましょう」と誘ってくれ た。

 くねくねと山道を登り、15分ほど走ると山肌に棚田を構えた村落が現れた。庵谷(いおのたに)だ。庵谷の氏神さまが星神社。星神社の由来と村人に聞いた が、よく分からない。大豊町に星神社と名のつく社が11カ所もあるというのだから、この町にとって「星」は特別の意味があるのかもしれない。

 神事は午前10時半からはじまった。留学生は20人以上が集まった。神輿の担ぎ手8人のうち、村人は1人だけ。残る7人は留学生。裃と烏帽子の装束を身 に着けて、それぞれに神々しい。神事ではみなが正座し、神妙に神主の祝詞に聞き入る。拍手(かしわで)も打つ。イスラムのスカーフをかぶった女性もいた。

 日本の神さまは八百万の神だから、宗教も分け隔てしない。山菜を中心とした炊き込みご飯と煮物の昼食は村の奥さんたちの手作り。肉が入っていないから、イスラムも問題ない。
 一行は昼食の後、村人が集まる御旅所(おたびしょ)まで約1キロの山道を往復し、わっしょい、わしょいの掛け声も高らかに滞りなく神事を終えた。留学生たちは「おもしろい」「楽しい」を連発、笑顔の秋の一日となった。

 翌日の高知新聞は夕刊の一面トップでこの行事を報じた。

「田舎の神祭もインターナショナルで―。神祭でみこしや太鼓を担いで練り歩く「おなばれ」が16日、長岡郡大豊町の庵谷(いおのたに)集落で営まれ、7カ 国18人の留学生が担ぎ役などに参加した。過疎・高齢化で人出不足に悩む集落が、今年初めて県内留学生を募集。国際色豊かな一行が山里をにぎわした。」

 この行事は2011年度高知地域留学生交流推進会議地域交流事業の一環として行われた。日本人でもなかなか体験することができないような村祭りを多くの 留学生が体験できた意義は大きい。それにしても担ぎ手がいない神輿は全国に多々ありそう。軽トラックに神輿を乗せて村中を回るなどということは当たり前に なっているというのだから驚く。村人にとって秋祭りは豊作を神さまに感謝する大切な年間行事なのに・・・・・・。

 構想日本の西田陽光さんと都内でトークショーをした。テーマはNPO向け「発信力アップ講座」。何を話したから忘れたが、受講者の一人が西田さんの「発信力は情熱」という一言に痛く感じ入って「鳥肌が立った」といっていたから、なかなかいい「発信」だったに違いない。

 帰り際に西田さんから冊子をいただいた。故高木仁三郎「科学の原理と人間の原理-人間が天の火を盗んだ-その火の近くに生命はない」。原発の恐ろしさに ついて警鐘を鳴らし続けた碩学だった。この冊子を読後に岩波新書『プルトニウムの恐怖』(1980年)も併せて読んだ。30年前から原発や放射能の危険に ついて語っているが、この冊子の方が分かりやすく、危機感が迫るものをもっている。高木さんが残した人類への遺言でもある。

 高木さんによると、地球は宇宙の星のくずから誕生したもので、もともと放射能の塊だったものが「46億年かけて冷めてきて、ようやく人間や生き物が住め るくらいまで放射能が減ったもの」なのだそうだ。だから「宇宙に生命生命はいないと思う。それくらい地球というのは特殊な条件なのだ」。

 その特殊性について、「水の存在」もさることながら、「放射能に対して守られていることが大きい」と指摘する。そんな特殊性があるにも関わらず、「せっ かく地球上の自然の条件ができたところに、人間が天の炎、核というものを盗んできてわざわざもう一度放射能を作ったのが原子力なのだ」という。これまでの 反原発論者が語ってこなかった部分ではないかと思った。
 だから高木さんは、原子力こそが「プロメテウスの火」なのだと強調している。「地球上の人間の原理の中で許さ れる科学技術とそうでないものがあることをちゃんと知る必要がある」ことにも言及している。臓器移植については「明らかに今までの人間の自然な死とか生命 と番う原理を持ち込んでいる」と批判している。臓器を取り替えることができるようになると「手が悪いとなれば手を取り替え、・・・足も、臓器も・・・全部 取り替えて、その人は同じ人間なのかという問題にぶつかる。西洋的な考えでは脳だけ元の人の脳だったらあとはどこを取り替えても元の人ですよ」ということ なのだ。

 人間の生命に関しては、そもそも「生命は核(原子)の安定の上に成り立っている。原子力はまさに核の安定を崩すことによってエネルギーを取り出す技術。ここに一切の原子力の問題がある」とする。

 放射能の恐ろしさについてこんなことも語っている。原発の指先ほどのペレットを燃やすと一軒の家が年間消費する電力を生み出すほどエネルギー効率がいい のだが、燃えた後に残す「死の灰」は5万人の人間を殺すことができる放射能を持っている。そしてその放射能は数百年たってようやく安全な元素に落ち着く。

 46億年かかって静まった放射能を人間は武器としてはともかくエネルギー源として「不可欠なもの」として「復活」させてしまったのである。問題は原子力 の火は決して消すことができないことなのだ。原子力を制御できるかどうかが現代科学の課題になっているが、高木さんに言わせれば「封じ込める」ことはでき ても「その火は消せない」のだ。放射性物質が放射能を出さなくなるまでには最低で数百年、そもそもこの地球は46億年もかかったのだという高木さんの警鐘 にわれわれはもっと早く気づくべきだった。(伴 武澄)


 萬晩報は以前から財団法人国際平和協会と提携して「アジアの意思」を提唱してきた。「アジア主義」から100年、日本を中心としたアジア主義への反省から新たなスローガンが不可欠との認識から生まれた言葉である。英語では「Think Asia」という。

 今年2011年は孫文の辛亥革命100年。全国で孫文ゆかりのニュースが発掘されている。まさに日本と中国との歴史と未来を考える年としたい。たぶん、 孫文を網羅したページは今回の萬晩報が初めてだと思う。各新聞社の事情で一定期間をすぎるとクリックしてもニュースが反映しない可能性がありますが、あし からず。【編集者=伴 武澄】

2011.10.17 辛亥革命100年 「革命の遺産恐れる中国共産党」ウォールストリートJ紙【産経新聞】
2011.10.15 中国辛亥革命 「民族」より「民権」を【毎日新聞】
2011.10.13 孫文の飛行学校設立で契約書 台湾の史料館が所蔵【共同通信】
2011.10.12 東奥日報社説「山田良政」
2011.09.26 孫文ゆかりの飛行機模型、長崎で展示 東近江市民が復元【京都新聞】

2011.10.13 岡山市で「闘う政治家犬養木堂--明治期の活躍」、孫文との交流も紹介【山陽新聞】
2011.10.12 孫文ゆかりの史跡散策/辛亥革命100周年【朝日新聞】
2011.10.10 台湾が建国100年行事 中国に民主化呼び掛け【共同通信】
2011.10.10 「辛亥革命100年」 神戸で記念企画続々【神戸新聞】
2011.10.10 中国:厳戒「辛亥革命100年」【毎日新聞】
2011.10.09 二本松で鈴木天眼資料展 孫文と交流あった明治のジャーナリスト【福島民報】
2011.10.02 安川敬一郎の孫文への資金提供、出納簿で初確認【読売新聞】
2011.10.01 孫文と庄吉展開会式に320人 長崎で1日一般公開【西日本新聞】
2011.09.30 辛亥革命と福島、つながりを研究【毎日新聞】
2011.09.22 孫文・梅屋庄吉と長崎:飛行機「翦風号」の複製展示-長崎歴史文化博物館【毎日新聞】
2011.09.10 「滔天と孫文」来月上演 荒尾市民ら練習に熱【熊本日日新聞】
2011.08.25 孫文企画展をPR 長崎県、北京でイベント【西日本新聞】
2011.08.06 日中結んだ孫文と梅屋庄吉 交流の足跡たどる企画展 長崎で10月から【西日本新聞】
2011.08.04 「孫文と九州」 3人の銅像長崎へ 梅屋夫妻への感謝形に 中国が出身地に寄贈【西日本新聞】
2011.07.27 梅屋庄吉像を上海に 長崎県「友好の象徴として」【西日本新聞】
2011.07.23 孫中山記念会理事長に就任 田崎雅元さん【神戸新聞】
2011.06.18 孫文、革命前に米国籍取得 証明文書を特別展で公開へ【共同通信】
2011.06.11 山田兄弟の生涯を冊子で/愛知大【東奥日報】
2011.05.05 孫文の足跡歩く 長崎市【西日本新聞】
2011.04.27 台湾の今昔に親しむ 金沢でフォトギャラリー【北国新聞】
2011.04.11 『孫文の義士団』 革命を信じて命をなげうった市井の人たち【共同通信】
2011.04.10 孫文の"遺産"初公開 北九州市で企画展【西日本新聞】
2011.02.09 「孫文と梅屋庄吉」で長崎振興 推進協が発足【西日本新聞】
2011.01.30 孫穂芬さん死去 孫文の孫【共同通信】
2011.02.09 "孫文と梅屋庄吉"推進協設立 官民一体、映画や特別展支援【長崎新聞】
2011.01.05 孫文の足跡紡ぐ人名録出版へ 辛亥革命100年で【共同通信】

 車で1000キロ、寿命20年...蓄電池技術の開発続々  日経 2011/10/17 2:03

 自動車や電機大手が蓄電池の使い勝手を良くし性能を大幅に高める技術を相次ぎ開発した。トヨタ自動車は連続走行距離がガソリン車並みか、それ以上の 1000キロメートルに迫る電気自動車(EV)に道を開く次世代電池を試作した。マツダは電池の容量を2倍近くに増やせる電極材料を開発、NECの技術は 20年間もつ長寿命の住宅用蓄電池を可能にする。電力の安定供給のためスマートグリッド(次世代送電網)に組み込む用途も見込め、各社は拡大する蓄電池市 場で主導権確保を狙う。

 トヨタと東京工業大学、高エネルギー加速器研究機構は新化合物を使った次世代蓄電池を試作した。EVに搭載しているリチウムイオン電池並みに、加速に必 要な大電流を出せる。従来の試作品の4~5倍にあたる。燃えやすい液体を使わない「全固体電池」で、発火防止材などが不要な分、構造を簡略化しコストを低 減できる。
 シート状に加工しやすく、同じ容積にためられる電気の量は「数倍増やせる」(東工大の平山雅章講師)。連続走 行距離を現行の小型EVの約 200キロから1000キロ程度に延ばせる可能性がある。住宅用に使う場合も小型化しやすい。さらに改良し、2015~20年の実用化を見込む。

 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が昨年公表した蓄電池の技術開発ロードマップでは、EV向け次世代蓄電池で一定容量あたりのコストは20年に現在の5分の1~10分の1になると想定。トヨタなどはこれを参考に全固体電池のコスト分析を進める。

 マツダと広島大学は容量を約1.8倍に増やせる電極材料を開発した。直径数百ナノ(ナノは10億分の1)メートルの球状炭素分子を使う。容量あたりの重さはほぼ半減し、EVの連続走行距離は2倍以上になると見込む。5年程度で実用化を目指す。

 NECは電極に従来のコバルトに比べ価格が20分の1程度のマンガンを使うリチウムイオン電池を開発した。電解液の成分も調整、発熱しにくく充放電を2万回繰り返せる性能を実現した。

 料金の安い深夜電力をためて日中に使う利用法で、13年間はほぼ問題なく使える計算。既存の電池は7~8年。寿命をさらに20年に延ばし5年後の実用化を目指す。

 産業界では蓄電池はEVにとどまらず、スマートグリッドやスマートハウス向けなど用途が拡大している。日本IBMなどは仙台市とエコタウン計画を進め、 富士通は福島県にスマートシティ計画を提案。太陽光など再生可能エネルギーの電力を蓄えて安定供給するには、大容量の大型蓄電池の整備が不可欠という。

 ソニーや東芝は携帯電話などの蓄電池に使われているリチウムイオン電池の大型化に取り組んでいるが、発熱しやすいという問題がある。送電網に組み込む大容量の電池はなお開発途上だ。

 矢野経済研究所によると家庭やスマートグリッド、自動車向けリチウムイオン電池の需要は急伸、10年度の260億円から15年度に1兆5千億円に拡大する。パソコンや携帯電話向け電池の約1兆円を上回る見通しだ。

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 レアメタル使わない電池開発 10月17日 5時48分
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 パソコンや携帯電話などに使われるリチウムイオン電池を、価格の変動が大きいレアメタルの一種、コバルトを使わず作り出すことに、大阪大学などの研究グループが成功しました。価格も安く、より軽いリチウムイオン電池作りにつながると期待されています。

 新たなリチウムイオン電池の開発に成功したのは、大阪大学の森田靖准教授と大阪市立大学の工位武治特任教授らの研究グループです。パソコンや携帯電話な どに使われるリチウムイオン電池を作るには、レアメタルの一種、コバルトが欠かせませんが、コバルトは生産が特定の国に限られ、国際的な価格の変動が大き いことが問題となっています。そこで研究グループでは、石油から作り出した「臭化トリオキソトリアンギュレン」という有機物質に着目し、コバルトの代わり に使ったところ、従来の2倍近い電気を蓄えられるリチウムイオン電池ができたということです。今のところ100回ほど使うと、蓄えられる電気が3割程度 減ってしまいますが、この有機物質は価格も安く軽いことから、コストダウンや軽量化を図れる可能性があるということです。研究を行った大阪大学の森田准教 授は「今回、開発した電池を使えば、スマートフォンなども軽くて長時間使えるものが開発できる可能性がある。将来は、自動車に積む電池への応用を考えてい るので、企業などと協力してよりよいものに改良したい」と話しています。

 財団法人国際平和協会の会長をしています伴武澄です。2年前の賀川豊彦献身100年記念事業東京プロジェクトの広報委員長をしていました。本職は共同通信社の記者でしたが、5月に定年で辞めて郷里の高知に帰りました。

 私が賀川豊彦のことばかり話すので、よく「伴さんはクリスチャンですか」と聞かれる。去年から「はい、賀川教徒です」と答えることにしている。先月の神 戸の賀川記念館の西義人さんと話していて、まさに「賀川教徒」で意気投合したばかり。イエスの友会はかなりの「賀川教」と聞いていますので、この研修会に 参加できることをありがたく思っています。

 ムハマッド・ユヌス

 2009年の賀川豊彦献身100年記念事業の圧巻は神戸プロジェクトが招聘したバングラデシュのムハマッド・ユヌス氏との出会いでした。マイクロクレ ジットといって、貧しい人々に小額のお金を貸して「起業」させた人です。いまではグラミン銀行となって世界的知識人、経済人の一人でもありますが、もとも とはチッタゴン大学の先生でした。農村の貧困に直面してアメリカで学んだ近代経済学がバングラデシュでは役に立たないことを知らされたのです。
 衝撃的だったのは「バングラデシュには雇用という概念がない」という一言でした。現在、学生たちは就職難で苦 しんでいます。働く人々は失業という憂き目にもあっていますが、バングラデシュは失業以前の状態であるようなのです。日本は大変だといってもまだまだ恵ま れている国なのです。グラミンは「農村」という意味なのだそうですが、バングラデシュではグラミンが戦前の賀川豊彦と同じ一つの価値なのであります。

 プラティープさんというタイのスラムで救済活動をしている女性とも出会いました。彼女自身がスラムで暮らしろくに勉強できなかったのですが、15、6歳 でスラムに寺子屋をつくり、子どもたちの教育を中心に活動をしていますが、阪神淡路大震災のとき、困っている日本の友だちのためにと募金活動した400万 円を神戸に送ってきました。スラムの人々が第二の経済大国の人々に寄付したのです。貴重なお金だと思いませんか。

 ソウルでは、韓国のクリスチャンが献身事業に合わせてシンポジウムを開催しました。そのシンポジウムのニュースは聨合通信社を通じて日本にも転電されました。賀川精神は日本だけでなく世界各地でいまも行き続けていることに驚くというより感動に近いものがありました。

 献身事業が続いた2009年は毎日のように新しい出会いや感動がありました。めくるめくという表現がぴったりでした。参加者の多くが「わくわく」しているということを話しました。賀川が友だちの輪を次々と広げてくれるのです。

 献身事業の前年、リーマンショックが世界をかけめぐり、日本でも「貧困」が課題となりました。献身事業が始まると徳島新聞のコラムニストは「時代が賀川を呼んだ」と書きました。

 アフガニスタン戦災孤児

 昨年はアフガニスタンでも賀川を実践していた人物と出会いました。生井隆明さん。心の病に取り組むセラピスト。6年間カブールに滞在してアフガニスタン の戦災孤児のお世話をしていました。国際平和協会としてこの先何を活動の中心としていくか模索していた時期でしたが、生井さんの活動を支援することは大き な意義のあることだと思っています。ユヌスさんやプラティープさんとの出会いがなかったら生井さんへの共感も生まれなかったかもしれません。

 どうやって生井さんを支えるか、とりあえず生井さんがもう一度、アフガンでの活動の足場ができるよう支えようと考えました。生井さんの講演会を全国規模 で開催し、会場で寄付を募る。東京と四国で計3回開催し、順調に寄付金も集まり始めた矢先に東日本大震災が発生してしまいました。
 とりあえずアフガンのプロジェクトはいったん休憩し、東北で何かできないか模索中です。

 国際平和協会

 私の賀川との出会いは10年ほど前にさかのぼります。財団法人国際平和協会の理事に就任したことがきっかけでした。そもそもは休眠状態にあった国際平和 協会を環日本経済のシンクタンクにしようという話があり、実際にお金を出す人が現れて、経済評論家で環日本経済を提唱していた金森久雄さんを理事長にして 多くの人が集まりました。

 しかしお金は一ヶ月で途絶えてしまい、「こんなはずじゃなかった、やめた」と相次いで脱会してシンクタンク構想はもろくも崩れてしまいました。

 そんな中で私だけは事務局にあった「世界国家」という古い機関誌に釘付けになっていました。国際平和協会は世界連邦の実現を目指すために1945年に設 立された財団でありました。機関誌には毎号、賀川が執筆し分かりやすく、世界連邦の必要性や可能性について解説されていました。
 第一印象は「すごい人」がいたんだなという程度でしたが、仲間が次々とやめていく中で私だけはやめませんでした。賀川のことをもっと研究したいというのが本音でした。

 賀川純基さん

 まもなく上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館を訪ねました。杉浦さんという学芸員にあいさつをすると「純基がいますので、呼んできます」と裏に入りました。 純基さんは2時間ほど初対面の私に賀川豊彦の話をしてくれました。中でも印象的だったのは「賀川の先見性」という話と、純基さんのつくった「事業関連図」 でした。

 先見性ではいくつかの詩と「空中征服」という小説で説明してくれました。1920年代に新聞に連載されたその物語は大阪の「公害」問題でした。この小説 はものすごく面白く読みました。太閤さんが出てきたりレーニンが出てきたり奇想天外な形で物語が進行するのですが、その中で大阪市の行政を民間委託に出す という発想まで出てくるのです。

「事業関連図」ではこんなにも多くの事業を展開しその多くが今も生きている。企業でいえばこれは「コングロマリットだ」と直感しました。

 驚きは「リズム時計」と「高崎ハム」の歴史でした。時計博物館を訪ねたり、日本のハムの歴史書も読むはめとなりました。それぞれに日本産業の近代史が書 けるのではないかと直感しました。リズム時計は戦後に農村時計製作所として埼玉県に産声を上げています。農村部の雇用の確保が不可欠だと考えていた賀川が 若いときから胸に抱いていた夢の一つでもあります。スイスにならって農村部に精密機械工業を興したいと考えていたのです。

高崎ハムは立体農業からの発展です。御殿場に設立した農民福音学校で養豚業を始めハムをつくろうと、当時、ハム・ソーセージづくりの第一人者だった大木市 蔵氏に御殿場の青年を送り込みハムづくりが実現します。その青年が高崎の産業組合に請われて誕生したのが高崎ハムです。ともに賀川が考えた農村の自立策の 中から派生した企業だといえましょう。

 私にとって重要だったのは「自立」というキーワードでした。賀川が生きた時代には国や自治体に依存する余力はありませんでした。すべて自分たちで一から 始めなければならない時代だったのです。その時代と比べるとわれわれの時代はずいぶんと豊かになっていますが、逆に「自立心」は希薄になり、「依存症」の 方が強くなっているなあという印象が強いです。

 ロバート・オーエン

 オーエンは空想的社会主義者といわれました。賀川がオーエンに連れて行ってくれました。国際平和協会の理事の一人がスコットランドのグラスゴーで「賀 川、賀川」いっている牧師がいるというので会いに行きました。ロバート・アームストロングという牧師でした。少年時代に家にあった「Kagawa」という 英語の本を読んで賀川のスラムでの献身に感動し、牧師になろうと決意したそうです。戦争中で適性国の人物を敬うことは難しかったが、賀川は特別だったそう です。

 その牧師は「昨日来ればよかったのに、グラスゴー大学で賀川に関するシンポジウムを開きました」というのです。戦前、戦後、賀川は2度グラスゴーを訪ね ています。いくつかの古い新聞記事もみせてもらいました。賀川はイギリスやスコットランドでも聖者だったのです。そのころ、「Three Trumpet Sounds」というアメリカのハンターの書いた本があることも知りませんでしたから、驚きの連続です。賀川にますます傾倒することになりました。

 そのグラスゴーから電車で1時間のところにニューラナークがあります。オーエンが最初に繊維工場をつくったところです。現在は世界遺産になっていまし た。ロッチデールの協同組合運動の原型はオーエンの手ですでにニューラナークの繊維工場で始まっていたことをかの地で知りました。

 賀川の著作の「自炊」

 2001年に国際平和協会の理事になってから賀川教徒になるまで約10年の私の軌跡を話しました。現在、賀川の著作の復刻を計画しています。お金がかか らないように電子本とすることまで決めました。賀川豊彦全集はすべて背表紙を裁断し、各ページをスキャンし、さらにOCRをかける作業が続いています。ど の本を出版するかが検討中ですが、日々、発見の連続です。歴史や宗教をこんなに見ることができるのか、そんな驚きを繰り返しながら作業をしています。賀川 の先見性を見る思いです。賀川は社会運動家として世界の人々をうならせました。それだけではない。歴史家、哲学者としての賀川からさらに学びたいと思って います。(8月1日、イエスの友会の研修会での講演要旨)

 4年前の2007年11月12日にドイツでの年金支給年齢引き上げのコラムを書いた。ドイツの場合、65歳から67歳への引き上げだった。今度の政府の提案は厚生年金の支給年齢を「68歳」に引き上げるという案だ。

 より深刻だ。平成17年度に厚生労働省が発表した日本男性の平均余命は78.79歳。日本では20歳になると年金を支払う義務が生じる。60歳までの 40年間年金を払い続けて、10年ちょっとしか年金支給がないなどということがありうるのか。わが高知県の場合の平均余命は77.93歳だから、10年も 支給がないことになる。

 これは国家による詐欺だ。そんな厚生年金ならば、国民それぞれの自己責任で老後に備える方がよっぽどましだ。厚生年金は解散してこれまでの積立額に応じて分配すればいい。

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 2007年11月12日 もはや年金と呼べない67歳支給
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 ドイツで年金の支給を67歳に引き上げるという話を1年前、新聞で読んだ。ドイツ連邦政府は、年金の受給開始年齢を段階的に引上げることを目的とする、年金改革法案で合意を見たというものである。

 現行の支給年齢は、原則的に満65歳に達した月の翌月から。改革法案では、2012年から支給開始年齢時期を毎年一月ずつ引き上げる。最終的に67歳になるのは1964年に生まれた人からとなるからまだ時間がかかる。

 人間の平均余命がどこまで伸びるのか分からないが、日本でもそんな議論が起き始めているから黙っているわけには行かない。

 30年前に共同通信社に入社した時、共同の人の平均余命が63歳だと聞いたことがある。在職死亡を含めての数字だが、若かったし、「へー記者ってのは激 務だから長く生きられないのだ」。他人事のようで気にもかけなかった。労働組合は当時、定年延長を闘っていた。55歳から60歳への引き上げである。定年 は制度ではあるが、労組が会社から勝ち取ったものである。定年が延長されると当たり前のように年金の支給年齢も併せて引き上げられた。

 現在の日本の年金の支給年齢引き上げは定年延長を伴わない制度改正だった。政府は支給年齢を先に引き上げてから、企業に対して「再雇用」だとか「雇用延長」を求めるようになった。本来は逆でなければならない。

 20年前には60歳以上の人を働かせるには理由があった。少子化に伴う労働人口の減少という切羽詰まった問題があった。90年代初めのバブル期、労働人 口の減少に対する懸念が台頭していた。だから女性の雇用や高齢者雇用が叫ばれ、外国人労働の導入も政策課題にのぼった。しかしその後に景気が減退して、逆 に人余りとなり、労働人口の問題はしばらくトーンダウンした。

 この間、日本の財政が逼迫、長期的な低金利も相俟って年金制度の改革が迫られた。正確にいえば改革ではなく改悪である。年金の支給年齢を引き上げなければ、年金制度が破たんするとされ、支給年齢を段階的に65歳に引き上げるよう制度が改められた。

 本来は労働人口減少から雇用延長が不可避とされたのに、定年から年金支給開始の65歳まで収入が途絶えるため、高齢者雇用が再び政策課題となった。年金が払えないから雇用延長が必要となったのである。これは本末転倒だ。国民はこれも仕方のないことなのだと受け入れた。

 しかし、支給年齢が67歳となると話は別だ。たった2歳ではあるが、この2歳は大きい。65と67では年齢の「響き」が違う。65歳はまだ「壮年」の続 きのイメージがあるが、67歳はもはや70代の入り口である。年金は老後生活の生活資金である。大方の人は、65歳ならばその後もまだまだ生きているだろ うというイメージでとらえるだろうが、70歳となれば死を考える年齢である。

 その70歳の入り口である67歳まで年金がもらえないとなれば、これは年金ではない。平均余命が80歳だとしたら、定年後20年間の生活費が必要とな る。その三分の一は自分で生活費をかせがなければならないのである。たった13年の生活費のために30何年も掛け金を掛け続けなければならないのだとした ら年金などいらない。

 ここまでくれば、年金制度は完全に破たんしたも同然である。

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読者の声
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私は34歳で無職の妻と小学生、幼児の家庭を持っていますが、毎月5万円弱の年金を支払っています。後25年今のまま単純に払い続ければ、1500万円に なります。外国債等で安定運用しても25年かければ3000万円くらいにはなります。インフレによる物価上昇があっても、余命20年ぐらいであれば、退職 金やその他の積み立てとあわせ、十分な蓄えといえます。正直な話、たいした額払ってもなく、バブル景気でバブルでいい思いをして、退職金もしっかりもらっ た、再就職にも苦労しなかった今の高齢者世代、具体的には66歳以上の世代(ベビーブーム以前の人々)のために私の払った年金が使われていることに納得ど ころか、怒りすら感じます。年金を支払うぐらいならば、先年、定年退職した両親に同額仕送りしたいと思います。3人兄弟なので年金よりも受取額は多くなる のではないでしょうか。
そんな厚生年金ならば、国民それぞれの自己責任で老後に備える方がよっぽどましだ。厚生年金は解散してこれまでの積立額に応じて分配すればいい。という意見に同意します。(Y.I.)

 引越しは定年の5月5日だった。共同通信社の定年は誕生日と決まっている。高知に帰るのに区切りがいいと考えた。引越しは次男と三男が手伝ってくれた。アリさんの引越社が最後の引越しとなるのだろうか。ふとそんな思いが去来した。去来といえば陶淵明。

 陶淵明の「帰りなんいざ」(帰去来辞)はすべての官職を退けて田園に生きる心情を語った詩である。僕の場合は、単に根無し草の人生に終止符を打つのが目 的。思いは随分と違う。津市ですごした2年半の思いは「欲望をかきたてない土地」に住む心地よさだった。デパートがない、繁華街がない、暇をもてあまして 歩く空間すらない。それが心地よいのである。庭の草月とたわむれ、それに飽いたら浜に出て遊び、時として月を愛でる。

 定年の1週間前の5月28日(木)の日記である。
 夜来の風雨が晴れた。五月晴れである。昨夜、恵比寿で夜11時まで飲んだ酒が残っている。新聞を取り、植木に 水をやり、シャワーを浴びてコーヒーとトーストの朝食。電源をつけたままのパソコンは機嫌が悪いらしい。何も表示しないので強制シャットダウンした。買っ たばかりの麻の半袖シャツに腕を通し出勤した。元参議院議員の日下部さんと昼食の約束がある。夜は二男と長男が銀座の鳥ぎんで食事をすることになってい る。今日の予定はそれだけだ。

 京王線上北沢でパスモは850円を示した。定期券はすでに4月11日で切れている。パスモもちゃんと終わり時を知っているのか。「最後の一日」を書こうと思った以外に特に感慨はない。昨日からの通勤の友は太宰治子『石の花』。なんとはなしに本棚からカバンに入っていた。

 写真はコデマリ。津市で鉢植えを買って川崎市の五月台に引越しした際に庭に植えたところ、4年間でどんどん大きくなった。上北沢も一軒家だったが、庭が狭かったので五月台において来た。いまごろ咲いているのだろうと思う。好きな春の花の一つである。

 高知市自由民権記念館で「憲法草案の生まれた書斎」という展示が開催されている。10月16日までだから後数日で終わる。

 この8月、館内の2階にピンク色の壁に囲まれた8畳ほどの空間が誕生した。異空間といっていい。自由民権運動家、植木枝盛が憲法草案を書いたことを記念 していて、移築されたばかりである。それにしてもこんな空間で弱冠24歳の枝盛がどのようにして欧米の民権を学んだのか不思議に思った。

 高知に住み始めて5カ月がすぎる。あいさつ状には「晴耕雨読」などと格好をつけたが、はたしてこの間、自分は何をしてきたのだろうか考えさせられた。

 そうそう5月には中国・大連に旅し、旅順港をのぞんだし、霞山会の広報誌「Think Asia」の編集にも引き続き関わっているし、財団法人国際平和協会や世界連邦運動協会の会合にも頻繁に出席してきた。何もボーっとして5カ月を過ごしてきたわけではない。

 8月にはよさこいを踊った。孫文革命に尽した高知出身の萱野長知の研究を始めた。ひょんな出会いから高知県の小水力のあり方について学び始めた。安芸市 の寒村に嫁いだ小松圭子さんとの再会があった。高知工科大学で面白い音楽会に出会った。日中友好協会の高知支部の植野克彦さんが招聘した上海の画家との交 友が始まった。
 何か自分の「高知物語」が書けそうな気分になり、このごろ気分も晴れやかなのである。

 話を植木枝盛に移そう。明治14年、弱冠24歳で書いたという憲法草案を初めて読んでみた。『東洋大日本国国憲按』という。当時、多くの民権論者が憲法制定を求め、自ら草案を練った。

 枝盛の草案は当時でも最も民主的な内容だったとされる。冒頭の「国家の大則」に自由民権を説く。
・第5条 日本国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス
・第6条 日本国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ス

 面白いのは「連邦制」を草案に盛り込んでいる点である。律令制の国を州とし、70州による「日本連邦」を規定している。その後、皇帝、立法院、行政、司法など国もあり方を示した。全220条に及ぶ。

 枝盛は、天皇を皇帝と呼んでいるが、その権限として「皇帝ハ兵馬ノ大権」とし、「皇帝ハ国政ヲ施行スルカ為メニ必要ナル命令ヲ発スルコトヲ得」など明治 憲法同様に勅令を出す権限を与えているが、一方で「皇帝ハ人民ノ権利ニ係ルコト国家ノ金銭ヲ費スベキコト国家ノ土地ヲ変スベキコトヲ専行スルヲ得ス必ス聯 邦立法院ノ議ヲ経ルヲ要ス立法院ノ議ヲ経ザルモノハ実行スルノ効ナシ」と専制とならないよう皇帝の権限に歯止めをかけている。

 立志社 東洋大日本国国憲按(案)
 http://tamutamu2011.kuronowish.com/risshisyakennpou.htm

 早稲田大学の創立に尽力した同じ高知出身の小野梓もそうだったが、枝盛は若いころから独自のアジア主義を論じた。当時の日本の国力からして、日本が突出 した後のアジア主義は望むべくもなかった。だから欧米によるアジア侵略から守るためにアジアが連携しなければ共倒れになるという危機感を共有していたのだ ろう。欧米を「大野蛮」と言い、アジアの被抑圧からの独立振興を主張し、戦争にも反対であった。

 中国や韓国が経済的に興隆した現在と地政学が似ている。欧米の対抗軸としてのアジアを構想した点に学ばなければならないと考える。

 ありがたいことに、高知には日本や世界を考える素材がそこかしこに存在する。とここまで書いて高知新聞のコラムを読むと驚くべきことに今日10月13日は高知県詞の日なのだそうだ。植木枝盛が残した「自由は土佐の山間より発したり」にちなんで。(伴 武澄)

  9月5日、アップルのスティーブ・ジョブスが亡くなった。筆者はウインドウズのユーザーであるが、ジョブスの生き様について、2005年の有名なスタン フォード大学卒業式での講演は忘れられない。ちょうどそのころ、弟の連れ合いがガンで亡くなった。その6年前に弟が南アフリカで死んでいたから、父と母を 失った高校2年生が一人残された。僕はその高校生の甥にこの講演内容をプリントして贈った。

 本人はその意味をほとんど理解しなかったかもしれない。親がいても生みの親でない。そんな過酷は人生を送りながらも人々に愛される製品を次々と世に送り出している人もいることを知ってほしかったのだ。

 ジョブスは生みの親と育ての親が違っていたことを初めて知った。育ての親は労働者階級だったが、息子の大学教育のために収入の大半をつぎ込んでくれた。 ところが大学に通ううちに、自身で大学で学ぶ意味を見失い、中途退学した。多分、育ての親にこれ以上の負担をさせたくなかったのだろうと思った。

 ほとんどの人が当たり前に生きる人生はジョブスにとっては「当たり前」ではなかった。
 またアップルの製品のデザインの陰にレタリングの技術があったことも知った。デザインが先にあるという開発は 初期のホンダの製品づくりと重なる。しかも本田宗一郎の経営を財務面から支えた藤沢武夫がある日会社を辞めるといった時、宗一郎は「僕も辞めるよ」といっ て辞めてしまった逸話は有名である。筆者はずっとホンダファンだった。そしてしばらくはホンダらしさを維持していたが、やがて企業規模が大きくなってホン ダの車はトヨタと変わらなくなった。

 創業者というものは偉大である。その志を後継者が引き継ぐことはほとんど不可能に近い。アップルはパソコンを個人のものにしたという点で時代の変革者だったが、ウインドウズを発売したビル・ゲイツにパソコンソフト市場を席巻されてしまった。

 ipod、ipadで新たな境地を切り開き、アップル・コンピューターは再び成長路線に乗った。しかしジョブスが本当に喜んでいたかどうかは分からな い。そんな気がする。ベンチャーであれば、やりたいことをやって社会の評価を得るという喜びがあるが、大企業となったアップルとなると「経営」が大きくの しかかる。その重圧ははてしなく重かったのではないかと思う。

 本田宗一郎のように早めに経営の前線を引退していれば、もっと長く生きられたのではないかと思い、残念だ。(伴 武澄)

 階段のことを考えながら飛行機に乗った。面白いもので、普段はあまり読むことのないANAの『翼の王国』をぺらぺらめくっていたら「神様への階段」というコラムが目に入った。丹生川上神社下社のことが書いてあった。ほとんど神ががりである。

 気のおけない友人たちとの食事中のことです。
「神社にあるキザハシって知ってる? 階段の階って書くんだけれど。すごいのがあるんだよ」とW大のO教授。最先端の狂言工学を教える方から「神社の階」とは意外なお言葉。

 鳥居の先の拝殿からうっそうとした森の上に本殿があり、拝殿と本殿を結ぶ急な階段が「階」だという。普段この会談は使われないが、6月1日の「雨乞い」 例祭には会談の板戸が外されて神主と氏子たちが急勾配の75段の階段を上がってお供えをするのだそうだ。この神社は訪ねたことはないが、森の中を駆け上が るイメージなのだそうだ。

  そういえば、太古の出雲大社にも本殿にいたる巨大な階段があったとされる。

 大林組が『古代出雲大社の復元』(1989年11月10日学生社刊)で推定復元した平安時代中期から後期頃の「出雲大社」は高さ48メートル、15階建 てのビルに匹敵する木造建築物だが、21世紀になってからの発掘で大社町に巨大な柱の跡があったことが分かり、古代の出雲大社は空中楼閣で巨大な階段が本 殿に向かっていたことが裏付けられた。

 神社や仏閣に階段はつきもの。地上と天上とをつなぐ存在が階段だったのだ。そうか神社のキザハシには祈りの意味が込められているのだ。それにしても、ほとんど信仰を失った都市のサラリーマンたちは毎朝、祈りの行為を余儀なくされているのかと考えるとおかしくなった。

  2週間ほど東京に行っていた。ある晩、息子のアパートの階段を酔って上りながら「何段あるのか」数えてみた。「そういえば今日も階段をたくさん歩いた な」。そんなことを感じながら上ると18段。そう、息子の部屋は3階だからもう一回階段を上らなくてはならない。2階から3階は14段あった。合計で32 段である。忘れないようにしっかりメモをとった。

 翌日、東京の駅の階段を数えてみようと思った。アパートの最寄り駅は西武武蔵野線の是政。通勤のルートは是政-武蔵境-四谷-赤坂見附である。是政は終 点だから改札からそのままホームになっていているから段差はゼロで非常に心地いい。JR中央線での乗り換えの武蔵境駅は現在、工事中でややこしい。高架に ある武蔵野線のホームから階段2つ合計46段下ると乗り換え用の改札が地上にあり、今後は39段上がってようやく中央線のホームに到達する。

 両方のホームは地上ほぼ同じレベルにあるのに段数は7つも違う。一段の高さが違うだけの話だが、「ああ、階段ってどこも高さが違うのだ」と実感させられ た。どうでもいい話だが、JRは段差を16・5センチにするように決められているそうです。それでも中央線の高架の高さは実は普通の家の3階以上の高さに あることが分かった。
 次は四谷駅で降りて営団地下鉄に乗り換えたが、そこは数えるのを忘れた。JR四谷駅は旧お堀の底にある。営団 丸の内線もまたお堀の中。地上からみれば地下にあたるが、赤坂見附方面の乗り換えはJRの改札を出るとすぐにあり、階段の上り下りはない。たぶん30数段 だっただろうと思う。

 丸の内線赤坂駅はホームから改札まで32段。地下鉄としては最も浅いところにホームがあると思っていたが、地上に上がるにはさらに階段を42段上がらなくてはならなかった。

 国際平和協会の事務所は元赤坂にあるので、もより駅から約200段、階段を上り下りした勘定になる。往復すると400段。それでも一般的サラリーマンが毎日上り下りする段数よりも少ないのではないかと考えた。

 ちなみに島根県のJR西日本三江線の宇津井駅は高架橋にあり地上から116段の階段があるとどこかのホームページに書いてある。1駅として一番長い階段 があるそうなのだ。また、1998年にJR京都駅ビル大階段駆け上がり大会というのがあったそうで、選手達は段数・171段を駆け上がるのだが、その高低 差35メートルが11階建てビルに相当するのだ。ただここの大階段は伊勢丹で買い物をするためのもので通勤客が毎日上り下りするところではない。171段 がどれだけの高さに相当するかの目安を示したかっただけのことである。

 そう金比羅さんの地獄の階段が1368段であるのを思い出し、サラリーマンの毎日は大変なことなのだといまさらながら感心させられた。もちろん階段の横には大抵エスカレーターが併設されていて実際に上り下りしているわけではない。(伴 武澄)


 孫文は1925年に革命半ばでなくなる。その前年には神戸で「大アジア主義」という有名な演説を行っており、「日本は西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか」と迫った言葉は大学時代にアジア主義を学んだ筆者にとって一生をつらぬく課題となっている。
 その孫文の辛亥革命から来年は100年となる。日本と中国で多くの行事が予定されているが、孫文を回顧すればするほど、辛亥革命に尽くした多くの日本人の物語が登場してくる。それが日中ひいてはアジアと日本の融和につながることになると確信している。
 シンポジウム「孫文の理想と東アジア共同体」
 http://xinhai-sunwen2011.org/page2_01.html

  共同通信時代に47NEWSで一緒に仕事をした鳥井良二があるとき、「相談があるんですが」といってお茶に誘われた。お酒だったかもしれない。そこらはよ く覚えていないが「小説を書いたんですが、読んでくれますか」というので驚いた。鳥井はシステム屋さんなのだ。そちらの方面では会社で評価されていたのだ ろう、ボストンのMITに留学を許されていたぐらいだったから。その方面では一目は置いていたが、その鳥井がまさか小説までかくとは思わなかった。

 家に帰ってもらったワードの文章を一気に読んだ。翌日だったか「面白かった」と返事した。鳥井の文章を読んでいた思い出したのが井上ひさしの学園小説 『モッキンポット氏の後始末』だった。井上ひさしが自らの生い立ちに重ね合わせた小説で、上智大学で世話になっていた神父さまをいたずらで困らせながらも 慕っていく青春を描いていた。
 万城目学の『鴨川ホルモー』もまた学園物だが、こちらは「オニ」を主題にしている。いたずらというか京都に住む「オニ」たちに翻弄される学生たちの物語でとても新鮮な面白さがあったが、鳥井の場合は韓国人の神父が運営するある町のミッション学校での出来事が語られる。

 ここらがけっこうポイントだと感じた。日本人の生徒と韓国人神父との間に違和感がない。それから日系ブラジル人チームとサッカーの試合をする場面もあって、時代を映す鏡ともなっている。

 小説としてはほかに意外な展開は少ないが、随所で笑え、泣かせる。さわやか系でもある。数学の面白さ、とくに素数のなどがでてきたり、学園でミニFM局を始めたりするところなどにシステム屋さんの発想もある。

 4年前に読んだ原稿より数段洗練されているのは、何年もかかって推敲を重ねた結果だろうか。当時、小生も「小説は素人だけど、話の展開をこうしたらどう か」などへたなアドバイスをしたこともあって、本屋さんから出版されたことはとてもうれしく感じている。1470円は高いか安いか・・・、少なくとも小生 は高くはないと思う。(伴 武澄)

  昨夜5日、ホテルオークラで「海部俊樹君の叙勲を祝う会」が開かれ、勘三郎が舞い、中曽根康弘元首相も駆けつけるなど大盛会だった。筆者が理事をしている 世界連邦運動協会の会長をしていただいている海部さんには7月にインタビューをし、9月30日に内々のお祝い会でもお会いしているので顔見知りになってし まった。

 実は海部さんが首相だったころ、日米構造協議があり、ブッシュ米大統領との直接談判のため、ロサンゼルス郊外まで同行取材をしたことがある。政府専用機で記念撮影をした際に一言話をしたことがあるが、当時の首相が一介の経済記者の存在を覚えているはずがない。

 面白いもので7月のインタビューの際に、海部さんが最も力を入れたことを聞いたら「青年海外協力隊の設立に関わったことだ」と話した。日本が世界平和の ために尽せることを自民党青年局で話していたら、ケネディーが始めた平和部隊みたいなものを日本でもつくろうということになり、協力を求めるために全国を 行脚した話が出た。
 「実は僕の父親が二代目の協力隊事務局長でして・・」というと間髪いれず「伴正一か、覚えているよ、あんたはその息子か。その後、選挙にでたな!、民社党なんてところからでなければよかったのに・・」と懐かしそうに話してくれた。

 海部さんは昨夜の祝いの挨拶でも「日本には世界に誇る青年海外協力隊がある。自民党がイロハのイから作った政策だから自民党はもっと自信を持っていい」などと会に参加した谷垣自民党総裁を励ましていた。

 返す刀で菅直人前首相が「最小不幸社会」といったことに対して「僕はすべての国民の幸せを考えるのが政治だと思う。どうしたら幸せにできるか力の限り協力させてもらいたい」と挨拶を締めくくった。

 20年前、生意気にも「頼りない首相だ」「かっこばかりつけて」などと小ばかにしていたことを今頃少々反省している。菅さんにしても3・11の原発対応 はどうしようもなかったが、たぶんあれほどの大惨事では誰が首相であっても似たり寄ったりの対応しかてきなかっただろうと考えている。大臣ならともかく一 国の宰相ともなれば、安全保障から福祉、財政まであらゆる問題に直面し、それなりにさばいていかなければならない。それは一国民では分からない重圧なのだ と思う。

 だから首相のやることに批判をするのを止めたということではない。海部さんが青年海外協力隊をつくったというだけで日本の歴史に残る首相の一人だったといえないかと思い出しているのである。(伴 武澄)

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