2011年8月アーカイブ


 29日の民主党の代表選挙で野田佳彦氏が代表に選ばれた。前原誠司氏はもっと党内の支持があるものだと思っていたから筆者にとっては意外な結果だった。

 代表選をずっと中継でみていて思わずメモをとったのは、野田氏が当選した後に述べた挨拶だった。冒頭に「もうノーサイドにしましょう」「政治は坂道の雪だるまを押し上げる作業」「坂の上に押し上げて政権交代をしてよかったと思えるようにしたい」。

 民主党という政党がここまで追い詰められていたのかという印象が強かった。

 海江田万里氏が選ばれたら、民主党は終わりだと思っていたから、ベターな選択だと思う。以前に書いたように野田氏は完璧に財務官僚に取り込まれている が、逆に考えれば財務官僚の支援を得られるということで「安定感」はあるのかもしれない。また民主党を一本化するという点では民主党にとって一番いい選択 だったはずだ。
 しかし野田さんがいかに人格者であっても突破力は期待できない。脱官僚という民主党のマニフェストからすれば違和感のある選択肢だった。

 いまの日本経済の問題は、民が雇用や賃金の面で苦境に陥っているのに、官は大してリストラもなく、天下りのための予算を臆面もなく計上しているというこ となのである。経産省の古賀茂明『日本中枢の崩壊』(講談社)によれば、日本が現在抱える問題の多くが霞ヶ関に起因するということになる。

 そもそも「政治主導」などいう言葉はあってはならない。民主主義国家では本来当たり前の話なのだ。「官僚主導」となっていることがおかしい政治情勢なの だとのだ。古賀氏によれば、民主党は政権を奪取した時点からすでに官僚に取り込まれていたという。仙石由人氏に期待したが古賀氏が関与した公務員制度改革 は民主党になって、さらに骨抜きを許してしまった。

 筆者自身、記者の現場から離れてしまってあまり偉そうなことはいえないが、なるほど官僚の巧みさはそれほどのものなのかと思わされた。改革派の現役官僚が言うのだからうそはないはずだ。

   関東大震災が起きた9月1日を控えて賀川豊彦が同震災で活躍したことを見直す報道が相次いでいる。日本生協連合会の渉外広報や賀川豊彦記念松沢資料館、 そして鳴門市賀川豊彦記念館へメディアの取材がきているという。共同通信が26日配信し、地方紙各紙に掲載されて記事を転載する。
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 徳島ゆかりの社会運動家・賀川豊彦7 件(1888~1960年)が、関東大震災の復興支援に当たる決意を表明した詩の掛け軸が27日までに見つかった。賀川豊彦7 件記念・松沢資料館(東京都世田谷区、加山久夫館長)が確認した。全集などにも収録されておらず、賀川の受けた衝撃と、救援への使命感を物語る貴重な資料 だ。

 【写真説明】賀川豊彦が関東大震災の惨状を見て救援の意思を表明した詩の掛け軸=東京都の賀川豊彦7 件記念・松沢資料館

 掛け軸は「血がこみあげてくる、永遠に若いおまへの血が、おまへの血は私の血だ、おまへは死んだ、そして私等は甦らされた、誠におまへの途は尊い途で 有った 私ハおまへの為めに六千度の太陽の熱を受ける」という詩に、「一九二三年九月 賀川豊彦7 件」の日付と署名がある。

 同館によると、3月に古書店から購入し調べていた。押された落款は賀川が当時、活動拠点だった神戸で使っていた印であることが分かった。賀川の揮毫(き ごう)は勢いのある崩し字が多いが、この書では楷書体。目の病気にかかっていた賀川が、ていねいに書いたか、妻のハルなど身近な人が代筆したと同館は見て いる。
 詩の「おまへ」は、目上の人を呼ぶ尊敬表現で、牧師の賀川がキリストによる罪のあがないと復活に重ねて、東京や日本を指したとみられる。

 賀川は23(大正12)年9月1日に起きた関東大震災の翌日、材木などを船に積み神戸を出港。東京に入り、被災状況やニーズを調べ数日後、神戸に戻っ た。その後、約1カ月間、西日本各地で義援金を集めるため講演。10月から東京・本所で、炊き出し、布団や衣服の配給、入浴サービスなどを始めた。被災者 の自立支援のために立ち上げた事業が現在、信用組合、病院、社会福祉法人などに発展している。

 掛け軸は10月31日まで、同館の特別展で展示されている。

 鳴門市賀川豊彦7 件記念館の田辺健二館長は「関東大震災でいち早く被災地に駆け付け、精力的に救援活動を行った賀川の思いが読み取れる。困難から逃げずに真正面から立ち向 かうプラス思考の考え方だ。東日本大震災が発生したこの時期に発見された意義は大きい。震災復興への励ましのメッセージになる」と話している。

  今年、中国の「辛亥(しんがい)革命」から100年になるのに合わせ、神戸市垂水区東舞子町の孫文記念館が、革命の指導者である孫文(1866~1925 年)と日本国内でかかわった人たちの人名録作成を進めており、今秋にも出版する。外務省の資料などから、これまでに延べ1700人をリストアップ。重複を 除いても千人以上となる見込みで、同記念館は「孫文と日本人の関係を示す貴重な資料となる」としている。(中部 剛)

 孫文は中国の革命家、思想家として知られ、1911年に始まった辛亥革命を主導した。1895~1924年の間、通算約9年日本に滞在し、多くの日本人から支援を受けた。

 神戸にも少なくとも18回訪れており、松方幸次郎や滝川儀作、呉錦堂ら実業家が資金面で活動を支えた。呉錦堂の別荘として建てられた移情閣には孫文も訪れ、現在、孫文記念館となっている。

 http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0003717642.shtml
 2011年は辛亥革命から100年の節目に当たるため、同記念館はシンポジウム、資料展を企画。人名録作成も 記念事業の一環として、09年から記念館の研究員らが外務省の資料などを丹念に読み込んでいる。人名録は支援者だけでなく、孫文の洋服を仕立てた職人ら無 名の市民も盛り込むという。

 名前のほか、孫文とどのようにかかわったかなども記述し、50音順で紹介するほか、トピックスごとに分類したり、在日華僑をまとめたりして編集する方針。兵庫県内の資料が最も豊富にあり、掲載される人名数も多くなりそうだ。

 神戸大名誉教授で、同記念館の安井三吉館長(69)は「明治、大正期の日本と中国は西洋列強に圧迫され、共通の感情を抱いていた。いかに多くの日本人が 孫文にかかわり、支援したかを示したい。また、孫文と日本人の絆を振り返ることは、今後の日中関係を考える上でも重要」と話している。

(2011/01/05 11:25)

 暑い夏が終わりかけているが、政治の世界ではこれからが本番である。8月29日とされる民主党の代表選挙がある。8月23日、ついに前原誠司氏が出馬を表明し、次期首相への流れは一気に前原氏に傾いたと考えている。

 前原氏は民主党の最も民主党らしい部分を持っている政治家だと思っている。国交相に就任したとたん八ツ場ダムの建設中止を打ち出し国民の喝采を浴び、羽田空港の国際化を推進したことを思い出してほしい。

 野田佳彦財務相は最悪である。人格の問題ではない。財務省を勤めたことが問題なのである。というより財務官僚にフォーマットされた人物がこの国を良くし たためしがないからである。竹下登はもとより、橋本竜太郎氏、ともに消費税導入、増税に関わった。財務省官僚の意のままに増税路線を走った。
 まず3・11以降、復興問題にからんですぐに話題になったのは「財源」である。自民党時代を含めて、これほど 野放図に国債を発行してきた政府が、たかだか20兆円ぐらいの復興資金を賄うのに「増税」が必要だとは思えない。復興のために他の政策を一時的に犠牲にす ることぐらい大したことではない。財政再建はもちろん賛成なのだが、この次期、復興資金のための増税論は「火事場泥棒」にしか見えない。

 企業が苦境に陥った時、経営者がまず求めるのは賃金の圧縮や人員整理である。国家が苦境に陥っている今まず求められるのは公務員の賃金圧縮やリストラで ある。そもそも民主党も総選挙の公約として公務員の賃金カットを打ち出したのではなかったか。 それから、党内融和をいうならば、民主党が政権を奪取する 前から同党を揺るがし続けたのは小沢一郎という存在ではなかったのか。小沢氏の党員資格停止措置の見直し論もさかんであるが。政治資金問題で民主党執行部 が決断したのは、小沢氏が2011年1月に強制起訴されたことを受け、「裁判確定まで無期限の党員資格停止処分」という処分ではなかったか。党内最大派閥 の小沢氏の支持を受けるための「見直し論」であるのは誰の目にも明らかである。

 今の時点で「党員資格停止の見直し」に言及する人物が国民の支持を得られるとは思えない。

 それから海江田万里氏である。原発問題ですでに責任を取るといっていた経産相が総理を目指すというのはどういうことなのか理解できない。閣僚が「責任」 をとって辞任するということは、辞任後は少なくとも一定期間は「責任ある地位」に就かないということではないのだろうか。


 8月23日、トヨタが新型カムリを米国で発表した。日経新聞によれば「価格は2万1955~2万9845ドル(約170万~約230万円)。大半のグレードの価格を現行モデルより安い水準に」。

 ちなみに日本でもカムリの価格は250-347万円。米国モデルの最上級のハイブリッド仕様車が国内の最低モデルより格段に安い。このカムリは米国製だ から、日本製と価格が違ってもおかしくない。しかしトヨタがグローバル企業を名乗るなら、コストの安い米国製トヨタ車を日本に大量に輸入してもおかしくな い。日本の消費者も価格が2割、3割下がるなら大歓迎のはずだ。

 トヨタ、米で新型「カムリ」発表 5年ぶり全面改良 【日経新聞8月24日】
 こういう議論をすると必ず出てくるのが、「ものづくり日本が崩壊する」ということであろう。しかし日本の輸出 産業を苦境に陥れた最大の原因が輸出産業のがんばりだということを忘れてはならない。過去のどんな円高にも耐えてしまったことがさらなる円高を生み出すと いう悪循環を繰り返す要因となってきたのである。

 エレクトロニクス業界はそうした悪循環からとうの昔に脱却している。われわれが量販店で購入する家電製品のほとんどがアジア製となっている。ニッサンは昨年からマーチをタイで製造し国内で販売している。

 日経エレクトロニクスが「エネルギー源としてクルマを考えてみる」を3回にわたって特集している。萬晩報はかねてから緊急電源として自動車の有効性を指摘してきたが、電池の能力など不明なことが多く、具体的にどれほどの電力を供給できるか説明できなかった。

 まず、日産自動車の「リーフ」について、家庭で消費する2日分に相当する24kWhの電力を賄えるバッテリーを搭載することを明らかにしてた。そして震 災時にPHEVやEVを活用することによって相当程度の電力を賄えるとことを指摘している。非常にうれしいニュースである。

 また国内にある自動車がすべて20KWhの電池を装備したEVになれば、たった10%の電力を6時間供給するだけで原発25基分の発電量になるというの だから驚きである。PHEVの場合はさらにエンジンという強力な発電装置を備えているから、フル運転するだけで瞬間的には電力会社はいらなくなるほどのポ テンシャルを持っているということになるのだ。

 みなさん、どう思いますか。

 http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20110805/194690/?P=2
 以下、日経エレクトロニクスの記事の一部を転載する。
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 実際、夏場の電力不足時には、各家庭やオフィス、企業でピーク電力を15%程度削減することを強く望まれている。これを家庭で考えてみよう。家庭での電 力ピーク時の1時間当たりの電力使用量を2kWh程度と見積もると、その15%は300Wh程度である。これを6時間にわたって削減するには、約 1.8kWhの電力をクルマから供給できればよいことになる。これは、リーフと同じ24kWhのバッテリーを搭載したEVであれば、バッテリーの容量のわ ずか7.5%程度で済む。これなら十分対応できそうだ。
 一方、PHEVの場合は、せいぜい5kWh程度のバッテリーしか搭載していないため、6時間にわたって供給するにはバッテリーの容量の36%分を供給す る必要があるため、バッテリーだけに頼るのは難しいだろう。ただ、PHEVにはエンジンと大きな発電機(モータ)が付いている。そのため、足りない分はエ ンジンで発電して賄うことも可能である。
 このようにEVやPHEVのバッテリーを家と連携させる取り組みは非常に価値があることが分かる。実際、経済産業省と自動車業界は2011年5月 19日、「自動車戦略研究会」と呼ぶ会合を開き、夏場のピーク電力時にEVなどに搭載されたバッテリーを活用して電力使用量を削減する検討を始めたところ である。
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 国内の自動車保有台数は約7900万台(2011年2月末時点)である。仮にすべてが20kWhのバッテリーを備えるEVになった場合、蓄えられる電力 量は約15億8000万kWhとなる。このうち、各車両から10%の電力量を6時間にわたって電力ピーク時に電力網に供給できたとすると、1時間当たり約 2600万kWhもの電力量になる。これは原子力発電でいえば原子炉約25基分の発電量に相当する。また、すべてが5kWhのバッテリーを備える PHEVになった場合でも、同様に1時間当たり約660万kWhと、約6基の原子炉が生み出す電力量を供給できる計算だ。

 もちろん、これらの試算の前提はインパクトの大きさを測るために設定した極端なもので、とても現実的とはいえない。そこで、もう少し現実的に3%がEV に、20%がPHEVになった場合で算出すると、1時間当たり約210万kWhになる。つまり、原子炉約2基分の発電量に相当するのである。
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 昨夜から古賀茂明『日本中枢の崩壊』(講談社)を読んでいる。
 そのむかし、官僚もいいことをしている。名前を出して報道すべきだと通産省幹部に話したところ、「もし名前を出したら二度と取材には応じないから」とい われてびっくりした。ファン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社、1994年)で書かれたのは日本の官僚システムの問題 だった。いまでも名著だと思っている。

 1998年に書いた「偽りのリアリティー」というコラムを再掲したい。

 新聞記者は多くの「うそ」をみてきた。正確にいえば「うそ」ではない。オランダのジャーナリストのファン・ウォルフレン流にいうと「偽りのリアリティー」に手を貸してきたともいえる。

 1993年産米が不作で94年はコメ騒動に明け暮れた。まず輸入米と国産米のブレンドが問題になった。筆者は94年から95年にかけて農水省担当だっ た。農水省担当になる前はふつうの主婦と同様「そんなバカな」と考えた。しかしことの真相を知ると、なぜ農水省が簡単に輸入米のブレンド販売を強行したか だんだん分かるようになった。
 業界の常識は消費者の非常識

 当時分かったことは単純なことである。コメの販売は「ブレンドする」という意味なのである。ふつうの人にはこの意味がぴんとこないかもしれない。筆者も 担当するまでは分からなかった。農家、集荷業者(農協)、系統組織(県経済連)、卸売り業者、小売店。だれに聞いてもコメを混ぜている売ることに後ろめた さがなかった。「コメ販売のノウハウを」と問えば、だれもが「品質の違うコメをブレンドしてどのように味を保ちながらコストを下げるかだ」と答えた。コメ の関係者は、輸入米が入ってきたときも同じことを考えた。タイ米が長粒米でジャポニカとはまったく異なるコメであることはどうでもいいことだった。

 だから、農水省が穀物検定で一生懸命、等級を付けても、工業品のようにそのまま消費者の手元に届くわけではない。農家すべてが出荷前にブレンドするとは 信じたくない。だが一般的だったのだ。集荷時には60キロ入りの袋に入れ、その袋に等級が刻印される。しかし、その袋は流通段階でただちに破かれ、第2段 階のブレンドが行われていた。今度はふつう高い方の等級が新たな袋に刻印される。小売りでも同じことが繰り返されていた。もはや農水省が決めたややこしい 「類別区分」や「品質区分」などはまったく意味を持たなくなる。

 秋田で直接、消費者にコメを販売している農家に取材したときは開いた口が塞がらなかった。「うちは良心的だから10%しか混ぜていない」と自慢したのだ。一番おいしい「あきたこまち」でも一番安かった滋賀の「日本晴れ」が10%ブレンドされていたのである。

 近畿の中堅卸売り業者に入社したばかりの友人が打ち明けた話はもっとすごかった。「同じコメが違う表示の袋に詰められ、その逆もあるんだ。びっくりしたけど、びっくりしたことに会社の人が驚いていた」という。これではあんまりだ。

 東京の卸売業者の言い分はこうだった。「消費者にコメを売るには3種類の袋が必要なんだ。中身は同じでもいい。2種類のコメを一度に買っていく人は絶対 いない。特に一番安いのはほとんど売れない。真ん中のが一番売れる。それが日本の消費者心理だ」。当時、コメには新米記者だった筆者が取材するだけでも 「偽りのリアリティー」がぼろぼろ出てきた。

 あんたは誰の代表なの

 1995年は食糧管理法の廃止が決まった記念すべき年であった。「つくる自由と売る自由」が与えられたはずなのに11月、農水省は新しいコメ流通に移行 することに対応した「検査・表示制度に関する研究会」報告を発表した。自由の引き替えに検査の強化が必要なのは金融機関でも同じである。しかし、農水省が 相変わらず、コメがブレンドされないことを前提に議論していたのが可笑しかった。

 もっと首をひねったのは、日本生活協同組合連合会(生協)が農水省の正式発表を待たずにマスコミ各社に「報告書への見解」なるものをファックスしてきた ことだった。内容が漏れたのは研究会に委員を送り込んでいた結果で仕方のないことではあるが、あまりにも出来過ぎていた。

 そのファックスには報告書が「消費者ニーズの多様化に的確に対応する必要性」を盛り込んだことを高く評価していたが、なんのことだか分からない。コメ販 売の透明性を確保するため、流通段階での「コメのブレンド操作の禁止」ぐらいは要求すべきだった。また「輸入米の安全性確保の万全化」をうたったことも評 価したが、諸外国の何十倍もの農薬を農地に散布している日本の農業に目をつぶって輸入米攻撃に終始する姿勢はいただけない。

 経済協力開発機構(OECD)の報告書では、日本の単位面積当たりの農薬散布量は欧米の30倍だったのである。「あんたは誰の代表なの」と叫びたくなった。

 日経ビジネスオンラインで「何もない村が成し遂げた国家的プロジェクト」という興味深い記事が掲載されている。神社に伝わる古い鏡がきっかけで西の正倉院が建てられ、伝説だった百済とのつながりも実証され、いまや観光バスが列をなすのだそうだ。
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 神門神社の伝世鏡が光を取り戻そうとしている動きが、考古学者や古代史の研究者の知るところとなった。

 「国立奈良文化財研究所(以降、奈文研)の研究者たちが、神門神社の銅鏡を、ぜひ見たい、というんですね、それはこちらもありがたい。その後は、入れ代 わり立ち代わりです、和鏡の研究者ばかりか、考古学者、民俗学者、作家などが次々に訪問してくれました、当時の、名だたる研究者のほとんどから高い評価が 得られた、韓国の第一人者の先生たちも次々と来村されました」



 今日の日本経済新聞のトップは「国内最大メガソーラー、愛知に 三井化学・東芝・三井物産」。5万キロワットの発電能力を持つメガソーラーの投資額は200億円。1キロワットあたり80万円と高め。

 しかし100万キロワットとされる一般的な原発の建設費は実は4000億円といわれている。今回のメガソーラー発電所を20個つくると100キロワットになるから、100万キロワットの太陽電池発電所の建設費は4000億円となる。

 原発の発電コストが1キロワット時あたり5・9円で、太陽光が40円以上。太陽光は6倍以上も割高といわれているのに、建設費から逆算すると原発も太陽光も建設費が変わらないというのはどういうことなのか。
 しかも原発がウランという燃料が必要なのに比べて、太陽光は燃料費はかからない。これに政府が支出している電 源3法交付金総額9152億8300万円、自治体が徴収している道県の核燃料税 6749億6820万円と原発に伴う市町村税8920億1299万円の合 計2兆5000億円のコストがかかっている。

 以下、電力会社が公表している原発の建設費を列挙する。
 運転開始 1971年 福島第1発電所1号基( 46万Kw)  390億円
        1974年 福島第1発電所2号基( 78万Kw)  560億円
        1979年 福島第1発電所6号基(110万Kw)1750億円
        1982年 福島第2発電所1号基(110万Kw)3560億円


 価格ドットコムでBMW320iの国内販売価格を調べたら、436万円。アメリカでの価格はどうなっているか調べたらなんと33150ドル。1ドル=80円で換算すると265万円。日本の価格の4割も安く買えるのである。
 多少のスペックの違いはあるだろうが、265万円では日本では2000ccの乗用車さえ買えない価格帯である。日本では「外車」販売はいまでもとてもおいしいマーケットなのである。
 筆者は1994年に「外車」の国内販売価格が法外に高いという調査報道をしたことがある。中日新聞は一面で筆者の記事を掲載してくれたが、その記事は少 々波紋を起こした。メルセデスを販売していた長野のディーラーは「誤報」として提訴すると息巻き、筆者の上司だった部長殿は烈火のごとく怒り出した。

 ベンツC200の価格差が150万円以上あると報道したのであるが、実は筆者が調べたドイツでの価格には同国の付加価値税19%が含まれていたから「誤報」だとしたら、価格差はさらに大きなものだったのである。

 問題は自動車に関しては20年近くたっても内外価格差は一向に改善していないことである。
 当時、「ベンツを1台売ったら販売員は50万円の手数料を手にする」といわれていた。ベンツの販売員は月1台ベンツを売れば生活ができたため、為替に連 動させてベンツを安く売る発想はまったくなかった。ないどころか、ベンツの購入層もステータスだけでベンツに乗っていたから、安いベンツよりも高いベンツ を好むという奇妙な風習があった。
 ベンツがクラウンより安い価格で販売されれば、やがてベンツの価値はなくなるとさえいわれた。
 たかが外車の価格だったら大した問題ではない。円高になっても海外での日本車の価格が値上げされたというニュースは聞いたことがない。問題は日本人が日本のメーカーの自動車をアメリカ人より何割も割高で買わされているということなのである。
 昨年末、ニッサンの電気自動車「リーフ」の販売が話題になった。このときも筆者はリーフの日米での販売価格を調べたことがある。日本で376万円のリー フがアメリカでは3万2780ドル(306万円、1ドル=93円40銭当時)だった。当時でも2割ほど安かったが、現在の1ドル=80円で換算すると、 259万円となる。
 為替がいつまでも1ドル=80円を維持するかは分からない。しかし最近の決算発表で1ドル=80円近辺とする企業が趨勢となっている。円高で輸出企業の 経営環境は確かに厳しいかもしれない。しかし、海外での販売を維持するために内外の価格差が3割もあっていいはずがない。
「米国では210万円で買えるリーフ」http://ch01617.kitaguni.tv/e1752749.html

 友愛公共フォーラムの第2回会合で、面白い話を聞いた。報告者の一人、参院議員の梅村聡氏の五代前の祖先、関寛斎(文政13年2月18日(1830年3月12日) - 大正元年(1912年)10月15日))の話だった。

 関寛斎は、佐倉の順天堂で学んだ医者だった。銚子で開業していたところ醤油商、浜口梧陵の支援で長崎に留学しオランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・ メーデルフォールトから最新の西洋医学を習得して徳島藩の御典医となった。戊辰の役では官軍に従軍し、維新後は徳島に病院を開院した。金持ちからは俥の迎 えが来なければ往診しなかったが、貧乏人からは一銭も取らなかったことから人々に親しまれる医者となった。
 晩年になって、徳島の広大な病院敷地を売却して、北海道陸別の開拓に力を注いだ。網走監獄の元受刑者や貧しい 農民を農場で働かせ、後に彼らに農場を分け与えようとした。家族の反対で裁判となり、関寛斎はその裁判に敗れてしまった。農場を小作たちに分け与えられな かったことを悔やんで服毒自殺したというのだ。

 医療とは何か、農業とは何か、自ら理想を実現しようとしたその姿に打たれたのが徳冨蘆花だった。蘆花は陸別に寛斎を訪ね、その著『みみずのたはこ と』(岩波文庫版)に関寛斎のことを書いた。司馬遼太郎もまた『胡蝶の夢』(新潮社)で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評している。いまも寛斎が開 拓した陸別町には関神社を祀り、関寛斎資料館では寛斎の尊い生き様を顕彰しているのだという。

 梅村氏が医者を目指したのは、小学校時代、夏の暑い時期に中学受験の勉強をしていた最中、母親から祖先の話を聞かされてからだという。人が人で、医者も 医者だった時代の話ではあるが、銚子の醤油屋さんが一医学徒を支援して長崎留学させた眼力もすごい。官軍に従軍したときは、江戸上野の決選で敵味方分け隔 てなく面倒をみた寛斎の精神はまさに赤十字をつくったスイスのアンリ・デュナンに通じるものである。

 ちなみに浜口梧陵は、和歌山で安政の大津波から人々を救った物語「稲わらの火」の主人公として世界的に有名である。(伴 武澄)

  【北京=加藤隆則】中国人権発展基金会と中国社会科学院近代史研究所は17日、北京で記者会見し、孫文と彼が主導した辛亥革命(1911年)を物心から支 えた長崎県出身の実業家、梅屋庄吉・トク夫妻の3人が一体となったブロンズ像を制作中で、9月には同県に贈呈することを明らかにした。

 梅屋は1930年前後、中国に計4基の孫文像を贈っており、革命100年記念として返礼の品が届けられることとなった。

 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110817-OYT1T00850.htm
 像は等身大で、腰掛けた孫文の後ろに梅屋夫妻が並んで立ち、台座を含めた高さは2メートル、幅3メートル、重さは2トン。日中歴史共同研究委員会の中国側座長を務めた歩平・中国社会科学院近代史研究所長が発案した。

 元外務次官の吉佩定・同基金会副理事長は「我々は、相互理解、相互尊重、相互支持に支えられた2人の忘れがたい交流の歴史を通じ、さらに親密な両国国民の関係を築くべきだ」と強調した。会見には梅屋のひ孫、小坂文乃さん(43)も出席し、感謝の言葉を述べた。
(2011年8月18日01時09分 読売新聞)

 東日本大震災の支援をしている東日本大震災支援学生団体が8月21日、22日と宮城県亘理郡山元町の内手仮設住宅 集会所で学生カフェをプレオープンする。今回は麗澤大学(千葉県柏市)の学生3人が参加する。

 このプロジェクトは学生から自然発生的に誕生したもので、アフガニスタン戦災孤児救済センターの生井隆明さんや元資生堂国際部長の服部巌さんら、元総務省CIO補佐官の大塚昭寿さんらおじさんたちも大いに共感し、勝手連として応援しようと考えている。

 学生カフェの本格スタート時期はまだ決まっていないが、早ければ8月末となる予定。

 彼らは20日、レンタカーを借りて山元町に向かい、仮設住宅で宿泊する予定。おじさんたちが応援できるのは、旅費のカンパや車の無料貸し出しなどいくらでもあると思う。彼らの思いは「仮設住宅での"孤独"をなるだけ回避するため憩いの場をつくる」こと。

 代表の関口和宏さんは次のように話している。
「学生としてできる支援は何か。」そんな事を3.11以降考え続けてきた。瓦礫撤去や汚泥除去も学生という若き 力は確実にニーズと合致する。しかし、学生らしさを更に効果的に復興に繋げる支援も必ずあるはずであり、同時にそれは学生自身の知徳の成長の場でもあるは ずだ、と。この『学生CAFÉプロジェクト』はそんな理想に迷走する学生達に、三人の賢人が光を燈した末のものである。多くの被災された方々が仮設住宅に 移住し自立の道を歩み始め、殆どの瓦礫も撤去されつつあり、ボランティアの需要も無くなりつつあるかのように思われがちである。しかし、現実に被災された 方々は今この瞬間も不安や恐れと戦い続けている。故に私達学生が学生として力になれる事があるはずである。私達は学生として、例え微力で目に見えぬ結果で あろうとも、このカフェを通じ、不安に迷走する方々に微かな光を燈す事ことができる可能性の続く限りは同じ目線で寄り添い歩き続けたい。途中で疲れたら、 椅子にゆっくりと座り一緒にお茶でもするのは如何だろうか。」

 学生カフェの広報用のサイトもまだありません。支援をお願いできる方がいましたら、 下記に送金をお願いします。bantakezumi@yorozubp.com

千葉銀行 南柏支店 (普)3566999 齋藤一輝(サイトウカズキ) 

  高知のよさこいの続報。よさこい国際交流隊は11日、いくつものマスコミから取材を受けた。プロに近い練習を重ねたチームが少なくない中で、弱小チームが 注目されたのは「平和」というキーワードだ。よさこいが国境を越える何かを持っているかもしれないという記者の問題意識が目立った。日本人や他の世界の各 国の人たちと一緒に汗をかいたという経験はなかなかないものである。祭りにそうした要素があるのだとしたら、祭りを通じて「国境を越える」ことができる。 そんなことを実感させる二日間だった。それにしても暑かった。(伴 武澄)

 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20110811-OYT8T01024.htm

 高知の夏を彩る「第58回よさこい祭り」は11日、本祭2日目を迎えた。うだるような暑さの中、外国人の踊り子や歌手たちも地元のチームに負けじと 「ヨッチョレ、ヨッチョレ」。高知市内17か所の競演場や演舞場では、踊り子の熱気が最高潮に達し、夜遅くまで鳴子の音が響き渡った。(森本健裕、畑矢今 日子)

【写真】笑顔で踊りを披露する「響よさこい国際交流隊&教職員友の会」の外国人メンバーら(高知市の菜園場商店街で)
 県内在住の国際交流員や教職員らでつくる「響よさこい国際交流隊&教職員友の会」は13年前、当時の橋本大二郎知事が「帰国後も高知の良さを広めて」と呼びかけ、前身のチームを結成。今年は米国やスリランカなど18か国の32人を含む計86人が参加した。

  流れる曲は災害や戦争から子どもを守るために作られたインドの民俗音楽を採用。米国出身で小学校外国語指導助手エイドリアン・バーンスさん(24)は「み んなで助け合って作り上げるよさこいに感動」と声を弾ませ、元小学校長の山中千枝子代表(62)は「平和への祈りに国境はない。帰国しても高知で心を一つ にして踊った記憶を忘れないでほしい」と話していた。

 県内のエスニック雑貨店などでつくる「東印度公司(ひがしいんどこんす)」は初出場。地方車(じかたしゃ)には曲作りを担当した日本などで活動するネ パール人歌手ボビンさん(36)が乗り、陽気な歌声を披露。日本人の踊り子たちも舞った。雑貨店長久保美歌さん(41)は「ほかにないエスニックなチーム が完成した。まだまだ楽しむ」と次の競演場へ急いだ。

 今日8月10日から2日の日程で高知市でよさこい祭りが始まる。市内17カ所の演舞場で189チーム約2万人がよさこいを踊り狂うことになる。

 よさこいの特徴は、各チームが独自の音楽と踊りと衣装を持つことである。一時、ロック一色であったり、サンバのリズムが盛んだった時期もあるが、ここ10年日本への回帰が始まっている。衣装も袖のある着物風が主流となっている。

 迫力ある音楽を響かせてチームを先導するのが地方車(じかたしゃ)。山車のようなもので独自の飾りたてでよさこいを盛り上げる。お祝儀でいただいたお神酒は地方車に乗せられ、踊りの前後には気付けとしてメンバーに振舞われる。

 そのむかし、筆者はよさこいを「進化する祭り」と萬晩報で紹介したことがある。

 いま自在に進化を続ける高知のよさこい踊り
 http://www.yorozubp.com/9908/990802.htm
 はずかしながら、ここ数年筆者も踊り狂う一人となっている。参加するチームは「響よさこい国際交流隊」。高知 在住の外国人にも踊ってもらおうと13年前に誕生した「高知クラブ」が発展したチームである。今年の参加者は90人。外国人は17カ国から20人を超え、 文字通り「国際色」豊かになった。

 リーダーは山中千枝子。元体育の先生でリズム感は抜群。踊りの振り付けも彼女の役割。63歳という年齢にもかかわらずエネルギッシュにチームを率いてく れる。今年の踊りはインドのボリウッドダンスとのコラボレーション。「踊るマハラジャ」に似た振り付けが随所に盛り込まれていて楽しい。たぶんインド風を アレンジしたのはよさこいの58回の歴史で初めてだろうと思う。

 筆者が関わる「タゴール生誕150年記念事業」で知り合った日印混血のボリウッドダンサー、板倉リサさんのDVDを見た山中千枝子が「これや」とひらめいた。

 なにしろ我がチームは過去に二度ほどマレーシアに遠征してマレーシアの子どもたちを指導した経験もある国際派。その年のよさこいの振り付けは「マレーシ ア・ボレ」(Yes We Can)にあやかって「よさこいボレ」と命名したが、ことしは「よさこい ボリこい」というのだ。

 うれしいのは、カナダのアンドレアやアメリカのサーシャは二年目の参加とあってメンバーの中心的存在となっていること。1カ月も前から練習に加わり後輩たちを手取り足取りで指導する姿はほほえましい。なにしろ我がチームは土佐弁と英語しか通じないのだ。

 円高が進んでいる。20年近く前、日本経済は1ドル=100円の水準に耐えられるかが問われた。政治 は相次ぐ巨額の景気対策で円高不況に対応しようとしていた。ダイエーの中内功氏は小売価格を50%に下げることを宣言し、多くの流通業が後を追った。いわ ゆる円高還元である。メディアでは「価格破壊」が合言葉になった。

 1980年代後半から日米構造協議が始まり、日本は海外製品を排除する構造的な問題があると指摘され、多くの国民も日本の構造問題に気づき始めていた。 街道沿いにビールを安売りするロードサイド店が相次いで登場した。それまで酒類が「定価」で販売するのが常識だったから、ビールの値引きは日本人にとって 革命に等しかった。

 格安ビールの目玉は輸入ビールだった。我が家の台所に「ハイネケン」の缶ビールの箱が常備されるようになるのに時間はかからなかった。やがてバドワイ ザーやクワーズの缶ビールもその仲間入りをした。24本入り箱が3000円を切っていたから輸入ビールがもてはやされるのは当たり前だった。ダイエーはベ ルギーのビール会社と提携して128円のベルゲンブロイを店頭に並べた。
 それまでビールはビン入りが中心で酒屋が運んでくるものだったが、消費者が買いに行くものとなってからは缶 ビールが主流となった。6割を誇っていたキリンビールのシェアがどんどん下がって、アサヒのスーパードライがキリンに肉薄し追い抜くまで大した時間はかか らなかった。ロードサイド店はビールのシェアをも代えてしまう副次効果もあった。

 当時流行ったのは、個人による輸入である。衣料品のカタログ販売のL・L・ビーンによって関税当局は相当に忙しくなったに違いない。アメリカのアパレルがドルで買えば日本の半値だったのだから当然である。筆者も何万円ものシャツやパンツを購入して悦に入ったことだった。

 日本の輸入車があまりに高いので、自動車の輸入代行や個人による輸入もはやった。ロンドンまでファーストクラスにのって王侯貴族の旅をしてジャガーを 帰っても100万円以上のおつりがくるのは当たり前だった。それまでも日本の輸入車市場はおいしいマーケットだった。ベンツのディーラーは「1台売れば 50万円の手数料」を手にするといわれた。5万、10万円の利益で販売するより、一部のお金持ちを相手にしていれば安泰だったから円高差益を還元しようと する発想はまったくなかったのだ。

 香港への買い物ツアーも人気だった。雑誌も多くの記事を掲載した。空っぽのスーツケースをかついて香港に行って満杯にして帰れば、「おいしい中国料理を 堪能しておつりが来る」。そんな記事を覚えている。筆者は出張のついでにカシミヤのコートをつくってもらった。「日本では20万円の生地でつくると仕立て 代は20万円。仕立て代は生地の価格に左右されるものではない。どんな生地でも3万円です」といった香港のテーラーの言葉が忘れられない。

 ビールの安売りは多くの商品にも広がった。衝撃はフォードが5000ccのマスタングを250万円で販売したことだった。1ドル=100円内外の為替相場では当たり前の価格設定だったが、国民の多くが日本人がいかに高いものを買わされていたかを思い知らされたのである。

 円高は輸出業にとってはつらいことであるが、輸入業者にとってはチャンスである。価格破壊が起きないことから考えて、相当の円高差益を密かに手にしているはずである。商売人は困った時には声高に「円高対策」を叫ぶがもうかっている時は黙っているものなのである。

 いま80円を超える円高時代を迎えて、「輸入」というキーワードが新聞紙面に踊らないのが不思議でならない。

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