2011年7月アーカイブ


  財団法人霞山会が昨年から発行している広報誌「Think Asia」が好評らしい。何を隠そう、筆者が編集・執筆に携わっている雑誌でもある。うれしいことだ。発行は年4回の季刊。先週その4号が発行された。巻 頭コラムは「中国語になった日本語-明治期に発明された漢語の新用法」。

 明治という新国家を誕生させた日本人たちが富国強兵だけでなく、西洋の政治哲学や科学を貪欲に導入するために新しい漢字熟語を次々と発明させた物語だ。 日本で発明された漢語熟語は清国からの留学生によって「中国語」に導入されたことは知られていることだが、困難がなかったわけではない。
 面白かったのは「漢語の新しい用法」という概念だった。「広範性」「安定性」の「性」、「自動化」「都市化」 の「化」はそれまでの漢語にはない用法だった。英語を日本語に翻訳するために考えられた用法である。そんな漢語が1000近くもあることを一つひとつ数え た中国人学者もあったという。

 「Think Asia」のタイトルは筆者が関わる財団法人国際平和協会のシンポジウムのタイトルである。日本語では「アジアの意思」と訳している。つまり、「脱亜入欧」「アジア主義」に代わる表現で、再びアジアに求心力を求める運動でもある。

 言い出したのは財団の評議員の一人である大塚寿昭である。もともと、アジアの人々との交流会での議論から「アジアの意思」という概念が生まれた。大塚はIBMのシステムエンジニアだった。IBMでは「一時期「Think」がキーワードになったところからの発想だった。

 霞山会は戦前、上海に東亜同文書院を経営した東亜同文会を引き継ぐ財団。数年前まで虎ノ門交差点に霞山ビルがあったがいまは赤坂に移転した。中国語学校 と中国との交流事業を経営の柱にしている。同財団が発行する月刊誌「東亜」は中国研究者の必読書の一冊。編集長は阿部さんといい、若手の中国研究者を育成 してきたことでも知られる。

 参考までに筆者がこれまで書いてきたコラムのタイトルを紹介したい。
 第1号「孫文と梅屋庄吉、そして滔天、良政-辛亥革命百年にアジアを考えたい」
 第2号「目薬が奇縁となった日中交流史-東亜同文書院と内山書店」
 第3号「いつから『中国』が国名となったのか?-蔑称としてのチャイナと支那」
 第4号「中国語になった日本語-明治期に発明された漢語の新用法」

 ちなみに広報誌「Think Asia」は無料である。バックナンバーもまだあるそうだ。購読希望者は下記まで。
 東京都港区赤坂2-17-47 赤坂霞山ビル TEL.03-5575-6301
 koudoku@kazankai.org

 (伴 武澄)
 古い話だが、一九六〇年代、筆者は南アフリカのプレトリアに住んでいた。すれ違いざまに「ヘイ・チャ イナ」と呼ばれ、やるせない思いになった。「ヘイ・チャイナ」はアジア人に対する蔑称である。日本人が「支那人」と蔑んだように、西洋人は日本人を「チャ イナ」と侮蔑していたのである。語源はよく分からないが、黒人のことは「キャファー」と蔑称していた。

 そのチャイナが二〇一〇年のGDPで日本を抜いて世界二位になった。もはや南アでもどこでもアジア人のことを「チャイナ」と蔑むことないだろう。

 問題は中国と同じ漢字を使用する日本だ。最近とみに「支那」を使う人が増えてきた。中国が嫌いな日本人たちが中国人が嫌がる「支那」という表現をあえて使うことで鬱憤を晴らしているような気さえ感じられる。
 古来、日本人は中国を王朝名で呼んできた。不思議なことに王朝名はあっても国名はなかった。代表的なのは 「唐」である。日本への文化的影響が一番大きかったからであろうが、江戸時代になっても「唐(から)」「唐人」という呼称が残っていた。明治になってから は西洋諸国にならって中国と正式に国交を結び、もっぱら「清国」となった。「中国」という国名はまだない。

 日本にはもう一つ「支那」という呼称もあった。いつから始まったかは分からない。空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられたとされるが、一般的だっ たとは思えない。たぶん明治になって王朝名とともにその国名を特定するために「支那」が多用されるようになったのだと思っている。

 日本に亡命した革命家や留学生たちも日本での著作にで「支那」と書いていることなどから、内外ともに「支那」という表現に差別の意識はなかったはずだ。

その「支那」が差別語になったのは、日清、日露戦争以降、日本と中国の国際的地位が逆転してからのことである。一九一一年の辛亥革命で清朝が倒れ、大きな 後ろ盾を失った。翌年、中華民国の成立を宣言したが、不幸なことに中国自身は分裂状態に陥った。日本としてもあの広大な大陸をなんと呼んでいいかとまどっ たに違いない。日本国政府は一九一三年六月の閣議で「条約や国書を除いて『支那』と呼称する」と決定したほどだった。

支那という表現が日本で定着する背景にはそんな事情もあった。中国全土が一つの政権下に治まるのは蔣介石による"統一"を待たなければならなかった。

 つまり「支那」という呼称が差別的だったのではなく、日本人の意識が差別的になったのである。そのころ日本人が「中国」と呼んでいたら、「中国」という表現も「ヘイ・チャイナ」と同様に差別語になっていたかもしれない。

 そんな問題意識が長いことあって、この一〇年、中国人に出会う度に「あなたたちは自分の国をいつから中国と呼ぶようになったのか」ということを聞いてきた。多くは「何をいまさら」というような表情をする。私はこう言って畳み掛けた。

「明治時代、日本は清国と呼んだ。清国大使館があり、多くの清国留学生が日本にやってきた。会社名にも日清という文字がよく使われ、今もいくつか残っている。明治の人たちは中国という表現すら知らなかったはずです」

 そう言うと「なるほど」という顔をするのだが、肝心の「いつから」という疑問に答えてくれた人はまだ現れてこない。中国人自身、「支那」を嫌がるわりに「中国」の出現についてはあまり関心がないらしい。
 さて「中国」である。一八四二年、阿片戦争後の南京条約で漢文の「中国」が使われた事例が最初であるとの説もあるが、一般的に使われたふしはない。筆者は、「中国」の使用は日本から多くの新語彙を導入したとされる梁啓超に始まるのではないかと勝手に想像している。

 梁啓超は康有為とともに清朝の変法運動を起こしたが、改革に失敗して日本に亡命した。その梁啓超が東亜同文会の機関誌「東亜時論」第一号(一八九八年一 二月)に寄せた「論支那政変後之関係」と題したエッセー(漢文)では自国を「支那」と呼んでいたのに、その第二号では「日中国十八省」など「中国」という 表現が使われている。第三号でも、第四号でも「中国」が登場する。

 しかし一九〇五年、東京で革命期成同盟を結成した孫文や黄興らは、その機関誌「民報」に中国のことを「支那」と書いたとされるぐらいだから、梁啓超の「中国」が多く人口に膾炙されていたとはいえなさそうだ。

 辛亥革命後に成立した中華民国以降は「民国」という略称が多用された。国民党には「中国」がついていなかったから、革命後に直ちに「中国」と呼ばれたのか不明である。

「中国」が公式に使われ始めたのは、孫文が一九一八年に再起を期して結成した「中国国民党」ではないかと想像している。初期の国民党とは違う組織であるこ とを意識して「中国」が頭につけられた。次は一九二一年の「中国共産党」である。日本では「日本共産党」が誕生したように、モスクワからの指令で各国に設 立されたそれぞれの共産党に「国名」が付記されたものである。

 この時期になると中国人で「支那」を使用する人はほとんどいなくなり、急速に「中国」という表現に置き換わっていく。新文化運動・白話文運動など知識人の中に起きた啓蒙運動を通じて民族としての「中国」が自覚されていったのではないかと考えざるを得ない。

 ちなみに日本政府が正式に「中華民国」の呼称を用いるようになったのは一九三〇年一〇月の閣議決定以降のこととなる。日本が関税協定の条文中に「支那」 を使用したことに対して同年五月、中華民国政府が「無礼ノ 字句ヲ使用」「国家ヲ辱シメ」などと批判したためである。それでも「支那」がなくなったわけではない。漢字という共通文化を持つがゆえの軋轢はまだ続いて いるのである。(共同通信社 伴 武澄)

 宮崎 滔天(みやざき・とうてん) 明治三(一八七〇)年、熊本県荒尾村生まれ。幼名寅蔵。兄らの薫陶を受けてアジアに目覚める。一八九七年、広州蜂起に敗れて来日した孫文と横浜で出会い、以来、孫文の中国革命に一身を捧げた。

 滔天は男八人女三人の末っ子で、徳富蘇峰の大江義塾に学んだ。青年期に兄らと議論し、民蔵は世界を革新するために日本で土地革命を実現し人民に平等に土地を分けることが必要だと主張し、日本の革命を目指すことになる。弥蔵と滔天はアジアの革新という空想を描く。

 二四歳の時、タイに渡り同国への移民事業に関わる。二七歳の時、犬養毅を知り、外務省から中国の秘密結社の状況調査に派遣されたのがきっかけとなって中国との関わりが始まり、孫文と知遇を得て一瀉千里に中国革命に傾斜する。一九一九年に亡くなるまで革命に尽くした。

 滔天亡き後、長男龍介は父親の人生について「天下の乞食に錦を衣せ、車夫や馬丁を馬車に乗せ、水飲み百姓を玉 の輿、四海兄弟無我自由」と語っている。中国革命を志した願いがそこにあったという。いまではほとんど理解できないようなユートピア思想を抱いて中国人と の交遊を深めた。

 孫文もまたそんな滔天の無私の志に対して全幅の信頼を寄せた。一九〇〇年の恵州蜂起では日本での資金や武器調達に奔走し、孫文、黄興ら在日の革命家を糾合して一九〇五年、革命同盟会を結成させた功績は見逃せない。

 一九一一年、武昌蜂起が成功し清朝の支配が終わる。ヨーロッパに滞在していた孫文を香港まで出迎え、デンバー号で一緒に中国に凱旋した。翌年、孫文は中 華民国の成立を宣言し大総統に就任する。滔天の人生の絶頂期だった。その前年に白山神社(文京区)で二人して見つめたハレー彗星の出現に革命の成功を託し た夜の出来事が去来したはずだ。

自らの半生を描いた『三十三年の夢』(一九〇二年)は孫文革命の裏歴史そのもので、中国語にも翻訳され、多くの中国青年にも愛読された。一九二五年の復刻 版に解題を載せた吉野作造は「友を隣邦に求めて先ず広く東洋全体の空気を一新して由って以て徐ろに祖国の改進を庶幾せんと欲する者」の一人だったと書い た。

 7月10日、京都で友人の中野有さんと食事をし、最後は四条烏丸付近の隠れバー蔵を訪れた。モルガンお雪が住んだ場所がバーとなっている。バーは蔵を改装したもので、ガラス張りの床の下にはお雪の財宝があったとされる大きな金庫がある。

 不覚ながら祇園の芸者お雪さんが金融王の親族ジョン・モルガンに見初められ、ヨーロッパ社交界で一世を風靡したということを知らなかった。

 物語は以下のようなことだった。京都のタウン誌から転載したい。
  明治三十五年春、京都は桜と都おどりでわいていた。舞台は京都南座、その楽屋では出番のお雪が現れず、女将はじめ兄の音吉が人さわぎをしていた。

 そこへ、日本見物に来たアメリカの大金持ちモルガン氏が秘書のミツコをつれて現れ、紙の雪や造花の桜をみて大喜び・・・。

 その頃、お雪は恋人の京大生・川村が就職を受けた都銀行が、芸者の恋人がいるとのことで就職が難航しているときいて、川村のためお雪は抗議に行った帰り であった。知恩院あたりにさしかかった時、マキノ省三ひきいる大活動写真のロケーション現場にぶつかった。撮影が目茶目茶になってどなるマキノ省 三・・・。

 都踊りの舞台にたどりついたお雪は、鷺娘をおどっていた。クライマックスに達した頃、雪が例によって降って来た。

 これは小道具係を買収したモルガンとミツコの二人で、雪がなくなって紙幣の雪を降らし、舞台は大混乱となる・・・。

 それから数日後、モルガンとミツコは、先日のおわびにとお雪を料亭に呼んだ。胡弓をひきひたすらお客に尽す日本女性のやさしさに、その夜からすっかりモルガンはお雪のとりこになってしまったのである。

 モルガンの求婚ははげしかった。誠意をもってお雪を愛しつづけた。
 川村とモルガンとの間に入り、お雪は悩み苦しんだ。マキノと音吉は、お雪の苦学生川村に対する純情な愛に同情し、二人のために人肌ぬぐことになった。

 マキノと音吉は、モルガンに身をひかすため、芸者お雪を落籍するには四万円という金が必要だとモルガンにつげた。(当時四万円あれば南座が買えたと言われている)

 しかしお雪さんと結婚出来るのならと、アメリカに帰り、四万円を用意して来てしまった。・・・。
 追いつめられた川村とお雪は駆落ちを決意し、その日の最終列車で北海道に行き、新しく出発する約束をした。もちろん、兄の音吉とマキノは協力した。
 だが、お雪は祇園のしきたりから逃れることは出来なかった・・・。

 日露戦争の報をお雪はモルガンとの新婚旅行でアメリカへ行く船の中できかされた。
 すべては遠い国の出来事のような気がした。モルガンの妻となったからは、お雪は夫の国の風俗習慣に従うべく、船の中でモルガンの特訓を受けていた。祇園 から一歩も出たことのないお雪にとって、外国での生活は気の遠くなるようなことばかりであった。四ツ足のものは、祇園では当時たべたことはなかったし、着 物以外のものは着たことのないお雪・・・。

 しかし船がサンフランシスコに着いた時、そこに待っていたのは、モルガン財閥はもちろんアメリカ社交界が、芸者を妻にして来たジョージ・モルガンに対して交際を拒否して来たことだった。

 アメリカ上陸をあきらめ、ヨーロッパに向い、やっとパリで二人が自由な生活を得たと思ったのもつかの間、モルガンは、スペインで病死してしまった。それ から十年――ニースでひっそり生活しているお雪をたずねて来たのは、パリ産業博覧会に日本映画を出品するためにやって来たマキノ省三と、都銀行の代表とし て出張して来た川村俊介の二人だった。

 マキノは二人の再出発をすすめた。二か月後、お雪がその気になって博覧会場に出かけてみると、マキノが一人呆然として待っていた。
 川村が心臓発作で休止したのである。
 狂ったように太鼓を乱打するお雪・・・。

 昭和十三年、お雪は日本に帰って来た。そして日本は、お雪の夫モルガンの故郷であるアメリカと戦争に入った・・・。

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 京都が空襲されなかったのは    早坂 暁

 京都が空襲されなかったのはモルガンお雪さんが住んでいたからである。モルガン財閥はその絶大な影響力でアメリカ政府に働きかけ、そうさせたのである。
 ――と、こういう説をなすのは映画監督のマキノ雅弘氏だ。

 マキノ雅弘氏は、此の芝居に登場しているマキノ省三監督の息子さんである。
 実際にマキノ省三さんは、お雪さんと親しかったようで、芝居に出てくる「身請け代四万円」をお雪さんに吹きこんだのは本当のことらしい。

 当今、四万円というと、まことに迫力のない金額だが、聞くところによると京都随一の劇場「南座」が当時の四万円の建築費だったというから、例えてみれば当時帝劇を買って下さいというのと同じことである。
 本当にお雪さんが居たせいで京都が空襲にあわなかったかどうかは知らないが、お雪さんは、夫の国の爆撃機が爆弾をつんで自分の頭上をとんでいるのを、ど んな気持ちで見上げていただろう。お雪さんの家には、特高刑事がしきりに訪れたというから、アメリカのスパイぐらいに見られていたらしい。
 今年の夏、お雪さんの墓へ行った。

 京都のはずれ、小さな丘にかこまれた墓地に、お雪さんの小さな墓があった。白い十字架の墓である。

 お雪さんは日本人でもなく、アメリカ人でもなく、無国籍の人間として晩年を送った。
 ひっそりとして人で、多くを語らず、ひっそりと死んでいったのだが、恐らくその胸には声大きく叫びたいこと、訴えたいことが深く渦まいていたにちがいない。

 貧乏のために、祇園の芸者となり、つまりは金で買われる日々も辛かったろうし、モルガンにとついで、どれほどの遺産をゆずりうけたのだろうと散々に勘ぐられる日々も、またうとましかったにちがいにない。

 考えてみれば、お雪さんの一生は金との格闘の一生であったといえる。
 お雪さんの最期の言葉は、養女のナミ江さんが聞いている。
「まだ死なへんのやな。それやったら言うておきたいことがある。・・・みんなにアイスクリームを買うてあげなさい」
 きれいな死に顔だったそうだ。
 墓にはテレジア・ユキ・モルガンと名を刻んである。

山田良政(やまだ・よしまさ=1868-1900)津軽生まれで、孫文の革命を早い時期から支援し、1900年、広州市郊外で起きた恵州起義で命を落とした最初の外国人となった。

 明治5年、津軽には藩校を引き継いだ後の東奥義塾となる弘前漢英学校が誕生、キリスト教宣教師を早くから招き開明的学風を育んだ。良政はそんな東奥義塾を卒業後、同郷の陸羯南を頼り上京することによって、中国大陸に視野を広げるきっかけとなった。

 1890年に北海道昆布会社の上海支店勤務となり、清朝の疲弊と列強進出にもがき苦しむ中国を目の当たりに し、さらに深く大陸に思いを馳せるようになった。孫文との出会いは1899年、神田三崎町だった。95年の広州起義に失敗しながらも再起を願う孫文の革命 への強い志に意気投合。翌1900年、開校された南京同文書院に教授兼幹事として赴任した。

 同書院は近衛篤麿らがアジアの経綸を打ち立てるべく設立した東亜同文会の大陸での学び舎だった。翌年、上海に移り東亜同文書院となり、終戦まで多くの大陸人士を育んだ。

 恵州起州に際しては孫文と台北で合流、叔父の菊池九郎の旧知だった台湾民政長官・後藤新平に会い、援助の約束をもらったが、日本では政権が山県有鼎から中国不干渉主義者だった伊藤博文に代り、台湾総督・児玉源太郎が約束した武器供与がご破算となってしまった。

 それでも良政は恵州にあった革命軍の鄭士良陣営に合流、清朝官軍に捕われた。日本字を名乗れば解放された可能性もあったが、最期まで中国人を通し処刑された。

 良政の弟純三郎もまた後に中国革命に参画し、孫文が1925年、北京で死去した時に立ち会った唯一の日本人となるなど生涯、中国革命の中枢にいた。山田良政・純三郎兄弟は宮崎滔天、梅屋庄吉らとともに中国革命に大きな足跡を残した日本人である。

 孫文は辛亥革命の後、1918年に部下を恵州に派遣して遺骨を探させたが、見つからなかった。その死を悼んだ孫文は山田家の菩提寺である弘前市の貞唱寺に自ら石碑を建てて、次の碑文を刻んだ。

「弘前の人なり。康子八月、革命軍恵州に起つ」君身を挺して義に趣き、遂に戦死す。嗚呼其人道の犠牲、亜州の先覚たり。身は堙滅すと雖も、而も其志は朽ず」。

 我が家は、養鶏農家。高知県が開発した地鶏「土佐ジロー」を育てている。

 「土佐ジロー」は一代種。国の天然記念物で、鶏の原種鶏「赤色野鶏(セキショクヤケイ)に近いとされる「土佐地鶏」を父に、在来種「ロードアイランドレッド」を母とする。「土佐地」と「ロー」をつなげた名前が「土佐ジロー」だ。高知県の登録商標でもある。

 ヒナを輸入に頼ることの多い養鶏業界にあって、土佐ジローは種卵から肉卵に至るまで、高知県内で行われる。

 高知県畜産試験場で種卵となり、高知県土佐ジロー協会がふ化事業を担う。飼育できるのは、同協会が認定した会員のみで、県外での飼育は認めていない。もともと採卵を主に始まった土佐ジローの飼育。今でも会員約100人のほとんどが有精卵用として飼育している。

 私の夫、小松靖一さんも20年ほど前、採卵用として飼育をスタート。しかし、数年後には、産卵率の悪さなどから、ふ化した直後に雌雄鑑別で廃棄されていた雄を肉用として飼うことに決めた。

 畑山の自然の中、自然放飼を前提に、軍鶏と同じように1年ほど飼うことから始めた。放っておけば高さにして数メートル、数十メートルは滑空する土佐ジ ローにとって、広すぎる鶏舎は、肉質を過ぎるほど、硬くしてしまった。元大工の靖一さんは、真新しいけれど、腑に落ちない鶏舎を壊しては、建て替える作業 を繰り返した。平成10年に土佐ジロー様式を確立し、今に至る。

 ふ化した当日に、高知県土佐ジロー協会から引き取ってきたオスのヒナは、ガスブルーダーで約35度に保たれた小屋の中で育つ。生まれたばかりで、ぼぉっ としているヒナもいれば、早くも一生懸命エサをついばむヒナがいる。隣りのヒナの体を口ばしで突っつくなど、ちょっかいを出す子もいる。どの子も個性的 で、見ていて飽きない。そして、40日程度で、肥育のための鶏舎へ移す。
 
 16平方メートルの部屋は、ネットに囲われ、空が見える遊び場にしている。昼間は、エサを食べたり、土を食べたりする土佐ジロー。つながっている同じ大 きさの部屋は、トタン屋根で覆い、斜め階段状の止まり木を設置し、エサを食べた土佐ジローが休憩し、効率よく肉になるよう工夫している。いずれも土の上。 土を食べ、自らの体調を管理している土佐ジローのため、適宜、畑山の土を足している。エサには、畑山の野草や、県内産の無農薬野菜やコメを与える。

 そして、生まれてから150日。雌で言えば卵を生み始めるころ、約1.5kgに育った土佐ジローを、さばき職人でもある靖一さんたちが解体し、肉として販売する。

 50~60日で3kgになるブロイラーと呼ばれる肉用鶏に比べれば、たくさんのエサを与えて日数を掛けたのに、重量が採れないシロモノ。養鶏業界にとっては異端だろう。

 でも、過食症状態で肉になっていく鶏に比べ、負荷をかけられてない内臓類は、刺身でも食べられ、味も抜群。白子、レバー、砂肝、心臓、トサカ。刺身で も、焼いても、煮ても、とにかく美味しい。パサつきやすいムネ肉でさえ、みずみずしく、私たちは、たたきで食べることが多い。真紅のモモ肉は、その色に驚 くし、余分な脂分や水分がない。普通なら、黄色く脂ぎった皮も、土佐ジローではまったく別物。厚くて、ジューシーだ。炭火で焼いても、炭から出る煙はほと んどないため、室内の卓上でも焼ける。テレビなどの「絵」にはなりにくいが、食べた人だけが分かる本物の肉の味だ。土佐ジローを鶏らしく育てた結果の味 だ。

 一時、都会のデパ地下では100g当たり900円以上の高値で販売されていたこともあった。今、高知県内では100g当たり500円前後、都市部では800円前後だろうか。

 生産から加工、販売まで手掛ける我が家の土佐ジロー。卸売価格は、靖一さんが決める。ハマチの養殖漁家に生まれた私には、とても稀有で、うらやましいこ とにも映る。ハマチなどの漁業者は、卸売業者に叩かれ、採算ラインを下回っても、売らざるを得ない。そんな状況が続き、廃業に追い込まれ、多額の借金を抱 え、自殺していった人たちがいる。かといって、土佐ジローの販売価格が、掛けた手間やコストに見合う以上のものにはなってないことも分かっている。

 でも、利益を追い求め、エサの内容を変えたり、土の上から土佐ジローを離すなどする夫ではないし、そうあって欲しくはない。土佐ジローが鶏らしく育ち、私たちが生きるため、その命を美味しくいただけることに感謝したい。

 不況下にある日本。震災に見舞われた日本。大変な世の中で、エンゲル係数を上げることは難しいかもしれない。けれど、自分の命をつなぐ「食」が、どう作り出されているのか。我が事として、興味関心を向けてほしい。

 消費者が本当の安全安心に気付かなければ、生産者が本当に胸を張って作れる食材は消えてしまうのではないだろうか。人口の数%の生産者が支えている約40%の食料自給率が、これ以上減ってしまわないよう、「食」を生み出す現場の実情を知る努力をしてほしい。

 小松さんにメール k.keiko@tosajiro.com

 土佐畑山の限界集落を楽しむ http://www.yorozubp.com/1104/110418.htm

 萬晩報のサイトはサーバー移転の際の不都合から長い期間、閲覧不能となっていました。お詫び申し上げます。7月15日に従来どおりサイト閲覧が可能となりました。
 http://www.yorozubp.com/
 今後、執筆活動も再開しますので、これまで通りのご愛顧をよろしくお願い申し上げます。

 2011年7月15日 萬晩報主宰 伴 武澄

■タゴールの目指した美の世界
主催:タゴール生誕150年記念会
共催:財団法人国際平和協会
後援:インド大使館

今年2011年は、インドの詩聖であり、アジア初のノーベル文学賞受賞者であるラビンドラナート・タゴールの生誕150周年にあたります。
タゴールは日本に5度来日していますが、その最初は神戸に、1916年に到着しています。タゴールが愛した日本でもこれを祝い、タゴールの芸術と思想にさ らに理解を深め、彼が発し続けたメッセージを次の世代に伝えていきたいと考えます。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

・日時:7月10日(日)午後2時から4時(受付1時30分)
・会場:賀川記念館(神戸市中央区吾妻通5-2-20、078-221-3627)JR,阪急,阪神,地下鉄 三宮から徒歩15分 阪神バス 新生田川下車 徒歩1分

-挨拶 伴 武澄(国際平和協会会長)
-第1部 14時から15時 講演「タゴール哲学の現代的意義」 野呂 元良(元コルカタ総領事)
-第2部 15時から15時30分 タゴール詩の朗読と光の舞 
-出演 板倉リサ(舞踏家・ボリウッド(インド映画)女優))
-詩朗読 大場多美子(五感教育研究家)

-定員 100人 会費 1000円(当日会場で受付)
-【お申し込み】お名前を添えてメールまたはお電話でお伝えください。
-tagore150japan@jaip.org または office@core100.net
-☏090-9397-8727 (事務局:大場)

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