2010年12月アーカイブ

 東亜同文書書院と内山書店

 東亜同文書書院が、目薬から生まれたといえば驚く向きもあろうと思う。魯迅ら中国の新時代を築いた進歩的知識人のサロンとなった上海の内山書店もまた目薬なくして生まれなかった。戦前の日中交流史に欠かせない二つの拠点が目薬が奇縁となって生まれたことは興味深い。

 まずは、一〇〇年以上も前の東アジアの気候風土に立ち戻らなくてはならない。多くの風土病があり、伝染病も予防すらし得なかった時代、多くの人が患った のが眼病だった。埃っぽいだけでない、竈の煤が原因だったという説もある。その眼病に西洋人がもたらした目薬が効果てきめんだった。その処方をいち早く学 んだ日本はある意味で目薬の製造拠点となった。(共同通信社 伴 武澄)
 その先駆けは岸田吟香だった。岡山・美作の豪農の出身で、日本のジャーナリストの草分けの一人として知られる が、一方で「精錡水」という目薬を売り出した実業家でもあった。一八七七年、銀座に楽善堂という薬局を開店し大いに繁盛し、一八八〇年には上海そして漢口 にも支店を設けて大陸に販路を広げた。起業三年で大陸に乗り出す経営感覚は並大抵でない。楽善堂には荒尾精ら大陸に関心を持つ人々が集まり始め、楽善堂の 支店からは貴重な中国の生の情報が陸続と入り、アジア情報の拠点となる。
 一方、岸田は長岡護美、曽根俊虎らが一八八〇年に組織した興亜会(亜細亜会)を全面支援した。興亜会は後に東亜同文会に発展的に吸収される。長尾は熊本 の細川斉護の六男で外交官となり、後の子爵・貴族院議員である。曽根は米沢藩士の家に生まれ海軍士官となり、日清の相互理解を深めるために一八八〇年、東 京に中国語学校を開設した。

 荒尾は尾張藩士・荒尾義済の長男。陸軍から情報収集のため大陸に赴任し、中国貿易の実務者を養成する日清貿易研究所を一八九〇年、上海に設立した。日清 貿易研究所は陸軍の資金も入っていたが、日常の経費は楽善堂上海支店の売り上げによって賄われていたといわれ、岸田がいわばアジア主義者たちのパトロンと なっていたといってもいいのかもしれない。

 日清貿易研究所は日清戦争を機に閉鎖されるが、実質的に組織を運営していた根津一は東亜同文会を設立した近衛篤麿に請われて上海の東亜同文書院の初代院長に就任する。一九〇一年のことである。
楽善堂の支店はその後も天津、北京、重慶、長沙などへと拡大し、「精錡水」の名は大陸にとどろくことになる。この時期になると楽善堂は単なる薬売りではなくなっている。

 そもそも岸田を目薬につなげたのは横浜の米人医師へボン博士だった。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士は日本初の和英辞典『和英語林集成』を編纂する にあたり、目を患って江戸から横浜に来ていた岸田に期待した。岸田はヘボン博士の元で目の治療をしながら英語力を吸収していた。江戸末期の日本には印刷技 術が未熟だったため、ヘボン博士は岸田を上海に連れて行き『和英語林集成』は当地で印刷された。

 ちなみにヘボンは正式にはヘップバーンだったが、横浜の漁民たちが発音できずに「ヘボン博士」と呼び、しまいに本人も日本名を「ヘボン」で通すようになった。

 和英辞典編纂のお礼にヘボン博士が岸田に授けたのが硫酸亜鉛水溶液の点眼剤だった。

 面白いのは上海に書店兼サロンを経営して中国の進歩的知識人たちを支援した内山完造が中国に赴く契機となったのも同じ目薬だったことである。

 内山は岡山県の生まれで、京都で丁稚奉公をしていた時、京都教会で後に同志社総長になる牧野虎次と出会いキリスト教に入信する。そして一九一三年、牧野 の推薦で大阪の大学目薬店参天堂の上海駐在のセールスマンとなり、漢口、九江、南昌など各地で目薬を売りながら中国人との人脈を深めていく。中国行きが決 まったとき内山は「肉の躍るのを感じた」と後に述懐している。よほど中国への憧れが強かったのだろう。

 内山は上海に拠点をおきながら、商売で家にいることがほどんどなかった。書店を開いたのは結婚した妻が暇をもてあましていたからだった。初めはキリスト教関係の書籍を扱っていたが、客の求めで一般書も置くようになり、数年のうちに上海で一番繁盛する書店に発展した。

 内山書店の開店は一九一七年とされる。中国で胡適らによる白話運動が盛んとなり、内山にとっての幸運は上海がその文芸復興運動の一大拠点となったことである。

 日露戦争後、中国人留学生が大挙して日本を目指したが、第一次大戦中、日本が袁世凱政権に対中二十一カ条要求を突きつけたことにより、多くの留学生が失望し、帰国して上海に拠点を移す人も少なくなかった。

 当時、日本語に翻訳された欧米の文芸書や学術書は中国人にとっても貴重な知識源となっていた。内山書店には在留邦人だけでなく中国人インテリのたまり場になったのは自然の成り行きだった。
内山は参天堂への恩義もあり、書店が繁盛してからも一九二九年まで大学目薬を売り続けたそうだ。
たかが目薬ではあるが、点眼器に入った日本の目薬は瞬く間に中国人にとって家庭の常備薬の一つになった。中国人の衛生向上につながっただけでない、小さくて軽量でありながら付加価値の高い商品だったのである。

 荒尾らは目薬を売りながら大陸情勢の収集に努めたが、岸田に眼病がなかったら、ヘボン博士と出会うこともなく、「精錡水」は生まれていない。日中の心の 交流史を築いた内山の場合もキリスト教への入信がなかったら、参天堂の社員になって上海に赴くことはなかったはずである。歴史は必然ではなく、偶然の賜物 なのかもしれないと考えれば興味が尽きない。

  昨年、中国建国60年を記念して制作された映画「建国大業」を見る機会があった。冒頭に毛沢東と蔣介石が重慶で会する場面がある。1945年9月のことで ある。戦後の中国の経営を話し合うためなのだが、二人が孫文の遺影の前で記者会見し、「お互い孫文の教え子」と語らせるのだ。

 8月、上海万博で梅屋庄吉の孫にあたる松本楼の小坂文乃さんによって「梅屋庄吉と孫文展」も開催された。2011年の辛亥革命100年を前に孫文の再評 価はすでに始まっている。中国共産党にとっても国民党にとっても国父であることに違いはない。というより孫文を介することで中国と台湾の融和が進む。そん な予感がある。

 中国革命に登場する日本人は多い。梅屋庄吉と孫文の関係はアジア近代史の中の秘史に属する。胡錦濤総書記が昨年来日した折り、福田康夫元首相が日比谷の松本楼で夕食会を開いたことで二人の関係を知った人も少なくないはずだ。

 二人は1895年に香港で出合い意気投合する。孫文はその前の年にハワイで興中会を立ち上げたばかりの見習い医者。庄吉は孫文が最初に出合った日本人 で、香港で写真館を経営していた。後にシンガポールで映画と出会い、帰国して日活を設立するメンバーの一人となる。最初の出会いで庄吉は「君は兵を挙げ よ、我は財をもって支援する」と語り生涯にわたって事業で得た資金を惜しげもなく中国革命に投入した。

 胡総書記が庄吉と孫文の契りをどこまで知っていたか知らないが、100年以上も前の日中間の底に流れていた熱い関係をたぶん感じ取ったはずだ。松本楼では「世世友好」と揮毫した。
 話は転じて一昨年前の四月、文京区の白山神社を訪ねたことがある。白旗桜という珍しい名の桜があると知り、満開のときにぜひとも自分の目で確かめたいと思った。白旗桜は白い花弁のオオシマザクラだった。

 源氏の棟梁、義家が奥州に向かう途上、白山神社の前で桜木を見つけ、源氏の白旗をたてかけて、この地から岩清水八幡宮に戦勝を祈願した。そんな伝説から神社前の桜木を白旗桜と呼ぶようになったという。

 そんな感慨にふけっている最中、片隅にある石碑に目がとまった。「孫文」とある。なぜこんなところに孫文の碑があるのかいかぶった。碑文を読むと面白い。

「1910年5月中旬の一夜、孫文は宮崎滔天とともに境内の石に腰掛けながら中国の将来、その経綸について幾多の抱負を語り合った。そのとき、夜空に光芒を放つ一條の流星を見て、この時、祖国の革命に心に誓った」

 宮崎滔天は中国で最も知られる革命支援者の一人である。宮崎滔天全集の中に、当時、孫文は白山神社に近い小石川原町の滔天宅に寄寓していたと書かれてい る。孫文が滔天と知り合ったのは1897年のことだから、すでにこの二人も肝胆合い照らす仲だった。中国語にも翻訳されている『三十三年の夢』には孫文と の出会いから始まりともに行動した日々の思い出がつづられている。

 孫文が白山神社を訪れたのは辛亥革命の前年である。孫文は1905年、自らの興中会と黄興の華興会、蔡元培の光復会を糾合して東京で中華革命同盟会を結 成、1907年からシンガポールに拠点を移して革命資金の調達のため世界を回っていた。この年の5月、ハレー彗星が地球に最も近づいた時期である。流星に 願を懸けるのは中国でも同じだ。義家の故事にならって革命の日の到来を祈願したのだろう。

 日清戦争で日本は中国から台湾を割譲させた。にもかかわらず当時の中国の知識人たちは反日ではなかった。当時、中国には二つの支配があった。250年に 及ぶ満州族による統治の上に、西洋列強が相次いで中国の経済的支配を構築しつつあった。日露戦争で日本がロシアに勝利すると一気に日本留学ブームが訪れ た。1万人を越す留学生が集まり、日本語に翻訳された西洋の新知識をむさぼるように吸収しようとした。早稲田大学は1000人内外の中国人留学生を抱え、 早稲田鶴巻町は著名な中国人人士の集積地と化した。

 日本側にも中国とのつながりに活路を見出す人々が多くいた。政府は脱亜入欧の道をばく進していたが、日中提携を掲げる論者も少なくなかった。中国で起き ている事柄は明日の日本にも及ぶと考え、日中提携して西洋とあたらなければならないと考えていた。頭山満や犬養毅らもまた中国革命に大いなる関心を持って いた。

 1890年、東亜同文会(1898年設立)の前身となる日清貿易研究所は荒尾精らによって上海に誕生していた。荒尾は96年に急逝するが、その意思を継いだのが、宮崎滔天や津軽の山田良政らだった。
良政は、ジャーナリスト陸羯南の愛弟子。陸の意向に従い北海道昆布会社の上海支店勤務となり中国との関わりがスタート。1898年に東京で孫文と出会い、 中国革命への協力を約束する。孫文が指揮した1900年の恵州起義に参戦して日本人初の殉教者となった。良政の中国革命との関わりはたった2年だったが、 中国人たちに壮絶な印象を残した。

 良政の死後、孫文は書を残し、弘前の山田家菩提寺貞昌寺に山田良政の碑が建てられた時、「山田良政君...嗚呼人道之犠牲、興亜之先覚也、身雖殞滅、而志不朽矣」と刻印された。

 孫文は東亜同文書院の学生だった良政の弟、純三郎を重用した。純三郎もまた側近の一人として革命に身を捧げ、孫文が北京で息を引き取った際、妻宋慶齢らとともに立ち会っており、山田兄弟は中国革命烈士として畏敬の念で見られている。

 庄吉や滔天、良政の存在は日本の中国侵略史の中で埋没している。しかし、辛亥革命をともに生きた日本人が少なからずいたこともまた歴然とした史実であ る。中国の経済的台頭によって脅威論ばかりが語られる。岡倉天心が『東洋の理想』の中で「アジアは一つ」と書いたのは1903年のことである。いろいろな アジアがある中で「一つ」でありたいという願望や意思を語ったのである。東アジア共同体が語られる今日、日本でも今一度、同じ目線で辛亥革命の歴史的意義 について考えたい。(伴 武澄)

 前日の続きを書きたい。

 http://diamond.jp/articles/-/1956

 ジャック・アタリはまた 「利他主義」では「マイクロファイナンス」の重要性について語っていた。

 「現在、世界中に貧しい労働者が7億人います。貧しい国、地域には失業者はいません。失業は死を意味するからです。マイクロファイナンスは、貧しい労働 者に少額のお金を貸し付けて自立を支援する仕組みです。貧困対策は決して慈善事業ではありません。いろんな国で貧困が削減されることは、日本の利益ともな ります。たとえば、中国の貧困層が少なくなれば、もっと日本製品が売れるようになるでしょう。これも利他主義ですね。マイクロファイナンスを通じて貧困を 撲滅することが、日本にとっても重要なのです。日本は開発援助に関しては世界有数のレベルに達していますが、マイクロファイナンスに対する理解はまだま だ。世界中の貧しい人たちに補助金を配って歩く必要はないんです。マイクロファイナンスを活用すれば、少ないお金で非常に大きな効果が得られる」。

 マイクロファイナンスはバングラデシュのムハマド・ユヌス氏が30年以上も前に始めた経済の活性策の一つで、 雇用という概念のない同国において、小額の融資を通じて「自らの雇用を創出する」ことを目的としてスタートした。賀川豊彦も100年前に神戸のスラム街に 入って活動したときに貧しい人々にどうやって働く場をつくるかに頭を悩ました。

 今、日本の若者にとっても最大の課題は「雇用」である。企業が人を採用しなくなった。高度成長時代には次の成長のためにどんどん人を採用したが、昨今の企業はどうしたらデフレ時代に生き残れるかだけを考えている。経営のためにまず人員の削減が求められているからだ。

 ではどうしたらいいか。ここは原点に立ち戻って「雇われる道」を模索するのではなく、自ら「雇用を編み出す道」を探る必要があるのではないかと考える。 松下幸之助も本田宗一郎も起業家といわれる人々はすべて自ら「雇用を生み出した人々」なのだ。他人に依存することなく「食い扶持」を自ら創造した人々だっ たのだということを思い出す必要がある。

 北星学園大学経済学部の田渕直子教授も「JA教育文化12月号」に面白いことを書いている。2012年の国連協同組合年について「"国際協同組合年"と"地域"」と題した思いだ。。

 就活に悩む学生に対して、「自らの力で雇用を創れ」と言い、協同組合こそはそういう役割を担って誕生したのではないかと原点に立ち戻ることを提唱している。

「2012年国際協同組合年は、途上国の貧困撲滅を念頭に置いてはいるか、同時に失業という共通の病に苫しむ先進国への処方箋でもある。先進国の協同組合が、自分たちの力で、自分たちの地域に、公共事業に代わる仕事を創っていけるか、その真価が問われているのである」。

 共同通信という会社に30年以上身を委ねてきた自分自身に立ち返るとなんとも弁解のしようがないのだが、定年後には少なくとも自らの仕事を自らで探し出すことを模索していきたいと思っている。

 1年ほど前、ダイヤモンドのスペシャル対談で「勝間和代、ジャック・アタリと『日本の未来』を語る 」と題した対談があった。面白かったのは、キーワードが「利他主義」と「人口政策」だったことだ。

 http://diamond.jp/articles/-/1956

 人の問題に対してアタリが「経済成長のためには人口、貯蓄、技術革新、資源が必要です。この4つのリソースが西洋社会では賄えなくなってきて、移民に 頼っている。アメリカ、ヨーロッパでも技術革新は進んでいますが、実際にそれを担っている人たちは、ほとんどがよその国から来た人だちなのです」といって いた。

 日本経済の停滞が問題となって久しい。日本は技術力も資金もあるのに「なぜ」という疑問があろうかと思う。日本という国の国際化は日本人が海外に進出す ることだった。日本の国内に外国人を招くという発想はほとんどなかった。20年前、日本がバブルのピークを迎えて問題となったのは「労働力不足」だったの だ。外国人労働の可能性について大いに議論されたが、結局、日本は労働市場の門戸開放に踏み切れなかった。実は植民地を多く持っていた欧米諸国にとって労 働市場の開放は自明の理であったのだ。

 現在、日本では雇用が大きな問題となっているが、社会保障の分野では圧倒的な人不足が続いている。賃金の問題もあるが、雇用のミスマッチが依然として続いているということなのだ。

   秋以降、東アジアは風濤に激しく揺さぶられた。日中間では尖閣諸島をめぐって緊張が走った。北方領土をロシア大統領が訪問して日本側が態度を硬化させ た。韓国ヨンピョン島では北朝鮮からの砲撃があり民間人が死亡した。戦争と無縁と考えていた多くの日本人に「国防」の重要性を再認識させた数カ月でもあっ た。

 しかし、紛争とは連鎖するものなのだろうか。水面下で東アジアを揺さるマグマが動き出したのであろうか。東アジア情勢は「日本海を平和の海へ」とばかり に北東アジア経済交流を活性化しようと試みた20年前の動きと逆行し、あたかも100年以上も前の帝国主義時代に舞い戻ったような様相を示している。

 2006年の年頭に「他国を譏らない愛国でありたい」というコラムを書いた。
 http://www.yorozubp.com/0601/060111.htm
「愛郷心や愛国心は、村民であり国民である者のたれもがもっている自然の感情で
ある。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それにしてことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」

 司馬遼太郎の小説の中の一節から、当時の中国での反日デモに対して冷静であるよう求めた。さて、萬晩報はここで一つの提案をしたい。

 世界連邦運動協会の四国地区支部は10月31日四国ブロック大会を高知市で開催し、欧州連合の発端となった欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)にならって 「尖閣諸島を国際管理してはどうだろうか」という宣言文をまとめ発表した。日中の共同管理ではない。手前みそだが、資源をめぐる争いを逆手にとり、国際的 に「共同管理」することによって管理する国際機関を「東アジア共同体」につなげる発想は斬新で各国の理解を得やすい。平成版アジアの「船中八策」ともいえ よう。

 2010年世界連邦四国地区ブロック大会宣言文

 欧州連合(EU)は欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)からスタートした。ドイツとフランス国境のアルザスにある石炭と鉄鉱石を国際管理したのが始まりであ る。アルザスは100年以上にわたりドイツとフランスによって繰り返し国境線が書き改められた。その愚を繰り返さないためにフランス外相のシューマンが 1950年に共同管理を提唱し、各国が賛同して翌年ECSCが誕生した。

 振り返って東アジアはどうだろう。資源をめぐって角をつき合わせてはいないだろうか。9月には尖閣諸島海域で日本の巡視船に中国の漁船が衝突する事件が 発生し、日中間は一気に不穏な政治情勢となった。南シナ海でもアセアン諸国が南沙諸島や西沙諸島をめぐって緊張関係を強いられている。特に日中間はここ5 年、双方の努力によってようやく不信感をぬぐい去ったばかりで、たった一つの事件によって信頼関係はいとも簡単に崩壊の危機に向かっている。双方がナショ ナリズムを高め領有権を主張し続けるかぎり、東シナ海に平和は期待できない。

 いっそのこと、シューマン外相にならって双方が領有権を「放棄」して東シナ海を共同管理してはどうだろうか。東シナ海、南シナ海、さらには日本海やオ ホーツク海は漁業を含めて豊かな資源に恵まれている。その資源を共同管理することは不可能なことではない。環境問題や生物多様性条約に見られるように、不 可能どころか、いまや国や地域が共に汗を流し譲り合わなければならない時代に来ているのではないだろうか。

 もちろん共同管理を考えることはたやすいことではない。アジアの代名詞は長い間、多様性だった。だからアジアに共同体はなじまないと考えられてきた。多 様で違いがあるから分かり合えないのではない。時代に共生や協働が求められていると言えば分かりやすいかもしれない。もはや共通点を語り合えばいいという 時代も過ぎ去った。求められているのは発想をさらに進めて「利害を捨てる」という発想だ。日本固有の領土であり譲りがたい尖閣諸島だが、ここから東アジア 共同体が生まれるという発想には夢がある。

 先人の志を受け継ぐ四国四県の仲間は、今年で37回を数える「世界連邦四国協議会総会」並びに「四国ブロック大会」をここ高知に結集して開催した。偉大 な先覚者たちの偉業に学び、四国から世界連邦運動の再構築とその実現に向けた夢を描き、共に手を携えて、その実現に向け努力してゆくことを決意し、ここに 宣言する。

2010年10月31日
第37回世界連邦四国協議会総会
2010年世界連邦四国ブロック大会

 日産自動車の「リーフ」が12月20日発売される。エコカーの分野ではトヨタのハイブリッド車プリウ スが先行し、国内市場では1年以上も販売台数トップを走っている。日産はハイブリッドではなく、エンジンの力をまったく使用しない本格的な電気自動車に社 運を賭けた。ようやく電気自動車時代の幕開けだと思っていたら、思わぬ落とし穴に気付いた。ほぼ同時に販売を開始したアメリカでは日本の価格の3割近くも 安く設定されていて、米政府の補助金を加味すれば、ガソリン車と遜色のない価格なのである。
 日本の価格は376万円。補助金は78万円だから、実質で298万円。日産のゴーン会長は「300万円を切っ た」ことを自慢にしていた。2011年度までは自動車重量税と取得税が免税で、購入した翌年度は自動車税も半額になるから、ガソリン車を購入する場合と較 べてメリットは決して小さくない。筆者も当初はそう考えた。

ところが、3月31日に発表されたアメリカでのリーフの販売価格は3万2780ドル(306万円、1ドル=93円40銭当時)。7500ドルの税控除を差 し引くと、実質的な販売価格は2万5280ドル(236万円、同)だった。3月末の円ドルレートで計算しても70万円、2割弱も安かったのである。

 本来ならこの時点で問題提起すべきだったが、その価格差に気付かなかった。現実に今日の為替レートである1ドル=83円で換算したアメリカでの販売価格 は272万円。さらに価格差は開き、日本より28%、104万円も安いとなれば話は別である。本来はもっと安く価格設定ができたのではないかと勘繰りたく なる。

 日米のリーフの価格差について日産自動車に質問すれば、「アメリカでの価格発表後に円高が進んだ」という説明も予想されるが、これほど日本の消費者を愚弄した話はないだろう。

 今年度のリーフの目標販売台数の国内6000台、アメリカ2万台はいずれも予約だけで埋まり、アメリカでは予約の受付を一時的に中断するほどの人気だという。そりゃ当たり前だろう。電気自動車の本格的5人乗りファミリーカーが210万円で買えるのだから。(伴 武澄)

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