2010年8月アーカイブ

 8月26日、小沢一郎氏が来月の民主党代表選への出馬を表明した。テレビのニュース速報を見ていて耳を疑った。党内でどんな争いがあったのか分からないが、筆者は小沢氏の立候補はないと高をくくっていた。

 小沢氏の立候補は民主党の分裂、そして連立による自民党の政権復帰を連想させる。そこでほくそ笑むのは霞が関官僚である。16年前のそんな情景を一瞬思い浮かべた有権者も少なくないと思う。

 日本のこの20年の無為無策はもちろん自民党の責任だと思っているが、改革に対して徹底的に抵抗してきた霞が関官僚の存在はとてつもなく大きい。小泉純 一郎元首相が目指し、民主党が継承した政策の大きな柱は「脱官僚」だったのだと今でも信じている。メガトン級の官僚の厚い壁を突破しなければこの国の未来 はない。

 幕末の坂本竜馬もまた幕藩体制からの脱却なくして日本はないと考え、犬猿の仲だった薩摩と長州を一つにした。NHKの「龍馬伝」でも今週末は薩長連合が テーマとなっている。奇しくも先週、4-6月期のGDPが中国に抜かれたというニュースが世界を駆け巡った。アジアにおける日本の役割が大きく変質した瞬 間だった。民主党が政権をとって1年、そんな歴史的分水嶺を感じていた矢先に日本を元の木阿弥に戻そうとしている政治的決断が行われたことにやり場のない 深い思いに沈んでいる。

 いま菅だ、小沢だと争っている場合でないのに!

 国を憂う親しい友人と電話で話したことである。菅直人首相に胆力があれば、解散総選挙に踏み切るしかない。小泉氏が5年前、郵政解散を断行したように菅 首相が解散総選挙を行えば、もう一度、民主党に風が吹くかも知れないのだ。いま日本を救うのは民主党分裂をなんとか回避することである。政権を握って2、 3回、予算編成を行えば霞が関官僚の体質を変えることができるはずだ。有権者はそこまでのがまんが必要である。

 細川護熙内閣がたった1年で瓦解して、自民党・官僚政権に戻った轍を二度と踏んではならない。
 一国を束ねる首相には時には強い意思を国民に示す義務がある。それは民主党代表選ではない。今一度、菅直人なのか小沢一郎なのか国民に問う決断である。たった1年前ではあるが、有権者は自民党に「ノー」を突きつけたのではなかったのか。

 菅直人首相に直ちに解散総選挙の決断を求める次第である。(伴 武澄)

 作家というかジャーナリストの莫邦富がDiamond onlineに「『蛇頭』の絶版に見る中国労働力市場の変化~内陸部にまで広がる「三非」問題 」と題した面白い論考を書いている。
 http://diamond.jp/articles/-/9106

 『蛇頭』という言葉は莫さんが「発明」したことなのかは知らないが、1980年代、改革開放を標榜する中国からおびただしい数の中国人が日欧米に流れ、 不法入国と不法就労を繰り返し問題となった。蛇頭はそうした密航者たちを海外に運ぶネットワークを牛耳っていた人たちのことである。

 中国経済が巨大化し、蛇頭という言葉は聞かれなくなったが、今度はその中国に周辺国だけでなくアフリカなどから多くの不法入国者や不法就労者たちがやっ てきて社会問題化しているというのである。莫さんによれば、「三非」は、外国人の非合法入国(不法入国)、非合法滞在(不法滞在)、非合法就職(不法就 労)のことを言うのだそうだ。
 莫さんは、論考の中で、湖南省衡陽市でこのほど行われた一斉手入れについて紹介している。

 「日本では無名と言ってもいい内陸部の地方都市で、この7月に外国人の不法滞在、不法就労の摘発が行われた。ここ10年で同省最大規模の摘発と表現され るこの摘発作戦で、衡陽市のある照明器具会社で働く23名のベトナム人(うち女性が4名)が検挙され、強制送還された。例の照明器具会社は罰金の処分を受 けた」というのだ。

 なるほどベトナムから「賃金のより高い中国」に不法入国する人が絶えないのか。経済の急拡大、急成長によって中国が労働力輸出の国から輸入の国に転換し たと判断するのはまだ早いだろう。しかし、少なくとも流出だけの国ではなくなったということは大きな変化と見なければならない。

 振り返ってみれば、中国の改革開放政策が始まって今年で32年にもなる。当時、政治や経済を担っていた人たちはほとんどがリタイヤしているだけの年月が 経っている。筆者自身が1977年に大学を卒業して共同通信に入り、来年定年を迎えようとしているのだから、それこそ自分の会社人生は中国の市場経済の歩 みとほぼ重なるといっていい。

 中国経済が労働力という面で転機を迎えたとしても不思議でない。(伴 武澄)

 きょう8月18日はインド独立のヒーロー、スバス・チャンドラ・ボースが台北の飛行機事故で亡くなった日である。杉並区の蓮光寺では午後1時から66回忌の慰霊祭が行われた。この慰霊祭には何回通っただろうか。

 大学時代にボースと出会い、卒業論文に「インド独立とチャンドラ・ボース」を書いたのは33年前のことである。その後一度もインドを訪れたことがない。 にもかかわらずずっと日本とアジアとの関係が気になっている。西洋のアジア支配という視点に目を転じると見えないものが見えてくるはずである。結果的に 20世紀前半の日本はアジアを広く支配する勢力となったが、その裏にあるアジア対西洋という構図があったことを忘れてはならないのだと思う。

 16日の日本の4-6月期のGDP速報値発表によれば、日本のGDPは0・4%増の1兆2883億ドル(ドル換算)となり、同期の中国のGDP(1兆 3369億ドル)を下回った。歴史的分水嶺の日を迎えたのだと感慨深い。中国のGDPはこの5年間で倍増しており、10年以内にアメリカのそれを抜くこと は間違いない。その後にひたひたと迫っているのはインド。人口では中国を下回るようにいわれるが、筆者の認識ではパキスタンとバングラデシュを加えた"イ ンド"の人口は中国を上回っており、いずれインドもまた中国に並ぶ日が来るのだと考えている。

 天国のボースはこのアジアの経済的興隆について何と語るだろうか。

  高知県伊野町にある紙博物館を訪れ、故司馬遼太郎氏が龍馬銅像還暦に寄せていたいい文章を見つけた。このメッセージは昭和63年7月、桂浜の龍馬像の前で 銅像建設発起人物故者追悼会が行なわれた際に司馬氏が寄せたものを、故入交太二郎氏が晩年に大きな屏風に墨書した。入交氏は、早稲田大学在学中の大正15 年夏、土居、朝田、信清氏の3人と坂本龍馬の銅像建立を考え、野村組新聞部の大野氏、高知県青年団を巻き込んで賛同を集めて建立にこぎつけた。桂浜に立つ 龍馬像の除幕式が行なわれたのは昭和3年5月27日であるから、かれこれ3年の年月が経っていた。司馬遼太郎のメッセージをメモしてきたので披露したい。

 ---------------------------------------------------

 銅像の龍馬さん、おめでとう。

 あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。私はここが大好きです。世界中で、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。
 あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に銅像がおかれる空間が大切なのです。その点、日本の銅像はほとんどが、所を得ていないのです。

 昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内して来ました。

 この地が、空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

 大きく弓なりに白線を描く桂浜の砂は、あなたの清らかさをあらわしています。この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、あなたの動かざる志をあら わしています。さらに絶えまなく岸うつ波の音は、すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを物語るかのようです。

 そしてよく言われるように、大きく開かれた水平線は、あなたの限りない大きさを、私どもに教えてくれているのです。

 「遠くを見よ」

 あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。いまもそのことを諭すように、あなたは渺茫たる水のかなたと、雲の色をながめているのです。

 あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃れたあなたを、無限に悲しみます。

 あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知っていた老婦人が、高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまで来て、

 「これは龍馬さんぢゃ」

 とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。

 私は三十年前、ここへ来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通じて、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。

 「全霊をあげて、あなたの心を書く」

 と、つぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。

 それよりすこし前、まだ中国との国交がひらかれていなかった時期、中国の代表団がここにきたそうですね。

 十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさないほどに混乱し、各国から食いあらされて、死体のようになっていました。その中国をみずから救うには、風 圧のつよい思想が必要だったのです。自国の文明について自信のつよい中国人が、そういう借り衣で満足していたはずはないのですが、ともかくもその思想で もって、中国人は、みずからの国を滅亡から救いだそうとしました。ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、そういう歴史の水と火をくぐってきた人 だったのでせう。

 その中の一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。あなたの風貌と容姿を見て、あなたのすべてと、あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。

 殷という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、旅人の死を悼む風習があったといわれています。旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。死せる旅人は、そこへゆくことなく、地上に心を残した人であります。

 殷のひとびとは、そういう旅人の魂を厚く祀りました。この古代信仰は、日本も古くから共有していて、たとえば「残念様信仰」というかたちで、むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲んでいます。

 ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、それでも、かれらは、残念、念を残すのです。

 あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、さらにいえば、人類のたれもに、共通する志というものでした。

 あなたは、そういう私どものために、志をもちました。そして、途半ばにして天に昇ったのです。その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、かつ慄させ、そしてここに立たせるのです。

 さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、あなたを悼むとともに、あなたが、世界中の青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、よろこびをおぼえるからでもあります。

 「志を持て」

 たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいことかを、あなたは、世界中の若者に、ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。

 今日ここに集った人々は百年後には、もう地上にいないでせう。あなただけはここにいます。百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、今日ここに集っているひとびとの願いなのです。私の願いでもあります。

 最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松藾(しょうらい)の音も、あるいは岸うつ波の音も、人類とともに永遠でありますことを。

 よさこいを踊りに高知に帰った。よさこいと龍馬人気で駅前は例年になく活気を帯びていた。駅前広場に設営されたブースで「碁石茶」を売っているコーナーを見つけて話を始めた。碁石茶は高知県の山間の大豊町で栽培・製造されてきた独特の固形茶である。

 かつては誰も知らなかった「すっぱい」このお茶が5、6年前にテレビで相次いで紹介されたことがある。肥満防止に効果があるということが伝わって、碁石 茶が生き返ったのである。コーナーで商品紹介をしていた布元さんによると「注文が殺到して在庫がなくなった年もあります」という。土佐にも「ゆず」に次ぐ だれにもまねの出来ないもう一つの特産品がうまれていたのだ。
 実は、萬晩報は9年前にこの碁石茶を紹介していた。テレビで碁石茶が紹介されたその時間帯に数十通のメールが 寄せられていたのだ。「碁石茶」で検索した人が突き当たったのが萬晩報だったからである。一通ごとに丁寧に大豊町役場の電話番号を書き入れて、役場に問い 合わせるよう返信した。

 地元でもほとんど知られなかったこのお茶を知ったのは、京都大学の先生だった松原毅著『お茶の来た道』(NHKブックス)だった。高知県にへんなお茶があるという記述だったと思う。
 http://www.yorozubp.com/0102/010213.htm
 『お茶が来た道』で驚いたのは雲南省で誕生した固形のお茶が四国の山間でずっと作り続けられてきたという事実だった。松原氏は照葉樹林帯という雲南省から紀伊半島へと続く樹木の帯の存在をお茶と関連づけて「お茶の来た道」を実証しようとしていた。

 お茶が来た道は同時にお米の来た道でもあり、日本文化のルーツを探る道でもあるのだ。司馬遼太郎氏も『峠を行く』シリーズで福建省と日本の文化のつながりについて詳しく紹介していたことがある。

 布元さんによると、昭和の末には一軒しかなかった碁石茶の生産農家がメディアで話題になることで、いまでは栽培農家は7軒に増え、JAと役場による第三 セクターの「ゆとりファーム」も誕生したのだそうだ。筆者にとって碁石茶は単なる高知県産品の問題ではなかった。日本文化のルーツを探る新しい発見の一つ だったのであるが、その発見が碁石茶の復興の一助となったのではないかという喜びもあった。

編集

 2012年国際協同組合年全国実行委員会の第1回会合が8月4日に開催された。代表には経済評論家内橋克人氏、副代表にはJA全中の茂木守会長と日本生協連の山下俊史会長が就任した。昨年12月18日開催の国連総会で「2012年を国際協同組合年とする」ことが採択されたことを受けて関係団体が集まった。

 内橋代表は記者会見で、賀川豊彦が提唱した「協同組合による人格経済」に触れて「国連の提起は、現在の市場が主語になっている社会に対し人間が市場を制御するべきとの認識が基盤になっていると思う。高い理念協同組合自身が足下を固めるというその両方の釣り合いをとりながら各地で様々な取り組みを展開したい」と述べ、この運動の根幹が「助け合いによってつくられる市民社会」にあることを強く宣言した。

 山下副代表もまた昨年の賀川豊彦献身100年記念事業に言及し「賀川豊彦日本生協連の初代会長。救貧活動に身を投じ、人格経済を唱えた賀川豊彦の協同の思想を100年に1度の危機と言われる今日、どう受け止め直しわれわれの事業の核としていくにはどうすればいいか考える契機にしたい」などと締めくくった。

 名誉顧問に就任した宇沢弘文東大名誉教授は、協同組合思想の原点に1891年にローマ法王が世界に向けて発信した文書(回勅)「資本主義の弊害と社会主義の幻想」があると紹介し「すべての人たちが協同して苦しい時代を切りひらくことを強調した重要な文書。その中心が協同。国際協同組合年は非常に意義がある」と話した。(日本農業新聞の記事を中心に編集、文責:伴武澄)

 実行委員として出席した賀川督明さんからは関係者メールで「さまざまなところから、豊彦の話を織り交ぜての発言があり、オーバーに言えば賀川豊彦の"連呼"だった」との報告があった。

このアーカイブについて

このページには、2010年8月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2010年7月です。

次のアーカイブは2010年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ