2010年5月アーカイブ


 2010年4月26日、東京の町を日本交通マークのEVタクシーが走り始めた。アメリカのEVベンチャー企業、ベタープレイスと合同で3台のEVタクシーを3カ月運行する実証実験だ。
 このEVタクシーの面白さは、時間のかかる充電に代えて電池そのものを取り換えるという発想である。ベタープレイスは電気自動車の電池をリースにすることにより、電池自動車の車体価格を低く抑えるとともに充電の手間を省けるとしている。
 現在の電気自動車の最大の欠点は走行距離の短さ。タクシーは1日に約300キロも走るので、タクシーには向かないと考えられていたが、瞬時に電池を交換することで逆に走行距離のハンデを乗り越えたといえよう。
 車両は日産自動車の小型SUV「デュアリス」を,東京アールアンドデーが改造した。交換可能な蓄電池は米A123 Systems, Inc.製のLiイオン2次電池で,容量は17kWh。1回の充電当たりの走行距離は,「70~80km程度」とされる。六本木ヒルズのタクシー乗り場を 起点とし、港区周辺への実車営業を行う。
 現段階で、電池のコストがEVの最大の問題といわれる。一方で走行コスト(電気代)はガソリン車の10分の1程度と経済的だ。自家用車と比べて1日の走 行距離が長いタクシーは燃料にかかるコストが高い分、桁違いに安い走行コストによって、高い電池の導入コストを吸収できるできそうだ。
 ベタープレイスによれば、「大量導入が進めばバッテリーコストと電気代、ステーション償却費の合計はLPG燃料コストを下回る。車種が少ないのでバッ テリーの種類を絞れることもタクシーの利点」という。
 実証実験後は、日本交通が2011年末までに十数台のEVタクシーで営業を続ける考えだ。

 日産自動車のゴーン社長は電気自動車の販売に際して「電池のリース方式」を提案している。このリースという発想をさらに一歩進めたのが「電池交換方式」 といえそうだ。この電池を交換するという発想は、電池をエネルギーの「容器」だと考えれば分かりやすい。ビール瓶や一升瓶は有料だが、1回購入すれば、リ ターナブル容器として摩耗するまで利用者に共有される。問題は電池という容器の価格が100万円とか200万円と高価な点。ハードルは決して低くない。

 エネルギーを自給できる村をつくれたら、と漠然と考えていたことがある。そんなことができるならそこの村長になりたいとも考えた。

 そんな村が四国に現存していることを知ってびっくりした。というより、戦前にはそんな村をそこかしこのあったのだということを再認識させられたという方が正しい。

 エネルギー自給の村は旧別子山村。市町村合併で現在は新居浜市の一部となっている。別子山は江戸時代から住友 が銅山を経営していたところ。日本有数どころか世界的銅鉱山だった時期もある。廃鉱となってから30年以上がたつが、昭和34年、地元の森林組合が別子山 発電所と小美野発電所を建設・経営し、村に電力を供給していた。別子山村では四国電力の送電線は一切なく、村独自の電力体系を持っていて、余った電力を四 国電力に売っていたのだ。

 筆者がエネルギー自給村をつくりたいと思ったのは、まさに別子山村のような村をつくりたかったからである。山村の資源は森林と観光しかないのではなく、水からエネルギーを生みだして、"商品"として販売することも可能なのだ。

 賀川督明さんが関わっている「水の文化」28号に小林久茨城大学農学部准教授はこんなことを書いている。

「30戸規模の集落が発電機を入れて、自分たちの電力をまかなうケースを想定してみましょう。1軒の家庭が1年間で消費する電力は5000kwhぐらいで す。ということは1軒につき1kwの発電設備でまかなえますから、30軒で30Kwの発電機があればいいわけです。仮に1kw100万円として30世帯で 3000万円集めて初期投資し、あとは維持管理のコストを見ておけば採算は取れます。こういう集落が増えたら、不足分が出たり余ったりしたときにお互い融 通しあえばいい。小さな集落がお互いに融通し合うことで、自立していけることが私の描く農村の理想図です」

 実は30kwの出力は軽自動車のエンジンでも優に出せるエネルギー量なのである。洗濯機や冷蔵庫の中古のモーターを水車で回したらどうなるか。モーターは発電機そのものであるから問題はない。

  こんな発想で村を経営したらおもしろいのではないだろうか。村に鍛冶屋が復活して、童謡の「村の水車」のようなことになりはしないか。たぶん3000万円よりずっと安く村の発電所が実現しそうだ。
ずっと考えていたことが何か手に届くところにあるような気がしてきた。

 2008年2月発行の『水の文化』(ミツカン水の文化センター)28号は「小電力の包蔵力(ポテンシャル)」がテーマ。小林久茨城大学農学部准教授が「エネルギー自立型から供給型へ」という論文で報告していた。
 http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_28/no28_d01.html
小美野水系 吉野川水系銅山川 発電方式 水路式 許可出力 1,000kW 完成年月 1959年10月
別子山水系 吉野川水系銅山川 発電方式 水路式 許可出力 71kW     完成年月 1954年3月

 新川の悲惨な生活をともにしながら、賀川はどうしてこういう貧困が起きるのか、どうしたらこういう貧困から脱却できるのか、考え抜きました。

 まずは子どもたちの教育が不安となりました。親が親ですから、子どもたちはほったらかしにされていました。学校へ通う子どもはまれです。勉強してもすぐには金になりません。くずひろいなどはまだいい方です。乞食のお供も救いがあります。かっぱらいや掏摸(スリ)の仲間入りしている子どもたちも少なくありませんでした。

 悲惨なのは、子どもが労働力として"売買"の対象になっていたのです。女の子であれば、料理屋や芸者置き屋に売られることになります。

 賀川は新川に入ってすぐに日曜学校を始めます。キリストの話を聞かせるために、お菓子も用意しました。近所の子どもたちはすぐに賀川の友だちになります。

 食べることも大切です。日本のいまの子どもたちに「飢え」と言ってもたぶん分からないでしょう。お腹がすくから盗みを働く。盗みの動機はきわめて単純でした。賀川自身は新川から神学校に 通い、煙突掃除や近くの事務所でアルバイトもしていました。両親はすでにありませんでしたから、仕送りなどは期待できないのです。賀川の二間の長屋には住 むところがない何人もの"同居人"がいました。お金がないから、毎日、おかゆのようなもので空腹を満たし、一日二食の時期もありました。

 貧民窟の改善事業の第一号として、賀川は安くて栄養のある食事を提供しようと、食堂経営に乗り出します。「天国屋」を開店しました。経営は 中村という乞食坊主にまかせました。ほとんど詐欺師のような生活をしていたのですが、賀川の所に出入りするようになって改心していました。

 清潔で栄養満点、しかも価格は安いということで、初日から大繁盛します。しかし、問題はその日から浮上しました。「無銭飲食」です。食べた 後で「金がない」といわれるとどうしようもない。身ぐるみをはがすわけにはいかない。かといってつけで何回も食べさせ続けることはできない。毎月赤字となりながらも、天国屋は新川アイドルとなりますが、人気があればあるだけ、なんで中村だけがいい思いをするのだという嫉妬心も出てくるのです。善意が嫉妬を育んだのでは新川人間関係に新たな争いの種となります。なんともやるせないではありませんか。

 最後は酔っぱらった客が逆上して、天国屋の机や椅子、鍋釜から食器にいたるまで壊してしまいます。それでも賀川は続けようとしましたが、肝 心の中村は恐くなって逃げ出してしまいます。天国屋は貧民窟に開放した食堂ですから、客を選ぶわけにはいきません。そうなると跡を継いでくれる人もいなく なります。天国屋はいいアイデアだったのですが、短期間で閉鎖されることになりました。

 横山春一著『賀川豊彦傳』から天国屋での顛末を一部引用します。

 天国屋は千客万来の賑やかさであったが、毎日の売り上げ金14、5円に対し、1円5、60銭は、無銭飲食であった。これでは薄い口銭の商売 は成り立たない。中村は「すまない、すまない」とこぼしながらも、励んでいた。

 無頼の徒、植木屋の辰は、女房子供を育てることも出来ないで、幾度賀川の世話になったかわからないのに、中村の盛業振りを見て羨ましく思っ た。 11月30日の夕方、辰は酒の勢いに乗じて、天国屋にどなり込んで来た。「100円貸せ、飯屋をはじめる」と言うのである。中村が5円紙幣を握らせて帰そ うとしたところ、「5円の端金で商売が出来るかい? 人を馬鹿にしている」と腰をかけていた食卓からとび下りて、鉄の汁鍋を土間にたたきつけた。2、30 人分の茶わんも木っ葉微塵に打ち砕いた。

 余勢を駆って、辰は大きな斧を振り降り、賀川の教会にあらわれた。辰は台所の板戸をたたき割って入り込み、障子と言わず、棚といわず、土瓶から釜から、テーブルまで、しっかり叩き壊してしまった。

 この物音に、裏の喧嘩安が、赤く錆びた刀を引き抜いて、裸体のままでとびこんで来た。賀川は2人の酔っ払いを喧嘩させては、どんなことにな るかも知れないと思って、「安さん、わかった、わかった」と後から抱きついた。そこへまた、通称「秀」が、消防手の風体でとび込んで来た。辰は秀の止める のもきかないで、表から隣の家へ廻ったかと思うと、下駄のまま教会に上がって、オルガンを叩き壊している。蓋は飛ぶ。鍵盤は散る。

 賀川は辛うじて喧嘩安を、家につれ戻して、引き返して見ると、二つの椅子を滅茶苦茶に壊し、三つ目の椅子にかかろうとしている。辰は賀川を見つけると、椅子をすてて、とびかかって来た。

「こら、青瓢箪!」

と、賀川の胸倉をつかんで、下駄ばきのままで腹を蹴る。秀は荒縄を持ってきて、辰をねじ伏せた。巡査が来た時には、辰は縛りあげられた まま、教会の入り口に、酔いつぶれていた。

「酔いがさめたら、本性に帰りますから、このままにしておいて下さい」

と賀川は言ったが、3人の巡査は辰を引き起こして、1人は辰の左の腕をもち、1人は右の腕をもち、後の1人は立つの首筋をつかまえて、引っぱって行った。

 辰は交番でも暴れるので、巡査は消防手を頼んできて、荷車の上に縛りつけて、本署に送ることにした。無頼の夫をもって、日頃から虐待の限りをつくされ、生傷の絶え間もない女房だが、荷車にがんじがらめに縛りつけられた夫の姿を見ては、4人の子供をつれて、荷車にとりすがって泣きくずれた。4人の子供も、わっと一度に大声で泣きだした。

 長屋の人々は、毎日天国屋に来て、満足していたが、天国屋の食い逃げは、相変わらず会計をおびやかしている。この損失を全体に割りつけるならば、どうにかやれないことはないだろうが、救済の意味を含めて始めた、この天国屋では、それも出来なかった。

 新川での一夜

 後に同志社大学の総長になる牧野虎次は賀川より20歳も年が上でしたが、賀川を終世、先生を呼んでいました。

 ある夏の夜、新川で 開かれた伝道集会で話をしました。集会が終わって、牧野は賀川の長屋に泊めてもらうつもりでいましたが、賀川は「君は特別待遇だ」といって2階の診療室に 案内されました。診察台の上に洗濯したてのシーツを二枚重ねてその中で寝ましたが、1時間もたたないうちに体中がチクチクしてきました。電気をつけてみる と、シーツの上に黒ゴマをまき散らしたように南京虫がうごめいていて、牧野はゾーッとしました。

 眠れないので、窓から外をみるとまた驚くべき風景に息の止まる思いをします。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。「まるで女性サタンがゲヘナで餌物を奪い合っているとしかみえない凄い様相であった」と『神はわが牧者-賀川豊彦の生涯と其の事業』に書いています。

 賀川はただ汚くて臭い場所に住んでいたのではないのです。牧野は同じ本に次のように賀川のことを書いています。

「翌朝先生に導かれて部落内を見て回ったが、白くも頭、トラホームの子どもたちが先生を慕うて寄りそうて来るのを、一々抱きかかえるように愛撫せられる様子は、丁度伝記に読むアシシのフランシスを想わせるものがあった。先生こそ主なるキリストと共に"人々の悩みを負う"悲しみの僕であられたと思う」

 キリストがライ病(ハンセン病)患者の肌を触って治すという場面が聖書にあります。私にはできないことだとずっと思っていました。賀川が新川でやっていたことはまさにそういうことだったのです。

 私はアフリカで一夜だけ木賃宿のようなところに泊まって南京虫に数カ所食われたことがあります。南京虫との出会いはその一回かぎりです。毎日、南京虫に嚙まれる生活はとてもではありませんが考えられません。

 自由だとか民主主義だとかを叫ぶ前に人間の根本に立ち返ると普通の人間にできないことを、新川での賀川は神の御名のもとに普通にやっていたということなのです。

 賀川はよくインドガンジーと対比されました。共に魂の救済を求めて徒手空拳からスタートし、多くの共感者を得ていきました。ガンジー弁護士としてのスーツ姿をやめて、糸から紡いだガーディーというインド風の着物をまとい村から村へと伝道しました。イギリスの支配をなんとも思わなくなった人々に対してインド精神の復活を鼓舞しました。サチアグラハといって、巨大な暴力に対して無抵抗で対峙するよう人々に求めました。しかし、ガンジーの場合、インド貧困にまで救済の手を回す余裕はありませんでした。

 明治明治、昭和と貧困や病気と戦った日本人が多くいました。石井十次岡山で3000人の孤児を育てたことで有名です。石井筆子は、滝乃川学園を創設して知的障害児教育に生涯をかけて取り組みました。井深八重はハンセン病と誤診されて送られた神山復生病院で、献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け、ハンセン病に生涯を捧げました。戦後には、沢田美喜エリザベスサンダースホームを創設して混血孤児2000人を育て上げました。李王朝殿下に嫁いだ李方子は韓国知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立して、援護活動に尽力しました。賀川が際立っているのは、人々を救うことだけで終わらず、どうしたらその原因を取り除けるかを考え実践したところでした。

 若き日の評論家、石垣綾子さんは『死線を越えて』を読んで賀川の元を訪ねました。弟子にしてもらおうと考えたのです。1922年のことです。初対面の賀川についてこんな言い方をしています。

「トラコーマに侵された片目には、黒い眼帯をかけている。眼帯をしていない方の目も真赤にただれ、その赤い目をじっと私に据えた」
石垣さんは賀川に新川に飛び込んできた心情と覚悟を話しました。
賀川は「あなたがここで働きたいなら、まず貧民窟を見なくてはいけませんね」
といって、近くにあるイエス団友愛救済所を案内しました。
「あなたが本当にここで生活する気なら、今夜お風呂に入っていらっしゃい。できますか」
と言われ、夕食後に賀川夫人に銭湯へ連れていかれました。
「浴槽の中に片足を入れると、底に溜まったどろどろの垢が足の裏にどろりと触った。私の身体は一瞬動かなくなった」
「これができなくては、先に進めないと私は自分を鞭打った。一旦たじたじとなった私の心は、どのように無理強いをしても、沈み込むばかりだった」
「その夜、固いせんべい布団にくるまった私は、どうしても眠れなかった。四方から貧困の臭いが発散してくる。身体にまとわりつく汚濁のぬめりが私を突きのめした」
「お嬢様の生活の苦労も知らないセンチメンタリズムだとは考えもせず、向こう見ずの真剣さで」

 石垣さんは夢破れ一夜にして新川を逃げ出したということです。この顚末は79歳の自伝回想『我が愛 流れと足跡』(昭和57年、新潮社)に詳しく書かれてあります。赤裸々な描写による貧民窟内部の極貧の実態と、それに向きあった「新川の先生」の非凡さ、とすごさを、あらためて我々に教えてくれるのです。

 賀川豊彦は1888年、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として神戸に生を受けました。4歳の時、相次いで父母を失います。純一は徳島県豪農の賀川家に婿入りしますが、本妻とは折り合いが悪く神戸でかめと生活していたのです。5歳の時に姉と共に徳島の本家に引き取られますが、父の回漕業を引き継いだ兄が事業に失敗、徳島の家産は抵当に入っていたため、すべてを失います。叔父の家に引き取られて、旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通い、1905年明治学院高等部神学予科に進みました。1907年からは新設の神戸神学校(神戸中央神学校)に通学していましたが、結核に苦しみ、医者からは「余命幾ばくもない」ことを言い渡されます。やがて「短い命ならば、貧しい人たちのために生きたい」と新川に住み込むことを決意したのでした。

 賀川が新川に移り住んだのは、1909年12月24日でした。クリスマスイブです。小さな手押し車に行李三つと竹製の小さな本棚を載せて、通っていた神戸神学校からの坂をとぼとぼ下りてきました。三畳と二畳の小さな空間は1日7銭でした。格安だったのは前の年、その家で人殺しがあって幽霊が出るとのうわさがあったからです。

 この幽霊長屋はもちろん賀川の居宅でしたが、同時に教会であり、救済所でもありました。しかし教会らしい什器備品もなく、救済所らしい設備もありませんでした。たぶん日本一小さい教会であったはずです。後に隣接していた三戸の長屋も次々と借りて、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていました。

 家賃が日単位だったのは、住んでいた人たちがみんな日ばかりで暮らしていたからです。貧民窟には木賃宿も多くありました。大部屋にたくさん の人がそれぞれの場所を占拠して住んでいました。布団のない人は宿賃のほかに布団代を払うのです。七輪を借りてご飯も自分でつくります。

 宿というといまでは旅行で泊まる場所のように考えますが、当時は家がないため木賃宿に住んでいた人が少なくなかったのです。車引きだとか日雇いの人夫は多くが木賃宿を住みかとしていましたから、貧民窟に家を借りられる人はいい方だったのかもしれません。

 新川の家はほとんどが茅屋でした。雨戸などあるはずもなく、障子もボロボロ、吹きさらしです。便所は供用で、朝などは込み合うため、結果的に大小便が垂れ流しとなり、臭気が鼻をつきます。衛生観念はゼロです。子どもたちはほとんどトラホームに罹っています。

 賀川の弟子となった牧野仲造は当時の新川の様子について『百三人の賀川伝』の中で「1909年のクリスマスイブ」と題して次のように回顧しています。

 ここに住んでいるのは病人、身体障害者寡婦、 老衰者、破産者といった落伍者でした。 家賃は1カ月5銭、薪1把2銭、木炭1山2銭、1畳間に夫婦2組で同居し4畳半に11人家族が住んでいることもあ りました。1戸当たり平均4・2人がすんでいました。職業は仲仕、土方、手伝人夫、日雇人夫、ラオすげかえ、下駄直し、飴売、団子売、辻占、屑屋、乞食な どで、児童の通学者は100人の中3人、新聞購読者は1人もなく、婦人でハガキの書ける者はありませんでした。

 そこは暴力の街で、腕力の強い者が兄貴になり、最強者が親分でした。傷害罪を犯したことが自慢の種となり、殺人罪の前科は親分の資格になるというわけでしたから、弱いものだけが苦しみつつ働いているのでした(『百三人の賀川伝』牧野仲造「1909年クリスマスイブ」)

 農村の貧困層が都市に流れ着くというのは産業革命後のイギリスでも同じだったようです。今でもマニラのマカティ地区は有名です。流れ者たちが都市の一角に貧民窟を形成したのは自然の成り行きだったのです。東京にも多くの貧民窟が生まれています。紀田順一郎横山源之助ら当時の新聞記者がおもしろがって、『日本の下層社会』『東京の下層社会』など貧民窟の体験記事を多く書いています。

 賀川の長屋にはいつも6、7人が居候していました。食事代だけでも大変です。貰い子の葬式代はバカになりません。賀川に借金を迫る者はまだ いい方で、暴力づくで金をゆする者もいました。そんな時でも、賀川は黙ってあるだけのお金を渡していたのです。まさに事件が相次ぐ日々だったのです。

 一番、悲しかったのは大切な蔵書がしょっちゅうなくなることでした。近所の奥さんが勝手に上がり込んで蔵書を持っていってしまうのです。しかし、その奥さんが警察に捕まって盗難届を出せと連絡があっても賀川は出さず、耐え続けるのです。

 賀川自身が後に「貧民窟10年の経験」に「説教する勇気を持たない」とまで語っています。

病人の世話--最初の年は、病人の世話するなど気はありませんでしたが--(中略)1ケ月50円で10人の食の無い人を世話することに定めて居たのでした。然し来る人も来る人も重病患者であることには全く驚きました。私は病人の中に坐って悲鳴をあげました。

賭博--博徒と喧嘩はつきもので、私は「どす」で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました、淫売の亭主が、その女の番人であるには驚きます。その亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。

淫売の標準は芸者で、博徒の標準は旦那であるのだ。芸者も、旦那も遊んで居て食へる階級である。もし貧民が遊んで反社会的なことをして悪いと云ふなら、芸者と旦那を先ず罰せねばならないのである。此処になると、社会の罪悪が今日の産業組合の根底にまで這入って居ることを思うので・・・、説教をする勇気を持た無いのである。(賀川豊彦『人間苦と人間建築』「貧民窟10年の経験」から)

 賀川はこの新川の家で、毎日5時に起きた。日曜日は5時から日曜礼拝、それから讃美歌伝道に出掛けました。路地から路地へと賛美歌を歌うのです。やがて賛美歌が日曜日の目覚まし時計のようになりました。それが終わると今度は子どもたちのための日曜学校です。お菓子が振る舞われるので子どもたちは賛美歌伝道が始まると家を飛び出して賀川の後をついて回ったのです。「説教をする勇気もない」と語る一方で賀川には小さきお弟子さんたちが何人もいました。

 「私のお弟子は三人四人
  鼻垂れ小僧の蛸坊に疳高声の甚公は私の一と二の弟子で、
  便所の口まで追いて来て私の出るのを待っている乞食の「長」は三の弟子、
  クリスマスの前の夜、出口さんのご馳走に、
  お前はしらぬが、鯱ちよこ立ちしたよ。
  お父さんとや云えぬが、テンテイと呼べる、鍋嶋のお凸は四のお弟子。
  売られて行くのが悲しさに
  うちの戸口で半日泣いた今年十二の清ちゃんは私の可愛い女弟子!
  『涙の二等分』」

 子どもたちは日ごろ、親から罵られたり、叱られたりばかりしているので、愛に飢えていました。ですから、「先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜び」(武内勝の語り)でありました。

第二章 賀川豊彦の献身

 涙の二等分

 賀川豊彦は1919年に『涙の二等分』という詩集を発表しました。無名の伝道者の詩をよく出版社が本にしたものです。神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という「商売」があったことを知り、なにより悲しみました。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった不義の子どもを5円とか10円でもらって来て飢え死にさせる商売です。

 貧民窟という語は死語です。メディアでは使ってはいけない言葉の一つになっています。当時の雰囲気を伝えるためにあえて使います。賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟10年の経験」を次のように書いています。

 明治の末期といっても「貰い子殺し」がまかり通るはずもありません。犯罪です。でも産まれたばかりの子どもの「間引き」がまだまだ社会の必要悪として横行していました。新川に入って一週間後、賀川は立て続けに「貰い子」の葬式をするはめに陥ります。

 私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有っ て、そこへ口入屋あたりから来るものと見えます。そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけで、4人も5人も手を換へて居ります。それで初めは 衣類10枚に金 30円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金20円と衣類5枚位になり、第三の手に移る時には金10円と衣類3枚、第四の手に移る時には、金5円 と衣類2枚位で移るのであります。之と云ふのも現金がほしいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良とし て届出すものです。

 ある時、賀川は警察署で貰い子殺し容疑で検挙された産婆が連れていた乳飲み子をもらってきて育てようとしました。この子が手に小さな石を握っていたことから「おいし」と名付けました。でも長生きはできませんでした。まもなく賀川の腕の中で死んでしまいました。

 賀川豊彦の一途さの一断面を理解していただくために、その一部を掲載したい。賀川の膨大な著作は不思議なことに『涙の二等分』を含めて最近まですべて絶版となって古本屋でしか求めることができなくなっていました。

  涙の二等分

  おいしが泣いて目が醒めて
  お襁褓(しめ)を更えて乳溶いて
  椅子にもたれて涙くる
  男に飽いて女になって
  お石を拾ふて今夜で三晩夜昼なしに働いて
  一時ねるとおいしが起こす
    ............ 略 ............
  え、え、おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ
  力もないに
  こんなものを助けなくちゃならぬと教えられた私
  私も可哀想じゃね
    ............ 略 ............
  あ?おいしが唖になった
  泣かなくなった
  眼があかぬ死んだのじゃ
  おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ
  南京虫が──脛噛んだ──あ痒い
  おい、おいし!
  おきんか?
  自分のためばかりじゃなくて
  ちっと私のためにも泣いてくれんか?

  泣けない?
  よし.........
  泣かしてやらう!
  お石を抱いてキッスして、
  顔と顔とを打合せ
  私の眼から涙汲み
  おいしの眼になすくって.........
  あれ、おいしも泣いてゐるよ
  あれ神様
  あれ、おいしも泣いてゐます!

 歌人与謝野晶子は、この詩集に序文を寄せました。

「賀川さんのみづみづしい生一本な命は最も旺盛にこの詩集に溢れています」
「現実に対する不満と、それを改造しようとするヒュマニテの精神とは、この詩集の随所に溢れていますが、私は其等のものを説教として出さずに芸術として出された賀川さんの素質と教養とを特になつかしく感じます」

 すでに与謝野晶子は賀川の貧民窟での活動に注目していました。詩人は人生や世の中の苦しみや悲しみ、時として喜びを表現する人々です。身の回りの日常を素材にして人々の心を揺り動かすのが詩です。金子みすゞの詩の世界を思い起こさせます。

 日露戦争に勝利し、明治も終わりになろうとしていたころ、日本には「貰い子殺し」などという習慣があったことに驚きを禁じ得ません。数年前、熊本市の病院が「あかちゃんポスト」と称して、お母さんが育てられなくなった赤ちゃんを引き取ることを始め、賛否両論、大きな議論を巻き起こしましたが、100年前には「貰い子殺し」は多く起こりすぎて新聞に載るほどの事件でもなかったのです。

 「おいし」を読んで私は胸をぎゅっとつかまれた思いに捕らわれました。特に「おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ」の段は涙なしでは読み過ごすことができません。肺結核を患いながら貧民窟に入って自らを犠牲にしながら貧しい人たちと共に生きる。話したり書いたりすることは簡単です。賀川豊彦という人はアメリカ留学を挟んで約15年間も神戸の葺合新川地区に住み続けたのです。


2010年05月09日(日)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

先週末ユーロ 圏諸国と国際通貨基金(IMF)は、財政危機にあるギリシャに3年間で1100億ユーロ(14兆円)規模の共同融資を行うことを決定した。インターネット で日本の反響について読んでいると「EUの選択:統合か解体か」という記事が目にとまる。これは5月3日付けの英フィナンシャルタイムズに掲載されたもの でhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3400で読むことができる。

その要旨は今回の救済政策の真意がポルトガルなどの他の国々に波及することを阻止する点にあり、ギリシャの財政再建につながらないとする。数字と今からこ の国が直面する状況(歳出カット→経済活動衰退→税収低下)を考慮すると、赤字も増大するいっぽうで、いつの日か債務再編が避けられない。
次にギリシャだけでなく、今後ポルトガル、アイルランド、スペインに火の粉が飛んで来ると、1兆ユーロ以上の支援が必要になる。どこの国民も他国の赤字の 補填をのぞまないのでEUは解体するしかない。そうならないためには、ユーロ圏全体で共同ユーロ債を発行したり、加盟国の財政主権を廃止したり、また他の 加盟国に対する救済を禁するリサボン条約・125条を廃止したりするなどして統合を前進させるしかないという。

今から私の感想をしるす。
確かにギリシャの実体経済を厳密に検討すれば財政再建など至難の業であることがわかる。また他のPiigs諸国にソブリン債危機が波及することも阻止でき ない。これまでの経過からわかるように、格付け機関のご託宣があって市場が購入を控えたら国債利回りが上昇し大騒ぎになるからである。

ここまでは私も筆者に同意する。でも今どき購入した国債が絶対もどると確信できる国があるのだろうか。少し前に超優良とされるドイツ国債の30年モノが 残ってしまって話題になった。助けることを期待されているドイツだってその財政は火の車である。今回ドイツが重い腰を上げたのは米国から圧力があったから といわれる。というのは、ソブリン債危機が先鋭化し国際社会が敏感になったら、米国も困るからだ。

今年の2月25日付けのワシントン・タイムズに掲載された記事には「バーナンキFRB議長が、昨日の水曜日彼らしくない露骨な口調で議会に対して、米国も まもなくギリシャと同じような財政危機に陥る危険があると警告した」とあり「10年後とかった先のことでない。この怖れが現在市場を動揺させている。(毎 年発生する1兆ドル以上の財政赤字の)持続可能性についてボンド市場がいつなんどき心配しだしても不思議でない。私たちは今日にも利回りの上昇に直面する かもしれない」というバーナンキ議長の発言が引用されている。http://www.washingtontimes.com/news/2010 /feb/25/bernanke-delivers-warning-on-us-debt/

バーナンキ議長からみたら、米国だけでなく、断トツで別格の日本を筆頭に、また英、独、仏などの多くの国々も、多かれ少なかれギリシャと似たような状況に あることになる。財政赤字を抱える国のあいだに相違があるとしたら、それは先頭のほうを走っているか、それとも少し遅れて走っているかで、いわば程度の差 である。< /span>

ここでいう財政赤字は一度限りのことでなく、借金返済のための借金を繰り返す状況が継続する現象である。上記のバーナンキ議長の発言にもあるように、怖れ とか不安とかいった漠然とした気分が人々の意識の底にあって、財政に関して心配したり問題にしたりしないでいようとする暗黙のコンセンサスができていて、 これが財政赤字の「持続可能性」を支える。ところが、何かの拍子でこの暗黙のコンセンサスにひびが入って、この気分が具体的な心配に変わった途端、事態は 収拾できなくなる。この事情は、童話にでてくる、子どもが「王さまは裸だよ」と叫ぶ状況に似ているかもしれない。

昨秋ギリシャは財政赤字・見通しを3,7%から12、5%に修正した。当時、この国の統計があてにならないことが昔から知られていたと人々から指摘され た。私もどこかで読んだ記憶があって知っていた。この事情も、心配したり問題にしたりしないでいようとする暗黙のコンセンサスをしめす。でも該当国自身が 粉飾決算を認めたことで「裸の王さま」的状況になり、この暗黙のコンセンサスが維持できなくなった。

どこの国も叩けば埃が出るのに、国際社会はそれ以来「借金を踏み倒す国」ギリシャのバッシングにはげむ。こうするのは、「借金を踏み倒さない国」の存在を 自分にむかって間接的に強調することであり、財政赤字の「持続可能性」を支える心理的コンセンサスの修復につながるからだ。

一度、昨年選挙に勝って登場したギリシャ新政権が前政権の数字を踏襲して知らん顔をしていた場合を想像するべきで、今でもこの国の国債が買い続けられていたと思われる。このことからも、国際金融が実体経済からいかに乖離しているかが、わかるのではないのだろうか。

最後に、上記の記事の中で指摘されているEUの「統合か解体か」の二者択一にふれる。これ以上統合を前進させることは不可能に近い。というのは、庶民や一 般大衆が欧州統合やユーロに対して抱く反感がこれまでも強かったが、ギリシャ危機で今後ますます強まるからだ。となると解体するしかないが、でもそうなら ない可能性もある。
欧州中央銀行は、2008年の金融危機以来、銀行救済のために格付けがトリプルB以上の債権を担保として認めることにしていた。昨年末この規則を延長した が、それはギリシャ国債を担保として受けいれるためである。今回のユーロ圏加盟国の融資合意後も、欧州中央銀行はギリシャ国債を今後も担保として認めると 発表した。http://www.ecb.europa.eu/press/pr/date/2010/html/pr100503.en.html 金融機関はこうして紙切れ同然のギリシャ国債を担保にして資金を供給してもらうことができるので、この措置は欧州中央銀行による強力な援護射撃である。

今後ポルトガなどの他の財政赤字国にソブリン債危機が波及する可能性が強いし、その兆候が見られる。欧州中央銀行は今後、国際金融市場からの圧力に対抗す るために、危機に陥った国の国債を購入するなど、より柔軟で狡猾な金融政策を展開すると予想される。中央銀行がすることは、お金を提供したり貸したりする 話と異なって、(大多数の政治家を含めて)普通の人にはピンと来ない。だからこちらで対抗するほうが得策であるかもしれない。

ジャンクボンドを担保として認めることも、また自国政府・発行の国債を購入することも、けっきょく紙幣の増刷に等しく、安定通貨(=良貨)を重視する中央 銀行がしてはいけないことである。とはいって、米国や英国などの中央銀行もかなり前から盛んに実行していることである。「悪貨は良貨を駆逐する」でユーロ 圏が解体する道をたどらないために、欧州中央銀行がこのような処置にでるのもしかたがないことかもしれない。

 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。

 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っていたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だった。

 200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようである。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉 だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だった。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていた。しか も多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方だった。

 そうした状況は100年前の日本でも同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでてこないが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いない。

 ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することだった。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えた。お酒についてはオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだった。

 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売した。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもあった。

 この建物は現存しているが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずだ。

 ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド(40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。つまりお金の価値を高めたのである。

 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなった。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれた。

 労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えた。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々はオーエニーズと呼ばれた。ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニア・ソサエティー」設立にこぎつけた。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めた。

 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングオートミール小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めた。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていた。

 彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにあった。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合った。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視-という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものである。

 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大した。日本で本格的な生協が登場したのは1920年のことである。賀川豊彦が8月、大阪市に有限責任購買組合共益社を設立したのが嚆矢(こうし)である。(伴 武澄)

 2004年6月初旬に一週間ほど南スコットランドを歩いた。グラスゴーの酒場で一人の日本人に出会い、ロバート・オーエンのことが話題になった。近郊にオーエンが繊維事業を始めた場所で、いまでは世界遺産に登録されているニューラナークという場所があることを知らされた。

 翌日、ラナーク行きの電車に乗り、1時間ほどで町のバスに乗り継ぎニューラナークに向かった。ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせている。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る。空気がとてもおいしい場所だった。

 ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼる。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げた。ワットが蒸気機関を発明したのは1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことであるが、イングランドマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていた。

 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからである。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設した。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができた。現在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出した。

 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせだった。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれているが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていたのだ。

 次いで取り組んだのが児童への教育だった。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていた。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばん初等教育をさずけた。

 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあったが、当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことだったのだ。

 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことだった。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れた。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っている。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのだろう。

 オーエンはイギリス各地で起きていた労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着いた。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが経済効率につながるという理念に到達していたのだった。

 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚いた。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていた。日本でもロンドンでもスラムは貧困と不衛生、そして犯罪の巣くつとなっていた。

 オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観-人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条件改善の必要を説いた。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得た。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民への講演』で社会主義的発想へと一気に昇華した。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けられる必要がある」と語りかけた。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのであった。

 オーエンがその後、あまた排出する思想家経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということだ。賀川豊彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くある。(続く)(伴 武澄 2004年06月20日)

 ロバート・オーエン再発見(2)

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