2010年4月アーカイブ

 とある会合で、法務省関係者が言い出した。
「日野富子って知っているよね。室町時代の八代将軍、足利義政の正室。結婚しても足利富子を名乗らない。鎌倉幕府の源頼朝の妻は北条政子。この人も源氏を名乗ったりしない」
「夫婦別姓ってこと」
「そう。明治政府は明治9年3月17日の太政官指令で"妻の氏は『所生ノ氏』(=実家の氏)を用いることとされる"っていっているのだ。つまり明治の初期は別姓だった」
「いやぁー、知らなかった」
「夫婦同姓となるのは明治31年の民法制定からでしかないのだよ」
「いやぁー、おもしろい。韓国で別姓なのは、家に入れてもらえなかっただけで、とりたてて女性を尊重して同姓にしなかったのではないと聞いたことがある。うちの家系図に妻が出てこないのはおかしいと母親が言っていたことを思い出すな」

 こんな会話が続いた。夫婦別姓論の是非を論じたのではない。どちらの姓を名乗ろうと、筆者は別の姓を名乗ろうとどちらでもいいと思う。

 江戸時代まで「姓」は「氏」といった。そのむかし「姓」は「かばね」で、天皇から与えられた家の尊称だったはずだ。「藤原」は「かばね」で、一条だとか 近衛、鷹司などは「氏」なのだ。多くは住んでいた地名を「氏」とした歴史がある。「かばね」のない人々も同じように地名を「氏」としたケースが多い。

 結婚は同じ血が交わらないように少なくとも隣村から嫁が迎えられた。村の中では同じ氏を名乗る人々ばかりだったから、妻が別姓を名乗るのはかなり肩身の 狭い思いをさせられたのではないかと考えてしまう。もちろんたとえ氏があったとしても「姓」で呼ばれることはほとんだなかったはずだから、戸籍がない時代 には同姓であろうが別姓であろうがどうでもいいことだったに違いないのだ。

 30年近く前に結婚したときに、連れ合いになる現在の妻には「伴の姓を名乗って欲しいと求めたことがある。そのときは一緒に苦楽を共にしてほしいといった意味で求めたのだと思う。

 法務省の「我が国における氏の制度の変遷」
 http://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html

 賀川豊彦賞を授けたい二人目の人物と最近出会った。2002年から6年間にわたりカブール戦災孤児救済を続けた生井隆明さんだ。頭部に弾丸が残ったままの少女ファチマちゃんが日本で摘出手術を受けたというニュースは記憶にあると思う。その少女を奇跡的に発見して日本に連れてきたのが生井さんだった。

 生井さんは、東京都文京区で長くストレスセラピーを営んできた。独学で精神医学ストレス医学を身に着けて開業。阪神淡路大震災では被災者ストレス障害ケアのボランティアを務め、台湾震災でも被災者のためにスタッフを派遣した。

 2001年10月、アメリカによるアフガニスタン空爆が始まると、いても立ってもいられなくなり、翌月にはパキスタン難民キャンプに足を運んだ。目の当たりにしたのは、親を空爆でなくした子どもたちの悲惨な姿だった。普通に親をなくすだけでも大変なストレスとなる。そこにいた子どもたちは目の前で親を殺された子どもたちだった。

 生井さんは2002年4月、NPOアジア戦災孤児救済=AWOA)を立ち上げ、5月にはカブールストレス・クリニックを開設した。

「無謀といえば無謀です。イスラマバードから一席空いていたチャーター機に乗り込んだのです。運よく臨時政府NPO長官と接触がとれて人づてにスタッフを増やしていきました。親を失った子どもたちは群れをつくってカブールを目指していました。アフガンで孤児のことをヤティームといいます。そのヤティームたちは田舎では食べられないので何百キロも歩いてくるのです」

「最初、街角ごとにプラカードを立てて目につくようにしました。カブールに やってきた孤児たちをわれわれのクリニックに来てもらうためでした。いい女医さんの協力を得ることができました。すぐに私がパダル(お父さん)とよば れ、、彼女がマダル(お母さん)と呼ばれるようになりました。親代わりがまず必要だったのです。ヤティームたちは精神的にも肉体的にも大変なストレスの固まりなのですが、抱き締めてあげることが一番重要なことなのです。ぬくもりでしょうかクリニックでお世話をしたのは5000人ですが、往診も含めると3万5000人ぐらいになりましょうか」

「私の仕事はヤティームたちのストレスを取り除くことですが、自立の道も模索しました。農場をつくり、鶏を飼いました。卵を売れば現金収入になります。卵を産まなくなれば鶏は高値で売れます。職業訓練を兼ねた事業です。カブール大学の医学部と接触して、学生たちにストレスセラピーを覚えさせるプログラムも提供しました。これは大ヒットでした。現地の日本大使館から2-3億円の申し出があったことが、大学側を刺激したのです」

「問題は命の危険でした。外出時にはいつもガードマンに付き添ってもらう必要がありました。寝る時には枕元にカラシニコフがありました。片時も心が休まらないのです。治安は日に日に悪化して、大統領府から撤退要請がありました。街のモスクの 長老たちが守ってやるというので1年間はがんばりましたが、2007年に現地スタッフに事業を委ねる決断をしました。しかし私の後任者はその1年後にマザ リシャリフで爆殺され、事業すべてを断念することになりました。無念でしたが、私自身の精神状態も限界にきていたのです」

「お金ですか? 5000万円ほど使いました。私と家内の蓄えと支援者からの借金です。さっき話した外務省からの申し出は使っていません」

 アメリカは来年、アフガニスタンから撤退すると明言している。生井さんが心配しているのは子どもたちのことだ。アフガン復興に向けて各国からの経済協力があるだろうが、戦災孤児にまでは手が回らない。というより国連にさえ孤児を救済するようなプログラムはないという。なんとか2年前まで続けた事業を再開したいというのが、生井さんの強い意思だ。

 生井さんを突き動かすものは何なのか。孤児たちが強いストレスに悩まされるだけではない。戦場での子どもたちは誘拐の対象でもあるそうだ。ほっておくとそのままさらわれて兵士に育てられるケースはカンボジアでもアフリカでもありふれた光景だった。これをアフガンで繰り返させたくない。

 賀川豊彦は生前、「日本にスラムがなくなったらどうするのか」という質問にこう答えていたそうだ。「そうなったら中国子どもたちを救い、アジア子どもたちを救いたい」と。(伴 武澄)

 賀川豊彦は1914年、初めてアメリカの土地を踏みます。プリンストン大学への留学で、マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現しました。授業料は免除されましたが、アルバイトをしながら3年間アメリカで過ごしました。この時、アメリカ労働組合運動があるのを初めて知ったのです。労働組合運動だけでなく、多面的なアメリカを吸収しました。

 余人に真似できないのは帰国してから、また新川に戻るところです。アメリカでの留学生活は金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠い3年間を過ごしたはずです。よほどの決心がなければ、帰国の翌日から再び新川で貧民救済が続けられることはできません。1909年に初めて新川に入った時以上のエネルギーが必要だったはずです。

 賀川は生涯で7回渡米しています。2度目の渡米は1924年。全米大学連盟からの招待でした。スラムでの献身的活動は日本に来ていた宣教師たちによってすでに伝えられていました。

 米沢和一郎氏の欧米での調査によれば、アメリカの「Christian Century」、スイスの個人雑誌「New Wage」、フランスの「La Solidarite」などに頻繁に「スラムの聖者」として紹介されていました。

 キリスト教系の新聞や雑誌は、日本と違って読者のすそ野が広く、世界中くまなく読まれるため、その影響力は計り知れません。図書館に行けば必ずあり、教会に行けば必ず置いてあるような雑誌、新聞がです。

 シュバイツアーとある日本人との手紙のやりとりの中に「賀川」が登場するのはちょっとした驚きです。アフリカのシュバイツアーは賀川の記事を読んでいたはずなのです。キリスト教ネットワークの影響力がいかに大きいかということでもあります。1932年にア-キシリングが『Kagawa』という伝記を書く10年も前から、実は賀川の名は世界で知られていたといってよさそうです。

 2回目の訪米に戻ります。アメリカへの到着は1924年2月。滞在中の7月に「排日移民法」が成立しています。賀川にとって大きな衝撃となります。貧困に加えてさらに人種問題が大きな課題となって立ちはだかるのです。

 そのころ、サンフランシスコシアトルでは日本人の数が急増し、総人口の10%を超えるようになっていました。西海岸が日本人に占領されるという恐怖感が排日移民法成立の背景にあったことは間違いありませんが、賀川のアメリカに対する意識は「天使のアメリカ」から「悪魔のアメリカ」へと大きく修正されます。プリンストン留学時代は、学ぶべき、いいアメリカでしたが、この時ばかりは「悪魔のアメリカ」と呼んでいます。賀川は親米主義者のように語られていますが、アメリカでの講演ではアメリカでの人種差別を徹底的に批判しています。

 賀川は国際的な伝道師、社会活動家としての側面と、日本人という側面と、二つの顔を持っていました。歓迎を受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかったはずです。その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いています。

「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」(『雲水遍歴』1926年、改造社

 暗に排日移民法を批判した文章で、「米国国民は国民的年齢において満12歳である」とも書いています。マッカーサーが日本の精神年齢について「12歳」と言ったちょうど20年前にアメリカ人に対して「12歳である」などと書いているのには驚かされます。

 もう一つ、エピソードを話したい。2008年春、松沢資料館の杉浦秀典氏から「こんなDVDをもらったんだけれども、興味ありますか」と一片のDVDを手渡されました。オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ物語」という1時間ほどのドキュメンタリーでした。

フレッチャー・ジョーンズは、オーストラリアでは戦前からある有名なアパレルメーカーで、「どんな人でも、どんなサイズでも、どんなにお腹が大きい人でも、うちのズボンは合います」というキャッチフレーズで人気を集めました。

  ジョーンズは第一次大戦欧州戦線に従軍して大けがをしますが、運良く生き残り帰還します。中学しか出ていませんが、テーラーになることが夢でした。テーラーから身を起こして、アパレル企業を創業し、オーストラリアでは誰もが知っているメーカーに成長させたのです。

 1929年の大恐慌時、ジョーンズの会社は無事でしたが、周囲はどんどん貧しくなっていくのに不安になります。資本家はもともと資金があるから、大した打撃じゃないんが、貧しい人たちがどんどん貧しくなっていくのです。ジョーンズは「これは経済を変えていかなきゃいけない」と考え、経営を根本から学ぼうと思いました。内外の多くの経済書、経営書を取り寄せ、読みました。その中に、賀川の本が1冊ありました。「協同組合的経営」に関するもので、ジョーンズは雷を受けたように「これだ」と確信したのです。

 偶然にも賀川は1935年、伝道のためオーストラリアを訪問しました。メルボルンに来た時、ジョーンズは面談を申し入れ、実現します。

「自分の稼いだ金は全部捧げないと神様に救われないんでしょうか」
「いや、そんなことはない。神様が望むようにあなたが使えばいいんだ」

 翌年、ジョーンズは、賀川の協同組合的経営をその目で確かめるため、来日します。5カ月滞在して、賀川の活動を観察しました。賀川は関東震災後に本所で大々的なセツルメント活動を開始し、生活の拠点を東京に移していました。ジョーンズの見た賀川の事業はただコープショップがあるだけではありませんでした。購買部のまわりに学校や保育園があり、医療があり、質屋があり、全人格的な経営を行っているということに感動したのです。

 帰国してから「僕の会社は株式会社じゃだめだ、コーポラティブにする」と決意し、改革に着手した。実際に改革が実現するのは戦後のことだが、自社株の7割以上を段階的に従業員に譲渡してしまう。ジョーンズがオーナーだった会社はいわゆる社員持ち株会社となったのです。

 フッチャー・ジョーンズ社は10年ぐらい前までは健全経営でしたが、90年代に入ってさすがに中国からの安価なアパレル商品に押され経営が悪化しています。

 「フレッチャー・ジョーンズ物語」を見終わってみると、1時間の間の1割以上が賀川に割かれていたことに気付きました。オーストラリアで 2007年9月にテレビ放送された作品です。どれぐらいの人が見たか分かりませんが、2000万の国民のうち数%は見ていたとすると、50万ぐらいは視聴 していたはずです。どのような思いで見たのか非常に興味があります。「何だ、この人は」と思ったのか、もうすでに賀川を知っていたかもしれません。「やっ ぱりそうだ、賀川はすごい」と思ったかもしれません。

 日本で賀川を知る人はもはや神戸以外ではあまりいません。完全に忘れ去られた存在といってもいいくらいです。日本人が知らない賀川をオーストラリアの数十万の人見ていたと思うだけでなにやら嬉しくなってしまう。ドキュメンタリーをプロデュースしたスミス氏は2008年春、松沢資料館を訪れ、「次につくりたいドキュメンタリー賀川豊彦だ」と言ったそうです。

 2004年6月、スコットランドグラスゴーを訪ねました。その2カ月前、「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞きました。賀川が世界的に知られた人物だということは書物で読んでいましたが、正直言って賀川の信奉者たちが針小棒大に伝えてきた伝説でしかないと思っていました。スコットランドのその牧師さんが70歳を超えて病身であるということで、ぜひとも会っておかなければ悔いが残ると思ったのです。

 そのアームストロング氏とはすぐに連絡がとれて、グラスゴー大学の研究室で会いました。アームストロング氏は1933年生まれの71歳。温厚な面持ちに加え、芯の強さを感じさせる信念の人のように思えました。グラスゴー大学を卒業後、新聞社に勤めましたが、牧師になりたいという意志でスコットランド・バプテスト神学校に入り直し、牧師になったという経歴の持ち主です。

アームストロング氏は賀川との出会いから話し始めました。

「いささか不思議な出会いでした。その出会いによってたちまち私は賀川から多大な影響を受けるようになり、60年たった今でもそれは続いてい ます。11歳の頃、鼠蹊部の腫れ物が膿瘍に悪化する疑いがあって安静にしていた時のことでした。退屈しのぎに私は一冊の本を手にしたのですが、この本が私 を賀川という偉大なキリスト教徒に巡り合わせてくれたのです。まずその本の背に縦書きされていた『Kagawa』というタイトルに好奇心をそそられました。それはウイリアム・アキシリングという人が書いた賀川の伝記でした」

 アキシリングによる賀川の伝記の初版本が出版されたのは1932年です。賀川はまだ44歳。そんな年齢の人物が伝記に書かれることすら稀有なことです。しかも外国人の手によって書かれたのだからなおさら驚かされます。それほどまでに賀川豊彦という人物が世界の人々をひきつけたということであろうか。

 この『Kagawa』は英語の他、ドイツ語フランス語オランダ語スカンジナビア語、トルコ語スペイン語インドの方言、中国語に翻訳されました。アキシリング氏は賀川豊彦を世界に紹介するにあたって「まえがき」で次のように述べています。

 賀川豊彦の人生は、今なお進展の一途を辿りつつある。彼の前途にはより豊かな、そしてより円熟せる人生が洋々として横たわっている、従って、彼の伝記にペンを執ることは、早きに失すると云わなければならない。

 彼の全人生の物語を記録するという興味深い仕事は、やがては専門の研究家の手を通して永く後世に伝えられることであろう。

 この熱烈なる精神の持主――神秘なる東洋の申し子とも云うべき彼のメッセージは、その偉大なる魂と転変する現実の奥底から湧き起り、灼熱せる焔となって、冷淡と皮肉と閑暇とに満ちている世界に真正面から挑戦した。

 即ち彼こそは、二十世紀の舞台上に於いて預言者の声をもって語る神の如き人間であり、その英雄的なる生活の中に、あらゆる時代をとおして救済と創造の力を発揮した幾多の原理を実際に体現した偉大なる人物である。

 彼の中には相反する二つの人間性が存在している。その一つは、友人達の熱烈なる信仰によって神化され、理想化された賀川であり、他の一つは、輝かしい理想の為に全力を挙げて闘う一個の血の通う人間としての賀川である。

「光は東方より」という東洋のことわざがあるが、社会的な連帯責任に対して明確なる意識をもつ西洋が渇仰している光は、すでに東洋に於いては燃え上がっている。もしこの書物が証明となって、光を西方に運ぶ役割を演ずるならば、著者の幸いはこれに過ぎない。

 アキシリング氏は、1873年、アメリカ中西部ネブラスカ州オハマ市に生まれ、28歳の時、宣教師として日本にわたり、終生、日本での伝道と社会福祉事業に尽くした人物です。その日本で出合ったのが、キリストの弟子として貧民救済にあたっていた賀川豊彦でした。太平洋戦争時は、浦和の収容所に入れられ、日本の官憲から言語に絶する取り扱いを受けたにもかかわらず、戦後も日本を離れず、日本の底辺の人々のために尽くしました。

 日本が満州事変を起こして、国際連盟から脱退したその同じ時期に、日本の聖人の物語が世界の主要言語のほとんどで翻訳され、地球規模の共感と感動を得ていたのです。今となっては不思議な感傷を抱かざるを得ません。

 スコットランドアームストロング牧師に戻りたい。『Kagawa』を読んで病身の少年アームストロングは震えるような喜びに浸ったといいます。極東の小さな国で生まれた一人の伝道者の生き様に出合い、魂を揺さぶられたというのです。

「こういう人間がいるんだ。自分もぜひこういう人間になりたいと思った。それで僕は牧師になった」

 当時は日本とイギリスは戦争状態でした。そんな時、一人のイギリスの少年の心を動かした日本人がいたのです。

クリスチャンである賀川の本質は私の心を強く打ち、もはや彼の国籍など問題ではありませんでした。賀川の伝記は読む者の心を捕らえて離さず、少年時代の私の想像力に大きな影響を与えました」

 アームストロング氏は賀川豊彦を語り出すと若さを取り戻すそうです。こんな話もしました。

「彼の人生はその祈りの実現のために費やされました。長老派の神学校に学んだ後、神戸新川貧民窟で生活しながら、路端伝道をすることになりました。そこに暮らす労働者たちの生活状態は劣悪で、路地は舗装されておらず、そこに並ぶ家屋はそれぞれわずか畳二畳程度しかありませんでした。衛生状態もひどく、不潔になって病気が発生しました。そこはまた犯罪や売春の温床でもあったのです」。

「学生伝道者として何度もそこを訪れたことがあった賀川は、神の愛について語 るだけでは不十分だ、貧民窟の住人と一体化して問題を解決する、という実践的手段をとることを通じて神の愛は現されるべきだ、と思ったのです。その結果、 賀川は住む場所のない人には住まいを提供し、病人を引き取っては看病を施したのです。彼が住まわせていた人々の中には、殺人を犯してしまい、賀川の手を 握っていないと眠りにつけない、という男もいました」。

「『貧民窟の生活を見ている時、社会の病弊がわかる』という彼の発言は、誠に深い洞察です。貧民窟における状況(労働条件、乳児死亡率、病気、売春)は、すべて相互に連結しあっている、ということに賀川は気づいていました。都市部の人口過剰により、人々は行き場を失い、貧民窟へと流れました。それはまた小作農の状況とも関係していました。彼がこれらの問題をどれほど真剣にとらえ、その答を見つけることにどれほど心血を注いだかは、後に彼がアメリカヘ行って、自分が経験したり見聞したりしたことの社会学的、経済学的意味を研究した、という事実をみればわかります」。

 アームストロング氏は「昨日来ればよかったのに」と惜しんでくれました。私がグラスゴーに着いた前日の6月5日にグラスゴー大学で「Kagawa Revisited (賀川再訪)」と題したシンポジウムを開いていたのです。実はシンポジウム参加を目指したのですが、仕事の関係で間に合いませんでした。

 アームストロング氏は1949―1950年に賀川豊彦が、イギリス各地で行った講演やその講演を聞いた英国人の話、当時の新聞報道な等について講演するため、40人以上の人から精力的に取材をしていました。

 シンポジウムには40人ぐらいしか集まらなかったと言っていたが、それだけ集まるだけでも驚きでした。しかも場所はグラスゴー大学です。賀川にゆかりのある人、生前に会ったことがある人、あるいは賀川から影響を受けた人に対して、インターネットキリスト教の新聞を通じて呼びかけると、100人近くから反応があったそうです。

 一番私が感動したのは、ある老齢の女性の話でした。看護婦さんで修道女として若いころ仕事をしていた時、グラスゴーに賀川が来ました。1950年のイギリス訪問時のはずです。

 彼女は修道院で草取りをしていました。

「そうしたら賀川がつかつかと寄ってきて、私の手をにぎって『ごくろうさん』とか何か言ってくれた。そのことがずっと私の思い出になった」

「あの大賀川に手を握ってもらった」という話をそのシンポジウムでしたらしい。ほとんど神様のように語っていたというのです。

 賀川がイギリスを訪問した当時の新聞を調べると、スコットランドの 新聞に「Kagawa Returns」という見出しで賀川の記事が掲載されていました。「もう一度来た」ということ。その前の訪英は、1936年だからその14年前である。新 聞記者たちが覚えていて見出しを「賀川リターンズ」にしたに違いない。「おお、すごいな」「戻ってきてくれた」ということなのです。

 戦前、日本のことを欧米語で発信した人は多くない。思い起こすのは新渡戸稲造内村鑑三岡倉天心鈴木大拙。そして賀川豊彦がいました。



 『武士道』の新渡戸稲造は説明する必要もないでしょう。台湾李登輝元総統が言及し始めてこの10年、日本でも見直しが進みました。100年前に日本の一番大切な心を英語で発信しています。ルーズベルト大統領ほか多くのアメリカ政治家が『武士道』を読んでいました。台湾総督府農業開発に取り組み、京大東大で教鞭をとり、国際連盟の事務局次長を長年こなした国際人です。今でも日本の心を理解するための導入本が『武士道』ということになっているようです。

 岡倉天心は日本の美術を世界に紹介し、東洋の美術を世界の人々に広めました。『茶の本』は日本の心を伝え、『アジアの理想』は「アジアは一つである」という言葉を生んだのです。もちろん全文英語で書かれました。われわれ日本人が読むのはあくまで翻訳本です。天心は自らが創立した東京芸術学校を短期で追われましたが、毎年、ボストン美術館茨城の五浦(いづら)の自宅兼アトリエを往復しながら、多くの画家を育て、ボストンに東洋美術の拠点を築いた功績は大きいと思います。

 賀川は日本の誇るべき歴史はほとんど発信していません。いち早く欧米で翻訳された『死線を越えて』はスラム物語です。日本の一番貧しい地域の一つに住みながら、自らの日々の葛藤を小説という形で表現しました。賀川が他の人違うのは、世界について語ったことです。日本のことだけではなく、世界はこうあるべきだ、地球はこうあるべきだ、実は宇宙はこうあるべきだということまで発信しています。

 新渡戸や天心と比べると賀川の活動の範囲はとてつもなく広いのです。ジャーナリスト大宅壮一賀川豊彦について田中芳三編著『神はわが牧者』「噫々 賀川豊彦先生」の中で賀川を追悼しています。

 明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。

 西郷隆盛伊藤博文原敬乃木希典夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。

 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。

 私が初めて先生の門をくぐったのは今から40数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。

 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。(田中芳三編著『神はわが牧舎』、クリスチャングラフ社

 賀川豊彦のことを学んでいて、なぜ賀川にこれほど魅了されるのか問われることが多い。賀川研究のため1980年代に日本に留学、帰国後に『賀川豊彦』(2009年8月、教文館)を書いたカールハインツ・シェルはまえがきで、「私は圧倒され、この愛の革命家の生き方に何も言えなくなるほどの感動と共感を覚えた」と書いいています。私もまさに「この人だけにはかなわない」という思いがあり、「何も言えなくなるほど」の共感があったのです。


2010年04月08日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

 この数日間 ドイツのメディアで誕生日を迎えて話題になった人がいる。80歳になった元独首相ヘルムート・コール、その半分の人生を終えたゴールキーパーのオリバー・ カーン、同じようにサッカー関係者でコーチのデットマール・クラマー。三人とも会って個性的だと思った人たちである。今から1925年4月4日生まれで一 番年上の85歳になったクラマーさんについてしるす。というのは、話した回数が圧倒的に多いからだ。

 サッカーと直接関係がない私が彼に会ったのは、日本のスポーツ関係者のお伴でオーストリア国境に住む彼を何度も訪れたからである。彼は日本で「日本サッ カーの父」として尊敬されていて、たくさんのことが伝えられている。それにもかかわらず、私がここで書きたいのは、クラマーさんがドイツ社会でどのように うけとめられているか、である。 

 クラマーさんは1975年と76年にコーチとしてベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーなどスター選手を抱えるバイエルン・ミュンヘンの監督として欧州 チャンピオンズカップを、76年にはインターコンチネンタルカップを獲得している。その後ブンデスリーガに属するいくつかのクラブの監督をつとめた。バイ エルン・ミュンヘンでブンデスリーガでの成績が思わしくなかったが、二年連続して欧州最強クラブになったことはクラマーさんの大きな業績である。

 またクラマーさんがサッカーについて話すこと、戦術的・戦略的なことであろうが、また選手の評価であろうが、トレーニングであろうが、長い経験と深い洞察力と豊富な知識に裏づけられていて、通り一遍の見解ではなく、掛け値なしにおもしろい。

 このような事情を考えると、「日本サッカーの父」はドイツ・サッカー界でももっと重要な役割を演じていてもいいように思われる。ところがそうでない。彼 のコメントや発言がこの国のメディアで取り上げられることもない。或る年齢から上のサッカー関係者は彼の能力を知っていて、例えば負けてばかりいるクラブ の経営者が困りきって彼に診断を仰いだりすることがあるかもしれない。でもクラマーさんというと変わり者、でサッカーの「開発途上国援助」ばかりしている イメージが強く、ドイツではどちらかというと忘れられた存在である。

 彼に何度も会ううちに、私はなぜこうであるのかを不思議に思うようになった。これに関連して重要な点は、クラマーさんは戦争にとられて復員後もどこか身 体が悪くなってプレーできなくなり、二十歳を超えた時点ですでにいろいろな小さな町のサッカークラブのコーチになっているので、ろくろく現役生活がなかっ たことである。

 次に戦時下サッカー少年だった頃、クラマーさんはゼップ・ヘルベルガーの講習会に参加した。ヘルベルガーは日本人に馴染みがないが、1954年ドイツが ベルンでW杯に優勝したときの代表チームの監督であり、戦後ドイツのサッカー界の重鎮で、クラマーさんをドイツ・サッカー連盟でのいろいろな仕事に引っ 張ってくれた恩人である。だからこそ、クラマーさんは彼を師と仰ぎ感謝している。

 このようにみると、クラマーさんは、クラブサッカーでプレーして、その後コーチ・監督とかになる典型的なサッカー人生とは異なる。彼にたいした現役生活 がないことは、理屈でなく実績を重んじる選手から軽量クラスとみられた理由と思われる。彼につけられた「プロフェッサー(教授)」というあだ名もこの事情 を物語る。知識や能力があり尊敬に値するのに、敬遠し、自分たち同じでないという選手たちの気持ちの表現だ。バイエルン・ミュンヘンのヴィルヘルム・ノイ デッカー代表が「みんな勉強して試験に合格したけれど試合に負けた」といったのも、クラマーさんのこのイメージをしめす。

 クラマーさんはサッカーが大好きである。或るときクラマー夫人が「サッカーとなると、主人はみんな疲れて地面に倒れてしまった後も独りで話している」と いったそうだ。情熱のあまり周囲の現実を見失う傾向も「プロフェッサー」というあだ名に通じる側面だ。クラブの監督はマネージャー的要素が必要で、サッ カーの先生であるだけではつとまらないのかもしれない。

 最後に彼の日本との関係である。1960年、それまでドイツ・サッカー連盟の支部レベルでスカウトをしたり、青少年の育成に携わったりするだけだった彼 は日本へ行く。彼も熱心に指導にあたり、日本側もそれにこたえた。日本での成功が彼を米代表チームやバイエルン・ミュンヘンの監督またFifaのコーチな どに押し上げた。クラマーさんは自分が日本での指導経験によってコーチとして前進できたとよく話すが、これはドイツ社会で知られていることで、日本人に対 するの外国人のお愛想でない。 

 このようにみると、彼がその後90カ国でサッカーの指導をするようになったのは、当時日本のサッカー関係者が実績のとぼしいクラマーさんを自分の眼で見 て評価して選んだからである。日本人が外国人と関係するのは、すでに評価の定まった人を連れてきて飾りにするだけのことが多いので、クラマーさんとの関係 は本当の交流だったことになる。

 昨年からクラマーさんの懐かしい顔がテレビでみられる。協同組合金庫協会のコマーシャルで、有名無名のいろいろな人が登場し、誰もが何かに情熱を感じて 生きているというメッセージで評判がいい。http://www.youtube.com/watch?v=J4rTFj8EMIU

 賀川純基さんの「予見」には登場しませんでしたが、そのころ国際平和協会の機関誌世界国家」で賀川豊彦が書いた「少年平和読本-侵略者の末路」という文章を読んでいました。ロシアの作家トルストイの 有名な童話『イワンの馬鹿』をモチーフに戦争を論じたものです。こんな分かりやすい戦争論を読んだことはありませんでした。私が書く賀川の姿より、すでに 書き手としての賀川がその昔、存在していて多くの共感を得ていのだと思います。私がそのむかし感動した賀川の文章をここに転載したいと思います。

 侵略者の末路

 昔ロシアの 或る田舎に一人の貧しい百姓が住んでいました。自分の所有地が少ししかないので「もつとたくさんの土地がほしいなあ」と言い暮らしていました。すると或る 大地主がそれを聞いて「では、これから馬に乗つて、夜までの間に、ほしいと思う廣さの地面を廻つておいで。そうしたら、その地面をそつくりおまえにあげる から--」といいました。百姓は大喜びで、さつそく馬に乗って出かけました。百姓は一坪でもよけいに地面をもらおうと思い、できるだけ遠廻りしてかけて行 きました。昼が来ましたが、食事をする暇もおしく、先へ先へと進みました。気がつくと、太陽はいつのまにか地平線のかなたに沈もうとしています。けれど も、もう少し、もう少しと思って、なお先へと進みました。おなかはペコペコ喉もからからです。日はとつぷりと暮れて道さえわからなくなりました。そこで百 姓はあきらめて、帰途につきました。しかし、馬は疲れているので、いくら鞭を加えても走りません。百姓のように疲れてたおれそうです。けれども今夜中に家 に帰りつかなければ、折角、慾張つて廣くしるしをつけて来たその地面ももらえません。それで、息たえだえの中から、鞭を馬にあてて家の方へとかけて行きま した。そしてやつと家に帰りついて、やれやれと思うと同時にあまりの疲れのため、百姓の息はたえました。

 この慾ばりの百姓は、一体どれほどの地面を大地主から貰つたのでしょうか、彼の得た地面というのは、自分のなきがらを埋める六尺にも足らぬ狭い地面だったのです。

 これはトルストイの童話にある有名な話ですが、これに似た事実物語をあなたは聞かなかつたでしょうか。野心満々の政治家や 軍人が、領土をひろげ、権力慾を満足させようとして、周囲の弱い国々を侵略し、とうとう精根尽き果てて、一敗地にまみれ、自分のみか、国民全体を塗炭の苦 しみに泣かせて、却つて旧来の領土をさえ狭めてしまつたという「イワンの馬鹿」を笑えない実例をあなたは実際に知つているはずです。

 世界歴史をひもといて見ても、そこにはたくさんのいわゆる英雄偉傑が、この童話の主人公と同じ運命を辿つているのを知ることができるでしょう。シーザーハンニバルナポレオン、近くはヒツトラー、ムツソリーニなど、みなそれです。シーザーの如きは、ガリヤを征服したのを手始めに、各地に侵略してローマの版図をひろげ、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、ブルタス、カシウスのためにローマの議事堂で刺し殺され、カルタゴハンニバルも、古来屈指の名将とうたわれましたが、シピオの一戦に破れて国外に追われ、ローマ人に捕らわれるのを怖れて自ら毒を仰いで死にました。さらにナポレオンに至っては、西ヨーロッパをその馬蹄の下に蹂躙しましたが、慾張つてロシアに攻め入ろうとして成功せず、次いで、ウオターローの戦に敗れて世界征服の野望も空しく、セントヘレナの孤島に、配所の月を眺めつつさびしく生涯を終わりました。

 こうして、侵略戦争の 下手人たちの末路は古来きまっています。そして、この侵略者を出した国家は亡び、その国民は流浪することになるのです。国破れて山河あり、嘗ては世界歴史 の上に輝かしい名をとどろかせたが、今はその後さえない国や、名はあつても昔の面影をとどめない国になど、あなたがたはその幾つかを知つているでしょう。 ジヨルダンというアメリカの学者は「バビロン、アツシリアが亡び、ギリシヤ、ローマの亡んだのは、全くその国の国民が、戦争好きでこれ等の国の亡国は一つの退縮現象である」といつています。身のほどを考えずに膨れた風船玉がパチンと破裂して、しわくちやなゴムの破片を残すに過ぎないようなものです。

 しかし、ひるがえつて考えて見ますと、遠い昔の戦争はとも角、近代の戦争は侵略者のせいのみとはいいきれなくなつているのではないでしよう か。戦争の原因が、社会の進運に伴つて次第に複雑さを加えて来たからです。近隣の弱小国や未開国を侵略することには変わりはありませんが、その原因なり、 目的なりが、単なる権力慾だけではなく、たとえば、人口が増加して自国の領土内だけでは食糧が不足になつて来たとか、工業生産の原料が、自国内だけでは自 給できないとか、生産品を売り捌く新しい市場がほしいとか、そういつたいろいろの経済的原因などから、領土を拡張し、植民地を獲得しようとして戦争をしかけるものが多くなつて来たのです。

 そうしたことは、その国としては立派に理由になりますが、暴力により領土や権益を奪われる側の国家としては、たまつたものではありません。しかし今日まで、弱小国、未開国と呼ばれた国々は、常に、強い国のためにこうして蚕食されて来たのでした。

 (中略)

 帝政時代のドイツの皇后の侍医で有名な心臓の学者ニコライは、戦争に反対して獄につながれましたが、獄中で書いた「戦争の生物学」 という書物で「動物が衰退に近づく時、その動物は必ず破壊的となつて戦争を好むものだ」といつています。この人の説に誤りがなければ、人類もそろそろ終わ りに近づいたことになりそうです。もし人類が衰滅したくなかつたら、世界中が戦争を放棄して、小鳥のように平和に、仲善くしなければなりません。蟻のよう に食べものをわかちあうようにせねばなりません。

 日本は世界にさきがけで戦争を放棄しました。もうイワンの馬鹿のお話のような慾張りはコリゴリです。侵略戦争なんか桑原々々です。私たちは侵略者の末路を、いやというほど見せつけられたのですから。(「世界国家」昭和25年5月号)

 二〇〇三年一月、エース交易の機関紙『情報交差点』に「EU理念の一つとなった友愛経済の発想―キリスト教伝道者・賀川豊彦― 」という文章を書いたことがあります。ヒントはその前の年の純基さんとの会話にあったのはいうまでもありません。直感的に書いた文章が今も古臭くないのです。

 賀川豊彦欧州連合EU)誕生と関わりがあるといえば驚く向きも少なくないと思う。『死線を越えて』というベストセラー作家として知られ、貧民救済に生涯をかけたキリスト教伝道者というのが賀川豊彦という人物の一般的理解だからだ。

 世田谷区上北沢の松沢教会にある賀川豊彦記念・松沢資料館で、EC(当時)のエミリオ・コロンボ議長(イタリア首相)が日本にやってきた時、EC日本代表部が発行した1978年のニューズレターを目にした。「競争経済は、国際経済の協調と協力という英知を伴ってこそ、賀川豊彦が提唱したBrotherhood Economics(友愛経済)への方向に進むことができる」とECの理念への賀川哲学の関与が述べられていた。

 憎しみを乗り越えたシューマン・プラン

 EUの歴史は1951年、戦勝国フランスシューマン外相が占領していたルール地方の鉄鋼、石炭産業をドイツに返還して国際機関に「統治」させるよう提案した「シューマン・プラン」に始まる。この提案がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約の締結につながり、後のECの母胎になったことは周知の事実であるが、「復讐や憎しみは次の復讐しか生まない」というシューマン哲学はどうやら戦前に賀川豊彦ジュネーブで提唱したBrotherhood Economicsに源を発するようなのである。

 このBrotherhood economicsは賀川豊彦が1936年、アメリカロチェスター神学校からラウシェンブッシュ記念講座に講演するよう要請され、アメリカに渡る船中で構想を練った「キリスト教兄弟愛と経済構造」という講演で初めて明らかにしたもので、同年、スイスジュネーブで行われたカルバン生誕400年祭でのサン・ピエール教会とジュネーブ大学でも同じ内容で講演された。

 「キリスト教兄弟愛と経済構造」はまず資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定し、第三の道としてイギリスロッチデールで始まった協同組合を中心とした経済システムの普及の必要性を説いたのだった。

 賀川が特に強調したのは「近代の戦争は主に経済的原因より発生する」という視点だった。国際連盟条約が死文化した背景に「少数国が自国の利益のために世界を引きずった」からだと戦勝国側を批判し、国際平和構築のための協同互恵による「局地的経済会議」開催を提唱した。これは今でいう自由貿易協定にあたるのではないかと思う。

 その400年前、ジュネーブのカルバンこそが、当時、台頭していた商工業者たちにそれまでのキリスト教社会が否定していた「利益追求」を容認し、キリスト教世界に宗教改革(Reformation)をもたらした存在だったが、カルバンの容認した「利益追求」が資本主義を培い、貧富の差を生み出し、その反動としての社会主義が生まれた。賀川豊彦が唱えたBrotherhood Economicsこそは資本主義社会主義止揚する新たな概念として西洋社会に映ったのだ。

 この講演内容はまず英文でニューヨークのハーパー社から出版され話題となり、わずか3年の間にヨーロッパアメリカ中国など25カ国で出版された。スペイン語訳には当時のローマ教皇ピウス??世の序文が付記されたという。

 貧困救済から世界平和へ

 『死線を越えて』という小説は大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込みキリスト教伝道をしながらこの作品を書き、手にした印税でさらに貧民救済にのめり込む。

 賀川豊彦キリスト教伝道者であるとともに、戦前は近代労働運動の先駆けを務め、一方でコープこうべを始めとする日本での生活協同組合運動の生みの親となった。戦後は内閣参与となり、アメリカシカゴから始まった世界連邦論運動を平凡社下中弥三郎らとともに強力に推し進め、1951年には原爆被災地広島世界連邦アジア会議を開いた。この会議の精神はアジアの指導者の多くの支持を得て、1955年のバンドンアジア・アフリカ会議継承された。

 彼が単なるキリスト教伝道者でなかった背景には、徳島神戸で回船事業を経営していた父親の血を受けたとする説もある。興味深いのは神戸の貧民窟に住み込んで「天国屋料理店」「無料宿泊所」「授産施設」「子供預所」「資本無利子貸与」「葬礼部」など次々と事業を考えたことである。互助互恵の精神で衣食住から学校、職場、貸金、葬儀までを自前で経営しようとしたのである。長男の賀川純基氏が作製した「賀川豊彦関係事業展開図」によると、賀川が関係した事業でその後発展したものには「コープこうべ」のほかに「全国生協連合会」「労働金庫」「全労災」「中ノ郷信組」「中野総合病院」など幅広い分野にまたがっている。

 賀川哲学貧困救済を基礎にしているのは、戦争も社会不安も経済的不平等に端を発していると考えたからであった。本来、宗教は魂の救済を求めるものなのだが、あえて宗教の枠を超えたところに賀川豊彦の真価がある。経済活動にまでその手を伸ばしたのは貧しい人々の自立のためであり、労働運動に手を染めたのも働く人々のまっとうな権利を回復するためであった。

 再浮上する協同組合的発想

 賀川豊彦が現代的意味を持つのは、やはり2001年9月の同時多発テロからである。90年代以降、アメリカ一国主義のもとで進んだ国際的な政治対立や貧富の格差拡大にどのように対処していけばいいのか。「仲間」であるか「敵」であるかを鮮明にすることを求めるアメリカに対して、ヨーロッパを中心にオルターナティブ的発想の重要性が唱えられており、互恵互助や協同組合的工作といった発想が再び求められているからなのである。

 昨年4月、賀川が少年時代を過ごした徳島県鳴門市賀川豊彦記念館ができた。記念館は世田谷区上北沢墨田区本所神戸市中央区吾妻通と4カ所になった。しかし賀川豊彦に対する関心はまだキリスト教伝道者としての貧民救済の域を出ていない。

 賀川豊彦が70年の人生で築き上げた経綸に対する理解不足ではないかと思う。人文から科学まで幅広い見識を持ち、いまでいえば経済・社会のトータルプランナーだった。ヨーロッパの人たちが幾度かこの人物をノーベル平和賞の候補としたのは単なる平和主義者としての賀川ではなく、平和を実現するためにどういう政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのか終生考え続けた、その功績に対する評価だったはずだ。

1954年、賀川豊彦協同組合の中心思想として掲げた「利益共楽、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心」という言葉は人類がまだ追い求めていかなければならない理念ではないかと思う。

 ワシントンDCジョージタウンにあるワシントンカテドラルという英国教会の教会に、日本人としてはただ一人聖人として塑像が刻まれている。

 時代が呼んだ賀川豊彦

 EUといえば、リヒャエル・クーデンホーフ・カレルギー(1894-1972)に登壇してもらわなくてはなりません。父親はオーストリアの外交官ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵。外交官として明治期の東京に駐在しました。そこで青山光子を見初めて妻としました。リヒャエルは二人の二男として東京で生まれ、栄次郎という日本名もありました。

 クーデンホーフ家の領地は現在のチェコボヘミアにありました。当時はオーストリアハンガリー帝国の支配下にあり、そこで育ったリヒャエルが第一大戦後に「反ヨーロッパ主義」を唱えたのです。ヨーロッパ統合はリヒャエルに始まします。だからEUの父とも呼ばれているのです。

 光子はその後、フランス化粧品会社ゲラン香水「ミツコ」の名前として残っています。名前が残るぐらいヨーロッパの宮廷政治に名前を遺した人物だったはずです。何がいいたいのかといえば、EUを生んだ4分の1は光子の息子のリヒャエルであり、賀川豊彦協同組合思想も4分の1ぐらい貢献していたと考えると、EUの震源地の半分は日本にあったと考えられるということなのです。

 賀川の見直しが少しずつ始まるのは、2008年9月のリーマン・ブラザーズ・ショックからです。あっという間に金融危機が世界をめぐり多くの国で実体経済が大きく落ち込みました。多くの識者が「資本主義の暴走」を口にし始めたのです。日本では小林喜多二の『蟹工船』が思いかけずブームとなり、『死線を越えて』など賀川豊彦の著書の復刻が相次いでいます。「貧困」や「搾取」という言葉まで復活し、「小泉構造改革」が「貧困」をもたらしたとの政治フレーズがメディアを賑わしました。

 われわれが賀川豊彦献身100年記念事業を始めるにあたって、奇しくも資本主義が暴走した結果がもたらされてしまったのです。格差社会です。「今なぜ賀川豊彦なのか」ということすら説明する必要がなくなってしまったのです。

先進国資本主義の限界説が語られるようになりました。新聞紙面でも「ソーシャルビジネス」や「社会的起業」といった賀川的発想が掲載されるようになっています。ソーシャルビジネスはバングラデシュムハマド・ユヌス氏が数年前から同国で始めた救貧事業です。資本主義社会に利潤はつきものですが、見返りのない投資を求める運動を展開しています。

 不思議なことに、そんな発想に食い付く事業家がフランスにいるのです。ダノン・グループを率いるフランク・リブーです。バングラデシュにユヌス氏のグラミン銀行と合弁でグラミン・ダノン設立し、1個8円のヨーグルトシャクティ」を売り出し、それが売れて工場増設にまで到っています。

 2010年1月3日の日本経済新聞の企業面の企画記事「欧州発 新思想」ではそんな状況を「従来型の企業の社会貢献ではない。ダノンシャクティを通じて最貧国での事業ノウハウを獲得し、新興国ビジネスに役立てる。さらに時がたてば、最貧国も新 興国の仲間入りをする」と驚きとともに紹介しています。

 同じ日経の同月5日投資欄 のコラム「一目均衡」では小平龍四郎編集員が「社会起業」 についてこう書いています。

ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは昨年来、社会起業をテーマに議論を交わしている。短期の収益を求める金融資本主義は自壊した。代替するパラダイムは何か。慈善とビジネスを両立させようとする社会企業家が、重要な役割を担うかもしれない、という問題意識だ」

「一昨年からの金融危機。資 本市場を舞台にした活動を通じて何ができるかを。世界は問い直す。社会起業や慈善など、市場の外にあると思われた倫理への競うような接近は、そうした自問への答えの一つ。社会的責任投資も同じ文脈に置ける」

 これらの記事を読んで、20年以上に三洋電機井植敏社長が言っていたことを思い出しました。

「南ベトナムが "解放"される前、われわれはホーチミン郊外にラジオ工場を経営していた。革命後は政府に接収されたが、ドイモイが始まって再びベトナムに行ってみるとその工場がしっかりと運営されていて驚いた、というより感動した。事業は資本のためにあるのではない。社会のためにあるのだということを深く思い知らされた」

 そんな話だったと記憶しています。なるほど大経営者は考えることが違うと感心したのでした。

 資本主義の代弁者だった日経新聞の記者たちが新たなパラダイムに着目していることは重要です。天国の賀川先生も喜んでいるに違いありません。資本主義が曲がり角を迎えるこの時代に触覚のよさを発揮していると思います。

 賀川豊彦松沢資料館の杉浦秀典学芸員は言います。

経済問題だけでなく、地球温暖化異常気象など環境の問題にも直面せざるをえなくなっている。これからはお金も、仕事も、環境も、分かち合いの精神でないと立ちゆかない、みんな、どこかで感じているからではないでしょうか」

 空中征服 環境問題と市政請負制

 賀川豊彦の小説『空中征服』は二〇〇四年に読みました。大正11(1922)年に大阪日報に連載したものを同年12月に改造社から出版。出版した月だけでも11版を重ねました。『死線を越えて』がベストセラーになった2年後ですから、評判を呼んで当然だったのかもしれません。2009年5月、不二出版から5回目の復刻版が出ました。

 『空中征服』を再び手にして、この本はひょっとしたら『死線を越えて』より評判になるかもしれないと思いました。80年前、東洋のマンチェスターと呼ばれるほど工場が密集した大阪を舞台に賀川豊彦が市長になりさまざまな改革を実行する物語です。

 当時の大阪の空は青空がみえないほど煙突からの煤煙に覆われていました。その煤煙を一掃したいというのが賀川市長の公約でした。工場主である資本家との激突があり、市職員のサボタージュがあり、ついには女たちが出てきて賀川市長に協力するのです。

 大阪の人々の協力を得られず失職した賀川市長は空中都市の建設を夢見ます。そこには人間改造機械によって、精神をあらためられた人々だけが送り込まれます。そして風船によって空中に支えられた楽園である田園都市が突如、出現します。

 復刻版に解説を寄せた神戸文学館の義根益美学芸員は「賀川豊彦が みた『空中征服』の夢に、多くの人々が笑い、そして何かを得ただろうと思います。痛烈な皮肉だと、受け止めた人もいたと思います。大正時代当時の人々と、 私たちは随分異なった社会に生きていますが、人間社会の根底をなすものは大きく変わらないことがわかる1冊です。『空中征服』の世界を通じて、私たちが生 きている社会というものを見つめ直す機会になれば幸いです」と書いている。

 この『空中征服』は、主人公が川の中の生き物と会話をしたり、空中都市が生まれたりするなど奇想天外、荒唐無稽に物語が進みます。その点では涙や感動を誘う賀川文学とは軌を一にしていません。大阪の工場から排出する煤煙による大気汚染が限界を超えていたことに業を煮やした賀川豊彦市長が突然、煙筒廃止方針を打ち出し市議会を巻き込んだドタバタ劇が展開します。

 公害という言葉さえない時代に大気汚染防止の必要性を指摘した先駆性は大したものですが、それよりも興味深いのは大正末期の日本で賀川豊彦扮する大阪市長が公務員事務の請負制を考え出し、それを実施に移すことです。「官から民へ」という鳩山民主党のスローガンにぴったり符合するのです。

 小説の中では、アメリカですでに「市政事務引受会社」というものがあることを紹介しています。80年前の話です。はたして本当にあったかどうか分かりませんが、発想が実に現代的なのです。

 以下、『空中征服』の内容の一部を転載します。

 市長が綱紀粛正を宣言すると同時に、第一反対の声を挙げたものは土木課であった。土木課は実に妙なところで月賦払いの最上等の洋服を着るもののもっとも多いところである。
 賀川市長の「サボタージュ性繁忙」に対する整理に反対するものは、ただに土木課の一部のみではなかった。ほとんど市庁舎の吏員全部であった。云うところは「いままでの通りの方がやりやすい」と云う簡単な理由である。
 賀川市長としては、市の行政に新機軸を出したいのである。
 彼の望むところは、市の凡ての執務事項を請負制度にして、土木、衛生、庶務、戸籍、学務、社会、会計、都市計画等の諸課を執務吏員に入札させて、競争の札を入れ、執務能率に応じて能率賞与を与える利率を定めることであった。
 米国では既に市政事務引受会社があることだから、日本でも事務引受の会社があっても善さそうなものだとも、賀川市長は考えたのである。
 市長は断然、市吏員の執務行程の大改革を発表した。そして、いままでの全課長を辞退せしめて、新たに能率請負の入札を各課に命令した。
 サア、大変だ。各課は上を下への大動乱だ。総辞職を主張するものもあれば、全吏員のゼネラル・ストライキを宣伝して回るものもある。そうかと思うと、賀川市長に辞職勧告に行こうと云うものもある。気の早いものは市参事会員のところへ駆けつけるものもある。市会議員を訪問するものもある。まるで蜂の巣をつついた様な結果になって了った。
 こういう結果になると云うことは彼もよく知って居た。それで平気で居た。彼は自棄を起こして帰った戸籍係の手伝いでもしようかと思ったが、それも出来ないし、あれしようか、これしようかと一人で悶えて、反って自分が神経衰弱に懸かって居ると云うことに気がついた。それは蝸牛性的思想病革命的神経衰弱とでも名をつく可き性質のものであって、仕事は運ばず、神経だけ尖ぎって、何かしら革命的に行きたい病気である。

 賀川市長は大阪市職員を全員やめさせて、婦人を中心にした"民営化"によって効率化した市行政は市民の絶賛を浴びるのですが、市議会や元市職員の陰謀で最後は失職させられます。そんな顛末です。多くの読者は市政の請け負いなど荒唐無稽と考えるでしょうが、オイルショック後の日本で導入した自治体があることが分かりました。

 調べてみると、愛知県高浜市は1975年のオイルショックを契機に窓口業務など行政サービスを外部委託に踏み切り、職員は10年前の256人から191人に削減。2003年度では、市の人件費を3億6800万円節約しています。外部委託先は「市総合サービス株式会社」。正社員と臨時職併せて256人を雇用しており、平均年齢は54歳。中高齢者の格好の就労の場ともなっていました。やればできるのです。

 環境問題を予見し、公務員が社会改革の足を引っ張るという命題は、非常に先見性があります。賀川の小説で『死線を超えて』や『一粒の麦』など協同組合をテーマとしてものは多く翻訳されて海外でも評判となりましたが、残念ながらこの『空中征服』は翻訳されていません。万が一、翻訳されていれば、ある意味で社会主義の将来を見通したジョージ・オーウエルの『1984年』に匹敵する評価を得ていたかもしれません。いずれにせよ、スラムに住みながら、こうした社会問題についてまで頭を悩ませていた賀川豊彦だったのです。

 第一章 賀川豊彦の予見

 賀川豊彦と出会ってからかれこれ9年になります。財団法人国際平和協会の理事になって、本棚にあった機関誌世界国家」を読み、いつの間にか古本屋絶版となった賀川関係の著作を買いあさっていました。中には『賀川豊彦全集』(全24巻、キリスト新聞社)もあって、賀川の書いた作品があまりにも多いことに茫然自失となっていました。

 賀川豊彦の長男で音楽家の賀川純基(かがわ・すみもと)さんが2004年3月28日なくなり、5月8日、四谷の聖イグナチオ教会で記念礼拝が行われました。純基さんとはその1年半前に出会っていました。上北沢賀川豊彦記念松沢資料館を訪ねたのが秋。学芸員の杉浦秀典さんに「国際平和協会から来ました」と自己紹介すると、「純基がいますから呼んできます」と奥に入りました。

 まもなく純基さんが現れました。1922年生まれだから82歳でした。長身痩躯のジェントルマンは、初対面の私に語り始めたのです。

「父に言われて医学の道を目指したのですが、千葉大学を卒業して、その道には進まず好きな音楽を選びました。父に反発していたんですね。年齢がいってから豊彦のことが気になり勉強を始めました」

 純基さんは熱く豊彦を語りました。印象的だったのはEUの設立に賀川イズムが大いに関わっていたという話でした。ちょうどフランス外相シューマンのことを読んだばかりだったので、なるほどとうなづくところがありました。もうひとつ興味があったのは賀川が関わった多岐にわたる社会事業をマトリクス化した「賀川豊彦関係事業展開図」でした。

「賀川はひどく多くの事業を手がけています。あなたも知っている会社や組織がたくさんあります。これ全部、やみくもに始めたのではありませ ん。賀川にとってはそれぞれが一つひとつ大切で、関連があったのです。賀川イズムの全貌を知るには、賀川がなぜこれらを一つひとつ始めなければならなかっ たか時代背景を含めて検証する必要があるのだと思っています」

 その年の12月、豊島区で開催された平和の集いでの純基さんに講演を依頼しました。純基さんと3回目に会うことはかないませんでしたが、純基さんの最後の講演は克明にメモをしていました。いまそのメモを起こしてみようと思います。

 賀川豊彦は若いころから平和を願っていました。
 彼の特徴は、ずっと先を見ていたということです。
 昭和12年、自分で出していた雑誌に「平静」という短い詩を書いています。

  私は急がない
  私は慌てない
  私は遅鈍を忌む
  私は予見を欲する

というような詩ですが、ここに「予見」という言葉がでてきます。

 もう一つ『空中征服』という小説を書いています。1922年(大正11年)のことです。テーマは何かというと「大阪の町の空気」なのです。いまでいえば公害です。

 煙突からの煤煙で昼でも暗いと書いています。その公害を征服したいといっているのです。

 これは当時の夕刊紙に連載していたもので、風刺と皮肉がたっぷりです。挿絵まで自分で書いています。ここでも未来を予見していました。80年前に地球公害のことを語り、最後に地球人は地球を脱出して火星に行くといいと言っています。

 1936年には世界経済協同組合的合作を発表します。当時の国際連盟は各国の軍事バランスのことばかり話し合っていました。日米英の戦艦の数が5・5・3だといって論議していた時代に世界経済の在り方を論じていたのが賀川豊彦なのです。

 少し説明しますと、「品目別経済会議」だとか「地帯経済会議」「一国対一国」「局地会議」だとかいう言葉が出てきます。いまのOPECだとかアジア開銀とかいう概念に当たると思います。EUもそうですし、ASEANも地帯会議や局地会議に当たるはずです。65年前にそういうことを考えていたのです。

 戦争が終わって8月15日のポツダム宣言受け入れ後、最初の日曜日、この松沢教会で世界国家の必要性についてすでに語っていました。なぜ戦争が起きるのか、また戦争が起きないようにするにはどうすればいいのかといったことをすでに考えていたのです。若いときにスラムに入って救済を始めたときも、どうして人々が貧しくなるのかを考え、「防貧活動」を始めたのです。

 戦後まもなく国際平和協会をつくりました。世界連邦建設同盟もそのころつくりました。賀川豊彦の言ったことで実現したことと実現していないことがあります。

 EU、つまり前身はECですが、これは1950年のシューマン・プランから始まりました。鉄と石炭を産するドイツ国境のルール地方を国際的管理に置こうという提案でした。賀川は当時、ヨーロッパにいてこの話を聞き、「これは世界国家のひとつのステップだ」とひらめきました。

 先ほど話しました、世界経済協同組合的合作はもともと、ジュネーブで講演した「キリスト教兄弟愛による経済改革」が基礎になっています。この講演は3年内に23の言葉に翻訳され、英語圏だけでなく、スペインフランス中国などでも広く読まれました。シューマン・プランはそれから13年後に生まれたのです。このことについては1970年にECの議長だったイタリアコロンボ外相が日本を訪問するに当たって日本の国会にあてたメッセージに書かれています。

 元日大経済学部の森静朗教授は「ECの経済は賀川の協同組合的考えを継承している」とはっきりと述べています。ECが賀川の予見が実現したもののひとつでしょう。公害もまさにその通りになりました。

 賀川の死後40年、世界連邦建設同盟から50年たちました。急がないけどぐずぐずしない。そして先を見通すのが大切なのです。

 以上が私が聞いた純基さんの最後の講演の大要だ。まずは『空中制服』です。

 ダイヤモンドオンラインに「エコカー大戦争」を連載している桃田健史氏によれば、台湾ではLEV(電 動移動体)の推進が国策となっているのだという。LEVは電動バイクやお年寄り用の四輪の電動車なども含まれる分野で、免許の要不要のボーダーラインにあ るといっていい。そこことからまだ国際的に定義が定まっていないが、筆者も10年以上も前から台湾で電動バイクが登場してから関心を持っていた。

 自動車のように運転する距離が長くないバイクがなぜ電動化できないのか。日本の道交法が電動バイクの普及を妨げているのではないか。いろいろな思いがあった。
 そのむかし電動アシスト自転車(補助動輪付自転車)が発売されたとき、某メーカーの広報担当者から聞いたことがあるのは次のような話である。

 わが社の電動アシスト自転車はモーターによる"自走"が可能なのだが、原付き免許が必要と警察から言われるのを恐れてわざわざパワーを落としているのだ」ということだった。

 日本では、あくまで「補助・・」でなければならなかったのである。ばかばかしい。

 原付免許は学科試験だけで、運転の技能は問われない。一方、自転車はそこらの空き地や道路で練習をすれば誰にだって乗れるようになる。多少の交通ルール ぐらい歩行者でも知っている。もし原付に試験が必要なのだとすれば、学科より運転技能の方が問われるべきだと思っている。

 もし原付免許というものを廃止すれば、日本に「補助・・・」などという概念はたぶんなくなるのだろうと考えている。どうだろうか。(伴 武澄)

 賀川豊彦のことを書いてきました。一向に完成しません。自分を励ます意味でこれまで書いてきたことをブログにアップすることにしました。足らない部分ばかりですが、その部分を埋めていきながら「Think Kagawa」を完成に近づけたいと思います。たぶん50回ぐらい続きます。ぜひ応援してください。

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 はじめに

 新聞記者を30年もやってきていろいろな思いがあります。過去の歴史が正しく伝えられていないという思いが一番強いのです。一度書かれた歴史が書き改められるチャンスはなかなかないものです。今年はNHK大河ドラマ龍馬伝」が人気ですが、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書かなければ坂本龍馬はそのまま歴史に埋没していたかもしれません。

 これから書こうと思う人物は賀川豊彦です。明治、大正、昭和と日本がまだ貧しかった時代、社会福祉などという概念すらなかった時代に神戸のスラムに入り貧しい人々のために尽くしたクリスチャンでした。

 ガンジーインド救済に身を捧げ、命を賭したことをわれわれは忘れてはいません。シュバイツァーがアフリカの民のために身を粉にした物語も教えられてきました。日本が宝とする賀川豊彦の残した物語も語り継がれなければならない。そんな切迫した想いがずっと心の中で私に訴え続けています。どこかで始めなければいけない。賀川豊彦の孫の賀川督明さんとの出会いが私を急がせました。

 来年2009年はちょうど、賀川献身100年にあたります。つまり自ら肺結核に悩みながら神戸のスラムに入って救済活動を始めたのが1909年ということです。

 賀川豊彦と出会ったのは2001年12月のことでした。東京元赤坂にある財団法人国際平和協会の事務所を訪れました。何とはなしに、戸棚にあった機関誌世界国家」を読み始めたことがきっかけでした。

 終戦の8月、賀川豊彦は東久邇稔彦首相官邸に呼ばれて、参与になることを求められます。戦争で傷ついた日本を再生するためにグランドデザインを描いて欲しいと要請されたのです。賀川は直ちにそれまで協力を仰いでいた有力者たちに声をかけ財団法人国際平和協会を立ち上げました。そのメンバーのなんと華麗なことにびっくりしました。

 国際平和協会は「戦後の日本が国際復帰を図り、世界の恒久平和樹立への貢献」を目的に東久邇殿下が5万円の基本金を出資して生まれ、1946年4月13日に財団法人として正式に認可されました。創立時のメンバーは賀川豊彦理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄河上丈太郎が連なっています。

 鈴木文治は日本の労働組合をつくった人です。有馬頼寧九州久留米藩の当主として貴族院議員、農相を務めました。徳川義親は尾張徳川家の当主、函館の北方に八雲牧場を開設し、北海道開拓史に名を残しています。田中耕太郎は著名な法学者。関屋貞三郎は宮内庁長官として長く昭和天皇に仕えています。堀内謙介は外務省事務次官、駐米大使も務めています。三井高雄は三井家の当主の一人で、帰国子女のために、啓明学園学校を創設しました。河上丈太郎は元社会党委員長衆院議員です。

 これから、会ったこともない人のことを描こうと思っています。どう描いていいかずっと戸惑っていました。何しろガンジー、シュバイツアーと並び称された人物です。

 ある出版社の社長さんにいわれた言葉があります。

「誰かに手紙を書く要領で書き始めればいい。読者は一人でもいいんだよ。手紙だって立派な文学になる」。

 そうか、手紙を書けばいいのだ。そう思うといくぶんか気が楽になりました。

 さて賀川豊彦という人物です。名前と著書『死線を越えて』だけは知っていましたが、読んだこともありませんでした。それがひょんなことから私の心の中に入ってきました。入ってきたどころか、しばらくすると私の心のかなりの部分を占領するようになっていました。

 賀川豊彦という人物を私という第一人称で書こうと思います。会ったこともない賀川豊彦がどうやって私の心を占領していったのか。その都度、私は多くの人に賀川のことを話しました。多くの人は私と同様、賀川豊彦を 知りませんでした。私の話を通じて一緒に感動してくれた人も少なくありません。そうか私が賀川を知らなかっただけではないのだ。みんなも知らなかったの だ。そして私の話を通じてその偉さを共有してくれている。そう知った時、私はますますこの人のことを描かなければならないという思いを強くし始めていたの です。

 これまで賀川豊彦のことを書けなかったのは、賀川があまりにも多くの運動や事業を展開してきたからです。毒舌の評論家として一時代を築いた大宅壮一は賀川について「我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」と書いています。

 社会運動家としての活動は神戸新川のスラムから始まりました。貧困と病の中で人々に溶け込み、着の身着のままで粥をすすって人々に献身した姿はキリストの再来とまで言われました。もちろんキリスト教牧師としてのエバンジェリスト(伝道者)でもありました。1920年代の100万人の信者獲得を目指した神の国運動で全国を行脚しました。5人でも10人でもいい、話を聞きたい人がいれば、賀川はどこでも喜んで出かけました。伝道は北米ヨーロッパ中国アジア南米豪州にも及び、人種や民族を超えて迎えられました。戦後になっても新神の国運動を興し、戦争で病んだ人々の心を癒すことに努めました。賀川の努力によって多くの日本人が受洗しましたが、教会のフォローがなくそのままになってしまった"信者"も少なくありません。

 賀川の運動はすべて、貧困からの脱却のためのものでしたから、イデオロギー論争には強くありませんでした。労働運動では神戸で大正期最大のストライクを指揮し、農民組合を立ち上げて小作人が地主のくびきから逃れる救世主役を果たしました。しかし、これらの運動は華々しく始まっても急進的なイデオロギーのために立ち往生することが少なくなく、運動はたびたび反賀川勢力によって窮地に陥りました。賀川のエネルギーが多方面に分散した影響は否めません。中途半端という批判です。

 賀川について特徴的なのは、彼の運動事業はほとんどが自らの著述や講演からの収入によって賄われていたということです。セツルメントの建設費や運営費はもちろん事業の赤字補填から労働運動で職を失った人々の生活まで面倒をみていたといいます。ただ小説『死線を越えて』の単行本で得たといわれる10万円(現在の価値で約10億円)以外、賀川が生涯手にした収入の全貌はほとんど把握されていません。

 雑誌「家の光」に連載していた小説『乳と蜜の流るゝ郷』が改造社から単行本になることが決まり「これで楽になる」と日記に書き記しているように、"賀川コンツェルン"はいつも自転車操業でした。『賀川ハル史料集』(緑陰書房)には賀川が次から次へと資金協力を約束して妻ハルを困らせたことを示す書簡も残っています。

 賀川豊彦は生涯200冊以上の本を書きました。没後には賀川豊彦全 集全24巻が編集されました。この全集はよくある日記や書簡の類は一切含まれていません。すべて公刊された書物の集大成です。日記や書簡などを含めればた ぶん50巻を超えるのではなかと考えています。私は2004年に念願の全集を入手しました。賀川研究の手始めと考えましたが、手にしたとたんに絶望的にな りました。これを読破するには優に2年はかかる。重い宿題を負わされ、とんでもない人に魅了されてしまった。そんな思いにかられた時期がありました。

 2008年1月から賀川豊彦献身100年記念事業の準備が本格的に始まりました。私が関わっている財団法人国際平和協会も全国委員会実行委員会として参画することになり、新聞記者であることから広報委員長に任命されました。

 賀川豊彦に対する関心が高まった時、書店の本棚に賀川の本が一冊もないのは困ることでした。インターネットで検索して賀川の事業がほとんど紹介されていないこともこれまた大きな課題でした。献身100年のオフィシャルページの製作・更新が始まり、個人のブログとして「Think Kagawa」を立ち上げました。広報委員になったおかげで、賀川関連団体の多くに人々と出会うチャンスに恵まれ、賀川の全体像が少しずつ見えるようになったのはありがたいことでした。

 献身100年記念事業を通じて知り合ったコープこうべ元役員の西義人さんらからは生活協同組合の何たるかを多く学びました。また公共哲学を提唱し、「友愛社会」や「友愛政治」の研究者である千葉大学小林正弥教授には「友愛」の長い歴史を教えられました。リズム時計の元役員の野沢和敏さんから賀川が考えていた農村工業について知らされました。海外での賀川について米沢和一郎氏が大変な研究成果から学ぶところは多くありました。生協OBの平山昇氏のブログ「ダルマ舎平山昇」では賀川を語るなら「ディケンズから読め」というような示唆があり、コーポラティブがイギリスで誕生する19世紀の社会背景を知ることもできました。

 賀川が大切にした「友愛」という概念は、鳩山由紀夫氏が民主党代表となり、民主党政権を獲得することによって、ようやく人々の人口に膾炙されるようになったのです。

 賀川豊彦の孫でグラフィックデザイナーの賀川督明さんは「豊彦は実に多くの事業を立ち上げたのだが、事業が継続して運営されたのは多くのコーワーカーたちがいたからなのだ」と「賀川の仲間たち」を強調しています。市井の人もいれば、著名な政治家経済人もいました。督明さんは献身100年記念事業の中核的メンバーの一人でした。生業として現在、ミツカンの広報紙「水の文化」の編集をしています。若いころは偉大な祖父の存在に押しつぶされそうになりますが、今では神戸に住みつき祖父の思想や事業に思いをはせています。朴訥とした語り口なのですが、講演やあいさつで時々、ハッとさせられるフレーズを発します。「コーワーカー」の存在もそうでありますが、「痛みに寄り添う」という表現は賀川豊彦を表現するのにぴったりだと思っています。

 賀川の伝記は数多く書かれていますが、賀川イズムの全体像に迫ったものはありません。私自身、全体像に迫ろうという気持ちはありません。群盲象をなでるだけでいい、自分がなでた部分だけでも書きたいし、伝えたい。そんな思いなのです。

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