2010年3月アーカイブ


 八田與一のことを書いた萬晩報のコラムを見た虫プロダクションの社員からメールが来て、八田與一のアニメーション「パッテンライ」が完成していたことを知った。というより光栄にも4月1日の試写会に招待された。

 八田與一は台湾で最も尊敬される日本人として教科書にも紹介されている。先日紹介したクリスチャン・シビルエンジニア広井勇のまな弟子でもある。
 http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20100306/1268627126

 パッテンライのサイトから転載したい。
 -----------------------------------
 長編アニメーション映画、南の島の水ものがたり「台湾で敬愛される日本人」の― 台湾南部の不毛の大地に命を吹き込んだ土木技師、八田與一。「パッテンライ」とは「八田がやってきた」の台湾語。半世紀を超えて現在もなお当時のままに人 々が謝辞と敬意をいだく、ひとりの男がいた...。
 国を民族を越えて、人と人との絆がもたらす、感動の実話、ついに初アニメーション映画化!!〔上映時間90分/配給:「パッテンライ!!」製作委員会〕
 http://www.mushi-pro.co.jp/ticket.pdf
 -----------------------------------

 台湾でも2009年11月13日から一般映画館で台湾吹き替え版が上映され、一般公開に先立って台南県新営市での試写会では、台南試写会では馬英九総 統、台北試写会では李登輝元総統と謝長廷元行政院長らが鑑賞した。台南県では2010年にも県内の小中学校で巡回上映会を実施する予定という。

 【萬晩報】台湾で最も愛される日本人-八田與一
 http://www.yorozubp.com/9907/990718.htm
 【萬晩報】台湾で最も愛される日本人-八田與一(続編)
 http://www.yorozubp.com/0005/000509.htm

2010年03月30日(火)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦

 3月25日 夜、ユーロ圏16カ国による首脳会議で財政危機に陥っているギリシャに対する支援策が合意された。これによると、この国の国債が市場で購入先を見つけられ なくなったときには、ユーロ加盟国からこの国に通常の市場金利で融資されるが、その条件は国際通貨基金(IMF)から融資を受けることである。またユーロ 圏加盟国のあいだで経済・財政政策を今まで以上調整することが合意された。

 もうかなり前から国際社会ではギリシャの財政危機のために単一通貨ユーロの崩壊、また欧州連合の危機がささやかれている。この支援策の発表によって危機 は終息するのだろうか。数字をみればこの国の10年もの国債を買う気になれないが、今や経済動向は数字と無関係なところがある。

 メルケル独首相はIMFを介入させようとして加盟国から総スカンを食っていたが、土壇場でフランスとの妥協に成功し、他の加盟国がこの妥協に同意した。 これはEUでよくあるパターンである。こうして欧州を牛耳ってみえる独仏だが、離婚しないためだけにいっしょにいる夫婦のように思われることが多い。

 ● 同床異夢の独仏

 欧州統合についての独仏両国の考え方は昔から異なる。フランスは、米国に対抗できる強い欧州に発展させることを目標にし、そのために統合に熱心であった し、また欧州連合という国家の集まりを連邦制国家の方向に近づけようとする。国際通貨基金がユーロ圏に介入することに反対し、欧州は自力でギリシャを救済 するべきだと考えることもフランス的発想である。

 またフランスはエリート社会で、エリート官僚が支配・指導する中央集権国家である。欧州連合の官僚機構も肥大し、加盟国に対して絶えずその権限を拡大し ようとしてきた。フランスは欧州連合本部のブリュッセルに有能な政治家を派遣するだけでなく、そこの官僚養成にも熱心である。今回ギリシャのような問題国 家を欧州連合本部が指導するために「経済政府」を設けるべきだという提案がされたが、これも中央集権的な欧州を目指すフランスとその息のかかったブリュッ セルの官僚の夢である。

 戦争に負けて孤立したドイツにとって欧州統合は、便利でもあり、また面倒でもある「近所づきあい」に過ぎず、あまり重要視していなかった。フランスとは 対照的にドイツは昔から欧州統合の拠点・ブリュッセルを国内で活動がのぞまれなくなった三流の政治家の天下り先とみなすところがあった。またドイツの考え 方では欧州連合はあくまでも主権国家の集まりである。

 フランス人にとって統合とはドイツをこの欧州という枠に組み込み、その危険性を封じ込めることである。その経済力を発揮して強い欧州の実現に貢献するこ とがフランスからドイツに期待されている役割である。フランスが昔から欧州の通貨統合を要求してきたのもこのためだった。ドイツはそれに長年抵抗してき た。ところが、ベルリンの壁が開いた後コール独首相(当時)は、ミッテラン仏大統領(当時)にドイツ統一に賛成してもらう交換条件として欧州単一通貨導入 を承諾することを余儀なくされる。

 それ以来、本来欧州などにあまり関心がなかったドイツも、ユーロをドイツ・マルクの後継通貨とみなし、その安定性に特別の責任を感じるようになる。ここ でいう安定性とは、ドルや円に対して強いというより、インフレを起こさない通貨で、購買力が失われないという意味である。

 メルケル首相の見解では、数字を粉飾してユーロ圏に加盟し、放漫財政を続けてきたギリシャを支援することは、財政規律の欠如にごほうびをあたえ、自国民 に評判の悪い財政再建努力をする他の加盟国の意欲をそぐことになる。彼女が国際通貨基金(IMF)の介入に固執したのは、これが「お灸」になると考えたか らだ。ドイツの考えでは、加盟国の財政規律と中央銀行の独立性こそ、通貨の安定を支える二本柱であり、だからこそドイツ国内ではメルケル首相は今回の首脳 会談でユーロの安定を守ったとして評価されている。

 またドイツのメディアによると、メルケル首相は、「よいヨーロッパ人」と賞賛されて隣国のために一方的に払い続ける「欧州の支払いチャンピオン」のタイ トルを返上したことにもなる。欧州統合となると、ドイツ国民は(現実の数字や事実を問題にしないで)自国がひたすら払い続けていると思い込んでいる。これ は精神衛生上よくないと思われるが、昔からそうだ。

 ● タンゴは二人で踊る

 3月14日付けフィナンシャル・タイムズとのインタビューで、ラガルド仏財務相はドイツ経済を批判して注目された。彼女は「ユーロ圏内での貿易収支不均 衡」問題を提起して、欧州にはドイツのように輸出競争力を強化し隣国に対して貿易黒字を増大させた国があること、現在ユーロ圏内でそのような国々と競争力 のない国々の間に大きな不均衡ができてしまい、それがギリシャ危機によって劇的にしめされたと指摘する。

 仏財務相は「これらの(競争力の強い)国々は黒字分で少しぐらい何かできないのだろうか。タンゴは二人で踊るものだ」と述べ、輸出主導型経済が欧州に とって持続可能な経済モデルであることに疑問を呈し、競争力のある国々は輸入を増やすために内需を喚起するべきだと要求した。この発言はギリシャ支援に関 して独仏が対立しているときのことで、気前よく払おうとしないドイツに圧力をかける意図がある。でも似たような論調は英語圏の新聞でもよく見られる。

 貿易上の不均衡であるが、ドイツなどの出超国の競争力が強くなったために競争力の弱い国の赤字幅が増えたのではない。というのは、ギリシャ・ワインとド イツの機械製品は競争関係にないからである。ドイツの内需増大は南欧諸国からの輸入増加につながらない。(日本人なら、昔あった日米貿易摩擦のときの議論 を思い出すかもしれない。) ギリシャでバカンスを過ごすドイツ人がへったが、それは物価の安いユーロ圏外の隣国トルコのほうへ行くようになったからであ る。

 単一通貨が導入されていなかった頃は、加盟国は輸入が増えると自国通貨を切り下げ、外国製品が高くなって輸入がへった。同時に自国製品が安くなり競争力 ができ輸出がふえて、不均衡が是正された。中央銀行が過度な金融緩和をするとインフレが加速し通貨が切り下げられた。こうして抗議運動による社会不安をお こすこともなく、為替相場で不均衡が是正できた。

 でも単一通貨の導入でこのような加盟国間の収支不均衡も見えなくなってしまった。また競争力の強いドイツの「黒字分」といわれても、ドイツ国民も政治家 も困惑するだけかもしれない。というのは、強い競争力で儲けたのは民間企業のほうであって、ドイツ国家の「黒字」という筋合いのものでないからである。

 次にギリシャ危機とはあくまでも国家財政の破綻問題である。ドラクマ、リラ、ペセタ、エスクード、フランとかいった通貨単位で欧州諸国の国債が表示され ていた時代には、その利回りは二桁代であるのが普通であった。当時この高利が放漫財政のブレーキとしてはたらいた。ところが、単一通貨導入でユーロ圏加盟 国はドイツと同じように低コストで資金を調達できるようになった。この事情こそ今回の財政危機の直接的原因である。

 ドイツの経常収支は毎年2千億ユーロぐらいであるが、ユーロ圏全体の経常収支は百億ユーロ近くまでへってしまう。ラガルド仏財務相や英語圏のエコノミス トの助言にしたがってドイツが隣国の迷惑になる競争力をなくす努力をしたら、いつかユーロ圏全体の経常収支も赤字になる。そのとき「タンゴは二人で踊る」 と思っても、いつも誰かが相手になってくれるとは限らない。どの通貨も米ドルのような幸運にめぐまれるわけでないように思われるからだ。

 美濃口にメール mailto:tan.minoguchi@netsurf.de
 2009年10月15日、同志社で行われた講演会「賀川豊彦のキリスト教と協同組合」で、伴武澄は「甦る賀川豊彦の平和思想」と題して講演した。以下はその講演内容である。
 --------------------------------------------------------------
 松沢資料館で機関誌「雲の柱」の次号のゲラ刷りをみるチャンスがあった。その中に「ガンジー・賀川・マンデラ」という見出しが気になるコラムがあった。筆者は河上民雄氏。

 20年以上も前にインドのニューデリーで開催された「反アパルトヘイト(人種隔離)国会議員世界大会」に河上氏が出席した折りの話を回顧している。当 時、南アフリカはまだアパルトヘイトの最中である。長く投獄されていたネルソン・マンデラ氏の釈放を世界の声として求める集まりだった。

 インドと南アフリカとは、切り離せない因縁がある。東アフリカから南アにかけてインド商人が多く住みついていただけでない。ガンジーが弁護士として初め てダーバンに赴任し、ヨハネスブルグへの列車の中で鮮烈な人種差別を体験し、そのことが後年の反英闘争の引き金となるのだ。南アなかりせば、ガンジーはな く、インド独立ももっと時間がかかったかもしれない。そんな感慨がある。

 その反アパルトヘイト大会で、河上氏はスウェーデン社会民主党のスヴェンソン氏と出会い、「賀川豊彦を知っているか」と問われる。知るも知らないもない。河上氏の父親、河上丈太郎は労働運動、無産政党時代から賀川とともに歩んだ人物である。

 スヴェンソン氏はこう話し掛けた。「賀川豊彦の本を読んで自分は政党活動に入る決意をした」と。
 なんということだ。河上氏の驚きは想像にかたくない。

 これ以上書くと、「雲の柱」編集者に怒られるので、内容の紹介はここまでにとどめたい。詳しく読みたい方は、賀川豊彦記念松沢資料館にお申し込み下さい。
 メールアドレスは zaidan@unchusha.com
 先日、財団法人霞山会が都内で主催した「東アジア共同体の多角的検討」というシンポジウムに出席した。日本と中国の学者が東アジア共同体の是非を議論す る場であったが、興味深かったのは出席した日本側の発言者はこの構想に「懐疑的」で、中国側に推進論が多かったことである。

 休憩中にタバコ部屋で中国担当だった元大手商社マンに質問した。
「中国語で韓国ウォンは何て言うのですか」
「ハンユアン(韓元)さ」
「元でなく、圓ではないですか」
「圓の簡体字が元だから、元です。ともにユアンと発音が同じです」
「なるほど、中国元ももともとは中国圓ですよね。日本圓は戦後に日本円となった。ということは日本も中国も韓国も"圓圏"ということができませんかね」
「おもしろい発想だ」
「そう、日本は"エン"で、中国は"ユアン"、韓国は"ウォン"。漢字で書けばどれも"圓"となる」

 日本が明治時代に通貨をつくったとき、"圓"を採用した。江戸時代は「両」だった。そもそもが中国の「圓」を使うことになったのは、貿易銀を鋳造すると き、広東省造幣局や福建省造幣局で"圓銀貨"が存在していたからだ。メキシコ銀も多くアジアで流通していた。銀貨の重さと銀の含有量は同じだったから、発 行体が違っていても問題なく流通していたのだ。

 ここまで来てなるほどと分かった方は通貨をよく知っている方だと思う。もともとアジアの通貨は"共通"だったのである。東アジア共同体を考える際に多く の日本の論者は、アジアの多様性について言及してきた。筆者は共通性に注目したい。漢字で書いて理解できる文化圏であり、箸を使う文化圏が東アジアなのだ とまず定義すれば、分かりやすい。

 西洋の多くの国がギリシャ、ローマ文明を古典として学ぶように、東アジアでは儒学を長く学んできた。明治の元勲たちは漢学の素養のうえに西洋の知識を接 ぎ木した。大学を出たわけではないのに、西洋の法制や経済体制を理解した、乃木希典や児玉源太郎も陸軍士官学校を出たはずもないのに、日露戦争で近代戦で ロシアを破った。

 韓国の先進国入り(OECD加盟)は10年以上も前のことである。中国経済もばく進中である。日本は元気がないが、まだまだ最先端国であることは間違い ない。前の世紀の代わり目に、黄禍論がヨーロッパ大陸と北米大陸で吹き荒れた。きっかけは日露戦争だった。それから100年を経て西洋が一番恐れてきた事 態がいま東アジアで出現している。

 筆者はこれを歴史の大転換期であると考えている。日中韓が対立を続けることをやめたとき、その化学反応が起きるのだろう。東アジア共同体構想はまさに大転換を引き起こす発火点であると考えたい。

 英国通貨のポンド紙幣はバンク・オブ・イングランドのほか、スコットランドの3銀行が発行している。通貨単位は同じだが、複数の図柄の紙幣が存在するの である。円、元、ウォンは通貨価値が異なるのですぐに通貨統合は無理であろうが、漢字での表記の統一ぐらいはできそうだ。それぞれ読み方は違っても漢字表 記が同じというだけでも夢があるような気がする。(伴 武澄)

 共同通信がある汐留の地下街に資生堂の化粧品の巨大なポスターがある。うっとりするような美人がいつも通行人たちに微笑んでいる。いまはマキアージュというファンデーションの広告で、そのキャッチフレーズは「わたしが変わる。世界を変える」。

 バンクーバー冬季オリンピックをテレビ観戦してからずっと気になってきたことがある。冬季オリンピックのハイライトだった女子フィギュアスケートが終わってみると、テレビに映っていた上位の選手のほとんどが東洋人だった。

 金妍児が優勝し、浅田真央が2位になり、3位はカナダのジョアニー・ロシェットだったが、4位は日系アメリカ人の長洲未来、5位が安藤美姫だった。たま たまかもしれない。東洋女性の美しい氷上の舞が世界にどう映ったかが気にかかった。つまり、強さと美しさを世界の人々の眼に焼き付けたのではないかと思っ ている。

 金妍児も浅田真央も東洋人としては相当にきれいな部類だ。何が言いたいのか。つまり美のスタンダードが西洋から東洋に遷り変わっていくのではないかということなのだ。
 40年も前のことである。東京外語大で東洋思想史を教えていた金岡秀友という東洋大学のおもしろい先生がいた。いつも漫才のような授業で、教室はいつも満員だった。

 金岡先生がいうには、テレビや雑誌の広告で西洋人的な日本女性ばかりが登場するから、日本人の美の常識がおかしくなっている。江戸時代の浮世絵では、切 れ長の眼が日本女性の美しさを象徴していたのに、テレビのおかげで昨今では美人でもなんでもなくなってしまった。国民にこれでもかと繰り返し映る広告の効 果というものは恐ろしいんだ。

 こういう話もした。日本人はもともと長胴短足だから、背広なんてものが似合わないのだ。飛行機のパイロットの制服などおかしくてしょうがない。僕の母親 に飛行機に乗せたとき、彼女が日本人のパイロットの制服姿をみて「この飛行機、落ちやしないだろうね」といったのには驚いた。姿かたちでもう不安になって いるのだ。

 そんな話を思い出した。日本人の姿かたちもずいぶんと変わった。背も高くなり、足も長くなった。女性は化粧の仕方でなんぼでも変わるため、顔つきまで変 わってきた感じがしている。そのことは別として、化粧品の広告の影響は決して小さくない。繰り返し眺めているとなるほど、美人とはこういう顔をいうのかと いう気持ちにさせられる。

 氷上の美を競うフィギュアスケートで世界の人々が東洋女性ばかりを見せられると、彼女らの顔や容姿を美しいと思い出すかもしれない。ファッションショー の世界的モデルたちはいまだに多くが西洋人である。東洋女性の進出が進めば、どうなるのか。いやはや楽しみである。「わたしが変わる。世界を変える」。東 洋の美が世界標準になる日がくるかもしれないのだ。(伴 武澄)

 「土木技術資料」という雑誌の3月号に巻頭言を書かせてもらった。広井勇の名前はあまり知られていない。新渡戸稲造内村鑑三とともに札幌農学校二期生の三羽がらすといわれ、日本の土木工学の礎を築いた人物である。弟子の青山士は内村鑑三に影響を受け、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した時、新潟県北蒲原郡木崎村で小作争議を指導していた賀川豊彦と親交があったといわれている。(伴 武澄)

 http://www.pwrc.or.jp/wnew1003.html#mokuji

 明治日本の土木技術の先駆者を一人挙げよと問われれば、誰もがクリスチャンの広井勇の名を挙げるだろう。

 公共事業といえば、八ツ場ダムにみるように談合や無駄の代名詞となりはてているが、明治・大正期の日本の多くのシビル・エンジニアたちは日本という国家を背負いながら、西洋から最先端の技術を吸収して発展のグランド・デザインを描いた。現在の豊かさはそうした先人たちの労苦に負うところが少なくないのだと思っている。

 広井は札幌農学校の二期生として新渡戸稲造内村鑑三とともに三羽がらすといわれた。アメリカドイツで学び、小樽港の工事によって広井の名を全国に知らしめた。難関は北国の荒波と暴風雨に耐えうる防波堤工事だった。中でもコンクリートの強度について100年以上使用できるよう耐久試験を繰り返した。またコンクリートブロックを斜めに積み重ねるという新工法も多く編み出した。

当時の土木工事の多くはお雇い外国人に依存していた。小樽港の工事は北海道開発の拠点として不可欠な事業だった。日本人による初めての計画、設計の仕事だったことは特筆されてよい。

 その後東京帝国大学に招かれ、土木工学の第一人者となったが、宴席を嫌い贈答には手を触れなかった。官学の農学校にプロテスタントの精神が流れていたことは今から考えると不思議なことだが、おかげで戦前の日本は「清きエンジニア」を持つことができた。

 広井は多くの土木工事を指揮しただけでない。門下に多くの有能な弟子たちを輩出した。青山士、八田與一、久保田豊という三人の国際的な土木エンジニアが相次いで巣立っていた。

 青山士はアメリカに渡り、パナマ運河の設計メンバーに加わったことで若くしてその名をとどろかせた。アメリカで起きた日本人排斥運動の煽りで運河の完成を前に帰国を余儀なくされた。帰国後は、荒川放水路や信濃川大河津分水可動堰という国土大改造に携わった。

 八田與一は、台南の嘉南に烏山頭ダムを建設し、不毛の地とされていた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。戦前の日本人として唯一、銅像が保存され、命日の5月8日にはいまも故人をしのんで地元民による墓前祭が行われている。李登輝前総統は日本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも恩人として紹介されている。

 久保田豊は、朝鮮と旧満州の境を流れる鴨緑江に当時として世界最大規模の水豊ダムを建設した。70万キロワットという巨大な水力発電はいまもなお中朝両国送電され、産業のインフラとして不可欠な存在となっている。戦後はアジアアフリカで多くのダム建設に携わるなど途上国での開発事業のリーダーとなった。大連育ちの中国人の友人は「学校の電灯を照らす電気は鴨緑江の水豊ダムから届けられると習った」となつかしむ。

 土木は本来、経世済民の一環として国土を災害から守ったり、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものであった。広井とその弟子たちに共通しているのは、国際的広い視野と開発の中心にヒューマニズムを据えた事業哲学が流れていることである。半世紀を優に超えたいまも彼らの作品である構築物は国境や民族を越えて人々の生活を支えている。

 司馬遼太郎の『坂上の雲』がドラマ化されて、国民の共感を得ている。明治を創りあげたのは政治家や軍人たちばかりではない。小中学校の教科書にもっと多くの理工系の人たちが紹介されるべきだと最近考え始めている。

 余談である。コープこうべ顧問の西義人さんの案内で神戸市内をドライブしていたとき、西さんがぽつりと言った。

三田の九鬼一族が明治の初期にここらの土地を買い占めたんですよ」

 志摩半島にあった九鬼一族が徳川の時代になって三田と綾部に転封された。九鬼の水軍力を恐れた徳川が海のない土地に海賊たちを押し込めたのだ。三田に移った九鬼一族は大きな池を掘って、海戦の訓練を続けたというから海への思いがずっとあった。

 数年前まで三重県にいて熊野水軍の歴史に興味をもっていたから、「なるほど」と合点がいった。神戸の町の発展に熊野水軍遺伝子が色濃く残っているはずなのだ。たまたまネットをみていて、白洲次郎の墓が三田市にあることを知り、白洲次郎から父親の白州文平、祖父の白州退蔵とたどっていくと、白州家は九鬼藩の儒家であったことも分かってきた。その白州退蔵と小寺泰次郎が、幕末の藩政改革に成功しその余勢を駆って神戸に進出したという歴史も明らかになった。そうか、白州次郎には熊野水軍の血が流れていたのだ。

 九鬼家に仕えた小寺泰次郎と白洲退蔵は明治になって、藩主とともに海への回帰事業を始めた。志摩三商会という商社を神戸に設立して、貿易業を営むとともに神戸の土地買い占めに走った。買い占めといえばあまりいい表現ではないが、神戸の発展を見越した才覚は並大抵でない。「ピュリタン開拓赤心社の百年」のサイトに次のように書かれている。

 http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sekisinsya_2/1_1_4_yosidawanman.html

 明治四年、三田藩知事を免じられた九鬼隆義と共に、神戸へ。

 地方代官だった小寺泰次郎は白洲に負けない利に敏い男。廃藩までの短い期間に藩の負債はゼロにし、溜池の修築や新田開発をやった。九鬼、白洲、小寺の主従トリオが活動の場を求めた神戸は、慶応三年暮れに兵庫開港と共に外国人の居留地が設定され、翌明治元年神戸町と改称したばかり。開港以来、五年間は運上所と呼ばれた税関もあったが、まだひなびた漁村。明治五年になって、ようやく地所永代売買が解禁される。地租改正で地価が決まり、士族が土地を買えることになるや、開港場の兵庫村方面の土地に目をつけたのがこのトリオだった。

 土地の先行投資は三人が中心となった志摩三商会がやった。明治十二年に神戸町兵庫村と阪本村を合併して神戸区になる。神戸の海岸から三宮町にかけての外人租界には、外国商人の洋館が立ち並びNHKのドラマ、「風見鶏」の舞台になる。

 そういえば賀川豊彦の父親、賀川純一は神戸で回船業を営んでいた。阿波水軍の血を引いていたのかもしれない。

P1000441.JPG 北京在住の親友、岩間孝夫さんが帰省していた先月、大阪で一献傾けた。その時、山崎朋子の『朝陽門外の虹』が話題となった。桜美林学園創設者の清水安三の物語である。賀川豊彦の影響を受けた清水安三は北京でミニ賀川を実践した。

 北京の下町というか、スラムに入って子どもたちに教育を授け、手に職を持てるよう尽くした。戦前のことである。戦前といっても1920年代のことである。魯迅の弟の周作人、胡適ら北京のトップレベルの知識人たちと兄弟のように付き合った数少ない日本人の一人でもあった。

 その清水安三の胸像が立ったという噂を耳にした岩間さんはさっそく、清水がつくった崇貞学園(現在の陳経綸中学)を訪ねてこの写真を送ってくれた。この胸像は中国で反日デモが吹き荒れた2005年に建てられた。多くの反対もあったとされるが、学校当局はその反対論を押し切って清水安三氏を顕彰することに踏み切ったというから、この胸像の意味するところは大きい。

 台湾の台南郊外に立つ八田与一の銅像と並んで、日本人が誇りとしていい、意味ある出来事なのだと考える(伴 武澄)

 【除幕式】

 桜美林学園の創立者で、戦前の北京で貧しい少女のために崇貞学園を運営した、故清水安三先生の胸像の除幕式が2005年3月30日に崇貞学園の跡地にある陳経綸中学で開かれました。

以下、陳経綸中学校長の張徳慶先生の式辞をご紹介します。

 尊敬する桜美林学園理事長の佐藤東洋士先生、本田校長先生ならびに親愛なる先生と生徒の皆様方、本日、陳経綸中学と桜美林学園は共に、崇貞学園創立者である清水安三先生の胸像の除幕式を行います。

 まず、私は陳経綸中学の先生及び生徒達の代表として、桜美林学園の皆様が日本から来ていただいたことを熱烈歓迎致します。皆様は中日友好のため、そして、両校友好交流のため陳経綸中学に来ていただき、心から感謝致します。

 歴史を回顧すると、1921年、この学校のあるこの場所に於いて、清水安三先生は崇貞学園を創立しました。崇貞学園により、旧中国の貧しい少女達は教育を受けることができました。清水安三先生は教育者として中国人民に友好情宣を表したのです。84年が過ぎ去った崇貞学園は、北京現 代化模範的重点中学の陳経綸中学になりましたが、安三先生の"学而事人"と"学長補短"に凝集される教育精神を吸収することは、依然として私たちにとって 学校を運営するための大切な栄養となっていますし、私たちに対する励ましになっています。陳経綸中学は教育国際化の方向へ大きく発展していくことでしょ う。

 陳経綸中学と桜美林学園の友諠長久のためにお祈りし、さらに私たち両校間の友好交流と付き合いが、ますます発展する様にお祈り致します。【桜美林学園のホームページから転載】

 http://www.obirin.ed.jp/hiscl/o_enkaku_tinkeirin.htm

 写真=左は岩間孝夫さん

 賀川豊彦献身100年記念事業で、「賀川豊彦賞」創設が課題となっている。確固たる事務局と資金の裏付けが不可欠であるのはいうまでもない。どんな人にあげたいのかという議論も熱く交わされている。

 筆者も会議で何人かの人物をあげたことがあるが、2月に入ってから賀川賞にぴったりの人物に何人も出合った。まず、栃木県の「こころみ学園園長」の川田昇さんを紹介したい。

 3月1日、栃木県が主催する「食の回廊コンベンション」に参加した。イチゴ食べ放題、ワイン飲み放題というお誘いにほだされて参加することになった。

 行きのバスの中でいつのまにかテレビにビデオ映像が流され始めた。山の斜面を開墾する姿が映し出され、「そうか、イチゴづくりは最初は大変だったのだ」などとのんきに構えていたら、どうやら様子が違う。

 知的障害子どもたちが一生懸命働いている。ビデオは今日の目的地の一つ、ココ・ファーム・ワイナリーの生い立ちを映し出していたのだ。

 川田昇という青年が特殊学級の自分の生徒たちの将来のために、自ら山の斜面を取得し、働く場づくりを始めたのは、1958年のことだった。勾配38度の急斜面が3ヘクタール子どもたちのの輝かしい将来を作り出すとは誰も知らなかった。

 川田さんは国や県の補助金は受けず、自ら自分たちの将来をきりひらくことを決めていた。ブドウとシイタケ栽培が始まった。

 川田さんは「子どもたちの手をみたらまっしろでマシュマロみたいだった。たぶん可哀想な子どもたちに親たちが何もさせずにいたからだ」と感じた。一月、二月とたつうちに子どもたちの手は日に焼け頑丈になり、やがて「農夫の手」になった。

 この施設は「こころみ学園」と命名され、全国から知的障害がある子どもたちを受け入れるようになった。ブドウを選んだのは一年中手間のかかる農作業だったからだ。斜面で働く効果はいろいろな面で現れてきた。家で暴力をふるって手の付けられなかった子どもが、落ち着いて黙々と働くようになった。急斜面を昇り降りするうちにバランス感覚が身に着くこともあった。自閉症も子もしばらくするとみんなの真似をして自ら働くようになった。

 15年後の1980年、この斜面の下でワインづくりが始まった。保護者たちが出資して「ココ・ファーム・ワイナリー」を設立した。子どもたちがつくったブドウを買い取る醸造業が始まった。

 なぜワインなのか、川田さんは語る。

「初めからワインを考えていた。障害を持つ子どもたちはカッコ悪いといわれた。だから彼らにカッコいいものをつくらせたかった」

 川田さんは障害児がつくったワインを売るつもりはなかった。福祉のワインは一度は買ってくれるだろうが長続きしない。おいしいワインをつくって普通に売りたかった。

 1989年からは米カリフォルニア醸造ブルース・ガットラヴさんが加わった。半年の約束できたが、川田さんの事業に心酔し、滞在は20年を超えた。

 子どもたちのつくったブドウから醸造したココ・ファームのワイン九州・沖縄サミットの晩さん会の乾杯用に選ばれ、洞爺湖サミットでも「風のルージュ」が同様に選ばれた。福祉のワインとして選ばれたのではない。目隠しテイスティングソムリエたちに選ばれたのだった。

 子どもたちは成長して学園には多くの大人もいる。学園が子どもたちの学舎であり生活の場でもある。ワインの瓶詰めの行程で難しいのは「特に赤ワインの中のゴミを探す検査だ。普通の人でも難しいこの作業をどういうわけか得意とする子どもがいる」。そんな話も聞いた。

 ワイン畑では除草剤を一切使わない。環境の問題もあるがそれだけではない。草刈りは子どもたちの仕事としても必要なのだという。収穫時にカラスが実を食べにくるが、カラスの来襲とともに石油缶をたたいてカラスを追い払う役割もある。障害の程度によってそれぞれに役割があるのだという。

 知的障害者更生施設「こころみ学園」は足利市の山あいにひっそりしているのではない。週末になると都会から多くの人たちがレストランに足を運び、好みのワインを買っていく、栃木県が誇る「食の回廊」の人気スポットの一つなのだ。そんな施設をつくり経営する川田さんは今年90歳になる。(伴 武澄)

このアーカイブについて

このページには、2010年3月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2010年2月です。

次のアーカイブは2010年4月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ