2010年1月アーカイブ

 中国の自動車市場が日本のそれを上回って2年、ついに昨年はアメリカのそれをも抜いて、さらに弾みをつけている。13億の民が住んでいて、すでに1億人は日本並みの生活水準を享受しているのだから、当たり前といえば当たり前すぎる話なのだ。

 日本が3位に落ちた、それを甘んじるのかという議論がある。それを「脅威論」として捉える方がおかしい。いずれインドも同じ方向をたどるだろう。明治こ のかたアジアに誇りを求めてきたのではなかったのか。20世紀という時代がおかしかったのだと捉えれば、何も不思議はない。再び中国に教えを請う時代が やってくるのかもしれない。日本人はそんな覚悟をいまから備えておかなければならない。
 特に注目されるのは上海自動車集団。GMやフォルクスワーゲンと提携し、2009年は57%増の272万台を 生産した。今年は300万台の生産を目指しており、一気に世界のトップ5に食い込む勢いだ。独自ブランドの売上台数は少ないものの、中国市場の急拡大に応 じて技術力を蓄積することは確実。(伴 武澄)

自動車、中国シフト進む 09年8社生産、初めて米超す【日経新聞1月25日】
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20100126ATDC2500525012010.html
 国内自動車メーカーの生産・販売に占める中国の比重が急速に膨らんでいる。トヨタ自動車など乗用車メーカー8社が25日発表した2009年の生産・販売 実績によると、8社合計の中国での生産台数が初めて米国を上回った。販売でも日産自動車では中国が日本を抜いて米にほぼ並んだほか、ホンダは日中が同規模 になった。中国メーカーや欧州勢を交えた競争が激化する中、中国戦略の成否が各社の業績を大きく左右する。
 日産の中国販売は前年比38.7%増の75万5千台で、トヨタを抜き日本勢で最大となった。日産にとって国別では最大の米市場(77万台)にも肩を並べ る規模だ。志賀俊之最高執行責任者は「中国でのシェアはまだ10%未満で、引き上げを目指す」と規模拡大に意欲をみせる。
 ホンダの中国販売は21%増の58万2千台で、前年並みの日本(62万5千台)に迫った。一方、トヨタ自動車の中国販売は70万9千台と21.1%増えたが、米国の177万台、日本の137万5千台とはまだ開きがある。 (01:09)

自動車生産能力、中国10社が12年に2100万台 供給過剰の懸念
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20100124ATGM2302C23012010.html
 【北京=多部田俊輔】中国で自動車の新工場建設計画が急増している。外資との合弁事業を展開する企業だけでなく、自主ブランドメーカーも生産を増強。上 位10社で2009年に約1200万台だった生産能力は12年には7割増の約2100万台に達する見通し。09年の新車販売台数が08年比46%増の 1364万台に達し世界最大となった中国市場でのシェア拡大が狙いだが、生産能力過剰に陥る恐れも出ている。
 中国最大手の上海汽車集団は12年の年産能力を09年比3割増の360万台まで引き上げる。同社は米ゼネラル・モーターズ(GM)、独フォルクスワーゲ ン(VW)と合弁事業を展開。減税などで農村での販売台数が急増した小型車を中心に生産能力を大幅に増やす。 (07:00)

中国最大手の上海汽車、09年新車販売57%増の272万台
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20100106AT2M0502R05012010.html
 【上海=下原口徹】中国の自動車最大手である上海汽車集団は5日、2009年の新車販売台数が前年比57.1%増の272万4635台に達したと発表した。同社は09年10月に中国初の200万台メーカーとなったばかりだが、10年は一気に300万台超の販売を目指す。
 09年の合弁企業別の販売台数は、米ゼネラル・モーターズ(GM)などと小型商用車を生産する上海通用五菱汽車が約106万5000台でトップ。独フォ ルクスワーゲン(VW)と組む上海大衆汽車と、GMと「ビュイック」や「シボレー」などを生産する上海GMが約73万台で並んだ。
 一方、上海汽車の自主ブランドである「栄威」「名爵」の販売台数は同2.5倍に達したものの、台数は9万台にとどまった。上海汽車は10年に「栄威」ブ ランドでハイブリッド車を投入することなどにより、来年は自主ブランド車を18万台まで倍増させる計画だ。(01:28)

 中国のBYDは13日、アメリカのデトロイト自動車ショーで、同社が開発した電気自動車「e6」を年 内にアメリカで、「ガソリン車と同等の価格で販売する」と発表した。e6は1回の充電で250マイル(約400キロ)走るとされ、同時期に日米で電気自動 車の発売を予定している日産自動車にとって、強敵が現れた。
 日産自動車は同社が販売する電気自動車「leaf」について、電池をリース方式で貸し出し、車本体は「ガソリン車同等の価格にする」と発表している。価格政策の大幅な転換を余儀なくされそうだ。(伴 武澄)
 (1/13)中国BYD、電気自動車を10年内に投入【日経】
 http://www.nikkei.co.jp/china/news/index.aspx?n=ASGM1301H%2013012010
 【デトロイト=小高航】中国の比亜迪汽車(BYD)は12日、北米国際自動車ショーで、ミニバンタイプの電気自動車「e6」を今年後半に米国で発売する 計画を明らかにした。価格や販売目標は示していないが、「ガソリン車と同等の価格で提供する」(BYD幹部)としている。1回の充電で300キロメートル 以上の走行が可能という。
 米国ではゼネラル・モーターズ(GM)や日産自動車も年後半に電気自動車を発売する。内外のメーカーで開発や販売の競争が激しくなっている。一方、米政府は石油に依存するエネルギー調達の構造を見直す構えで、電気自動車の普及に追い風が吹いている。

 中国BYD,2010年末に米国で電気自動車を発売へ【Techon】
 http://techon.nikkeibp.co.jp/article/EVENT/20100113/179198/?ST=AT
 中国BYD Auto社は,2010年末に米国で同社の電気自動車「e6」を発売すると「デトロイト・モーターショー2010」で発表した。販売価格や目標台数は未 定。同社 Export Trade Division, General ManagerのHenry Li氏は,「自動車市場において,米国は最も重要な市場の一つ。すぐに成功できるとは考えていない。時間をかけてビジネスを進めていきたい」と述べた(図 1)。
 e6は,1充電当たり250マイル(約402km)を走行できるとする5人乗りの電気自動車(図1)。搭載するLiイオン2次電池の容量は約 60kWhとなる。Li氏は「10年間の使用に十分に耐えうる電池」と安全であることを強調する。電池の正極材にリン酸鉄を用いた,いわゆる鉄系のLiイ オン2次電池を使う。
 米国での発売に当たっては充電方式を変更する。普通充電に関しては,これまでBYD社独自の方式としていたところ,米SAEの規格に合わせる。急速充電に関しては,SAEで現在検討中のため,「決まり次第,適用する」(Li氏)とした。
  1968年8月、16歳の夏休み。両親が住むパキスタンの首都イスラマバードを訪れた。インダス川が形成するパンジャブ大平原の北限である。北には世界の 嶺パミール高原がひかえるといえば大げさだが、イスラマバード周辺の山々がパミールにつながると考えれば気宇壮大になる。建国20年を迎えたアユブカーン 大統領が建設をはじめた新首都である。原野の中に白亜の政府ビルが建ち初めたばかりであたりはまだ建設の土音が響いていた。貧しさはあってもカオスをイ メージするインド的バザールはない。

 しばらくして連れて行かれたのがタキシラという古都の跡だった。仏教を国教とした遊牧国家クシャン王朝時代のシルカップ古都だったところである。衝撃を 受けたのは出土されたギリシャ彫刻そのものの仏像群だった。明らかに西洋の顔立ちで、鼻は高く堀が深い、ウエーブのかかった頭髪。多くはストゥッコという 塑像でストゥーパの周辺を飾っていた。
 広い古都の跡地に入るとどこからか案内人が現れて、チップをあげると見るべき遺跡や仏像のありかを教えてくれる。しかし歴史的価値や美術的価値を十分に分かっているかどうか。「これは本物」「これはコピーで、本物は博物館」といった説明しかできない。

 タキシラ博物館に回ると収蔵品の多さには圧倒された。2000年近く前に仏教の一大拠点だったこと
を考えれば当たり前かもしれない。「掘れば何か出てくる」という表現が決して言い過ぎでないような気がした。タキシラ博物館では展示品を一応ガラスケース に入れてはいるものの、年代別に粗雑に並べてあるだけ。なんとももったいない話である。日本だったらその一つひとつが国宝なり重要文化財なりに指定され、 展示会ではビロードの敷物の上に飾られライトアップされるような逸品ぞろいだった。

 仏教を東洋的なものと考えていたものにとってギリシャ風仏像が存在することは予想外のことだった。仏像そのものがこのタキシラで生まれ、その後、シルクロードを経て中国に渡り日本にやってきてようやくわれわれが仏像と認める形相となったことも新鮮な驚きだった。

 そもそも仏陀は偶像崇拝を禁じたから、初期の仏教は仏陀の骨を詰めた仏舎利や仏陀の足跡の仏足跡を崇拝の対象にしていた。日本や中国に残る「塔」は仏舎 利を埋めたストゥーパが卒塔婆となり、なまったものである。塔の五重や三重の建物の部分はもともとの基壇が発達したもので本当のストゥーパは屋根の上の部 分に残るのだそうだ。

 僕の仏像を訪ねる遍歴が始まった瞬間だった。
 
 タキシラやペシャワールを中心とした地方はインドという概念に含まれていたかどうか分からない。ガンダーラという呼び名でも呼ばれていた。当時、ガン ダーラには京都大学の水野清博士が率いる調査隊が山深くパキスタンからアフガニスタンを踏査していた。水野博士は戦後の大谷光瑞といってもいい存在だっ た。仏教伝来の道を東北インドに求めていた。著書の「文明の十字路」というタイトルは実にいい響きを持っていた。(伴 武澄)

 今から7年前のゴールデン・ウィークのことです。五月晴れの昼下がり、横浜の郊外のあるコンビニに若い作業員風のお客さんがやって来ました。
 「ディズニーランドのチケットを2枚欲しいんだけど。明日行きたいので・・」
応対したパートさんは気を利かせ神奈川県の共済の割引チケットを手渡しました。問題が起きたのは暫く経ってからのことです。パートさんは何気なく、先ほどのお客さんの「明日行きたいので・・」の言葉に引っ掛りました。
 「ひょっとしてあのチケットは明日大丈夫?」
 急に不安になってきました。慌てて確かめてみるとやはり不安は的中していました。割引チケットは  ゴールデン・ウィーク中は使用不可だったのです。
 「大変、明日使えないチケットを販売してしまった!」
 お客さんに連絡を取ろうにも連絡先が分かりません。

 物語はそこからスタートします。
 パートさんは取るも取り敢えず店長さんに電話し、帰宅していた店長さんが急の一報で店に舞い戻ります。若い店長は頭を抱えました。
  「まずいなぁ、2枚でしょ。デートに決まってるじゃん。折角のデートが台無しになってしまう。財布に持ち合わせが無ければアウトだし、チケットに記載の有効日に気づいてくれないかなぁ?」
 でも店に連絡が無いところをみると、気づいてないに違いない。店長はコンビニの本部に相談しました。答えはにべもないものでした。
 「仕方ないですねぇ。こういう件はクレームが来てから処理するしか・・・」
 若い店長さんはこの"処理"という2文字に俄然、闘争心が湧いたといいます。

 緊急事態にパートさん、アルバイトさん達の有志が集まり出しました。古株のバイトさん、ディズニーランドフリークのパートさん。みんなどうすれば問題解 決が得られるか?必死になって知恵を絞りました。でも名案が出るはずもありません。集まった人たちは、そのお客さまの顔すら知らないのですから。
でも何とかならないか?若い店長を中心に意気に燃える有志たち。
 「解決の秘策がないなら、ディズニーランドに行ってみようよ!」
 結論が出るまでにさほど時間は掛かりませんでした。
 行ってみると決めた後の、それからの皆の対応は恐ろしく迅速でした。
 「駐車場の開放は午前2時です。早朝の8時の開門には5~6万人は来ますよ。見つけるのは無理でしょう。ゲートの係員さんに頼んで無効チケットを差し出す人を教えて貰いましょう」
フリークのパートさんが言いました。
 「取り敢えず行く人はみな自分の携帯で防犯カメラのお客さまを写メールして!」
 その時にはもうクレームを防ぐことより、明日のデートがどうか上手く行くように、というような思いで一同がいたそうです。

 午前1時集合、調達したワンボックスカーに6人が乗り込んで目指すは浦安の東京ディズニーランド。
 「どうなるかは別問題。イチかバチか、それで駄目なら仕方がない」
 午前2時前に到着。作戦通り、頼みの綱はディズニーランドのゲート係員でした。一部始終を話して交渉しました。
 「ゲートで撥ねられたお客さまを教えてもらえないだろうか?」と交渉しましたが、
 「そういうサービスは出来ない」
 埒があかないので粘りに粘ってようやく責任者には会えたものの、回答はつれないものでした。
 「私の最終判断としても協力は出来かねる」
 あの伝説のサービスを誇るTDLがそれはないんじゃないの?・・と悔しさで一杯でした。でもそうも言っていられません。残された最後の手段は、手分けし て入場者を一人ひとりゲートでチェックすることでした。気の遠くなるような巨大なゲートを見守るのはたったの6人。頼りは各自の携帯のおぼろげな顔写真の みでした。
 
 それから8時間余りが経ち、みなが方々に散って捜していた10時半、パートさんの一人が店長の処へ駆け寄ってきました。
 「写真に似ている人がいるんですけど・・・」
 みんな色めき立ちました。
 遂に捜し当てたのでした。奇跡でした。
 店長さんがことの次第を説明し、お詫びとともに用意していた正しい入場券を渡した時、一瞬お客さんは何が起きたか訳が分からない様子でした。ただ傍らに いたデート相手の女性がこのストーリーを飲み込み、感激にウルウルきてしまったのが印象的でした。何か大きな事をひとつやり遂げた達成感、というか清々し さを6人のメンバーが一様に噛みしめたのは言うまでもありません。何とも爽快な一体感がみなを駆け抜けました。
 これでこの小さな物語はお終いです。

2010年01月16日(土)
異文化コミュニケーション理事 引地 達也


西インド諸島 の中央、エスパニョーラ島の西3分の1を占めるハイチで12日に起こったM7の大地震は住民に甚大な被害を与えている。犠牲者は1月15日現在、国際赤十 字は5万人、現地政府は10万人以上としている。首都のポルトープランスから15キロというほぼ直下型の揺れに建物は崩れ、人は下敷きとなり、ライフライ ンは崩壊、援助物資も住民に行き届かない状態となった。米ABCニュースでは、家族や家を亡くし悲嘆にくれる人よりも、食糧や物資の不足による人々の苛立 ちと混乱をそして苛立ちを率直に伝えている。

そのハイチの人々の苛立ちにあの悪夢がよみがえった人もいるかもしれない。繰り返す軍事クーデターと無政府状態の中で民兵が武器を手に我が物顔で街を歩く、十数年前の、あのポルトープランスの姿である。

1988年、長い独裁政権の後、31年ぶりに民政復帰を果たした直後、プロスペル・アブリル大統領警護隊司令官がクーデターで大統領に就任。米国の民主化 要求で90年に辞任し、同年の大統領選で左派のジャンベルトラン・アリスティド元神父が当選したが、これも94年のラウル・セドラ陸軍司令官のクーデター で軍政に戻ってしまう。政治の混乱は住民間の争いの激化につながり、民間人同士の殺戮も行われた。

国連は94年に民政復帰のため多国籍軍の武力行使を容認し米軍が進駐。セドラは亡命しアリスティドが約3年ぶりに帰国し復権した。その後もハイチは散発的 な武装衝突が起こりながらも、国連PKO監視の下、少しずつ平和な国へと向かっているはずだった。

だからこそ、大地震を受けて混乱に後戻りさせてはいけない。この思いは、治安維持にあたってきた米国が強いらしく、真っ先に救援部隊を派遣し、陸軍と海兵 隊を動員、空母まで展開する予定だ。ブッシュ前米大統領まで支援を申し出、米大リーグも義援金の提供を表明した。

また一昨年の四川大地震で国際的な救助を受けた中国が地震発生から33時間後には中国国際救助チームを現地に到着させた。台湾と国交のあるハイチでの展開 には政治的な判断も見え隠れするが、その迅速さは評価されてよいだろう。

一方の日本政府は14日に500万ドルの緊急支援を発表した。国連各機関と連携して救助にあたる方針という。現地へは医療ニーズを把握するために14日中 にも調査チームを編成し派遣するとの説明。地震国として数々の災害にあい、乗り越え、学習してきた日本は大地震発生時の人道支援、救助活動、インフラ復旧 に長けているはずである。それが、この腰の重さはなぜだろう。

地震の備えを国民に呼び掛けて来た政府ならば、ハイチで刻一刻と「死んでいく」人への想像は及ばないのだろうか。ましてや「友愛」を標榜する宰相が運営する政府ならばなおさら、この行動は理解しがたい。

米国は安全保障の延長として迅速な対応をし、中国は外交の一環で動いた。日本はそこに汲みする必要はない。人道支援の観点で常に災害救助への対応を迅速化 し、ひとつの国際基準を作るべきであり、それが出来るはずである。災害救助の展開の先に安全保障があるのである、外交があるのである。

ハイチの国旗の中央の紋章には、国旗には大砲、ライフル、太古、ラッパ、軍旗と戦闘用具がずらりと並ぶ。リボンにはフランス語で「団結は力なり」。独立を めぐる闘いの尊さを描いたものだが、やはり国の象徴から武器が消えることを望みたい。そう思う時、この大地震で、日本の得た災害に関するノウハウを発揮 し、迅速かつ地道な支援を通して災害救助という活動の尊さを知らせる良い機会のはずだ。その活動が苛立ちによる衝突を軽減させ、感謝による安心を生み出す ならば、いつか旗から武器は消えるはずである。

 異文化コミュニケーション財団コラム
 http://newicf.org/clumn/clumn/

  「直流ハウスでエネルギー革命は可能か!?」を書いたのは2005年1月6日のことである。三重県 に住んでいたころ、中部電力の燃料電池システムの実証装置をみせてもらった時ひらめいたのである。現在の電力会社からの配電される交流からの変換ロスと、 太陽電池発電などからの交流への変換ロスがそれぞれ6%あることを知り、直流ハウスをつくれば少なくとも12%の節電、すなわち、二酸化炭素の排出も同じ 率で削減できるというものだ。結論はだれか「直流ハウス」をつくってくれませんかというものだった。  ようやく世の中が萬晩報に追いついてきたことが嬉しい。シャープが「DCエコハウス」の開発に乗り出し、パナ ソニックも今後の家電開発として「直流」がキーワードとなっている。パナソニックの構想で面白いのは家庭内で直流と交流を使い分けるという発想だ。もう一 つ直流家電製品の電圧として12-48ボルトで駆動させるという考えだ。なぜなら乗用車のバッテリーは12ボルトでトラックが24ボルトだからである。



 パナソニックは直流と交流を「使い分ける」と言っているが、考えてみればキャンピングカーにはあらゆる家電製品が搭載されていて、すべて直流で動くよう になっている。テレビだって、クーラー、冷蔵庫だってすでに実用化されている。外形を家庭用につくりかえるだけで、直流ハウスはいますぐにも可能なのであ る。

 仮に12ボルトとから24ボルトに規格が統一されれば、電子機器ごとに入っている「電源」が不必要になる。パソコン回りにはパソコン本体、液晶パネル、 プリンター、モデム、外部スピーカーなどの電源とコード類がクモの巣のような配線になっている。また携帯電話や電子カメラなどの充電器のたぐいも"電源 コード"をそのまま機器につなぐだけでいいはすである。これがすっきるするだけでも暮らしは明るくなる。(伴 武澄)

 【技術フロンティア】太陽電池生かす「直流」 【日経ビジネス】
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090428/193297/

 直流ハウスでエネルギー革命は可能か!?
 http://www.yorozubp.com/0501/050106.htm

 エジソン時代の直流・交流論争
 http://www.yorozubp.com/0501/050107.htm

 究極の分散型電源は燃料電池車
 http://www.yorozubp.com/0501/050108.htm
10 年以上も前の話だが、『日本がアジアに敗れる日』(文藝春秋社)を書いた。その中で「技術の馬跳び現象」というキーワードをつくった。携帯電話やインター ネットなどの新分野はまさに先進国・途上国の違いがないことを証明した。この10年、既存の産業分野を持つ先進国が途上国に追い抜かれる現象も多く見てき た。ここ数年、世界の自動車産業の動きを見ていて再び「馬跳び」を思い出している。
きっかけは約1年前、中国のBYD(比亜迪)がハイブリッド車を発売し、併せて電気自動車も発表したことだっ た。ハイブリッド車ではトヨタやホンダなど日本メーカーが最先端を走っていたはずだったが、日本でほどんど知られていない中国の電池メーカーがすぐ後ろを 追走していたのだった。気が付くと世界的な投資家であるウォーレン・バフェット氏もBYDの技術に注目して同社の10%の株式を取得していた。

BYDの強みは電池メーカーであること。また製造基準があまり厳しくない中国に本拠を置いていることである。

中国ではモータリゼーションが始まったばかり。初めて自動車を購入する層が大きく、ガソリン車に対する思い入れが日欧米ほど大きくない。へき地へいけば逆 にガソリンスタンドも少ないはず。自宅のコンセントから充電できるなら電気自動車でもいいじゃないか。そんな思いで電気自動車に飛び付く人々が多いはず だ。中国の自動車市場の強みは製造者側も消費者側も固定観念を持っていないことだろう。

電気自動車が普及するのはたぶん途上国からだろうとは薄々感じていた。慶応大学の駒形哲哉准教授が『東亜』8月号に「電動車両で先行する中国」という興味 深い論考を書いていた。電動車両とは日本で言うモーター付自転車のことである。中国大陸ですでに7500万台以上の電動車両が走っている事実には正直驚い た。日本との違いは十分なパワーがあるため、電動機は「補助」ではなく、モーターそのもので、ペダルをこぐ必要がないから、ほとんどがバイクとして使われ ている。省によって道交法が違うが、多くの地域で免許証なしで乗れるところがみそなのだ。

日本の業者が着目して輸入もされているが、大阪あたりでは府警が中国製の電動自転車の摘発に乗り出したとのニュースも散見される。

日本のバイクを生み出したのは本田宗一郎だった。自転車に小さなエンジンを付けた代物だったが、爆発的に売れた。中国で登場した電動車両はまさに50年前の日本を連想させる出来事だった。

消費者が望む価格帯で売れば、消費に火が付き、さらにコストダウンに弾みがつく。そうして市場に定着した新製品は少なくない。日本では液晶電卓がそうだっ た。BYDの電気自動車はまだテスト段階だが、三菱自動車が発売したi-MiEV(アイ・ミーブ)が459万円もするのに対して、日本のガソリンエンジン 車並みの価格設定で売り出されることは間違いない。新しい分野では価格設定は製品普及の一番大きな引き金となる。

電気自動車で「技術の馬跳び現象」が起きるとすれば、それは中国しかない。自家用車はともかく、長距離走行を必要としない営業車両は次々と「電動化」する だろう。高価なリチウム電池でなく鉛電池の「電動車両」がすでに7500万台も走っている国である。だから21世紀の自動車産業をリードする可能性が強い のは中国ということになる。20世紀は自動車と石油が世界経済のけん引車だった。それは地球規模の環境問題にとっても朗報である。
 「豆満江開発」が再び動き始めた感がある。昨年来、北朝鮮の先鋒・羅津(羅先市)の名前が頻繁にニュースに登場するようになったからである。今日のニュースは日経新聞国際面「琿春-羅先間の橋・道路 中朝、整備へ協力」という見出しの記事だった。

 中国吉林省の琿春市が、羅先市との間の橋梁の補修や道路建設で合意したという内容である。これまで輸出入を大連に依存していた吉林省にとって日本海へのアクセスは長年の夢。日本や韓国との時間距離を一気に短縮できることになる。
 豆満江開発は約20年前、国連開発計画(UNDP)が北朝鮮・中国・ソ連の国境にまたがる流域を多国間で開発 しようと呼びかけた計画。資金、技術、労働力など各国が得意とする分野で貢献するユニークな構想だった。北朝鮮はこの計画に呼応する形で1991年11 月、豆満江流域の羅津、先鋒地区を開発区に指定し、外資導入のための法整備を行った。金日成の時代である。 

 当時、まだ金満だった日本は開発資金3兆円の提供に前向きの姿勢を見せていた。特に日本海側の自治体が日本海の対岸を新たなフロンティアとして見据え、「環日本海経済圏」という言葉も生まれた。
しかし、この壮大な開発計画は北朝鮮の"核開発疑惑"によってあっという間にしぼんでしまった。その後、政権を継承した金正日は、外資導入による社会的影響を考慮してか、豆満江開発はうたかたの夢として忘れ去られた。

 羅津・先鋒(現在は羅先市)が再び注目されたのは、12月に金正日総書記が「初めて羅先市を視察してからだ。新年の4日には羅先市が特別市に指定された ことが発表され、その直後に金総書記の訪中に関するニュースも流れた。特別市の意味合いについては不明だが、北朝鮮が経済開発にあたって、父・金日成が手 掛けた羅津・先鋒開発に再び力を入れるのではないかと憶測されることとなった。

 1992年から、北朝鮮が改革開放に舵を切っていれば、北東アジア情勢は様変わりしていただろうことは難くない。時を同じくして開発が始まった上海の浦 東地区を見れば歴然である。上海バンドの対岸の芦原が20年間で近代都市に変貌し、リニアモーターが新空港と都心をつなぐまでになっている。

 筆者は浦東計画の10年前から始まっていた深圳など中国の4つの経済特区の発展ぶりを見てきただけに、浦東開発に対しても楽観的未来を想像してきた。

 北朝鮮にとって、今回が最後のチャンスかもしれない。この20年間、北朝鮮もまた「うべかりし20年」を失ってきたのだと思っている。日本の数分の一 だった中国のGDPが世界第2位になり、インドを含めてBRICS諸国が台頭したたけでない。湾岸には世界一のビルとなったブルジュ・ハリファが完成し、 南アフリカではダッカー・ワールドカップが開催されるに到っているのである。このチャンスを逃せば、北朝鮮はアフリカにも抜かれる埋没国家に転落する可能 性だってある。

 豆満江開発の再来は北東アジア全体のレベルアップにつながるだけでない。日本海岸の自治体が活性化することで、日本も新たなエンジンを持つことになる。(伴 武澄)

 ■(12/4)朝鮮新報、北朝鮮のデノミ実施を確認 「外貨も使用停止に」 【日本経済新聞】

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の機関紙、朝鮮新報(電子版)は12月4日付で、北朝鮮ウォンの旧通貨と新通貨を100対1の割合で交換するデノミ (通貨呼称単位の変更)を11月30日に実施したと報じた。朝鮮中央銀行(中央銀行)はデノミの目的をインフレ抑制と国家の経済管理強化にあると強調した という。「今後は商店や食堂で外貨を使用できなくなる」とも説明している。
 北朝鮮系メディアがデノミを確認したのは初めて。同銀は「既に食堂などが新価格で正常営業し、絶対多数の勤労者が貨幣交換を支持、歓迎している」と自賛した。
 だが、新旧の貨幣交換には「旧10万ウォン」という上限が設けられており、それ以上の旧貨幣を持っていた場合はすべてが無効になる。そのうえに外貨使用 も制限するとなれば、交換限度以上の資産を持っていた新興富裕層の不満を招くのは必至で、混乱も予想される。(ソウル=山口真典)

 ■金総書記、北東の経済特区を初視察 「貿易の拡大重要」 【日本経済新聞】

 【ソウル=山口真典】北朝鮮の朝鮮中央放送は12月17日、金正日総書記がロシア・中国との境界周辺の羅先(ラソン、北東部)市を訪れ、水産物加工品などを扱う羅先大興貿易会社を現地指導したと報じた。具体的な日時は不明。ラヂオプレスが伝えた。
 朝鮮通信(東京)によると1991年に同地域を経済自由貿易地帯に定めて以降、金総書記の訪問は初めて。金総書記は同地域を「重要な対外貿易基地」と位 置付け「対外貿易は絶えず拡大させるべき重要な事業だ」と強調。「対外貿易は信用第一主義の原則順守が極めて重要だ。輸出規律を守り商品の質を高める闘争 を強化すべきだ」と指示したという。
 北朝鮮は国連開発計画(UNDP)が推進する羅先を含む豆満江(中国名・図們江)開発計画から脱退したと明らかになった。総書記の視察には、独自の開発継続と外資誘致をアピールする狙いがあるとみられる。(01:53)

 ■羅先市を「特別市」に 北朝鮮、中央指導部が直轄 【日本経済新聞】

 【ソウル=島谷英明】北朝鮮の朝鮮中央放送は1月5日、北東部の咸鏡北道でロシアとの境界に近い経済特区、羅先(ラソン)市を「特別市」に指定するとする最高人民会議常任委員会の4日付の政令を報じた。
 ラヂオプレスによると、特別市は中央指導部の直轄市を意味し、北朝鮮では平壌市と羅先市の2つとなる。羅先市は1990年代前半に前身の羅津市が自由経済貿易地帯となり、特別市に指定された。その後2000年代に入って中央指導部の直轄から外れたとされていた。
 北朝鮮メディアは昨年12月中旬、金正日総書記が羅先市を現地指導し、対外貿易発展のための指針を提示したと報じていた。(13:04)
 伊賀は甲賀とともに忍者の里である。伊賀は律令制度下の伊賀国であるが、甲賀は近江国の一角である。行ってみるまでは実感はないが、ふたつの忍者の里は緩やかな山並みをはさんで南北に隣り合わせている。

 伊賀や甲賀がなぜ忍者の里になったのか、不思議である。忍びというからには、ともに山がちな地形を想像したくなるが、これがそうでもない。伊賀も甲賀も 盆地であり、豊かな田園が広がる。古代からの日本の幹線道である東海道は甲賀のど真ん中を貫き、伊賀の東北部を通る。だから決して人里離れた里ではなかっ た。そうと分かるとなおさら「なぜ」という疑問が強まる。
 忍びのくせにといっては差別的な表現になるが、忍者の親玉と考えられている服部半蔵は元は伊賀の服部一族だ が、三河で徳川家康に仕え、1590年の家康の関東入国後は与力30騎、同心200人を配下に置く8000石の堂々たる地位に上り詰め、江戸城西側の門外 に屋敷を与えられた。江戸城で人名が付いた門は半蔵門しかない。服部半蔵には忍びのイメージはかけらもない。

 伊賀国が歴史上特異なのは戦国大名を持たなかったという点である。伊賀盆地の中央には名張川が流れ、木津川と合流して大阪湾に注ぐ。イメージとして水は 伊勢湾に流れるように思われるが、実は水系を通じて大和朝廷と強い絆を持っていた。しかも盆地の扇状地は大河の氾濫からまぬがれるなど古代においては理想 的な耕作地帯だった。

 古くは東大寺の荘園としてその地盤を築いた。荘園は穀倉だけではなかった。僧兵の供給地でもあった。僧兵がいたからだろうが、武士が育たなかった。その結果、鎌倉以降も地頭や守護による支配がなかったから戦国大名もいなかった。その点で日本では特異な歴史をたどった。

 封建領主がいなかったのはたぶん、僧兵が存在したおかげなのだろうと思っている。僧兵の親分は東大寺で、しかもその東大寺は山を越えたところに厳然としていた。それでも戦国時代には藤林、百地、服部の上忍三家が地侍を配下におき、合議制で伊賀地域を支配した。

 伊賀で面白いのは忍者だけでない。観阿弥、世阿弥という能樂師集団の長を生み、俳句を完成させた松尾芭蕉を育んだ歴史を持つことである。芸能と文学をレ ベルの高い生業に生まれ変わらせたのだからこれは革命である。それも忍びの者が担い手だったという説もあるのだからなおさら興味深い。

 昭和37年、伊賀上野の旧家から「上嶋家文書」の江戸末期の写本が見つかり、観阿弥の父親が服部一族の上嶋元成で、母親は楠木正成の妹だったということ が書かれていた。上嶋文書については偽書であるという説もあるが、観阿弥の子どもの世阿弥は「花伝書」で自らの先祖について「服部一族である」と書いてい るそうだ。楠木正成の甥であるかどうかは別として忍びの一族が旅芸人の猿楽師だったことは間違いない。

 情報の集積が商人集団を生んだことは確実である。近江商人や松阪商人はその典型であろう。古来、街道沿いを往来する人々が情報の運び役となった。政治や 経済だけでなく、各地で起きたこもごもの悲喜劇もその情報に含まれるだろうことを省みると、街道沿いに芸能や文学が生まれたとしても不思議ではない。

 芸能の原点は、村祭りの出し物であろう。踊りや歌に併せて演劇も行われた。その中で秀でたグループが領主に招かれ、さらに選ばれて都にまで足を運んで演 じた集団もあった。時代の為政者のめがねにかなったとなれば、その評判は全国に広がり、それこそ"興行集団"として成り立ったのだろう。

 そんな集団の一つが観阿弥能楽座だったはずである。
img_746686_58461236_1.jpeg 伊賀は甲賀とともに忍者の里である。伊賀は律令制度下の伊賀国であるが、甲賀は近江国の一角である。行ってみるまでは実感はないが、ふたつの忍者の里は緩やかな山並みをはさんで南北に隣り合わせている。

 伊賀や甲賀がなぜ忍者の里になったのか、不思議である。忍びというからには、ともに山がちな地形を想像したくなるが、これがそうでもない。伊賀も甲賀も 盆地であり、豊かな田園が広がる。古代からの日本の幹線道である東海道は甲賀のど真ん中を貫き、伊賀の東北部を通る。だから決して人里離れた里ではなかっ た。そうと分かるとなおさら「なぜ」という疑問が強まる。

 忍びのくせにといっては差別的な表現になるが、忍者の親玉と考えられている服部半蔵は元は伊賀の服部一族だが、三河で徳川家康に仕え、1590年の家康 の関東入国後は与力30騎、同心200人を配下に置く8000石の堂々たる地位に上り詰め、江戸城西側の門外に屋敷を与えられた。江戸城で人名が付いた門 は半蔵門しかない。服部半蔵には忍びのイメージはかけらもない。

 伊賀国が歴史上特異なのは戦国大名を持たなかったという点である。伊賀盆地の中央には名張川が流れ、木津川と合流して大阪湾に注ぐ。イメージとして水は 伊勢湾に流れるように思われるが、実は水系を通じて大和朝廷と強い絆を持っていた。しかも盆地の扇状地は大河の氾濫からまぬがれるなど古代においては理想 的な耕作地帯だった。

 古くは東大寺の荘園としてその地盤を築いた。荘園は穀倉だけではなかった。僧兵の供給地でもあった。僧兵がいたからだろうが、武士が育たなかった。その結果、鎌倉以降も地頭や守護による支配が緩かったから戦国大名もいなかった。その点で日本では特異な歴史をたどった。

 封建領主がいなかったのはたぶん、僧兵が存在したおかげなのだろうと思っている。僧兵の親分は東大寺で、しかもその東大寺は山を越えたところに厳然としていた。それでも戦国時代には藤林、百地、服部の上忍三家が地侍を配下におき、合議制で伊賀地域を支配した。

 伊賀で面白いのは忍者だけでない。観阿弥、世阿弥という能樂師集団の長を生み、俳句を完成させた松尾芭蕉を育んだ歴史を持つことである。芸能と文学をレ ベルの高い生業に生まれ変わらせたのだからこれは革命である。それも忍びの者が担い手だったという説もあるのだからなおさら興味深い。

 昭和37年、伊賀上野の旧家から「上嶋家文書」の江戸末期の写本が見つかり、観阿弥の父親が服部一族の上嶋元成で、母親は楠木正成の妹だったということ が書かれていた。上嶋文書については偽書であるという説もあるが、観阿弥の子どもの世阿弥は「花伝書」で自らの先祖について「服部一族である」と書いてい るそうだ。楠木正成の甥であるかどうかは別として忍びの一族が旅芸人の猿楽師だったことは間違いない。

 情報の集積が商人集団を生んだことは確実である。近江商人や松阪商人はその典型であろう。古来、街道沿いを往来する人々が情報の運び役となった。政治や 経済だけでなく、各地で起きたこもごもの悲喜劇もその情報に含まれるだろうことを省みると、街道沿いに芸能や文学が生まれたとしても不思議ではない。

 芸能の原点は、村祭りの出し物であろう。踊りや歌に併せて演劇も行われた。その中で秀でたグループが領主に招かれ、さらに選ばれて都にまで足を運んで演 じた集団もあった。時代の為政者のめがねにかなったとなれば、その評判は全国に広がり、それこそ"興行集団"として成り立ったのだろう。

 そんな集団の一つが観阿弥能楽座だったはずである。

 新聞にソーシャルビジネスや社会起業的発想が掲載されるようになった。ソーシャルビジネスはバングラデシュのムハマド・ユヌス氏が数年前から同国で始めた救貧事業である。資本主義社会に利潤はつきものだが、見返りのない投資を求める運動を展開している。

 不思議なことに、そんなキテレツな発想に食い付く事業家がフランスにいたのである。ダノン・グループを率いるフランク・リブーである。バングラデシュに ユヌス氏のグラミン銀行と合弁でグラミン・ダノンを設立し、1個8円のヨーグルト「シャクティ」を売り出し、それが工場増設に到っているのだ。
 1月3日の日経新聞の企業面の企画記事「欧州発 新思想」ではそんな状況を驚きとともに紹介し、「従来型の企 業の社会貢献ではない。ダノンはシャクティを通じて最貧国での事業ノウハウを獲得し、新興国ビジネスに役立てる。さらに時がたてば、最貧国も新興国の仲間 入りをする」。

 同じ日経の5日投資欄のコラム「一目均衡」で小平龍四郎編集員が「社会起業」についてこう書いている。

「ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは昨年来、社会起業をテーマに議論を交わしている。短期の収益を求める金融資本主義は自壊した。代替するパラダイムは何か。慈善とビジネスを両立させようとする社会企業家が、重要な役割を担うかもしれない、という問題意識だ」

「一昨年からの金融危機。資本市場を舞台にした活動を通じて何ができるかを。世界は問い直す。社会起業や慈善など、市場の外にあると思われた倫理への競うような接近は、そうした自問への答えの一つ。社会的責任投資も同じ文脈に置ける」

 20年以上も前のことである。三洋電機の井植敏社長が言っていたことが忘れられない。

「南ベトナムが"解放"される前、われわれはホーチミン郊外にラジオ工場を経営していた。革命後は政府に接収されたが、ドイモイが始まって再びベトナムに 行ってみるとその工場がしっかりと運営されていて驚いた、というより感動した。事業は資本のためにあるのではない。社会のためにあるのだということを深く 思い知らされた」

 そんな話だったと記憶している。なるほど大経営者は考えることが違うと感心したのだった。

 資本主義の代弁者だった日経新聞の記者たちが新たなパラダイムに着目していることは重要である。天国の賀川先生も喜んでいるに違いない。資本主義が曲がり角を迎えるこの時代に触覚のよさを発揮している。(伴 武澄)
 津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。店の造りはどうみても居酒 屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じ ていないからそんな料理は注文しない。

 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。
 話したいのは食べ物の話ではない。この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。氏神さまは 九木神社、鬼の字はなくなっている。九鬼は戦国時代に海将として名を馳せた九鬼義隆の出身地である。九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織 田信長、豊臣秀吉につかえた。朝鮮戦役では表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。徳川の時代になっ て兵庫の三田と京都の綾部の藩主に転封され、海との縁を切られた。

 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九鬼に住んでいた。九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。

 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」 の名のつく地名だった。三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。

 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一か ら九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあっ て、順番に一から九まで名を付けられたということだった。

 戸の代表的地名は神戸である。「こうべ」「かんべ」などと読む。神の戸だから神社が所有していた"領地"だった。ちなみに関東から東北にかけて戸のつく 地名は数多くある。まず江戸だ。水戸、松戸、登戸など上げればきりがないが、いずれも「と」と発音し、青森と岩手の「へ」と区別する必要があるのかもしれ ない。

 熊野は水軍が育った土地柄である。連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。水軍が一から九まであって その水軍を熊野別当が統帥していた。つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしても おかしくない。素人考えの続きである。

 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。

 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白川上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白 河法王は熊野に34回も詣でている。朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷-平家-熊野の三位一体の時 代が一定期間続いたのである。

 その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。これが平家にとって最大の読み違えだった。これは歴史的事実である。弁慶 は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。

 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。素人の連想である。熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木 本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。

 おー、やっぱりそうだったのか。一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。

 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼 という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話 をしてきたが、明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。名字だけではあるが五鬼は存在した。だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうな のである。

 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)

 津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。店の造りはどうみても居酒 屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じ ていないからそんな料理は注文しない。

 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。
 話したいのは食べ物の話ではない。この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。氏神さまは 九木神社、鬼の字はなくなっている。九鬼は戦国時代に海将として名を馳せた九鬼義隆の出身地である。九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織 田信長、豊臣秀吉につかえた。朝鮮戦役では表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。徳川の時代になっ て兵庫の三田と京都の綾部の藩主に転封され、海との縁を切られた。

 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九鬼に住んでいた。九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。

 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」 の名のつく地名だった。三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。

 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一か ら九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあっ て、順番に一から九まで名を付けられたということだった。

 戸の代表的地名は神戸である。「こうべ」「かんべ」などと読む。神の戸だから神社が所有していた"領地"だった。ちなみに関東から東北にかけて戸のつく 地名は数多くある。まず江戸だ。水戸、松戸、登戸など上げればきりがないが、いずれも「と」と発音し、青森と岩手の「へ」と区別する必要があるのかもしれ ない。

 熊野は水軍が育った土地柄である。連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。水軍が一から九まであって その水軍を熊野別当が統帥していた。つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしても おかしくない。素人考えの続きである。

 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。

 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白川上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白 河法王は熊野に34回も詣でている。朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷-平家-熊野の三位一体の時 代が一定期間続いたのである。

 その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。これが平家にとって最大の読み違えだった。これは歴史的事実である。弁慶 は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。

 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。素人の連想である。熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木 本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。

 おー、やっぱりそうだったのか。一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。

 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼 という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話 をしてきたが、明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。名字だけではあるが五鬼は存在した。だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうな のである。

 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)
 2005年02月16日の日記である。まだ公開していない文章を紹介したい。
 日曜日に神島に行こうと決めて、土曜日の午後、近くの書店で三島由紀夫の『潮騒』(新潮文庫)を買った。夜、その本を読みながらインターネットで鳥羽から神島への船便を検索した。

 一周しても一時間足らずの小さな島であるが、午前の便で着いたら、午後3時半にしか帰りの便がないことを知った。どうやって時間も過ごすのだろうと考え たが、行ってみると時間はそう余らなかった。『潮騒』は一夜では読み切れなかったから、鳥羽からの船で続きを読み始めた。連絡船はポンポン蒸気に毛の生え た51トンの小さな船だった。224人乗りの船に客は十数人だった。途中菅島に寄ったら、乗船客は名古屋からのアベックと僕だけになった。
 荷物はけっこうあって、クロネコヤマトの宅急便と郵便マークの入ったずた袋が一緒に運ばれている光景を目にし て、ほほえましかった。連絡船は鳥羽市が経営しているものの、小さな島への荷物では官も民もないのは当然のことと理解しなければならない。郵便局の民営化 でサービスの低下が議論されているが、民営化されたらされたでなんとかなるものなのだ。

 日曜日なのに鳥羽沖には多くの漁船が出ていた。冬の太陽に海がきらきら輝いて漁船の影を映し出していた。太古からこの海域は海の幸に恵まれていた。天照大神が伊勢の地を選んだのも「美味し国」(うましくに)であったと日本書紀に書いてある。

 『潮騒』を読みながら「営み」ということを考えた。人は生きるために精一杯働く時代がつい最近まであった。海の民だって魚を取るのは生業ではなく、その 日の糧を得るのが本来の目的だった。生きる目的などというものを考えるいとまもなく人間は働き続けてきた。生きる術さえ知っていれば家族を養い次の世代を 育むことができた。その繰り返しが「営み」なのである。営みこそが人間にとって一番崇高な行為なのだ。そう書くと話がややこしくなる。「営み」だけがある とだけ言えば簡単でいい。

 船の中で、ただぼんやりとそんなことを考えていた。

 神島の桟橋に着いて、朝飯を食べていないことを思い出した。桟橋に近くに「コンビニでも」と考えたのは多少浅はかだった。神島は漁港の回りにわずかな平 地があって、そこから急な斜面に家がへばりついている。桟橋から見渡しても漁協と郵便局、それと民宿以外に商売らしきものはない。

 通り掛かりの主婦に「パンでも売っている店はないか」問うた。「あそこの岬っていう看板の右手にある」という。行ってみると、半間ほどのガラス戸の中で 雑貨、小間物を売る店があった。賞味期限が翌日に迫っている「クリームスティック」を買って、ついでに「お食事」と書かれた岬ののれんをくぐった。この様 子だと昼飯を食いそびれると心配になったからである。

 中年のおかみが出てきて「1時過ぎなら用意できます」という。 「ちょうどいい、島を一周して戻ってくるから」と答えて島歩きに出発した。船で一緒だったアベックはすでにどこかに消えていた。

 神島の人口は600人。その昔でも1500人程度だったらしい。だから家といっても数百もあるわけでない。家と家はほとんどがひっついていて、わずか1 メートルほどの通路のような坂道が家と家を隔てている。人がすれ違う時はどちらかが立ち止まって避ける。だから島には自家用車はおろか自転車さえも見かけ ない。走る道がないのだ。

 何人かとすれ違って、3人目だったと思う。手にサカキを下げたおばさんが「正月が来るから」と独り言をいったので、「神さまにそなえるのですか」と聞いた。

 おしゃべりはいきなり始まった。

「神島の人たちはみな、平家の落人だから高貴な生まれだ」という話から、「ここの神さまは伊勢神宮よりも古い」だの「江戸時代に漁に出た男たちがしけで全滅して女ばかりになって養子をとった」だの、昔々の話をさも最近の出来事のように話すのが面白かった。

 話が神島で有名な正月のゲータ祭におよんだので「島外からも大勢くるんでしょうな」と聞くと「なーに。民宿の人たちもみんな祭に出るからお客をとれない のよ」と返ってきた。ゲータ祭は正月の未明に行う。見に行くとなれば、そんな時間に船はないから前日から泊まらなければならない。島の人は宿泊客の世話よ り自分たちのお祭りの方が大事らしい。おばさんによれば、商売っ気などはなからないのだそうさ。

 神島の正月は祭が続く。ゲータ祭は元旦の夜明けに、グミの枝を束ねて2メートルほどの輪にした「アワ」を島の男衆が長い竹の棒で持ち上げて落とす珍しい 祭だそうだ。おばさんによれば、過ぎた年の厄を払う行事なのだ。2日になれば漁船が大漁旗を上げて船からお金をばらまく祭があるという。4日は米寿とか喜 寿になったお年寄りが神社の境内でまたお金をまく。だれでも拾っていいのだそうだ。その後、獅子舞もある。さらに6日には弓祭もあるから見に来なさいとい う。山積みされたすす竹・しめ縄・門松などを火にかけ、火の向こう側においた的に矢を射るのだ。

 おばさんとの会話が長くなりそうになったので、失敬して八代神社に向かった。『潮騒』にも出てくる「女坂」を登った。坂といっても家と家の間を縫う狭い 通路のような階段である。神社に向かう境内の200段の階段を登る時は時々、後ろを振り返ると伊勢湾がきれいだと聞いていた。そんなことを思い出し、横の 路地にそれてから正面の男坂にたどり着いた。息を切らして振り返るとなるほど美しい。松の枝越しになんども振り返った。

 伊勢から神島はほとんど見えないが、ここから見る伊勢は存在感がある。というより伊勢湾全体が生活圏だということがよく分かる。
(2005年02月16日)

user-pic
0

伴武澄氏講演会「甦る賀川豊彦の平和と協同」のご案内


100 年前、1人の牧師の卵が神戸のスラムに身を投じました。若き日の賀川豊彦です。貧しい人々と「ともに生きる」ことを学び、大正期最大のストライキを指導し ます。自らの半生を描いた自伝小説『死線を超えて』がベストセラーとなるや、その印税で農民組合運動や協同組合運動に乗り出し、内外に賀川の名が知られる ようになります。関東大震災では政府や東京市が手をこまねいていた本所地区で多くのボランティアを率いてセツルメント運動を起こし、賀川の名はさらに高ま ります。

戦後は東久邇内閣の参与として、平和国家日本の建設に邁進し、世界的広がりをみせていた世界連邦運動の国際的指導者となります。晩年、ノーベル平和賞、同 文学賞候補にもなっていますが、その後、その存在は急速に忘れ去られました。戦争と貧困が大きな課題として世界の立ちはだかる時代にいま一度賀川に光を当 てたいと思います。

テーマ:「甦る賀川豊彦の平和と協同」
講演者:(財)国際平和協会会長 伴 武澄氏
日時:1月31日(日)14時~16時(終了後懇親会有、参加費別:4000円から5000円程度)
主催:財団法人国際平和協会
場所:消費者生活センター:第五集会室
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/seikatsu_center/index.html

会費:お一人様、2000円(先着40名様まで、領収書発行可能)
幹事:津田慶治、園田義明
お申し込み:氏名、メールアドレス、懇親会参加の有無をご記入の上、下記までメールで。
fuku41@mail.goo.ne.jp

<伴 武澄氏プロフィール>
思春期をアパルトヘイトの南アフリカで過ごしたことが、人生の転機となった。白人社会の有色人種への差別を身をもって体験し、抜きがたい白人不信に陥る。 早熟な日本への目覚めが始まった。ジャーナリストになる決意した。共同通信社で外信部志望がいつのまにか、経済部記者になる。その後、萬晩報などネットで 活躍し、47NEWS編集長になる。

1951年 高知市生まれ。
1968年 都立国立高校入学。 
1972年 東京外国語大学中国学科入学。
1977年 4月共同通信社入社。
1998年 1月インターネットコラム日刊「萬晩報」を発刊。
現在  (財)国際平和協会会長、共同通信ニュースセンター整理部長

このアーカイブについて

このページには、2010年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2009年12月です。

次のアーカイブは2010年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ