2009年5月アーカイブ

  松沢資料館の杉浦秀典氏が「故鈴木善幸前首相も青年時代に賀川豊彦の感化を強く受けていたんですよ。影山昇『青年鈴木善幸と漁協運動』(成山堂書店、 1992)に書かれていました」とそのコピーを見せてくれた。鈴木善幸といえば、自民党の最高幹部の一人、東北の漁協をたばねているということも聞いてい た。漁協関係者による賀川論を聞くのは初めてだった。そのコピーを以下に紹介したい。
 影山昇『青年鈴木善幸と漁協運動』(成山堂書店、1992)から

 2 賀川豊彦の協同組合運動論への共感

 岩手県立水産学校在学中の鈴木善幸が特に関心を寄せていた人物に賀川豊彦(1888-1960)がいた。
 賀川はといえば、大正9年(1920)に雑誌『改造』に発表した自伝小説「死線を越えて」の著者として当時、広く知られており、同小説は同年10月、改造社から単行本として発売された初版5000部は即日売れ切れてしまうほど好評であった。
 内容についていえば、まことに複雑な家庭環境に生い立った賀川が、青春時代をさまざまな苦悩のなかで過ごすが、やがてキリスト教の愛に触れて人生の決意 を見い出す。そして、つねに弱者の味方になって生き抜いていく決断を確固なものとしていくといった過程を、率直な筆遣いで書き綴っており、佐古純一郎はこ の小説について、「今日から見て、高い芸術的価値を認めることはむつかしいが、第一次大戦後の日本の社会にあふれていた宗教的渇望にこたえて、民衆の心を つかんだところにこの作品が広く迎えられた意義があるのであって、その歴史的価値は否定することができない」と高い評価を与えている。
 ところで賀川豊彦は神戸生まれ。徳島中学在学中にアメリカ宣教師から洗礼を受ける。その後、明治学院、神戸神学校に学び、神学校時代には神戸市葺合の貧 民窟に住み込み伝道活動に従事している。やがて大正2年(1913)に牧師の資格を得た。さらにアメリカのプリンストン大学に2年間留学。帰国して自伝小 説を発表して一躍有名となる。
 著書で得た印税収入はすべて自分の社会労働運動の資金に使っている。
 賀川の社会労働運動とのかかわりについては、大正元年(1912)に創立された友愛会(会長・鈴木文治)に馳せ参じ、やがて同会の最高幹部のひとりと なっており、同会主事の西尾末広や大阪砲兵工廠職工組合の向上会幹部及びキリスト教の同志らと協力して賀川は大正8年(1919)6月、大阪に共益社を設 立している。
 この共益社の宣言をみると、そこには「今日の商業組織に代わり、全くの営利の支配せざる相互扶助の社会が、一日も早く出現せんことを要求する」とかかれ ており、その綱領にはロッチデール先駆者組合を模範として「適当と信じたる貨物より、漸次製造を開始して、一に実用本位の物品を作り、並びに組合員に職を 与えて、相互扶助の達成を期す」という一文も盛り込まれている。
 ついでに大正10年(1921)には川崎造船や三菱神戸造船争議を賀川は指導すると共に同年、神戸購買組合を創設しており、これが今日、日本最大の生活協同組合として知られている灘神戸生活協同組合の一つの母胎となっていることも注目されえるところである。
 また大正11年(1921)にも「保険の協同化を主張す」を発表するとともに、第20回全国産業組合大会(大正13年、福岡市)を社会小説『乳と密の流れるる郷』中で紹介し、賀川はわが国での「組合保険や組合医療の先達のひとりとして評価されてもいる。
 だが大正13年(1924)末に共益社が欠損金2万円を出し、役員会では共益社解散論が優勢であったが、賀川はこの欠損を自ら引き受けて再建に乗り出している。
 その際、イギリスの先例に学び、洋服屋山田商店に詰め襟の国民服を製造させ、広く販売活動を展開するとともに、大正14年(1925)には商法による匿 名組合として共益社事務所内に消費協同組合協会を設立し、これを地方の消費組合設立の機関とするとともに、販売活動で得た収益でもって、共益社の損金の大 半を埋めることに成功する。
 それというのも昭和2年から5年にかけ、「賀川服」と称したこの国民服が毎年5万着売り上げ実績を示してくれたからである。
 いずれにしても賀川は協同組合運動に兄弟愛による理想社会の縮図を見出し、それが労働者や一般市民の生活を守る社会運動を支えるものとして位置づけ、この考え方に基づいて第一次大戦後、一貫して、この運動に情熱を傾けている。
 あわせ大正末期から昭和初期にかけての激動の日本の社会が、正しい方向を見失わぬために精神運動が不可欠であると確信していた賀川は、川崎・三菱神戸の 労働争議の直後、キリスト教を信じる同志と『貧しき者の友となること』などを綱領とする「イエスの友会」を組織し、キリスト教伝道にも力を注ぎ始めてい る。
 こうした賀川豊彦の生き方に、一連の著書や論文を通じてつよい共感をもった鈴木善幸は休暇などで山田町の実家に戻ると、しばしば妹・テツミに持参してきた賀川の著書を読むようにと勧めている。
 また鈴木が目にする郷里はきわめて貧しい生活環境にあり、昭和初期に恐慌の波に洗われた地域の漁村の窮乏は極に達しており、しかもそこに存在する漁業組 合組織はまことに弱体を極めていたということで、賀川の著悪に触れて学んだ協同組合運動論をもって、郷里に戻るたびに、鈴木は地域漁村の生活者たちと話し 合いの機会をもったり、討論などを積み重ねたりしている。
 なお賀川の感化に関して、鈴木は例の岩手放送のラジオ番組で次のように回想している。
 昭和4、5年から昭和7、8年ごろにかけては、農、漁村は未曾有の恐慌であって、特に東北の農村あたりでは、不況、冷害、凶作 に見舞われて、娘を紡績工場に働きに出すというようなことはもとよりですね、娘を身売りさせるという悲惨な、深刻な農・漁村恐慌があったんです。で、そう いうなかで賀川豊彦先生は、宗教家としての人類愛などの信念もあったでしょうし、社会運動家としての立場もありまして、至る所で、この不況にあえぐ農村・ 漁村の救済、それは協同組合運動でなければいけない、というようなことで、都市においては消費者運動、それから、農村、漁村においては協同組合運動を通じ て、農・漁民を経済恐慌から救ってやろう、と、こういう運動をされておった。その陣頭に立って各所で演説会などを催しておられたわけですね。(中略)です から、賀川先生は政治家ではなかったけれども、宗教家であり社会運動家であった。そういう立場から、不況に喘ぐ農村・漁村民の救済運動、それに立ち上がっ た。行動を起こされた、と、こういうことで、私も漁村に育った青年として、大きな感銘を受けたわけです。
  賀川市長が、中央公会堂の就任演説の時に言い忘れたことは次のようなことであった。

「・・・諸君、今日のような非文明的な煙筒の都会に住んでいて、諸君は文明を味わっている積もりでおられるのであるか?

 今日かりに、生駒山が噴火して、大阪はまったく昔のポンペイ市のごとく地下に埋没したとしてみたまえ。そして3333年後に今日の大阪を発掘せねばなら ぬことになったと仮定したまえ、それは何という悲惨なことであろう。33世紀後の人間は、瀬戸内海の東北隅、元淀川の流域付近に、巨人の墓場のようなもの がある。

『なんでもこの付近は、昔大工業の発展した大阪という都市があったんだそうな』

 とエスペラント語に似た響きで『改良日本人』が教えてくれても、その時の人々にはそれはまったく不可解のことであろう。

 33世紀の後には、煙筒などいうものは、どこの都会にも見当たらないし、石炭はすべて採り尽くして無いし、石油の油田も採り尽くしてしまって、動力という動力は、すべてアルコールと電力に変わっている時代であるから、煙筒という言葉さえ、字引に発見されないであろう。

 で、大阪市がかつて横たわっておった地方は『巨人の墓場』として知られ、世界漫遊客が必ず訪問知るところになっているだろう。

 オベリスクの記念塔に比較して非美術的であり、井戸側としては大きなものであるセメントや鉄鋼の煙筒は、墓標研究家もその起源をまったく知らないことを自白するに違いない」

 こんな、痛快な演説をしようと、賀川は思うたが、彼はそれをみな言い忘れた。

「残念だった! 残念だった!」と歯ぎしりしながら、中央公会堂を出たが、彼はいったん公会堂の戸口を出るや否や、もう煙の空にまったく絶望してしまった。

「天日為めに暗し」

というのはまったく、大阪の空のために作られた言葉だと思うと彼は市長の椅子を占めねばならぬことを、悲しく思うた。

 彼は、先任の市長が、煤煙問題をまったく捨てて顧みなかったことを不思議に思うほどであった。

 そうだろう! 彼らは警察官上りや、教員出身であるために、この空中征服の一大使命を課すにはあまりに臆病であったのだ。彼らは煤煙を征服するだけの科 学的知識を持っておらないのであった。無理もないことであった。彼らは昼中に市役所の4階に電燈をつけねばならぬほどの暗い大阪市に満足して平気でいたの である。

 太陽の光線が、煤煙のために妨げられて、市庁舎の窓まで届かないものだから、池上市長と関助役は昼間も電気燈をつけて執務せねばならぬということは、 33世紀後にはとても考えられたことではないが、事実はまったくそうであるから仕方がない。中央公会堂のすぐ裏に建つ市庁舎には、昼間に電燈があかあかと 灯っているのである。

 彼・・・賀川市長はそれを見てまったく憤慨せざるを得なかった。かつて彼がニューヨークの市に遊んだ時に、彼は人口600万の都会に煙の上がるのを見なかった。

 サンフランシスコにおいても同様であった。ピッツブルグは世界における煙筒の都と呼ばれていたが、そこに煤煙征服の運動が起ってついにピッツブルグ市はその煤煙を駆逐することに成功した。

 わが大阪においても、もし市民がもう少し科学的に進歩し、資本主義的工場経営の不生産的なことを理解してくれるなら、煤煙文明の破壊運動が当然起るはずであるにかかわらず、それが出来ないというのは、実にけしからぬ話である。

「よし、俺はすなわち煤煙征服運動にとりかかる。まず市参事会員に会い、それから市会を召集して自分の意見を開陳することにする」

 賀川市長が、市庁舎に帰って、事務室の机の前に坐ったのは、午後の3時半過ぎであったが、室内はとても暗くて、事務がとれない。彼はまた前市長池上がしたごとく、電燈のスイッチをひねった。

 不満な心持ちで、市庁舎の窓から、大阪の西の空を見てみると、野田、春日出の方面において、住友伸銅所の太い3本の煙筒から、そして電燈会社の太い煙筒からもうもうと、雲のごとき煙の立ち登るのを見た。

 彼はそれをじっと見詰めていた。そして、この煙の下に幾十万人の労働階級が嘆きつつあるのだと思うと、涙ぐましくなった。

 彼はすぐに、取り付けてあるベルのボタンを押して、書記を呼んだ。
   賀川豊彦の風刺小説『空中制服』(不二出版)が5月1日発売された。 『空中征服』を再び手にして、この本はひょっとしたら『死線を越えて』より評判にな るかもしれないと思い出した。80年前、東洋のマンチェスターと呼ばれるほど工場が密集した大阪を舞台に賀川豊彦が市長になりさまざまな改革を実行する物 語である。 大阪の新聞に連載された。

 当時の大阪の空は青空がみえないほど煙突からの煤煙に覆われていた。その煤煙を一掃したいというのが賀川市長の公約であった。工場主である資本家との激突があり、市職員のサボタージュがあり、ついには女たちが出てきて賀川市長に協力する。

 大阪の人々の協力を得られず失職した賀川市長は空中都市の建設を夢見る。そこには人間改造機械によって、精神をあらためられた人々だけが送り込まれる。そして風船によって空中に支えられた楽園である田園都市が突如、出現する・・・・・・。

 復刻版に解説を寄せた神戸文学館の義根益美学芸員は「賀川豊彦がみた『空中征服』の夢に、多くの人々が笑い、そして何かを得ただろうと思います。痛烈な 皮肉だと、受け止めた人もいたと思います。大正時代当時の人々と、私たちは随分異なった社会に生きていますが、人間社会の根底をなすものは大きく変わらな いことがわかる1冊です。『空中征服』の世界を通じて、私たちが生きている社会というものを見つめ直す機会になれば幸いです」と書いている。

 書き出しも面白いので2回連続で紹介したい。続きが読みたい方はぜひ書店でご注文ください(伴 武澄)

 空中征服 1.市長就任演説

 「偉大なる大大阪の市民諸君、私はこのたびこの大大阪の市長として席を汚すことになりました。私はそれを光栄に思い、また不名誉にも思うております」

 賀川豊彦が、大阪市長になったという号外が大阪150万の市民に配られたのは、3日前のことであった。それはまったく市民の予想外のことであり、資本家も、労働者も、官憲も、誰もそれを知らなかった。ただ一人賀川豊彦のみが知っていた。

 賀川豊彦はコーヒーを呑み過ぎて、貧民窟の暑い夜、一晩寝られないで、苦しんだあげ句、自分自らを市長に推挙し、大阪の空中征服を思い立ったのである。 それで、号外の出たのは彼一人が、大阪市中に配ったのであって、誰一人号外を配達したものもなかった。彼は夢の中に、大阪市長になって、床の中で一人演説 しているのであった。

「--市民諸君、私が市長としてなすべき事業は実に多くあると思います。その第一は何を言うても、大阪の空中征服であると思います。今日のごとき空を持 ち、あの煙突と、煤煙を持っていては、とても大阪市民は、この50年の健康を続けることは出来まいと思います。大阪精神の確立はまず、空中の煤煙防止から 始むべきであろうと思います」

「私は決して境遇万能論者ではありません。しかし、性格万能論者も必ずしもすべての真理の把持者であるとは言えませぬ。水を離れて魚の生きてゆく道がない ごとく、空気を離れて人間の生きてゆく道がないのであります。したがって大阪人が、大阪精神を創成せんとするならば、まず新鮮な空気を吸うことなしに、そ れは可能であり得ないのであります。今日空気を売買しているのは炭坑であります。そこは空気を坑中奥深く送らなければ坑夫はみな窒息してしまうのでありま す。

 しかしわが大阪の空気は炭坑に比べて決してよいと言うことは出来ませぬ。大阪の空中の炭酸ガスの量は常に百分の五以上であり、その煤煙の量はまさに世界一であります。

 大阪市が世界一の乳児死亡率を持ち、世界一の肺病都市であり、世界一の不健康な都市であるとするならば、私--すなわち諸君の市長が第一にの事業は諸君に対する健康の保証であるべきだと、私は信ずるものであります。

 爾来、医者は仁術と言われておりまして、社会民衆のために努力するのが、その使命でありますにかかわらず、今日の彼らはただ金を多 く儲けさえすればよいというだけのことになっております。彼らは個人個人に対する医術は知っていても、社会病理に対する診断をなし得ないのであります。彼 らは地上を這うことを知っておりますが、空中を征服することを知りません。資本におべっかを言うことを知っておりますが、貧乏人を見舞うことを知りませ ん。お葬式をすることを知っておりましても、社会を社会として生かす術を知りません。ここに私は社会病理学者として、まず空中征服の大役を仰せつけられ市 長として就任することを光栄に思います・・・」
 賀川市長の就任演説はもう少し長かった。しかし、新聞記者が欠伸して、中央公会堂から出て行ったので、話はここで切れている。
 最貧国の一つといわれるバングラデシュの人口は1億5000万人。GDPは815億ドル。一人当たりGDPは1388ドルなのだそうだ。800億ドルだということは日本円にして約8000億円。GDP規模は世界第55位だから、貧しい国はまだまだある。

 日本が景気対策の一つとして大騒ぎした定額交付金の総額2兆円はバングラデシュの生み出す年間の付加価値の2・5倍にも及ぶことになる。昨年来の世界的 金融危機でアメリカは金融支援策として100兆円を準備した。そのほか、70兆円の景気対策を打ち出している。日本の景気対策も50兆円を超える。

 金融システム救済の名目で使われる資金は南北問題を何回も解消できるほどの気の遠くなるような金額だ。

 なにかおかしくはないだろうか。

 先進国の屋台骨を揺るがす金融危機への対応は不可欠である。実体経済への影響を最小限にとどめる必要もある。しかし、長年蓄積してきた金融の歪みが一挙 に噴出した危機であるだけに短時間で"治癒"するとは思われない。政府による金融支援策とは、政府が市場から借金するという意味でもある。10年前の日本 で金融機関が相次いで破たんしたときにも考えたが、機能不全を起こした金融資本から政府が資金を調達して、金融機関にその資金を再投入するのだのだから意 味が分からなかった。意味があるとすれば、政府の信用力だのみということだろうか。(伴 武澄)

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