2009年4月アーカイブ

 賀川豊彦の風刺小説『空中制服』(不二出版)は5月1日発売だが、28日に東京中野区東京都生協連で開催された野尻武敏神戸大学名誉教授の講演会には印刷されたばかりの"著作"が陳列された。賀川関連の最近の出版5冊が並ぶとそれなりにすごいことが起こるかもしれないという感慨にふけざるをえない。

 4月1日発売された太田出版の季刊誌「at」春号は賀川豊彦を特集した。4月7日、小説『死線を越えて』がPHP研究所から復刻され、17日には阿部志郎ほか『賀川豊彦を知っていますか』(教文館)も店頭に並んでいる。2年前にコープみかわや同地のイエスの友会の人々の努力によって『一粒の麦』がすでに復刻されている。

 『空中征服』を再び手にして、この本はひょっとしたら『死線を越えて』より評判になるかもしれないと思い出した。80年前、東洋のマンチェスターと呼ばれるほど工場が密集した大阪を舞台に賀川豊彦が市長になりさまざまな改革を実行する物語である。

 当時の大阪の空は青空がみえないほど煙突からの煤煙に覆われていた。その煤煙を一掃したいというのが賀川市長の公約であった。工場主である資本家との激突があり、市職員のサボタージュがあり、ついには女たちが出てきて賀川市長に協力する。

 大阪の人々の協力を得られず失職した賀川市長は空中都市の建設を夢見る。そこには人間改造機械によって、精神をあらためられた人々だけが送り込まれる。そして風船によって空中に支えられた楽園である田園都市が突如、出現する・・・・・・。

 復刻版に解説を寄せた神戸文学館の義根益美学芸員は「賀川豊彦が みた『空中征服』の夢に、多くの人々が笑い、そして何かを得ただろうと思います。痛烈な皮肉だと、受け止めた人もいたと思います。大正時代当時の人々と、 私たちは随分異なった社会に生きていますが、人間社会の根底をなすものは大きく変わらないことがわかる1冊です。『空中征服』の世界を通じて、私たちが生 きている社会というものを見つめ直す機会になれば幸いです」と書いている。(伴 武澄)

 ムハマド・ユヌス氏によるマイクロクレジットの講演から学んだことの一つは「雇用」という概念だ。ユ ヌス氏が強調したのは「バングラデシュには雇用がない」ということだった。バングラデシュの人々は、雇用がないから生活の糧を得るために自ら機織りをした り、ニワトリを飼って卵を産ましたりしなければならない。つまり生活をするために「自営」の"事業"をまず考えることからはじめなければならないのだ。

 いま大学生は来年3月の卒業に向けて就職活動に必死である。家業を継ぐ覚悟をした少数の学生以外はすべて「他力本願」である。定年を控えた中高年齢層も また、60歳以降の「雇用してくれる先」を捜している。同じく他力本願で、誰もなりわいを自ら創出するなど考えもしない。
 以前、台湾・香港・大陸に長年住んだ友人が中国人の商売について語っていたことを思い出した。「誰もがまず露 天商から始まり、小金を貯めて屋台を引く。屋台で成功した人が初めて店舗を借り、人を雇って事業を拡大する」。あまりにも当たり前の話に当時は「それがど うした」といった認識でしか受け止めていなかったが、これは重要なことなのだといまさらながら気付いた。

 考えてみれば農業などの第一次産業を糧としている人たちはみんな「自営」である。つまり農民がほどんどたっだ時代はみんな「自営」だったから、「雇用」 などという概念はなかった。商店で働くには丁稚、物作りの場合は弟子として職に就いた。まずは住み込みで食べさせてもらえるだけで感謝しなければならな かった。雇用のない時代に「雇用契約」などももちろんない。丁稚や弟子たちは叱られようが、殴られようが、我慢するしかなかった。

 昨年あたりから「貧困」が社会を描くテーマとなった。その場合は常に「働く場を失われた」といった表現が枕ことばとなる。本来、人間は自ら働く場を創出 してきたのではなかったのか。そんな疑問がふと頭をよぎるようになった。いまではよぎるどころではない。頭をほぼ占領している。

 会社勤めも残すところ2年となったいま、このまま「再雇用」を選択しないのならば、今のところ屋台を引くことしか考えられない。このまま他力本願を続けるしかないのか心が千々に乱れる。少なくとも屋台を引く覚悟だけはもって後2年を過ごしたい。(伴武澄)
  一昨年、昨年と47NEWSの編集に携わりながら、全国のサクラ紹介とサクラマップをつくってきた。その仕事からは外れたが、「花咲爺ブログ」を続けて欲 しいという要望があった。今まで筆が進まなかったのには理由がある。今年の桜前線は例年より早く列島を北上するとの予測が出ていたが、3月後半の寒さで、 開花宣言から満開まで時間がかかった。

 そういうわけで、サクラを愛でる意欲が例年より減退していた。しかし、何冊か新たにサクラの本を取り寄せ、東京のサクラの名所を歩き始めるとエンジンがかかってきた。5日は筆者が隠れた東京の名所だと思い込んでいる上北沢の駅前を訪れた。
 満開だった。5日は日曜日だったため、サクラ並木は縁日のようだったが、平日は人通りも少なく静かにサクラをめでるにはいい場所だ。並木としては規模は小さいが、我が町のサクラ並木として通勤や通学、買い物の行き帰りに愛でるのにはいいサイズなのだ。

 サクラを眺めながらこの町の誕生について考えた。上北沢は桜並木を中心に肋骨状に住宅街が広がっている。田園調布や国立の南口は扇状に住宅が広がってい るが、肋骨状は珍しい。というより大正期以降、サラリーマン層が郊外に住宅を求めるようになった時、サクラ並木を中心に町をつくったことが多かった。

 上北沢は戦前の社会運動家、賀川豊彦が関東大震災以降住みついた。賀川のシンパが多く移り住み、大宅壮一も隣の八幡山を住居とした。隣接して精神医科の 松沢病院があったため、上北沢周辺は同時期に開発された田園調布や成城学園などと比較しておせじにも人気化したとはいえなかった。その分、"高級住宅地" ともならず、普通のサラリーマンの町として成長していった。

 上北沢にはいまも、賀川豊彦記念松沢資料館、松沢教会、その付属幼稚園と保育園があり、住民にとって誇りのひとつとなっている。桜並木の樹齢は約90年ぐらいだろうか。。誕生はたぶん賀川が住み着いた1923年ごろと推定される。

 サクラはこの時期日本のどこでも咲いている。それぞれに美しい。名所といわれるところは人混みで風情どころではない。屋台の醬油のにおいで興ざめでもある。サクラはやはり愛でるものであり、静けさの中にこそうたごころも生まれようというものだ。(平成の花咲爺)
  泰山府君という名のサクラがある。大振りの八重桜で花弁が35-40枚もある。花の外側ほど色が濃く、中心部は白い。新宿御苑にもあるから、名前を知らな くとも見たことがある人は多いはずだ。間違えても中国から渡来した品種だと思ってはいけない。里桜といわれる、いわゆる配合種の一つである。

 能を趣味にしている人はたぶん、その名前の由来も知っているはずだ。能「泰山府君」は世阿弥の作として伝わる能の演題にもあり、まさしくその名前が生まれた平安時代の物語を素材としているからだ。
 平安の末期、平家が全盛となった時代に桜町中納言という公家がいた。父親の藤原通憲(信西)の子、成憲は平治 の乱で父親が敗死し、婚約者だった清盛の娘は左大臣藤原兼雅に嫁いでしまう。世をはかなんだ成憲は、邸宅にサクラを植えて心の癒やしとするようになった。 サクラの季節には人々を招いて宴を催したため、「桜町」の名がついた。

 成憲はサクラの命の短いのことを嘆き、「泰山府君」に祈ったところ、20日の命に延びたことから、後の人たちがそのサクラを「泰山府君」と呼ぶようになったという話である。平家物語にその典拠があり、平家では「泰山府君」ではなく、天照大神となっている。

 泰山は中国道教の5カ所の聖地のひとつ、というより筆頭の聖地で、山東省にある。日本には古くから道教が入ってきていて、平安初期に唐に渡った天台の高僧円仁が学んだ赤山法華院もある。(平成の花咲爺)

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