2009年3月アーカイブ

 そのむかし、夏目漱石は東大で英語で授業を受けていたから、英語で詩を書くことに惑いがなかったと聞いたことがある。明治人はいまと比べものにならないくらい国際人だったことは誰もが気付いているに違いない。

 国際社会の舞台で堂々としていた多くの明治人には漢学の素養を身に着ける一方、国際語としての英語を通じたヨーロッパ文化の常識に通じていた。これは常 識の部類なのだろうが、どうして明治人にできたことが昭和人にできなかったのか? そんな疑問を抱き続けていたが、穂積陳重『法窓夜話』(岩波新書)を読 んでその疑問がある程度氷解した。
 明治初期、日本が西洋の文物を取り入れるにあたって一番苦労したのは「言葉」だった。明治初期の高等教育は東 京外国語学校、そしてそれに続く各地の英語学校から始まった。東京英語学校、仙台英語学校、大阪英語学校はそれぞれ一高、二高、三高に発展した。なぜ仙台 が「二高」となったのかという疑問はさて置いて、多くのお雇い外国人を雇用してヨーロッパから輸入した教科書で日本の高等教育が始まった。

 ヨーロッパの学問や制度には政治も科学も含めて日本語にない概念が多すぎたから、すべての授業は外国語、主に英語で行われた。お雇い外国人教授に引き続いて教壇に立った多くの日本人教授もまた外国の教科書を持ち込んで外国語で学生を鍛えた。

先生「France is now a republic. Not like our country, they dont have a king as a Sovereignty」
学生「先生、そのrepublicというのはなんですか」
先生「日本では歴史始まって以来、天皇がまつりごとの中心におられたが、フランスにはそのような存在はもはやない。つまりpeopleがsovereignというこっちゃ」
学生「ますますわからん。そのSovereigntyとかsovereignとか日本語で説明してください」
先生「それが先生もわからんのじゃ。まつりごとをつかさどるという意味だが、日本にはそういう意味の単語がないのだ。天皇が京都に在位していて、将軍が江 戸でまつりごとをつかさどっていた。その将軍が大政奉還して明治の世となった。天皇が復権したいま、ヨーロッパに学んで天皇を中心にどのようなまつりごと の仕組みをつくろうかみなが考えている最中なのだ」

「政治」も「共和」、「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。だから授業はほとんどが英語だった・

 明治期に多くの現在の政治、経済用語が生まれたが、「Constitution」という概念が最後まで日本語として定着しなかった。穂積によれば「定着するまで20年近い日々を必要とした」ことになっている。

 穂積は漢学者の家に生まれ、イギリスとドイツに留学し、建学間もない帝大法学部講師になったが、明治14年まで授業はすべて「英語」だったと書いてい る。「ようやく授業に日本語が入るようになったのは明治14年。法学部の授業が日本語になったのは明治20年ごろ」だったのだそうだ。

 またConstitutionというフランス語を最初に「憲法」という漢字にあてたのは、箕作麟祥だった。明治6年のことである。「国法」、「国制」、 「国体」、「朝綱」など、使用されていたさまざまな訳語の一つにすぎなかったから、まだ定着はしたとはいえなかった。大学の授業では Constitutionで通っていたはずだ。

 明治政府は明治16年、伊藤博文を「憲法取調」という役職につけた。プロシア、オーストリアに憲法を学びに行かせた。というより自ら学びに出掛けた。そ の時「憲法取調」という役職が新設されたといった方が正しい。政府として初めて「憲法」という漢字を使ったから、それからConstitutionは日本 語で「憲法」と定着したらしい。

 江戸時代の「憲法」という語はいまでいう六法全書のようなものを意味していた。ちなみに福澤諭吉は慶應2年の著書『西洋事業』で「アメリカ合衆国のConstitution」のことは「律例」と訳している。(伴 武澄)
  インドのタタ自動車は23日、約束通り10万ルピー車「nano」を発売した。当初は30万円といわれていたが、その後のルピーの下落によって日本円では 20万円となった。エアコンもない最小限の装備だが、これまでオートバイに頼っていた人々にも手の届く価格帯で、爆発的に売れるだろう。昭和30年代に日 本で軽自動車というジャンルが生まれてモータリゼーションに火がついたようにインドで今後、大きな社会的変革をもたらすことになるだろう。

 インドでの自動車販売をリードしてきたスズキ自動車にとっては脅威となるとも見方も出ようが、そうではない。namoによって自動車市場がさらに大きく飛躍するのだと考えたい。
 中国経済について、筆者は一貫して楽観的見通しを立ててきた。世界的金融危機の後も世界的にマイナス景気に 陥っている中で少なくともプラスを維持している。自動車販売でも一時的に前年比マイナスになったが、2月にはプラスに転じた。この傾向がどこまで続くか分 からないが、中国では初めて自動車を購入する層が圧倒的に多いから、買い控えという現象は先進国のように起こらないというのが筆者の見方である。 BRICSのうち中国とインドが元気な話題を提供してくれていることに感謝しなければならない。(伴武澄)
  イタリアのジウジアーロがハイブリッドを設計するとこうなる。同社は3月に開催されたジュネーブ・モーターショーでコンセプトカー「Namir」を発表し た。燃費はリットル当たり39キロ、CO2排出量が60g/km。50リットルの燃料タンクを満タンにすると無給油で2000キロ走れるというから驚異的 だ。

 同社のハイブリッドシステムは独特。トヨタはホンダがモーターを発車時など補助的に使用するの二対して、エンジンはあくまで発電用でほとんどモーターで 走るというシステムを導入した。システムはリアに横置きに配置した排気量814ccのジェネレータ付きロータリーエンジンと4個のモーター、それに108 個のセルからなるリチウムイオンポリマ2次電池で構成する。
 最高出力は270kW(370PS)。最高速度は300km/h、停止状態から100km/hまで3.5秒、 200km/hまで10.4秒で達する。燃費は39km/L、CO2排出量が60g/km。50Lの燃料タンクを搭載し、航続距離は2000kmとした。 世界で最も高性能なハイブリッド車を実現しつつ、ハイブリッド車としての低燃費性能も両立したという。 (伴武澄)
  日本の電気自動車開発でトップランナーの三菱自動車は3月のジュネーブ・モーターショーに魅力的な「i MiEV SPORT AIR」を発表した。i MiEVは今夏に300万円前後で発売される見通しで、1回の充電で160キロ走行できるのがウリであるが、i MiEV SPORT AIRはデザインをさらに進化させたプロトタイプ。

 電気自動車は走行距離が短いのが普及を遅らせる原因となっている。普通のドライバーが日常的に走る距離はせいぜい50キロだから、1回の充電で100キ ロも走れれば実用的に十分なはずだが、たまの家族旅行で長距離を走りたいというドライバーも少なくない。だが、2台目、3台目を保有している家庭では日常 の買い物や通勤に使用するために1台ぐらい電気自動車であってもいいはずだ。
 問題はいくら環境によくてもかっこが悪ければ売れない。街を走行中に「アッ」といわせるデザインなら多少価格が高くとも買いたくなる。日本でクルマは基本的にファッションなのだから。

 どうでもいいことかもしれないが、このミニ電気自動車を登録するときには軽自動車のジャンルになるこだろうか。そのむかしロータリーエンジン搭載車が登 場したとき、レジプロエンジンと比べてほぼ2倍の出力が出ることから「馬力」で課税だれたという経緯がある。ちなみに、i MiEV SPORT AIRのモーターの出力は60Kw。1200ccのレジプロエンジン車程度の馬力はあるのだ。(伴武澄)

  賀川豊彦献身100年を記念して賀川豊彦のベストセラー『死線を越えて』が4月7日、PHP研究所から復刻される。復刻版には哲学者、山折哲雄氏が「復刻 に寄せて」を寄稿、大正時代の大ベストセラーがいま甦ります。献身100年プロジェクトではすでにこの出版を告知しており、発売と同時に品切れとなる恐れ もあります。ぜひお近くの書店で早めのご予約を。

 賀川豊彦『死線を越えて』PHP研究所 定価:本体1,500円(税別)
 【帯裏】賀川がスラム街に入ったころは、日本資本主義の勃興期にあたっていた。第一次世界大戦で戦時景気が訪 れ、戦時成金が続出した。それにたいして労働者は劣悪な状況におかれ、社会保障もいきわたってはいなかった。貧富の差ははなはだしく、貧民階層の不満が世 の中を覆っていた。そのような時代に、スラム街における愛と献身の物語が文字どおり彗星のように登場したのだといっていいだろう。キリスト教のヒューマニ ズムが多くの人びとの心を惹きつけ、たちまち広い層に浸透していったのである。その当時の社会状況が今日の日本の姿に重なって映らないであろうか。アメリ カにはじまる世界的な金融恐慌がわが国をも直撃し、昨年は、格差社会のひずみが随所に噴きだして小林多喜二の小説『蟹工船』がブームとなった。そしてその 『蟹工船』が発表される九年前に、賀川の『死線を越えて』がすでに世に出ていたことを思い返すとき、今回の復刊の試みがあらためて時代の動きにうながされ たものであることを痛感するのである」――(「復刻版に寄せて」より)
  バングラデシュのグラミン銀行総裁で、ノーベル平和賞の受賞者ムハマド・ユヌス氏を招いたシンポジウムが7-9日、神戸市の神戸国際会議場と神戸大学百年 記念館で開かれる。賀川豊彦(1888-1960)が神戸のスラムに入って救済活動を始めて100年となるのを記念した賀川豊彦献身100年記念のキック オフ事業として行われる。

 シンポジウムは神戸大学と賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会との共催。テーマは「持続可能な社会づくりとソーシャルワーク」。

 8日はユヌス氏が「もうひとつのソーシャルワーク-グラミン銀行が提起する新しい方向」と題して講演。講演を受けた対談では日本の社会福祉分野の第一人者である阿部志郎・神奈川県立保健福祉大学名誉学長が登壇、貧困からの脱却について意見交換する。
 献身100年の記念事業は東京と神戸で計4回のシンポジウムを開催するほか、黒木瞳主演の映画「死線を越え て」(リメイク版)の上映会を全国各地で開く。また4月には賀川の大正時代のベストセラー小説「死線を越えて」がPHP研究所から復刻、秋には賀川の生涯 を描いた劇画本も出版される予定。

kagawa016.jpg 賀川は大正期から労働組合、協同組合、農民組合など社会運動を指導、戦後は世界連邦運動を推進し、平和運動家としてノーベル 平和賞の候補にも挙げられた。著作は小説、詩集、評論、経済書など200冊以上に及び、「死線を越えて」は上中下巻で400万部を売った。

 ESDシンポジウム イン KOBE ~持続可能な社会づくりにおけるソーシャルワークの意義~

ESDシンポジウム イン KOBE「持続可能な社会づくりとソーシャルワーク」
2009年3月7日 (土)13:00-17:00
神戸大学百年記念館六甲ホール
プレセッション
 研究の共有ワークショップ
 「ムハマド・ユヌス」「賀川豊彦」
 「マイクロクレジット」「ESD」

2009年3月8日 (日)12:30-17:00
神戸国際会議場メインホール
メインセッション
  基調講演: ムハマド・ユヌス 氏 2006年ノーベル平和賞受賞
  「持続可能な社会づくりとソーシャルビジネス」
    もうひとつのソーシャルワーク
    グラミン銀行が提起する新しい方向~」
講演:阿部志郎氏 神奈川県立保健福祉大学名誉学長
 「ESD 実践の草分けとしての賀川豊彦」
対談:ムハマド・ユヌス氏・阿部志郎氏
 「ESDに資するソーシャルワークの現在・過去・未来」
 司会:上野谷加代子 同志社大学教授

2009年3月9日 (月)09:15-13:00
神戸大学百年記念館六甲ホール
神戸大学学生とユヌス氏とのトークセッション
神戸大学名誉博士号授与式

主催:神戸大学、賀川豊彦献身100年記念事業神戸プロジェクト実行委員会
 詳しい内容の問い合わせは以下。
 神戸プロジェクト 078(371)3550
 東京プロジェクト 03(3302)2855

このアーカイブについて

このページには、2009年3月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2009年2月です。

次のアーカイブは2009年4月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ