2008年12月アーカイブ

千日回峰行

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  1978年11月だったと記憶している。酒井雄栽師が千日回峰行を満願するという話を聞いて、深夜に比叡山に上った。しんしんと冷え込む中、多くの信徒が 真言を唱える。不動堂に籠もり9日間、不眠・不臥・断食・断水の荒行を終えて閼伽井の水をくむため堂から出る酒井師の無事な姿をとらえた。目がつぶれるか らとフラッシュが厳禁され、ASA1600の増感現像でようやく酒井師の姿が闇に浮かび上がった。(撮影は伴 武澄)




聖フランシスコの祈り

主よ、
私をあなたの平安の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑あるところに信仰を、
偽りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを求めますように。
私たちは与えるから受け、
ゆるすからゆるされ、
自分を捨て去ることによって、
永遠の命をいただくのですから。

 アメリカのビッグスリーの経営は末期的症状である。今年の売り上げが前年比3割減、4割減では経営が成り立たないのも当然である。昨年来、債務超過となっているゼネラルモーターズが依然として上場し続けられるのが不可解である。

 日本の自動車メーカーも対岸の火ではなくなった。トヨタ、ホンダでさえ、通年赤字経営となる見通しを発表した。この先、どこまで赤字が膨らむのかさえ見 えなくなった。販売台数減と円高が経営を挟撃している。特に円高が1ドル=80円台が定着するとほとんどの輸出企業が先の見えない経営環境に突入するはず だ。
 自動車に次いで危ないのがメディア業界である。大手新聞でも赤字に陥るとされ、、一部の全国紙では身売り説もうわさされている。なぜ自動車と新聞なのか。職場で議論になった。双方とも90年代の「価格破壊」にさらされなかった業界だという結論に達した。

「なるほど」。そういうことかもしれない。環境問題と燃料費の高騰が日本の自動車業界を後押しした。円高でも輸入ディーラーが差益還元を十分しなかったこ とも幸いした。新聞業界は独禁法の手厚い保護に守られながら、日本語という"障壁"で外資と直接競合することがなかった。しかも電通、博報堂という広告業 界の寡占が世界的にも高水準の広告費収入を維持してきた。

 トヨタは2007年、生産台数でGMを抜いて世界のトップに躍り出たが、この10年間で生産を2倍に増やしている。80年代の日米自動車貿易摩擦の反省 から、各メーカーとも国外での生産に力を入れてきた。海外生産の強化によって、結果的に円高にも強い企業体質になったが、この10年の日本車の売れ行き増 で輸出にも拍車がかかり、為替変動に極めて弱い体質に戻っていたのだ。

 国内での自動車離れはきのう、今日に始まったわけではない。その昔、若者が就職してまっさきに買うのがマイカーだった。しかし、初任給は据え置かれ、年 功序列賃金が廃止される中で、自動車価格はどんどん上がってしまった。むやみな排気量アップや装備品の高級化が原因である。金利は低いとはいえ、自動車 ローンへの恩恵はあまりない。自動車離れが進むのも当然である。

 なぜ、自動車は価格破壊を免れたか。理由は単純である。90年代に進んだ円高にもかかわらず、輸入車ディーラーは輸入車価格を高い水準に据え置いたか ら、国内メーカーは価格面での競争にさらされなかった。トヨタのカローラとフォルクスワーゲンのゴルフは古くから世界市場でシェアを争ってきたが、日本で のゴルフはカローラの2倍近い価格で売られている。オーナーとなれば、部品や車検価格に「輸入車」というハードルもある。

 輸入車は高いというバカバカしい常識が今もって日本では通用しているから不思議でならない。多くの業界では輸入品との価格競争で、「価格破壊」を余儀な くされたのに、自動車業界だけはその競争にさらされなかった。短期的には幸運だったかもしれないが、ここへきて円高の「免疫力」のなさが業界に大きな試練 となって跳ね返ってきているのだ。(続く=伴 武澄)
  ブッシュ大統領が12月14日、イラクでの記者会見で靴を投げ付けられるという珍事があった。二回も投げ付けられたが、ブッシュ大統領はたくみに"攻撃" をかわした。暗殺された大統領は少なくないが、靴を投げ付けられた大統領は前代未聞、これからもめったに見られない光景だろう。映像ニュースを転載した ユーチューブは大賑わいである。

 23日の共同通信電は、その靴を製造していたトルコのメーカーに注文が殺到し、従業員を100人も増強したと伝えている。この不況時に従業員を増やしているのはこの靴メーカーだけだろう。
 注文は"事件"の直後、イラクから入り始め、年間で1万5000足しか売れなかったものが、37万足もの注文 となっており、この会社は靴の名前を「ブッシュ・シューズ」と改めたそうだ。アメリカからも1万9000足の注文があるというから、これからもっともっと 売れるのだろう。

 ブッシュ大統領は不屈(くつ)の精神でイラク戦争の正当性を強調したかったのだろうが、屈(くつ)辱のシーンは全世界に放映された。大統領はこのまま鬱 屈(くつ)した気分で政権終(シュー)末を迎えることになる。一幕のシーンをみた世界の人々は「クックッ」と笑いを抑えることができなかったそうだ。

 米国内でもブッシュの威信は落ちており、米国のヒストリー・ニュース・ネットワークが4月1日公表した歴史家109人にするネット投票では98%が「失 敗した大統領」と認定し、61%が「史上最悪の大統領」と酷評した。ブッシュ靴事件は直後から、インターネットを駆け巡り、数多くのゲームやビデオ・マッ シュアップをも生み出している。後世の人々はブッシュ大統領を「靴」というキーワードで思い出すことになるかもしれない。
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 【カイロ23日共同】イラク人記者が首都バグダッドでブッシュ米大統領に投げ付けた靴のメーカーに注文が殺到し、トルコ西部イスタンブールにある同社は注文に対応するため従業員100人を臨時で雇うことになった。フランス公共ラジオが22日伝えた。

 靴メーカーの担当者によると、「事件」が起きてから22日までに計37万足の注文が舞い込んだ。これまで、投げ付けられた靴のモデルは年間1万5000足しか売れていなかったという。同モデルは「ブッシュ・シューズ」と改名された。

 靴は工場から出荷時の価格が1足27ドル(約2400円)。

 注文は当初イラクからが大半だったが、その後、ほかの中東諸国をはじめ、世界各国から集まるようになった。米国からも1万9000足の注文があった。

 中東のアラブ諸国では、同記者の靴投げを「英雄的な行為」と支持する声が広がっている。


2008年12月21日(日)
公認会計士 田中 靖浩
 やはり恐れていたことが次々と起こり始めた。
 学生の内定取り消しだけでなく、従業員の解雇、そして企業の倒産。
 サブプライムローンに端を発する金融不安が世界中を揺るがしている。とうとう日経平均株価はバブル崩壊後の最安値を更新して6000円台まで下落した。

 もともと米国のサブプライム・ローンの焦げつきが事の始まりだった。この米国の不動産市場の問題が世界中に広がっている。

 かつて1990年代の後半、日本でも大手金融のいくつかが経営破綻するという金融不安の時期があった。しかし思い出してみると、あの時期の日本の金融不安はあくまで「日本の問題」であり、それが世界の経済・景気に悪い影響を与えるということはなかった。

 今回は様子が違う。米国の不動産・金融の問題が世界中に影響を及ぼしている。その背景には「世界の資本市場の国際化」という事情がある。

 現在の資本市場はIT(情報通信)技術の発展などによって高度にネットワーク化され、もはや「国際資本市場」と呼ぶべき状況だ。米国人の株主が日本の株 を買い、また私たち日本人が中国やインドの株を買う......。こうした国境をまたいだ取引は当たり前のように行なわれている。投資の世界に国境はない。

 だからどこか1つの国で起こった金融不安が瞬く間に世界中に広がってしまう。米国で損をした投資家は、日本や他の国の株を売って穴埋めしようとするから だ。世界の資本市場が1つになったことで、確かに投資の世界では多くのメリットがあった。

 しかし、今回の事件では、資本市場が国際化されるデメリットが表に出てしまった感がある。いいことだけでなく、悪いことも世界中に広がってしまうということだ。

 それにしても、わが国を見渡す限り日経平均が最安値を更新したとは思えない平和な風景だ。人びとは当たり前のように生活し、夜はいつものように酒を飲んでいる。
 それでも少しずつ少しずつ世界の景気悪化の影響は出始めている。あのトヨタ自動車までも大幅な業績悪化が避けられない状況だ。

 業績悪化に加えて金融収縮、つまり世間にカネが回らない状況になり始めており、資金繰りがつかず経営破綻した会社のニュースが目立つようになった。特にここ最近、プチバブルと呼んでもいい好景気を謳歌してきた不動産会社の経営破綻が目立つ。

 内定取り消しをめぐる運と不運

 不動産会社に内定していたものの、会社が経営破綻して内定が御破算になったという学生さんと話をする機会があった。
 本人はかなり落ち込んでいたが、私は気にするに当たらないと思う。むしろ運がいいとさえいえるのではないか?

 そもそも「会社はつぶれない」などというのは思い込みにすぎない。人間の命に限りがあるように、会社にだって栄枯盛衰がつきものなのだ。会社だって運が悪いとつぶれる。

 そんな当たり前のことを身をもって学べたというのは、かなりの収穫だと思う。しかも会社に入る前というのが運がいい。会社に入って数年してから、本人の意に反して放り出されるのとはワケがちがう。

 この連載でもかつて「若いときにできるだけ失敗しておいたほうがいい」と書いたが、今回渦中の学生さんはまさに大いなる学びを体験できたわけだ。

 ただ、その失敗を将来の糧(かて)にするため、「どうしてその会社はつぶれたのか?」だけはきちんと自分なりに分析をしておいたほうがいいと思う。

 会社も人も同じく、見かけで判断をしてはいけない。派手な広告や本社ビルのきらびやかさに惑わされることなく、「本当の実力」を見分けるチカラを少しずつ鍛えないといけない。

 ――そんなことを内定取り消しの学生さんに話したが、あまり説得力はなかったようで本人はしょげていた。まあ「ここだ!」と思って決めた会社が破綻すれば落ち込むのもわからないではない。
 でも会社はそこだけじゃなし、ぜひ起死回生で頑張ってほしいものだ。
 いつの日かネタとして笑える日が絶対に来るから。

 メンターダイヤモンドから転載
 http://www.mentor-diamond.jp/ns/tanaka/guide14_1.shtml
 中国の民族系自動車会社である「比亜迪」(BYD)は15日、家庭用電源から充電可能なプラグインハイブリッド車「F3DM」を発売すると発表した。すでに官公庁には納車している。

 ガソリンエンジンと電気モーターを備え、モーターだけでもフル充電状態で100キロ以上の走行が可能。専用の充電スタンドで20分、家庭用電源で9時間でフル充電できるという。価格は14万9800元(約200万円)。
 使い方にもよるが、日々の通勤や買い物ではほとんどガソリンを消費せずに運転ができるため、燃料費はガソリン車の10分の1程度で済むといわれている。トヨタもハイブリッド車「プリウス」のプラグイン版を近く販売する計画だが、中国の新進メーカーに先を越された格好だ。

 BYDはもともと、二次電池生産で世界のトップクラスのメーカー。2003年に自動車メーカーを買収して、自動車業界に参入したばかり。最先端のリチウ ムイオン電池でも日本メーカーなどと先陣争いをしている。米著名投資家ウォーレン・バフェット氏の関連企業であるミッドアメリカン・エナジー・ホールディ ングスが同社の新株10%を取得するなど話題を呼んでいた。 来年後半には、 純電気自動車も発売する予定。

 2008年10月28日 欧米で走り始めた電気自動車

 2006年11月30日 Who killed the Electric Car

BushPuppies

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 ブッシュ大統領がイラクでの記者会見で靴を投げ付けられるという珍事があった。二回も投げ付けられたが、ブッシュ大統領はたくみに"攻撃"をかわした。

 ブッシュ大統領は不屈(くつ)の精神でイラク戦争の正当性を強調したかったのだろうが、屈(くつ)辱のシーンは全世界に放映された。大統領はこのまま鬱 屈(くつ)した気分で政権終(シュー)末を迎えることになる。一幕のシーンをみた世界の人々は「クックッ」と笑いを抑えることができなかったそうだ。
  14日は群馬県大泉町にある日系ブラジル人学校「Gente Miuda」(ジェンチミューダ)の卒業式に招かれて出席した。財団法人国際平和協会が毎年秋に「東京遠足」をプレゼントしているご縁だ。全校170人余 の同校の卒業生は二十数人。幼稚園から中学まで年齢層はさまざまだが、日本と違って親子がフォーマルに着飾って晴れやかな式典だった。

 一方で、悲しい話もたくさん聞いた。大泉町は三洋電機と富士重工の工場があり、その下請け企業群も多く、早くから日系ブラジル人雇用に熱心だった地であ るが、100人単位での解雇情報が日系人社会を揺さぶっている。「Gente Miuda」の場合、来年の始業式に来ないことが決まっている児童・生徒が40人にも及ぶという。みんなブラジルに帰国する。
 日系ブラジル人雇用は法律の整備もあり、90年代初頭から急増した。日本に先祖があることが分かれば誰でも日 本で働くことができたが、最近では「二世ならいいが、三世はダメ」というように就労ビザの発給も厳しさを増しているから、いったん帰国すると二度と日本で 働けない人もいる。そういう事情を知ってか知らずか、日本で暮らしていけなくなったブラジル人の帰国ラッシュが始まっているのだ。

 華やかな式典の片隅でGente Miudaの先生の一人が寂しそうにつぶやいた。
「ここに出席している子どもたちはいい方なのです。衣装代や式典の負担金を支払えない子どももいるのですよ」
「浜松では日系ブラジル人のホームレスが現れて、キリスト教関係者が炊き出しをしているというニュースを知っていますか。私が住んでいる伊勢崎市にもいるんです」

 楽天的なブラジル人たちはあまり貯金をしない。車を買って住宅を購入した人もたくさんいる。このまま日本で定住を決意した人たちも少なくない。しかし、 就労の実体は「派遣」のまま。これまでは派遣であっても一生懸命働けば、普通の日本人並みの生活を楽しむことができたが、アメリカ発の経済危機が急速に日 本経済に襲いかかっていて、真っ先に仕事を失うことになっているのだ。

 解雇されて、ブラジルへ帰国するチケットを買える人ばかりでない。解雇されて家を失い、帰国できない人たちが駅前での生活を余儀なくされている。親子連れのホームレスが出現したという情報もある。

 一番悲しかったのはある小学生の話である。家庭での会話から、親が金に困っていることを知って、放課後に自動販売機をまわり、忘れた釣り銭を集めていた。5000円ほど貯まったところを父親に知られて、生活費のために親に貸しているのだそうだ。(伴 武澄)

 日系ブラジル人大量解雇 一時帰国は片道チケットで (朝日 08.11.18)
 外国人ホームレス増加の兆し(2008年11月22日 朝日新聞)
 賀川豊彦献身100年の神戸プロジェクト実行委員会に出席するため12月13日、神戸に行った。予定より早く着いたので、「賀川豊彦文学展」を開催している神戸文学館を訪ねた。

 偶然とはよくいうもので、2週間前に近江八幡市を訪ねたときにお世話になった近江兄弟社学園の池田健夫理事長とばったり出会った。池田理事長もまた実行 委員会出席のために神戸に来ていた。2週間前には文学館の義根益美(よしもと・ますみ)さんという文学館の学芸員とも出会っていた。土曜日ということで義 根さんには会えないと思っていたら、義根さんもその場に出合わしたのだからゆかいだった。
 神戸文学館は関西学院大学にかつてあったチャペルを現在の地に移築したものである。イギリス人が設計したが、移築にあたってはヴォーリズ設計事務所が担当したから、近江兄弟社ゆかりの建築物ともいえる。

 文学館では山本幹夫館長からじっくり、神戸の文学についてレクチャーを受け、帰りに神戸文学館作成の「詩文抄 賀川豊彦」をいただいた。
 義根さんは「賀川の詩ってあまり読まれていないんですよね」とぽつりと言った。
 小生も「涙の二等分ぐらいでしょうか、読んだのは」と答えた。

 家に帰って「詩文抄 賀川豊彦」をじっくり読んだ。なるほど学芸員の義根さんが賀川の詩や小説から選んだ「抜粋」がいくつも並んでいた。膨大な作品の中 から選ばんだはずだが、賀川の全作品を読みこなした人はそういないと思う。義根さんも自分が接した作品の中から、自分の賀川像を作り上げたのだ。

 義本さんは賀川の詩に着目していたのだった。「詩文抄 賀川豊彦」を読んでいて「それでいいのだ」と感じた。それぞれの賀川像がそこかしこで出現すればそれでいい。そろそろ僕も自分の賀川像を描かなければと考えている。

 ふーちゃんの訪問 賀川豊彦

「チャーチャン!」
「チャーチャン!」
隣の桶屋のふーちゃんが
ひき戸の隙から 首出して
私の妻を呼んでゐる

ふーちゃん 今年 二つはん
頭の髪は蓬のやうに
生えたら生えたで生えながし
きものは垢でキンピカリ
 (略)
Sとふーちゃん なかよしで
なんでも二人で 食べまする
 (略)
私の家の軒先で
Sとふーちゃん つくなんで
二人でキャラメル 食つてゐる
 (略)
ふーちゃん あはてて 手をはなす
Sは得意な身振りして
キャラメル一人でなめました
布衣ない ふーちゃん
うらめしい
 (略)
半分涙を 眼に湛え
また また
ひき戸の隙間から
「チャーチャン!」
「チャーチャン!」
呼んでゐる

(『永遠の乳房』から転載、Sは犬の名前)

 CEOのスティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒で なくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがい ざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載ってい た今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤
ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわ けです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さ すがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選 んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せな くなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分 はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修 科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもら えるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシ にありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多く
は、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひ とつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。 そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必 要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったん ですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コン ピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したの は、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単 なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、こ れほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにで きるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。 自分の根性、運命、人生、カルマ...何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じるこ とで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違い なく変わるんです。

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でし た。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出し うる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として 会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終 わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐さ れたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自 分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪の かたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで 一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気 持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者である ことの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた 一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必 要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずに やってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。 それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ 一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなん ですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴 らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。

「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈 な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人 生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが"NO"の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要 があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かり となってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て...外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て...こういっ たものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死 ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
              
 PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治 医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった 数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、 ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんです ね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からな かったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれ は、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を 持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。 にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうこ とになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きも のを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くな い将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の 人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の 内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でい い。

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げ ていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っ ていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと 偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの"The Whole Earth Catalogue"の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真で す。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」

 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

  Stay hungry, stay foolish.
 ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
翻訳 市村佐登美

 有馬頼寧(ありま よりやす=1884(明治17)-1957(昭和32)=政治家、農林大臣)

 山本一生『恋と伯爵大正デモクラシー』(日本経済出版社、2007年9月17日)を読んだ。有馬頼寧の物語である。頼寧は旧筑後久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京で生まれた。母親は岩倉具視の娘、妻は貞子は皇室の血を受けている。なんともハイソな家柄だった。

 有馬頼寧に興味を持ったのは理由は二つある。第一は賀川豊彦が戦後すぐにつくった財団法人国際平和協会の理事だったこと。第二は何げなく「聖蹟桜ケ丘」の地名を調べていたら、三条実美公が浅草の橋場というところに住んでいたことがわかり、その橋場に有馬家の本家もあって、労働者のための夜学校をつくって社会貢献したことを知ったからでもあった。

 何でハイソな方々が下町浅草などに住んでいたのだろう。いやいや江戸時代から隅田川は桜の名所として知られ、風光明媚なところとして大名や商家の別荘が多くあった。明治になると元勲たちも競って橋場に居を構えた。実美公は病気がちだったため、明治天皇が度々、見舞いに行った。後に隅田川にかかる橋の工事のため、実美公の邸宅は現在の京王線沿線に移築され、ことから「桜ヶ丘」に「聖蹟」の名が付いたという。

 冒頭から話がそれた。話を頼寧に戻そう。学習院中等科を経て東京帝国大学農科を卒業した。伝記などによれば、華族の子弟は学習院に通うものとされ、帝大にも華族のための枠があったから東大卒といっても秀才だったわけではない。その後、農商務省に入るが、これも高等文官試験に受かったのではなかったが、大学、農商務省の人脈は生涯を通じて続く。その後は帝大で教鞭をとった。

 有馬の名前が残っているのは競馬有馬記念である。父頼万の死後、貴族院議員となり、昭和12年、第一次近衛内閣の農相に就任、その後も近衛文麿と政治生命を共にし、大政翼賛会事務総長となった。そうした政治家と別の一面も持っていた。

 頼寧は大正8年、橋場の邸宅の敷地内に労働者のための夜間学校「信愛学院」を開校した。博愛主義者としての側面もみえてきた。信愛学院の入学条件はただ一つ、「昼間働いていること」で、15、6歳の若者から40歳代のさまざまな年齢層の生徒が通ったという。信愛学院は共産主義のレッテルをはられ、昭和16年に廃校の追い込まれた。

 華族でありながら、華族制度を批判するなど正義と博愛精神を生涯持ち続けた。気さくな性格で「伯爵でしたけれど、まったく偉ぶらない人でね、貧乏人でも何でも気軽に口をきいてくれる人でしたよ。だから関東大震災でみんな焼け出された時なんかでも、すぐに炊き出しをしておにぎりなんかを出してくれたり、罹災者に配ってくれたりして本当に人情の温かい人でしたよ」というような逸話も残っている。

 東京帝国大学夜間学校のほか、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐など右から左まで幅広い人脈を築いた。戦前はプロ野球球団、東京セネターズ日本ハムの前身)のオーナーでもあった。農業研究家として農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。地元の久留米市には久留米昭和高等女学校を設立し、女子の教育にも力を尽くした。

 賀川豊彦との強い結びつきはいつからなのか、分からない。賀川が農民組合を結成したときには、頼寧も参画しているから、1921年の前であるはずだ。

 1年半前のことである。北海道新聞に「職員ボーナス 1人360万円? 更別森林組合 総会で不満」 という記事が出ていて驚いた。日本の森林組合の話である。なんでこんなにもうかるのか? 組合って儲けは分担金として還付するのではなかったのか? 疑問 がたくさんわいてきた。PCを整理していたら古い原稿のコピーが出てきた。忘れないように報告しておきたい。(伴 武澄)

【更別=北海道新聞2007/06/01】十勝管内更別村の更別森林組合(高野佳秀組合長、206人)が昨年度、常勤の事務職員2人に対し、通常の給料の ほかに、1人当たり約360万円の期末手当を支給したことが31日、同組合総会で報告された。理事者側は「木材価格が高騰し、業績好調だったため」と説明 したが、一部組合員から「高額すぎる」と反発の声も上がった。 同組合によると、職員2人の給料は年間で計1084万円。このほかに1人当たり360万円 を3月に一括支給した。前年度の支給額は明らかにしていない。一部組合員から「利益が出たら組合員にもっと還元すべきだ」との不満が噴出。ただ、最終的に この支出を含む事業報告は承認された。 同組合の昨年度の売上高は、中国での需要増によるカラマツ材の価格上昇などで前年度比約1040万円増の約1億 7360万円。経常利益は同約780万円増の約1610万円と増加した。
【北海道新聞 2008 年 1 月 27 日付 11 面「寒風・温風」から転載】

 北海道独立論

 長年、多くの人を引き付けてきたテーマに「北海道独立論」がある。歴史上の有名なエピソードは「蝦夷(えぞ)共和国」だ。明治元年(1868年)、榎本 武揚率いる旧幕府軍が函館を占拠した。榎本は、英・仏の領事、艦長とも面談し、「事実上(デ・ファクト)の政権」と認められた。現在でも、実効支配と他国 の承認があれば「独立国」とみなされる。明治2年5月、箱館戦争が終結するまでのごく短期間、いわば幻の地方政権が北海道に存在したといえよう。
 ユニークな発想

 これまでに数多くの「北海道独立論」が発表されてきた。筆者が知り得た範囲で代表的な業績の一つは、終戦直後の昭和21年(1946年)、河野広道・北大農学博士が著した「北海道自由国論」だ(博士の父は、北海道史の第一人者、河野常吉)。
①北海道の気候風土を生かした独自の文化・産業を打ち立てるべきこと
②国土面積、人口、食糧自給といった独立の基礎的条件は整っていること、など今日の「北海道独立論」の骨格を示した先駆的著作といえる。

 また、わが国を代表する文化人類学者、梅棹忠夫氏が昭和35年(1960年)に書いた「北海道独立論」は、現在読んでも全く古さを感じさせない。異質と同質、分離と統合という文明論的観点から北海道を実に生き生きと論じている。

 その他、数ある「北海道独立論」の中には、ユニークなものも多い。例えば、「ヒグマ共和国」というネーミングや、独自通貨を発行しようというアイデアも ある。ちなみに北海道通貨の名称案は「ピリカ」、補助通貨は「マリモ」だ。円やドルとの交換レートを、ピリカ安の水準に設定すれば、産業競争力は弱くと も、為替効果で輸出が促進されるという指摘(共同通信社・伴武澄氏)は興味深い。

 活発議論で利点

 「架空国家論」という限界はあるにせよ、「北海道独立論」が活発に議論されるメリットは大きい。第一に、独立論の中核は、いかにして北海道の産業を振興 し、「外貨」を稼いで、財政面でも自立を図るかという点にある。今後本格的に検討される道州制の議論と本質は全く同じだ。

 海外を見渡すと、北海道と大体同規模ながら、オープン政策により経済的に成功している北欧諸国が多い。社会福祉も充実している。こうした「小国・開放型モデル」は将来の北海道の重要な参考になるだろう。(上野正彦元日銀札幌支店長)

 北海道が独立したら 伴 武澄

 1947年5月1日、大阪市の日立造船桜島工場である航空母艦が解体された。艦艇名は「鳳翔」。浅野造船鶴見造船所で建造され、1922年12月27日に竣工した日本で最初の航空母艦だった。というより、世界で初めて竣工した航空母艦でもあった。

 第二次大戦は日本海軍が大艦巨砲主義を捨てきれずに、航空戦力を軽視したため敗れたということが「定説」となっているが、筆者はずっとこのことを疑問に思っていた。調べていくうちに世界初の航空母艦は日本海軍が建造したことが分かった。
 正確に言えば、「竣工」したのが世界初で、イギリスは1918年、小型空母「ハーミーズ」を起工していたが完 成に6年もかかったため、1919年12月に起工した「鳳翔」に追い抜かれてしまったのだった。それまでも欧米には空母はあったが、甲板に滑走路を設けた 艦船で航空母艦として設計されたものではなかった。

 「鳳翔」は第二次大戦中は主に練習空母として使用されたため、終戦まで無傷で残存。戦後復員任務に従事した。日本で最初の空母が日本で最後まで生き残るという不思議な巡り合わせとなった。

 飛行機を船の上で離発着させる航空母艦という発想はどこから出て来たのだろうか。数年前そんな議論をしたことがある。

「空母を世界で初めて実用化したのは、ひょっとしたら日本ではないか」
「ヨーロッパの主要国である英仏独は近い距離にあるため海の上から戦闘機や爆撃機を発進させる必要はあまりない。だから空母を必要としたのは太平洋で対峙した日米なのである」

 実は最初に艦船の上から飛行機を飛ばしたのはアメリカだった。1910年、巡洋艦バーミンガムの仮設滑走台から陸上機の「離艦」に成功した。ライト兄弟 の初飛行からたった7年のことである。次いで1911年 巡洋艦ペンシルバニア後部の仮設甲板から「離着艦」に成功した。第一次大戦ではイギリスが 2000~1万トンクラスの商船を水上機母艦に改造し、数機でドイツを攻撃したことがある。日本海軍でも中国・青島沖に水上機を載せた若宮(5180ト ン)を派遣するなど海上から航空機を飛ばす試みはあった。

 イギリスはハーミズとほぼ同時に空母イーグル(初代)を完成させたが、これはアルゼンチンの注文でイギリス建造していた戦艦を接収し、空母に再設計したもの。アメリカは給炭艦ジュピターを改造した空母ラングレイを建造した。

 各国で軍事力としての航空母艦に対する認識はそうは高くなかった。アメリカが本格的に力を入れるのは1938年。日本との対戦に備えてエセックス級空母 の11隻(改良型を含めると24隻)の建造を急いだ。大戦時には米英と何ら遜色のない、艦隊型空母部隊を保有していた。そのことだけは知っておくべきであ る。決して航空戦を軽視していたのではない。(伴 武澄)

 帝国海軍が建造した空母
 鳳翔、赤城、加賀(赤城の同型艦「天城」が関東大震災で破損したため戦艦加賀を空母に改装)。
 龍驤、蒼龍、飛龍。
 翔鶴、瑞鶴。
 大鳳、信濃。
 雲龍型3隻(戦力化はできず)。
 千歳型2隻(水上機母艦)、瑞鳳型2隻、龍鳳(いずれも潜水母艦)、伊吹(巡洋艦、未成) 。
 飛鷹型2隻(大型で飛龍並みの攻撃力を持ち、ミッドウェイ後は主力として活躍)、他5隻 。
 8日の読売新聞と毎日新聞がともに21%、朝日新聞は22%、共同通信は25%。麻生内閣に対する支持率である。そもそも麻生さんに託されたのは「解散総選挙」ではなかったのか。

 福田前首相が9月突然に政権を投げ出した。その是非はもはや問うまい。「解散総選挙に打って出る勇気がないから、麻生さんにお願いしたい」というような意味合いで麻生政権が誕生したのは誰もが覚えている。
 誰もが、首班指名の後の早い時期に解散総選挙が行われるものだと信じていた。想定が狂ったのは、リーマン・ブ ラザーズの倒産だった。AIUが政府管理下となり、アメリカの大手金融機関が相次いで経営危機に陥った。金融危機はさらに実体経済に飛び火し、「100年 に一度の経済危機」へと連鎖反応した。

 麻生首相の心中では日本の経済対策と解散総選挙との間で揺れたに違いない。心が揺れている間にどちらも先延ばしにしてしまった。たぶん「恐かった」のだろう。麻生政権への支持率の急低下の背景には麻生さんの「優柔不断さ」への不満があるはずだ。

 麻生さんの場合、「男前」(美男ということではない)を売りに総理総裁となっただけに、言行不一致の落差が逆に目立ち、国民の落胆につながったのだと考えている。

 経済対策ではタイミングが一番重要であることは麻生さん自身が一番よく知っているはずだ。その経済対策が今国会でできないのなら、ぜめてもう一つの選択 肢である「解散」に踏み切るべきであろう。解散は首相の専権事項であるから、誰に相談することもない。小泉首相は大方の反対を押し切って郵政民営化を問う 解散総選挙に打って出た。その結果、絶大なる支持を得た。

 もはや遅きに失したかもしれない。このまま求心力を失えば、身内から見限られ「政権放棄」を余儀なくされるかもしれない。そんな惨めの終末を迎えようとしているのですか。

 衆院300議席は小泉さんの郵政民営化路線への「賛成票」であり、自民党が再び300議席を確保できるとは誰も考えていない。幸い、小沢さんの民主党だって、支持率が高いわけではない。麻生か小沢かという選択肢の中で多少、優位に立っているにすぎない。

 政治はばくちです。麻生さん、男なら年内解散しかないですよ。(伴 武澄)
 神谷秀樹『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(文春文庫、2008年10月)

 タイトルの通り、ウォール街は自爆した。元々、投資銀行はお金持ちの投資の相談を請けおって手数料で生きてきた。アメリカのビッグバンで90年代に銀行と証券の垣根をつくっていたグラス・スティーガル法がなくなり、自由な参入競争が起きた。
 自由な競争は大歓迎だが、投資銀行の企業行動に大きな変化が起きた。まず、自らの勘定で投資に打って出るよう になったことが第一。人さまのお金を集めて運用し、巨額の運用手数料を得ることを学んだ。もうかるのは手数料だけではなかった。トレーダーたちは「成功報 酬」として運用実績の2割だとか3割を手にすることを覚えた。

 投資金額が大きくなれば、手数料だけでもばくだいな金額になる。手数料だから、たとえ「損失」が出てもこれはいただける。おいしい商売である。これは基 本的に投資銀行自体に入る。これに自らの勘定による投資が加わった。銀行もトレーダーも運用実績が上がれば、「成功報酬が上がり、ともに潤う。

 問題はこれから先だ。「損失」が出た場合、トレーダーは首になるだけで、金銭的損失は被らない。しかし、銀行にとっては大変なことになる。

第二の変化も重要だ。ゴールドマン・サックスなど多くの投資銀行は経営者(株主)が「無限責任」を負うパートナーだったが、90年代に入り、有限責任の株 式会社に転向した。小規模経営だった80年代までは多くの資本を必要としなかったが、自ら投資を行う場合、取り扱い資産が巨額化し、それに伴って自己資本 の増強が不可欠だったことは確かだが、経営の根幹は「無限責任」から「有限責任」へと180度も変わっていた。

投資銀行が巨額の損失をこうむっても、経営者は過去の収入にまで手を入れられることはなくなっていた。これは大きな変化というか、モラル・ハザードを起こしやすい経営になっていたということである。

「きょうの利益は僕のもの、明日の損失は君のもの」という著者の"格言"はまさにそんな投資銀行の変貌から起こり得るべくして起こった。(伴 武澄)
 1947年5月1日、大阪市の日立造船桜島工場である航空母艦が解体された。艦艇名は「鳳翔」。浅野造船鶴見造船所で建造され、1922年12月27日に竣工した日本で最初の航空母艦だった。というより、世界で初めて竣工した航空母艦でもあった。

 第二次大戦は日本海軍が大艦巨砲主義を捨てきれずに、航空戦力を軽視したため敗れたということが「定説」となっているが、筆者はずっとこのことを疑問に思っていた。調べていくうちに世界初の航空母艦は日本海軍が建造したことが分かった。
 正確に言えば、「竣工」したのが世界初で、イギリスは1918年、小型空母「ハーミーズ」を起工していたが完 成に6年もかかったため、1919年12月に起工した「鳳翔」に追い抜かれてしまったのだった。それまでも欧米には空母はあったが、甲板に滑走路を設けた 艦船で航空母艦として設計されたものではなかった。

 「鳳翔」は第二次大戦中は主に練習空母として使用されたため、終戦まで無傷で残存。戦後復員任務に従事した。日本で最初の空母が日本で最後まで生き残るという不思議な巡り合わせとなった。

 飛行機を船の上で離発着させる航空母艦という発想はどこから出て来たのだろうか。数年前そんな議論をしたことがある。

「空母を世界で初めて実用化したのは、ひょっとしたら日本ではないか」
「ヨーロッパの主要国である英仏独は近い距離にあるため海の上から戦闘機や爆撃機を発進させる必要はあまりない。だから空母を必要としたのは太平洋で対峙した日米なのである」

 実は最初に艦船の上から飛行機を飛ばしたのはアメリカだった。1910年、巡洋艦バーミンガムの仮設滑走台から陸上機の「離艦」に成功した。ライト兄弟 の初飛行からたった7年のことである。次いで1911年 巡洋艦ペンシルバニア後部の仮設甲板から「離着艦」に成功した。第一次大戦ではイギリスが 2000~1万トンクラスの商船を水上機母艦に改造し、数機でドイツを攻撃したことがある。日本海軍でも中国・青島沖に水上機を載せた若宮(5180ト ン)を派遣するなど海上から航空機を飛ばす試みはあった。

 イギリスはハーミズとほぼ同時に空母イーグル(初代)を完成させたが、これはアルゼンチンの注文でイギリス建造していた戦艦を接収し、空母に再設計したもの。アメリカは給炭艦ジュピターを改造した空母ラングレイを建造した。

 各国で軍事力としての航空母艦に対する認識はそうは高くなかった。アメリカが本格的に力を入れるのは1938年。日本との対戦に備えてエセックス級空母 の11隻(改良型を含めると24隻)の建造を急いだ。大戦時には米英と何ら遜色のない、艦隊型空母部隊を保有していた。そのことだけは知っておくべきであ る。決して航空戦を軽視していたのではない。(伴 武澄)

 帝国海軍が建造した空母
 鳳翔、赤城、加賀(赤城の同型艦「天城」が関東大震災で破損したため戦艦加賀を空母に改装)。
 龍驤、蒼龍、飛龍。
 翔鶴、瑞鶴。
 大鳳、信濃。
 雲龍型3隻(戦力化はできず)。
 千歳型2隻(水上機母艦)、瑞鳳型2隻、龍鳳(いずれも潜水母艦)、伊吹(巡洋艦、未成) 。
 飛鷹型2隻(大型で飛龍並みの攻撃力を持ち、ミッドウェイ後は主力として活躍)、他5隻 。
  5日、ホンダがF1からの撤退を発表した。会見した福井威夫社長は「サブプライムローンに端を発した金融危機、各国に広がった経済の後退 で、ホンダを取り巻くビジネス環境が急速に悪化、回復にはしばらく時間がかかると予想され、経営資源の効率的な再配分が必要との認識から決めた」と語っ た。

 ホンダにとってのF1は常に「チャレンジ・スピリット」の源泉だった。1964年、F1に進出した。二輪車市場での圧倒的名声を背景に鮮烈なデビューを 果たした。F1進出後ただちにホンダは四輪車市場に打って出た。69年いったんF1から撤退するが、1976年、当時、世界で一番ハードルが高かった 「51年排ガス規制」をクリアしたCVCCエンジンを発売する。
 1983―92年に再びF1に参入した。今度はレースに強いチームとしてカムバック、1988年にホンダエン ジンを搭載したマクラーレンが16戦15勝するなどモータースポーツで絶頂期を迎えた。1990年代は自動車メーカーによる世界帝合従連衡があった。年産 400万台規模以上でないと世界で生き残れないとされ、フォードはボルボ、ジャガーなどを参加に収め、ダイムラーはクライスラーと、日産はルノーと相次い で合併した。ホンダは400万台には届かなかったが「どこ吹く風」とばかりに企業統合には参加せず、単独で生き残る道を模索、2000年チームとして再び F1に参戦した。

 モータースポーツファンにとってはホンダのF1撤退はショックであろうが、ホンダの経営は世界の自動車メーカーの中でも悪くはない。2008年3月期の 売上高は12兆28億3400万円(前年度比8.3%増)、営業利益は9531億900万円(同11.9%増)、税引前利益は8958億4100万円(同 13.0%増)、当期純利益は6000億3900万円(同1.3%増)。トヨタに次ぐ高い利益を出している。

 この中でF1参加の経費は500億円は決して安くはないが、負担できない額ではない。にもかかわらず、この時機に撤退を発表した背景は何なのだろうと考えざるを得ない。

 1964年のF1参入から、今回は3回目の撤退である。参入と撤退の度に、ホンダは大きな飛躍してきた。ホンダにとってF1は常に成長の跳躍台となっていたのである。過去の撤退は次なる参入を目指しての内部蓄積の時期だったと考えれば、期待もできる。

 自動車産業は環境問題と原油価格の高騰と二つの面から大きな岐路に立たされている。電気自動車や燃料電池車の開発は進められているが、いまだハードルは 高い。何年後か分からないが、ホンダらしい奇想天外な発想で再び自動車産業の革命児となっているかもしれない。先週末、そんな期待を持って「本田F!撤 退」のニュースに接していた。(伴 武澄)

第一期 1964-68(四輪進出)
第二期 1983-92(Civicに排ガス規制車)
第三期 2000-08(世界的合従連衡に加わらず独自でメーカーへ脱皮)
第四期 ?(→今度は?)
 一升瓶のなぞを追い求めて、ようやく一冊の本に出会った。山本孝造著『びんの本』(日本能率協会。1990年)。筆者の山本が書いているように「壜が変遷してきた流れをひとまとめに整理した日本の書物がほとんど見当たらない」。

 ビールやワイン、清酒に関する本はそれこそ「ごまん」とある。しかし、どんな飲み物も運ぶ容器と飲む容器がないと存在しないも同じである。容器についての体系的な書物がないということは食べ物、飲み物についての歴史に画龍点睛を欠くに等しいと言わざるを得ない。

 
 容器の歴史は実は奥が深い。先月、中国に行った。目的は「お茶」だった。上海のお茶の問屋街を訪ね、急須(中 国では茶壺=チャーフー)製造の町「宜興」(イーシン)、そして龍井茶の産地である杭州をぐるっと回ってきた。お茶は元々はやかんで煎じて飲んでいたもの が、粉末の抹茶となり、再び「急須」に入れて飲むようになった。

 ここでも容器に関心があった。いつから急須を使い出したのか。また「茶壺」が日本で「急須」と呼ばれるようになったのはどうしてか。そんな疑問が解ければいいなと思っていたが、ついに解明できずに旅は終わった。

 蒸気機関はワット、電球や蓄音機はエジソンが発明した。近代技術の始まりの多くは正確な記録が残っているが、近世になると物事の始まりはおぼろげになる。日本では明治時代でさえ、おぼろげな部分が少なくない。人々の記憶から消え去っている「始まり」が数多く残っている。

 『びんの話』はそういう意味で大変な労作である。山本はソニーの従業員デザイナー第一号として、トランジスタラジオのデザインを担当した人である。その 後、独立してデザイン事務所を経営するかたわら、瓶の沿革を調べ始めた。数々の書籍や雑誌の断片的記述からこつことと事実を拾い集め、瓶の変遷を一冊の書 物にまとめ上げた。

 興味のない人にとっては「それがどうした」という書籍ではあるが、筆者にとってはめくるめく世界があった。特に「一升瓶の誕生へ」は目からうろこの驚きがあった。

 『びんの話』によると「明治19年(1886)10月7日の「東京日日新聞に、日本橋区大門通弥生町の岡商会は"日本酒販売改良広告"を掲げた。・・・ 当社では、このほど各地の酒造元、中でも日本酒で有名な今津、灘、西ノ宮などの醸造本場と特約を結び、洋酒のように大中小の壜詰を一手販売することにし た」と書いている。

 断定はしていないが、日本酒を瓶詰めで販売した嚆矢は、日本橋の岡商会だったようである。「大壜詰は代価金12銭、空壜は金2銭」とある。「一升瓶」 だったのかは分からないが、多分そうなのだろう。既に江戸時代には「一升徳利」があって、樽売りの際の一番大きな容器として使われていたからである。

 当時のガラス瓶は人工吹きといって、手作業で型にガラスを流し込んで「吹いて」いたから、ガラス瓶は貴重品だった。だからガラス瓶の対価は価格の6分の 1にも及んでいた。しかし、瓶詰清酒は「混ぜ物」がないことや「薄める」ことができないことから、商品の信用力を高め、明治30年代に入ると「澤の鶴」や 「白鶴」などが一升瓶の清酒を相次いで売り出し、一合、二合、四合の各種瓶が出回ったという。

 機械で吹いた最初の一升瓶は、大阪天満の徳永硝子製造所だった。二代目の徳永芳治郎は、大正11年(1922)に弟二人をアメリカへ派遣し、ニュー ジャージー州ハートフォードのハートフォード・フェアモンド社から、40万円で製瓶機械を購入した。徳永硝子では半人工機械吹きの一升瓶を白鶴などに納入 していたが、その見本を見せて「このサイズができる全自動機械が造れないか」と相談した。フェアモンド社では一升瓶ほどの大容量のものを造る自動機械はま だできていなかったが、同社も「大いに関心を持ち」、徳永兄弟が注文した新しい機械は「ガロン・マシン」と命名された。

 翌大正12年9月に関東大震災があり、数多く出回っていた一升瓶はほとんどが破壊もしくは溶けてしまっていたから、徳永硝子が13年から開始した全自動 機械による一升瓶づくりはただちにフル生産に入ったのだという。それまで職工13人が10時間で3000本吹くのがやっとだったのが、全自動機械は1台あ たり24時間で2万1500本も製造できたから、能率は38倍も上がったことになる。

 一升瓶の清酒が加速度的に全国の家庭に普及したかげには徳永硝子兄弟の先進的な経営判断があったといっても過言ではない。(伴 武澄)
  近江兄弟社の英語表示は「Ohmi Brotherhood」である。学園の場合はその後に「Schools」が付く。「Brotherhood」の日本語訳には「友愛」もある。鳩山由紀夫氏は民主党の代表となった際に「友愛」と言った。初めて聞いた時は「軟弱」と感じた。明治天皇は御製の歌で「四海同胞」とうたった。 「Brotherhood」の意味を込めたものと考えているが、こちらの方がしっくりくる。

 「兄弟」はどうだろうか。悪くない。「兄弟仁義」などという言葉もあるが、これは強すぎるかもしれない。「Brotherhood」はもともとが修道院 での集団生活から生まれたはずである。「助け合い」「互助」「共済」などの意味も含まれる。昔の日本でいえば「講」や「惣」といった概念がこれにあたるの かもしれない。
 一方、「社」はどうだろうか。会社の「社」も本来は同源であろうが、坂本竜馬が長崎に設立した「亀山社中」の「社」はミッションを持つという意味合いで、まさに「兄弟社」に通じるものがある。「社」は「やしろ」である。神社は神々が集う「空間」や「場」の意味。

 日本にはかつて「若衆宿」が各地にあった。特に漁村に多かった。15歳、つまり一人前になった証拠に「フンドシ」が与えられ、親元を離れて集団生活をし た。若衆宿での生活は結婚するまで続く。十代後半から二十代前半の若者がいわば「自治組織」をつくり、世代間の結束を固めるのだ。

 意味を知らないと「近江兄弟社」ってなんだ、と考えがちだが、考えれば考えるほどいい響きに聞こえてくる。賀川豊彦のミッションに共感を持つ人々が11月28日、近江八幡に集ったこと、そのことが「近江兄弟社」なのだと一人合点した。

 近江兄弟社はいまは、「財団」「学園」「株式会社」に分かれているが、戦後になって行政が縦割りにしただけで、本来は一体的に運営すべき「団体」なので ある。きのう12月1日から公益法人の新制度が始まった。近江兄弟社が設立された経緯を考えると、現在の公益法人の在り方が矛盾に満ちたものに見えて来る のだった。

-近江の兄弟ヴォーリズ(3) 賀川豊彦
-近江の兄弟ヴォーリズ(2) 賀川豊彦
-近江の兄弟ヴォーリズ(1) 賀川豊彦
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ウィリアム・メレル・ヴォーリズ - Wikipedia
ヴォーリズ・ミュージアム
ヴォーリズ記念病院
 11月28日、賀川豊彦ゆかりの団体の人々が近江八幡市の近江兄弟社に集い、勉強会が開かれた。近江兄弟社側は、財団、学園、株式会社の主要3団体が迎えてくれた。

 JR能登川駅に降り立った東京組は、池田学園理事長の案内で、安土城址、セミナリヨ(南蛮寺)跡、安土教会を見学、通称朝鮮人街道を通って近江八幡に入った。

 筆者にとっては30年ぶりの安土城址だった。当時はそれほどの問題意識もなくこの地を訪れたが、今回はいささか違った。セミナリヨ跡があったことも知らず、なぜ安土城だけが「天守閣」を「天主」と呼んだのかについても疑問はなかった。
 多少の歴史的関心を持って訪ねる旅は趣きが違うし、今回は地元の名解説者付きの恵まれた小旅行だった。

 今回の旅の主目的は賀川ゆかりの団体の交流だったが、池田理事長は「ヴォーリズと賀川豊彦」と題する勉強会をちゃんと設定していた。神戸の「番町出合いの家」の鳥飼慶陽牧師の講演があり、兄弟社関係から20人ほどの参加があり、心温まる交流があった。

 ヴォーリズは近江八幡商業の英語教師として1905年、日本にやってきた。宣教師の資格はなかったが、放課後にバイブルクラスを行い、生徒たちにキリストの教えを熱心に伝える「伝道の人」だった。

 最近、建築家としてのヴォーリズ再評価が進んでいるが、建築設計やメンソレータムの販売は伝道を支えるための資金源として行われた。英語教師としての生 活は2年で終ったが、ヴォーリズは近江八幡にYMCA会館を自力で建設、バイブルクラスで育てた教え子を中核に据えて伝道を開始した。自らも肺を病んでい たヴォーリズは日本の肺病者たちのために無料のサナトリウム(現在のヴォーリズ記念病院)をつくった。また、ガリラヤ号という船を浮かべて琵琶湖の湖岸を 伝道した。

 勉強会の関心は「賀川とヴォーリズとの出会い」だった。「近江ミッション」と呼んでいたヴォーリズの事業は昭和9年(1934)、「近江兄弟社」と名付 けられたが、これは賀川のすすめによったものらしい。二人は終生、信頼し合い、協力しあったが、いつどこで二人は出会ったのかはまだ明らかになっていな い。

 大正12年5月にヴォーリズの弟子である吉田悦蔵が警醒社から出版した『近江の兄弟ヴォーリズ』に賀川は「跋」としてあとがきを寄せている。内容から見 て既に親しい関係であったことは明らかである。その中で賀川は「ヴォーリズはその弟子の吉田を通じて知り合った」と明かしている。また「近江ミッション」 が出版していた「芥種」という雑誌は賀川の妻ハルが勤めていた神戸福音印刷会社で印刷されていて、賀川はヴォーリズと出会う前から「貧民窟で愛読」してい たという。

 さらにさかのぼって賀川の『地殻を破って』(福永書店、大正9年)という本には軽井沢のヴォーリズを賀川が訪ねる1919年8月7日の記述がある。鳥飼 牧師の説明はそこまでだったが、なるほど、大正8年(1919)の夏には既に二人は親しい間柄だったし、少なくとも賀川は「芥種」を通じてヴォーリズの活 動を詳しく知っていたことは確かなことのようだ。(続く)

 東京からは雲の柱の杉浦氏、そして国際平和協会の伴。神戸からイエス団の高田氏、賀川督明氏、番町出合の家の鳥飼氏、神戸文学館の義根さん、神戸新聞の河尻氏が参加した。

-近江の兄弟ヴォーリズ(3) 賀川豊彦
-近江の兄弟ヴォーリズ(2) 賀川豊彦
-近江の兄弟ヴォーリズ(1) 賀川豊彦

1907年(明治40)近江八幡YMCA会館建設。「近江ミッション」設立
1908年(明治41)京都三条YMCAの一室に、建築設計監督事務所開業(後のヴォーリズ建築事務所)
1910年(明治43)「ヴォーリズ合名会社」設立。建築設計・建築関連資料輸入など
1914年(大正3)ガリラヤ丸が就航
1918年(大正7)結核診療所「近江療養院」(近江サナトリアム 現ヴォーリズ記念病院)開設
1920年(大正9)「ヴォーリズ合名会社」解散。「W・M・ヴォーリズ建築事務所」及び「近江セールス株式会社」設立。メンソレータム輸入販売開始
1922年(大正11)清友園幼稚園創立(現・近江兄弟社幼稚園)
1933年(昭和8)「近江勤労女学校」創立。「近江家政塾」発足
1934年(昭和9)「近江ミッション」を、「近江兄弟社」に改称。「湖畔プレス社」設立
1936年(昭和11)「満州セールズ株式会社」設立。ヘレン・ケラー、近江兄弟社女学校来校
1941年(昭和16)「財団法人近江兄弟社」設立、「ヴォーリズ建築事務所」を「一柳建築事務所」に改称
1944年(昭和19)「一柳建築事務所」解散、「株式会社 近江兄弟社」設立
1946年(昭和21)近江兄弟社建築部復活
1947年(昭和22)女学校を廃止し、近江兄弟社に小学校(現・近江兄弟社小学校)、中学校(現・近江兄弟社中学校)設立
1948年(昭和23)近江兄弟社に、共学の高等学校設立(現・近江兄弟社高等学校)
1951年(昭和26)「学校法人近江兄弟社学園」誕生
1961年(昭和36)「株式会社 一粒社建築事務所」が、近江兄弟社建築部から独立
1962年(昭和37)「近江オドエアーサービス株式会社」設立
1964年(昭和39)5月7日ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 死去
1974年(昭和49)12月24日、近江兄弟社倒産。その後大鵬薬品工業の資本参加等で再建

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