2008年11月アーカイブ

英語版『武士道は海を越えて』に向けて

2008年11月25日(火)
タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 清水 晃
 大東臨戦争勃発の翌年、1942年3月に日本海軍は英米蘭豪の連合艦隊とインドネシアのジャワ島沖で、戦って敵を全滅する勝利を得ました。その時の出来事であります。

 開戦の直後、12月10日、マレー沖において英蘭東洋艦隊の主力である新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパノレスを日本海軍航空隊が撃沈 しました。その時、沈没した両艦の乗組員を英国駆逐艦が救助してシンガポールに帰投しました。その救助作業中、日本の航空隊は一切敵艦に攻撃を加えずにシ ンガポールまで、偵察を続けました。

 連合国は主力の英国艦船を失ったあと、ABDA (米英蘭豪)連合艦隊を組織して、日本軍のインドネシア上陸作戦を限止するため進出して、ジャワ海で日本海軍と激しい戦闘がおこりました。日本海海戦以来 史上37年ぶりの、双方あわせて30隻の規模の大艦船決戦となりました。

 2月28日深夜の海戦においてABDA艦隊は14隻中11隻が撃沈されて敗色濃厚となり、残りの3隻はスラパヤ港に帰投しました。かくして3月2日早 朝、日本輸送船団はジャワ島東部に上陸を完了しました。一方、スラパヤ港に帰投した英重巡エグゼターは応急修理を施して、英駆逐艦エンカウンターと米駆逐 艦ポープを護衛に従え、インド洋に出てコロンボ港に退却することを企図して出港しました。しかし、足柄、妙高,那智、羽黒の重巡を主力とする日本艦隊と激 闘しました。衆寡敵せず大破しても降伏せずに自沈をはかりましたが 結局撃沈されて、ここにABDA艦隊は全滅しました。

 このとき駆逐艦「雷」 (工藤俊作艦長、1,680ton)は戦開に参加していません。蘭印攻略司令宮高橋伊望中将座乗の重巡洋艦「足柄」の直衛を担当していました。工藤艦長の 統率力と乗組員の士気と錬度の高さが評価されたと考えられます。「雷」は燃料、兵站補給をうけて戦闘海域に向かいましたが、夕刻に到着したときはすでに戦 闘は終わっていました。

 それまでに僚艦「電」はエグゼターの乗組員376名を救助していました。日本の駆逐艇は、戦闘能力を5000トン級の軽巡洋艦なみの装備にしたため、燃 料タンクは小さくして航続距離が犠牲となりました。ワシントン条約の制約を克服するため、日本の造船技術の粋をつくし、主砲12.7センチ、6門、魚雷発 射管9門、速力38ノット、という世界の最高水準に達していました。

 3月1日午後2時すぎエンカウンターから脱出した乗組員は、僚艦がみな沈没して日本艦隊も次の作戦行動に去ったため救助の目途は見当たらず、オランダの 偵察飛行艇に発見されるのが唯一の希望でした。翌2日は赤道に近い海上で灼熱の太陽のもとに苦しみ、重油にまみれてすでに約23時間漂流していました。も はや劇薬をあおって自決する寸前にありました。その時、午前10時ごろ駆逐艦「雷」が漂流者を発見し、空前絶後の救助作業が始まりました。

 この海戦の前には米潜水艦がジャワ海域で活動しており、日本の駆逐艦や輸送船が相当数沈められていました。その時、工藤俊作艦長の号令は、「一番砲だけ 残し、総員、敵溺者救助用意」という決断でありました。潜水艦攻撃の危険のさなかにありましたが、「雷」は艦長の号令のもとに直ちに総員で救助作業を開始 しました。

 英蘭将兵の漂流者は、負傷者を最初に引き上げるよう合図をして、それが終わると士宮、兵員の順序で縄梯子を上ってきました。しかし、すで、に体力の限界 にあって救助の竹竿に触れると安堵のため海中に沈み去るという悲劇が起こりました。雷の乗組員は海中に飛び込んでロープを巻きつけて一人でも多く救助する ことに全力をあげました。

 最終的には残る422名の救助を完了しました。乗組員200名の「雷」の甲板は敵兵で埋まりました。工藤艦長は英国士宮を整列せしめて彼らの勇戦を称え て、諸氏は本艦のゲストとするとスピーチを行いました。この中に当時英国海軍少樹で、あったサミュエル・フォール卿がいました。彼の自叙伝「My Lucky Life」に、 救助された時の詳しい状況が語られています。

 重油で黒くよごれた敵兵の一人ひとりにたいし、日本側乗組員は二人ひと組でかかり、アルコールで体を洗って、水や食料を支給して看護を尽くしました。衣 服が足りなくなったので私物まで提供しました。工藤艇長は小柄な伝令に、もし捕虜が反乱を起こしたら弱っていても体は大きいから小さい者はかなわんから気 をつけよと、からかったそうです。工藤艦長は185センチの偉丈夫で大仏の綽名もある柔道の猛者でしたが、兵員にたいする気配りはきめ細かく、鉄拳制裁を 禁止したので、下士宮の鬼兵曹たちには煙たがられたようですが、艦内の一致団結は艦長のリーダーシツプによって高度なものになっていました。それが困難な 救助作業を遂行せしめました。「いかなる堅艦快艇も人のカによりてこそ、その精鋭を保ちつつ強敵風波に当たりうれ」という軍歌そのものの姿であったと思わ れます。

 このような勇敢な行為が生まれたのは、工藤艦長の資質にあることは疑いありません。その根底には海軍兵学校における武士道教育があります。工藤艦長は海 兵51期生で大正12年7月14日に卒業しました。同期生は軍縮の前で、あったので255名で縮小の直前でした。その頃校長で、あった鈴木貫太郎中将(の ち大将、 終戦時普相)の教育思想は、軍人である前に紳士であれという人間教育でありました。鉄拳制裁を禁止し、 率先垂範する行動力と、謙虚な度量をもつように生徒を指導しました。

 五省という徳目は、海上自衛隊幹部候補生学校に継承されていますが、それは昭和7年に始まったものです。大正時代において、鈴木貫太郎校長は、型には まった人間をつくらないというリベラルな教育を指導しました。文武両道に秀でる人間こそ国の守りの礎であって、国際的に適用する人物でなければならにとい う信念でありました。

 因みに昭和20年、終戦直前の半年、海兵第77期生徒として江田島にいた私の体験でも、戦争末期においても人間教育の伝統は守られていました。英語は4 教科あって、英英辞典が支給され、英語のみの授業もありました。ナイフとフォークを使う食事礼法の指導がありました。また分隊対抗の野球の試合もあって、 わが分隊は連勝していました。棒倒し、遠泳、カッター競争、剣道、柔道などは、軍事訓練と同様に重要で、ありました。乗艦実習では日露戦争の時の戦艦出雲 に乗りました。呉の沖で触雷した瞬間、マスト登り訓練の途中で縄梯子から綴り落とされそうになりました。練習艦隊はいまや帝国最大の艦隊であるという甲板 士官の説示は諦めのなかにさえユーモアがありました。

 昭和19年に父を亡くした私が終戦後の混乱を乗り越えて国際ビジネスの社会に生きてこられたのは、江田島における訓練の現場体験と、英語のレッスンによ る知識などが大きな力となったと言えます。さらに「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」というエスプリのおかげであると確信していま す。

 さて、工藤俊作、その人となりについて触れておかねばなりません。幼時、学儒好きの祖父から明治維新の話と日露戦争後の日本の富国強兵の道を聞かされま した。日本海海戦のおりの上村彦之丞中将のロシア将兵627名救助の話も関かされました。小学校を終えると上杉家の藩校として有名な山形県立米沢興譲館中 学校に入学し、英語の先生である我妻又次郎教諭の薫陶を受けました。我妻先生は海兵を志したが視力が弱かったため実現せず、教職に進んで志を後輩の指導に 注ぎました。工藤と友人の数名の海兵志望者を親身になって指導しました。工藤は温厚寡黙な性格で、いわば気は優しくて力持ちでした。我妻又次郎先生は、我 妻栄東京大学名誉教授の父君で、栄を興譲館で教えました。栄は第一高等学校を経て東京大学法学部を首席で卒業しました。因みに私は戦後、我妻栄教授の民法 の講義を受けました。なにか工藤中位と縁がつながっているような気がします。

 ではふたたび、「雷」艦上の救助の舞台に戻りましょう。救助された英国将兵は、ようやく元気を取り戻して翌日抑留中の蘭病院船に全員移送されました。重 傷者の英国士宮は、一室を提供されて看護当番をつけてくれた工藤艦長の行為を感謝し、涙をながして握手して別れました。士宮は工藤艦長に挙手の礼をして退 艦してゆきました。兵員は嬉しさを体で示して手を振って賑やかに去ってゆきました。かくして、この救助劇の幕は下りました。このオランダ病院船の士官の態 度は倣慢でありましたが、乗組員の東洋人は「雷」の軍艦旗に挙手の礼を行って迎えました。ここで「敵兵を救助せよ」の幕は下ります。それから今日まで、 「献兵を救助せよ」のドラマは気の遠くなるような60余年という長い幕間が続いてきました。そして、ようやく元英国海軍士宮、サミュエル・フォール卿 (Sir Samuel Falle)の手によって幕は再びあがることになりました。

 その間は永い苦しい戦争であります。翌月4月18日米空母「ホーネット」から発進したノースアメリカンB25が東京を空襲しました。それから2ヶ月たら ず、開戦後わずか半年たったばかりの1942年6月5日、ミッドウェー海戦において、米軍機によって日本海軍は主力空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を 一挙に失う大打撃を受けました。その事実は当時の国民に知らされませんでした。因みにマレー沖海戦で戦艦2隻を失った英国ではチヤーチル首相が翌日下院に おいて悲痛な報告をしています。

 ミッドウェーは文字通り戦いの道の途中で、日本は運命の分岐点に乗り上げていました。失敗を生かすような論議などをする思想的な自由は、日本の風土には ありませんでした。攻勢防御というタイトロープ上にあった日本は一転して守勢に立つことになって敗戦への道を転げ落ちてゆきました。そして戦時中の出来事 は人が去るに従って忘れ去られてゆきました。

 フォール卿は捕虜生活を送って戦後帰国されたあと、外交官として活躍されてスエーデン大使などを勤められました。勇退されてから自叙伝を上梓されました が、それには工藤俊作中佐に捧げると献辞が記されています。工藤艦長の英雄的決断と「雷」乗組員全員の果敢にして親身な救助作業を夢ではないかと腕を抓っ たと回想されています。

 工藤艦長は1979年、昭和54年1月12日、78歳の生涯を終えられました。その年の7月ポーツマスに入港した海上自衛隊練習艦隊司令官にたいし英国 海軍から工藤中佐の消息調査の依頼がありました。依頼の主はフォール卿ありました。それまでも幾度か依頼はなされたが日本に伝わらなかったことを反省せね ばなりません。もう1年早ければ工藤中佐とフォール郷の再会が実現したかも知れません。フォール卿は当時EUの駐アルジェリア代表でありました。フォール 卿は米国海軍紀要あるいは英国の新聞The Timesなどに投稿され、また1992年ジャカルタにおけるスラパヤ沖海戦50周年記念式典で記念講演を行い、工藤中佐は日本武士道の鑑と称えたのであ ります。

 工藤中佐の没後、時はさらに4半世紀流れて、2003年に海上自衛隊の観閲式が行われた際、フォール卿が日本に招待されて、護衛艦「いかづち」(4代目 「雷」)の艦上において静かに語られた事績は、日本人にとって初めて知らされたことでありました。フォール卿は、その時すでに84歳の高齢で歩行も不自由 でした。工藤中佐がすでに死去されたことを知り、非常に落胆されました。帰りがけに恵隆之介氏に工藤中佐の墓所を尋ねられたことから、恵隆之介氏が一念発 起して行動を起こしたことによって、「敵兵を救助せよ」 (2006 年草思社)という感動的な労作が産み出されました。

 戦後なにも語らなかりた工藤中佐は、サイレントネーピーという海軍軍人の矜持そのものでありました。

 戦後、恵隆之介氏が工藤中佐の故郷山形県・高畠町を訪問した時にもご親戚の誰ひとりその事実を聞いてはおられませんでした。

 墓所が埼玉県川口市朝日にある薬林寺と判明したことを、恵隆之介氏からフォール卿に報告したところ、 療養中の身をおして命あるうちに日本に行って、工藤中佐の墓前に永年胸におさめていた深い感謝の意を捧げたいという熱望が伝えられました。

 かくして恵隆之介氏は、全力をつくして工藤中佐とフォール卿の武士の魂の再会を実現したいと決意しました。私もこの活動に協力する決心を固めました。工 藤俊作中佐(海兵51期)→清水晃(海兵77期)→ 恵隆之介(元海上自衛隊士官、江田島・海兵100期相当)と3人の海軍の絆はつながりました。

 私は恵隆之介著『敵兵を救助せよ』の英語版「Bushido over the sea」を脱稿したところです。目下その出版の方策を検討中であちます。なお、恵氏の友人である英国の作家ピーター・スミス氏の近著「Midway- Dauntless Victory」の日本語版制作についても検討中であります。

 そして、英語版「Bushido over the sea」は工藤中佐と雷乗組員の塊とともに、とれをSir Samuel Falle に謹んで捧げたいと存じます。

清水晃 タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 元英国暁星国際大学学長 海兵77期
〒813・0044福岡市東区千早5-5-43-1209 携帯090・8012・8018 Ashimizux@aol.com

 週刊「東洋経済」(11/29)の今週号の特集は「共済と保険」。リーマン・ブラザーズAIGの破たんによる金融危機で日本の「共済」が健闘しているという内容で、賀川豊彦協同組合による保険業参入を目指して失敗した70年前の出来事にも言及している。(伴 武澄)

 詳しくは「本誌」を読んでいただくとして、冒頭部分を紹介したい。

 大和生命が破たんし、AIG系の生保が売りに出されるなど、波乱続きの10月中旬、埼玉県共済の白川哲也理事は笑いが止まらなかった。生保の苦境とは裏腹に、連日、前年同期比20%増の勢いで新奇加入が増えていたからだ。世間では逆風の金融危機が、同共済にとっては追い風になっている――。

 人気の理由は明らかだ、販売する共済商品の安さである。埼玉県共済が販売する「生命保険」 はわずか月2000円の掛け金で、死亡時1000万円、入院日額5000円という保障が得られる。しかも1年経って決算が終われば、余剰が割戻金として加 入者に返金される。2007年度の割戻率はなんと35・32%。これを差し引くと、実質的な掛け金は月1294円で済む。この割安さが家計を見直したい消費者の支持を集め、割高な保険から共済へ次々と乗り換えている。

 『共済事業の歴史』(坂井幸二郎著、日本共済協会刊)によれば、生協の父と呼ばれる賀川豊彦氏は戦後まもない1946年、生協も保険事業を行えるよう保険業法を改正すべく、関係省庁への働きかけに奔走していた。一度は「協同組合による保険事業」を認める保険業法改正法律案要綱がまとめられたものの、国会提出には至らず、その後も何度も審議が繰り返されたが、結局、改正法案が日の目を見ることはなかった。当時、審議をリードしていたのは生損保の業界関係者が大半で、協同組合側に立っていたのはわずか1人だった。

 10年ほど前から「一升瓶」の存在が気にかかっている。酒、醬油、味醂など調味料のリサイクル容器のスタンダードとして定着している。ペットボトルの出現でその出番が減ってきたが、日本酒や焼酎の容器としてはいまだにスタンダードである。

 尺貫法はいまや風前の灯と思われているが、おっとどっこい。土地の広さを示す「坪」、部屋の広さの「畳」は平米で示すより日本人の感覚に馴染んでいる。 一方で重さの「匁」(もんめ)や「貫」(かん)、そして足の大きさを示す「文」(もん)の意味が分かる人は少なくなった。牛乳もすべてリットル表示ばかり となった。ところが酒だけは「升」(しょう)と「合」(ごう)が健在、というより、リットルではほとんど通用しない世界である。「一升瓶」という存在があ まりに大きいためなのだと考えている。
 度量衡や規格の変遷は非常におもしろい。かつて日本家屋の障子や襖そして畳はサイズが規格化されていた。だから家を解体しても別の家屋に流用が可能だった。古障子とか古畳も町で売っていた。これは大変な文化だと思っている。酒も「一升酒」という言葉が残っている。

 酒や醬油は元々、樽からの量り売りが主流だった。金持ちは樽で買っていたのだろうが、庶民は酒屋に容器を持参して好きな量だけを入れてもらっていた。だ から一升瓶という概念はなかったはずである。明治になってガラス瓶が登場し、だれかが「一升瓶」をつくって酒を売るようになって一升瓶という概念が誕生し たのだろうと考えた。それで、いったい誰がいつ始めたのかが疑問となっていたのである。

 それが分かったところで「それがどうした」という程度の問題だが、いつのころからか、酒屋や博物館で一升瓶の由来を聞く自分があった。

 京都・伏見、大倉酒造の大倉記念館を訪ねたとき、大倉酒造が「瓶詰酒」を初めて売り出したとの説明があった。館長さんに「一升瓶」の由来を聞いたが、「うーん」とうなったきり返事がなかった。

 答えは唐津市の宮島醤油のサイトにあった。宮島清一社長が書く「社長ブログ」。1990年発行の『びんの話』(山本孝造、社団法人日本能率協会)を参考に一升瓶"発明"の由来が書かれてあった。

 http://www.miyajima-soy.co.jp/ceo/ceo/ceo.htm

 ガラス壜が登場するのは明治19年のこと。日本橋の岡商会が壜詰清酒を売り出したのが始まりとされる。以来、壜詰が増え、明治34年(1901)、灘の「白鶴」が人口吹きガラスの一升瓶入りの清酒を発売し、沢の鶴も前後して売り出しているそうだ。

 一升瓶は一本ずつ手作りだったから貴重品で、何回も使うという発想は当たり前のことだった。

 一升瓶の量産は大阪のガラスメーカー「徳永硝子製造所」の二代目、徳永芳治郎によって達成された。大正11年(1922年)、関東大震災の前年のことで あるからまだ100年の歴史はない。徳永兄弟の「血のにじむ」ような努力による技術革新のおかげで、われわれはいま、普通に一升瓶の恩恵にあずかっている のである。
  賀川豊彦の世界的名著『Brotherhood Economics』は1936年、ロチェスター大学ラウシェンブッシュ講座での講義から生まれた。ロチェスター大学は1850年設立で、ニューヨーク州 西北、オンタリオ湖に近いロチェスター市にある。コダック、ボシュロム、ゼロックスなどこの町で生まれた有名企業が少なくない。

 イーストマン・コダックを創設したイーストマンが5000万ドルを寄付して発展したため、光学部門では世界有数の業績を残している。ニュートリノでノーベル物理学賞を授賞した小柴昌俊もロチェスター大の大学院を卒業している。
 イーストマンは登場したばかりのセルロイドに銀乳液を塗ったロールフィルムを発明、1888年に特許を取得し た。「You press the button, we do the rest」という宣伝文句により、誰もが撮れるカメラを世に出した。撮影後にカメラを送り返して、10ドルを払えば、フィルムを現像し100枚の写真と新 しいフィルムを装填するというシステムで、その後のコダック特有のインスタマチックカメラとなった。

 乾板がフィルムになったことにより、連続撮影が可能になりムービーが誕生する素地も生まれ、映画誕生のきっかけとなった。

 ちなみにフィルムの材質はセルロイドで、化学的に合成される前はクスノキから抽出された樟脳によってつくられた。エジソンの発熱電球のフィラメントに日本の竹が採用されたように、日本の樟脳がフィルムカメラの生産を支えた。

 ボシュロムは「レイバン」ブランドで有名な眼鏡メーカー、ゼロックスは説明の必要はあるまい。ともにロチェスターで産声を上げた世界的な光学企業である。

 シリコン・バレーが生まれる背景にスタンフォードがあったという話しは有名である。しかし、本当はどちらがたまごなのかは分からない。IBMが最初のフ ロッピーディスクを生産した地こそがシリコン・バレーなのだという説もある。しかし写真フィルム誕生の地がロチェスターだったとは誰も伝えていない。(伴  武澄)

 国宝 仏頭(旧山田寺講堂本尊) 飛鳥時代・7世紀 奈良・興福寺蔵

 山田寺の仏頭にはことさら思い入れがある。大学入試に失敗して浪人していた時、初めて一人で飛鳥周辺を旅したときに出会った。旅の道しるべは岩波新書 『奈良』((直木孝次郎)と高校の日本史教科書の2冊だった。とりあえず教科書に載っている仏像を手掛かりに仏教の旅を始めようと思った。順番で行くと飛 鳥寺の大仏の次に拝観したことになる。

 高校日本史の教師は渡辺忠胤先生だった。まことに達筆な方で、黒板に書く文字も流れるようだった。それだけで授業を受ける価値があった。また先生は歴史 を旅の中の出来事のように解説した。授業を聞いていて、あそこも行きたい、あそこも訪ねたいと思うようになった。筆者の旅好きは多分に渡辺先生の薫陶のお かげと思っている。

 当時、凝っていたのは寺院の「伽藍配置」の意味だった。飛鳥寺方式が一番古く、順に四天王寺、法隆寺、薬師寺 などを覚えた。山田寺跡には巨大な寺院であった証拠の礎石が残っている。ただその石の並びが見たいために山田寺跡を訪れた。その礎石の並びから伽藍配置を 容易に想像できるからである。

 そもそも仏陀は偶像の崇拝を禁止した。キリストもマホメットも同じことを弟子たちに言ったが、守られたのは回教においてだけだった。偶像崇拝を禁止され たインドの初期の仏教徒たちは舎利や仏足跡をおがむようになった。舎利はブッダの骨である。インドでは仏舎利を納めるスツーパが仏教寺院の中核的存在と なった。初期的なスツーパは盛り土や石積みの上に五輪を飾ったものだった。

 やがて盛り土の下に立派な基壇が誕生した。基壇は3段、5段と高くなり、日本では三重塔、五重塔となった。だから日本に伝わった初期の伽藍は「塔」が中 心となった。仏教が哲学的進化を遂げるなかで仏教の信仰は舎利から仏像へと変遷し、仏像を安置する本堂や金堂が伽藍配置の中心となっていく。

 飛鳥、白鳳、天平と日本の仏教建築は発展するが、たかだか100年の変遷史の中で舎利信仰の「塔」中心から塔そのものが「飾り」となる重要な変遷をみることができる。奈良の寺院を訪ねながら、伽藍配置の変遷史に身を置くことができるのが楽しかった。

 この仏頭を本尊とした山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺だった。大化の改新で中大兄皇子、中臣鎌足側についたが、後に謀反の疑いをかけられ自害する。やがて疑いは晴れ、 天武14年(685)に天皇は亡き蘇我倉山田石川麻呂のために山田寺を建立した。

 時代は移り、山田寺の本尊は鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられたが、応永18年(1411)に堂とともに被災。そ の後、行方が分からなくなっていたが、昭和12年に現在の東金堂本尊の台座の中から頭部だけが発見された。応永22年(1415)に再興された現東金堂本 尊台座の中に納められた記録が残っていたため、白鳳仏としての造立年代も明らかにされた。

 少年のような若々しさがいまも伝わり、早熟な大和朝廷の時代背景と重なる造形は筆者自身の青春期の思いとさらに重なる。(伴 武澄)
『ソーセージ物語 ハム・ソーセージをひろめた大木市蔵伝』
(増田和彦著  2002年03月 ブレーン出版 四六判 1575円)

 日本のハム・ソーセージの歴史にはどうやら2つのルーツがあるようだ。一つは横浜、もう一つは徳島の坂東である。後者は第一次大戦でドイツ人捕虜を収容 した地。日本で最初にベートーベンの第九が演奏されたことでも知られ、捕虜たちがハム・ソーセージづくりを始め、その技術が徳島ハム(現日本ハム)に継承 された。

 横浜の方もドイツ人が関わる。横浜に居住する西洋人たちのためにハム・ソーセージ製造が始まった。ドイツ人技術者からハム・ソーセージの製造技術を伝授されたのは千葉の農家からやってきた大木市蔵という青年だった。
 『ソーセージ物語』はこの大木市蔵の生涯を描いた。外国人にハム製品を売るかたわら、東大生・農大生はじめ日本中に技術を教え歩いた。消費者に加工品の歴史と技術者・業界の努力を伝える書。

 日本特有の魚肉ソーセージがある。戦後の食料難の時代に登場した。大木は「ソーセージ」として認められないと反対したが、これが多くの国民に受け入れら れてしまった。日本各地で魚肉をペースト状にして揚げる「テンプラ」があった。これを腸詰めにしたのが魚肉ソーセージなのだが、肉のソーセージを食べたこ とのない子どもたちはその「まがい物」をソーセージとして受け入れてしまったのかもしれない。
 国際平和協会(伴武澄会長)は、大泉町古氷のブラジル人学校ジェンチミューダ校(渡辺フランシス校長)の生徒ら三十五人を東京見学に招き、子供たちが充実した一日を過ごした。

 ブラジル人の子供たちに日本の首都を見学してもらおうと毎年開催している。同協会にはブラジルに住んだ経験のある理事も多く、子供たちと交流を図るなどして、子供たちに積極性を高めてもらう狙いもある。

 子供たちは理事たちの案内で東京タワーを訪問。ほとんどの子供が初めての体験で、東京を一望する絶景に大喜びだった。その後は葛西臨海水族園に移動、マグロなどの大きな魚が水槽狭しと泳ぐ姿に感動していた。

 最後に訪れたNHKのスタジオパークでは、ドラマやニュースができるまでの過程を学んだ。


  オバマ氏がアメリカ大統領選で大勝した。共和党マケイン氏に対してダブルスコアだった。ブッシュ時代の8年間、アメリカ国民は経済的繁栄を謳歌したはず だったが、気が付けば長引くイラク戦争における「正義」に対する懸念、そして金融危機に到る資本主義の暴走に対して表現しがたい疑念が首をもたげ、民主党 への雪崩的支持が集まった。

 アメリカは白人とプロテスタントが建国した国家だった。50年前、ケネディがカトリック教徒として初めて大統領に就任し、まず宗教の壁を乗り越えた。今 回、オバマ氏は人種の壁をも乗り越えた。世界最強国の指導者が有色人種になることは、アメリカ史のみならず世界史的な変節点を迎えたといってもいい。
 オバマ氏が特異なのは、アメリカの黒人出身でないところである。白人とアフリカ、ケニヤ人の血が流れ、インド ネシアの文化を受け継いでいる。そして知的精神的にはワプスであろう。オバマ氏の台頭にはそれこそタイガー・ウッズの彗星の如き登場に似た爽快感が伴って いた。地球的ルーツをもつことはアフリカ、アジア諸国の人々に勇気を与えるものでもある。

 大統領選でオバマ氏が掲げたスローガンは「Change」と「Yes We Can」である。「Change」はブッシュ的体質への決別を示したものであろう。世界はイラク政策もマネー経済も変革されるのを期待している。世界に とって強いアメリカは必要だが、暴走を止めるものがいなくなった時代に「戦争」で突っ走られた8年間だったから当然である。

 「Yes We Can」はマレー語の「Boleh」に通じるものだと信じている。マハティール前マレーシア首相がルック・イースト政策を提唱したとき、国民を励ました言 葉は「Malaysia Boleh」だった。「私たちにもできる」と訴えることによって国民的求心力を勝ち取った。この言葉は途上国マレーシアのみならず、人種の対立、宗教の対 立を乗り越えなければならないアメリカ国民の心を打ったはずだ。オバマ氏はマハティールに学んでいるはずである。

 オバマ氏の大統領就任は来年1月20日である。これからワシントン入りする閣僚たちの選抜が始まる。財務長官にサマーズ氏の声が早くも上がっている。閣僚名簿がそろった時にこそオバマ政権の本当の姿が見えてくるはずである。

 大統領が黒人になったことはそれこそ大きな変革であるが、アメリカが変わるためにはオバマ氏を支える閣僚たちにも新しい血や知が必要なのである。オバマ氏が無事に1月20日を迎えることを祈る。(伴 武澄)

このアーカイブについて

このページには、2008年11月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2008年10月です。

次のアーカイブは2008年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ