2008年9月アーカイブ

 兵庫県関係のすぐれた歴史書を推薦せよとの依頼を受けてとまどった。神戸には学生時代からしばしば訪れ、最近惜しまれつつ閉店した後藤書店をよくのぞいた。楠公さん近くには父の従兄の俳人岩木躑躅が接骨院を営んでいた。虚子門下の最長老である。川西氏には娘が住んでいる。なじみの深い地域ではあるが、関連する史書となると思い浮かばぬ。ふと思いついたのが表記の本である。賀川豊彦兵庫県人ではないが、青壮年期の11年間を神戸葺合のスラムで送り、日本の社会運動史上不滅の足跡を残した人物だから、依頼者の意にそむくことにはなるまい。

 実のところ私は食わずぎらいで賀川の文章を余り読んでいない。郷里鳥取の生家には大正期の大ベストセラー『死線を越えて』はあったが、読んでいない。私の本来の専攻分野であった社会運動史研究の必要上、彼の文章は読んだことは読んだが、深く心にとどまることはなかった。

 その私が賀川への関心を失わなかったのは、賀川と直接深い関係にあった学生時代からの一友人のゆえである。その名は横関武。同志社大学時代に生活協同組合運動に入り、最終的には京都生活協同組合理事長と日本生活協同組合連合会副会長を勤めあげた。私が内弟子同然であった北山茂夫の戦時下田辺中学教師時代の生徒であり、葬儀委員長をつとめた。

 横関は中学時代すでにほとんど視力を失い、戦時下役立たずとして配属将校にいじめられ、戦争と飢えの無い世界を希求するようになった。視力のため上級学校への進学の途を絶たれた横関は、中学卒業の翌年の1948年家出して大阪飯場に入り土方になった。1年後衆議院議員総選挙があり、賀川は社会党応援のため飯場に演説に来た。「働きびとに主は在せり」の題で、社会事業による福祉国家の建設を説く賀川に、横関は社会事業では労働者は救われない、賀川は山師ではないかと喰ってかかった。賀川はかえって横関を見込んで西下するごとに飯場を訪れ、1951年、眼が悪くても学べる学校として同志社大学神学部に連れて行き入学手続きをとった。

 賀川は横関を労働者伝道の牧師にするつもりであったが、砂川反対運動などに参加した横関は神学部にあきたらず、社会科学を学ぶべく転部を賀川に報告した。賀川は労働組合の書記になりたいという横関に「静かな革命」運動としての生協運動の意義を説き、その道に入ることをすすめた。このとき横関は戦時下における賀川の生き方を問い、「自分は徹底的に戦争と戦うことができなかったことを心から恥じている」との言を聞いて、はじめて賀川を信頼する気持ちになったという。

 横関は今でも賀川を「人の痛みがわかる、寛容の精神の人である」として尊敬している。いわく、賀川の唱えたのはこの社会のおだやかな変革-日本国憲法を実質化することだ。その手段として労働運動生協運動における統一戦線を希求した。その賀川を改良主義者として片付けることはできない。(2007年12月12日談)

 経済学者の隅谷三喜男の賀川豊彦評 価の方法は横関のそれに類似している。眼の不自由な横関の場合、賀川の文章によらずその言動によって賀川を評価した。隅谷はいう「ひとりの人物を評価する 場合に、単にその思想の表皮のみによって、判断するのは正しくない。人物はその人格の独自性によって、苦しみ、悩み、戦い、十字架を負った。その全人格の 在り方そのものによって、評価されなければならない。思想の体系はその不完全な表現にすぎない」(199~200ページ)。文章に表現される思想だけで人 を評価すべきでない。行動に示される全人格の在り方によって評価すべし、という点で横関と一致する。隅谷は「賀川の生きた時代の具体的状況をふまえて、そ のなかでかれの活動と思想がどのような意味を持ったか、を明らかにすることに努めた」(226ページ)。

 隅谷は1909年に賀川が結核を病む身で新川のスラムに入って伝道を始め、貧民問題の解決を志すところから、労働運動、農民運動、無産政党運動、さらには協同組合運動と社会運動の全分野にわたってその基礎をつくることに貢献し、満州事変前、キリスト教界振興のための「神の国運動」を展開するまでの生涯を簡潔に描出する。

 隅谷は賀川のキリスト教の弱点として、当時の自由神学の影響を受けて、信仰自然科学進化論)を連続的にとらえ、人間の力で社会悪を克服できるとする原罪の契機の弱さを指摘する一方、賀川が全ての社会運動において、その目標として「人間の全人的解放」を掲げたことを重視する。

 こういう隅谷の賀川理解は、隅谷自信の学問と経験に基礎づけられている。隅谷は戦前来の社会政策学を労働経済学に転化させた開拓者であるが、近代日本史にも造詣が深く、ベストセラーとなった中央公論社版の『日本の歴史』でも22巻『大日本帝国の試練』(1966年)を担当しているくらいである。父の仕事の関係で東京のスラムの中で育ち、受洗し、東大生のとき結核で1年休学した上、治安維持法違反で3カ月留置された。1941年卒業後は満州鞍山の昭和製鋼所に労務担当として就職し、その仕事ぶりにより戦後鞍山名誉市民に推された。敗戦後はじめて東大研究室に入り、退官後は東京女子大学学長、日本学士院第一部長と学会の頂点にまで達したが、常に社会的関心を失わず、あの成田空港問題もいわゆる隅谷委員長によって初めて解決された。自伝として『激動の時代を生きて-社会学者の回想』(岩波書店、2000年)がある。こういう単なる学者にとどまらない生き方が、賀川への共鳴を育てたのである。

 本書は1966年に日本基督教団出版部によって刊行されたが、1980年以降再販されず、1995年にようやく岩波書店「同時代ライブラリー」に加えられて入手可能となった。一度絶版となったのは、隅谷が「日本の貧民研究史上不朽のもの」(25ぺーじ)と高く評価する賀川の『貧民心理の研究』(1915年)が差別文書として糾弾されたからである。

 賀川の全集が1962年から2年がかりで全24巻発行され(発行者武藤富男、発行所きりスト新聞社)、『貧民心理の研究』が第8巻に収録されたとき、すでに第7巻のうち「穢多村の研究」の節全文削除の要求がキリスト者部落対策協議会から提出された。このとき話し合いがついて削除せず、武藤富男の、賀川の部落民異人説や差別表現は「若気のあやまち」とする解説をつけて刊行した。ところが1981年全集第3版刊行に際し、キリスト教界内に部落差別問題がクローズアップされ、武藤は第7章全部と同巻収録の『精神運動と社会運動』(1919年)の中の一部を削除した。

 ところがさらに日本基督教団部落解放センターなどから、第8巻そのものが差別文書であるとの非難が加えられ、1990年まで11回の話し合いの末、キリスト新聞社はその創立者たる賀川を「差別者」と断定し、全集第8巻の「補遺」として『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』を刊行するにいたった(1991年)。

 たしかに今日の高みからみれば賀川の叙述は差別文書といえよう。しかし20世紀初頭の知的水準からみると如何。当時賀川の叙述を批判しうる水準に達していた文献が他にあったか。存在しないからこそ部落出身の京大社会学担当講師(前記資料集は「教授」としている。キリスト新 聞社は、米田がその出身ゆえに教授昇任(1920年)がおくれたという有名な風評を知らなかったとしか思えぬ)米田庄太郎は賀川の「見解や、論結」につい て「反省を促したい」といいつつも「本書の如き良著作を公にされた著者の労を謝」し「我邦の読者社会に推薦する」という「貧民心理之研究序文」を賀川の求 めに応じて与えたのである「差別文書」を推薦する米田もまた「差別者」として糾弾を受ける資格がありそうだ。

 『全集』第8巻は原著に一切手を加えず、歴史の一資料として適切な解説をつけるべきではなかったか。隅谷は『賀川豊彦』の「あとがき 追記」で「その諸説によって被害を受ける人々に対しては充分考慮しなければならないが、それをもって論者の人格を否定することは私は採る所ではない」と書き、『貧民心理の研究』への「高い評価」を変えていない。

 その後鈴木良により賀川と創立期水平社との関係が具体的に明らかにされ、鳥飼慶陽・倉橋克人・浜田直也らによって賀川の諸側面が検討されつつある。隅谷本以降の研究をふまえた新しい賀川評伝の刊行が待望される。(松尾尊允=まつお・たかよし、京都大学名誉教授)

(『歴史と神戸』(神戸学会)第47巻2号 No.267 2008.4特集 私のこの1冊(4~7頁)より)

編集

桜美林創立者:清水安三の北京時代(桜美林学園のホームページから転載)

桜美林学園理事長/学園長 清水 畏三

 ■ご挨拶:

 本日は、北京大学(北大)の創立100周年を記念して開かれるシンポジウムであります。従ってまず北京大学の先生方に、心から「おめでとう」を申し上げます。

 さる5月4日、北京の人民大会堂で北大100周年記念式典が盛大に開かれたさい、私どもの佐藤学長をも招待して頂き、誠に光栄、感謝であります。ようやく桜美林大学も、世界の著名大学に仲間入りしたらしい......と思い、大いに喜ばせて頂きました。

 しかし北大の創立記念日が、本当に5月4日であるのか、私は疑問を抱きました。偶然、"五四運動"の5月4日であるはずなし。調べてみますと......、清朝の光緒帝が1898年7月4日、北大の前身・京師大学堂の設立を正式勅命した。丁度100年前です。しかしその直後、西太后政権掌握、義和団北京進入、8国連合軍が北京占領......という大混乱期が続いた。ようやく1902年12月17日、京師大学堂が正式再開された。以来、この12月17日が<校慶日>(創立記念日)になった......とのことであります。


 9月21日、自民党総裁に麻生太郎氏が当選した。4回目の挑戦である。福田首相が1日突如、辞意を表明した後、総裁選挙が行われた。たぶん国会開幕後そう遠くない時期に総選挙となるはずである。

 2週間前に火中に栗を拾う次期総裁といった内容のコラムを書いた。5レンジャーたちは何の得があって立候補するのか判断をしかねた。

 9月22日付北國新聞のコラム「時鐘」は痛快だった。ことし飯塚市で登場した「太郎ちゃんまんじゅう」を取り上げ、「洋風のあんこの味付けが自慢で、炭鉱王・麻生家にあやかって、中の粒あんは石炭をイメージしたとか。6個入りで1600円。「賞味期限30日間」という表示が目を引いた」と書いた。

 衆院解散のXデーは、「10月3日」説がもっぱらである。3日解散、14日衆院選公示、26日投開票という日程が、一人歩きしているのである。

http://www.saizon.net/manjyu.html

 総選挙で万が一敗れると本当に賞味期限がきてしまうのだろうか。


 太田誠一農相が9月19日、辞任した。後任はなく、町村官房長官が兼任する。残す"任期"が後5日となってい るから、「兼任」なのだろうが、汚染米への不安が拡大する中、たとえ自民党の総裁選で新内閣に変わるからといって最高責任者の農相が"不在"のままでいい のだろうか。
 それにしても安倍内閣以来、太田氏は5人目の農相。松岡農相は事務所の光熱費問題などから自殺、あとを継いだ 赤城徳彦氏は父親の自宅を事務所として届出したことが問題となり2カ月で辞任に追い込まれた。昨年8月の改造内閣で就任した遠藤も金銭問題によりたった8 日間で辞任した。その後、若林正俊氏が就任して、今年8月まで農相を務め、太田氏に引き継いだ。

 太田氏は汚染米問題で引責辞任したかたちとなったが、事務所費疑惑が浮上する一方で、農相就任直後に出演したテレビ番組で「消費者としての国民がやかましくいろいろと言うから、応えざるを得ない」と発言するなど物議をかもし出していた。

 そもそも5年前の早大生による集団レイプ事件について「まだ元気があるからいい。正常に近いじゃないか」と突拍子もない発言をしていた御仁だ。そんな人物が農相に就任されていたのだから、とんでもない話なのだ。

 過去2年間で農相5人のうち、4人までが不祥事で職を辞したこと自体問題なのだが、ニューヨーク発の金融危機が世界を駆け巡り、国内では食の安全への不 安が連鎖的に拡大している時期に、首相が職務を"放棄"したまま、農相も"兼任"ってのはどうなのか。いま、この国で責任を取る人物が不在なのであ る。(いがぐり頭)

 この2年間の農相
42代 2006年9月26日 松岡利勝(安倍内閣)=自殺
 ―  2007年5月28日 若林正俊(臨時代理)
43代 2007年6月01日 赤城徳彦=辞任
44代 2007年8月01日 若林正俊
45代 2007年8月27日 遠藤武彦(安倍改造内閣)=辞任
 ―  2007年9月03日 甘利明(臨時代理)
46代 2007年9月04日 若林正俊
47代 2007年9月26日 若林正俊(福田内閣)
48代 2008年8月02日 太田誠一(福田改造内閣) =辞任
49代 2008年9月19日 町村信孝(官房長官兼任)
 伊那の近代時計博物館と野沢和敏さん

 日本のフォルケ・ホイスコーレについて語るとき、忘れてはならないのが黒沢酉蔵翁である。雪印乳業設立者の一人だった。昭和57年、95歳まで生きて、農村高等学校としての酪農学園(現酪農学園大学)を経営し、農村青年の育成に努めた。

 雪印がもともとは北海道協同組合から発展したことを知る人は少ない。「人を愛し、土を愛し、神を愛する」というデンマークのグルントヴィの三愛主義を掲げてきたはずの雪印乳業は2003年、回収した古い牛乳を再利用するという前代未聞の不祥事を起こしてしまった。

 黒沢は明治18(1885)年、茨城県久慈郡の寒村に生まれた。青年時代、足尾銅山問題を追求していた田中正造に私淑し、中学卒業後、縁があって札幌郊外の宇都宮牧場に入った。黒沢酉蔵酪農家としての長い一生は、ここから始まる。

 牧場主の宇都宮仙太郎は明治18年北海道に渡り、20年にはアメリカに渡りウイスコンシン州立大学で学んで帰国した北海道酪農の草分けだった。当時からデンマーク協同組合農業手法に注目していて、黒沢は多大な影響を受けた。

 42年、札幌メソジスト教会で洗礼を受け、山鼻に5反歩の土地と牛二頭を借り黒沢牧場を興した。当時は乳業メーカーなどなく牛飼は搾った牛乳を自ら売り歩かなければならなかった。夏は大八車、冬は天秤棒で牛乳を配達した。

 単なる牧場経営から乳業メーカーへの転身は奇しくも1923年の関東大震災の影響だった。大震災後、世界各地から震災見舞いの乳製品が大量に送られてきた。日本政府は乳製品への関税を撤廃しこれに応えたのだが、国産の乳製品は逆に売れ行きが落ち込み国内酪農家は苦境に陥った。

 当時、北海道の畜牛研究会のメンバーだった黒沢は宇都宮氏や佐藤善七氏らと売り先を失った牛乳を買い取り自ら加工しないと北海道酪農は生きていけないと考え、出資金を募って大正14(1925)年、有限責任北海道製酪販売組合を設立し、バターの加工に乗り出した。会長は宇都宮氏、専務に黒沢が就任し、翌年「雪印」ブランドが誕生した。会社組織になったのは戦後で、1950年に社名が雪印乳業となった。

 黒沢が組合経営と並行して力を入れたのが、農村青年の育成だった。昭和24年、衆院議員だった黒沢がパージされたとき、賀川豊彦が語った言葉が残っている。賀川と黒沢はほぼ同じ年代を生きた。どこで接点があったか分からない。大正12年は関東大震災の年で、まだ農村福音学校は生まれていない。同じキリスト教徒で農村の振興の必要性を感じていた二人だったはずだ。

「私が黒沢氏を知ったのは大正12年頃です。(中略)以来、私が常に主張してきました乳と蜜の流るる村の建設、即ち酪農による美しい農村社会の実現に協力してくれた敬愛する同志です。北海道酪農が今日の盛況を見るのは黒沢氏を中心とするクリスチャンの数十年の弛まざる犠牲的努力の結果です。(中略)今日思想が混乱する日本で、日本農村の青年を正しい民主的なデンマークのような社会に創り上げるには黒沢氏の如き知と熱のある指導者をおいて他にないと信じます。日本酪農の振興、牛乳及び乳製品を豊富に生産して国民生活の向上をはかるためのその道の権威者・・・(後略)」。

 良牛は良草より、良草は健土より

 http://www.geocities.jp/alfa323japan/kurosawa.htm

 黒沢酉蔵

 http://www.across.or.jp/s-amano/ippin/yuuki/siryositu/torizo/torizo.html#1

 9月10日、自民党総裁選が告示され、5人の候補者の名が並んだ。前日、ピョンヤンでは建国60周年記念の軍事パレードが行われ、正規軍が参加しなかっ たうえに、金正一総書記の姿がなかったことから憶測が憶測を呼び、「金総書記重態説」が世界中を駆け巡った。万が一の事態が生じたら東アジアに激震が走る ことだけは間違いない。
 そんな北東アジア情勢を背景に始まった総裁選が実に陳腐にみえた。候補者たちが掲げるキャッチフレーズからして危機感に欠けるものであった。

 麻生さんの「日本の底力」はまだしも、小池さんの「もったいない」は賞味期限切れ。与謝野さん「あたたかい改革」、石原さん「心の通った改革」には笑っ てしまう。それって何もしないということでしょ。石波さんの「私は建て直す」は意味不明。それぞれに7年前の小泉さんの「自民党をぶっ壊す」ほどの迫力に は遠く及ばない。

 外交・安全保障問題にも触れられたが、テロ特措法ばかりが安保ではない。内政と国内景気ばかりが争点となっていたのも悲しい。アジアをどうするのか、世界の貧困にどう立ち向かうのかといった大風呂敷が政治家には不可欠ではないか。

 10日午後の共同記者会見で「解散・総選挙」の時期を問われ、小池さんが「総裁になってから決めます」と言ったほかはみな「次期総裁が決めること」と他人事なのには驚いた。本気で総裁になろうとして戦っているとは到底感じられなかった。

 次期自民党総裁は福田さんの後釜の首相になる。今度ばかりは総選挙を免れない。敗れれば下野せざるをえない。そんな政治情勢である。仮に下野を免れても議席の大幅減は必至。しかも参院のねじれ状態は後2年続く。重要法案の参院可決は難しいままだ。

 立候補した5人はそんな火中の栗を拾う覚悟はあるのか。

 三重県庁にあいさつに行くとパラオの話が出た。友好姉妹関係にあるのだ。クニオ・ナカムラ大統領の父親にあたる人が実は伊勢市の船大工で戦前にパラオに渡ったのだという。パラオには2002年に行ったことがあるので三重県が近いものになった。

 パラオはグアムからさらに飛行機に乗り継がなければならない。日本列島のほぼ南4000キロにある島国だ。第一次大戦で日本の委任統治領となって 日本からの定期航路もできて発展した。戦前、パラオの巨大な環礁の内海は帝国海軍の泊地ともなっていた。1994年独立して、ナカムラさんが大統領になっ たくらいだから、日本人姓を持つ人も少なくない。

 三重県からパラオに思いが転じてしまった。海女がナマコも獲物としていたことを思い出したからである。鶴見良行氏に『ナマコの眼』という名著がある。鶴見さんはアジアの辺境に独自のアプローチから数々の価値を見出した民俗学者でもあると思っている。

 日本人はナマコを生で酢ものなどで食するが、中国人にとっては貝柱、アワビなどとともに珍味の一つである。高級食材といっていい。中華料理では乾物のナマコを水で戻して煮込む。日本人はコリコリ感を楽しみ、中国人はプリプリ感を好む。

 江戸時代、日本産のナマコは俵物として長崎から大量に輸出された。明治になると日本人はそのナマコをパラオに求めた。太平洋の島々で日本人によって採取 されたナマコは乾物となってほとんど中国人の胃袋に入っていった。南洋群島が日本の委任統治領となると、さらに多くの日本人が一獲千金を求めて太平洋の島 々を目指した。

 日本人はさらに南下してオーストラリアのアラフラ海のシロチョウガイを狙った。プラスチックが生まれる前のボタンの素材だった。ナマコもシロチョ ウガイもともに採取は海女の仕事である。南洋に亘った海女は女ではなく、ほとんどが男たちだった。『ナマコの眼』によるとその日本人とは主に紀伊と糸満の 漁民だったという。

 鶴見さんのナマコの眼と通すと、パラオと三重県がつながるのである。紀伊は明治以降、東半分が三重県に編集されたから、紀伊といえば三重でもあるのだ。

 明治時代の漁船にエンジンがあったとは思えない。そんな時代に紀伊の漁民は4000キロ南の漁場を行動範囲としていたのだから、なんとも勇壮な話 である。現在のパラオの人口は2万人に満たない。最盛期には8万人を超えていた。減少分は日本人の数である。多分パラオでは日本人の方が地元民より多かっ たはずである。つまり紀伊から万単位の漁民がパラオに渡っていたということになる。

 紀伊の漁民がパラオに出稼ぎに行き、裕福な中国人の胃袋を満たし、先進国のシャツの胸元を飾っていたと考えるとわくわくするではないか。

 飛鳥山について書きたい。JR王子駅の西側にある公園のキーワードは「飛鳥」と「王子」である。

 飛鳥山のサクラは八代将軍吉宗がサクラを植えさせ、庶民に開放したところから始まるのだが、この地になぜ「飛鳥」(あすか)の地名があるか。飛鳥 といえば、多くは奈良盆地の飛鳥を思い浮かべるのだと思う。現在、地名としては「明日香村」だが、昭和の大合併までは飛鳥村と表記した。

「飛鳥」の二文字をどうして「あすか」と読ませるにいたったかは実は分かっていない。

 さて飛鳥山である。佐藤俊樹著『桜が創った日本』などによると、元享2年(1322)、当地の武士、豊島影村が紀伊国の守護人に補任され、熊野か ら「飛鳥王子」を勧請して若一王子宮として祀った。神様の名前が地名の「王子」として残り、山の名前として「飛鳥」が根付いたというのだ。

 熊野信仰は平安末期、後白河法皇の時代、頂点に達し、鎌倉時代に「蟻の熊野詣で」という言葉が生まれた。いずれにせよ、相当古い。サクラの名所となるのはそれからさらに400年の年月を必要とした。

 紀伊半島の南部を旅したとき、賀田(かた)という寒村に泊まったことがある。朝、一帯を散歩して「飛鳥神社」という古い社に偶然出会った。川を 遡ったところに飛鳥という在所もあった。なぜこんなところに「飛鳥」があるのか不思議だった。後にインターネットで調べてみたら「三重ところどころ」というサイトで飛鳥神社の由来について説明があった。
                        
「中世以来、和歌山県新宮市熊野地にある阿須賀(あすか)神社の神領地で、江戸時代は紀州(和歌山)徳川家の支配をうけ御蔵領(本藩領)といわれ、北山組 に属していました。いつごろから飛鳥の地名になったかは不明ですが、飛鳥神社からとったものと考えられます」。 それにしても、飛鳥神社の近くに「飛鳥」という地名があって、「明治43年の神社合祀令までは、飛鳥に三つの飛鳥神社(大又、小阪、神山(こうのやま)) があった」というのだからなぞが解決されたわけではない。
                        
 現在の賀田は単なる漁村だが、中国の秦の時代、不老不死の霊薬を求めた徐福が上陸したとされる波田須(はだす)に近く、神武天皇が大和に入るため上陸したと伝えられる楯ケ崎にも隣接する。神話とロマンの残る地でもある。

 東京都北区王子が、800年前から熊野と深いつながりがあったことを偲ぶだけでも飛鳥山を訪ねる価値があると思うのだが、どうだろう。

  江戸時代、伊勢の度会の地にあった山田という町は伊勢参りで大変なにぎわいだった。年間40万人、多いとき、つまり「おかげ参り」のときには400万人も の参拝者が山田へ、山田へと集まった。人口が現在の4分の1ぐらいの時代、飛行機も自動車もない時代、みんな徒歩である。

 伊勢参りを仕掛けたのは御師(おんし)といわれる人々だった。伊勢神宮=当時は神宮とだけいった=の周りには御師の館が数多くあり、参拝客のお世話をし た。旅館兼案内人であり、大規模な御師の館では神楽舞台を設け、神さまへの神楽奉納も行った。盛時には1000人の御師がいたというから"従業員"を含め ると1万人内外の人たちが"観光業"に従事していたことになる。

 御師という人々は伊勢神宮だけのものではなかった。もともとは熊野詣でを斡旋した人々の役割をまねたものだった。全国各地を行脚して伊勢参りの大切さや 楽しさを語った。たたの語り部だけではない。村々で「講」をつくって小金を積み立てさせ、交代で参拝するというシステムも御師たちの手によって開発され た。

 全国行脚にはお土産として、必ず天照大神のお札を携帯した。全国津々浦々の神社で配られるこのお札はいまでも1000万枚に近い。いつからそうなったかは知らないが、たぶん御師たちの功績なのだろうと考えている。

 農村部で大切にされたのは暦である。江戸時代いちばん普及していたのが山田で印刷された「伊勢暦」だった。いつの時代でも暦を支配したのは当時の為政者たちだった。もちろんこの伊勢暦は江戸幕府のお墨付きをもらっている。伊勢暦も恩師のおもやげとなった。

 このほかみやげとしては万金丹という万能薬と伊勢おしろいがあった。ともにこの地方の特産である。万金丹は全国どこの家にもあったというからすごいことである。富山の薬売りにとっても行商に欠かせない薬だったと思う。

 伊勢おしろいについては別途書きたいと思うが、山田で特筆すべきは、日本最初の「紙幣」を発行したことである。「山田羽書」(はがき)という。初めは秤 量銀貨の小額端数の預り証(手形)として、釣り銭の代わりに発行されたが、17世紀には事実上の紙幣となって流通した。「羽書」とは「端数の書き付け」に 由来する名である。

 右(実物大)の縦長の紙に、銀の重さ、発行日、発行者名とその印鑑などのほかに「この羽書と引き換えに銀を渡す」と書いた。つまり兌換券である。兌換と いう言葉はなかったが、日本で独自に生まれた「金融慣行」の一つだったはずだ。その後、各藩で発行された藩札の起源は山田羽書にある。

 この御師たちこそが山田羽書の発行者だった。山田の自治組織である三方会合をつくり発行を厳格に管理したため、幕府が一時、藩札の発行を禁止したときも 山田羽書だけは発行の継続を許された。というより寛保2年(1742)には発行者は404人になり、銀一匁札に交換できる羽書だけで130万枚もが藩を越 えて流通していたため、幕府としても禁止できなかったのが実情だったのだろう。御師たちは日本金融史の中でもっと評価されていいのだと思う。

 ちなみにヨーロッパで最初の紙幣は1695年、エジンバラで設立されたスコットランド銀行によって発行されたとされているから、山田羽書はそれよりもよほど早い時期に発行されていたことになる。

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