2008年8月アーカイブ

旅の免罪符

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 江戸時代には、神宮などといういかめしい呼称はなかった。単に「お伊勢さん」といって親しまれ、毎年、30万人から40万人の参拝客があった。天照大神とは知っていても、たぶん皇祖神という意識も希薄だったのかもしれない。

 国の出入りが厳しく制限された時代に、伊勢参りといえば、誰でも通行手形が発行されたのだそうだ。手形すら持たずに、突然伊勢参りに旅立つ人も少なくなかったとされる。ぬけ参りといって、店先で掃除をしていた丁稚が突然いなくなり、数ヵ月後に帰ってくるということがよくあった。そんな丁稚であって もお伊勢さんなら仕方がないという風情もあったという。

 往復で1カ月以上もかかる伊勢参りにはお金もかかるが、それだけの満足感を与え続けたから、伊勢神宮には門前市をなした。30万人といえば、現代 の感覚でいえば大したことではないが、汽車も自動車もない時代である。しかもこの地に一週間ぐらいは滞在したから、参拝客の存在感でいえば100万人とか 200万人という感じではないかと思われる。当時の宇治山田の人口は2万人内外とされているから、その賑わいのほどが分かろうというものである。

 通常の伊勢参りとは別におかげ参りといわれた、爆発的な参拝が何回かあった。多い年には300万人から400万人が訪れたという。宮川の渡しで実 際に乗船客を数えていたのだから、現在の観光客の数え方よりよっぽど正確な数字なはずである。今でも花火大会やサクラの季節に町の人口の何倍もの観光客が 押し寄せたことがニュースになるが、時代は江戸である。歩くことしか移動の手段がなかった。その上、伊勢参りは通常、農閑期に旅立たれたから、晩秋から春 先に集中していたから、その賑わいは想像を上回るものだったはずである。

 人々の旅は伊勢では終わらなかった。京都や奈良の古都巡りや熊野詣で、金比羅参拝にも及んだ。伊勢参り以外では通行手形が出にくかった時代であるから、一生の思い出にと名所旧跡を歩いた。伊勢参りはまさに旅の免罪符のようなものだったようだ。

 その後、親しくなった三重交通の服部忠勝さんから聞いた話である。1990年代に東京支社に勤務中、バス旅行を企画して会津若松の農協を訪ねた ら、驚くべきことに伊勢講が現存していたという。服部さんがさらに驚いたのは、「香港に行きたいが、その露払いとして伊勢参りをしたい」という相手方の要 望だった。しばらくは合点がいかなかったが、ハハーンと気付いた。まだ免罪符の感覚が会津には残っていたのだった。その団体客はめでたく伊勢神宮参拝の後に関西国際空港から香港へと旅立ったそうだ。(伴 武澄)

宇治と山田

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 伊勢市はかつては宇治山田町といった。宇治山田町は、明治22年の町制施行によって宇治と山田が合併して誕生し、同39年に宇治山田市となった。伊勢市と呼び変えたのは昭和30年のことである。宇治も山田も丘陵をはさんだ別の町なのである。

 天照大神を祀る内宮があるのが宇治で、豊受大神を祀る下宮があるのが山田である。別の町といったのは、水系が違うからである。宇治は五十鈴川のほとりにあり、山田は宮川と勢田川にはさまれた土地に発展した。

 興味深いのは、琵琶湖から流れ出る川を瀬田川といい、その後、宇治川になってさらに淀川と呼ばれて大阪湾に流れ込む。伊勢の勢田と宇治がそのまま 近江で瀬田川、山城で宇治川となる。伊勢国の隣りの志摩国の鳥羽という地名も宇治川のほとりにある。地元の人にその関係を聞いたが誰も答えられなかった。

 伊勢神宮が確立したのは天武の時代だったとされるが、大津京を営んだのはその前の天智天皇だったから、どちらの地名が古いのか分からない。

 さて宇治と山田とどちらが古いかという問題もある。これはエッセイで書けるような代物ではない。伊勢神宮の由来に関わる重要な学術的問題である。 お話としては、飛鳥の地から天照大神が遷され、その後に天照大神が一人で食事するのは寂しいといったので、食べ物の神さまである豊受大神が呼ばれたことに なっている。しかし、どうやら順序は逆のようなのである。

 皇祖を祀るということになれば、天照大神が先でなければ辻褄が合わないし、内宮と外宮ということからも天照大神が先でなければならない。伊勢神宮全体としては天照大神が中心的祭神となっているのは当然のことなのだ。

 ところが地理的に天照大神にとって残念なことがある。伊勢神宮に入るにはどうしても宮川を渡らなければならないので、どうしても山田の町の方が賑わうことになったし、江戸時代に伊勢神宮を管理する奉行所も山田に置かれたから宇治の人々は我慢がならない。

 伊勢参りで賑わう門前町は実は宇治と山田を結ぶ丘陵の道の両側に発展した古市だった。江戸の吉原、京都の島原、伊勢の古市とは江戸時代の三大遊郭 である。歌舞伎も江戸と上方のほかにその古市にもあった。古市の遊郭は70軒、遊女1000人を超えていたというから大変なのもである。江戸と上方と違う のは客はほとんどが農民だった。馴染みの旦那衆が支えた文化ではなく、田舎の一見さんたちが散財する文化だったことである。

 残念なことに古市は戦前まであったが、アメリカ軍の空爆でほぼ全焼してしまい、現在「麻吉」という旅館だけが一軒残って旅館として続いている。もちろん遊郭などというものはまったくないから、世の男性は期待などしてはいけない。

 現在はどうか。もちろん内宮の方が勝っている。赤福が「おかげ横丁」というレトロ感覚の門前町を形成して以来、参拝客で賑わい、下宮は近鉄の伊勢市駅前であるにもかかわらず閑古鳥がないている。(伴 武澄)

宗教法人神宮

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 津支局長となって最初の仕事は伊勢神宮へのお参りだった。2日後の日曜日に近鉄に乗って伊勢市に向かった。伊勢市駅を降りて、参道をしばらく歩く と大きな鳥居があってこれが伊勢神宮かと気付く。道案内は入らない。なんとそこは外宮といって豊受の神さまが祭られた社で、天照大神を祭る内宮はバスに 乗っていかなければ行けないという。初めて内宮と外宮という二つの社があることを知った。ちなみにそれぞれ「げくう」「ないくう」と読む。

 伊勢神宮は天皇家の皇祖を祭る単なる神社ではないことは参拝をしたことのない人でも知っているが、内宮と外宮とあって、併せると125にも及ぶ社 を抱えた巨大な神域であることは参拝して初めて知ることになる。これらの社は近隣市町村にまたがる約20キロ四方に点在する。20キロ四方といえば、東京 都の23区部に匹敵する空間である。宗教装置としてはたぶん世界最大規模である。その広大な神域が1300年にわたり経営されてきたことに畏怖の念を感じ ざるを得ない。

 やがて知ることになるが、この宗教装置の正式名称は宗教法人神宮といい、そこに伊勢の文字はない。最上位の神を祭るから、英語で唯一神を 「God」と大文字で表現するように固有名詞は必要としなかったらしい。多神教といっても神々の世界に君臨しているのが「神宮」なのである。なんとも神々 しい響きである。

 諸説によると、明治になるまで「神宮」を名乗ることができたのは、熱田神宮、香取神宮、鹿島神宮の4カ所だけであったという。熱田神宮は日本武尊 の草薙の剣を神宝とすることで知られるが、なぜ常陸の国の香取と鹿島の神々が神宮と名乗るのかいまだに分からない。大和朝廷にとってこれらの地の神々を上 位に祭る何らかの重大な意味があったはずなのだ。

 樫原神宮、平安神宮、明治神宮、宮崎神宮など各地に神宮があるではないかという指摘があるかもしれない。それらはすべて明治維新以降の創建された社なのである。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE

神戸と神田

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 生まれ故郷の高知市に神田という地がある。「こうだ」と呼ぶ。市内を東西に流れる鏡川の南のかなり広い区域で、今は住宅地であるが、子どものころ は鏡川が決壊したときの遊水地帯として田んぼだらけだった。東京にも下町に神田はある。少年時代から慣れ親しんだ地名であるが、三重にやってきて神田とい う地名が全国各地にあり、それぞれに特別の意味があることを知った。神社が所有する田んぼであり、収穫は神のものとされた。

 神戸の方は神社が所有した民で、三重県に三カ所ある。一カ所は鈴鹿市の伊勢神戸、もう一カ所は津市神戸、そして近鉄大阪線沿線の青山高原の麓に伊 賀神戸駅がある。ともに「かんべ」と呼ぶ。鈴鹿市はサーキットとして世界的にも有名となっているが、地名としては新しい。昭和17年、神戸と白子など隣接 する町村が合併して命名された。

 鈴鹿市の神戸はかつては伊勢国河曲郡神戸郷といわれた。桓武平氏の一族関盛澄が神戸郷に住んで、はじjめて神戸氏と名乗った。北伊勢に勢力を張っ ていたが、7代目の具盛のときに織田信長に攻め込まれ、信長の三男信孝に家督を譲ることで和睦。変節を経て江戸時代には神戸藩、明治時代の廃藩置県ではほ んの一時期、神戸県として存在した。

 さて、「神戸」である。古代には神の「部民」として伊勢神宮の私民が住んでいた。大化の改新の公地公民制以前、大和朝廷が中央集権体制となる前に各地に多くの「部」があった。品部(しなべ)、曲部(かきべ)など地方豪族が私民である「部」を抱えていた。

 伊勢神宮は天皇家以前には度会の神さまだった。天皇家と融合するぐらいだから、度会の神さまは全国の有力な神さまのうちの一人だったに違いない。 その度会の神さまの「部民」たちが住んでいたため、神戸と呼ばれた。いってみれば、神宮領である。もちろん度会の神さまを祭る社を神宮と読んでいたとは思 われない。もちろん私領であるから、租税は課せられない。免税地区である。

 免税といっても神宮を維持する資材労力を供給する立場にあったから、部民にとっては神宮に対する"租庸調"があったはずであるから、部民の負担は公地公民制とそんなに変るはずがない。

 度会は現在の伊勢市を中心とした伊勢国の地域の呼称である。伊勢神宮創建以来、度会は明治になるまで「神領」として特別の地位にあった。律令制の 時代も武士の時代になっても「神領」だった。江戸時代にはさすがに行政的には徳川の天領となって代官が置かれたが、代官が権力を行使したのは司法警察権だ けで、年貢の取立てはなかった。その時代になると神戸は単に地名として残っていただけで、伊勢神宮の神領ではなくなっていた。

 ともかく律令制の時代が終わるまで、度会の「神領」の飛び地として神戸があったと考えれば分かりやすい。伊勢湾沿いにそんな飛び地が多くあり、その地に住む民は伊勢神宮の維持のために年貢を捧げ労力の提供を義務付けられていたのである。

 三重県の神戸は残念ながら鈴鹿市の誕生によって歴史に名をとどめるだけとなった。兵庫県神戸市は明治以降、貿易都市として国際的にも台頭するが、それまで神戸といえば、伊勢の神戸藩のことを指した。ちなみに神戸市の神戸は生田神社の部民が住んでいた地とされる。

 正月に京都の上賀茂神社を訪ねて驚いたことがあった。松村権禰宜によると鴨氏の先祖は八咫烏(ヤタガラス)だというのである。日本書紀によると、神武天皇の東征に当たり、熊野から大和に導いたのが3本足のカラス、八咫烏だったとされる。

 元々は、中国の仙境、崑崙にいたとされる西王母伝説の中に9つの太陽とともに3本足の赤いカラスが登場する。八咫烏の八咫(ヤタ)は大きなという 意味だそうで、「八咫鏡」などの用法がある。広辞苑によると「神魂命(かむむすびのみこと)の孫、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身」なのだ そうだ。八咫烏は日本サッカー協会(JFA)のシンボルマークにもなっている。

 熊野本宮に行くと、カラス文字で書かれた午玉宝印(ごおうほういん)という不思議なお札がある。


 2006年のノーベル平和賞を授章したバングラデシュムハマド・ユヌスさんが同国で始めた「グラミン銀行」は無担保で貧しい人々に融資する金融だ。すでに融資規模は60億ドルに達するというから大したものである。

 1974年、チッタゴン近郊のジョブラ村の竹細工で生計を立てていた女性たちは、丸一日働いて2セントしか稼ぎがなかった。材料を購入するために商人から借金をするから金利負担が大きい。いくら稼いでも金利で持っていかれる。そんな生活を見たユヌスさんが調べると、村の女性たちが借りていたのは27ドルだった。その27ドルを女性たちに貸すことからグラミン銀行は始まった。

 無担保で貸す代わりに、5人による互助グループがつくられ、それぞれが他の4人の返済を助ける義務がある。これは連帯責任や連帯保証ではない。にもかかわらず98.9%とほぼ100%に達する驚異的な返済率なのだ。

 当時ユヌスさんはチッタゴン大学の経済学の先生だったが、取り立てて新しい発想とはいえなかった。同じような発想は19世紀半ばのドイツで始まっていた。ライフアイゼンという村長が農村部で農民たちに安い金利でお金を貸し始めた。イギリスロッチデールで始まった消費協同組合の仕組みを工夫したものだった。品川弥二郎は留学先のドイツでこのことを知り、帰国後、産業組合法の設立に尽力した。

 80年前、関東大震災後の本所でセツルメント活動を始めた賀川豊彦も同じ発想で庶民金融である中ノ郷質庫信用組合(現中ノ郷信用組合)を設立した。震災後の生活に苦しむ庶民の足元をみて暴利を貪る質屋が多かった中で、滝野川で質屋を開業していた奥堂定蔵が賀川に相談し、協同組合方式で質屋を経営することになった。なんと理事長には当時、明治学院大学の学長だった田川大吉郎が就任した。

 当時の貧しい人たちは日計りの生活が常だった。物をつくるにしても、商売をするにしても毎日の仕入れは借金に頼った。朝起きて布団とか鍋釜の類を質屋に入れて金を借り、商売して稼ぎ、夕方にその質草を買い戻すなどという風景がそこらでみられた。

 庶民金融といっても今のサラ金とは様相が大部違う。雨が降って仕入れた商品が売れ残りでもすればそれこそ、1日の金利すら払えずに借金が重なることさえあった。

 そんな時に、賀川らのつくった中ノ郷質庫信用組合は庶民にとってかけがえのない存在となった。筆者はバングラデシュに行ったこともないし、ユヌスさんと会ったこともないが、ジョブラ村の女性たちも同じような気持ちでユヌスさんの新しい"金貸し"を歓迎したに違いないと信じている。

 ユヌスさんが語るビジネス論は賀川の協同組合経済(Brotherhood Economics)と重なる部分が多い。

 文春Buisiness 文春臨時増刊2007年4月4日号に掲載された笹幸恵さんによるユヌスさんのインタビューを拾い読みしてみたい。

「ビジネスと言うと、皆、利益のことしか考えません。そのやり方はアメリカでもアジアでも同じです。しかし、それとは違う形のビジネスがあるのです。利益を得たならば、それを自分のためではなく、社会のために使うというものです」。

「たとえば、あなたが何かの事業で利益を得たとしましょう。それを自分の洋服や車を買うために使ったとしたら、それで終わってしまいます。でも、別の人間に貸したら、そのお金はまだ残っていることになるでしょう。貸しているだけですからね。そして借りた人間は、例えば貧富の差に関係なく教育を受けられるような学校を作るとします。お金持ちの家庭にはきちんと教育費を払ってもらい、貧しい家庭からは少ない額でもいいという仕組みで運営していく。すると、こどもたちが皆、平等に教育を受けることができます」。

「その学校は利益のためでなく、社会全体のために存在する学校と言えるでしょう。あなたが貸したお金は、自分一人のために使われるのではなく、世界中の子どものために有益に「生かされる」のです。これがソーシャル・ビジネスです。そうしたまったく新しい概念の市場を早出することが、世界中で起きているさまざまな問題に対処してきうために必要だと私は考えています」

「人間誰だって欲はあります。いい洋服を着たい、いい車に乗りたい、いい家に住みたい。それは悪いことではありません。でも、その日の食べ物 にも事欠く人間がいることを知って欲しい。社会に適応できないから貧しいのではないのです。お金を得るだけの技術を持っていないから貧しいのではないので す。彼らが貧困から抜け出すことを阻んでいるのは、社会のシステムです」。

 ユヌスさんは、銀行だけでなく、携帯電話のレンタル業であるグラミン・フォンやエネルギー企業であるグラミン・シャクティなど事業を拡大している。ソーシャル・ビジネスとしてはグラミン・ダノン・フーズ、グラミン・アイケアなども立ち上げている。バングラデシュでは食べることがまず大切で、目の病気も多いのだ。賀川豊彦が100年前に神戸の葺合新川のスラムに入ったとき必要だったものが、途上国ではいまも必要とされていることを忘れてはならない。

 洞爺湖サミットが始まって2日目。警備体制の厳しさばかりが伝わり、サミットの役割がなんなのかわからなくなっている。

 サミットは、オイルショックで疲弊した西側経済をどう建て直すのかをめぐって1975年に先進6カ国がフランスのランブイエに集まったのが始まりだっ た。ベトナム戦争の後遺症からまだ立ち直れないアメリカ、そして経済停滞に陥っていた英仏があり、世界経済のけん引役として日独に期待が集まっていた。西 側がソ連を中心とする社会主義陣営経済とどう対峙するかが課題だった。
 黄金時代は1983年からの5年間。ミッテラン、レーガン、サッチャー、コール、中曽根と役者もそろっていた。日本経済がもっとも輝いていた時代だったこともあり、中曽根さんにとっても檜舞台だったはずだ。

 サミットが変質したのはたぶん1989年だったのだろうと考えている。まず主要テーマに「環境問題」が急浮上した。6月に天安門事件が起こり、日米構造 協議で日米がとげとげしくなった。東ヨーロッパでは「コペルニクス的転換」(ブッシュ前米大統領)が起きていた。つまり社会主義体制の崩壊が始まり、その 年の11月には実際にベルリンの壁が崩壊して、統一ドイツが誕生した。翌年にはイラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が始まる。

 東西冷戦の結果として生まれたサミットはまず対抗すべき陣営を失う。ついで西側の"敵"として「テロ国家」が浮上する。イスラムとの対峙は「文明の衝 突」という概念を生み出し、民主主義国家にとっての地球的対立軸はvs社会主義から、目に見えないvsテロの関係へと質的に転換したのだ。

 社会主義を放棄したソ連はロシアとなり、98年のバーミンガム・サミットから「主要国」の一員としてサミット参加国入りし、サミットはその後に経済発展に成功した中国、インド、ブラジルなどBricsらも包含したそれこそ地球規模の"祭典"と化しつつある。

 洞爺湖サミットの最大の課題は地球温暖化防止に主要国が将来展望を打ち出せるかどうかということであるが、二酸化炭素の排出削減の目標設定では大きな溝 を残したままである。京都議定書が生まれた当時は、先進国だけが排出削減に責任を持っていればよかったが、いまはそうではない。巨大な人口を抱える Bricsの協力なくしては地球環境の問題は解決できない。

 サミットの存在意義は大きく変わった。結束するための敵がいなくなった状態で、まず何のために結束すればいいのかわからなくなっている。テーマも経済だけでは済まされなくなった。環境という途上国であっても無視できない課題をも包含するようになってしまった。

 洞爺湖サミットに限っていえば、役者不在である。エコノミスト誌に「顔の見えないサミット」と揶揄されているが、顔の見えないのは日本だけではない。シラク、ブレア、プーチンは過去の人となり、ブッシュも残すところ1年足らずとなっている。

 世界政治、経済のけん引役がいないというのが、洞爺湖サミットの最大の特色なのだろう。2日目にしてサミットへの失望は早いかもしれないが、後1日しかないのも事実である。
 来年2008年は賀川豊彦が神戸の葺合新川のスラムに入って救貧活動を始めて100年となります。賀川ゆかりの神戸と東京で賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会がつくられ、筆者は国際平和協会のかかわりから1月、広報委員長に任命されました。

 日本と世界に平和のメッセージを投げかけ続けた賀川の実践と思想を21世紀に蘇らせることを目的とした多くのプロジェクトを準備中です。
 広報委員会はこれまで、いまなぜ賀川豊彦なのかという命題を考えてきました。鳴門市賀川豊彦記念館の田辺健二館長が徳島新聞に「21世紀のグランドデザイナー」と題して連載記事を掲載しました。これは大きなヒントとなりました。

 低所得者向け高金利住宅ローン(サブプライムローン)問題や原油に代表される資源や穀物の価格高騰など投機で世界経済はいま危機に立たされています。社 会主義が崩壊して約20年、資本主義の暴走が始まった感があります。80年前の世界恐慌に直面して賀川が提唱したのが協同組合的経営です。当時、賀川が英 文で出版した『Brotherhood Economics』は十数カ国語に翻訳され、経済の第三の道として世界的に注目されました。

 資本主義は20世紀、世界に多くの富をもたらしたことは確かですが、過剰な投機資金が人々の基礎的生活権を犯し始めているいま、経済のあり方がもう一度 問われているような気がします。資本主義の暴走を食い止める第三の道の模索です。賀川の提唱した協同組合的思想のリバイバルが求められているのかもしれま せん。

 そういった意味合いで「21世紀のグランドデザイナー」という表現はいまなぜ賀川なのかと問われたときの回答としてぴったりです。同時に、賀川主義のリ バイバルには行動や実践が伴わなければなりません。賀川イズムが実践の哲学、思想だったことを思い出さなければなりません。

 賀川だったらどう考えただろうか、どう行動しただろうか。来年の献身100年記念事業を展開するとき、常に議論していきたいと思います。これを「Think Kagawa」と題してはどうでしょうか。

 実行委員会は考え、議論しながらこれから記念事業を一つひとつ作り上げていきます。参加団体はもちろんです。一人でも多くの人に賀川豊彦の実像を伝えていくのが広報委員会の仕事だと考えています。(伴武澄)

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