2008年6月アーカイブ

園田義明さんのすすめで金曜日、映画「西の魔女が死んだ」を新宿で観た。
最終日だったが、おばさんたちが大勢見に来ていた。
終わるころにはそこらですすり泣きが聞こえてきた。
いい映画だった。
物語は登校拒否になった娘まいとおばあちゃんの物語である。
おばあちゃんはイギリス人なのである。
おばあちゃんはおじいいちゃんの思い出とともに山に住んでいる。
おばあちゃんに預けられたまいはしばらくすると魔女の話を聞かされ、
私も魔女の修行をしたいと言い出す。
おばあちゃんはどうしてまいが登校拒否になったかお見通しなのである。
おかあさんがやり手のビジネスウーマンで、母親の愛が足りないことを知っていた。
魔女の修行にはまず普通の生活を送ることが必要なのだということを諭し、
「あなたは何時に寝て何時に起きるの」と聞く。
「寝るのは2時か3時」と聞いたおばあちゃんは驚いて、
魔女の修行のためにあなたの普通の生活のスケジュールをつくるよう求める。
まいは「おばあちゃんは何時に起きるの」と聞く。
「6時ですよ」
「それは無理。7時になら起きられる」
「それなら一緒に朝ごはんを食べられるわ」
 こんな会話を繰り返しながら、まいを普通の生活に戻すよう諭す。
 結局、登校拒否の理由は不規則は日常生活だったのだ。
 まいの生活改善はまず「おはよう」という言葉から始まる。
 そして朝ごはんだ。
 まいは、日々の労働と勉強が必要なことをいつのまにか知らされる。
 ある晩、まいの部屋をノックする音がする。まいは夜空を見ていたのだが、
おばあちゃんは焼きたてのクッキーを持ってドアの前に立っていた。
「もう歯をみがいたの」
「そう、私もみがいたのよ。でもね。突然、クッキーを焼きたくなる夜があるのよ」
といって二人で会話しながらクッキーを食べるシーンがある。
規則正しい生活も大切だが、たまにははめを外してもいいのだ。
おばあちゃんとの会話で、まいの心は日々、癒されていくのだ。
象徴的なシーンはまいに洗濯桶に足踏みさせてシーツを洗わせ、
ラベンダーの畑の上にシーツを乾かす場面だ。
シーツにラベンダーの香りが移って心地よい夜を過ごせるというイギリス人の知恵なのだ。



2008年06月25日(水)
萬晩報通信員 園田 義明
我が家は四人と一匹の家族。
ヨメと二人の中学生の娘。
それにミニチュアダックスまでもがメス。
女だらけの家の中で、
「ゲンジ」のようなオヤジに居場所などあるはずもなく、
今日も一人で書斎に引きこもっている。

本の山に囲まれていると、
それはそれで気持ちいいのだが、
気になるのは女どもの読書嫌い。

新聞をひろげていると、ワンコは決まって邪魔をする。

二人の娘はいずれもジャニーズ狂い。
読む本はせいぜい都市伝説どまり。

ヨメが本を読んでいる姿は今まで一度も見たことがない。
せいぜいファッション雑誌がそこらに転がっている程度。

子供に「勉強しなさい!」と言う前に、
「オメーも本ぐらい読めよ」とついつい言いたくなる。
もはや口癖になってしまった。

「こやつらが本を好きになるきっかけはないものか。」

そんなことを周囲に洩らしていると、
親友が一冊の本を薦めてくれた。
梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』(新潮文庫)。
タイミングよく映画も公開されるとのこと。

なにやら梨木さんと私とは共通点が多いようだ。
同じ鹿児島県人の血が流れ、カヤック乗りでもあるらしい。
フォールディングカヤックを使っているところを見ると、
私同様、のんびりツーリング派なのでしょう。

たまたま新宿で用事があり、ついでに映画を観てきた。
その日、帰宅すると本も到着していた。

この物語は、わかる人とわからない人がはっきり分かれるだろう。
特にくそまじめな男はダメかもしれない。

少なくとも、学校や仕事を「エスケープ」して、
芝生の上に寝転がって、
ボケッと流れる雲を見ていた経験がある人にはお勧めかな。

主人公は中学生のまいと英国人のおばあちゃん。
魔女の特殊な能力は、
おばあちゃんからまいに伝授されるだけで、
まいのママは置いてけぼり。

おそらくママは梨木さんが同世代の女性を意識して書いたのだろう。
確かにこの世代の女性を眺めると、
「オールド・ファッション」への反発こそあれ、
そこに普遍的な知恵や知識を見出す感性が欠落しているように見える。
それで空っぽになっちゃって、
悲しいかな、病んでいく人だっている。

古今東西、女はみんな魔女だった。
誰だって知恵や知識を受け継いできたのだ。

おばあちゃん役にサチ・パーカーを起用したのはお見事。
本名サチコのママはシャーリー・マクレーン。
おばあちゃんは今なおゲール語が残るカナダ・ノバスコシア州の人。

手嶌葵さんの主題歌「虹」も素晴らしいが、
ゲール語で歌い継がれてきた
ケルトのトラディショナル・ソングを一曲でも採用していれば、
この映画の奥行が深まったはず。
八百万の神々を世界に解き放つことだってできたかもしれない。

さて、この本をまた何気に居間のテーブルに置いておこう。
今度こそ、誰かが読んでくれるだろうか。


▼関連サイト

梨木香歩『西の魔女が死んだ』新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/book/125332/

映画『西の魔女が死んだ』オフィシャルサイト
http://nishimajo.com/top.html

筑摩書房「水辺にて」梨木香歩インタヴュー
http://www.chikumashobo.co.jp/special/water/

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

2008年05月06日(火)
萬晩報通信員 園田 義明
 迷児たちを諷刺した横山大観

 5月20日発刊の拙著『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』は、それまでに私が書いていた原稿をぎゅぎゅっと圧縮して詰め込 んだものとなっており、すでにネットで発表を終えた「隠されたクスノキと楠木正成」以外にも膨大な未公開原稿があります。これをエピソード集として順次紹 介させていただきます。ところで、『隠された皇室人脈』及び「隠されたクスノキと楠木正成」をお読みいただいた元総務省CIO補佐官の大塚寿昭様から、次 のようなご意見が寄せられました。大塚様は、今のところ拙著に登場するタヌキとキツネの隠された意味合いに気付いた唯一の方でもあります。

「十字架や十字架にかかったキリスト像などは、本来の日本人の皮膚感覚や直感からは違和感を持つのが当たり前に思えるのに・・・。何故当時の日本人、しか も皇室周辺にいたエリートたちでさえキリスト教を受け入れたのか?!私はそこに急速に壊されていく神道、国家神道の台頭に反発する感覚があったのではない かと思っています。」

 急速に壊されていく神道、代わって台頭してくる国家神道への反発というより、空疎な国家神道の枠中に神道も仏教も取り込まれた時点で宗教的敗北となり、もはや弱者をひきつけるほどの魅力などなかったのかもしれません。

 最初の迷児は明治維新の敗者たちでした。勝者たちが牛耳る薩長藩閥政治に、宗教界の混乱が追い討ちをかけていく中、新たな迷児がどんどん生まれ落ちてい きます。迷児の中には、「学問で大成するしかない、そうだ、外国語を学ぼう」と前向きに立ち上がる人も出てきます。新渡戸稲造もその中にいました。彼らの 前に現れるのが、海外から来たキリスト教宣教師です。迷児にとって、生涯を信仰に捧げる宣教師の生き様が光り輝いて見えたのではないでしょうか。

 水戸学の立場から当時の様子を諷刺した絵が残されています。作品名はずばり『迷児』。水戸藩藩士・酒井捨彦の長男で近代日本画壇の巨匠と称される横山大 観の一九〇二(明治三五)年の作品です。迷児を取り囲むように孔子、釈迦、聖書を手にしたキリスト、老子がいます。四聖の中でもひときわ目立っているのが キリストだとわかるでしょう。

 ▼横山大観作『迷児』

http://www.sonoda-yoshiaki.com/taikan.jpg

 もしも、当時の神道界や仏教界に「確固不動の信念」を貫く弁慶のような宗教者がいれば、歴史は大きく変わっていただろうと思います。しかも、終戦後の混乱の中にあって、真っ先に立ち上がったのも外国から来た弁慶でした。

 それでは、エピソードⅠは「弁慶のような荒法師」を取り上げることにしましょう。興味深いのは、弁慶とフランスから来た「弁慶のような荒法師」が、いず れも「確固不動の信念」だけではなく、道化的なトリックスター性も併せ持っていたことです。これが「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながる重要な要素 となっていました。

 ■昭和天皇と木下道雄

『隠された皇室人脈』の主役の一人である木下道雄は、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省入省、岡山県で地方勤務を体験し、内閣書記官となる。二四 (大正十三)年夏、摂政であった東宮殿下(後の昭和天皇)の侍従にと声がかかり、東宮事務官兼東宮侍従に転任、一九二七(昭和二)年に侍従兼皇后宮事務官 に就任するが、一九三〇(昭和五)年四月に宮内大臣官房秘書課長に転じ、天皇側近からいったん離れる。以後総務課長、内匠頭、帝室会計審査局局長を歴任す る。 

 終戦後、木下が再び昭和天皇の側近として侍従次長兼皇后宮大夫に就任したのは一九四五(昭和二〇)年一〇月二三日。しかし、わずか半年余りが過ぎた翌年五月三日に辞任する。以後、宮内省御用掛を経て、皇居外苑保存協会理事長として皇居前の整備に尽くした。

 木下は昭和天皇が最も信頼していた人物とされるが、皮肉にも昭和天皇の意向を受けて女官制度改革に手をつけたことが、貞明皇后の逆鱗に触れ、辞めざるを得なかったと伝えられている。

 実は、『隠された皇室人脈』の第五章で、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」とバッサリ切り捨てた田中清玄を取り上げたが、この清玄が終戦直後の 一九四五(昭和二十)年十二月二一日に昭和天皇との拝謁を許されたのは、木下の推薦があったからだ。木下は「週刊朝日」に掲載されていた清玄の記事を昭和 天皇に紹介し、許しを得ていた。ここで清玄は共産党に戦わんとする気構えを「七生報国」として誓う。ここでもまだ楠木正成が生きていた。

 この木下の昭和天皇への忠誠心は並々ならぬものがあった。一九四六(昭和二一)年一月一日に発せられた「人間宣言」の作成過程で、天皇を現人神としてみ る神格化表現が入っていないとして猛烈に怒り、内閣と文書のやりとりまで行っている。木下もまた「七生報国」の心構えだったのだろう。

 日本人なら誰もが知っておくべきエピソードと信じ、木下が見た昭和天皇の「鹿児島湾上の聖なる夜景」を『隠された皇室人脈』に収録したが、この二人の交流を示すエピソードも紹介しておきたい。

 木下の次男・公雄の戦病死の報せが届いた時、「御野菜、御菓子料」が昭和天皇から届けられる。一九四六(昭和二一)年五月十八日、お礼に参上すると、慰 めの言葉とともに「何もないから少しだけれども」とお菓子を渡される。このお菓子は、皇后自らが渦巻蚊取線香の空箱を半分に切り、千代紙を張って作った小 箱に詰められた小さなそばまんじゅう二つ、両陛下の昼食の代用食として出されたものを一個ずつ取り分けていたものだった。

 五月二六日には退官の記念にと昭和天皇愛用のインクスタンドとペンが手渡された。木下は謹んで受け取るが、おそらくあふれる涙のためか、ペンを落として しまう。拾ったらまた落ちた。それを昭和天皇が拾ってくれた。この時のペンはその日昭和天皇が使っていた黒インクの跡を残したまま、木下家で大切に飾られ たという。

 木下が宮内省御用掛の寺崎英成らとともに『独白録』の作成にかかわったことはよく知られているが、昭和天皇聖断拝聴録を『側近日誌』(文藝春秋)に書き 残したのも木下である。ここにある「宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある」との昭和天皇のお言葉について、日本人なら誰しも宗教心とは神道だと 思うだろう。何としてもそう思いたい。結びつけたい。その気持ちはわかる。

 しかし、『隠された皇室人脈』に書いたように、この宗教心にはキリスト教も含まれていた。これをもう少し掘り下げてみよう。実は弁慶が深くかかわっていたのだ。

 ■弁慶のような荒法師ことフロジャック神父

 木下道雄は侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっていた。洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父である。

 財団法人慈生会の設立者として知られるフランス人神父のフロジャック神父は、一九〇九(明治四二)年に来日、戦前から乳児院、結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。日本語巧みで胸まで伸びた真っ白いヒゲが特徴だった。

 木下は、幼友達の妹がフロジャック神父の下で働いていた関係で、噂だけは聞いていた。村から村へと布教の旅を続ける神父が、足に大きな裂傷を負った際、 近くの農家から針と糸を借りて、自分で縫い合わせたという話を聞いて、「フランス人にも、こんな弁慶のような荒法師がいるのかと、一種の親しみを感じた」 と語っている。この親しみとともに、フロジャック神父の名前が木下の記憶に刻まれた。

 宮内省総務課長時代、陛下からの推奨金推薦先として財団法人慈生会の前身にあたる「ベタニアの家」の名前があがり、木下の記憶によれば、三二(昭和七) 年の暮れに弁慶の元を訪ねる。ここで二人は初めて出会い、事業も評価され、フロジャック神父には推奨金五千円が与えられることになる。

 本格的に二人がかかわり出すのは、侍従次長時代の四五(昭和二十)年十一月二五日、この日の夜にフロジャック神父は木下宅を訪れ、戦災の傷跡残る上野駅 周辺の浮浪者救済のための診療施設開設と関東に酪農を主体とするトラピスト施設の必要性を説いた。木下の日記にも「共に予の共鳴する所なり。考慮を約す」 とある。

 木下は早速その翌日の宮内省事務調査会でフロジャック提案を披露して、宮内省の協力を取り付けた。

 しかも、那須の名前は早くも十一月二九日に登場し、木下退官直後の四六(昭和二一)年七月には木下の斡旋で那須御料地約三百町歩が貸し下げられることが決まる。

 フロジャック神父は貸し下げられた川西御料地六〇町歩を「聖ヨゼフの山」、奥まった道上下の御料地を「聖マリアの山」と名づけて、早速開墾が開始され、 引揚者、復員兵の受け入れを始める。この地には那須診療所、林間学校宿舎、精神薄弱児のための光星学園(現マ・メゾン光星)などが次々とつくられていく。

 この御料地貸し下げの背景を見ておこう。木下によれば、フロジャック提案を昭和天皇に話したところ、昭和天皇より「助けてあげなさい」と言われ、それが きっかけで林野庁との話し合いもつき、貸し下げることになり、成績によってはこれを払い下げることまで決まったとしている。

 興味深いのは一九三四(昭和九)年に侍従となり、侍従次長、侍従長として半世紀余にわたって側近を務め、宮中生活最後の休日に急死した入江相政もフロ ジャック神父と交流していた。この入江もクリスチャンだったとする説もあるが、現時点では事実かどうか確認できていない。

『入江相政日記』(朝日文庫)にヨゼフ神父として登場するのは、四六(昭和二一)年三月十九日この時入江はフロジャック神父と会食している。

 木下と入江の口利きもあっただろうが、昭和天皇も積極的に支援したことは間違いない。これを順に追っていこう。

フロジャック神父は四六(昭和二一)年十二月十九日に天皇皇后両陛下に進講する。カトリック宣教師が単独で拝謁したのはこの時初めてと言われている。この時、入江日記にはフロジャック神父が「大変色々申上げて面白かつた」とある。

 四七(昭和二二)年九月二日に木下道雄が拝謁しているが、おそらくこの直後に行われる両陛下の那須巡行の件でお願いでもしたのだろう。

 五日後の九月七日、入江日記には「夕狩の慈生会に行く。フロージヤアク老が大変な元気で何かと案内してくれる。例によつて愉快といつたらない。」と書かれている。

 翌九月八日にも両陛下は慈生会を訪れている。フロジャック神父は、進駐軍やフランス大使館員や大工を一人ずつ引き合わせた後、「私は日本人以上の愛国心 を持つて居ります。一生懸命に致しまして必ず立派な国に再建致します、云々」と語る。入江はこの時の様子を「フランス人らしい上品なユーモアの連続で非常 にお楽しませした」と書き記した。

 四八(昭和二三)年もフロジャック神父は二度にわたって両陛下に拝謁し、この年には高松宮、三笠宮も慈生会施設の視察を行っている。つまり、皇室あげてフロジャックの事業を後押ししていたのである。

 ■弁慶神父「会心の傑作」とは

 皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。「わたしは貧しいひとびとの友であった。 わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。 フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。

 この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

 そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

 これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。

 この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。

 神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の 布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と 期待との熱きものがあったのではないかと思います。

 「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

 フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

 一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。この きぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田 和也、文藝春秋他参照)。

 弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。

 最後の握手皆様によろしくとみ声細く

    仰せありしも悲しき思ひ出

                正田きぬ
2008年06月14日(土)
韓国ウオッチャー 引地達也
 韓国の首都ソウルでは連日、李明博政権を糾弾する大規模なデモが行われている。6月10日にはソウル中心部に約10万人(警察発表)を集め、近年では最大規模となった。狂牛病の恐れのある米国産牛肉の輸入に関する政府対応が発端で、「食の安全」と「政治の責任」への韓国市民の過敏さとともにデモで政治を変えられる、という韓国国民の街頭民主主義への思いがいまだに健在であることを見せつけた。李大統領は発足からわずか約3ヶ月でつまずいた形で、李大統領にとって街頭行動の根強さは想定外だったに違いない。

 過ぎた話ではあるが、昨年12月、わたしは大統領選挙で圧勝した李大統領について、「李明博という幻想の勝利」との言葉が思い浮かび、複数の知人にその思いを語った。当初、李大統領の経済手腕への期待は大きかった。それは幻想ゆえに、大きかったのである。大手財閥である現代グル-プの現代建設で立身出世し、ソウル市長として目に見える公共事業を成功させた、という物語に支持者、メディア、そして多くの市民が勝手に「だから経済をよく出来る」という続編を夢描いていただけにすぎなかった、と言える。

 3月13日付けの当コラム「権力と実験握った韓国大統領」では、検察を味方につけて外交部門の人事と対米姿勢の変化などを早々と強調する姿勢から順調な船出を指摘した。それは幻想を現実に変える準備作業であり、酷評の中で退任した前の盧大統領との違いを発揮したことで人心は簡単につかめるものだと早計したのだろうか。現代建設時代からの異名「ブルド-ザ-」そのままに狂牛病対策も輸入再開で押し切れると思ったのだろう。「対米関係のさらなる緊密化」という日本と共通する目下の恒久的な課題の克服に向けて「再開」という関門を平然と通り過ぎてしまったのである。それで、人心に火がついた。

 盧政権の誕生は在韓米軍の車両が女子中学生を轢死させたことを発端とする反米機運、そして大規模な反米デモの潮流にのった結果だった。政権発足後は弾劾反対のろうそく集会や小泉純一郎首相の靖国参拝への抗議、竹島(韓国名・独島)の領有権問題、自由貿易協定反対などその度にデモは繰り返されたが、それらデモはだんだんと平穏化し、主張を言葉で訴えるという手法に変わったかに見えた。その変化を見ながら、わたしは小説家、村上春樹が韓国の若者の間で広く読まれていることに関連づけ、韓国人が社会とコミットメントしない小説の登場人物の生き方に似てきているのではないかと考えてきた。これはある一面では正解であり、それは着実に進んでいるはずである。その一方で多くの人がいまだに政治そして社会に関心を持ち主張することが重要と考え、街頭に繰り出す。振り返れば、韓国はデモで歴史を少しずつ変えてきた。権力者の横暴をデモという手段で民衆側に力を少しずつ奪還してきたのである。

 近世では、日本の植民地支配時代の1919年3月1日の「サムイル独立運動」は朝鮮半島各地で万歳行動というデモに発展し、その結果、日本は軍人による武断統治から文民統治への変更を余儀なくされたのである。解放後も60年代に4・19革命、日韓協定反対デモ、80年代は韓国軍がデモ隊に発砲するなどし、多数の犠牲者を出した5・18光州民主化抗争、87年6月の民主化抗争など。それぞれのデモは民主化の進展という韓国近代史に着実な一歩を刻み、その実感が世代を超え若者に受け継がれているのだろう。一方で想像していた変化を達成することが出来ず失望感に打ちひしがれた人は村上春樹の「ノルウェイの森」(韓国語版は『喪失の時代』)に共感することになる。ただ、先程の指摘通り、いまだに大多数は失望よりも「変化は可能」だと考えていると言える。

 これら街頭民主主義が根強いのも、若者から高齢者まで政治への関心が高いことが前提にある。その論の正否がどうであれ、情報の角度の高低がどうであれ、たとえそれが友人から洗脳されたイデオロギ-であっても、彼ら彼女らは主張する。「いけないものは、いけない」と。主張を持った若者はその行く先をさがす。だから友達同士が誘いあってカラオケ店でヒップホップの詩をシャウトするよりも街頭で「李大統領退陣」を叫ぶことを選択するのだ。今回の「食の安全」に関する問題ならなおさら広範な市民が身近な問題としてとらえ、政治に変化の必要性を突きつけるのである。こうして、韓国のデモの歴史はまた新たな1ペ-ジを刻んでいく。

 引地さんにメール hikichitatsuya@yahoo.co.jp
2008年06月09日(月)
萬晩報通信員 松島玉三郎
kutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakuta

● 不定期刊くたじゃ報  52号 (2008年6月発行)
   『地球にやさしい』というフレーズ / 松島玉三郎  ●

kutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakutakuta

  現在私が勤めている会社では、全社員に
  交代で、「環境問題について」のコラムの
  ようなものを書かせて社内ネットワークの
  掲示板に載せる、ということを強引に
  やらせてます。
  多くの社員が、身近にできる省エネ方法、
  のような事を書いてる中で、私が書いてみた
  コラムを、試しに「くたじゃ報」でも発行して
  みることにしました。以下転載。

環境問題を考えるときに、かならずと言ってよい
ほど浮上するキャッチコピーがありますね。
『地球にやさしい』というフレーズがそれです。
90年頃から、盛んに使われ始めた言葉です。
環境問題を扱うNPOなどの「草の根」の方々から
出てきた言葉というより、どうも「企業イメージを
上げるために広告代理店が作り出 した」言葉、
という印象があります。

ところで、この『地球にやさしい』というフレーズ、
おかしいと思ったことはありませんか?
『地球にやさしい』と言うからには、地球にとって
迷惑にならないように行動する、ということを指している
と思われます。ですが、住環境、ひいては地球環境を
悪化させる ということは、本当に地球に迷惑なこと
なのでしょうか?
地球の年齢は、およそ45億年前後と推定されています。
そして考えてもみて下さい。地球が生まれてからの
長い年月、とても人間など住めない時期が何億年も
繰り返されたのです。酸素はほぼ存在せず、海は形成
されたけれど、いつも嵐のようにあらぶり、空には稲光が
続いていた時代。あるいは、地球のかなりのエリアが
氷河に覆われていた時代。大気が今のような形態に
安定する以前は、地球自体の保温効果があまり確保されず、
昼間と夜の気温差が100度以上あった時代(ちなみに大気の
ない月面は、昼と夜の気温差が300度以上あります)・・・

これらの時代、地球は何らかのことに困っていたのでしょうか?
そんなことはありません。
地球は、どの時代も、ただそのように存在し、ひたすら
自転と公転を繰り返していただけです。

現在のような環境が保たれないと困るのは地球ではなく、
我々人間なのです。もちろん、他の生物も困るけれども、
今現在もほぼ酸素のない環境でも生きている生命体や、
極寒の気温でも生きている微生物がいることを考えれば、
『地球にやさしい』というフレーズは、ほぼ人間のための
ものであると言ってよいと思います。

私が初めて『地球にやさしい』という言葉を聞いた
ときから、ずーっと感じている違和感は
「・・自分たちが住みやすい地球環境を守ろうとするのは
良いことだが、それをあたかも地球のために何かをして
あげるという言い方にするのは傲慢ではないだろうか?」
ということです。
そう、『地球にやさしい』はすぐれて自分勝手な言い方です。
しかしこのフレーズが登場したからこそ、エコロジーとい
概念念が市民権を得たと言える。草の根市民運動の領域から、
一気に各種媒体がほめそやす言葉に引きずり上げられました。
広告代理店が関わったものは、マイナー領域には留まれない。
この極めて広告代理店的な『地球にやさしい』が人々に
「環境問題を考えない人は遅れてるよ!」と脅しをかけたのです。

一体いつ頃から、この『地球にやさしい』は登場したのでしょうか?

私が初めて『地球にやさしい』というポスターを大々的に
見たのは、91年の春、ダイエー本社の販売促進部のような
部署のフロアでした。これからの小売業のモットーはこれだ!
というニュアンスの掲げられ方でした。

実際に『地球にやさしい』はいつ頃から登場した言葉なのか、
調べてみようと思いました。調べ始めたら、すでに調査していて
掲載しているサイトがあったではありませんか。
この『「地球に謙虚に」運動』というサイトです。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kenkyoni/undou.html

このサイトの調査によると、89年の朝日新聞に初めて登場、
90年には「環境白書」に使われ、91年に一般に定着した、
ということになります。私がダイエーで目にしたのと同時期です。

このサイトの考察でとりわけ興味深いのは、
『地球にやさしい』は英語 Environmentally Friendlyの
和訳として登場したと思われ、さらにそれはドイツ語
Umwelt Freundlich の英語訳であるという点です。
そして、そこまで遡ると、このドイツ語はいきなり
地球を対象にしているではなく、身の回りの環境に対して
言っている言葉であり、しかも「やさしく」というよりは
「謙虚に」というニュアンスを持った言葉らしいのです。
私がかねがね思っていた『地球にやさしい』は、
やはり不遜な言い方だったのです。

そして私は、この環境問題が盛り上がりつつあった90年の夏に、
ブラジルのアマゾンから日本に来ていたインディオのジョゼさん
に私が言われた言葉を思い出しました。
「アマゾンの熱帯雨林の心配をするより、
自分のまわりでできることをやりなさい」

このように、『地球にやさしい』はいささか不遜な言い方だけど、
エコロジーという概念を定着させたことは評価せざるを
をないです。だから、本当はこれに代わる素晴らしい
キャッチコピーができるといいと思います。
私もつねづね考えてきたのですが、なかなか良い
キャッチコピーを思いつきません。
2000年代に入ってからLOHAS(ロハス)などの言葉も
登場してますが、分かりやすさとして決め手を欠きます。
いざ作ろうとすると『地球にやさしい』は潔さにおいて、
よくできたコピーなのです。
私はこれからも新しいキャッチコピーを考え続けますが、
皆さんもよかったら考えてみてくれませんか?

●オマケ
環境問題がサミットのまな板に乗るようになったのは、
『地球にやさしい』という様相ではなく、
90年代からの新しい「国際関係におけるかけひき」
である事を指摘した平岩優氏のコラムも紹介しておきます。
http://www.yorozubp.com/0805/080526.htm

makuwaurijamuhamadauttemasu makuwaurijamuhamadauttemasu

 『まくわうりジャム』は、まだ売ってますよ!!

makuwaurijamuhamadauttemasu makuwaurijamuhamadauttemasu

昨年9月末に発売いたしましたCD『まくわうりジャム』は
いまみちともたか(元バービーボーイズ)、安部OHJI(元PSY・S、
現在R・O・M・A)、「くじら」初期メンバー(杉林、キオト、楠)
などなどというメンバーに私も参加して繰り広げた即興ライブ
を収録した、まことにけったいなアルバムです。
ノーチラス・レコードさんで委託販売しておりますが、
このたびノーチラス・レコードさんで、さらに紹介ページを
作ってくれました!!
http://www.lsp-n.com/content/view/62/
松島がエラソーにアルバムの説明をしてますので笑ってください。
なぜ、ジャム・シリーズのアルバム・ジャケットはかわいい感じの
イラストなのか、というナゾも解けます。

『いちじくジャム』『ざくろジャム』『まくわうりジャム』
いずれもまだ売ってますからね!
買ってくださいね、ぜひノーチラス・レコードさんで。

編集責任 松島弘  kutaja@parkcity.ne.jp
くたじゃ報     http://www1.parkcity.ne.jp/kutaja/kutaja/
 国際平和協会主任研究員の園田義明さんによる「クスノキと楠」と題した講話会を開催します。

 5月20日に『隠された皇室人脈』(講談社+アルファ新書)を上梓したばかり。日本のキリスト教人脈をたどりながら、戦前戦後の日本史を再構築した度胸 には感服。戊辰戦争を日本の南北戦争と規定したり、樟脳ビジネスが神社合祀の引き金となったなど読者をうならせる発想も随所にちりばめたこの著書はたぶん 売れるのではないかと思っています。

日時 7月5日(土)午後3時ー5時
場所 グリーンドア(東武東上線上板橋駅前)
    東京都板橋区上板橋2丁目35ー7
    03-3933-3700
会費 2000円
人数 40人
http://www.scaledesigns.jp/tyle/shop/tyle_shop_g_door.html

 懇話会終了後には同じ場所で飲み会を予定しています。会費は3000円程度とします。

 参加希望者は書きのメールまでお申し込みください。 申込者が多い場合は先着順とします。
 mailto:fwgc0017@mb.infoweb.ne.jp
 国際平和協会 伴 武澄
2008年06月08日(日)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■終章 楠木正成の隠れ家

 最後に怖い話をしておこう。

 昭和天皇から「親の心子知らず」と名指しされた松平永芳を靖国神社宮司に推したのは、「英霊にこたえる会」初代会長の石田和外元最高裁長官だった。この 「英霊にこたえる会」ととっても仲良しなのが右派・保守派の最大連合組織「日本会議」。その現会長の三好達も元最高裁長官、そうなると靖国神社と最高裁人 脈とが結合していることがよくわかる。

 そして、靖国神社崇敬奉賛会の会長は「日本会議」愛媛県本部会長の久松定成、副会長は「英霊にこたえる会」現会長の堀江正夫、常務理事には「英霊にこたえる会」現副会長の関口孝(佛所護念会教団理事)が就いている。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者には堀江と関口の名前があった。靖国人脈は教科書にも強い関心を持っている。

 この「つくる会」はこれまでも内紛を再三繰り返してきたが、最近の会長人事をめぐって注目を集めたのは、西尾幹二元会長から「神社右翼」と並ぶ「宗教右 翼」と名指しされた「原始福音・キリストの幕屋」の存在である。この発言はあくまでも象徴的に用いられただけで、どうやらここには「生長の家」も深く関 わっていたようだ。

 なにやら靖国神社もまた、いろんな宗教を飲み込み始めていることがわかる。

 それでは、「英霊にこたえる会」のホームページを見てみよう。「エンディング」というものが載っている。ここをクリックすると音楽が流れてくる。そして、こう書かれている。

エンディング・・・・武士道を伝えよう

http://www.eireinikotaerukai.net/E06Link/E0600mn.html

正成涙をうち払い
わが子正行(まさつら)よび寄せて
父は兵庫におもむかん
彼方(かなた)の浦にて討死にせん
汝(いまし)はここ迄来つれども
とくとく帰れ故郷へ

汝をここより帰さんは
われ私(わたくし)のためならず
おのれ討死(うちじに)なさんには
世は尊氏のままならん
早く生(お)い立ち大君(おおきみ)に
仕えまつれよ国のため

 おお、これはまさしく忠臣楠正成・正行父子の「櫻井の訣別」を謳ったものではないか。歌人で国文学者の落合直文が作詞した唱歌「青葉茂れる桜井の」の一節である。

 次に、新しい歴史教科書をつくる会のメンバーらが執筆した扶桑社の『新しい歴史教科書』を開いてみよう。筆者の手元には二〇〇一年初版本と二〇〇五年改訂版の二冊がある。

 どこがどう強化されたのか。気になるのは第二章第二節の「武士の政治の動き」である。初版からあった「幕府の軍と戦う楠木正成」と「後醍醐天皇像」に加 えて、太平記絵巻から「南朝のようす」の絵と「二条河原の落書」が新たに追加されている。さらに、第三章第四節の「幕府政治の展開」では、水戸学の側注が 新たに追加され、「一七世紀に、水戸藩主の徳川光圀が始めた『大日本史』の編さん事業が、水戸学の基礎となっていた」と書かれている。

 筆者がクスノキをめぐる旅の最後に選んだ場所は靖国神社。大鳥居をくぐり抜け、長州・大村益次郎のいかつい銅像を見上げながら、本殿前に到着。ひっそりと緑に囲まれた鎮霊社から参拝する。

 そして、向かった先は遊就館。入場券を買ってエスカレーターで二階に上がる。 

 ここは「展示室2日本の武の歴史」。展示パネルを順に見ていく。

 神武天皇、日本武尊、神功皇后、坂上田村麻呂、源義家、源頼朝、北条時宗。ここで足が止まる。

「やはり」とひとり呟いた。

 次のパネルは「鎌倉幕府を攻略した武将」こと新田義貞、続いて「武人の鑑と敬慕された忠臣」楠木正成、その左横には愛国百人一首とともに菊池武朝の名前 もある。(この菊池武朝の表記は明らかに菊池武時の間違いであった。菊池ファンの私はこの間違いを遊就館に指摘したので、すでに修正されているかもしれな い。)

 ここには当然足利尊氏の名前はなかった。足利家の名前は誰一人として見あたらない。あるのは、建武中興に尽力した南朝忠臣の名前のみ。

 続いて見ていこう。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、その次に「修史を通じて日本歴史の骨髄(本質)を明らかにした賢人」徳川光圀の名前がある。パネルには「湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』の墓碑を建てた」と書かれている。そして最後に吉田松陰の名前がある。

 次の部屋「展示室3明治維新」では、橋本景岳と共に藤田東湖、吉田松陰に出会う。

「展示室5」には「靖国神社の創祀」を紹介したパネルが掲げられている。冒頭の「社に祀られる御霊」は戊辰戦争から始まる。読んでいこう。

 戊辰戦争の際、「當村ノ守護神ヨシテ......」と記された、戦死者の埋葬に関する文献がある。この文書は、当時、戦死者が地域公共の「守護神」として尊祟さ れていたことをあかしている。公に殉じた死者を、幕末の志士藤田東湖はその長大な『正気の歌』で「英霊」と謳った。偉勲ある英霊を神に祭り、社を建てて祭 祀を行う。戦死者の墓を「国家の守護神」、「護国の英霊」として社に祀るのは、古今を貫く日本人の信仰によっている。

「英霊」という言葉が藤田東湖の『正気の歌』に由来することがわかる。

それにしても日本の古今とは戊辰戦争から始まるのだろうか。

 パネル五番目の「楠公祭と殉難志士の慰霊」でも楠木正成が取り上げられ、別格官弊社湊川神社創建の背景が詳しく書かれている。 

一階に下りると「展示室13大東亜戦争3」で楠木正成の「七生報国」が待っていた。

 結局、靖国神社に貫かれているのは南朝正統イデオロギーなのだと確信する。これでは現在の皇室と遠ざかるはず。また、楠木正成の霊とて静謐の場を求めているのではないだろうか。

 約一五〇〇年も日本を眺めてきた「蒲生の大楠」とそこに棲まう八百万の神々に想いを馳せよう。日本人の故郷はきっとここにあるはずだ。

 ■あとがき

 私のコラムなり本を読んでいる人の中には、すでにお気づきの方もいるかもしれませんが、一貫してトリックスターの立場で書くようにしています。大それた ことを語るほどの能力などないことは十分承知、しかも熱く理想を語るタイプの人間でもありません。所構わず過去と現在を自由に行き来するいたずら者とし て、硬直化した価値観を引っ掻き回しながら、未来につながるような議論が生まれればそれでよしと考えています。時に茶化すような表現を使うことがあるの も、トリックスターとしての拘りからです。

 今回は特に山県有朋一族の方々には失礼な表現があったことをどうかお許しいただきたい。とりわけ全国楠木同族会有志と名乗る方から、私のブログ宛に痛烈 な批判が寄せられましたが、私自身も心情的には南朝忠臣ファンであることをここで告白しておきます。それでも『先の大戦で「愚かな政治家、軍部」での「ア ジ宣伝」尼「楠公精神」を利用され多くの戦没犠牲者ができた事が大変悔やまれます』の一文に、『歴史を揺るがすほどの深遠なる想い』を感じ取りました。 お会いできる機会があることを切に望んでいる次第です。

 最後に、拙著『隠された皇室人脈』(講談社+α新書)及び拙稿『隠されたクスノキと楠木正成』を書くにあたり、いつも貴重なアドバイスを頂戴している坂 本龍一様、筆者が主催する園遊会に参加いただいている大塚寿昭様、伴武澄様、津田慶治様、田中宇様、奥山真司様、O様、N様、そして、寶田時雄様、講談社 の富岡広樹様と田中浩史様、財団法人西郷南洲顕彰会の高柳毅様、 福井市 立郷土歴史博物館の角鹿尚計様、財団法人新渡戸基金の吉村暢夫様にこの場を借りて深く御礼を申し上げます。当初『隠された皇室人脈』の「あとがき」にこれ を添える予定でしたが、ページ数の関係で割愛せざるを得なかったことを深くお詫び申し上げます。

 つい先日、なんともうれしいことに『隠された皇室人脈』の主人公である新渡戸稲造が校長を務めた一高出身の方から、『隠された皇室人脈』の感想を綴った 長文のお手紙をいただきました。この一高出身のikane様にこの『隠されたクスノキと楠木正成』を捧げたいと思います。

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2008年06月04日(水)
萬晩報通信員 園田 義明
 第七章 「明治天皇すり替え説」の真相

 ■菅原道真と平将門と御霊信仰

 ここで御霊信仰にも触れておこう。

 今からさかのぼること千年あまり、平安時代前期の八六三(貞観五)年に、平安京を原因不明の疫病が襲い、朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が神泉苑で行われたという。

 かつては天皇家の死者の霊を意味する「みたま」こそが御霊だったが、時代が下るに従い、非業の死を遂げた人の霊魂、つまり死霊を意味するようになり、御霊会は怨霊を鎮魂するための儀式となっていく。

 この御霊信仰の象徴としては、菅原道真と平将門がよく知られている。

 政争にやぶれ、失意のうちに太宰府で没した菅原道真の死後、平安京は雷火による災害が多発。人々は道真の怨霊による祟りと恐れ、それを鎮めるために北野 天満宮が創建される。以後、道真は火雷神となり、室町時代以降は学問の神として天神信仰が全国に広がることになった。

 平将門は、平安中期、関東一円に勢力を伸ばしたものの朝廷軍に討たれ、死後、祟りが絶えず、神田明神などに祀られることになる。

 この将門は、明治期にも御霊信仰が存在していたことを証明している

 一八七四(明治七)年、明治天皇は陸軍の演習指導からの帰途、神田明神に立ち寄ることになっていた。それに先立ち教部省は、「将門は朝敵」との理由から神田明神に対して将門を祭神から外すように求めた。  

 神田明神側は常陸国大洗磯前神社から少彦名命の分霊を迎えつつ、将門は境内摂社である将門神社に遷座される。ところが、町民の信仰は将門に向けられてい たために、祭神を取り替えた神官を人非人呼ばわりし、例祭にも参加しなくなる。閑散とする本社に対して、摂社に参詣者が集中する有り様となった。

 近年になって、将門をめぐる歴史の見直しなどと合わせて、将門の復権を願う声が氏子の間に高まり、一九八四(昭和五十九)年には神社本庁の承認を得て、神田明神の「三の宮」として将門は祭神に復帰した。

 将門ほどの有名人でも分祀と合祀を経験したわけで、靖国神社のA級戦犯分祀の支持者にとって、将門は心強い味方になるだろう。

 いずれにせよ、怨霊の現実感とパワーが強ければ強いほど人々は恐れおののき、怨霊を慰め供養し、神として祀ることで、それまでのマイナスパワーをプラスに変えられると信じていた。

 ■怨霊と化していた楠木正成

 実は『太平記』の中で。楠木正成は阿修羅の如く強力な怨霊となっていた。楠木正成も後醍醐天皇も新田義貞親子も大塔宮護良親王も、『太平記』では怨霊になったと描かれている。

 よって、『太平記』はそもそも怨霊の物語だったと山形大学人文学部教授(東京大学文学博士)の松岡剛次は強調する。勝者である足利尊氏と足利直義は、「敗者の怨霊鎮撫の担い手として『太平記』では描かれている」と論じている。

 この松岡の『太平記』(中公新書)から、怨霊になった楠木正成の様子を見てみよう。

 楠木正成の怨霊は、美女に化けて伊予国の大森彦七盛長という武士に接近する。彦七は湊川の戦いで足利方について奮戦、楠木正成を自害に追いやった人物である。その勲功によりぜいたくな生活を営んでいた。

 その時、彦七はお堂の庭に座敷を造り、舞台を設け、猿楽を催そうとしていた。出演者の一人として楽屋へ向かった途中、美女に出会う。その女に猿楽の場所を聞かれた彦七は、あまりの美しさに心奪われ、女を背負って道案内をかってでる。

 ところが女は身の丈八尺(二メートル四〇センチ)の鬼と化す。両目は朱色、口の端は耳の付け根まで割け、子牛のような角まで生えていた。

「ひぇ~、これではまるで一時流行った口割け女ではないか!」(筆者)

 鬼と化した楠木正成は彦七の髪を掴んで空中に引きあげようとする。助けを求めた彦七に加勢の者が近付いた頃には、鬼は姿を消していた。

 彦七は再び吉日を定めて舞台を造り、猿楽を催した。そして、見物人も集まり、猿楽も半ばに進んだ頃、楠木正成は後醍醐天皇、大塔宮護良親王の怨霊などとともに一群となって現れる。

 見物人が恐れおののいていると、雲の中から姿を現した楠木正成の怨霊は「私が生きている間は、種々の謀をめぐらして北条高時の一族を滅ぼし、天皇を御安 心させ、天下を朝廷のもとに統一させた。しかし、尊氏と直義兄弟が虎狼のごとき邪心を抱き、ついには帝の位を傾けてしまった」と語る。

 続けて、「このため、死骸を戦場に曝した忠義の臣はことごとく阿修羅の手下となって怒りが休まる時がない。正成は彼らとともに、天下を覆そうと思った が、それには貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣を必要とする。我ら多勢が三千世界を見渡すと、いずれも我が国にある。それらのうち、すでに二つは手に いれたが、最後の一つが貴殿が腰に帯する剣である。それは、元暦の昔に藤原景清が海中に落としたものである」という。

 彦七は足利尊氏の忠臣として刀を渡すことを拒み、以後再三楠木正成らの怨霊に苦しめられることになる。

 ■鎮められず、ただ崇められている 

 さて、ここで非常に気になることが出てきた。

 果たして「太平記読み」は怨霊になった楠木正成を講じていたのだろうか。幕末の尊攘派志士たちや明治以後の庶民たちは、楠木正成が怨霊になっていたことを知っていたのだろうか。

 松岡剛次は従来『太平記』において楠木正成が怨霊となったことは「英雄・知将・忠臣としての正成像に比較して、ほとんど注目されていない」と指摘しなが ら、その正成像は「戦前においては、帝国臣民の模範としての正成像にふさわしくないと考えられて無視されたのであろう」と書いている。

 楠木正成ストーリー満載の教科書で学んで育った歴史小説家の永井路子は、悪霊となった楠木正成などを持ち出せば戦前派の大忠臣正成ファンは、「そんなけ しからぬ話があってたまるか。大忠臣が悪霊になるはずがない」と憤慨するかもしれないと書いている(『悪霊列伝』永井路子、角川文庫)。

 筆者の手元には神社新報社発行の『神道の基礎知識と基礎問題』と題する分厚い一冊の本がある。筆者は小野祖教、改訂者は楠木正成が祭られている湊川神社権宮司を務めたこともある澁川謙一とある。

 この中で「神社の祭神の類別」が詳しく記されており、「御霊信仰から来た神」を祀った神社として 京都市 御霊神社、北野天満宮、平将門を祀った 岐阜県大垣市 の御首神社などの名前があるが、建武中興十五社のいずれもがここにはない。

 靖国神社と並んで、建武中興十五社の内、南朝遺臣を祀る神社のほとんどが「国家に対する功労者」を祭る神社として類別されており、湊川神社も藤島神社も名和神社も菊池神社も霊山神社も結城神社も四条畷神社もここに名前がある。

 本文には「祟りを鎮め慰霊する」神社として、吉野神宮や湊川神社、それに靖国神社をあげながら、殉難や殉国といった悲劇的運命に遭遇した人々の霊を招魂し、鎮霊していると書かれているのだが、怨霊を鎮めるとは書かれていない。

 湊川神社に問い合わせてみても、あくまでも国家に対する功労者として楠木正成を祭神としているのであり、怨霊を鎮めるとの認識はないとのことであった。

 神道に詳しい知人に聞いてみると、いずれにせよ神として祭った時点で怨霊を鎮めることにもなるとの意見もあった。そう信じたいのだが、こうなるとどうしても神道の曖昧さが気になってしまう。

 なんだかこの国はやはり怖い。

 怨霊をそのまま神として祀れば、マイナスパワーがますます増幅されて史上最強の怨霊になってしまうような気がするのは筆者だけであろうか。事実、日本は北朝系の昭和天皇と共に滅亡寸前まで陥ったのである。

 ■根強い「明治天皇すり替え説」

 ここで不思議なのが、明治天皇の存在である。明治天皇は自身が北朝系であるにもかかわらず、南朝を正統と裁定した。

 この明治天皇の不可解な行動は、維新の混乱期に、長州主導で南朝系の大室寅之祐を明治天皇としてすり替えたとする「明治天皇すり替え説」を生み落とすことになる。

 筆者の周辺にいる幕末政治や日本近代史の著名な研究者たちの間にも、この「明治天皇すり替え説」に関心を持っていたり、中には信じ込んでいたりする人が多い。お酒が入るとオフレコ扱いでその信憑性を真剣に語り始めたりする。

 しかし、これは家系研究家の早瀬晴夫の『消された皇統』(今日の話題社)によって、信憑性に欠けることが明らかにされている。早瀬は「明治天皇すり替え 説」に関心を抱きつつも、入手した大室家の系図が途中省略されており、納得できるものではなかったこと。さらには方言の問題などからも、すり替えが成功す る可能性は限りなく低いと判断している。

 この件について、松本清張もすこぶる歯切れが悪い。それでも『小説東京帝国大学』(ちくま文庫)の中で、慎重に言葉を選びながら、南北朝正閏問題の出所 が宮内省であり、そもそも宮中の祭殿では南北両朝を同列に扱っていたことを明らかにしている。つまり、南北朝正閏問題が巻き起こる以前の南北両朝並立を記 した国定教科書には、宮内省の意向が反映されていたことをほのめかしている。

おそらく、皇室は北朝系であることを認識しつつも、当時の南朝正統イデオロギーにも配慮し、南北両朝を区別することなく同列に奉祀していた。そして、この宮内省の見解に対して、またしても腹を立てたのがあの山県"ブルブル"有朋であった。

 明治天皇でさえも山県率いる藩閥政治の圧力に屈し、南北朝正閏問題の騒ぎを鎮めることを優先に考えたのだろう。それほどまでに山県率いる藩閥政治と庶民とが一体となって担いだ楠木正成率いる南朝人気が凄まじかったのである。

確かに「明治天皇すり替え説」をとった方が何もかもしっくりすることも事実なのだが、拙著『隠された皇室人脈』でも取り上げたように、昭和天皇が南朝正統史観に立つ平泉澄の進講を嫌がった様子からも、皇室が一貫して北朝意識を持っていたことは明らかである。

 仮に「明治天皇すり替え説」が正しかったとしても、その犯罪性は今さら追求できるものではない。むしろ、本当の恐ろしさは、明治天皇以後を南朝系にして しまうことだ。そうなると「明治天皇すり替え説」は、南朝側の陰謀のようにも見えてしまう。筆者は「明治天皇すり替え説」流布の張本人が山県"ブルブル" 有朋ではないかと睨んでいる。

 ■身の毛がよだつもうひとつの「誤読」

 皇居外苑南東の一角に「楠正成像」がある。豪商・住友家が彫刻家の高村光雲らに制作を依頼し、一九〇四(明治三十七)年に完成し、献納されたものだ。今 も楠公像の愛称で、皇居前のシンボルになっている。馬にまたがって引き締まった表情で手綱を引く楠木正成の姿はまさに空から舞い降りてきたように見える。

 この像の意味も怨霊封じと見れば納得がいく。

 皇室では、幕末まで楠木正成や新田義貞の話はタブーとされてきた。皇室自体に北朝意識があったために、南朝忠臣のイメージなど浮かぶはずがなかった。皇 室は当時、楠木正成の怨霊と祟りに恐怖しながら、御霊信仰による「楠正成像」を設置することで、楠木正成のマイナスパワーをプラスに変えようとしていたと 考えられる。

 ここで、身の毛がよだつもうひとつの「誤読」を紹介しておこう。

 ほとんどすべての国定教科書に登場した楠木正成の「七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん」すなわち「七生報国」は、新たな敵である鬼畜米英を前に忠君愛国の精神、すなわち国威発揚のためのスローガンになった。

 七生とは六道輪廻を超える数を指すことから未来永劫を意味する。しかし、『太平記』を注意して読むと「七生報国」は楠木正成がいったのではなく、弟の楠 木正季が語ったものであることがわかる。しかも、楠木正成は、この言葉を聞いたときに「罪深き考えだが、自分もそう思う」といって、お互い刺し違えた。

 つまり、楠木正成も『七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん』などというねちっこい考え方を決していいものとは思っていなかったのである。罪深いと知りつ つも、弟にいわれて渋々合意しただけだった。それがいつの間にか楠木正成の言葉にされて教科書にも記載される(『悪霊列伝』永井路子、角川文庫)。

 さらに気になるのは、朝敵とは誰を指していたのかを考えれば、当然南朝の敵であった足利軍であり、北朝方であったはずだ。

 こうなると、鉢巻きや遺書に書かれた「七生報国」はかつての朝敵だった北朝方を滅ぼすためのスローガンであり、当時の勇ましき「天皇陛下万歳」も南朝方のために連呼されていたようなものだった。

 知らず知らずの内に日本国民総動員で北朝系の昭和天皇を敵にしていたという、なんともグロテスクな構図が浮かび上がる。昭和の戦争は南朝と北朝の因縁の戦いでもあったのだろうか。

 事実、昭和天皇は処刑される可能性があった。米国民の三割が処刑を望んでいたのだ。皇室の存続さえ危ぶまれた。北朝は滅亡の危機に立っていた。

 しかも、なんとも恐ろしいことに昭和天皇の人間宣言直後に「我こそは本物の天皇なり」と新聞を賑わしたのは、熊沢天皇を筆頭にそのほとんどが南朝系譜を主張する自称天皇一九人だった(『天皇が十九人いた』保阪正康、角川文庫)。

 無視できない現実として、北朝系の伏見宮家は臣籍降下(皇籍離脱)によって一斉に平民になった。臣籍降下した一一宮家五一人中、四九名が伏見宮家系だったのだ。これによって皇位継承者不足が起こり、現在の男系か女系をめぐる皇位継承問題につながっている。 

 この皇位継承問題は、楠木正成の怨霊が昭和を生き抜き、今なお北朝を滅ぼさんとしている証なのだろうか。(つづく)

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2008年04月07日(月)
萬晩報通信員 園田 義明
 第六章 「七生報国」と「ビタカン」

 ■福沢諭吉の「楠公権助論」

 吹き荒れる南北朝正閏問題のあまりのアホらしさに、声を上げた人もいた。

 一般的に福沢諭吉は無神論者、宗教否定論者、さらにはキリスト教排撃論者のイメージが強い。内村鑑三は福沢を「宗教の大敵」とまで呼んだ。しかし、福沢は、米ハーヴァード大学に集うユニテリアン主義を日本で広めようとしたこともあった。

このため一九人ものキリスト教各宗派の宣教師と関わりを持ち、三九歳以降最晩年に到るまで英国国教会の宣教師と密接な交流を続ける。

 一八七三(明治六)年に英国国教会の宣教団体(SPG)の宣教師として来日したカナダ人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーやアリス・ホアなどを 福沢家の家庭教師として招き、ショーには自宅の隣に西洋館まで建てて住まわせた。しかも、お互いに行き来できるように両家の間には「友の橋」が架けられ た。 

 一八七九(明治十二)年、ショーは聖アンデレ教会を創立する。この教会に籍を置いたのが拙著『隠された皇室人脈』にも登場する小泉信三であり、福沢の三 女・清岡俊であり、福沢の孫の清岡暎一(慶応義塾大学法学部教授)、木内多代(木内孝三菱電機常務の母)であり、いずれも英国国教会、つまりは聖公会信徒 であった。

 福沢家も小泉家もまた日本を代表するクリスチャン一族となっていたのである(『福沢諭吉と宣教師たち』白井尭子、未来社)。

 キリスト教の影響を受けていた福沢は、皆様ご存じの『学問のすすめ』の六、七編などで痛烈な楠木正成批判を行う。

 赤穂義士や楠木正成の討ち死などは、主人の金を落として途方に暮れて、ふんどしで首をくくって死んだ下男の権助と同じじゃないか。
 
 福沢はさらに続ける。

 楠木正成の死なんて何ら文明に益することのない無駄死だ。命の捨てどころを知らぬ愚かものだ。

 辛辣な「楠公権助論」は、やがて福沢バッシングに発展。福沢の元には誹謗中傷が殺到し、身辺の危険さえを感じたほどだったという。ひょっとして福沢のこ と、したたかに楠木人気を利用したのかもしれないが、それ程までに庶民の楠木への思い入れは凄まじかった。当時の庶民にとって、南朝の忠臣は共感と賞賛の 的だったからだ。

 ■フィクションとしての楠木正成ストーリー

 南北朝時代の軍記物語の傑作『太平記』は、早くから読まれていたようだが、庶民にまで浸透していたとは考えられない。庶民が『神皇正統記』や『大日本史』を手に取るわけもなく、おそらく『太平記』も読んではいなかっただろう。

『平家物語』がその本よりも盲目の琵琶法師によって知られたように、『太平記』もまた、物語に節を付けて読み語りする「太平記読み」によって庶民に広がっていったのである。

 講談のルーツは仏教由来の説教や神道講釈にあるが、大衆化という面で「太平記読み」が果たした役割は大きい。「太平記読み」は、『太平記』原本からでは なく、『太平記』から楠木正成の事跡を取り出して、国を治める者の心得とその方法を解釈した『太平記評判秘伝理尽抄』をネタ本にしていた。

 この『太平記評判秘伝理尽抄』は、『太平記』で描かれているような単なる名将や神仏の信仰者としての楠木正成像をはるかに飛び越えて、庶民の心をつかんだ文武両道の模範的な政治家に作り変えていた。

 楠木正成が軍略家であると同時に、優れた農政家として用水整備や新田開発を進め、植林を奨励する庶民の味方にして、悲劇のヒーローに祭り上げられてい く。『太平記』にはないようなことまで盛り込まれた「太平記読み」の楠木正成ストーリーは、もはやフィクションの世界であったが、林羅山や山鹿素行、熊沢 蕃山にまで影響を与えていくことになる。

 この「太平記読み」とは読むという行為ではなく、門々に立ってその一節を読みあげて銭をもらっていた放浪芸人のことを指す。

 放浪芸人たちは、色あせた黒紋付に深編み笠をかぶり、扇子を器用に操りながら、誰もが好みそうな楠木正成ストーリーの聞かせどころを情感込めて哀音切々 と読みあげた。諸国を旅しながら、津々浦々の民衆を相手に楠木正成ストーリーを刷り込んだ。かくして、いくつかの名場面は庶民の耳から魂へと染み込み、刻 まれていく。

 そのクライマックスは、いうまでもなく楠木正成の「桜井の駅」から「湊川の戦」にいたる一節。聞く者は愛情を込めてその死を悼んだ。口々に「残念じゃ」とこぼしたという。このために楠木正成のことを「残念さん」と呼ぶ者までいた。

 ■「大楠公」を盛り上げた水戸黄門

 ここで再び水戸黄門に登場していただこう。

 小島毅・東京大学大学院人文社会系研究科助教授は、「太平記読み」が南朝正統史観の歴史認識を浸透させる効果をもたらしていたことを指摘しながら、水戸 光圀もまた「そうした風潮に影響されながら、それを大規模な史書編纂という形で後世に残したことになる」と書いている(『近代日本の陽明学』小島毅、講談 社選書メチエ)。

『太平記』ではなく「太平記読み」が水戸学に影響を与えたとする説は、まだまだ議論の余地があるように思えるが、庶民を取り込む格好の題材であったことは間違いない。水戸学もまた「太平記読み」人気にあやかろうとした可能性は捨てきれない。

 幕末から明治にかけて、なんとも都合のいいことにもうひとつの講談が創作されていた。誰もが知っているテレビ時代劇「水戸黄門」の原点とも言える『水戸黄門漫遊記』である。そして、これまた大変な人気となった。

 これはフィクションもフィクション。本物の光圀は水戸と江戸の往復のほかは、せいぜい遠くに行っても鎌倉までだったと記録にある。「助さん、格さん」も 実際には「介さん、覚さん」であって、佐々介三郎宗淳と安積覚兵衛澹泊がモデルといわれているが、二人とも光圀が『大日本史』の編纂機関として創設した彰 考館の学者であった。

 しかも、本物の覚さんは研究に没頭して水戸をほとんど出なかったという。水戸光圀の命を受けて史料採訪の旅に出ていたのは介さんだけで、湊川神社の「嗚 呼忠臣楠子之墓」を建立したのも介さんだといわれている。この介さんの史料採訪の旅が『水戸黄門漫遊記』のモチーフになったのだろう。

 しかし、氏原魯山(口演)、河合源三郎(速記)の『水戸黄門中國漫遊記』の第八席では、水戸黄門本人が湊川を訪れ、「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てたとしながら、「櫻井の里に散りにし楠の名はよろず世に匂ひぬるかな」との歌まで詠んだことになっている。

 南北朝正閏問題が吹き荒れた明治四四年といえば明治末期、明治天皇崩御の前年にあたる。明治天皇のXデーが迫る中、求心力低下は誰の目にも明らかだっ た。しかも、次を担う嘉仁親王(大正天皇)も病弱とくれば、弱まる天皇の権威を補強するための絶対的忠臣が求められた。

 それはさながら、テレビでお馴染みの「水戸黄門」に登場するなんとも頼もしい「助さん、格さん」のような強力な助っ人である。

 そうして選ばれたのが楠木正成だった。幕末の尊攘派志士たちの革命エネルギーがそのまま「空なる国家神道」に持ち込まれたわけだ。水戸黄門もまた「大楠公」を盛り上げる大役を担っていたのである。

 ■元祖「新しい歴史教科書をつくる会」

 それでは、南北朝正閏問題によって、元祖「新しい歴史教科書をつくる会」はどのように『尋常小学日本歴史』を変えたかを知っておこう。

〈修正前「第二十三 南北朝」より〉

 ここに於て尊氏は軍を海・陸の二手に分ち、錦旗を押立てて東上せしが、其の勢甚だ盛にして、之を防ぎし楠木正成は湊川にて討死し、新田義貞も敗れて京都に遁れ帰り、後醍醐天皇は再び比叡山に幸し給へり。(『歴史教育の歴史と社会科』松島榮一、青木書店)

〈修正後「「第二十三 湊川の戦」より〉

 尊氏の西に奔るや、菊池武時の子武敏、之を多多良浜に迎へ撃ちて克たず、九州の諸将多く尊氏に応ぜり。尊氏すなはち大軍を率ゐ、直義と共に海陸竝び進み て京都に向へり。義貞は之を兵庫に防がんとせしが、賊勢甚だ熾なりしかば、後醍醐天皇更に正成をして赴き授けしめ給う。正成は湊川に陣して賊と戦ひたれど も、衆寡敵せず、遂に弟正季と刺しちがへて死せり。死に臨み兄弟相誓ひて、「七たび人間に生まれて朝敵を滅さん。」といへり。義貞も戦敗れて京都に退き、 天皇再び比叡山に行幸し給ふ。尊氏遂に京都を犯し、長年等戦ひて之に死せり。(『歴史教育の歴史と社会科』)

 こうした教科書の修正を、海津一朗・和歌山大学教育学部助教授は「明治期の国家権力が、歴史的事実を歪曲してまで南朝を正統とする教育への介入を行った 背景に、落日の明治天皇を絶対化することにより、日本国民を忠良な臣民に作り替えるというイデオロギー統制の意図があったのは疑いない」と書いている (『楠木正成と悪党』梅津一朗、ちくま新書)。

 その後、一九二〇(大正九)年改訂の第三期『尋常小学国史』の見出しに楠木正成が登場し、「桜井の別れ」のエピソードが紹介される。さらに、楠木記述は 読みやすいように口語体に改められ、第二次世界大戦中の一九四三(昭和十八)年にはドラマチックな美文調物語に作り替えられる。

 敗戦前夜には「桜井の駅」「湊川の戦」「母の教へ」「吉野参内」の四小節からなる楠木正成ストーリーを取り上げた教科書も登場し、楠木正成こそが「古今 忠臣のかヾみ」であり、「わが國民は、皆、正成のような眞心を以て、大いに御國のためにつくさねばならぬ」(『日本教科書体型』近代編第二〇巻)と教え込 まれたのである。

 フィクションに過ぎなかった「太平記読み」が伝えた楠木正成ストーリーが、教科書を飲み込んで、堂々と子供たちに刷り込まれた。

 とりわけ楠木正成の『七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん』は、ほとんどすべての国定教科書に登場し、新たな朝敵である鬼畜米英を相手に、「七生報国」が忠君愛国の精神、すなわち国威発揚のためのスローガンになっていく。

■ 戦地に彷徨うクスノキと楠木正成

 クスノキに代わって舞い降りてきた楠木スピリッツが教科書によって国民に浸透、南方熊楠の警告通りに「日本人の美的感覚だけでなく、愛国的な感覚をも壊し、あともどりできないところに追い込むことになる」。

 幕末に楠木正成を蘇らせたのは長州であり、薩摩である。特に吉田松陰の誤読を振り返れば、長州の責任は重大だった。そして長州・浄土真宗西本願寺派連合が「空なる国家神道」を生みだした。

 しかし、国が主導して「空なる国家神道」に楠木正成を組み入れたわけではない。楠木正成をよろこんで招き入れたのは「太平記読み」に親しんだ庶民だった。楠木正成が舞い降りてきたとき、誰も彼もが大歓声で迎えたのだ。国はこの庶民の人気に乗っかったに過ぎない。

 それはどう考えても、勝てる見込みのない戦争だった。

 イラク戦争でのネオコンが「ステロイド剤を使ったウィルソン主義」(『アメリカの終わり』フランシス・フクヤマ、講談社)なら、当時の日本は、楠木正成 という名のステロイド剤を「空なる国家神道」に注入することで、米国をも打ち負かすことができる筋肉隆々の国体になると誰もが信じ込んだ。そして、勇敢に も米国へ真正面からぶつかっていった。

 兵士たちの傍らには、死んだクスノキから得たカンフル剤も常に寄り添っていた。樟脳はカンファーまたはカンフルと呼ばれる。一九三二(昭和七)年に武田薬品から発売された「ビタカンファー」(呼吸中枢興奮剤)は樟脳からつくられていた。

 兵士たちは倒れても倒れても通称「ビタカン」で叩き起こされ、戦地へと送りこまれた。貴重な命が、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのように戦場に散っていく。

 そして、兵士たちの鉢巻きや遺書には、「七生報国」という文字
が、流れる涙ににじんで書き残された。

 悲しくも、「残念さん」によって、すべての日本人が「残念さん」
になってしまう。 (つづく)

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
 引き続き、後部座席のシートベルトにこだわっている。ニュースを見ていると、観光バスもシートベルトの義務付けがされたことになっている。

 不思議に思ったのは、普通の路線バスにはシートベルトなどない。路線バスはしなくていいのかと思ってしまう。さっそく、警察庁のホームページから質問した。まだ返事はこない。

 シートベルトが義務付けされるということは立ち席は許されないことになる。ここらはどうなるのか。バスにも定員がある。運転手の左横の上の方に表示され ている。シートベルトどころか、定員オーバーでもバスにはどんどん人が乗っていく。運転手は止める様子もない。本当に入れなくなるほど詰め込むとようやく 「次のバスをご利用ください」とマイクで叫ぶ。

 シートベルトが事故時の人的被害を最小限にする目的があるのだとすると、バスに立たせて乗せることはもっとも危険な行為となる。警察はそこまで乗客を 守ってくれる考えがあるのだろうか。一般の乗用車は乗っても4、5人が限界だが、バスの場合は何十人も乗客が乗っている。疑問はどんどん膨らんでいく。

 こんな話を職場でしたが、みんな笑っていて真剣に取り合ってくれない。僕はいたって真剣なのだ。

 早く警察庁の返事が聞きたい。

このアーカイブについて

このページには、2008年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2008年5月です。

次のアーカイブは2008年7月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ