2008年5月アーカイブ

2008年05月28日(水)
高知工科大国際交流センター長 伴 美喜子
「マハティール前首相、UNMO離党」のニュースを知った時、2つの思いが頭をよぎった。

 ―マハティールは年をとって、気でも狂ったのか!?
 ―政治とは不可解なもの。何でもありなのだろうか。

 実はこのニュースは余震であった。大地震は2008年3月8日の第12回総選挙で起きている。UMNO(統一マレー国民組織)を中核とするBN(与党・ 国民戦線)は、解散時の198席を140席にまで後退させ、連邦を構成する13州のうち5つの州議会で野党に破れたのである。前回2004年の総選挙で9 割という史上最高の支持率を得ていながら、今回は「3分の2割れ」という大敗ぶりである。

 マレーシアの政党は単なる政党ではない。好むと好まざると、BNはこの多民族国家の屋台骨で、この体制は百年ぐらいは続くだろうと見ていた私は、「これ は大変なことになるぞ!」と思った。マハティール時代に定着したと思われる「国のかたち」が揺らぎ始めたのであろうか。

 5月の連休に「民族の政治は終わったのか-2008年のマレーシア総選挙の現地報告と分析―」と題する緊急?公開フォーラムが関西マレー世界研究会の主 催で開かれた。中堅・新進気鋭の研究者の分析を聞きながら、私はリーダーシップ(個人の影響力)ということを考えていた。今回マレーシアで起きていること は、マハティールという強いリーダーシップを失ったことによる現象ではないか。アブドゥラ首相はこの4年間何をしてきたのだろう。そして、MCA(マレー シア華人協会)やMIC(マレーシアインド人会議)の党首たちは?もう一つの鍵はアンワル元副首相の事実上の政治復帰。彼はこの国をどこへ導こうとしてい るのか。マレーシアは果たして民族横断的な社会に移行できるほど成熟しているのだろうか。

 マハティール前首相のUMNO離党は、ショック療法ではないか。「この国が危ない!マレー人、目覚めよ!」 1990年代後半の経済危機、政治危機の折 の前首相の、英断、実行力を思い出した。しかし、同氏が首相の座を引いてもう5年も経っている。人々の心が離れていっていることも事実だろう。

 KLの友人たちに聞いてみた。マハティールの強い支持者だった一人は言う。

「マハティールはもう出てくるべきではない。これから大変だ。マレー人社会は四つに分裂してしまったよ。マハティール、アブドゥラ、アンワル、そしてPAS(汎マレーシア・イスラーム党)。」

 遅かれ早かれ、ナジブ副首相が、首相となるだろう。ナジブの動きとリーダーシップが問われることとなる。

 私は拙著『マレーシア凛凛』で描いた「Sejahtera(平和な)Malaysia」が永遠であること、そして20世紀を代表するアジアの指導者マハティール前首相が晩節を汚さないことを祈らずにはいられない。

 2008年05月26日
 マレーシア世界の窓(日本マレーシア研究会=JAMS)より転載
 http://jams92.org/

 伴さんにメール mailto:ban.mikiko@kochi-tech.ac.jp
 地下鉄の地下鉄の吊り広告に「TASPOがなければ7月1日から自販機でたばこは買えません」という日本たばこ協会の広告が出ていた。

 ちょっと待て。証明書がなければ買えないようなものを自動販売機で売っていいのだろうか。そんな危険なものならば、店舗で対面販売が必要でしょう!
 25日の北國新聞によると、6月1日の石川県のTaspoの運用開始を前に、「愛煙家「タスポ」取得13%弱、小売店の自販機3割未対応 足並みそろわぬまま始動?」ということになっている。

 北陸財務局は7月からタスポ未対応の自販機でたばこを販売した場合に行政処分を科す方針なのだそうだ。行政処分の内容がどうなるのか分からないが、町のたばこ屋さんが次々と行政処分される事態になれば、おもしろい。

 日本の国民はガマンが強すぎた。ここらで行政の言いなりにならない気骨を示して欲しい。たばこ屋は全国で28万件あると知ったことがある。10年も前に調べたから相当減っているかもしれない。それぞれに財務省から販売免許を与えられた業者である。

 郵便局が2万5000、小中学校が4万というから大変な数である。自販機のタスポ対応改造費が13万円とされるから、改造費だけでざっと360億円である。

 タスポは日本たばこ協会が発行する。カード発行は無料だが、膨大な費用は誰が負担するのか。直接的にはもちろんタバコメーカーである。だが、いずれタバ コメーカーが「値上げ」という形で愛煙家に負担を求めてくるに違いない。未成年の喫煙防止を名目にしたタスポ導入でだれがもうかるのか一目瞭然であろう。

 北國新聞によれば、北陸たばこ販売協同組合連合会によると、石川県内のタスポ申し込み数は4月末で約3万枚で、推定喫煙人口約23万9000人の12・ 6%にとどまるという。一方、自販機は、たばこメーカーが販売店に貸与している自販機はほぼすべてに読み取り機が取り付けられたが、販売店が所有する自販 機は3―4割しか対応していない。
2008年05月27日(火)
萬晩報通信員 園田 義明
 第五章 山県"ブルブル"有朋の「大楠公」歓迎イベント

 ■吉田松陰の歴史的誤読

 楠木正成を讃える南朝正統説は、北畠親房の『神皇正統記』に始まり、水戸光圀が編纂を始めた『大日本史』で骨格がぼんやりとできあがる。

 江戸後期に「後期水戸学の祖」と言われる藤田幽谷やその高弟の会沢正志斎が注目を集めるが、徳川御三家の水戸藩という立場上、正志斎の『新論』などは幕藩体制を擁護するものだった。

 しかし、幕府の威信が低下し始める頃、藤田幽谷の息子である藤田東湖は改革派の旗手として、あろうことか自らの立場を忘れて、尊皇攘夷思想の理論的支柱となっていく。

 しかも、ここに決定的な誤読が重なるのだ。

 長州の母体を築いた吉田松陰は、幕藩体制を擁護する立場から書かれた会沢の『新論』を高く評価していたにも関わらず、間違えて解釈してしまう。つまり、 正志斎の神道論は儒教理論に基づいていたことから記紀神話には批判的だったが、松陰は神代記をそのまま信奉する。

 さらに、正志斎は庶民に対して不信感を持っており、あくまでも幕藩体制を擁護するために神道による国家主導主義的な教化政策を解いたのだが、なぜか松陰 は、農村に根深く立脚した水戸藩尊攘派を理想としていくのである(『水戸学と明治維新』吉田俊純、吉川弘文館)

 そして、松陰の思想は水戸学の異端であるはずの藤田東湖と奇妙な合体を遂げて、討幕と薩長藩閥政治の中心イデオロギーとなっていく。その精神的支柱とし て楠木正成が主役に選ばれ、明治維新前夜の表舞台に蘇ることになる。

 ■幕末の南朝忠臣ブームの正体

 時は幕末、東奔西走する桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞も、長州藩に加担して都落ちした三条実美ら七卿も、みんなが立ち寄った場所があった。現在の 神戸市 にある楠木正成のお墓を訪れることが尊攘派志士たちの一大ブームになっていたのだ。

 現在の湊川神社の「大楠ご墓所」の説明にはこう書かれている。
  元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)は、家臣佐々介三郎宗淳(助さん)をこの地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」 の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって大楠公のご盛徳は大いに宣揚される とともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条 実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのです。
   http://www.minatogawajinja.or.jp/guidance07.html

 熱烈な正成信者の中でも松陰は特別だった。「誤読」した松陰はここを三度も訪れ、正成と心が通じていると信じ込んで、こんな一文を書いている。 

私は、かつて東方へ遊行し、三度も湊川を通ったが、そのさい、楠公の墓に参拝し、涙が落ちるのをとめることができなかった。その碑の背面に、明の朱舜水が 書いた文を読んで、また涙した。(『日本の名著・吉田松陰』中央公論社) 

 幕末の尊攘派志士たちは、南朝に尽くした楠木正成を精神的な拠り処としながら、自身に重ね合わせた。高杉晋作は「楠樹」と号し奇兵隊で楠公祭を行った。

 そして、初代兵庫県知事となる伊藤博文の尽力により、初めての別格官幣社として楠木正成を祭神とする湊川神社( 神戸市 )が一八七二(明治五)年に創建される。

 これを機に、新田義貞(藤島神社、一八七六年=別格官幣社昇格年、以下同じ)、名和永年(名和神社、一八七八年)、菊池武時・武重・武光(菊池神社、一 八七八年)、北畠顕家・親房・顕信・守親(霊山神社、一八八一年)、結城宗広(結城神社、一八八二年)、藤原師賢(小御門神社、一八八二年)、北畠親房・ 顕家(阿倍野神社、一八九〇年)、楠木正行(四条畷神社、一八九〇年)、北畠顕能(北畠神社、一九一四年)に到るまで、南朝遺臣を祀る神社が続々と別格官 幣社に列せられ、「南朝正統イデオロギー」の準備が整っていく。

 敗戦までにつくられた別格官幣社の合計は二八社、その内、南朝関係が一〇社にのぼる。この一〇社に後醍醐天皇(吉野神宮、官幣大社)、護良親王(鎌倉 宮、官幣中社)、宗良親王(井伊谷宮、官幣中社)、懐良親王(八代宮、官幣中社)、尊良親王・恒良親王(金崎宮、官幣中社)を加えたものを「建武中興十五 社」と呼ぶ。

 まさに建武中興に尽力した南朝側の皇族・忠臣が、明治になって官幣社として祀られた。建武中興十五社こそが、薩長の護国神社のような存在だった。

 ■南北朝正閏問題というビック・イベント

 さて、神道と仏教が激しく対立していく過程で生まれ落ちた「空なる国家神道」に、楠木正成という名の祭神が舞い降りるビッグ・イベントが開催される。

 そのイベントとは、一九一〇(明治四三)年末に始まる南北朝正閏問題であった。平年と閏年があるように、南朝と北朝のいずれをもって正統とするかをめぐって、論争の嵐が政治と学問の世界に吹き荒れたのである。

 この問題の契機となったのは、この年五月の大逆事件(幸徳事件)である。「明治天皇暗殺計画」が発覚し、多くの社会主義者や無政府主義者が検挙され、大 逆罪のかどで二四名に死刑宣告。そ翌年一月に幸徳秋水ら一二名が処刑された。

 大逆事件のごとき「不敬」事件が起こるのは、国定教科書の皇位継承や歴代天皇に関する記述の不適切によるとする批判が巻き起こる。

 この論争に火をつけたのは、一九一一(明治四十四)年一月十九日付けの読売新聞に掲載された「南北朝問題、国定教科書の失態」と題する社説だった。

 いわく、「もし両朝の対立を許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし」として、両朝並立を記す 国定教科書が槍玉にあがっていく。実はこの社説掲載には、水戸学の立場から国定教科書の記述に憤慨していた茨城県人の峰間信吉も関わっていた。

 この記事に触発されて、当時早稲田大学にいた牧野謙次郎や松平康国が、藤沢元造代議士を動かして国政の場に持ち込み、桂太郎内閣に対する反政府運動の様 相をとりはじめた。第二次桂太郎内閣は穏便な解決を目指そうと、桂自らが藤沢を招いて文部省の頭越しに改訂を約束させながら国会での質問状撤回を取り付け る。

 中村生雄学習院大学文学部教授によれば、どうやらこの時藤沢は、「精神の平衡を失っていた」らしい(『原初のことば』所収『「悪人」の物語』中村生雄、東京大学出版局)。

 この藤沢の「議員辞職表明」という奇怪な行動と議会での支離滅裂な演説によって、問題は沈静化するどころか、ますます沸騰していく。

 徳川光圀に始まる『大日本史』の南朝正統論を根拠にした「万世一系の皇統」という大義名分論が、穂積八束(法学者)、井上哲次郎(哲学者)、姉崎正治(宗教学者)、笹川臨風(評論家)らによって次々に展開される。

 この論争に並行して、南朝正統論による国家統一を目指そうと大日本国体擁護団が結成され、政教社や大日本教会とともに東京のみならず水戸でも政府攻撃の 演説会が繰り返され、万朝報や読売新聞のキャンペーンが追い打ちをかけていった。 

 非難の鉾先は教科書編纂と執筆の実際上の当事者であった文部省編修官の喜田貞吉に向けられ、喜田を「幸徳の一味」と名指ししながら、「天誅」を予告する脅迫状さえ送りつけられた。

 野党である立憲国民党は、党首・犬養毅名で桂内閣問責決議案を提出するも否決。これでいったん問題は落ちつくかに見えたが、ここでとんでもない人物が桂内閣の背後から強力な圧力をかけてくる。

 その人物とは「内閣製造者」にして「内閣倒壊者」。時の桂、寺内正毅、田中義一の長州政権に絶大な影響力を持っていたあの山県有朋である。ここから山県の独壇場となった。

 ■天皇は利用すべき「玉(ぎょく)」だったのか?

「桂は何をしている」と叫んで、興奮のあまりか身体をブルブル震わせて、最後には全身に痙攣を起こしたのが山県有朋である。松本清張は「山県は激昂すると 身体を震わす癖があった」としながら、「(この時)痙攣を起したのはよほど感情が極まったらしい」と書いている(『小説東京帝国大学』松本清張、ちくま文 庫)。やはりこの人はなんだか怖い。

 山県は「後醍醐天皇は正式の儀式を踏んで皇位継承したのだ。正統は勿論南朝にあるべきはず」としながら、「論者の中には今の天皇陛下が北朝の血脈が伝え られるからといって、議論を斟酌する者もいるようだが、これらの斟酌論は事態を弁えざる者だ。日本の皇帝では、正式に皇位継承した方が正統であり、血脈流 派の甲乙を論ずべき場合ではない」と語る(『山県有朋』岡義武、岩波新書)。

 さらに山県は、文部省の歴史学者を腐れ儒者扱いしながら、「歴史を解読せずして歴史に解読せられたる一種の謬見」であると主張、この問題で誤った対応を すれば「我が帝国を暗黒たらしめることになる。暗黒たらしめんとする者は国賊と呼んでよい」として、腐れ儒者を一刀両断すべきだと檄を飛ばした。

 そして、山県自ら天皇への建議書を提出するために、その草案を山県系の『京華日報』の元社主である二宮熊二郎に依頼する。

 結局、一九一一(明治四十四)年二月二十六日に小松原英太郎文相は教科書修正を指示。修正版『尋常小学日本歴史』がその年度よりただちに使用されること になる。そして、文部省編修官の喜田貞吉を休職処分とすることで幕引きがなされた。

 その間に山県は南朝を正統とするよう明治天皇の決定を仰ぐべく上奏し、三月一日に天皇はこれを枢密院で諮詢、山県枢密院議長の下で討議もなく上奏通りに 議決する。三月三日には明治天皇が南朝を正統と認定する旨を内閣総理大臣と宮内大臣に達して、ようやく決着がつけられた。

 その結果、世論は水戸光圀の『大日本史』などを根拠にした南朝正統論に変わり、北朝は「逆臣・尊氏」による偽朝となる。

 教科書からは「南北朝」という見出しが「吉野の朝廷」に改められ、歴代表から北朝系天皇や北朝元号は抹消、その称号も天皇ではなく「親王」もしくは「王」に変更されるという情け容赦ない措置がとられた。

 この南北朝正閏問題の経緯について、宇野俊一は明治天皇の意志を尊重しながら穏便に解決しようとした桂に対して、山県の行動は「ヒステリック」であった と『桂太郎』で書いている。いや、もはや山県も常軌を逸していたというべきであろう。

 なぜなら、明治天皇も伏見宮家も北朝の系統であったからだ。

 結局のところ、南朝正統論者たちは明治天皇よりも南朝とその忠臣たちの方が大好きで、天皇などは所詮、利用すべき「玉」としか考えていなかったのだろう。

 南北朝正閏問題が燃えさかっていた頃、冷静に北朝正統論を唱えた人物がいた。歴史地理学者の先駆者として知られる吉田東伍である。彼が早稲田大学教授時代に独力で完成させた『大日本地名辞書』は不朽の名著とされる。

 吉田東伍は一九一一(明治四十四)年二月十四日の東京日日新聞で次のように主張する。

 南北正閏論は何も今になつて騒ぎ立てるに当らぬ事で、私の意見では北朝は正統にして、南朝の正統を云々するは紙上の空論であると断言することが出来る。 如何にも南朝の方には後醍醐天皇を初め奉り、楠正成・新田義貞と云ふ様な豪い人物が有つたには違ひないが、然し正統の上から云へば何うしても北朝が正統 で、其当時の太平記・梅松論等の如く南朝方の書物にすら、年号の如きは皆北朝の年号を用ひて居るのを見ても、此当時既に北朝を正統と認めて居た事が判 る。(中略)又今上陛下を初め奉り、伏見宮其他の宮々何れも北朝の御系統である。(『原初のことば』所収『「悪人」の物語』中村生雄、東京大学出版局)

 かくして、楠木正成は、明治天皇を押し退け、「大楠公(だいなんこう)」なる称号を得て、堂々と「空なる国家神道」の祭神として舞い降りてくる。

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2008年05月27日(火)
エディター&ライター 平岩 優
 東アジアでの日本の役割

 さて、それではポスト京都の枠組み構築を前にして、日本は何をなすべきか。政府はアメリカ、中国、インドが参加する「クリーン開発と気候に関するアジア太平洋パートナーシップ(APP)」http://asiapacificpartnership.jp/の 産業別にCO2を排出削減を目指す「セクター別アプローチ」により中国・インドを技術支援。それを梃子にして提案する産業分野別削減方式でポスト京都の主 導権を握ろうとしているようです。また現在洞爺湖サミットを直前に控え、政府は長期、中期のCO2削減目標を設定するために調整も図っているようです。も ちろん数値を示すことは重要ですが、環境立国を言うのなら、アメリカやEUの様子をうかがいながら、数字を並べるのではなく、国家としてのビジョンを描く べきでしょう。エネルギー、食糧等の安全保障も含めて、地球環境というフィルターを通して、国のあるべき姿を再検討すべきです。

 そこで大きくクローズアップしてくるのが、東アジアでの日本の役割です。東アジア地域で日本は唯一の先進国(韓国もOECD加盟国ですが)であり、省エ ネ技術や環境問題の取り組みでも各国にくらべて格段に先行しています。日本がイニシアティブとって東アジア地域で海洋汚染や大気汚染を防止する国境を超え た広域ネットワークを構築することが期待されているのです。

 東アジアは経済力や文化、宗教などが異なるさまざま国々が集まる地域で、EUなど世界のほかの地域に比べ国境を超えた環境保全への取り組みが遅れていま す。特に北東アジア諸国が取り囲む日本海(東海)はいまだに世界で唯一冷戦の対立構造が溶けない海域です。日本自身、対岸の北朝鮮との国交正常化、ロシア との領土確定、韓国との竹島(独島)の領有権、さらに隣接する東シナ海では中国とのガス油田開発をめぐる問題などを抱え、簡単に環境保全ネットワークを築 けるような状況ではありません。

 しかし内海である日本海は一度汚染されると取り返しがつきません。ロシアの核廃棄物の海洋投棄や最近では吉林省の化学工場爆発によるアムール川の汚染が 起きている一方、北朝鮮、中国、ロシアの国境を流れる豆満江では戦前日本が建設したパルプ工場などにより汚染が深刻化しているといわれています。

 80年代後半から90年代にかけて、動きが取れない各国政府を尻目に日本海沿岸の民間団体や自治体が対岸諸国に呼びかけて国際会議を開き、経済交流や環境問題などについて活発な話し合いがもたれました。

 新潟県の日本海圏経済研究所・藤間丈夫氏(故人)もその立役者の一人でした。藤間氏は経済交流を提唱するとともに、民族や文化が異なるアラブ、ヨーロッ パ、アフリカ諸国が取り囲む地中海の環境保全機構(バルセロナ条約)を将来の日本海環境保全機構のモデルとして「日本海運動」に取り組んでいました。今後 も、日本海をめぐる広域ネットワークの構築にはこうしたNGOや自治体の役割が欠かせないと思います。

 中国の大気汚染測定網

 昨年5月、日本の広い範囲で発生した光化学スモッグは国立環境研究所と九州大学応用力学研究所が再現した光化学オキシデント汚染の数値シミュレーション により、国内要因プラス中国等からの越境してきた大気汚染の影響であることがわかりました。ヨーロッパでは70年代の後半に、各国共同の越境大気汚染物質 のモニタリングプログラムが開始され、「長距離越境大気汚染条約」が結ばれています。東アジアでは1998年に日本のイニシアティブで「東アジア酸性雨モ ニタリングネットワーク」がつくられ、13カ国が参加しています。また2006年12月には日本の無償資金協力スキームによる「酸性雨および黄砂モニタリ ングネットワーク整備計画」が日中間で基本合意されました。しかし、つい最近ようやく中国側の黄砂データが公開されるなど、まだプログラムが動き出すには 時間がかかりそうです。

 そうした中で独自のルートで中国の地方政府に測定機器を無償提供し、保守管理技術を供与しているのがグリーンブルーの谷學社長です。グリーンブルーhttp://greenblue.co.jpは 自治体を中心にした大気・水質などの測定・分析業務を手掛けていますが、88年に開発前の中国海南省へ大気汚染を測定することを提案し、中古測定器で NOX、SOXを測定しました。そのことが中国各省で評判となり、その後、黒竜江省、広東省、北京、南京など9省、1直轄市、21市に、日本の自治体や企 業から譲渡された100台ちかい測定器機を無償で提供しています。特に黒竜江省とは研修生を受け入れたり、大慶市で技術職員を対象とした研修会を開くなど 20年近い協力関係を築いています。中国では日本で公害問題から都道府県に設置が義務づけられた大気汚染常時監視システムがまだ整備されておらず、機器の 保守管理・測定技術も未熟です。

 谷社長に代表されるような民間の協力が必要であり、日本の環境モニタリングビジネスが現地で活躍する場面も広がると思います。

 国際資源循環ネットワークの構築

 もう一つ、今後重要になるのは東アジアでの国境を超えた資源循環ネットワークの形成です。司馬遼太郎は先のフィラデルフィアで「都市の使いすて」に衝撃 を受けたあとに、「(アメリカには鉄屑屋がいないのか)と、けちな料簡でおもった。むろんそんな稼業は採算がとれないのにちがいない。」と呟いています。

 しかし、いまや資源価格が高騰する中で、鉄屑をふくめ金属屑は貴重なリサイクル資源として活用され、都市鉱山と呼ばれているほどです。廃棄物であった、 金属の屑や廃プラスチック、古紙などの資源は、いまやすべての製品のライフサイクル(原料→製造→使用→廃棄→リサイクル)に組み込まれつつあります。

 そうした中で日本発のこれら廃棄物や使用済み家電製品・パソコンなどが中国を中心とする東アジア地域に輸出され、その量も増加の一途をたどっています。 容器包装リサイクル法や家電リサイクル法の想定外の勢いで産業の資源循環が国境を超えて広がりだしたのです。たとえば使用済みプラスチックの輸出量は年率 20~30%も増加。日本では焼却される品目でも、中国ではリサイクルされてバージン材同様に活用されているケースもあります。

 東アジア地域にひろがるこうした資源循環網の流れは資源の有効活用という面からも今後ますます盛んになるでしょうが、一方リサイクル資源の適正な処理が行われなければ環境汚染の原因となりますhttp://www.ban.org/photogallery/index.html。 リサイクル資源はたとえばプラスチック類では農薬が付着したビニール類など、バーゼル条約違反や違反すれすれで日本から中国などに流入しているいるケース も多いといわれます。そのため中国をはじめとした東アジア諸国ではリサイクル資源の輸出入に対して、規制を強化しています。

 しかし、資源循環型社会を実現するためには適正な国際資源循環が必要です。そこで一昨年12月、NTTデータ経営研究所の呼びかけで組織された民間団体 「資源循環ネットワーク・コンソーシアム」(6社)が、北九州市と中国天津市の全面的な支援のもとに、安全なリサイクル資源を循環させるための実証事業を 行いました。この資源循環の仕組みは使用済みプラスチックにICタグを添付し、資源の素材や由来、流通経路などの情報を管理し、端末で安全性を確認できる というものです。

 最近は自社から排出された資源の処理に敏感な企業が多く、排出業者が中国まで足を運び処理状況を監査するケースも多いといいます。今後同団体は排出業者 に対し、使用済みプラスチックが適正処理されていることを認証するサービス会社を設立する計画です。NTTデータ経営研究所の林孝昌氏は「国際資源循環を 担うのは民間事業者。民間が制度としてではなく、収益性のある認証サービス事業として運営していくことが重要」と意欲的です。

 この実証事業を支援した北九州市は「総合静脈物流拠点港」に指定され、リサイクルポートの背後のエコタウンにはOA機器、自動車、家電、ペットボトルな どリサイクル施設が立地しています。そのうえ同市はアジア諸国の環境関連部局とのチャネルも備えています。この北九州市とともにいま、注目されている総合 静脈拠点港は酒田港です。酒田港周辺にはエコタウンでもないのに、自動車、古紙、廃プラ、鉄屑などのリサイクル企業が集積しています。酒田港では90年代 に新田嘉一氏(有機畜産の豚肉を生協などに供給している平田牧場の設立者)を中心とする民間団体が対岸諸国との経済交流を図るために、日本海を経てアムー ル川を遡り、黒竜江省ハルビンに至る国際航路東方海上シルクロードを開発。当時、新田氏から、日本から中国へ輸出する貨物が少なく、中古機器、古紙などを 運んでいるときいたことがあります。あるいはこうした経由で、酒田港にリサイクル事業所が集積することになったのかもしれません。

 日本にはリサイクル法がほぼ整備され、しかも高いリサイクル技術力があります。総合静脈物流拠点はこうした強みを活かし、今後東アジアや世界の静脈・リ サイクル資源の産業集積地、交易の中心地となる可能性が高いと思います。このように日本がアジア地域で地球環境問題に貢献できる課題はたくさんあると思い ます。しかも、民間や自治体「から」、あるいは、だから「こそ」できることがたくさんあるでしょう。

 人間は太陽系という、地球という大きな自然循環の中で活かされています。人間の暮らしも文化も経済もこの大きな流れに沿って営まれています。しかし、ト ルーキンの「指輪物語」ではありませんが、何億年間も地中深く眠っていた化石燃料を掘り当て、短時間に解き放つことで、循環を狂わしてしまいました。

 平岩さんにメール hk-hiraiwa@tcn-catv.ne.jp
2008年05月26日(月)
エディター&ライター 平岩 優
  この春から大分県の大学に通う兵庫県出身のSといいます。18歳の男子学生です。現在通う大学で環境問題についての知識を深め、将来は今世界で起こってい るさまざまな問題のうち一つでも解決に導ける仕事に就きたいと考えています。平岩さんの記事を見て、自分の環境問題に対する知識の浅さを知るとともに、よ り正確な知識が必要だと感じました。

 そこで質問なのですが、平岩さんにとって今の日本がこれらの環境問題にどう対応すべきか意見を聞かせてほしいです。返事はいつでも結構です。

 昨年12月、萬晩報に投稿した「環境問題は政治的な問題である」に対し、先日上記のようなメールをいただきました。私は環境問題に関して専門的な科学的 知識を持ち合わせていませんが、環境問題について企業や研究者の方々に話をうかがう機会があります。そうしたわずかな知見に基づき、参考までに私なりに考 えていることを記します。

 そこでまず環境問題とは何かから考えていきたいと思います。拙文でも述べましたように、私は環境問題を克服するためにはアメリカ型文明、ライフスタイル を改めることが必要だと思います。アメリカ型文明とは、恒常的により便利で新しいものを求め古いものを廃棄し、より多くのエネルギーと物資を消費すること で豊かな(?)個人生活を実現することに価値観をおく文明です。戦後、私も含め多くの日本人がテレビや映画を通してそんなアメリカン・ウェイ・オブ・ライ フに憧れました。アメリカを訪問した折、司馬遼太郎は、こう記しています。

「(都市の使いすてとというが、あるのか)とおもうほどのショックをうけたのは、ワシントンからニューヨークにもどる途中、列車の窓からフィラデルフィア の鉄鋼製構造物の巨大な廃墟群をみたときだった。ぬしをうしなった造船所や人気のない造機工場、あるいは鉄道車輌工場といった、十九世紀末から二十世紀半 ばまでの花形産業が、精一杯、第二次世界大戦までいきながらえはしたものの、いまは河畔にながながと残骸の列をさらしている。......いわば豪儀なことができ るほど国土がひろいということもあるだろう。しかし資本というものの性格のきつさが、日本とくらべものにならないということもある。この社会では資本はそ の論理のみで考え、うごき、他の感情はもたない。労働者も労働を商品としてのみ考え、その論理で動く。論理が、捨てたのである。凄みがある。」『アメリカ 素描』(新潮文庫)

 ちなみに司馬遼太郎はこの本の中で文明を「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」とし、対して文化を「特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの」と定義しています。

 ところで『アメリカ素描』が読売新聞に連載されたのは1985年のことですが、上記のフィラデルフィアの記述を含めて、環境問題に言及された箇所はありません。

 ヨーロッパでは1970年代から酸性雨が国境を超えた公害問題として、外交問題に発展していました。80年には西ドイツで緑の党が結成され、さらに酸性 雨によりドイツの森の死滅が予測され、西ドイツ政府が大気汚染対策を強化していきますが、いまだグローバルな地球環境問題という観点からは議論がされてい ません。しかし、地球環境問題はこの延長線上にやがて、石油をジャブジャブ使うアメリカ型の消費生活を見直そうというだけにはとどまらず、同時に政治的な 課題としても姿を現すことになります。

 国際政治の舞台にのぼる環境問題

 私は「環境問題とは政治的な問題である」で、環境対策は経済的利害を発生させるとともに、その科学的根拠もあいまいであることから、各国の利害がからみ あい政治問題化せざるをえないと書きました。しかし、この5月の連休中に読んだ米本昌平著『地球環境問題とは何か』(岩波新書 1994年刊)により、環 境問題は以前考えていたように単純に経済的な利害関係に基づく次元でのみ、政治に関わっているわけでないことを教えられました。地球環境問題はその出自そ のものからして、国際政治という土壌と切り離せないというのです。

 米本氏は地球環境問題を「自然科学(地球物理、気象、生態、海洋など)と社会科学(経済、金融、法制度、行政、国際政治など)とを一気横なぐりに融合さ せてしまう動機をもっており、しかも何らかのかたちで政策立案(エネルギー政策、産業構造調整、国際交渉など)に結びつかざるをえないものである」と定 義。国際政治の上で地球環境問題が本格的に登場したのは1988年秋の国連総会だといいます。

 この年の6月には米ソの間でINF条約(中距離核戦力全廃条約)の批准書が交換され、翌89年には東欧革命が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊しています。

 環境問題を国際政治の課題に押し上げたのはソ連のシェワルナゼ外相(当時)の国連総会での演説でした。

「環境カタストロフの脅威という前にあっては、二極化したイデオロギー的世界対立的図式は、却下される。すべての人が、同じ気象体系を共有しており、誰一 人として、環境防衛という自分だけの孤立した地位に立てるわけではない。人工の第二の自然、つまり技術圏はきわめて脆弱なものであることがはっきりした。 多くの場合、その破綻は、たちまちのうちに国際的で地球レベルのものになる......」(『地球環境問題とは何か』より)とし、92年もしくはこれより早い時期 にサミットレベルでの環境に関する国連会議を開くことを提案しています。この国連演説には86年に起きたチェルノブイリ原発事故の影響が色濃く感じられま すが、私はソ連崩壊のきっかけはこの事故にあったと思います(中国の四川地震も中国の政治体制に大きな変化をもたらしそうな気がします)。

 さらに続いてこの年の12月7日(パール・ハバーの日)には、ゴルバチョフソ連書記長(当時)が国連で東西冷戦終結の引き金となったソ連軍の50万通常 兵力の一方的削減を宣言するデタント演説を行い、その中で発展途上国の債務問題に言及したあと、「国際的な経済安全保障は、軍縮ばかりでなく地球環境への 脅威に対する認識を離れては、考えられない」(同上)と述べています。ちなみに、IPCC(気候変動政府間パネル)は、この演説の1日前に設置されていま す。

 翌89年に入ると環境問題の国際会議が堰を切ったように、次々と開かれます。3月5~7日にはイギリスのサッチャー首相の主導で「オゾン層保護に関する ロンドン会議」が開かれ、2000年までにフロンの生産と消費を全廃するというヘルシンキ宣言を採択。3月10~11日にはフランスがオランダ、ノル ウェーと共催で、ハーグで地球温暖化問題に関する環境サミットを開催し、早くも地球環境問題をめぐる主導権争いが始まります。そして、92年は環境問題が 国際政治の課題として認知される上で大きな分水嶺となりました。国連環境開発会議(地球サミット)が開かれ、103カ国の首脳が気候変動枠組み条約に署名 し、一方では米ロによるSTARTⅡ(戦略兵器削減交渉)がスタートしました。

 つまり、東西冷戦構造が解体する過程の中で、地球環境問題が国際政治の新たな課題として浮上してきたのです。常に新たな脅威、対立軸を生み出していくの は国際政治の性のようなものかもしれません。地球環境問題は「地球に優しい」というソフトな相貌ではなく、安全保障のテーマとして現れたのです。従来、国 家は軍事力を背景に国益の増強を図り、国際会議のテーマはワシントン会議に見られるように軍縮でした。その行き着いた先が、米ソが保持する核兵器の均等に 上にたった冷戦構造でした。

 1980年代後半から1990年代前半に至るこの時期の国際政治の動きは、後世、人類の大きなターニングポイントとして記憶されることになるでしょう。 そして国際政治の東西の対立軸は、南側諸国から「環境帝国主義」と告発されるように南北の対立軸へと移行しました。世界最大の過剰なエネルギー消費国・ア メリカは発展途上国が参加しない温暖化対策は無意味として、京都議定書の批准を拒否しました。(つづく)

 平岩さんにメール hk-hiraiwa@tcn-catv.ne.jp
 きのう、テレビニュースで警察がスタントマンを使った警察による後部座席にシートベルト実験が流れた。シートベルトをしないまま、前の車に追突すると後部座席の人がフロントガラスから飛び出すのだ。見ていた人は口々に、シートベルトなしの怖さを語っていた。

 筆者はこれは完全なやらせだと思った。そんなに危険なことだったのなら、30年前に前部でシートベルト装着を義務付けたとき、一緒に後部座席もそうして おけばよかったのだ。いまごろになって、後部座席のシートベルトなしが危険だと強調されてもハイそうですかとは納得されないだろう。

 交通事故はいつだって悲惨なのだ。支局時代、1回だけ交通事故の生の現場を見た。そのときは運転手が座席にはさまれたまま数時間脱出できなかった。シートベルトうんぬんの話ではない。事故で人が飛び出す場合も、閉じ込められる場合もあるのだ。半々だろう。

 シートベルトでくくりつけられて、脱出できなかったら警察はなんとかしてくれるのか。そんなことはない。道路交通法が改正されたら、もうそれでいいのだ。

 今、販売されている乗用車には必ず後部座席にシートベルトがついている。着用するかどうかは個人の判断にまかされている。それで十分だと思うのだ。個人的にはフロントシートの着用義務も「余計なお世話」だと考えている。

 事故が起きた場合、シートベルトを着用しなかったからといって、相手車両の被害に影響はない。自分が死ぬか生きるかなのである。シートベルトをしなかったから助かったという例も知っているから、余計なお世話どころではないのだ。

 そんなことよりも、チャイルド・シートを助手席に装着している車をよくみかける。この方がよっぽどかわいそうなことになる。アメリカでは絶対に子どもを 助手席に座らせない。日本ではみんな乗せている。英語で助手席のことをsuicide seatというのだ。「自殺」でっせ!
2008年05月24日(土)
萬晩報通信員 園田 義明
 第四章 長州・浄土真宗西本願寺派連合と国家神道

 ■仏教界から生まれた「国家神道」

 なんとも不思議なことに日本人のクスノキ信仰は楠木正成信仰へと変貌を遂げる。明治維新前夜に蘇った楠木正成ら南朝忠臣たち。彼らを神格化したかのような南朝正統イデオロギーが日本を戦争へと導いていく。この様子を「国家神道」の成立過程から見ていくことにしよう。

 そもそも神社=神道ではない。神道とは古来、日本人の血や日々の生活の中に長い年月をかけてじっくり染みついたものであり、自然崇拝に見られるように宗 教というより民俗的信仰に近いものだった。よって、日本人それぞれの神道観があっていいのではないだろうか。そのために八百万の神々もいる。勝手な解釈で も成り立つ大らかさこそが魅力であり、その曖昧さに限界があった。

 明治維新後、政府は神道国教化とその挫折を通じて「国家神道」への道を歩むことになるが、いずれも非宗教化された政治の領域の問題であって、神道国教化=神道でもなければ国家神道=神道でもない。さらには、神道国教化や国家神道を、神道界が歓迎したともいえない。

 一般的に、明治維新から第二次世界大戦に至る過程で、神道が国家から特別な地位を与えられ、優遇されていたように思い込んでいる人も多いようだが、これは事実に反する。このあたり、左翼さんやリベラルさんももう少し勉強して欲しい。

 明治憲法でも「信教の自由」は保障されており、このため、国家神道も「神道非宗教論」が前提になっていた。戦前では靖国神社参拝でさえ愛国心と忠誠を表すだけのものに過ぎず、宗教的慣行ではなかったのである。

 米欧にはキリスト教という機軸があるが、日本では仏教も神道もそんな力は有していなかった。そもそも、明治初期の日本には「宗教」という概念すら存在しなかった。そのために、天皇の求心力を活用した国民全体の紐帯として、神道が利用されたのだ。

 明治政府による神社政策は一八六八(明治初)年の神仏分離令に始まり、一八七一年の神社改正規則以後、全国の神社は官社(官幣社、国幣社)、府県社、郷 社、村社、無格社からなる五段階に序列される。神社の氏子調規則や郷社定則を戸籍法と連携させながら、廃藩置県を後押しするために中央集権的な神社システ ムの再編が国家主導で行われた。

 やがて、不思議なことに極めて仏教的な「空なる国家神道」が生み出される。非宗教という「空」は、ブラックホールのようにありとあらゆるものを吸い込ん でいく。神道であれ仏教であれ儒教であれキリスト教であれ、さらには政治、軍閥、財閥、そして日本国民のほぼ全員をパクパク飲み込んでいった。

 この背景には宗教界の対立があった。特に重要なのは、当時、鬱積した不満を募らせていた仏教界の存在である。神道と仏教が激しく対立していく過程で、日本を「空」の状態に陥れたのだ。

 ■長州・浄土真宗西本願寺派連合二五〇年の怨念

 明治維新政府が進めた廃仏毀釈や神道国教化政策などの宗教政策に対し、正面から敢然と立ち向かったのが浄土真宗西本願寺派の島地黙雷である。神道と仏教 との対立構図から、島地によって神道非宗教論が生み落とされた。この島地に大洲鉄然、赤松連城、香川葆晃を加えた長州出身四人は、「仏教界を守った維新四 僧」と称されることもある。

 さらに、この長州と西本願寺との関係はなんと戦国時代にまでさかのぼることができる。 

 戦国時代終期、石山本願寺は親鸞に始まる一向宗の系譜を継ぎながら、宗教的権威と政治的権威を併せ持つ一大王国と化していた。織田信長の天下統一の野望 に最も頑強に抵抗し、一五七〇(元亀元)年から始まる石山合戦は十一年に及ぶ。この戦いで中国地方の覇者、毛利輝元は石山本願寺に加勢して、兵糧や弾薬の 援助などを行った。

 その後、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、現在の 京都市下京区 に再興、浄土真宗本願寺派大本山の西本願寺となるが、寺内対立から真宗大谷派総本山の東本願寺が分裂する。東本願寺は寺地を徳川家康から寄進されて以来、幕府との関係が密になる。

 そして、ご存じ一六〇〇(慶長五)年は関ヶ原の戦い。東軍の総大将は徳川家康、対する西軍の総大将は安芸一二〇万石の大名・毛利輝元。この時、毛利軍内 部に東軍への内通者・吉川広家がいたことはよく知られている。合戦後、毛利家はお家断絶こそ免れたものの、長門・周防三七万石に減封された。しかし、長州 藩主毛利家と西本願寺の関係は江戸時代も続く。

 そして、関ヶ原の戦い以来二五〇年にわたる幕府への怨念と屈辱を晴らすかのように、長州は討幕へと動く。この時、長州と西本願寺派の歴史的信頼関係が強固な同盟となって復活するのだ。

 西本願寺派は討幕運動に大規模な資金提供を行った。井上聞多(井上馨)、久坂玄瑞、桂小五郎(木戸孝允)ら尊皇攘夷派が密かに集まって「翠紅館会議」が 行われた翠紅館は西本願寺の別邸であり、さらに一八六四(元治元)年の「禁門の変」では、誰もが長州を見捨てる中で、西本願寺のみ敗残兵を匿って無事脱出 させたことは、皆さん「新撰組」でよくご存じのはず。 

 この中に、後に維新の元勲となる山田顕義、そして、平田東助と共に長州・山県有朋閥を支えた品川弥二郎の姿があった。

 ■島地黙雷と山田顕義の「神道非宗教化戦略」

 島地黙雷は周防国(現・山口県)佐波郡にあった西本願寺の末寺、専照寺四男として一八三八(天保九)年に生まれる。一八六六(慶応二)年に妙誓寺の住職 となり島地姓を名のるが、同年大洲鉄然と共に改正局という学校を萩に設け、真宗僧徒子弟を教育した。そして、一八六八(明治元)年に、赤松連城らと本山・ 西本願寺の封建体制の改革を提唱し、歴史の表舞台に登場してくる。

 ここからはもう一人、葦津珍彦に登場していただこう。葦津は創刊した神社新報で神道擁護を訴え、戦後唯一の神道思想家と呼ばれた。神職なら誰もが尊敬す る「神道の弁護人」と評された人物である。葦津の残した『国家神道とは何だったのか』の副題には「現代史通説の虚像を論破する」とある。この書には長州の 名がこれでもかというくらい頻繁に登場する。

 この『国家神道とは何だったのか』を中心に、末木文美士の『明治思想家論』、千田智子の『森と建築の空間史』などで補足しながら、当時を振り返っていきたい。

 島地は京都に上って本山でその才幹を認められるようになる。対政府への進言で注目すべきは一八七一(明治四)年の「教部省開設請願書」。ここで島地は、 維新政府が「妖教」(キリスト教)の害を防衛すべく神道儒教の徒をして宣教活動しているが、効果が上がっていないと指摘、政府は仏僧を督励する官を設け て、宣教活動を強化しろと主張した。キリスト教を共通の敵として三教合同で結束させることで、仏教を体制側に組み込む狙いがあった。

 長州につながる浄土真宗の発言力は強大であり、島地の請願を受け入れるかたちで、設けたばかりの神祇省は廃止されることになり、新たに教部省が設置され る。神・儒・仏の三教合同の教導政策が打ち出されたのである。そして、その直後に宣教の大綱領ともいえる「三条の教則」が起草される。

 仏教界は仏教単独の教育機関として大教院設置を要望。そして設置はされるものの、でき上がってみると神仏合同の宣教機関のような存在になってしまう。依然として神道優位は変わらず、これが新たな神仏対立の火種につながっていく。

 島地は、西本願寺から派遣された宗教事情視察団員として、岩倉具視率いる遣外使節団に遅れて合流する。この旅先で島地は木戸孝允らと親交を深めることに なる。この外遊中に、教部省が依然として神道優位であることを知った島地は激怒、旅先から「三条教則批判建白書」を提出した。

 政教分離を強く主張しながら、「三条の教則」の第一条に言及する。第一条は「敬神愛国の旨を体すべき事」となっていたが、島地は「敬神」と「愛国」を分けた上で、敬神とは宗教、愛国とは政治を指すとしながら、これらが混合している不合理を強く批判したのだ。

そして、西欧仕込みの宗教進化論を振りかざして、八百万を崇拝する神道に批判の鉾先を向けていくのである。

 一八七三(明治六)年に帰国した島地は、直ちに「大教院分離建白書」などで教部省、大教院への批判を開始する。この時の島地の「神道は皇室の治教にして、宗教に非ざるなり」とする言説から、葦津は三類型の対神道戦略を見出す。

 その内容は、まず皇室の神道、惟神の道は宗教ではなく、政令、治教であり、皇室はその祭祀を司る権威を有するものとしながら、まずは皇室のメンツを保 つ。第二に水戸学、本居平田学を皇室国家神道とは全く異なる一私人、一私閥の偏見とする。神道が皇室と切断されればものの数ではないと考えたのだ。第三 に、皇室と無縁の地方神社の如きは未開原始のアニミズム・シャーマニズムであり、今後の文明時代の宗教に値しない邪教迷信の類に過ぎないとした。この結 果、一八七五(明治八)年に大教院が解散、七七年には教部省も解散することになる。

 そしてこの後に山田顕義が登場する。日本法律学校(現・日本大学)を創立者として知られる山田は、吉田松陰の松下村塾に学び、「禁門の変」に参加、戊辰戦争では東征大総督参謀、箱館五稜郭の榎本武揚征討では陸海軍総参謀として従軍した。

 山田もまた岩倉具視遣外使節団に理事官として随行し、帰国後、東京鎮台司令官などを経て、佐賀の乱を鎮定、西南戦争では別動隊第二旅団司令官として熊本で活躍し、陸軍中将を経て司法卿、司法大臣などを歴任する。

 この山田が内務卿に就任するのが一八八一(明治十四)年。すぐさま神官と教導職を分離し、神官の宗教活動、神道葬儀の執行を禁止する内務省達を発する。 さらに一八八四(明治十七)年には教導職制度自体が廃止される。この法令は「神官は宗教家であるべきではない」との政府見解を表明したものであり、葦津は 「島地黙雷以来の真宗の政治工作の成果であったことは明らか」と書いている。

 こうして、山田内務卿時代から「神道非宗教論」が政府見解となり、第二次世界大戦まで引き継がれることになる。

 重要な点は、神道側も神道非宗教論を受け入れたことである。この背景を千田は「信教自由、議会政治の時代に入り、神道は苦境に立たされていた。そこで、 祭祀と宗教を分離することで、国家的地位を維持できるならば、その道を選ぶという意見が優勢になっていた」と書いている(『森と建築の空間史』千田智子、 東信堂)。

 ■国家神道とは楠木正成と見つけたり!

 結論から言えば、「空なる国家神道」は長州・浄土真宗西本願寺派連合から生み落とされたのである。しかも、その実態は宗教なき幻想に過ぎなかった。

 末木は「島地による宗教自由の確立は、その裏で非宗教である国家神道をそのまま承認することになる」としながら、「神仏が分離しながら、仏教と神道が相 互に役割を分けて共存し合う関係」を「神仏補完」と定義している。その上で「島地らの勝利は、実質的には天皇国家と国家神道の枠の中に宗教が取り籠められ たと言う意味で、宗教の敗北でもあった」と指摘する(『日本宗教史』末木文美士、岩波書店)。

 新田均は『「現人神」「国家神道」という幻想』の中で、当然島地にも注目しつつ、「国家神道」および「現人神」の生みの親である加藤玄智が真宗寺院出身 で、神道を宗教と主張していたにもかかわらず、自らの葬式は真宗方式で行うよう遺言していたことを示しながら、「国家神道あるところに浄土真宗あり!」と の見出しをつけて、「国家神道」の主要な論理である「神社非宗教」と「現人神」、さらに全体像としての「国家神道」は、すべて真宗関係者によって創られた ものであると断じている。

 そして、浄土真宗こそ「国家神道の創作者」であるという主張が成り立つとしながら、「国家神道とは浄土真宗と見つけたり!」と叫ぶ。さらに、戦争との関 係に焦点を絞れば、「国家神道」とはまさしく「浄土真宗」のことである。「国家神道」の実態を見れば、それを『国家真宗』と言い換えていささかも問題はな いと言い切った。

 新田の調査によれば、「現人神」も「八紘一宇」も昭和十年代になって初めて教科書に登場するという。新田の主張は的を射ているのだが、調査対象にはどう も偏りが見られるようだ。南朝に尽くした忠臣である北畠親房の「神の国」に言及してはいるものの、当時の教科書に堂々と取り上げられていた肝心な祭神を完 全に見落としている。

 国家神道あるところ、確かに浄土真宗があった。しかし、その実体は「空なる国家神道」でしかなかった。

神道と仏教が激しく対立していく過程で生まれた非宗教という「空」は、とんでもない祭神を招き入れることになる。

 未開原始のアニミズム・シャーマニズム、さらには文明時代の宗教に値しない邪教迷信の類と名指しされたクスノキの巨樹が、自身の魅力と限界を知りつつ、樟脳利権にまみれた神社合祀によって、黙して伐り倒されていく。

 その時上空では、馬にまたがった楠木正成が、八百万信仰を象徴したクスノキの受難を見つめながら、旋回を繰り返していた。庶民の熱烈歓迎の中、「空」めがけて着地態勢に入っていた。

 そして、南朝正統イデオロギーを日本に植え付けた黒幕こそが、あの山県"ブルブル"有朋なのだ。(つづく)

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
 友人の甲斐美都里さんが翻訳した『ゲバラ世界を語る』(中公文庫)が明日、店頭に並ぶ。解説はまた友人の中野有さんが書いている。筆者の名も巻末に載せてもらっている。

 1年ほど前に甲斐さんが翻訳を始めたころから、ゲバラの本を何冊か読むことになった。翻訳の原稿がメールで届くたびに、英語と訳文を読み比べて批評を加 えたこともある。ゲバラが急に身近になった。ゲバラが21世紀に蘇る意味合いはどこにあるのか、ずっとそんなことを考えている。

 20世紀の世界で起きた革命はたまたま社会主義政権として誕生した。初めに主義主張があったのではない。ずっとそう思っている。帝国主義や植民地支配に対抗するのに手を差し伸べてくれたのはソ連だけだった。西洋列強や日本は支配する側にあったから当然である。
 キューバ革命も同じだったのではないかと思っている。カストロらはアメリカと買弁としてのキューバの旧支配層 に向けての武力闘争に打ち勝った。祖国解放が一番の眼目で、必ずしもソ連型の社会主義を目指していたわけではなかったはずだ。しかし革命に成功した結果、 待ち受けていたのは社会主義陣営入りだった。社会主義陣営に入ることはそのままソ連の支配下に置かれることと同意義だった。

 カストロとチェ・ゲバラはキューバを"解放"した代償としてソ連の配下に入った。そこに祖国の自由はなかった。キューバ危機に代表されるアメリカとの対峙によって、それこそ冷戦構造の最前線に放り出された。

 ゲバラが永久革命を訴えてボリビア入りしたのは、ロマンとして求めていたキューバ人民によるキューバ人民のための統治が難しかったからであろうと思っている。

 革命の最中は巨大な敵に立ち向かうという壮大なロマンがある。毛沢東やホーチミンも理想に立ち向かう同じロマンが革命への道をかき立てたに違いない。支 配されていた勢力が権力を奪取すると、今度は同じ人々が支配する側に回らざるを得ない。ここに革命が内包する矛盾がある。

 中野さんは解説でゲバラとケネディーについて言及する。
 「 ケネディーとゲバラは、冷戦の初期段階で、社会主義の矛盾と軍需産業主体の資本主義の限界を予測し、資本主義でもなく社会主義でもない第三の道である共生 の理想を描いたように考えられる。現在の中国のように社会主義体制を維持しながら市場経済化を推進することが、ゲバラの理想であったかどうか定かでない が、21世紀の今日、資本主義と社会主義のハイブレッドがグローバル経済の奔流となりつつある」。
 「最後に、ケネディーやゲバラの思想の根底にある国際主義、インターナショナリズムは、国際テロや地球環境問題の解決に不可欠である。ゲバラの現場に根 ざした博愛主義は、地球規模で共有すべきビジョンであり哲学であろう。米国の世界最大最強の軍事でも解決できないのが、9.11に端を発する国際テロの問 題である」。
「ゲバラの博愛主義に根ざしたゲリラ戦を研究することにより、現在の国際テロ解決の糸口が生み出されるように思われてならない」。

 1991年、ソ連邦が崩壊し、国際政治をめぐる環境は激変した。資本の論理が勢いづいている。冷戦時代の東西の対峙は人類にとって大きな危機だったが、 アメリカのよる一人勝ちもまた危機である。50年前そんなアメリカに徒手空拳で立ち向かったチェ・ゲバラが世界中で思い出される理由はそんなところにある のかも知れない。
2008年05月20日(火)
萬晩報通信員 園田 義明
 第三章 「金の生る木」に群がる山師たち

 ■「樟脳専売」のための神社合祀

 一九〇三(明治三十六)年五月、桂太郎内閣時代に、大蔵大臣が内務、農商務両大臣の連署をもって第一八臨時議会にある法案を提出した。この法案は可決され、翌月六月十六日に公布、十月から施行されることになる。

 この法案には四名の名前が記されており、ここにはっきりと神社合祀を強行した平田東助の名前が刻まれている。

内閣総理大臣

伯爵

桂太郎

陸相、陸軍大臣、内大臣等歴任後に公爵  

内務大臣

男爵 内海忠勝 長崎、兵庫、神奈川、大阪、京都各知事、会計検査院長歴任  
農商務大臣 a 平田東助 後に伯爵
大蔵大臣 男爵 曾根荒助 法相、農商務相、枢密顧問官歴任、後に子爵

  この四名の出生地を紹介しておこう。 


内閣総理大臣

桂太郎

門国萩城下平安古町(山口県萩
市)

内務大臣

内海忠勝

周防国吉敷郡吉敷村
(山口県山口市)

農商務大臣

平田東助

出羽国米沢(山形県米沢市

大蔵大臣

曾根荒助

長門国萩(山口県萩市)

 こうしてみれば、この法案が長州閥の長州政権によってできたものであることがわかる。 

 この法案は「粗製樟脳、樟脳油専売法」であり、以後内地および台湾共通の樟脳専売法として樟脳事業は完全に政府に統制されることになる。

 専売事業は明治の日本資本主義の開花期にあって、一八九八(明治三十一)年の葉煙草専売法を始めとして、一九〇三年に内台共通の樟脳専売法、一九〇五年の塩専売法としてそれぞれ創始されている。

 樟脳専売制度は一八九九(明治三十二)年八月に台湾で先行して始められた。日清戦争による台湾領有を機に、清国統治時代の手法を受け継ぐ形で開始された のだが、内地の樟脳事業は自由放任であったために台湾専売と競合。財政収入が安定しないという問題が発生していた。

 この問題解決と内地樟脳事業の保護育成のために内台共通の樟脳専売法が生まれ落ちる。わかりやすいように年表に置き換えてみよう。
元禄年間(1688-1703) 薩摩藩に製脳業興る
正徳年間(1711-1715) 薩摩藩において樟脳専売制施行
1752年(宝暦二年)   土佐に樟脳業興る
1863年(清国同治二年) 清国政府、台湾に最初の樟脳専売制を布く
1895五年(明治28年) 日清戦役の結果、台湾島が日本の領土となる
1899年(明治32年) 台湾樟脳専売制施行、
             内地でクスノキ大面積一斉造林始まる
1900年(明治33年) 英商サミユル商会が台湾産粗製樟脳の
             一手販売人に指名
1901年(明治35年) ★第一次桂内閣発足、平田東助農商務大臣就任
1903年(明治36年) ★内台共通樟脳専売法案提案可決
1906年(明治39年) ★第一次西園寺内閣発足、原敬内務大臣就任、
             ★神社合祀令
1907年(明治40年) 外国売は三井物産に対し委託販売命令書公布
1908年(明治41年) 第二次桂内閣発足、平田東助内務大臣就任
          三井物産に対し台湾産樟脳海外委託販売命令書発布
1911年(明治44年) 第二次西園寺内閣発足、原敬内務大臣就任 
1917年(大正06年) 三井、鈴木両社中心に台湾精製樟脳会社発足
1962年(昭和37年) ★合成樟脳普及により専売制廃止

(日本専売公社発行『樟脳専賣史』、『しょう脳専賣史(続)』より)

この年表から明らかになるのは、神社合祀は樟脳専売事業と大きく関係し、その両方を推し進めた当事者こそが平田東助だったことだ。理由は簡単、樟脳がクス ノキから得られるということと、このクスノキが神社周辺に残っていたからだ。

 つまり、樟脳を得るための神社合祀だったのだ。

 そして、『樟脳専賣史』には、日本の樟脳業界最大の殊勲者である金子直吉の鈴木商店が一九二七(昭和二)年四月に破綻すると、鈴木商店の台湾での樟脳利権が三井物産一社に引き継がれたことがはっきり書かれている。

 長州閥、山県閥の中心に位置した平田東助こそが今でいうクスノキ族、あるいは樟脳族として神社合祀を強行し、その利権を三井へと誘導したのである。

 ■樟脳の世界需要の七~八割を日本が占める 

 樟脳がなぜ重要だったのか。

 まだ合成樟脳などがなかった当時、樟脳はクスノキから得るしか方法がなかった。樟脳はチップ状に削ったクスノキを蒸して成分を蒸留した後、蒸気を冷却し て結晶を圧縮、精油を絞って完成する。樟脳は防虫剤に使われ、眼鏡のフレームや、おもちゃなどセルロイド製品に加工され、精油は打ち身やねんざの塗り薬と して使われた。

 当時の世界の粗製樟脳需要は五〇〇万~六〇〇万斤程度。この内、米独二国の需要が一五〇万斤、英国一〇〇万斤、フランス九〇万斤、インド七〇万~八〇万 斤、内地が一二万~一五万斤であった。需要の七割がセルロイド原料として使われ、米国では映画や写真のフィルムの材料にも使われており、日本の樟脳がハリ ウッド映画の発展に寄与していた。

高まる世界需要に合わせて、内地樟脳の輸出は台湾専売が始まる明治三十二年から盛んとなり、明治三十三年には三〇〇万斤を突破。さらに明治三十四年、三十 五年は四〇〇万斤前後にまで達した。つまり、世界需要の七~八割を日本が占めていたことになる。

 『樟脳専賣史』によれば、明治初年から明治二十年頃までは百斤当たり一三~一四円だった樟脳が、明治二十四年頃には三倍以上の四〇円前後に、さらに内地にも樟脳専売制が施かれる三六年頃には九〇円にまではねあがる。

 クスノキがまさに「金の生る木」になっていた。  

 このため、内地樟脳業者は原料獲得に狂奔し、神社仏閣の風致木でさえ法外な高値で取り引きされたという。クスノキの濫伐の影響から、明治二十年前後には 主要産地であった土佐などは減産の傾向を示し、鹿児島県下では国有林の盗伐まで発生する有り様で、製造者は三二〇〇名にも達した。

 ■三重と和歌山に群がる山師た

『樟脳専賣史』に収められている「くすの生育地帯」を見れば、三重県や和歌山県の神社が激減した理由がわかる。

 クスノキが生育する西南日本で、神戸港に近く、しかも樟脳業が発展していなかったために、クスノキが手つかずのままとなっていた和歌山や三重の鎮守の森には、さぞかし一攫千金を狙った山師が殺到したことであろう。

というのも、輸出のほとんどすべてが神戸港に集中していたからだ。輸出業者は神戸や大阪に店舗を構え、その大手として鈴木商店の鈴木岩収郎、池田貫兵衛、窪田兵吉、それに三井、住友が顔を揃えていた。

長州主導で、山師を総動員させながら、樟脳を得るために、クスノキを伐って、伐って、伐りまくっていたのである。

庶民の素朴な自然崇拝はこの時死ぬ。南方熊楠の警告通り、日本人の美的感覚も愛国的な感覚も激変していくことになる。(つづく)

 園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

 オーストラリアのドキュメンタリー映画のDVD「The Fabric of a Dream Fletcher Jones Story」を見た。同国のフレッチャー・ジョーンズというアパレル王の成功物語である。驚いたのは冒頭から日本の社会運動家、賀川豊彦の名前が出てくる ところである。

 フレッチャー・ジョーンズ(1895年8月14日-1977年2月22日)は、第一次大戦従軍後、夢だったテーラーを開業し、やがて紳士服のズボンのメーカーとして頭角を顕した。最盛期には3000人の従業員を抱え、国内に55店舗を持つ総合アパレルメーカーとなった。

 ジョーンズがユニークだったのは、経営方針として公正(fairness)、親切(decency)、正直(integrity)を定め、決して浮利を求めなかった。第二次大戦中に軍部から安価なズボンの供給を求められたが、「安物」はつくりたくないと応じなかった。
 彼の関心は常に人にあった。消費者はもちろん、従業員に対してもどうしたら協同できるかを考え続けた。最終的 に彼の企業名は「Fletcher Jones and Stuff」となり、株式の7割以上を従業員のものとして企業の富を分かち合った。この経営方針に日本の賀川の多大な影響があったというのだ。

 1920年代後半、世界大恐慌が吹き荒れたとき、ジョーンズのズボン製造は大きな打撃を受けなかった。社会的貧困が現実のものとなり、「なぜ金持ちはさ らに豊かになり、貧しい人はさらに貧しくなるのか」苦悩した。世の中のために何ができるか考えるため、ビジネスのハウツー物を読み、読書はさらに経済書に も及んだ。

 そのとき、ジョーンズの琴線に触れたのが英国を発祥地とする協同組合運動のパイオニアたちの物語だった。最終的にジョーンズを満足させたのは賀川豊彦のものだった。当時、十数カ国語に翻訳された『Brotherhood Economy』を読んだはずだ。

 ドキュメンタリーでは賀川のことを「日本のガンディー」と紹介し、彼は平等社会を築くために新しい社会のあり方を提示し、企業経営で従業員持ち株制や地 域との協同の必要性を強調したと説明している。1930年にアメリカを訪問したときは、120都市で熱狂的に迎えられ、賀川の言葉はキリスト教社会を通じ て、即時に全世界の言葉に翻訳されたとも紹介している。

 やがて賀川がオーストラリアにもやってくるときが来た。1935年。キリスト教長老派教団が招いたものだった。ワーナンブルでは午後3時半、、同7時半、同9時にセッションがあった。タウンホールは毎回超満員となった。

 ジョーンズはメルボルンで特別に賀川と会うチャンスを見いだした。自分たちの企業と幸運に恵まれない人々とのギャップに悩んでいた。彼は賀川に聞いた。

「私はあなたのように稼いだお金をすべて差し出さなければ、神の加護を得られないのでしょうか」

 賀川の答えは非常にわかりやすかった。

「あなたが第一次大戦で生き残ったのは神があなたに使命を与えたからです。お金を持つことは決して悪いことではありません。あなたが神の望むように使うかぎりにおいて」

 ジョーンズは賀川の言葉に勇気づけられ、賀川の活動を見るため、1936年に日本を訪ねた。5カ月の旅でジョーンズが見いだしたのは賀川の協同組合事業が単なる購買活動でなかった点だ。

「彼の事業は消費協同組合を超えていた。健康、住まい、教育、保険など貧しい人たちが必要とする活動が内包されていたのに驚いた」とジョーンズは答えている。

 ジョーンズは即座に自分の会社を協同組合的経営に切り替えることを決めたが、実現する前に第二次大戦が始まった。戦後、ジョーンズのズボン事業はさらに 拡大し続けた。向上はGarden Factory と名付けられた。会社名は「Fletcher Jones and Stuff」と改名され、企業は現実に従業員のものとなった。ジョーンズはその後、英国王からサーの称号を与えられ、1977年亡くなった。

 この1時間のドキュメンタリーは、2007年9月7日のSBS テレビで放映された。
 http://www.filmaust.com.au/fabric/

 http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A140662b.htm

 The Fabric of a Dream - The Fletcher Jones Story

 The Fletcher Jones Story
 友人の園田義明さんの新著『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』が講談社+α新書より5月20日発売される。

 前著『最新アメリカの政治地図』(講談社現代新書)はアメリカの経済人脈を徹底的に調べ上げ、そのネットワークから政治力の源を探るという試みだった。今回の『隠された皇室人脈』は皇室のキリスト教人脈から戦後日本政治の中核に迫ろうとしている。

 園田さんは「国際戦略コラム」と「萬晩報」で長期に渡り、国際関係論を中心に執筆してきた市井のサラリーマン。もちろん本名である。とにかく読書量が並大抵でない。前回の『最新アメリカ政治地図』の印税はほとんどが本代に消えたというから大変なものである。

 
 ネット社会はこうした市井のサラリーマンを言論人に育て上げる機能を果たしてきた。素人のネット小説が出版界を潤す時代であるから、言論人を生んだとしても不思議でない。

 自慢話をさせてもらえば、萬晩報の執筆陣から何冊もの本が生まれている。 ティツィアーノ・テルツァーニの『反戦の手紙』を翻訳したイタリア在住の 飯田亮介さん、 『国際フリーター世界を翔る』の中野有さん、 『命に値段がつく日』の色平哲郎さんらみんなユニークである。確固とした自我を持ちながら柔軟な発想でそれぞれの分野で活躍している。

 その知のネットワークをさらに進化させたいと思っている。財団法人国際平和協会は1945年に賀川豊彦がつくった財団である。筆者はたまたまその運営をまかされているが、平和財団が知的ネットワークの核となる日を夢見ている。
2008年05月15日(木)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■まえがき

 いよいよ五月二十日に『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』が講談社+α新書より発売される。前著『最新アメリカの政治地 図』(講談社現代新書)から四年振りとなる新著は、皇室周辺のクリスチャン人脈を取り上げた内容となっている。

 新著の特徴として第一にあげられるのは、現実主義者としての昭和天皇像を浮き彫りにしたことである。極めて戦略的にキリスト教との接点を持とうとしたこ とから見出したのだが、この背景には昭和天皇の他宗教に対する八百万的な共生と寛容の宗教心もあったはず。生物学者として南方熊楠とも交流があった昭和天 皇は、自然の中に神々の息吹を感じ取っていたのかもしれない。

 昭和天皇は歴代天皇の中でも皇室祭祀に熱心であり、侍従長として傍らで見てきたのが終戦時の首相を務めた鈴木貫太郎である。鈴木は、天皇の身を案じ、最 後まで無条件降伏に反対した阿南惟幾陸相に対して、「あれほどまでに天照大御神をあがめ、神武いらいの歴代の皇霊をまつり、八百万の神々に祈る天皇が、た とえ戦争に敗れたりとはいえ、神々の加護もなく、悲運に遭うはずはないのではないか」と諭したとされる(『聖断』半藤一利、PHP文庫)。

 実際には、この鈴木や吉田茂らが中心となって、昭和天皇の戦争責任訴追回避のための憲法九条を生み落とした。いわば憲法九条は「皇室を救い出す」ための 究極のトリックだったとする見方を打ち出したのが、第二の特徴である。

 第三の特徴として、新著はクリスチャンたちを極めて好意的に取り上げている。残念なことに、日本ではまだまだクリスチャンに対する偏見が残っており、そ うした書籍も数多く見かける。日本のために生涯を捧げたソヴェール・カンドウ、今上天皇の家庭教師として知られるエリザベス・グレイ・ヴァイニングらを取 り上げたことで、こうした偏見が少しでもなくなれば幸いである。

カンドウ神父はフランシスコ・ザビエルと同じくバスク人、ヴァイニング夫人の父はスコットランド出身である。古の記憶が残る自然豊かなバスク人やケルト人 の神話や伝説にも日本と共通するアニミズムや妖精やトリックスター、それに巨樹信仰も存在する。ここに人種や宗教を超えた永遠不変の真理があるはずだ。

 彼らが書いた本をほとんどすべて取り寄せて読んでみたのだが、残念なことに、現在の日本人より、クリスチャンである彼らの方がはるかに繊細な自然観を 持っていた。八百万の神々に導かれて日本にやってきたのではないかと思えるほどである。

 今、右手を眺めると、繊細さとは程遠い人たちが毎年夏になると靖国神社を取り囲んで大騒ぎしている。彼らとて、そのルーツを辿れば、せいぜい明治維新ま で。たかだか一四〇年の歴史に過ぎない。さらに中央から左方面に目を向けると、戦後の米国依存を忘れられない人たちが根無し草のように右に左に揺れてい る。中には極めて西洋的な地球温暖化などという訳のわからぬ大号令に振り回されている人もいる。

 ヴァイニング夫人が今から四十年近く前の一九七〇年に書いた『天皇とわたし』を開いてみよう。彼女も日本に来るまで「人間が自然を支配し、征服し、それ を利用するという西洋的な考えを吟味せずに受け入れていた」と告白する。ところが彼女が目にした日本人の自然観は異なっていた。

 日本の土着宗教は、恐怖からではなく感謝の気持に発する穏やかな感恩の自然崇拝であった。地震や、津波、火山の爆発、台風、火事、洪水のように、自然の 災害がさまざまな仕方で襲う国で、人びとが自然を恐れたり宥めたりするのではなくて、その恵みと美しさに感謝するのは驚くべきことである。大木や、高い岩 山には小さな社が祭られ、その前では祈りが唱えられたり、花や食物が捧げられたりする。仏教もまた自然を慈しむことやそれとの調和の教えをもたらした。そ れは、東洋に広がっている態度で、その起源が東洋にあるとされるアメリカン・インディアンが信奉している態度でもある。(『天皇とわたし』エリザベス・グ レイ・ヴァイニング、山本書店)

 日本から帰国したヴァイニング夫人がこの話をした時、友人達は怪訝そうな顔つきをして反論した。「そう言っても、わたしたちは自然を征服しなければならないと思います。そのためにわたしたちの文明は進んだのですから」と。

 しかし、ヴァイニング夫人は「土地を荒らしまくり、大気を汚染させた結果生じた深刻な問題を抱えた今、わたしたちはこれまでの態度を再検討する必要に迫 られている」としながら、、「東洋と西洋はこの分野で相互理解に向けてこれまで以上に接近しなければならない」との想いを語る。

 ヴァイニング夫人を感化させた日本人の繊細な自然観。それは今も確かに残っているのだが、個々の中に閉じ込められたままになっている。真の伝統保守とし ての八百万派を名乗ることができれば、日本は再び輝きを取り戻せるのではないか。深刻な地球環境の悪化(私は地球環境問題と地球温暖化はまったく別物と考 えている)が叫ばれる今こそ、我々の神々を解き放つ必要があるのではないか。

 そんな想いに駆られて原稿を進めた。私が主催する園遊会のメンバーからも「わかりにくい」との指摘があったが、『クスノキと楠木正成』というタイトルに 最後まで拘った。神々の再編をテーマにした近代日本信仰史的な本を目指し、キリスト教だけに絞った本にはしたくなかったからだ。

 しかし、出版社側の意向からそのタイトルは二転三転する。麻生政権誕生を睨んだ『クリスチャン宰相、麻生太郎の源流』から、麻生氏が敗れると『皇室人脈  憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』となり、最終的に「隠された」という週刊誌風文句が追加された。

 度重なる出版社側の企画変更にめげることなく、『クスノキと楠木正成』に関する第一章及び第二章をなんとか残そうと粘りに粘ったのだが、最後の最後に全 て削除することが決まる。代わって、何が第一章に取り上げられたのかは、新著を手に取っていただければわかるだろう。

結局、クスノキや楠木正成よりも、皇室、憲法九条、クリスチャン、そして「軽井沢テニスコートの恋の真実」の方が営業面から売りやすいとの判断によるものだが、筆者の立場からすると、正直なんとも複雑な心境である。

クスノキから楠木正成への変貌が日本の戦争を支えたマインドを読み解くヒントになるのではないかと思えただけに、なんとも悔やまれる。

そこで、インターネットを通じて『クスノキと楠木正成』を蘇らせる。題して『隠されたクスノキと楠木正成』。そのために、遅ればせながら公式ホームページまで開設した。(http://www.sonoda-yoshiaki.com/

 これを読めば、『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』の「まえがき」と「あとがき」に籠めた想いもより一層理解していただけるだろう。

それでは、私の本籍地の近くにある「蒲生の大楠」を思い出しながら、クスノキの話からから始めていこう。

 ■第一章 クスノキと南方熊楠

 ■日本人にとって「クスノキ」とは何か
 
 クスノキの漢字は「楠」と「樟」の二つがある。一般的には「楠」と書くことが多いが、広辞苑を開くと「楠」は「南国から渡来した木の意」となっている。 中国ではクスノキ科のタブノキ類が「楠」であり、日本古来のクスノキには、「樟」を当てるのが正しいようだ。「樟脳」の原料としての「樟」である。

 さらに広辞苑で「楠学問」という言葉を見つける。「クスノキが生長は遅いが大木になるように、進み方はゆっくりであるが学問を大成させること」とある。これに対して、「進み方は早いが学問を大成させないままで終ること」を「梅の木学問」と言うそうだ。

 クスノキは学校の校庭にもよく植えられているが、「楠学問」のように堅実に成長してクスノキの巨樹のような大きな人物に育ってほしいと願っていたのだろ う。しかし、「教養」という言葉も死語となりつつある今、生きていくために有利な肩書だけを求める「梅の木学問」が主流になってきた。

 それでもクスノキは生き残っている。

 総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授が書いた『クスノキと日本人』(八坂書房)によれば、クスノキの広がる地域は西南日本に偏り、巨樹もまた西日本に 多い。そして、その六〇パーセントは神社仏閣の境内にあるという。クスノキの巨樹の多くは、神仏を崇める人々と共に長い時間を生き抜いてきたのだ。

 古から、日本人は、山や海川や草木岩石もすべて神霊宿るところと信じてきた。人は巨樹に永遠の時間と生命力を見た。威厳ある姿を畏れ、神気を感じ祈った。そして、巨樹を育んだ土地に「産土(うぶすな)」を見ていた。

 高知県高岡郡越知町の仁淀川の流れを望むところに「楠神(くすがみ)」なる地名を見出すことができる。おそらくクスノキを神木として祀ったことに由来す るのだろう。その昔、この集落にあたり一帯を暗くするほど大きく茂ったクスノキがあったという。ある人が枝を伐り落とすと翌朝には元どおりになっている。 そこで今度は根元から伐り倒したところ、集落に不幸な出来事が相次いで起こるようになった。そのために、人々は祠を作り楠神として祀ったという伝承が残っ ている(二〇〇四年六月二四日付高知新聞夕刊)。

 こうした信仰はクスノキが生い茂る西南日本各地にあった。宗教などという認識すらなかった時代、巨樹は庶民にとって自然崇拝を象徴する存在だったのだ。

 ■「クスノキ」の名を持つ南方熊楠

 ここで庶民の「クスノキ信仰」から命名された熊野のクスノキさんに登場していただこう。

 和歌山県海南市南東部の藤白峠のふもと、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された熊野聖域の入り口にあたる場所に藤白神社がある。六五八年に斉明天皇が牟婁温湯(現在の白浜湯崎温泉)に行幸した際、祠を創建したのが始まりと伝わっている。

 境内社のひとつに樹齢八〇〇年から一〇〇〇年というクスノキの大木を御神体とする子守楠神社がある。「藤白王子の大楠に籠る(子守る)熊野の神」といわ れたことから子授けの神様として知られ、子供が生まれるとこの神社を訪れ、このクスノキに祈願して名付ける人が多かった。 古来、「楠」「藤」「熊」の三文字から一文字を選んで名をつけると長命で出世するといわれてきた。

 この神社から二文字ももらったのが南方熊楠である。熊楠は晩年、精神を病んだ長男を毎日このクスノキの幹に触れさせて回復を祈ったことがある。「知の巨人」ですら巨樹の不思議な力を信じていた。

 熊楠は一九〇八(明治四十一)年十一月七日から十二月二日にかけて、本宮への熊野採集旅行を行い、最終日に現在の田辺市糸田にある猿神祠に到着する。古 くは山王権現社と呼ばれた糸田猿神祠は、熊楠が一九〇六年にクスノキ科タブノキの朽ち木から新種の粘菌を発見した場所である。

 ところが、それから二年後に熊楠が目にしたのは、「神社合祀」の影響で木立が一本残らず消え失せた境内だった。  

 熊野の森を愛した熊楠は、無差別な「神社合祀」が自然破壊のみならず土地の歴史を抹殺し、庶民の素朴な産土神信仰の拠り処を踏みにじるとして、反対運動の急先鋒となっていく。

 熊楠が命をかけて護ろうとしたのは神社周辺の森だけではなかった。森が生み出すすべての自然と、その土地に住む人間との古からの結びつきを護ろうとした のだ。研究を通じて触れ合った森や川や海、そこに住む生き物たちすべてを自身に一体化させていたからこそ、熊楠自身の痛みと感じた。

 熊野採集旅行から戻った熊楠は、一九〇九(明治四十二)年二月十九日付のグリエルマ・リスター宛の手紙でこう書いた。

こうした野蛮な行為は、この国では近年日常的におこなわれており、やがて日本人の美的感覚だけでなく、愛国的な感覚をも壊し、あともどりできないところに追い込むことになる。(『南方熊楠』原田健一、平凡社)

 この熊楠の警告は悲しくも的中する。この手紙が書かれた二年後の一九一一(明治四十四)年に吹き荒れた南北朝正閏問題によって、庶民の素朴な美的感覚も 愛国心もねじ曲げられ、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのようにあともどりできない戦争への道を突き進んでいくからだ。(つづく)

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 今年1月、インドの首都デリーの出版社より、ヒンディー語版『知ってる、知らない日本』が出版されました。これを受けて母国語であるベンガル語でも出版したいと思い、バングラデシュの首都ダッカで、自営のマンチットロ出版より本書を出版しました。
 インド、バングラデシュの両国では、日本に関する情報が不足しています。今でも経済大国としてのイメージは変わりませんが、さてその他に日本の何を知っ ているかといえば、興味はあるものの、日本の歴史も文化もほとんど知られていないのが現状です。こうした現状をふまえて、日本で過ごした約四半世紀の間に 知った日本人のこと、日本の歴史や文化のことを多くの人に伝えたいという思いから、仕事の合間をみては書いたものをまとめました。
 【プロビール・ビカシュ・シャーカー】
 本書は内容的に三部構成となっています。

 1)日本とベンガル地方の100年の交流史

 日本とベンガル地方の100年の交流史をテーマに、11のエッセイを書きました。日本人にとってインドといえば、未だにベンガル地方(インド西ベンガル 州とバングラデシュ)のイメージが強いのではないでしょうか。岡倉天心とタゴール、頭山満と中村屋そしてビハリ・ボース、東條英機とスバス・チャンドラ・ ボース、パール判事と下中弥三郎など、日本とベンガル地方の交流史に代表されるインド人はすべてベンガル人でした。インドでもバングラデシュでも、そして 日本でもほとんど知られていない、日本とベンガル地方の交流の歴史をまとめました。特に若い世代の人々に読んでもらいたいと思います。

 2)世界でよく知られている日本のこと

  世界で日本がどのようなイーメジでとらえられているかを考え、5つの小論文を書きました。お寿司(米文化)、俳句、広島―長崎、能、時代劇をテーマに、知ってはいても良く知らない日本のことを、インド人やバングラデシュ人に伝えられると思います。

 3)外国人が見て体験した日本とその将来

 日本で過ごした25年間に、私自身が見て体験した、日本に古くからある社会問題や、国際化と日本の将来について考えたことなどを書きました。同和問題、 米国依存の政治、頼りない外交政策や日本に滞在する発展途上国の人々に対する政府および官僚の偏見などを取り上げました。
日本での生活で、多くの日本人の方々に大変お世話なりなりました。その感謝の気持ちを込めて、少しでも恩返しすることができればと思い、インドやバングラデシュが日本を理解し、真の友達となることを心より願って書きました。

 内容

 (1)日本―ベンガル交流の中心は岡倉天心
 岡倉天心は1902年にインドの首都コルカタ(旧カルカッタ)を訪れ、詩人タゴール、宗教家ビベカナンダ、画家オボニンドロナトらと出会い、彼らを刺激 してインドの独立運動に火をつけました。また、岡倉天心がコルカタで『東洋の覚醒』や『東洋の理想』の原稿を書いたことや、天心が1912年に再びインド を訪れたとき、ベンガルの女性詩人ピリアムボダデビと出会い、恋に落ちたエピソードなどを収めました。

 (2)一ノ瀬泰造の目で独立したばかりバングラデシュ
 1973年11月、わずか26歳の若さで、日本人の戦争写真家一之瀬泰造がカンボジアのアンコールワットでゲリラによって殺害されました。一之瀬泰造は その死の1年前に、当時パキスタンから独立したばかりのバングラデシュを訪れ、写真と手紙を残しました。彼が体験したバングラデシュでの記録を紹介しまし た。

 (3)田中正明氏の目で見たシェイク・ムジブル・ラーマン
 パール判事との親交が深い田中正明氏は、1972年、当時の田中角栄総理大臣の依頼によりバングラデシュを訪問し、同国の独立の指導者であり建国の父で もあるシェイク・ムジブル・ラーマンと会見しました。このムジブル・ラーマンはネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの弟子であり、アジアの最後の英雄と言 われましたが、1975年に軍人のクーデターにより家族とともに暗殺され、悲惨な最期を遂げました。田中正明氏から直接語っていただいた、生前のムジブ ル・ラーマンのありし日の姿を書きました。

 (4)日本―ベンガルの関係100年史
 岡倉天心が初めてインドを訪れた1902年から現在までの、日本とベンガル地方の教育・文化交流の歴史をまとめました。

 (5)日本人の祖先はインド人?
 日本人の起源説は様々ですが、その一つの説として、南インドから来たのではないかとの研究があります。ある研究家が南インドの洞窟寺院で、日本人の祖先 のつながりを見つけました。また、国語学で著名な言語学者大野晋氏が過去40年あまり研究した結果、日本語の起源は南インドのタミル語であると発表しまし た。日本人南インド起源説の検証はともかく、非常に面白いテーマであると思い、紹介しました。

 (6)大アジア燃える眼差し:頭山満と玄洋社
 明治思想家、自由民権運動の指導者頭山満と大アジア主義の歴史です。頭山満がインドの志士ラシュ・ビハリ・ボースを支援してくれなかったら、インドの独 立はどうなっていたでしょうか。しかしながら、インドやバングラデシュの歴史ではその貢献や役割がまったく知られていません。インドの独立を支援してくれ た多くの日本人がいたことを、インドやバングラデシュの人々に知ってもらいたいと思います。

 (7)革命家ラス・ビハリ・ボースとインドの独立
 ラス・ビハリ・ボースは、インド独立の歴史を語るとき欠かすことのできない英雄です。日本に亡命してからのビハリ・ボースが日本でどのように生き、インド独立に貢献したかを紹介しました。

 (8)ネタジ・シュバス・チャンドラ・ボースと日本
 チャンドラ・ボースと日本人の関わりは非常に深く、現在でも彼を知る日本人は、彼のことを熱く語ります。杉並区にある蓮光寺では、約50年前にチャンド ラ・ボースの記念会が作られました。蓮光寺には彼の遺骨が納骨されているといわれています。彼についてインド人の現在の評価などをまとめました。

 (9)日本で平和使者ラダビノド・パール判事
 東京裁判後、パール判事は3度日本を訪れました。教育者で平凡社の設立者でもある平和主義者下中弥三朗との親交を深め、広島から始まった世界平和運動に 終生重要な役割を果たしました。日本を心から愛し、日本国から瑞宝章を受賞したことや、京都護国神社や東京の靖国神社に彼の慰霊碑が設置されたことなどを 紹介しました。

 (10)日本とアジア関係の一部
およそ200万年から1万年前、日本列島と大陸は地続きでした。1949年に群馬県で発見された石器や道具と類似するものが東南アジアや南アジアのインド でも見つかりました。現在までに発見された人骨、土器、武器など、人類学的な形跡を調査した結果、日本人の祖先は20万年前頃、アジアの各地からこの土地 に到来したのではないかとの研究があります。言語学的にも、日本語にはトルコ語、ハングル語、中国語、マレー語、タミル語、サンスクリット語、ポリネシア 語などの影響があるといわれています。東南アジアや南アジアと日本との考古学的な関わりを考えました。

 (11)シャプラ二―ルは意外な例え
 日本の非政府団体であるシャプラ二―ルは、バングラデシュ独立時より現地で活動を続けてきました。この団体の功績によって、両国間で文化・経済・社会的 交流が深まり、バングラデシュで「ショミティ(助け合いの組合)」活動を実行し、成功をおさめました。現在は活動範囲をネパール、アフガニスタンにまで広 げています。彼らの熱意や手段がベンガル人にとって勉強になることを期待しています。

 (12)農業は日本人の心である
 お米による伝統的な文化の代表として、世界で良く知られているのがお寿司です。このお寿司は特にベンガル人の間で興味と人気が高まっています。ベンガル 人は生のものを嫌いますが、お寿司は好きな人が多く、よくベンガル人からお寿司のことを聞かれるので、日本とお寿司(米文化)の歴史を取り上げました。

 (13)松尾芭蕉とタクシー運転手尾道利治(アセコトシハル)さん
 日本といえば俳句が有名です。俳句はタゴールによってベンガル文学界に紹介されたため、特にベンガル人は俳句に興味を持っています。あるタクシー運転手が書いた『芭蕉の俳句』(英文)を通して、松尾芭蕉がどのように日本人から愛されているのかを紹介しました。

 (14)アジアに一つの広島、もう一つの長崎
 近年では、日本人自身が広島と長崎のことを、昔ほど思い出さないのが現状でしょう。しかし、日本ではあまり知られていないと思いますが、バングラデシュ やインドでは、毎年若い人々が自主的に8月6日を「広島の日」として、デモや音楽慰霊祭を行っています。本来なら甚大な被害と損害を受けた日本が主導して 平和運動が行われるべきでしょう。戦後、下中弥三郎、湯川秀雄、パール判事などの指導で、世界連邦による世界平和運動が始まりましたが、70年代には衰退 し、残念ながら現在ではあまり活発に平和運動が行われているとはいえません。広島、長崎に対する間違った情報も報道されています。その間違った情報を政府 が訂正することもありません。1952年にパール判事は小学校で子供たちに間違った歴史教えているのを見て大変驚き、非常に胸を痛めたといわれています。

 近年、アジアでは原子爆弾の開発競争が盛んになっています。インド-パキスタン間でも今後戦争が勃発すれば、直ちに原爆が使用されるのではないかと、近 隣諸国に心配の種を植え付けています。第二の広島、長崎の悲劇が起こらないよう、8月6日を「国際平和の日」にして、アジア各国で広島・長崎の原爆の実態 を若い世代に伝えるべきだと思います。

 パール判事は日本が再び武器を取ることになれば、原爆の犠牲となった人々を裏切ことになると語りました。日本では憲法第九条をめぐる論争がありますが、 私個人の意見としては、第九条を改正し、「軍隊」をもつべきだと思います。日本政府は日本国民を守らなければならないからです。現行第九条では、制約が多 く、いざというときに国民を守ることができないと考えるからです。

 (15)面をつける伝統演劇:能
 日本の古い伝統演劇である能は、本来インドの仏教に起源があると言われています。能は日本独特で、とても珍しい歌舞劇であることが世界に知られています。当然ベンガル人も魅力を感じています。おそらくベンガル語で能について紹介したのは、これが初めてだと思います。

 (16)インド映画が好きなある日本人女性
 松岡環(たまき)さんのことを、日本とインドの映画業界で知らない人はいません。松岡さんはインド娯楽映画の大ファンになって、1978年から今日ま で、日本でインド映画を上映するために大奮闘されてきました。現在までに何度もインド映画際を行い、両国で高い評価を受けました。また、インド映画につい ての論文を書き、大学や日本国際基金のセミナーでインドの映画文化を語っています。インド、バングラデシュ、パキスタン、ネパールなど、南インドの文化情 報誌「月間インド通信」の代表者の一人でもある松岡さんは、日本とインドの架け橋であることを紹介しました。

 (17)時代劇は消えていくのか?
 時代劇は日本の伝統的な大衆文化の代表的な芸術ですが、最近の日本の若者にはあまり人気がないようです。この大衆文化を通して、日本の中世の歴史、文 化、思想、そして侍精神が伝えられました。戦前や戦後、時代劇映画はアジア、アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパの映画界に大変な影響を及ぼしました。たと えば、黒澤明の「羅生門」、「七人侍」、「影武者」、「用心棒」または「座頭市」などが時代劇映画の代表的作品です。時代劇は日本人の若者には人気があり ませんが、日本に滞在する外国人にはとても人気があります。時代劇はベンガル地方の伝統的な舞台劇「ジャトラ」によく似ており、非常に魅力を感じました。 時代劇の歴史と黄金時代、そしてその将来を語りました。

 (18)日本の非差別部落民-同和問題
 古くから人間の間には様々な差別があります。現代においても人間の差別は世界中で社会問題を引き起こしています。アメリカ、アフリカの黒人差別、インド のカースト制度、ジェンダー差別などがあり、日本の非差別部落民も知られています。日本の非差別部落民は千年以上古いといわれていますが、インドのカース ト制度との制度上あるいは観念上の類似点があり、インドから日本に入って来たのではないかと疑われます。インドも日本でも穢れた仕事を非差別階級の人に担 わせるという点では同じですが、日本独特のすばらしい大衆文化である歌舞伎が、当時被差別階級とされていた人々から生まれたことは驚きです。江戸時代元禄 文化の頃には差別が緩和されました。さらに大正時代の大正デモクラシー運動によって、社会から全ての差別をなくすための「全国水平社」宣言が出され、差別 撤廃運動が行われてきました。その結果、現代の日本では表面上は差別のない社会に見えます。しかし、私たちバングラデシュのような貧しい国々から働きに来 た労働者たちは、社会生活において様々な差別を受けてきました。差別は社会から生まれるのではなく、一人ひとりの心の中から生まれます。

 (19)ファッション:美の神様 三宅一生
 日本の流行やファッションは欧米には伝えられましたが、南アジアの国々であるインド、バングラデシュ、ネパール、パキスタン、スリランカでは、日本の ファッション情報は皆無と言っても多言ではありません。アジアの国々のファッションデザイナーたちは、アメリカやヨーロッパを目指しています。そのため西 洋の真似をして、西洋人好みの作品に仕上がり、自分たちの独創的なアイディアがありません。ただ一人、三宅一生は自分の独創的な美しさを出しています。彼 の色使い、デザイン、形に、日本の伝統文化や仏教の美しさが驚くほど表現され、布に美しさを作り、西洋と東洋を上手に融合させているところに魅力を感じま した。ベンガル人とインド人は20世紀の天才ファッションデザイナー三宅一生のことを始めて知るようになるでしょう。

 (20)外国人の目から見た日本
 外国人は日本の外見である「機械」になったジャパンしか知りません。なぜなら、本当の日本を知ることができる歴史や実態が海外に正しく伝えられていない からです。国内にある資料はそのほとんどが日本語で書かれているため、外国人が読んで理解するのはかなり難しいと言ってもいいでしょう。しかし、それより も驚いてしまうことは、日本人自身が母国のことにあまり興味をもっていないことです。この25年間、労働者から裁判官など、様々な職業の人々とお付き合い をさせていただきましたが、母国の歴史をよく知らない人が多いのです。日本の学生さんたちは、学校や大学あるいは図書館で何を勉強し、何を読んでいるのか と不思議に思いました。
「今の日本は誰が作りましたか」
「日本は平和主義国ですか」
「戦後日本はどうやって先進国になりましたか」
「外国や外国人に対する日本の政策や役割りはどのようになっていますか」
「現代日本の3人英雄の名前を教えてください」
などと質問をしても、一向に答えが返ってこないのです。一体、日本ってどういう国なんだろう。日本人ってどんな人たちなんだろうと、日本に来てからずっと、そして現在でも疑問に思っています。

 日本人が日本を知らない理由は、戦後の教育に問題があります。結局、アメリカの真似をした結果、日本はどうなったのでしょうか。夢をもたない若者が多く 育ちました。政治家もその彼らを指導する力をもちません。現代の日本国民が将来に不安を抱え、朝から晩までひたすら働き、苦労しているのか、政治家や日本 政府は本当に理解しているでしょうか。先進国でありながら、日本国民の生活は豊かとはいえません。新しいアジアは今どんどん変わっています。しかし、その 情報は全く日本に伝わってきません。それは現地の日本政府機関がうまく機能していないからでしょう。経済援助を政治的なカードとして使う時代は終わりまし た。これからの日本は経済援助だけではアジアで活躍できません。再びアジアの指導者になる力があるにもかかわらず、まだその扉が開けないのはなぜでしょう か。

 ここでは日本の将来について、私自身が非常に心配していることを書きました。真の友達をもたない日本、指導者のいない日本を、若い世代が新しい日本に変 えることができるかどうか。根本的な改革が要求されます。日本の特に若い世代の人々はアジア諸国との交流を深め、彼らの国と彼らを見ることです。日本は第 三の扉を開けなければなりません。第一の扉は明治維新でした。第二の扉は終戦です。アジアとの交流の歴史を若い世代に伝え、日本がアジアの真の友達になる ことによって、日本の新たな発展の道が開けると信じています。 【プロビール・ビカシュ・シャーカー】
2008年05月13日(火)
Nakano Associates 中野 有
 日経新聞で、客員コラムニストの西岡幸一氏が現代の世相を一本のコラムで把握するユニークなコラムを描かれておられた。数字一つで日本経済を把握するスナップショット。

 偶然にも12という数字で日本が概観できる。日本の人口は1億2000万人。それにトンをつけると日本の粗鋼生産量。1200万人は東京の人口。それに 台を付けると日本の自動車の生産台数。120万は、日本の住宅着工数。1バーレル120ドルなら、高騰する原油価格。1.2%とする三月の消費者物価指 数。ちなみにこのところ議論の焦点になっている後期高齢者は、1200万人。

 加えて、世界の携帯電話の生産量は12億台。ゴールドマンサックスが推定するサブプライムローンの損失額は1兆2000億ドル。

 簡単にいうと日本人一人当たり1トンの鉄を生産し、東京の人口ほどの自動車を製造する一方、そのために一人当たり2キロリットルの原油を輸入し、10ト ンのCO2を排出する。これがモノから見た現在の日本経済の大まかな姿だ。

 ここからは筆者の見方だが、偶然にも最近の日経平均の底が12000、NYダウの底が偶然にも12000では十二支が一日の時を刻んでいた。洋の東西を問わず昔から1年は12である。

 ここまで12という数字が重なると、12という数字の不思議を十二分に考察する必要があろう

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  誰が考えたのか。いつのまにか「タスポ」カードの導入が決まった。自動販売機でタバコを買うのに特別のカードがないと買えないことになるのだ。余計なお世 話である。青少年の喫煙防止が理由なのだが、タバコを買うのにどうして顔写真が必要になるのかも分からない。タスポカードの普及が遅れると免許証で代替可 能な自販機も登場した。

 財務省には14年前、酒類販売でも同じことをしようとした前科がある。「未成年飲酒防止を名目に酒の安売り阻止を図ろうとした国税庁」でそのむかし報告した。
 そもそも日本では自販機が多すぎる。最近までニューヨークにいた編集仲間に言わせると、アメリカには自販機というものが少ないのだそうだ。野外に現金が詰め込まれた大きな箱があれば、盗難や破壊の恐れがあるからだという。

 日本はよっぽど治安がいいのだろうが、アメリカでは子どもの分かる相手には絶対にタバコや酒を売ってくれない。何十年も前から販売店側にもそれなりにモ ラルが確立している。日本でもそれなりにモラルができてきて、今ごろ子どもにタバコや酒を売る店は少なくなってきている。

 タスポを発行するのは日本たばこ協会という民間団体である。一民間団体がタバコ喫煙者の個人情報を集められること自体がおかしい。それを許しているのは監督官庁の財務省である。

 このところ役人のどうしようもなさが目立つ。2年前、特定マークのついていない中古家電製品の販売が突然"禁止"されたことがある。あまりのばかばかし さに1年後には「制度」が廃止となった。いわゆる「メタボ検診」は要らぬお世話だし、自転車の三人乗り禁止なんてのは情けないとしかいいようがない。

 筆者は、することがなくなった霞ヶ関の役人がどうせ寝不足で考えたに違いないと考えている。

 タスポの普及が遅れて、すでに制度を先行導入しているいくつかの自治体では自販機の売り上げは減少してコンビニの売り上げが急増しているのだそうだ。 ローソンは「3月に先行運用した鹿児島県、宮崎県では六割ほど増えた」という。自販機の改造費だってけっこうなものだ。タスポ導入を期にタバコ屋を廃業す る動きも出ている。石川県ではこの6年間に25%も廃業したのだという。【石川県で消えゆく「町のたばこ屋さん」 北國新聞】

 筆者自身、タスポをつくろうとな思っていない。余計なお世話だと思っている。家の真ん前にローソンがあるし、通勤途上にキオスクのたぐいがいくらでもある。それでなくとも財布の中は磁気カードだらけである。タバコぐらい対面販売で買おうと思っている。
 ヘボンの伝記を読んで日本語の辞書『和英語林集成』を最初に編さんしたのがヘボンであることを知った。日本にいる外国人のための和英辞典だった。その苦労話はそれでおもしろい。

 初めから話がそれる。当時、日本の印刷機がなかったため、上海で印刷することを決めたヘボンは英語を習いに来ていた岸田吟香を上海につれていった。明治維新の2年前のことである。
 岸田吟香は1866年夏から翌年5月まで9カ月、アメリカ長老派が経営する上海の美華書館に出入りし、中国に ない仮名文字を鋳造、校訂につとめた。岸田吟香なくしてヘボンの『和英語林集成』はならなかったかもしれない。ヘボンとの出会いは自らの眼病だった。箕作 秋坪の紹介で横浜のヘボンを訪ねた。

 辞書は完成して1867年7月、横浜で売り出されたが、岸田吟香はまもなくヘボン直伝の目薬「精錡水」(せいきすい)を製造して販売した。幕末明治、人 々は眼病に悩まされていた。「精錡水」は硫酸亜鉛の水溶液だった。これがよく売れたらしい。新聞に広告をうったり、錦絵を広告につかったりと宣伝手法も斬 新だった。東京日日新聞の新聞記者を勤めるかたわらの商売だった。やがて、新聞社を退社して、銀座に「楽善堂」という薬屋を開店、実業に専念することにな る。

 アジア主義者たちのパトロン

「精錡水」は中国、当時の清国でも売れた。楽善堂には大陸に関心を持つ人々が集まり始め、岸田は荒尾精らアジア主義者たちのパトロンとなった。荒尾は対中国貿易実務者を養成する上海の日清貿易研究所の設立に中心的役割を果たす。

 一方、岸田は1880年2月に榎本武揚や長岡護美、曽根俊虎らと興亜会を組織した。長岡は熊本の細川斉護の6男、後の子爵・貴族院議員である。曽根は米沢藩士の家に生まれ、海軍士官。日清の相互理解を深めるため、明治13年、東京に中国語学校を開設した。

 後に日清貿易研究所は同文会となり、日清戦争終結後の1898年、興亜会と一緒になって東亜同文会に発展する。曲折を得て、1901年、上海に東亜同文 書院(会長近衛篤麿)が設立される。初代院長は根津一である。東亜同文書院は目薬が縁となって生まれたといっていいのかもしれない。

 目薬のセールスマンだった内山完造

 おもしろいのは、上海に書店を経営し魯迅と親交を深めた内山完造が上海に赴く経緯となるのが、京都で牧師をしていた牧野虎次とので出会いだったことであ る。岡山に生まれた内山は京都の薬屋で丁稚奉公をしていたが、キリスト教の洗礼を受け、牧野の推薦で大学目薬本店参天堂の上海駐在セールスマンとなる。漢 口、九江、南昌などで目薬を売りながら中国人との人脈を深めていく。ここでも目薬が登場する。

 アジアに関心を持つ人々が目薬店主をパトロンにし、目薬販売を通じてアジアに目覚める日本人もいたということだ。

 望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』(慎重選書、1987年)にヘボンの目薬の効果絶大だったことが書かれている。

 1861年(文久元年)、眼病をわずらっていた戸部浦の漁師、仁介はヘボンに出合い、「一滴の薬水にてたちまち痛みが止み申し候」ということになった。このうわさが漁民に広がり、「ヘボンの治療で難病全快しもの56名これあり、泣いてヘボンの恩を謝し候」。

 望月は「アトロピンのような拡散剤が効いたのだろう」と推測している。

 アジアに蔓延していた眼病

 さらに「日本盲人史」その他を見ると、この時代、眼病は野放し状態で蔓延し、医学の中で眼科が最も遅れていた。火事のあとには眼病が広まるのを当然とし て、埃っぽい江戸では「塵よけ眼鏡」が売れる。髪結い床ではサービスに瞼の罨法(あんぽう)をするなど衛生観念がないため、流行性結膜炎が絶えない。また 性病対策は皆無なのか梅毒や淋病からの失明も多かった。

 四月、ヘボンは滝ノ川を越したとことに宗興寺という空き寺を借りて診療所とした。ニューヨークではコレラへの対応が評判となった内科医だったが、日本での患者の8割が眼病だった。

 岸田吟香がヘボンを訪ねたのは、1864年(元治元年)4月のこと。公儀の目を逃れて潜伏中、眼病をこじらせた。治療に通ううちにヘボンの信頼を得て、辞書編纂に協力するはめに陥った。

 岸田は学問より、ヘボンの家で得た知識を生かす方に興味があった。調薬を手伝い、眼薬や外用軟膏の調合を習った。同じころ、横浜でハリスの通訳だった ジョセフ・彦と意気投合。「海外新聞」を創刊した。新聞といっても当時、横浜で出ていた英字新聞の要約日本語版でしかなかった。しかも手書きだったから大 した部数が出ていたとは思われない。

 ともかく攘夷論者だった岸田がヘボンと出会い、目薬や新聞といった西洋の文物にのめり込むさまはおもしろい。
2008年05月06日(火)
Nakano Associates 中野 有
  東西の冷戦は、社会主義が破れ、資本主義が勝利した。しかし、時を経て、今や勝利したはずのアメリカが、イラク戦争で国威を低下させ、サブプライムローン を発端に世界の金融市場を混乱に陥らせている。一方、エネルギー資源の恩恵を受けるロシア、世界の工場を演じる中国、ハイテクの潜在を伝播するインドなど の勢力が拡張し、世界の勢力図が大きく変動している。冷戦終焉からわずか20年近くでこのような社会主義の下克上を誰が予測したであろうか。今後、世界の 潮流は、如何なる方向に向かうのであろうか。

 21世紀の理想的な経済・社会システムは、資本主義でも社会主義でもない第三の道、すなわち資本主義と社会主義の優れたシステムが統合された形態だと考 えられる。そこで今から半世紀近く前に、資本主義と社会主義の限界を予測した人物にクローズアップしてみたい。

 資本主義のプリンシプルと社会主義的インターナショナルの思想キューバミサイル危機を導火線とする核戦争への一発即発の時期、ケネディー大統領とキュー バ革命の英雄であるゲバラ工業相の思想と行動を読み解くと興味深い世相が蘇ってくる。

 ケネディーは純粋な資本主義を遂行したというよりは、途上国の経済開発支援を目的に米国の若者を途上国に派遣する平和部隊を創設し、また南北問題の解決 のために国際開発銀行の設立に関わった。ケネディーの政策には共産主義封じ込めという視点があったが、明らかに資本主義の遊び、換言すると資本主義のプリ ンシプルを貫く社会主義的なインターナショナルな思想があった。

 アルゼンチン生まれのゲバラは、医学部の学生として南米を旅し庶民の暮らしに接し資本主義の影と社会主義の光を学ぶのである。まるで、ケネディーの平和 部隊を連想させる。そして、キューバにてカストロと出会い、キューバ革命に貢献し、キューバ国立銀行総裁や工業大臣の経験を経て、次第にソビエトの社会主 義体制に疑問を抱くのである。ソビエトは、キューバを農業中心のソビエトの属国とみなしていた。それに反発するゲバラは、キューバ独自の工業開発の技術を 通じ国力を強化する経済戦略を提唱した。

 運命的な役割を演じた二

 ゲバラがソビエトに疑念を抱いたのは米国の国益につながった。また、ケネディーは、南米の社会主義勢力を抑止するために巨額な経済支援を行った。このケ ネディーの行為は、イデオロギーの点で相違はあっても、ゲバラが提唱する工業開発や技術移転に貢献したのである。

純粋な資本主義や軍事ばかりに重点をおかず、経済協力や国際主義を標榜したケネディーと、ソビエトの社会主義に反発し第三世界の工業発展と国際主義を探求したゲバラの行動は、21世紀の今日に求められる資本主義と社会主義のハイブレッドであると考えられる。

 ワシントンの書店の伝記コーナーの棚を最も賑わしているのがケネディーとゲバラである。ケネディーは当然としても驚くほどにゲバラ人気が起こっている。 ゲバラは、大臣の地位でありながら日曜日は、労働の尊い汗を流した。また、来日した際には、秘密裏に夜行で原爆の悲惨さを視るために広島を訪れている。こ んな感性にあふれるリーダーに今日巡り合うことができるだろうか。

 ケネディーは暗殺の半年ぐらい前からキューバとの融和政策と核実験の禁止を訴えた。ケネディー暗殺の真相に関わるファイルは、30年後に公開される予定 だが、CIAの関与がちらついている。ゲバラはゲリラ活動の最中にボリビアでCIAの関与で殺された。ケネディーとゲバラ、イ表層的なデオロギーは違って も相互補完的に運命的な役割を演じた二人は、21世紀の今日のポスト冷戦の第三の道を予言していたのでないだろうか。

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2008年05月05日(月)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
  10年あまり前から日本の出版界は不況だといわれる。業界全体の売上高は下降気味で、発行部数はへるというのに、売上高維持のために出版点数を増やそうと する。書店の書棚も飽和状態で読者の目にとまることなく返本され、返品率は4割に近い。倒産する出版社や店を閉める本屋さんが出て来ているという。人々の 活字離れ、少子化、余暇の過ごし方の多様化といったことがこの傾向に拍車をかけると説明される。

 私は、出版業界には関心があるほうである。それは、私が本好きであるためだけでなく、以前二〇年間近くドイツの書籍業界で働いたことがあるからだ。ドイ ツでは業界全体の売り上げは昔から横ばいでごくわずか上がったり下がったりするだけで、人々もそれに馴れっこになっている。

 ■解体しそうな本

 1980年代というと日本が出版不況でなかった頃だが、当時私は日本の本を手にするたびに、自分が関係するドイツ書籍業界を恥ずかしく思った。というの は、ドイツの本は値段が高いのに、製本がお粗末で、何度も手にとって線を引いたり書き込みをしたりしているとバラバラになりそうになったからだ。

 反対に、日本の本は装丁もよく製本もしっかりしていて、丹念に作られているだけでなく、風情のある帯がついていたり、栞がはさまっていたり、また栞代わ りに利用できるように本の背中から紐が垂れ下がっていたりしていた。私がもっと驚いたのは、そうだというのに、日本の本の値段がドイツの本よりはるかに安 かったこ
とである。


 はじめのうち、私は日本人のほうが器用だからとか、真面目に物作りにはげむからだとか考えていた。ところが、そのうちに別の点も重要であることに気がつ く。それは、日本の出版物のほうが一点の発行部数が高く設定されていて、そのために製本や装丁にお金をかけることができる。また出版社がそうしないと購買 者のほう
が承知してくれないように思われた。
 

 当時ドイツと日本を比べて目についた次の相違は、前者のほうが後者より出版点数が多かったことである。例えば日本の年間発行点数が三万足らずのときにド イツは五万点といった具合で、いつも大幅に日本を上まわっていた。8千万あまりのドイツの人口も当時西独だけの6500万人で、隣国のドイツ語圏・オース トリア800万とスイスの400万人を加えても、人口比出版点数が日本よりずっと多かったことになる。

 ドイツで出版点数が多いのは、専門書や学術書など部数がでない本もたくさん出版されたからである。日本でもそのような書籍は大きな本屋へ行くと少しは見 つけることができたが、全体として見ると、大多数の出版物は読者に専門的知識がないことが前提とされた一般図書であり、入門書の類であった。

 ドイツの出版点数が多いことは出版社が多いことと無関係でない。よく業界では冗談半分で本屋より出版社の数が多いといわれた。大きい出版社もあったが、 大多数は小さく(東京に集中する日本と異なり)全国津々浦々に分散している。町の印刷屋が出版社を兼ねていることもよくあったし、副業で自分の好きな本を 年間数点出している出版社もあった。
 
 ■柳の下のドジョウ

 日本の製本がしっかりしていたのは、すでに述べたように発行部数を高く設定できたからであるが、それが可能であったのは書籍購買者が多かったからであ る。またそれは日本では多数の人が教育熱心で上昇志向が強く、本当は本なんかあまり読まない人々も書籍を尊敬して買わなければいけないと思ったからで、装 丁や製本がよかったのもこの事情と少し関係があるかもしれない。

 ドイツのほうはそうでなかった。社会が高等教育を受けて読書を重視する階層と反対に本を読むことにどちらかというと反感を抱く庶民・大衆に分裂してい る。多かれ少なかれ、ドイツだけでなく西欧社会に見られこの構造は、日本にないためにその意味が軽視されることが多いが、重要である。

 例えば、欧州の多くの国で新聞は発行部数が50万部に満たない高級紙と数百万部の大衆紙に分かれている。ところが、日本では両方の要素を備えた巨大な日 刊新聞が存在し数百万の発行部数を誇る。これは、日本で所帯をもつ人がナベ・カマをそろえるように新聞を定期購読しなければいけないと思ったからである。 新聞に関する日本と欧州の相違は、教育に関連した社会的階層ギャップがあるかないかの反映である。

 戦後日本では多数の人が大学へ行くようになった。これは国民大多数が教育熱心で自分の子どもに高等教育を受けさせようとしたからである。反対にドイツ は、戦後長い間大学進学率が数パーセントにとどまったままで、1970年代に入ってからはじめて大学を新設し学生数を増やそうとした。でも現在でも日本の ような高い大学進学率にほど遠い。その理由は高等教育を受けていない親が娘や息子の大学進学に積極的でないからである。

 ここで書籍にもどると、日本で発行部数を相対的に高く設定できたのは教育熱心な大衆を含む巨大な読者層に恵まれていたからである。専門家にも理解しにく い哲学書や、翻訳で読みづらい世界文学の名作が「全集」としてセット売りされて全巻購入されたのも、ドイツなら町の図書館にしか見られないような百科事典 が一般家庭に置いてあるのも知識的階層ギャップのない構造のお蔭である。
 
 ドイツは日本と反対で、本が高等教育を受けた階層から大衆に浸透していくことは簡単なことでなかった。今も昔も本屋さんは文化的使命感が強く庶民から 煙ったがられる。以前よく、デパートの書籍売り場が一平方メートルあたりの売上高が一番といわれた。その理由は、庶民が食料品の買い物をしてから敷居の高 さを感じることなく書籍売り場へ移れたからである。

 部数の出ない専門書を多数出版するドイツから見て、日本の出版社は、大衆を含む巨大な読者層に支えられて、不特定多数のための一般書・入門書ばかりを出 し、潜在的なベストセラーねらいであった。柳の下にドジョウ三匹といわれるが、日本には千匹ぐらいはいて、探せば次から次へと出て来る幸せな業界であるよ うに思われた。

 このように以前うらやむことが多かったせいか、日本の「出版不況」と聞いても、私は素直に受け取ることができないで、どちらかというと、柳の下にドジョウが三匹しかいないと嘆いている人々を連想してしまう。

 ■発行点数の増大

 出版点数であるが、2006年新刊点数は日本で8万618点であった。この数は10年前の1996年と比べて2万点も増えたそうである。一昨年のドイツの新刊点数は8万1千177であるので、日本の発行点数はドイツに近づきつつあることになる。

 売り切れて絶版になっていた本がまた売れると期待されて再度刷られることがある。ドイツで2006年に1万3千539点がこうして再版された。日本での 再版点数がわからないが、返本された本がすぐに断裁処分されるようにいわれている以上、再版される点数は少ないかもしれない。再版本も市場に参入してきて 読者の関心をひこうとするので新刊書と似ている。

 ということは、識字率は同じで人口はずっと少ないドイツで日本よりはるかに多い9万5千点に近い数の本が新たに(再度)市場に押し寄せてくることにな り、ドイツも「出版不況」を嘆いていいことになる。また日本では売上高維持のために発行点数を増やしたり、「自転車操業」で本を出したりすると説明され る。ドイツの出版社から見れば、点数を増やして売上高を維持できたり、また「自転車操業」でも操業できたりするのなら、そんな悪い状況でないように思われ る。


 同じ売り上げを少ない点数で達成できれば商売としておいしい。それが不可能になったといっているだけなら、やはり柳の下のドジョウが三匹になったことを 嘆いているだけになる。日本にもいろいろなタイプの出版社があると思われるが、「出版不況」という表現じたいがはじめからベストセラー志向の強い出版社に その照準がむけられているような気がしてしかたがない。

 また「出版不況」の現象として返品率が40%近くまで上昇したことが嘆かれる。5%とか6%とか(10%とか)がドイツの返品率であると聞いて日本の出 版界は羨ましくなるかもしれない。でもドイツは(日本のように委託販売制でなく)買取り制で返本がないのが普通であり、またあってもその意味が日本と異な るために、数字だけを比較できない。

 ドイツの小売は買取りリスクを負っているためにその取り分は22%ほどの日本より大きく、専門・学術書で25-30%、一般書籍を卸から入れると35% で、同じ出版社から直接に入れるときには取引量によって40%以上、ときには50%に接近する。ということは、ドイツの出版社には(日本のように70%と か80%でなく、)事情次第で50%の取り分で我慢する覚悟があることになる。

 そんな彼らから見たら、返品率40%を嘆く日本の同業者が理解できないかもしれない。というのは、ドイツには見本市など本を展示する機会があるが、その ためにかなり出費しなければいけない。ところが、日本では無料で取次会社が本を親切にも全国の書店へ運んで展示してくれるからである。数ヶ月して戻って来 たときには6割以上もはけていると聞いて彼らはただ羨ましくなるだけでないのだろうか。

 ■書籍「流通」の意味

 ドイツの出版関係者のなかには、日本の「出版不況」についての話を聞いているうちに、日本の出版業者が何かの誤解で本とよんでいるだけで、本当は雑誌の ことを話していると思う人が出てくるかもしれない。というのは、ドイツでも新聞や雑誌となると日本の取次に似た会社があって販売所へ運んでくれるだけでな く、売れ残りを取りにいき、廃棄処分まで引き受けてくれるからだ。

 シュピーゲルはドイツを代表する週刊誌であるが、先週のシュピーゲルと今週のシュピーゲルがキオスクで仲良く並んでいる光景に出合わない。雑誌は新しい 号が展示されると、前号は店頭から消えて流通しなくなるので、新聞や雑誌などの商品グループが流通していることは、店頭で展示されていることと同義であ る。ということは、日本で出版点数が増え過ぎて、書棚に置けず、その結果本が売れないで返本が増えて流通が機能しないとする説明そのものが、新聞・雑誌の 「流通」概念を「本の世界」に適用していることにならないか。

 すでに述べたように、ドイツの出版業者は日本で取次が無料で本を全国の書店で展示してくれて戻ってきたときに6割以上は売れていると聞いて眼を輝かせ る。おそらく彼らは、自分たちは6割も売れなくていいとか、4割でいいとか、3割でも満足すると口々にいいだすかもしれない。

 ドイツの出版業者が日本のシステムに感動するのはここまでで、その後店頭に陳列されなくなって本の寿命が終わったとされて、返品分も在庫分も廃棄処分さ れると聞いたら憤慨する。彼らがそう反応するのは、新聞や雑誌の「流通」概念を書籍に適用しないで、本は店頭に置いてあろうがなかろうが、絶版になるまで 流通すると思っているからである。

 ドイツで本が流通しているとは、出版業者に注文したらその本が納入されることである。今ではCDになったが、昔は数巻に及ぶ緑色の装丁の「納入可能図書 目録」があった。現在この目録に約120万点が記載されていて、これらが納入可能で流通している本である。ということは、この目録は、「私はこの本はかな らず納入します」という出版業者の約束を集めたもので、この約束に対する信用によって書籍は流通しているのであって、本が本屋の店頭に置いてあることは二 次的問題である。こう考えることが、(雑誌でなく)書籍を扱う業界の「流通」概念である。

 出版社が納入約束を守りたくなくなったら、出版後18ヶ月たてばいつでも取り消すことができる。その結果本は絶版になり、上記の目録からはずされて流通 しなくなる。同時にこの措置によって再販売価格維持の拘束がとかれて、別の(安い)価格で販売してもいいことになる。これは買取った本を定価で売ろうとし ていた小売りにとって不利になるので、出版社は返本する権利を認めなければいけない。この結果売れ残っていた本が出版社に戻って来る。これも返本の意味が 日本と異なる例の一つである。

 ■本の雑誌化現象

 日本では新聞・雑誌業界の「流通」概念を書籍業界に適用するのは、本が雑誌のように流通すると見なすことである。このように本が雑誌と同じように扱われる現象を本の雑誌化とよぶとすれば、これに関連して気になることがいくつかある。

 ドイツの本屋では雑誌が置かれていないのに対して、日本では雑誌が売られている。雑誌が置いてある本屋はドイツで普通は駅の構内に限定されている。そう であるのは、ドイツの書籍業者から見て新聞や雑誌は別の業界で垣根があるからで、本屋が本だけでやっていけない場合にも、雑誌でなく別の商品グループ(例 えば文法具)を置くことが多い。反対に日本では雑誌に対して別の業界に属するという垣根意識はあまりないのではないのか。この事情も本の雑誌化と無関係で ない。

 ドイツの小売にあるこの垣根意識は生産レベルでも見られる。というのは、書籍をだしている出版社は普通雑誌に手をださないし、雑誌社は本を出版しないか らである。反対に日本で大手出版社は雑誌社や新聞社で、書籍の出版も兼業している。雑誌のほうが本より資本の回転をはやめるので、同一経営体の中で雑誌づ くりの論理が本づくりの論理を圧倒するのではないのか。また小さな本屋にとって定期的に売れる雑誌は頼もしい存在である。このような要因が本の雑誌化現象 を進行させたと思われる。

 ここまで、日本の書籍業界と保守的であまり変化しないドイツを比べた。本と雑誌を隔てる垣根がドイツほど高くなかったかもしれない。でも日本にも「本の 世界」と「雑誌の世界」が、今のドイツとそれほど変わらない時代があって、本づくりと雑誌づくりが別々のことと見なされていたのではなかったのか。そのこ とが意識されないのは、急激な経済成長、空前の週刊誌ブーム、生活の隅々に及ぶテレビの影響などによって知らない間に人々の頭の中で本の雑誌化現象が進行 したからである。

 私はドイツで一世紀以上も昔に刷った本を今でも絶版にしないで在庫として抱えている出版社を知っている(注)。これは極端な例であるが、でも日本ではど うして本が雑誌と同じように流通すると考えるのだろうか。奇妙な期待をもち、その期待通りにならないといって「不況」だというのは、自分の頭の中で進行し た本の雑誌化に気づかないからである。

 今でも「本」という単語は残っているかもしれない。でも頭の中のほうで本がとっく死んでいて、本をつくっているつもりでも、知らない間に雑誌に近いもの をつくっていることだってあるのではないのか。本づくりに関連してよく強調される話題性もこの現象と無関係でないかもしれない。

 注) http://www.geocities.jp/tanminoguchi/heidelberg.htm
   美濃口さんにメール Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
 鎌倉幕府が生んだ「職(しき)」=権利という概念

 鎌倉時代に日本で生まれ、室町時代にはあらかた消えてしまった概念に「職(しき)」という言葉がある。日本で「権利」に該当する用語はこの「職」以外になかった。
 戦後、大学で法律を学んで一番考えあぐねたのは、民法の分かりにくさだった。何でこんなに分かりにくい表現になっているのか考え、たどりついた結論は、第一章第一節「私権の享有」に始まって全編が「権利」でつづられているからだということであった。

 例えば、「親の務め」といえば分かりやすいのに、「子供の権利」から解き起こすから理解するのに骨が折れる。いくら説明してもしっくりこないのは用語や言い回しが難解すぎ、日本語になじんでいないからだ。

 「債権」や「賃借権」くらいの理解がやっとの平均的日本人に「主権」などという概念を持ち込むのはかなり残酷な話である。頭で分かったつもりでも納得し たとはいえないだろう。日本人は都合のいいときには「民主主義」を振り回すが、潜在意識では直感で「どうせ建前論さ」と高をくくっている様子が見え隠れし ている。本音では「お上」は現存しているのだ。

 わがままな王様が臣下のすることがいちいち気に入らなくてわめき散らすように、国民という名の王様は、政治家という政治家をこきおろす。そうかと思うと 一方で、業界のメンタリティーは「泣く子と地頭には勝てぬ」と黙りを決め込む。法的根拠もない主務官庁の「行政指導」には唯々諾々と従っている。この実態 のどこに民主主義があるというのだろうか。(了=伴 正一『魁け討論 春夏秋冬』1998年09月01日付コラムから転載)
2008年05月02日(金)
Nakano Associates 中野 有
  昨今の情報社会の変革の速度は、ドッグイヤに例えられ、7倍の速度で進展している。昔の7年が1年に短縮され世の中が動いている。人間の平均寿命が劇的に 伸びているので、現在の90歳の老人が昔の60歳代前半の老人に等しい。恐らく年齢に0・7を掛けたらいい位に、年をとる速度は落ちているようだ。

 情報化時代の速度(7倍)と人間の完成の速度(7割)のギャップは拡大している。100年前に人間の平均寿命がこれ程、急激に変化すると予測した人はいないだろうし、また情報の速度に人間の予測がついていけない現象が生まれているように考えられる。


 予測は往々にして外れるものである。しかし、昨今の予測は見事にはずれることが多い。例えば、大統領選挙の年は、米国経済は安定するとか、北京オリン ピックまでは、世界の経済は拡大するとの考えが主流であった。しかし、見事にこの予測が外れ、米国発のサブプライムローン問題が予想以上に世界経済に悪影 響を与えている。

 一方、ワシントンに5年住み、実体経済から感じ取ったことは、日本円の過小評価、日本のバブル経済並みの不動産の過大評価、そして貯蓄に興味がなく投資ばかりしている米国民の姿であった。

 こんな話も聞いた。昨夏サブプライム・ローン問題が深刻化する前に、米国の投資機関のエコノミストが、米国南部でゴルフをしている時に、キャディーか ら、ローンで買った住宅をいつ売ればいいかとの質問を受けた。エコノミストがキャディーに経済事情を説明している内に、このキャディーが、いくつかの州で 5つの住宅物件を、一度も見ることなく購入したことを聞き、エコノミストは、遅かれ早かれ世界の金融市場の混乱が発生すると読んだという。

 このように実体経済を通じ、経済の負の部分を感じ取ることができるが、国家ファンド等の金融資本主義の動向やグローバル化、新興市場の勃興の世界市場の正の部分を分析すると、ついつい希望的観測が悲観論を退けてしまうものである。

 経済は心理的な生き物であるとすると、大衆が景気楽観論を唱え異常な投機を行った時には、既に景気のピークが終わっており、その急落は、家計貯蓄率ゼロに近い米国では、すざまじい速度で進む。

 経済の変動が予測を超える速度で進んでいる状況においては、景気を上下変動で見ると、必ず底をついた景気は、V字型に急激に戻ると考えられる。予測で重 要なのは、変動が起こる時のタイミングをどのように読むかである。その読み方とは、主流となっている予測の逆を予測したほうが当たる確率が高いように思 う。ドッグイヤーと言われる7倍の速度でグローバル情報化社会が変化している時代においては、異端児的な見方も時には必要であろう。
(竹村健一氏の月刊誌「世相」5月号に掲載)

 http://mews.halfmoon.jp/nakano/
 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
 5月1日からの首都圏のスタンドの80%がガソリン価格1リットル当たり約30円引き上げ、160円前後にしたのだそうだ。全国石油商業組合連合会の調査である。

 やっぱり。
 この1カ月間、スタンドは"被害者役"に徹した。4月30日まではそう装った。夜が明けるとほくそ笑んだ。多分そうだろうと考えている。値下げが徹底されるのに1週間近くかかったのに、値上げは翌日からだから笑いが止まらないはずだ。

 一つの持論がある。経営者はもうかっているときはだんまりを決め込み、損しそうになると大げさに"悲鳴"を上げる。マスコミはそれをあおる。そんなパターンを何度も見てきた。景気後退局面や円高ではいつもそうだった。

 ガソリン税騒動もそうだった。4月1日からの値下げの時、スタンド業者たちは「高い税率のガソリンでの値下げせざるを得ない。何千万円の損だ」と騒いだ。政府は緊急融資策まで打ち出した。

 ガソリン税騒動はなんだったのか。

 おかげで福田首相の内閣支持率は20%(朝日、読売)まで下がった。共同通信の調査では19%である。福田さんはここまで低下するとは考えなかっただろ う。それでも政府・与党は13日にガソリン税などを08年度から10年間、道路整備に充てるとした道路整備財源特例法改正案を衆院で再議決させる方針を決 めた。

 もう一度「衆院での再議決」を決行すれば、福田さんの政治生命は終わりだろう。連休の中国の胡錦濤総書記の訪日が花道となるのか。

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 あえて民主主義といわなかった大正デモクラシー

 問題は日本の戦後デモクラシーに、この致命的な症状があることだ。大正デモクラシーという言葉がある。皇室を憚ってか、大正民主主義と言わなかった。今になってみると、「デモクラシー」をそのままずっと戦後も使っていた方が賢明ではなかったかという気がしてくる。
 当時の日本では微妙なところだったと思うが、デモクラシーというのは、天皇に代わって国家権力を行使するのは"有権者何千万人"ではなく、何千万人が選ぶ民選首長であることという一点だけを明確にしておけば、思い違いの起こりようがなかった。

 どうしても訳語が欲しければ、「民本主義」で鳴らした吉野作造に断って、この「民本主義」をデモクラシーの訳語にもらい受けておけばよかった。こういう 思想上のお膳立てができていたら、占領軍がやってきてデモクラシーが鼓吹されたとき、日本人は国の営みの公理を見失わないで、政治の現実とかみ合った思想 内容でデモクラシーを理解しただろう。

 この所論には、それこそデモクラシーを誤り伝えるものだという反論もあろう。その通りかもしれない。デモクラシーの原義を私が、勝手に仕立て直そうとしているのだと言われれば、それを認めてもいい。だが、その場合でも私はこう考える。

 デモクラシー思想を西洋人が組み上げた論理構成そのままに取り入れるのもよかろうが、日本人の頭に入りやすいように仕立て直し、大体のところは同じで も、厳密な思想としては別物に仕上がった日本生まれのデモクラシーにして制度化するという手もある。そこは、日本人の好みで決めればいいことだ。国を経営 していく上で、根幹的な制度を作るに当たって、直輸入だけを正当とする理由はない。

 日本の祖先は、あれだけ儒教を尊崇しながら「易姓革命」の部分を採らなかった。それでどこが悪かったのだろうか。「放伐」を正しいものとする理論構成が 日本では不必要だったし、天命という思想上のキー・ワードも、個人の奮起用に格下げされてしまった。そういうことでいいのではないだろうか

 簡潔な表現では満足のいかないヨーロッパ人と、抽象概念を何階建てにも積み上げられると頭がおかしくなる日本人とが、大体はデモクラシーを共有できそう なときに、論理構成の隅々まで同じようにそろえなくてはならない理由がどこにあるだろうか。それぞれがすんなり分かる論旨を用いて、なくて済ませるような 混乱を起こさせないようにする方がはるかに賢明ではないか。

 いくら国民に、公民としての自覚が育ってきても、国の運営に心を向ける時間の余裕は限られるから、少しでも事柄を分かりやすくしておく配慮が必要なのだ。多々益々弁ず、百家争鳴もよしとするのは、ずっと先ならともかく、今の段階の日本では頂けない。

 政治思想の分野で日本は欧米に半分も追いついていないかもしれない。だが、それは頭の善し悪しではなく、ものを考えていく段取りの違いが日本人の理解を手間取らせているのだと思う。(続く=伴 正一『魁け討論 春夏秋冬』1998年09月01日付コラムから転載)
 5月1日から全国のガソリンスタンドは一カ月以上前と同じ風景に戻ってしまった。そして日本は土木国家から脱却する格好のチャンスを失ってしまった。

 世界的に日本のガソリンの税負担が低いという指摘がある。勘違いをしてはいけない。ヨーロッパ各国のガソリンの税負担はもともと日本より小さかったが、 環境問題が浮上した90年代以降負担を増やしてきた歴史がある。風力や太陽光発電の買い取り原資などに使われており、その負担は環境問題を改善させる目的 で国民の合意を得ているものなのである。半面、日本では今も昔も道路という土木の中核事業につぎ込んできた歴史がある。50年前の国民合意の下に。

 日本は先進国の中でも飛びぬけた貯蓄王国である。1400兆円とされる国民の貯蓄はGDPの3倍近くもある。 一方で世界最大の借金王国でもある。国・地方併せて1000兆円を超える借金がある。これができたのはひとえに国民の貯蓄があったおかげである。これだけ のお金を外国から借りていたらハイパーインフレでとうの昔に財政は破綻していたはずである。

 何が言いたいのか。政府、自民党は国民の蓄財をいいことに予算を土木につぎ込んできた。そしてこらからもつぎ込むぞという決意表明が4月30日の再議決なのである。

 日本の地方経済が公共事業依存体質になって久しい。田中康夫氏が知事として単身、長野県に乗り込んで改革を試みたが、志半ばで敗退した。土建屋を敵にし たまでは威勢がよかった。県庁職員に厳しさを求めたとたんに裸の王様になってしまい、メディアの理解も失った。土木の本丸に本格的改革の手を差し入れて落 選してしまったといっても過言ではない。

 ガソリン税の問題はいくつもある。特定財源、税率、暫定措置、特別会計・・・。だが分かりやすいのは地方は道路がほしいのではなく、道路予算がほしい、お金を落としてほしいのである。

 自民党の道路族としては道路予算を確保しさえすれば、理屈はどうでもいい。特定財源制度がなくなっても「10年で59兆円」が約束されれば、一般財源か らもぎとれると考えているに違いない。小泉政権時代は特定財源さえも大きなハードルだった。このハードルを越えたからといって問題が解決するわけではない のだ。

 予算を大幅に削らなければならないが、予算の手をつけたとたん役人の総すかんに出会う。役人が寝てしまえば行政は止まってしまう。特に地方では役人=有権者でもある。役人が一族郎党を巻き込めば落選する可能性だってある。

 民主党が再議決に腰が引けていたのは、たぶん、民主党もまた同じDNAを党内に持っている証しなのである。小沢代表も地元に帰れば土建屋を基盤とした選挙をしている。

 土木国家から脱却のチャンスは長年の課題であることは誰もが知っている。が実際に各論に入ったとたんに四面楚歌となる。

 少々、絶望的でもある。

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