2008年2月アーカイブ

 紀伊田辺の友人のブログがおもしろい。以前に1回紹介した「ほんまかい通信」。

 一昨日、「七福神の没落」とタイトルして4月から始まった「メタボ検診」をおちょくっている。「よけいなお世話」とコメントしたら、返事があり、二度ほどの応答となった。その応答がおもしろかったのでコピー&ペーストしたい。


紫竹庵人 :

そうなんだ。
これは「よけいなお世話」ということ。
余計なお世話だけならまだいいが、
検診にはお金がかかる。
目的は医療費削減だが、
確実に医療費(検診費を含めると)増大の原因になるはずだ。

最近、多いのよね、この余計なお世話。
たばこカードもそうだし、
自転車の3人乗り禁止もそうだ。
2008年4月22日 10:41

エビノキユウイチ :

「よけいなお世話」多いなあ。
買い物をするたび、「ポイントカードをお持ちですか?」と訊かれる。
持ってません、と答えると「お作りしますか?」
いらないから持ってないっちゅーの。
本屋さんで本を買うたび、頼みもしないブックカバーをかけてくれる。
文庫本にまでかけてくれる。
ブックカバーのかかった本を本棚に並べて、
自分の読みたい本をどうやって見つけるのだろう?
他の人は邪魔にならないのだろうか?
『どん兵衛天そば』を食べようとして、
ふたを開けてびっくりしました。
麺の中央にくぼみがあって、
名前が「たまごポケット」
このくぼみに「生卵をそっとのせ、スープを入れ、
熱湯を白身に回しかけながら内側の線まで注ぐ」のだそうだ。
ほとんど感動しました。
「よけいなお世話」と「至れり尽くせり」は紙一重かも知れません。
税金でこれをやろうとするから、
財政が破綻するのでしょうね、きっと。
2008年4月22日 17:40

紫竹庵人 :

はい。
たまごポケットは知りませんでした。
まさにこれです。
日本製品は緻密で使う人への配慮はすごいのですが、
みんな本質的な性能・機能ではないのです。
そんなところにばかり、開発の力が注がれているのです。

ビールなんて、毎年なんであんな数の新製品を作り出すのか。
新製品はコンビニに置いてくれるけど、
売れなくなったらおしまい。
そんなことの繰り返しはあほです。
エネルギーとお金の無駄です。
バドワイザーを見なさい。
何も変わらずずっと同じです。
2008年4月22日 20:36

エビノキユウイチ :

たしかにビールの種類は多すぎます。
消費者の選択能力を超えている。
本来ビールの売り上げを伸ばすはずだった努力が、
逆にビールの陳腐化に貢献し、
消費者のビールに対するロイヤリティを低下させたりする。バカです。

たばこカードの問題もそう。
未成年者に煙草を吸わせたくないのなら、
未成年者が煙草を吸う滑稽さをコンテンツにして見せてあげることが一番有効です。
かれらはかっこいいと信じて煙草を口にするのですから。
健康被害をいくら教えても無駄。
磁気カードの読取装置に数百億円も使うなど論外です。

自転車の三人乗り禁止も情けない。
なぜ安全な三人乗り自転車を開発しようとしないのだろう?

最近一番気になるのは、原子力発電の再評価です。
まるでCO2削減の切り札みたいに扱われたりする。
これ議論のすり替えですよね。
発電所を増やす前にやるべきことがいくらでもあるだろーがと言いたい。
日本人は頭が悪くなったのでしょうか?
2008年4月23日 02:46
 日常だれもが口にしている「知事」。自治体の長であるが、なんで「知る事」が長なんだろうとずっと考えてきた。

 日本で「知事」が官職名となったのは、廃藩置県以降だろうと多くが信じているだろう。実は明治維新の日本がまだ慶応の年号を使っていた時期に遡る。

 大政奉還の後、戊辰の役の最中、西郷隆盛率いる倒幕軍が江戸城の無血開城に成功した。徳川慶喜は駿府に引きこもることとなり、780万石あった徳川領の うち駿府の70万石を残して、"新政府"側に引き渡された。カッコ付で新政府といったのは、1868年4月1日時点でまだ行政体としての政府をもたなかっ た。

 閏4月21日に出された政体書で初めて、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。同時に召し上げた徳川領に「府県 制」を敷いた。奉行が支配していた地域「府」に、その他を「県」とし、その長として「知府事」「知県事」を置き、支配することにした。ほとんどの大名の統 治はそのまま生き残り、知事は旧徳川領に限定された。

 江戸が東京となったのは同年9月のことであるから、江戸は江戸府と呼ばれ、その長は江戸府知事と呼ばれた。長に地名を付ける時、「江戸府知府事」というのも変だったから、「江戸府知事」となったとされる。

「江戸府」とか「江戸府知事」は4月から9月までの短命だった。9月には「東京府」「東京府知事」に変更された。

 知事の第二弾は1869年(明治2年)の「版籍奉還」だった。藩主が「知藩事」となった。ちなみに「藩」という概念は江戸時代にはなかったとされる。新政府が旧幕府領と区別するため、「藩」と呼んだのが真相のようだ。

 版籍奉還はさらに1871年(明治4年)7月に「廃藩置県」へと発展し、「府」「県」「藩」は「府県」に統一され、知藩事は「知県事」「知事」と呼び改められた。全国は1使(開拓使)3府(東京府、京都府、大阪府)302県となった。

 300余藩が府と県に再編されたが、あまりにも数が多いのと、境界が入り組んでいる上、飛び地が数多くあったため、同年11月には府県の統合が行われ、県の長は「県令」に改められた。地方の行政区は1使3府72県まで減らされた。

 ちなみに県令は1886年(明治19年)に「知事」に戻され、現在に至る。それから東京が「府」から「都」になったのは昭和18年のこと。東京府と東京市が合体したものである。
2007年01月19日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄
 トクヴィルの『アメリカの民主主義』(岩波新書)を読んだ。上・下2巻は読み応えがあった。トクヴィルは「人民による統治」がどうなるのか、興味を持ちながらアメリカを旅してこの著作をものにした。

 トクヴィルがこの名著を書いてからすでに150年以上が経つ。トクヴィルはこの著作の中でアメリカの民主主義を絶賛するのだが、基本的に民主主義に対し て懐疑的な考えが随所にみられる。「人民に名を借りた専制ほどひどいものはない」ことを150年前に看破していた。

 フランス革命はまさにそのようにして始まったし、ロシア革命だって毛沢東による革命にしても民主主義とは程遠い独裁制である。社会主義や共産主義は「人民の人民による人民のための政治」だったはずである。

 戦後の日本はまだましな方かもしれないが、予算を私物化する政治家はいつまでたってもなくならない。政治を私物化する政治家が有権者によって選ばれることをわれわれは繰り返し経験してきた。

 なぜそういうことが起きるのか。人々は本当に「人民の人民による人民のための政治」など求めているのだろうか。多くは政治から一線を画することを「潔 い」とするし、そもそも政治と関わり合うことは面倒くさいのだ。日本の政治を見ていると、そんな疑念さえ起きてくる。

 政治用語の「人民」はもともと英語のPeopleから来ている。しかし、われわれの語感でPeopleと人民はかなり違う意味合いを持つ。人民といった場合、われわれは社会主義の観念を想起するからだ。

 われわれは中国人民とはいうが、アメリカ人民とは言わない。このニュアンスは日本人にとって決定的に違う。ところが、英語でPeople of China and people of the United States といえばまったく違和感はない。Japanese peopleだって同じだ。どうしてかというと、この場合のpeopleは「人々」といった意味合いで理解されているからだ。

 日本の保守系の人たちはあえて人民という言葉と使いたがらない。小生も嫌いな表現の一つである。そこで日本ではpeopleの訳語に「国民」という言葉を使うことが往々にしてある。

 日本国憲法には「国民」が多用されている。憲法には国民のほかに「何人」という表現も使っている。たぶん国民ではないが日本に居住しているpeople を含めた表現なのだと思っている。アメリカが示した英文の憲法草案ではすべてpeopleであるはずなのだ。国民以前の民をどう表現すればいいか。日本語 にはしっくりいく表現がないのかもしれない。当たり前だが、大日本国憲法には「国民」という表現は一切なく、すべて「臣民」と表現された。

 それでは単に民と表現したらどうか。しかし「民」もまた、だれかに導かれているという語感がある。主体的に政治に関与する人々ではない。

 それでは直訳的に「人々」と表現したらよかろうと思うが、政治用語としては軽すぎるのかもしれない。

 リンカーンの有名なゲティスバーグ演説の「government of the people, by the people, for the people」は日本語では「人民の人民による人民のための政治」となってしまった。慣用句としてわれわれは慣れ親しんでいるが何か違うのである。

 Peopleの概念はわが日本にはないのかもしれない。(続く)
 7日の四国新聞サイトに「レッドソックス、堂上捕手(香川OG)獲得へ」という記事が掲載されていた。これまでの47NEWSなら到底見つからない記事だったが、先月から「四国・九州アイランドリーグ」というページをつくったため、目立って表示されるようになった。

 四国新聞が紹介する浦上捕手のプロフィールは以下の通り。

 堂上は横浜商科大時代、日米大学野球選手権に出場した逸材。社会人の日産自動車を経て2006年5月に香川OG入りし、遠投130メートルの強肩、パワフルな打撃ですぐにチームの中核を担った。

 攻守の要としてチームの3期連続優勝、総合2連覇、独立リーグ日本一に貢献。個人タイトルでも06年に首位打者、本塁打王の2冠を獲得してリーグMVPに輝き、07年は後期のMVPに選出された。


 それにしても、大リーグの情報収集はすごい。地元でさえ、まともに応援していない超マイナーなプロ野球チームにまで目を光らせているのだから。

 実現すれば、日本のプロ野球を通り越してアイランドリーグからの大リーグ入りは大きな話題となるはずだ。アイランドリーグについてはアフリカのジンバブ エからのシェパード選手がホームランを打った記事を紹介したことがある。アイランドリーグの話題が47NEWSを通じて全国に広がることを期待している。

6259_photo.gif ちなみに北信越のリーグとしてスタートした「BCリーグ」(ビッグ・チャレンジという意味)に新規加盟した群馬ダイヤモンドペガサスのキャラクター名募集の記事が上毛新聞サイトに7日掲載された。

 (紫竹庵人)

 ジンバブエからやって来た野球選手 【デスク日記】
2008年02月08日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 何げなく、シュバイツァーをWikipediaで調べていたら、「好物は風月堂ゴーフルであり、(ガボンの)ランバレネを訪れる日本人はゴーフルを持参するのが通例だった」という記述に出合った。

 神戸風月堂のサイトに行くと次のようなことが書いてある。
昭和36年、アフリカのシュバイツアー博士から、何と署名入りの礼状が神戸に届きました。 この年、神戸・頌栄短期大学で、シュバイツアー博士の片腕として、深い信頼を受けておられた高橋功先生の講演会が、催されました。 その折、ゴーフルをお礼の印にお贈りしたのです。 ゴーフルを召しあがられたシュバイツアー博士は、礼状の中で「長い旅をしてきたのに、今できあがったように新鮮です。」という言葉を記されていたのが、印象的でした。
 なんと洋菓子ゴーフルは昭和2年から発売していて、缶のデザインも現在とほとんど変わっていないことに驚かされた。今年は風月堂が生まれて110年、ゴーフルが生まれて80年になるのだとういうからめでたい。

 神戸で洋菓子店といえば、モロゾフを思い出す。モロゾフが神戸の洋菓子業界を育てたのだとかってに思っていたが、風月堂の方がずいぶんと古いことを初めて知った。

 モロゾフ社の母体はロシア革命後の社会主義化を嫌って亡命してきたモロゾフ家。1926年、友人とモロゾフ洋菓子店としてスタートした。その後、モロゾ フ家はけんか別れをして、経営から別れた。モロゾフ家なきあと、洋菓子店は発展し、現在の「モロゾフ」に到る。

 モロゾフ家といえば、その後紆余曲折を経て戦後「コスモポリタン製菓」を設立するが、2006年に廃業した。


 モロゾフは昭和11年に日本初のバレンタイン広告を英字紙「アドバタイザー」に掲載したという。日本でのバレンタイン祭の先駆けだったのである。
 きょう、岩手日報に一関発スーパーカーの話題が掲載された。モディという開発企業が開発した。なぜか地方の小さな企業が意欲を示している。

 一関発スーパーカー 国際ショーに出品 【岩手日報】
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 一関市字沢の設計・製作工房「モディー」(村上竜也社長)と山形県出身でイタリア・トリノ在住の工業デザイナー奥山清行さん(48)は、欧州のスーパー カーをモデルにしたスポーツカーを製作し、3月にスイスで開催されるジュネーブ国際モーターショーに出品する。村上社長(43)らは「東北のものづくりの 力を世界に発信したい」と準備に追われている。

 新車は英国の名車「ロータス・スーパーセブン」がモデル。搭載エンジンは2000CC、230-250馬力で、ボディーは炭素繊維とアルミ素材で750キロと軽量化した。2人乗りオープンカーのスパイダー型とクーペ型がある。

 モディ 


 先月は富山市の光岡自動車がスーパーカー「大蛇」を発売して話題になった。輸出用に左ハンドルも生産するという。

 1000万円切る「大蛇」 光岡自動車の廉価版スーパーカー 【北日本新聞】

img47a107e9502a8.jpg   光岡自動車(富山市)は1月30日、限定20台のスーパーカー「大蛇・零(オロチ・ゼロ)」を発表し、受注を始めた。従来の「大蛇(オロ チ)」(1097万円)の装備を絞り込んだ廉価版で、1000万円を切る934万5000円に価格設定した。オロチは日本神話に登場する「八岐大蛇(やま たのおろち)」をイメージし、低い車体と流れるようなデザインが特徴。

 
光岡自動車「大蛇」

 
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開発中の大蛇(光岡自動車サイトから)開発中の大蛇(光岡自動車サイトから)


 スーパーカーといえば奥山清行氏。山形県の県立高校を卒業後、武蔵野美術大学を卒業後にカーデザイナーを目指し渡米、イタリアの自動車デザイン工房ピニ ンファリーナのトップデザイナーの登りつめた。代表作フェラーリ・ロッソは2000年コンセプトカー・オブ・ザ・イヤー大賞を受賞した。
 人が技術を生み、伝え広げるのであろうか。
2008年02月05日(火)
萬晩報通信員 成田 好三
 日本のTV局が欲しいのは、「視聴率を取れる映像」だけである。映像を分析、評価、論評する能力も意思も、まったく持ち合わせてはいない。

 南極海で日本の捕鯨船を執拗に追い掛け回す、欧米の環境保護団体の活動など、まったく無視していたのに、ある刺激的映像が配信されると、すべてのTV局がその映像に飛びつき、繰り返し流し続けている。

 シー・シェパードと名乗る環境保護団体の船に乗る2人の活動家が、小型ボートから日本の捕鯨船に飛び乗って、捕鯨船の乗組員に「縛り上げられる」映像である。

 筆者がこの映像を初めて見たのは、NHK・BSが毎朝放送するBBSニュースによってである。この映像は世界中を駆け回って、「反捕鯨」「反日本」のイ メージを増幅させたうえで日本に「上陸」した。それまで南極海における日本の捕鯨船を追い回す欧米の環境保護団体の船の活動を無視していた、日本のTV局 はこの映像に一斉に飛びついた。

 しかし、日本のTV局は、この「視聴率の取れる映像」を垂れ流すだけである。この映像の撮影・編集者は誰なのか、どんな風に編集されたのか、映像配信の目的は何なのか―。何ひとつとして、これら視聴者の素朴な疑問に答えようとはしない。

 BBCニュースによると、BBCはシー・シェパードではなく、別の環境保護団体「グリーン・ピース」の船に特派員を乗せていた。グリーン・ピースの船は 日本の捕鯨船団のうち、この船ではなく最大の捕鯨船を追いかけまわしていた。だから、シー・シェパードの船からの映像は、BBCの制作ではないようであ る。この映像は、シー・シェパードの広報担当者によって撮影・編集された可能性が高いと言えよう。

 命知らずの戦場カメラマンにしても、波高く極度に水温の低い南極海で小型ボートに乗って、大型船に接触して、乗組員が捕鯨船に飛び乗る場面を撮影するリ スクを犯すだろうか。こんな行為に命をかける価値はない。メディアの上司も、そんな無謀で価値のない命令も許可も与ええるはずもない。

 この映像をBBCのホームページで繰り返し見ていると、複数のシーンをつなぎ合わせたものであることが分かる。まず母船上のカメラマンが洋上を疾走する 小型ボートを映す。次にボート上のカメラマンが撮影する。捕鯨船に接近、接触したボートから、赤いレインスーツの男が飛び移る。赤い服の男は画面右側に移 動して黒い服の男の乗船を助けると、カメラに向けてガッツポーズをする。2人は素早くデッキの手すりに駆け寄る。これまでがカットなしの1シーンである。 次のシーンでは、2人の乗船に気付いた捕鯨船の乗組員が2人を取り囲んで、ロープで縛り上げる。

 この映像のハイライトシーンは2つある。乗船に成功したシーンと乗組員に縛り上げられるシーンである。欧米でも日本でも、この2つの刺激的シーンに注目 が集まったはずである。しかし、この映像を撮影・編集したとみられるシー・シェパードの広報担当者は、編集段階で致命的なミスを犯している。彼らにしてみ れば、乗船した2人の男が手すりに駆け寄る場面でシーンをカットすればよかったのに、カットが0・数秒遅れたため、2人の男が腰に巻いたベルトとつながっ たロープの先端で手すりにフックをかける瞬間の映像が残されている。2人は捕鯨船の乗組員に縛り上げられる前に、自らの体を船の手すりに縛り付けていたの である。

 広報担当者は、この瞬間の映像はカットしたかったはずである。彼らの狙いは、乗船した2人の男が乗組員に縛り上げられる映像を映すことだったからであ る。しかし、男たちの動きが素早すぎたためか、それとも絶対的な「スクープ映像」の配信を急いだためか、彼らにとっては削除すべきはずの場面が残されるこ とになった。

 メディアが配信する映像でも、すべてある種の意図が含まれている。ウラジミール・プーチン大統領の言動を連日伝えるロシア・RTRのニュースなど、誰が 見てもあからさまな意図だらけである。さらに、メディアではなく活動の当事者が伝える映像には、もっとあからさまな意図が表出している。日本のTV局は、 こうした映像を撮影・編集者の意図を分析、解説、論評することなく、無責任に垂れ流している。

 日本のTV局は、反捕鯨団体の意図に対してまったく無防備だった。時間的な都合でだろうか。この映像のキーポイントとなる、2人の男がデッキの手すりに フックをかけるシーンをカットして放送したTVニュースさえある。結果として、日本のTV局は反捕鯨団体の味方になったと言っても、言い過ぎではないだろ う。(2008年1月21日記)

 成田さんにメールは mailto:narinari_yoshi@yahoo.co.jp
 スポーツコラム・オフサイド http://blogs.yahoo.co.jp/columnoffside
2008年02月01日(金)
Uganda Moyo通信員 伴 正海
  ウガンダの新聞で面白い記事を見た。それは子供たち(6~11歳前後)に対して「神さま」という題で絵を描かせたコンクールの表彰の記事であった。見開き 一杯に載せられた8枚の絵があった。2枚はアラビア風の鬚を生やした男性の絵、1枚は王冠をかぶった女性の絵、2枚は一つ目おばけのような絵、そして8歳 の子が書いたのは紙が4区域に区切られてそれぞれが異なる色で塗りつぶされた絵であった。

 はじめの5枚はどれも天に存在するような書かれ方で後光が射しているものであった。しかし、残りの2枚の絵というのは自然の景色を描いた絵であったの だ。山、川、木、雲、星、太陽(ウガンダに海は無い)といったものが、時にはそれに目口などの表情まで含んだ形で描かれていたのであった。

 そう、これだけ自然が豊かなウガンダで自然に対する畏敬というものが育まれないはずはないのだ。であるとすれば、アジア諸国(日本を含めて)と同じよう に人々には多神教的な精神が根付いているはずである。キリスト教やイスラム教などといった一神教が彼らの心の奥底まで染みついていることもないであろう。 以前からなぜこの自然豊かな国に一神教なのかという疑問を持っていたわたしからすれば、この記事はその証明となったのである。

 一言にアフリカ諸国とは言ってもそこには無数の部族が存在し、無数の文化が存在する。しかし、核となる「文明」というものが存在しない。サミュエル・ハ ンチントンが著書「文明の衝突」において指摘した。現在、ウガンダの隣国ケニアにおいて大統領選挙後の混乱が続いているが、これも部族間の争いによるもの である。ウガンダもこのケニアの混乱は他人事ではない。ウガンダも大小15以上の部族が存在している国であるからだ。

 しかし、その「国」という概念がここの人たちに染みついているかはあやしいところである。たしかに、ウガンダではムセベニ政権以来国内は落ち着き、懸案 だった北部における内戦についても和平交渉がしっかりと進んでいる。そうなると、ウガンダという国の領土内に住む各部族たちは「ようやく戦いが終わって平 和になった」と実感する。

この実感することが大事なのだ。例えば戦国時代日本の群雄割拠時代、農民たちは領主がその土地を平和に保つからこそ領主に年貢を納め、その国にいるという ことを実感したのだ。現代で言えば政府が警察力などによって犯罪を抑えるなどの恩恵を受けているからその国民はその国民となるわけだ。ウガンダもその状況 に近付いてきていると言えば、当たらずと雖も遠からずなのだ。

 ところがそのウガンダ国内にも多くの部族が混在しており下手したらケニアのようになりかねないという。要するにわたしが言いたいのは、もしかしたらウガ ンダでの安定というのは本当は表面的な薄っぺらいもので、その民主主義という上から被せられた大きなベールの下にはケニアのような民族的な対立がいつでも それを破り去りうるのではないかということだ。

 かつてのコラムや自身のブログで述べたように、わたしはこういった途上国、特にアフリカ諸国において成長を急ぐべきではないと考えている。それは、先進 国からやってきてUNHCRという国際組織が関わるNGOに身をおいて地元民や難民と呼ばれる人を見たとき、自分たちのしていることが本当に彼らのために なっているのかという懐疑的な思いにとらわれてしまったからである。

 彼らは確かにそこで生を授かって生きており、その生き方考え方は欧米のそれとは根本からして異なるのだ。上記の新聞記事からも分かるように、自然豊かな ウガンダでも人々の心の中には多神教的な精神が存在し、それは多くの神の存在を認める、それすなわち寛容という精神を育んでくれるのだ。

 年末年始にタンザニアのザンジバルというインド洋に浮かぶリゾートの島に訪れた。その島は昔からアラブ諸国と交易があり、「イスラムの島」とも呼ばれて いるほど島民の大部分がイスラム教なのだ。しかしそのザンジバルにおいてもイスラム教徒たちは自然の神々というものも同時に敬っており、土着の宗教観とい うものを持ち続けているのだとザンジバルに20年近く住んで現地でバンガローを営む三浦さんという日本人女性に教えていただいた。

 このような国々において、古く18世紀あたりから続いてきたヨーロッパの歴史で生まれた国という概念が同じような歴史を持たない(というか当時はヨーロッパ列強によって世界の舞台からはじかれていた)アフリカ諸国ですぐに根付くはずもないのである。

 たしかにアフリカにも多くの王国などが存在した。しかし、ハンチントンの言うような「文明」を核とした集団はエチオピア以外に目立って存在しておらず、 そのエチオピアの文明も衰退してしまった。要するに、地域における大国とその周辺国というようなアジアなどにおいてすらも見られたような状況がなくーだか らこそアジアは戦後アフリカに先駆けて発展したということも言えるのであってーそういう積み重ねがない状態では現在の世界における「国」というものを作る のはかなりの困難を要するのでそれには時間がかかっても仕方がないのである

 ただ、アフリカ諸国にとって不幸なことにアフリカ諸国というかアフリカ全土が過去においてアジアなどが経験したような段階を踏んで進むということがほぼ不可能であり、さらには技術などが彼らの現状に対して進み過ぎているというアンバランスな状態にあるということだ。

 こうなっては恐らく、アフリカ大陸は現状の国というかたまりをとりあえずはリーダーたちが率いてその統治方法は過去のものから自分たちに最適であろうも のを選択し、それがゆっくりと時間をかけて染み込んでいき、じきにそれが彼らの独自性を持つ、というのを待つのが将来的にもよいのではないだろうか。

 もちろん、だからといって先進諸国はそれを完全に放置するわけにはいかない。そのための支援というものは必要となるだろう。その支援というのも過去のコ ラムに書いたように支援のための支援であってはならず、自立のための支援となるべきなのだ。そしてその支援もおそらく各国の国益というものを念頭において 行なわれるであろうが、アフリカから様々なものを搾取する国益よりもその国が将来健全なパートナーとなってくれる国益のほうがより有益ではないだろうか。 そういう姿勢で諸国がお互いの主張を認め合って譲歩しあってアフリカ大陸を支えていけば、その進展は前途明るいものになるのではないかと考える。

 伴 正海にメールは mailto:umi0625@yorozubp.com

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