2007年12月アーカイブ

2007年12月25日(火)
駿河台大学大学院前教授 斎藤 祥男
  今年の秋(10月初旬)には5年に一度の半田祭り(知多半島半田市)の大祭があったが、予定した日程が噛み合わなくて出掛けられずに終わった。そんな半田市の境を流れる矢勝川の堤防に、毎年秋に多数の彼岸花が咲き誇って、今や花の名所となっているという。

  この花盛りは自然発生的にできたものではない。「彼岸花、なぜに彼岸花、
幾年念じてこれ彼岸花」(小栗大三氏作) この想いには二つの想いが重ね合わされているという。一つは「昔の古里の原風景」への想い、二つ目は「亡き戦友への鎮魂の想い」。

  12月24日10:05~11:00AMに亘るNHK「ふるさと発:彼岸花なぜ彼岸花――亡き戦友への鎮魂」から、その要点を探ってみる。

  本年89歳になる小栗大三さんは、半田農学校を卒業後間もなく徴兵されて
日中事変勃発とともに中国へ派遣となる。その後太平洋戦争では、最も過酷と言われた(旧称)ビルマのインパール作戦に参加し、多くの戦友を失いながらも幸運にも生きながらへて帰国した。

しかし郷里は荒れ果て、若き日のイメージは失われ、矢勝川の堤防は通行さえ出来ない雑草がおい茂っていた。この川では、むかし子供達は水浴び場として楽し い時を過ごした思い出がある。その中には、三十歳を前にして、若くして鬼界へ去った三歳程歳上の天才童話作家新美南吉(本名:正八)もいた。

  新美南吉の童話「ごんきつね」や「でんでんむしの悲しみ」は、往時の名作として評価され、農学校卒業後地元で代用教員となった南吉は、みずから教壇に立って児童達に朗読して聴かせ、幼きなき子供達の情操を育てて行った。
童話「ごんきつね」の絵本に現れる原風景は、正に矢勝川の彼岸花であった。

  平成2年、小栗大三さんは矢勝川の土手を100万本の彼岸花で飾ろうと思い立ち、たった一人で一粒の球根から植苗を始めた。幾年かの月日は流れた。小 栗さんのこの姿を見て共感した地元の人がボランテイアーとして加わるようになって、平成7年「環境を守る会」が結成されて、以来5年程経った現在では、多 くの人々の協力で今や彼岸花は200万本になろうとしている。かくて矢勝川の土手は、15年の歳月を経て彼岸花の名所となったのである。

  煌びやかな映像や、絶叫するが如き若者達の愛唱歌、わけの解らない横文字入りの歌唱が若者に持て囃されるなか、情感が胸に伝わる朗読芸術が静かなブー ムを広げつつある。最近タレントの浅野温子さんが矢勝川を舞台に神社の前で「ごんきつね」の朗読を被露した。 古里に染み付いた文化を失ってはならない。

  小栗大三さんは最近また和歌を散りばめた著書を出版したようだ。「彼岸花とおっかさん」が題名とか? 母一人子一人のまま出征した彼が、戦地から母親と交信した手紙が幸運にも残されていて、それが基礎となった図書と聞くが、
ビルマ派遣軍憲兵隊本部で、軍の功績恩賞記録係りとして戦死者の死亡記録ばかりを書き続けていたため生還でき、片や第一線で多数の友を死に至らしめた悔恨の情が、亡き戦友への手向けの彼岸花づくりに邁進させた原動力の一つと述懐している。

  「戦争とは何ぞや多く死に、われは生きたり(彼岸花)」
  「彼岸花 咲いて故郷は静かなり」
  「今日の雲はと 今日の雲見る」

  近作の彼の詩歌の情感は、最後に「この故郷こそいわば極楽」と彼をして言わしめている。(2007・12・24)

 斎藤さんへのメールは saitoyoi@courante.plala.or.jp
 白熱電球が数年後には日本から消えるかもしれない。共同通信社が18日、独自ニュースとして配信した記事によると「電力消費が大きくエネルギー利用効率が悪いことから、国内での製造・販売を数年以内に中止する方針を打ち出す見通しとなった」。

 エジソンが白熱電球を発明したのが、1879年だから、それから130年である。すでにオーストラリアが廃止の方向性をうちだしている。家庭の電力消費 からみれば、電球が最大の消費源であろう。60W、100Wなど個々の消費電力は大きくはないが、数が多い。季節によるが半分近くになる時期もあるはず だ。

 白熱電球の製造・販売中止は環境問題に端を発する。蛍光灯という代替製品もあるから日常生活には困らないだろうが、政府が「禁止」という姿勢にはおもしろくないものがある。消費者が自ら選択をするのは自由だし、メーカーが製造を中止するのもけっこうだ。

 政府がもっと関心を持つべきは、「禁止」条項を増やすことではなく、太陽光発電や風力発電など石油代替エネルギー普及を励ますような政策に前向きに取り 組むことではないかと思う。デンマークは1980年代から国を挙げて風力発電を奨励、いまでは消費電力の10%以上を風力で賄うほどになっている。ドイツ も自然エネルギーの高価買い取りを電力会社に義務付けて久しい。結果、世界最大の太陽光発電設置国にのし上がった。日本で実用化した太陽電池がいまやドイ ツを象徴する環境政策のひとつとなっているのである。

 経産省は、戦後日本の産業を支えてきた中枢だった。90年代から業界育成から消費者保護に軸足を移したはずだった。白熱電球の禁止もよいが、同時に電力源についても自然エネルギー重視策を打ち出してほしかった。(紫竹庵人)
2007年12月11日(火)
エディター&ライター 平岩優
  「ポスト京都議定書」の枠組みを話し合う国連の気候変動枠組み条約締結国会議がバリ島で開かれているが、削減方法をめぐって各国の駆け引きが活発だ。いま や"地球環境を守る"といえば錦の御旗を掲げたようなものだが、そもそも環境問題というのはきわめて、政治的な問題である。環境対策には経済的利害が発生 するし、その科学的根拠もあいまいであるからだ。

 たとえば、一時人類の存続にかかわるような騒ぎとなった約70種あった環境ホルモンの問題はどこにいったのだろう。当時から、DDTの残留でしかないな ど否定的な意見があつたが、先日ある経産省系の環境団体の研究者にうかがったら「ほとんどがシロ」だという。800度以上高温で焼却すればダイオキシンの 発生が防げると、当時日本やアメリカの自治体が地方債まで組んで、大型ゴミ焼却炉を導入したが、本当に必要だったのかどうか、専門の研究者にうかがってみ たい。

 アメリカが京都議定書の枠組みに参加しなかったのも、EUとの確執であろう。もしノーベル賞を受賞したゴア元副大統領が大統領になったとしても、アメリ カは参加したかどうか。そもそも、ゴア氏とIPCCがノーベル平和賞を受賞したこと自体が政治的判断で行われた可能性すらある。

 IPCCの報告書の内容についても疑問を投げかける高名な科学者も多い。 といって、CO2排出削減をはじめとする環境対策が必要ないといっているのではない。IPCCは温暖化ガスの影響は排出してから数十年にわたって影響が残 るので、いま削減しなければ手遅れになるといっている。疑わしきに手をこまねいているわけにはいかないのである。

 しかも、ここ数年だけみても、省エネ対策が進められることにより身近な家電製品、自動車のエネルギー効率はどんどん向上しているし、企業の省エネ・資源 を目指した技術革新により生産コストが削減されている。東京都のディーゼル規制の断行で、東京の空気がきれいになったことも私自身大いに実感している。

 しかし、地球温暖化防止に関しては現在の京都議定書のように参加国のCO2排出量が世界全体の3割にしか過ぎないのでは意味がない。日本が約束通り90 年比6%削減したところで微々たるものである。アメリカ、中国、インド等CO2を多量に排出する国を参加させる枠組みづくりに知恵を絞らなければならな い。戦後の国際的な枠組みは、国連しかり核拡散しかり、戦勝国の利害に基づき構築されてきた。大国同士が利害で争い、調整した公平感の乏しい枠組みでは、 経済発展に遅れてきた未開発国は参加しないだろう。

 京都議定書の枠組み自体、EUの思惑が感じられる。削減量を義務化しても域内貿易量が多いので競争力を殺がれない。90年排出量を基準値にすることで、 エネルギー効率が悪く排出量の多い東欧諸国を組み込むメリットも活かせるからだ。それに比べ、90年時ですでに世界で一番エネルギー効率の高いモノづくり を実践していた日本にとっては従来以上の省エネを実現するのは、よくいわれるように乾いた雑巾を絞るようであろう。

 実質的に2009年にスタートする「REACH規制」もおそらくEUが化学物質規制の世界標準に向け先鞭をつける試みであろう。この規制は約3万種類の 化学物質について、企業に安全性評価を義務付け、化学物質についての情報を登録させる制度である。登録の対象となる業種も自動車、電機や、玩具などの製造 業だけではなく、たとえば化学染料が使われた布地を用いるアパレル業などにも及ぶ。EUで商品として流通するためにはこれらの製品ごとに登録する必要があ り、莫大なものとなるであろう登録料が新設された欧州化学庁の運営費となる巧みな制度である。

 またEUではすでにEU27カ国を対象にしたキャップ&トレイド方式の域内排出権取引制度(EUETS)も導入している。この排出権クレジットは京都議 定書が導入したクリーン開発メカニズムにより発行された排出権とは違い、EU域内でしか通用しない。キャップ&トレイド方式は企業にCO2排出量のキャッ プすなわち上限を定め、それより削減した分を排出権として、削減できなかった企業とトレードする仕組みである。数日前アメリカの上院本会議でも排出権取引 の導入が議論されることが決まった。

 EUETSに関しては今年、環境庁、経産省、日本経団連が協同で実態調査を行っている。キャップ&トレイド方式の排出権取引制度に反対する日本経団連の 永松恵一常務理事は、企業から政府へ、政府から欧州委員会へ、上限の割当をめぐり約800件もの訴訟がおきていること、さらに事業所間の取引が少なく、金 融機関等の仲介者が市場に参加し、実需に基づいたマーケットメカニズムが働かず、排出権価格に変動が激しいことを指摘している。

 京都議定書による排出権取引は市場メカニズムの仕組みを取り入れた環境対策として注目されたが、ヘッジファンド等の資金が流れ込む昨今の石油市場を見て いると、なんらかの補完対策も考えなければならないだろう。また、中国の代替フロン増産に対し、EUは排出権を目的にして生産することに警戒感を強めてい る。ちなみに代替フロン類は温暖化係数は高く、たとえばHFC23はCO2の1万7000倍で排出権獲得の投資効率が高い。

 もう15年以上前になるだろうか、大手化学メーカーのダウケミカルジャパンの環境管理部長から、アメリカでの消費者による化学メーカーのイメージは下か ら2番目でたばこ産業に次いで悪い、と聞いたことがある。しかし、医療薬から日用品まで化学品なくして、我々の生活はなりたたない。以前、知人の女性で地 球環境にとって人類は悪であるとの思いから、子孫はつくらないという人がいた。一人の生命は地球より重いという方があったように思うが、同じようにナンセ ンスだと思う。

 人の踏みこまない野生の自然より、里山の方が生態系が豊かだという。課題は良くも悪しくも20世紀をリードした豊富な石油資源のうえに成り立ったアメリ カ型文明からいかに脱却するかだ。政治的駆け引きが必要ないとはいわないが、すべての国が参加できるポスト京都議定書の枠組みづくりに人類の英知を結集し て欲しい。

 平岩さんにメール hk-hiraiwa@tcn-catv.ne.jp
2007年12月07日(金)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
  もうかなり前になってしまったが、10月28日付けの南ドイツ新聞をひろげると「桜の花を無理やりに死なせた」という見出しが目にとびこんできた。「散 華」というコトバがしめすように、私たちは戦死を桜の花が散ることにたとえる。ここでいわれる「桜の花」は第二次大戦中の日本の特攻隊員のことである。 

 周知のように、第二次大戦中日本軍は米軍艦艇に対して航空機で体当たりする「特別攻撃」をした。記事を書いたドイツ人は、祖国のために命を犠牲にした特攻隊員が戦時下だけでなく、「過去の究明」の精神が欠ける日本国民から現在でも英雄視され続けていると主張する。

 この記事によるとこのような特攻のイメージが今や修正されなければいけない。その理由は、ニューヨーク在住・リサ・モリモト監督の映画「TOKKO-特 攻」のなかで今まで沈黙してきた四人の元特攻隊員が「洗脳されただけでなく、殴られたり、虐待されたり、拷問されたりするなどの残酷な圧力を受けて特攻す るように仕込まれた」ことを告白したからである。こうして「特攻隊員は、、、愛国的自殺行為を強いられた」ことになり「英雄でなく犠牲者であった」と記者 は結論する。

 ■「カミカーツェ」青年

 記事を読みながら、昔はじめてドイツに来たときに体験したことが思い出された。酒場でビールを飲んでいると私は見知らぬ青年から話しかけられた。私が日 本人だとわかると、彼は熱心に話しだし「カミカーツェ」という単語が何度もくりかえす。私は「カミカーツェ」が「神風特別攻撃隊」のこととは知らず、はじ めのうち彼のいうことが理解できないで困った。

 そのうちに青年の話すことがわかるようになると、私はもっと困ってしまう。というのは、彼が特攻のことを勇敢だといってほめちぎるからである。ところ が、当時の私にとって特攻は勇敢だったといってすませるような問題でなかった。この点を理解してほしいと思って彼に説明しだすが、語学力不足でうまくいか なかった。

 このときがはじめてである、特攻を無邪気に英雄扱いする人に出会ったのは。それも日本でなくドイツでである。日本にもこの外国人の「カミカーツェ」青年 のように特攻を英雄視する人もいるかもしれない。でも多くの人は戦後複雑な気持を抱いていたし、また今でもそうではないのだろうか。

 南ドイツ新聞の記事にもどると、この記者は、特攻に関して「自由意志」でなければ「強制」だったとか、「英雄」でなければ「犠牲者」であったととか考えているようであるが、本当にそうなのだろうか。

 まず「自由意志」と「強制」であるが、私たちの日常生活では往々にして対立概念である。誰かが買うことを強いられたのか、本当に買いたいと思って買った のかは重要な相違で、とくに法律の世界では大きな意味がある。ところが、戦争に負けかかった国民にとってこの二つのカテゴリーが限りなく接近するところが あったのではなかったのか。

 記事の中で主張されるように暴力によって無理強いされたかどうかは別にして、大多数の人間は死にたいと思わないので、当時の状況そのものが強制的であっ た。それでも特攻する兵士は操縦桿を最後の瞬間までしっかりと握って突入方向を保たなければいけないが、これは自由な意志の力がないとできない。

 次に、当時を体験した人々が書き残したものを読めばわかるように、多くの兵士は、選択肢といっても今日死ぬかそれとも一週間後に死ぬかの違いしか見るこ とができなかった。こう考えると、自由意志だったか、それとも強制だったかという問いそのものが時代にふさわしくない。私たちは、特攻が実行された当時の 状況を現在の私たちの状況に置き換えていて、そのことに気がついていないのではないのか。

 また「英雄」も「犠牲者」もこのドイツ人記者にとって相反することかもしれないが、戦後の日本人にはかならずしもそうでなかった。当時「きけわだつみの こえ」や「あゝ同期の桜」を読む人は少なくなかった。特攻隊員について、例えば大岡昇平は次のようにしるしたが、私たちの複雑な気持をしめす。

《想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないこと である。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生れる余地があったことが、われわれの希望でなければならない》(「レイテ戦記」上巻 285頁)

 南ドイツ新聞の記事には、特攻隊員のイメージが訂正されなければならないとある。でもここでいわれるイメージは日本人が抱いているイメージではない。 「カミカーツェ」青年の無邪気な特攻観を出発点にして、日本人ならもっと英雄扱いしていると勝手に思い込んでいるだけではないのか。とすると、この記事は (、これもよくあることだが、)現実の日本人でなくドイツ人の頭の中にある「日本人」についての報道ということになる。

 ■新しいファイルを上書きしますか

 ここで話がとぶが、Windows95を習いはじめた頃「新しいファイルを上書きしますか」という表示に私は好感をおぼえた。周知のように「はい」をク リックすると「前のファイル」が消えて、「上書き」された新しいファイルしか残らない。「いいえ」を選び、新しいファイルを別名で保存すると、今度はどち らのファイルも残る。こうして「前のファイル」を残して置くと、どのように変わったかも跡付けることができる。ところが「はい」ばかりをクリックしている とそれができないで、新しいファイルを絶対視してしまう。

 過去の出来事について、例えば特攻について理解しようとするとき、当時の状況や人々の考え方をさぐるために残されている「前のファイル」というべきもの を参考にしないと「上書き」されたファイルだけになってしまう。その結果現在の視点を絶対化してしまい、人々が当時置かれていた本当の状況を理解しないこ とにならないだろうか。また半世紀以上もたってからの体験者の回想も「上書き」に近い。

 ここまで過去の記述についてのべたが、外国について報道する場合も事情が似ている。人々は私たちとは異なった思考様式や価値観をもっている。同じ現実も 違った視点から眺めているので、異なって見える。この事情をさぐるために「前のファイル」というべきものがあって、これを無視することは、「上書き」され たファイルだけで済ませ、自国文化の視点を絶対化することにつながらないか。

 今年の2月ドイツで米映画「硫黄島からの手紙」が封切られた。当時ドイツのメディアに対するインタビューの中でクリント・イーストウッド監督は「父親た ちの星条旗」の撮影準備をしながら相手側の考え方に、特に司令官の栗林中将に関心をおぼえたと説明した。また彼は、1940年代に米国でつくられた戦争映 画が「勧善懲悪」の戦争宣伝だったことを指摘し「、、、相手側の視点から事件を語ることによって戦争宣伝の影響からまぬがれることができると思った」とい う(2007年2月21日付け南ドイツ新聞)。

 「相手側の視点から語る」ことは、Windows用語で表現すると、今まで日米で繰り返された無数の「上書き」の下に埋まっている「前のファイル」を掘 り出す作業である。映画は、60年後の2005年に洞窟の土の中に埋まっていた「硫黄島からの手紙」が発見される場面からはじまり、手紙が掘り出されて読 まれる場面で終わるが、これはイーストウッド監督の意図の象徴的表現である。

 「相手側の視点から語ろう」とすることは、「前のファイル」は残っていないことも多く、困難でまた不可能である。とはいってもこれは「相手側の視点」の 存在を認めることであり、相手を理解するための第一歩である。このように考えると、イーストウッド監督は、読者が抱く日本のイメージをコンファームするだ けの多くのドイツの新聞記者とは正反対のことしようとしたことになる。

 ■米介入戦争の正当化

 イーストウッド監督の「相手側の視点から語る」ことによって戦争宣伝の影響からまぬがれる」を逆にすると、「相手側の視点から語ろうとしないこと」は 「戦争宣伝の影響からまぬがれない」になる。南ドイツ新聞の「カミカーツェ」記事は一見「特攻」に代表される軍国主義を批判し、反戦的な立場をとっている ようにみえないでもない。でも本当にそうなのだろうか。このことを考えることによって、反戦も平和主義もいかに困難なことになったかがわかるのではないの だろうか。

 この記事によると戦時下二つのタイプの日本人がいたことになる。第一のタイプは「特攻」をはじめとする自滅的行為の実行を強いられた犠牲者・日本人である。第二のタイプは狂信的な軍国主義者で、彼らは自国民に自滅行為を強制した加害者である。

 次に、欧米はアラブテロと直面しているために「特攻」についての記事もアクチュアルなスクリーンに投影され、読者の頭の中で次のような等式が成立する。

 A:自殺行為を強いられた特攻隊員=アラブ自爆テロ

 B:狂信的軍国主義者=イスラム過激派指導者

 記事は、この等式によって(戦時下の日本と同じように)、例えばパレスチナ人はハマース指導者から自爆テロ実施を強いられているというメッセージにな る。こうしてハマースはイスラエル市民だけでなく、同国人までも死に追いやる二重の意味での殺人者集団になる。ということは、「カミカーツェ」記事は読者 が自爆テロの背後に政治的な意味を見なくなることに役立っていないだろうか。この結果、政治的解決がどんどん不可能になることはいうまでもない。

 次に記事の中では、元特攻隊員4人が強制されたと証言しただけで特攻隊全員がそうであったかのようになる。これは、当時軍国主義者の圧政下にあった犠牲者・日本人が国民の大多数をしめていた印象をあたえようとすることで、こうして次の等式が成立する。

A´:戦時下の日本国民の大多数=圧政下の住民

B´:日本の軍国主義者=独裁者と少数の追従者

 この等式こそ、米国の介入戦争正当化のイデオロギーである。A´のところでイラクやアフガンやイラン国民などを、B´のところでフセインやタリバンやイ ラン現政権などの圧政者を、いくらでも付け加えて等号で結びつけることができる。このイデオロギーは、A´の大多数の住民が米軍を解放軍として歓迎し、 B´が国民のごく一部で簡単に除去できるとする思い込みである。

 米国の政治家が昔から演説の中でB´を「癌腫瘍」に、戦争を「外科手術」にたとえるのは、この戦争観の比喩的表現である。第二次大戦敗戦国の日本とドイツは米国式外科手術の成功例としてよく宣伝につかわれる。2003年イラク戦争の前もそうであった。

 ところが、ドイツと日本の当時の現実は、ナチ、ファシズム、軍国主義の癌細胞が身体中に転移している状態で、A´とB´の米国の戦争観通りでなかった。 吉見義明著「草の根のファシズム」(1987年東京大学出版会)を読んでも、当時の日本に平和主義者がたくさんいた印象は受けないのではないのか。もっと おもしろいのは、ドイツのほうが日本より米国の戦争に協力的なことである。戦中世代が社会の中で少数派に転落した前世紀80年代頃から、戦争終了日の 1945年5月8日を「解放日」と見なすようになった。これは米国の戦争観を「上書き」したことになる。

 60年以上の昔の「診断書」を書き変えて平和主義者や抵抗者の数を増やすことに、何の意味があるのか。またそんなことを外国人の記者からしてもらって光 栄に感じる日本人がいるのだろうか。もし今でも反戦や平和が重要だと思うなら、自国の歴史が戦争宣伝に利用されることに対して、少しぐらいは敏感であって もいいように思われる。

 美濃口さんにメール Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
 経産省が「洗濯機、テレビ、エアコン、扇風機、換気扇の家電5品目について、安全に使える目安となる標準使用期間(耐用年数)や注意事項を製品本体に表示するようメーカーに義務付ける方針を固めた。
 このほど成立した改正消費生活用製品安全法(消安法)に制度概要を盛り込み、政省令で5品目を指定する。周知期間を経て2009年春の施行を目指すのだという。

 まずはよけいなお世話だといいたい。

 まず発想が賞味期限の表示を定めた食品安全法と酷似している。期限を定めるのは企業なのに、万一、期限内に事故があった場合は企業の責任を問えるように なる。消費者と安全という誰もが否定できないキーワードをちりばめれば民主党だって反対できない。

 耐用年数は利用に耐える年数で、本来税法上の減価償却の概念である。企業が持っている資産の価値の減価を法律で定めた期間に配分する場合の計算の基礎と するものにすぎない。本来、製品の安全性とはまったく違う概念なのだ。

 どれだけ長く使うかは消費者の心がけ次第なのである。我が家の冷蔵庫は20年"酷使"された後、昨年更新された。修理すればと思ったが年数を考え断念した。ちなみに税法上の耐用年数は4年である。

 日本の乗用車は10年もすると大方、廃棄処分となるが、多くはロシアや途上国で二度目の人生を送っている。まだまだ乗れる自動車を次々と墓場に送っているのが日本の実態なのである。

 三重にいたとき、100年も前のドイツ製の発電機がまだ現役で動いていることにいたく感動した。100年前の技術がハイテク時代でも生きていける証拠でもあった。

 メーカーはすでに自身で保証期間を定めている。期間内に故障した場合、無料で修理したり製品交換をしてくれる。製品保証に加えて"賞味期限"的な耐用年数を上乗せしようというのである。

 たぶん、家電製品が火を噴く事故を防ぐ意味で官僚たちが考えた"新制度"なのだろう。人間が完全でないと同様、機械類も完全であるはずがない。何年も使えば、何十万台のうち1台や2台故障したところで不思議はない。

 昨年3月、「PSEマーク」なしで中古家電が販売できないことが分かり、大騒ぎになった。2001年4月1日に施行された電気用品安全法(PSE法)が 元凶だった。1年経って、この法律は改正されることになった。本来は廃止すべき法律である。霞が関の官僚たちは反省することなく、意味の分からない法律を つくり続けているということなのだ。
 これからどうするのかって?
 まだカンボジアを離れることは考えていない。

 なぜかって?

「カンボジアに来て五感が刺激されて忘れていたものが戻ってきたという感じなの。病院のある地域は静かでしょ。なんでもそのまま音が聞こえて、においもそもままなの」

「真っ暗闇なんてそれまで経験したことがなかった。風が分かるっていうのかな。雨が降るとその音が聞こえ、その後にカエルが鳴く。雨だれの音もする。自然の中で生かされているってことに気づくの」

「私がいてっていうのではなく、自然の中で私がいる。カンボジアではくさいもの、きたないものもかくされていない。そんなもの見るものではないが、ブタ、 ニワトリ、アヒルが生活の中に当たり前のようにいる。例えばブタは殺されるため、酒を飲まされ、気絶状態でオートバイに乗せて運ばれている。時折、目を覚 ましてキーとか鳴いている、無残だけとそういうものがいて私がいる」

「カンボジアにいたいという感情は、子どもたちとの人情とかそういうものがないとはいえないけど、そんなかっこいいものではない」

「不便の楽しさってあるでしょ。たくさんのプロセスが逆にエネルギーになる」

「この8年ずっと、楽しかったのではないの。最初の2カ月は確かにラブラブだったけど、文化の違いというものは大きい。嫌なこともたくさんある。そういう 自分に『嫌じゃない』と言い聞かせ、自分の本当の気持ちを抑えていた時期もあった。多分カンボジアが大嫌いになっていたのだと思う。ただ8年で文化の違い は乗り越えたと思う。そうね倦怠期を過ぎた夫婦って感じかな」

 日本の若者についてどう思う?

「日本の若者は何かを求めていることは分かるが、装っているのかな。カンボジアにもよく若者が来るが、『こういうものがほしかった』といって帰る。良くも 悪くも殻の中を出ない。殻が割れるといいものが出てくる。目が覚めることもあると思う」

 勘違いも多い。カンボジアに来て屋台でご飯を食べることがかっこいいと思っている人がいる。そんな人が下痢すると、その下痢をしたことさえが勲章になる。

 カンボジアの子どもの写真を見た日本の子どもとこんな会話があった。

「なんで靴をはいていないの」
「靴がないからよ」
「なぜ靴がないの」
「お金がないから買えないの」
「なぜお金がないの」

 自分で作らない、直さない。カンボジアの人たちにはそうなってほしくない。でもそうなりつつある。8年でよくなったとはぜんぜん思わない。変わったけど、都市と農村の格差は以前より大きくなっている。

 フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー http://www.fwab.jp/
 8年前、1999年2月、カンボジアに小児病院が誕生した。ニューヨーク在住のカメラマン井津建郎さんが友人に呼び掛け、NPO「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー(国境なき友人)」が生まれ、募金から建設、運営にあたっている。

 アンコールワットの撮影ではいつも子どもたちがたくさん寄ってきた。その中に足のない子、手のない子もいた。地雷で手足をなくした子どもたちだったが、 無邪気でたくましかった。それまでずっと写真を撮り続けていて、「picture」を「take」するばかりで「give」がなかったことに気付いたのだ そうだ。「お返し」をしたいと考え、子どもたちのために専門家を集めた病院づくりが始まった。

 そのときから、看護師として病院の運営を支えてきた赤尾和美さんと出会いがあり、インタビューした。以下はその内容である。

 赤尾和美さんはカンボジアにできたその病院でエイズの子どもたちを養っている。外来と入院でベッド数は50。8年前にやってきたときは二つの病床しかな かった。いまでは外来が日に300人から350人やってくる。今年、テング熱が流行ったときは600人以上が押しかけた。

 診療費は一回、どんな病気でも500リエル(約12年)。それでも支払いができない人たちがいて、「回収率は半分ですか」。それも本当は診療費という名 目ではなく、病院では「コントリビューション」という意味で支払うように求めている。

 公立の病院にいくと20-30ドルは取られるから、私たちの病院は格安であることは事実です。カンボジアの医者はポルポト時代に虐殺されて、一時35人 にまで減った。それが2000人に回復しているのだが、人口規模からいえば圧倒的に少ない。

 カンボジアの医療制度では、医者や看護士の開業は自由なので、村で好き勝手に開業している。公立病院の医者も二足のわらじをはいているのが実情。医療報 酬などは決まっていないので「気分」によって請求されている。点滴1本50ドルなどということもあるが、「同じ診療が日ごろ世話になっている人だと20ド ルだったりする」。

 つまり「1回の診療で公立病院の月給分ぐらいが稼げてしまう」のである。だから公立病院のお医者さんへの村人の信頼感はきわめて低いものになる。医療の質が低いうえに倫理観も低いのである。

 カンボジアの宗教は仏教だが、過酷過ぎる時代を過ごしてきたせいか、「お金イコール力」「お金があれば世の中だって変えられる」。そんな国民意識が蔓延 している。特にタイやベトナムといった隣国が経済的に発展しているため、よけいお金の意識が強くなっている。

 カンボジアはいま、土地が急騰してバブル経済になっている。農民たちは土地を売ることで成金と化し、家を買って、車を買って、子どもたちに贅沢をさせる ことを誇示している。国民性なのか「どれだけ持っているか」を見せたがる。

 病院の経営は現在、医者18人、看護士89人、あとハウスキーパーとかセキュリティー、事務などで惣菜200人もいる。外国人は4人だけ、院長と私とド クター。年間の経費が1億3、4000万円ぐらいかかる。アメリカや日本の基金や企業からの大口寄付に加えて「500円基金」といって個人が月額500円 ずつだしてくれる小口の寄付がある。日本では5000人もの個人の人たちが支援してくれている。「おもしろいのは企業やお寺、病院を中心に社員や職員、檀 家に呼びかけてくれるの」。

 カンボジアに行く前は、ハワイの病院でナースをしていた。その院長さんが「カンボジアに行くことになって、で英語で看護を教えられる人が必要なんだ。来 てくれないかって誘ってくれた」。「2、3カ月ならって軽い気持ちで参加したら、8年になってしまった」。

 そもそもハワイに行ったのは「日本でナースを7年やって、海外でも免許を取りたい」と思ったから。29歳、1991年のことだった。日本の病院にいて目 標を失っていた。このまま日本にいると大病院を出られなくなるという不安に苛まされた。「私がナースになったころ看護婦ってお手伝いという感じだった。ド クターと対等に話もできなかった」。

ハワイでHIV専門のクリニックで働いていて、いつもドクターから意見を求められた。「患者さんを一緒にみているのだから、君の意見がないと責任が持てな いなんていわれる」。アメリカでは医療のヒエラルキーがなくて、患者を取り巻く役割があるだけだと感じた。また、ハワイは多民族国家で、中国人、フィリピ ン人、日本人とたくさんいる。「目からうろことはこのことだ」と思った。

 アメリカでの経験を「これだ」と思っていたところに、カンボジアが現れた。行ってみると、日本と同じ絵にみえた。「言いたいのだが言ってはいけないとい うか勇気がない。日本は言うもんではない」。カンボジアの病院ではそんな感じだったが、われわれが行って、だんだんと「ドクターも一緒にやったほうが楽 だ」ということが分かってきた。新米のドクターに「ここは違うよ」とナースたちも言うようになった。ナースたちもびびらなくなった。

 99年にカンボジアに行ったころ、「この国は10年たっても20年たっても医療レベルは上がらないのではないか」という不安があった。しかし、実際に やってみると、5年ぐらいで急速にレベルが上がってきた。いまではマネージャーレベルの人たちが「近頃の若いもんは」なんていうようになっている。

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