2007年10月アーカイブ

  昭和5年8月12日、静岡県御殿場に農民福音学校高根学園が生まれた。日本いたるところで農村が疲弊していた。当時の農業は米麦が中心で換金作物としては 養蚕がかろうじて支えていた。しかしその繭の価格が3分の1まで暴落していたから、農民の生活は成り立たなくなっていた。

 農民学校の発想はデンマークにあった。19世紀、酪農地帯をドイツとオーストリアの連合軍に奪われたデンマークで国土復興運動が起きた。その中心に農村 の復興が第一義の課題として浮上し、農業青年を教育して国土の復興を図った。農村でホイスコーレ(ハイスクール)が次々と建設された。その物語を伝えたの は内村鑑三だった。荒れ野を開墾し、木を植える運動も同時に起こった。内村は『デンマルク国』という本で日本の青年に奮起を促した。それらの運動を実践に 移したのが賀川豊彦だった。

 賀川は各地で農業協同組合の設立を手助けする一方で、キリスト教精神による農民福音学校の建設にまい進した。

 高根学園は北駿の窮状を訴える青年たちの熱情に賀川が応えるかたちで建設が始まった。お金はすべて賀川が調達した。賀川は農村の復興はまず教育からと考 えた。賀川の行動は速かった。8月6日から3日間の「イエスの友修養会」で話を聞いた賀川は早速、御殿場に行こうと言って、3日後に夜学が始まった。20 数人が集まった。

 賀川の講義内容は、得意の立体農業から始まり、世界的食料事情、産業組合、医療利用組合、国民健康保険、世界思想史、労働運動、など多彩を極めた。賀川 は御殿場に1カ月滞在、昼は小説を執筆し、夜は講義に励んだ。その時の小説は『一粒の麦』として雑誌に連載され講談社から単行本として出版された。

 一週間もすると、賀川は「農村改造も何もかもみんなまず教育からだ。学校を建てよう。土地はないか」を言った。翌6年7月には本当に高根学園の2階建て 本館が完成してしまった。建設費用1800円は賀川がすべて調達した。

 この学校では当時としてはそうそうたる講師陣が集まった。杉山元治郎は農協運動の開祖。竹中勝男、駒井卓、河上丈太郎、枡嵜外彦といった人たちの講義は連日満員の盛況だったという。

 賀川の立体農業は独特だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体 的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚 を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない"理論"だった。

 賀川を支えたのは藤崎盛一。東京農大出身で賀川の信奉者のひとりだった。岐阜県からシイタケ栽培の専門家を招き、シイタケ栽培で成果を上げ、ハクサイの 栽培にも成功した。生徒だった勝俣敏雄と滝口良策を長野に派遣して各地でクルミとアンズ、クリなどの栽培を学ばせる一方、土づくりにも励み、倉敷の板谷博 士が発見したバクテリア「ザザ」による新堆肥の製法を指導、学園内に試験場もつくった。

 おもしろいのは、生徒の一人、勝俣喜六(一色)を一年間、横浜でハムづくりをしていた大木のところに派遣、その製法を学ばせたことである。ハム類はもと もと保存食として工夫されたものである。煙で燻すことによって生肉の長期保存が可能になる。大木市蔵は日本のハム・ソーセージづくりの先駆け的存在。千葉 の農村から横浜に働きに出てドイツ人からその製法を学んだ。横浜在住の外国人を中心に販売、する一方で、東京農大でのハム製法を教授した。

 勝俣が帰ると学園にハム、ソーセージ、ベーコンの工場ができて製造が始まった。製品は「富士ハム」と命名され、東京向けに出荷、最盛期には月間100頭 のブタがこれに充てられたという。富士ハムは戦前に事業閉鎖されるが、賀川の事業に興味を示した御殿場在住の宣教師ボールデン氏直伝の手作りハムは「二の 岡フーズ」として現在に生きる。また学園の牛乳づくりは今日の「丹那牛乳」となった。この牛乳はまた森永に引き継がれ、初代工場長の花島惣右衛門はクリス チャンとして賀川と大いに肝胆相照らすところがあったという。

 富士ハムは事業閉鎖となったが、勝俣喜六の技術は群馬県の高崎の「高崎ハム」で花開くことになる。高崎畜産組合に招かれた勝俣は先進地ヨーロッパ各国を視察し、最新知識と技術を導入して現在の高崎ハムの礎を築いたのである。
 28日のテレビ朝日、サンデープロジェクトで民主党の浅尾慶一郎氏が、防衛省疑惑問題で、一番問題なのはグアムへの米沖縄海兵隊の移転に絡む日本側負担 で米軍住宅の建設費が一戸あたり73万ドル、日本円で8000万円にも及ぶ事実を強調していた。米側の試算では17万ドル程度で、4倍以上もするのだとい う。

 昨年の日米合意で、移転費用の日本の負担は60・9臆ドルとなり、そのうち家族住宅の建設費は25・5億ドル(2800億円)となっていた。政府は 3500件を建設するとしていた。単純に割り算をすると一戸あたり8000万円となるのだ。

 住宅面積は150平方メートル程度で、日本の家屋より広めとはいえ、土地代抜きで8000万円とはどういうことなのか。誰でも疑問に思うことが防衛省を含めて日本の官僚や政治家には分からないらしい。

 ネットで検索してみると、この問題は昨年5月、共産党の井上哲議員がすでに参院で額賀防衛庁長官に質問していた。額賀前長官は、建設資材をグアムに運ぶ な どどうしてもコスト高になると説明したらしいが、日本の住宅の建材はほとんどが輸入もの、3500件分もの大規模な住宅建設は日本の住宅メーカーの年間の 売上高に匹敵する水準。逆にこれだけの量を注文すれば、普通の住宅より格段に安くなるのが普通の経済感覚である。

 守屋前防衛事務次官の証人喚問が29日(月)テレビ中継され、山田洋行と過去にゴルフを200回以上したことが批判の的になった。しかし、よく考えれ ば、ゴルフ代などは高が知れている。1回5万円かかったとしても200回で1000万円。そのほかに飲食の供応をうけても1億円には届かないだろう。

 守屋長官のゴルフ接待を見逃していいという話ではないが、メディアが批判しもっと怒るべきは、国家予算の無駄遣いなのだ。アメリカのいうがままに1件あ たり8000万円の住宅を3500件分も支出することだ。これは常軌を失しているというようなレベルではない。犯罪である。もしアメリカ並に2000万円 程度で建設されるならば、2100億円もの予算を節約できるのである。

 総額60・9億ドルの中には住宅のほかの項目でも同じような"法外"の要求金額があるはずだ。

 軍事費についてはよく、兵器など民間と比較できない要素があると説明されることがある。確かに艦船や航空機の価格はそうだろうが、一般の備品や建設費は 本当は民間以下で購入できるはずなのだ。軍隊はとにかく規模がでかいのだ。ワイシャツや靴下だって、一人一枚支給すると27万枚、27万足となる。たぶん 納入業者はとんでもなくいい思いをしているはずだ。 

 【思いやり予算】日本は1978年から、思いやり予算として米軍住宅や戦闘機の格納庫 などを建設してきた。87年の日米特別協定で、基地内に働く日本人従業員の給与や米軍の訓練費の一部、光熱費を負担することになった。問題はその金額であ る。スタート時に62億円だった予算が2005年に43倍の2700億円を上 回る額になっている。ちなみに米国防省の報告では、米軍への協力費が04年に44億ドルと、ダントツ。2位ドイツの15億ドルをふくめて26カ国の合計額 39億ドルを上回るのである。 

 加工食品の「表示」が「製造年月日」から「賞味期限(消費期限)」に変わってから12年になる。よく聞かれる質問は「賞味期限って誰が決めるの?」というものである。

 編集仲間との会話である。

「名古屋で単身赴任だったとき、よく自炊もしたんだけど、消費期限をすぎた牛乳はよく飲んだ。多少期限をすぎたところで問題ない。食あたりになったなんて聞いたことないもんね」
「そうなんだよ。先日も日曜日にかみさんがいなくて冷蔵庫をあけたら期限が2週間前の焼きそばがあって、子どもに相談したら食べちゃえということで、食ったけどどうもなかった」
「やばいのは豆腐かもしれない。俺腹こわしたことあるんだよね」

 多分、津々浦々でこんな会話は日常的に行われているのだろうと思う。
 消費期限なんてものはせいぜいスーパーの店舗での話で、いったん消費者が購入してしまえば、あとは「野となれ山となれ」。自己責任の世界なのだ。

 実は食品衛生法にもJAS法にも「賞味期限の」規定はない。食品衛生法施行規則の「食品の表示」という項目に「表示しなければならない」項目のひ とつとして、添加物や原産地などと並んでいるにすぎない。つまり"一定"の加工食品には「賞味期限を表示しなければならず、期限の短いものは消費期限とし て表示する」ことになっている。

 細かいことで申し訳ないが。賞味期限は製造者が決めることになっている。「この加工食品の味について表示している期限内なら我社は品質を保証する」といった程度の話なのである。スーパーやコンビニでぜひ食品の表示を見比べると非常におもしろい。

 輸入品であるプリングルのポテトチップスなどは1年後の日時が刻字されてある。缶詰なら数年後ということもある。国産のお菓子類は1、2カ月と いったところ。先差万別なのである。「白い恋人」も「赤福」も賞味期限を偽装したことでメディアの批判の対象になっているが、おもしろいことにまだ実害の 報告はないのである。

 ここらへんをどう理解したらいいのか。判断がむつかしいところである。

 そもそも食品衛生法が生まれたのは昭和22年。戦後の食うや食わずの時代、口に入ればなんでもよかった。衛生観念はゼロといってよかった時代。 「食品の安全性確保のために公衆衛生の見地から必要な規制その他の措置を講ずることにより、飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止・・・・・・すること を目的とする」(第一条)ため、占領軍の指令で施行された。当時は「賞味期限」などという概念すらなかったのである。

 食品衛生法

 食品衛生法施行規則

 農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)

 農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律施行規則

早矢仕ライス

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 47ニュースが始まったころ、今よりずっと多くの地方紙のサイトを読んでいた。今はハードコピーしかないが、中日新聞の岐阜欄で「早矢仕ライス」という見出しの記事があった。。


 「早矢仕ライス」を「ハヤシライス」と読める人は相当な博学グルメだ。47編集スタッフで読めた人はいなかった。「早矢仕ライス」の「早矢仕」は実は苗 字。岐阜県の旧美山町(現山県市)出身で日本橋、丸善の創業者となった早矢仕有的(はやし・ゆうてき=1837-1901)という人物だった。


 早矢仕氏は福沢諭吉の門下生で、開国したばかりの明治国に洋学を導入することに努める一方で、友人に肉と野菜のごった煮をごはんに添えた"洋風料理"としてふるまった。ハヤシライスは丸善の食堂から生まれたというのだ。


 新聞記事は、1月22日、郷土の先人にあやかって山県市の学校給食でハヤシライスが出されたという単純な話であるが、早矢仕をハヤシと読めない俗人にとっては「おー、そういうことだったのか」という感動があった。(紫竹庵人)

 6月22日の記者コラム「ばかもの、よそもの、わかもの」で百五銀行会長だった川喜田貞久さんのことを書い た。あとで分かったことだが、そのとき、川喜田さんはすでに亡くなっていたのだ。川喜田さんの祖父・半泥子は戦前・戦後を通じて著名な陶工として知られて いた。職業としての陶工ではなく趣味人としてろくろを回し続け優れた作品を数多く残した。

 津市には半泥子の作品を展示する石水博物館があり、川喜田さんはその館長をしておられた。石水博物館のサイトを久しぶりにのぞくと、川喜田さんのエッセ イの連載が始まっていた。楽しみに少しずつ読んでいたら、「最後のコラム」が最後にあって、そこに川喜田さんの逝去が報告されていた。

 なんということだ。昨年10月にコラム執筆が始まり、16本書いたところで世を去ってしまった。

 コラムで「飲酒運転」についてうならせることを書いている。

「飲酒運転が急に脚光を浴びることになった。自治体が一斉に厳罰処分を打ち出している。飲酒運転だけで懲戒免職も出てきた。ちょっと待ってくれ。裏金作り で懲戒免は何人いるのか。金は返せるが命は返せないからというのだろうか。事故を起こしたらそれなりの公法による処罰がある。それに勝手に罰を上乗せする ことは許されるのか」

「教養」について「芸術に関して多くの知識を持っていることと、感動とは無関係のように思われます」と書いています。なかなか祖父ゆずりの感性をもっていると思った。

 短い小気味のいいコラムだけが残った。合掌。

 http://www4.ocn.ne.jp/~sekisuik/contact.html

熊野を考える

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 紀の国は木の国であり、鬼(き)の国でもある。つまり紀の国は木がたくさん繁っていて、鬼がいる土地柄ということになる。多くの本に書いてある。 筆者の考えではない。イメージとしては、深い樹林が一帯をおおっていて、昼なお暗い。中上健次の世界でいえば『木の国、根の国』となる。ならば鬼ってのは 何なのか。思いを語りたい。

 江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門は「きのくにや」と読むのだが、どうして「紀伊国」が「きのくに」となるのか不思議に思う方も少なくないと思 う。実は旧国名の紀国は「きー」と読みが長音化し、さらに「きい」と二音節化してやがて「紀伊」となったという。奈良時代、朝廷は「国名は二字」と決め た。

 江戸時代の紀伊国は現在の和歌山県と三重県の南部を併せた広がりを持っていた。現在の紀伊半島の南部の広い地域は古来、熊野と呼ばれていた。熊野 国があったという説もないわけではないが、不思議なことに昭和になって三重県熊野市や和歌山県熊野川町(現田辺市)が生まれるまで「熊野」が付く地名はな かった。あったのは熊野本宮という神社名と官職としての熊野別当。あとは熊野川、熊野灘という水域名だけである。今は和歌山県西牟婁郡、同東牟婁郡、三重 県南牟婁郡、同北牟婁郡という行政区になっているからややこしい。

「紀伊」と「紀国」

 熊野は古来、神仏混交の祈りの場だった。

 熊野には昭和31年まで電灯のなかった村があり、紀勢本線が全面開通するのが同34年だったから、熊野が近年まで鬼のすみかだったとしても不思議ではない。

 熊野市の中心は木本町(きのもと)という。南牟婁郡の8カ町村が昭和29年11月に合併する前の町名である。JRの駅もこの木本町にある。かつて の熊野詣の宿場町の風情をかすかに残す街並みがある。そのむかし鬼本町といった。恐ろしいげな町名である。「町名に鬼がつくのはいかにも」と考えてそのむ かし鬼が木に変わったそうだ。

 その話を聞いて、瀬戸内海の女木島を思い出した。高松の沖合にある小さな島で、桃太郎の鬼がいた伝説がある。別名、鬼ケ島である。男木島もあるから、本来は対で男鬼島と女鬼島だったはずだ。鬼が木に変わった地名は全国津々浦々にある。

 経済評論家で有名な故三鬼陽之助氏は尾鷲の出身だった。尾鷲も熊野の一部である。その尾鷲の西端の海岸線に三木浦という寒村がある。三木もその昔は「三 鬼」だったから、たぶん陽之助氏の祖先は三木浦にいて、いつの時代か尾鷲に移ったはずである。三木浦の三木小学校の戦国時代、三鬼新八郎の居城があったと ころである。

 9匹の熊野の鬼たち

 その三木浦をさらに西に行くと二木島という村がある。二木さんという苗字があり、仁木という苗字もある。同じように二木も仁木もむかしは「二鬼」だっ た。三木浦から二木島にかけての熊野の海岸線はリアス式で複雑に入り組んだ入り江が随所にある。そのほぼ中間に楯が崎という断崖がある。日本書紀によると 神武天皇が東征の折、ここから半島に上陸し、大和を目指した。先導したのはもちろん三本足のヤタガラスである。

 二木島からさらに西にいくと鬼が城(おにがじょう)があり、その向こうが木本となる。

 鬼のつく苗字で一番有名なのは九鬼さんであろう。

 戦国武将で九鬼嘉隆がいた。九鬼一族は熊野水軍を率いて織田信長につき、後に秀吉に仕えて大坂・石山本願寺攻めでは鉄甲船をつくって軍功を上げた が、徳川の代になって、摂津三田ならびに丹波綾部へ転封され、海との接触を断たれた。一族はもとは尾鷲の九鬼に本拠を置き、戦国時代になって志摩に進出、 嘉隆の時代には鳥羽に城を築いていた。

 筆者にも九鬼さんという友人がいた。三重県四日市市の出身だった。もちろん祖先は尾鷲の九鬼で、九鬼水軍の直系だといっていた。氏神さまは九木神社。神社に鬼の字をつかうのはさすがにはばかられたに違いない。

 これで「二鬼」「三鬼」「九鬼」とみっつの鬼たちがそろった。もうひとつ「八鬼山」という地名が尾鷲にある。熊野古道の峠にもなっている。八鬼山 に登ったことがあるが、霧で眺望が期待できなかった。みっつの鬼の里は海岸線にあるが、八鬼だけは山の上である。里人に聞くと「晴れると山頂から、二木、 三木、九鬼の里がみえる」のだという。熊野灘を見晴らす山頂には烽火台があって、緊急時には入り江ごとに住み着いた水軍に号令をかけた。そんな空想をさせ る場所である。

 九鬼さんに「熊野には何匹の鬼がいますか」と問うたことがある。「よっつまで見つけたんです。二と三があり、八と九があるのだから、どこかに一と四、五、六、七の鬼がいるはずです」。

 まもなく一については解決した。熊野市の木本は「きのもと」と読み、もとは「鬼本」だったと聞いたからだ。そうなると残りは四、五、六、七の鬼となる。

 9つの鬼を考えるヒントが東北にあった。八戸市は大きな都市で演歌にもたびたび登場する漁港がある。数年前に知り合った若松さんという人の出身地が九戸村であることを偶然知った。

「ということは一の二も三もあるんですか」
「四以外、一から九まで戸のつく地名があります。旧南部藩にある地名です」

 かつて南部藩に一戸から九戸まであった。戸は牧場の意味だそうで、源平の時代から馬を育てるため、かの地に官営牧場が八つあったというのだ。

 同じように一 から九までの「鬼」が熊野にいたのだとしたら面白い。その場合、「鬼」は水軍である。そもそも軍隊は「第一師団」というように部隊を数字で呼ぶ習わしがある。陸軍は「戸」、そして海軍は「鬼」が元祖だと考えられないだろうか。

 問題は二木(鬼)や三木(鬼)だという地名がいつごろからあったのかということである。郷土史を細かく調べていけば、分かる話なのだが、筆者の場合、いまのところそこまで手が回らない。

 九鬼という姓については、ウェッブ上で説明がある。ウィキペディアには「出自は詳しくわかっていない。九鬼浦に移住した熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉に移住したのちに九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある」とあるからそう古いことではない。

 また「戦国武将の家紋」には次のように書かれてある。

 "くき"という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山・谷などを指すという。また"くき"のは、柵の意で、城戸構えのあったところからきたともいわれる。

 九鬼氏というのは、熊野本宮大社の神官の子孫で、紀伊の名族として知られている。それとは別に、熊野別当の九鬼隆真が紀伊牟婁郡九鬼浦に拠って、子孫が繁栄して一族をなしたものがある。さらにこの九鬼隆真の子の隆良が志摩国波切村に移住して、志摩の九鬼氏ができた。

 九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、八庄司のひとつ新宮氏であろうとされるが、熊野三山の別当家のどれかの支族であろう。

 ちなみに現在の熊野本宮の宮司は九鬼家隆氏といい、本宮の説明板には「鬼のつの(田の上のノ)のない字で、角がないから『鬼』ではなく『神』つまり『くかみ』と発音する」といったようなことが書いてある。

 また節分の折には「『鬼は内、福は内』とか 『鬼は内、福は内、富は内』とか、(『鬼』というのは古来『神』に通じていた として)『福は内、カミは内』とかというように唱えたという話が、『甲子夜話』(肥前 平戸藩主松浦静山の随筆)等に伝わっている」ということのようだ。

熊野牛王符というものがある。明治までごく普通に流通した。通貨ではない。証書の一種である。公証役場というものが現在残っているが、契約書をしたためる場合に公証役場は印を押した証書に書くことで社会的信用が増すのである。


Karasu_4  日本が藩に分かれていた時代、そうした役割は宗教が果たした。牛王符は寺社が発行する証書用紙である。特に熊野牛王符は全国的に有名だった。

源義経が兄頼朝に謀反の疑いをかけられた時、頼朝に自らの潔白を書きつづった文書はこの熊野牛王符に書かれたという。鎌倉市腰越の満福寺に残っているのは下書きの文書で、鎌倉府に送ったのは牛王符だったのだろう。熊野牛王符の歴史は古いのである。

 司馬遼太郎の『菜の花の沖』という小説を読んでいた時、この牛王符が登場した。主人公の嘉兵衛は淡路島の出身で、青年時代に盗っ人の嫌疑をかけられた。自分 で真犯人をみつけた。犯人である駒吉をつかまえて熊野牛王符に「いりこぬしとは、かへいにござなく、こまきちにござそろ」と書かせる。

 昨年秋、熊野本宮大社でその牛王符とやらを一枚買ってきた。新宮、那智と熊野三山でそれぞれデザインが違う。本宮の牛王符は、真ん中に「熊野山宝印」という 五文字が書かれ、朱で宝印が押されてある。おもしろいのはそれぞれの文字がカラスの姿を寄せ集めてつくられてあることだ。数えてみたら「熊」という字は 18羽のカラスで構成されていた。この裏に書かれた文章はうそ偽りがないということをカラスたちが証明した。そういう時代が長く続いた。

 「白い恋人」の賞味期限日"改ざん"から、食品衛生法とJAS法の「賞味期限」を調べてきた。12年前、農水省を担当していたときに、日本は長年使用してきた加工食品の表示方法を「製造年月日」から「賞味期限」に変更した経緯がある。

 当時、日米間の経済摩擦の中でアメリカ側が要求していたもので、コメ市場の開放に遅れること7カ月で施行となった。当時、いろいろな議論があった。おもしろかったのはパン屋さんの問題提起だった。

「朝パンを買うお客さんはどうしてもその日につくられたパンだと信じている。だから午前零時を期してパンの包装に製造年月日を刻字するんです。これ は従業員に大きな負担になります。賞味期限なら数日後の日時が刻字されるのでたとえ製造日が店頭に並ぶ日でなくても不満はでにくいし売りやすい」

 なるほど、業界にとって製造年月日というのは"包装した出荷日時"と同じ意味なのだと合点した。パン屋さんにとって賞味期限の導入は歓迎すべきも のだったのである。牛乳はまさか早朝に搾乳した牛乳が朝、店頭に並ぶとはだれも信じていないが、業界としては「何日まで"安全"です」の方が売りやすい。

 赤福でも同じことが行われていた。

 東京や筆者が住む神奈川県で、「北海道牛乳」と命名された牛乳が多く売られている。裏には神奈川県内の業者名が印刷されてあり、北海道で搾乳され た牛乳が神奈川県の業者によってパックされたことが分かる。消費者は「北海道なら」というイメージで北海道牛乳を手にするのだろうが、はたして正しいのだ ろうか。

 問題は、搾乳された牛乳が北海道から届くまで何日かかるかということである。たぶん短くて2日間。そうなると鮮度という意味合いにおいては、神奈川県で搾乳された牛乳と比べて大きなハンデがある。

 かつて雪印乳業が売れ残りの牛乳を新たに売り出す商品に混ぜて売っていたことが問題となった。多くの消費者は雪印=北海道というイメージを抱いて いたのではないかと思う。発祥地は北海道だが、大企業となったいまでは、東京の会社であり、全国に工場をもつオペレーションとなっている。

 雪印は興味ある「毎日骨太」という"牛乳"を売っている。「毎日骨太」は簡単に言えば、搾乳した牛乳をいったんバターと脱脂粉乳に分離、再び加工して商品化して いるのである。北海道と本州との距離感を生めるため、こんな商品が生まれるのだろうが、ここまでくるとはたして「牛乳」といってよいのか分からなくなる。

 だから雪印は「毎日骨太」を「乳飲料」と表示しているのである。


 伊勢の赤福が製造年月日偽装や売れ残り品の再利用などで営業停止になった。2年半、三重県でお世話になっていただけに無念でたまらない。

 伊勢神宮の門前町としての人気のおかげ横丁は、赤福の前社長の濱田益嗣さんの声掛けで江戸・明治期の風情を復活したもの。町づくりは鉄筋だった赤福の本 社を真っ先に取り壊して木造二階建てに建て直すことから始めた。伊勢観光の中心はもちろん伊勢神宮なのだが、門前町あっての神宮でもある。その証拠に15 年ほど前におかげ横丁ができてから参拝客は何倍にも膨れ上がった。

 毎月1日にだけ売り出す「朔日餅」(ついたちもち)は人気で午前4時には多いときで1000人を超す人々がその発売を待った。伊勢の人々が1日の早朝に 伊勢神宮をお参りする風習の「朔日参り」がむかしからあり、その参拝客に対して売り出したのが口コミで人気となり、近隣府県からも「朔日餅」を求める客が 深夜から早朝にかけて伊勢を目指す社会現象ともなっていた。筆者も12カ月、早起きしてすべての朔日参りの満願を達成した。

 濱田さんのほかに前も後もないといっていいほど伊勢観光に対する濱田さんの貢献度は高かった。その濱田さんが商工会議所や観光協会といった"公職"から身を引くことになれば、伊勢の町は灯が消えたように閑散となることは間違いない。

 濱田さんの過去の貢献度が高かったからといって、今回の不祥事の責任が減じるものではない。「つくりたて」といっていた赤福が「冷凍ものだった」ことは 100歩譲れると思っていたが、売れ残り品のあんともちを分離して再利用していたというのでは申し開きができない。品性の問題である。伊勢にとっての赤福 は単なるみやげのお菓子ではない。札幌の「白い恋人」とは違う。

 2年前、三重にいたころ、赤福の広報担当者から今年が創業300年であることを知らされていた。創業300年の赤福はまた世間をあっといわせることをし てくれるに違いないと信じていた。赤福は伊勢市民と全国の伊勢ファンを二重に裏切ったことになる。ここまでやればたぶん赤福の再起は不能だろう。伊勢観光 にとっては打撃は計り知れないだろうが、赤福はもう再起を期待するようなレベルではない。そんな思いが募っている。
 きょうの47厳選ニュースで「地元買い物ポイントで納税 阿智村、1円から可能に」(信濃毎日新聞)というト ピックを掲載した。阿智村は6600人の小さな村。51店でつくる加盟店会が発行するカード「ふくまるくん」でためたポイントで税金まで支払えるというの だからビッグニュースだと思う。

 加盟店でこのカードで買い物をすると、100円で1ポイントもらえる。ポイントは1ポイント=1円に換算して加盟店での買い物に使用できるが、村役場などに設置したカードリーダーで、税金や水道料のほか住民票発行の手数料などにも使えるということだ。

 記事中では、同じ長野県の野沢温泉村でもすでに同じようなシステムが始まっていると紹介があった。阿智村との違いは「1ポイント」から使えるという点なのだそうだ。長野県は自治体がなかなかおもしろい発想をする。たぶん田中康夫前知事の影響なのだろう。

 待てよ、ほかにも同様のサービスを行っている自治体はないか。ネットで検索すると長野県飯山市でも4月1日から「飯山市版ポイントカード(iカード)による市税・公共料金の納付制度」(北信濃新聞)という記事がヒットした。

 飯山市では、飯山カードサービス事業協同組合が発行する「iカード」の取り引きが満点(500円相当)に達すると市税や公共料金にも充当できるシステ ム。どれだけ利用されているか分からないが、民間が発行するカードポイントをこれらの自治体が"通貨"として認めたということにほかならない。

 10年ぐらい前、日本でも地域通貨がはやった。店舗での使用だけでなく、金融機関が地域通貨を認知するところも生まれている。三重県四日市市のJマ ネー(NPO法人地域づくり考房みなと循環者ファンド運営委員会)の場合、三重銀行が定期預金10万円につき配当のほかに100J(100円分)の地域通 貨を"支払う"「Jマネー定期」を2年前から始めている。

 すでに都市圏を中心に「エディー」や「Pasmo」など電子マネーが大手を振って流通しているが、ポイントの現金化はまだない。長野県のいくつかの自治体で始まった試みが将来の"通貨革命"につながるかもしれないと考えるとなんとなくわくわくするではないか。


 地元買い物ポイントで納税 阿智村、1円から可能に【信濃毎日新聞】

 「iカード」で市税・公共料金納付 - 市では全国初の制度【北信濃新聞】
 職場で「ダイタラボッチ」を話題にしていたら、横の編集スタッフが「世田谷代田」の「代田」の由来がくだんのダイダラボッチだと言い出した。
「うそだと思ったら、サイトを見てごらん」という。
 まさかと思ったら、どうやらそういう言い伝えがあるらしいのだ。

  そもそもダイダラボッチといっても知らない人も少なくないと思う。関西ではダンダラボッチともいう。三重県志摩市の大王崎では毎年9月、巨大なわらじをつ くって海に流す神事がある。毎年、一つ目の巨人が村に現れ、村娘を求めるなど狼藉を働き、人々を困らせた。村の知恵者が大きなわらじをつくって「村にはお まえより大きな巨人がいると思わせよう」と発案した。ダイダラボッチは以降、大王崎には現れなくなったそうだ。

 関東に伝わる話では、富士山はダイダラボッチが甲斐の土を掘ってつくったとか、赤城山の湖は、ダイダラボッチが腰掛けた跡だとかいわれているのだ。巨人神話の発祥は出雲だという説もある。

 ではダイダラボッチはいったいなんだったのだろうか。片目、片足の巨人で、踏鞴(たたら)を操り風を起こすという特徴から、タタラ鉄との関連を推 測する説もあるようだが、三重県に在住していたとき、筆者は台風なのではないかと考えた。片目、片足という点ではバッチリでしょう。村人に被害を与えると か、わらじを9月に海に流すことでも悪くない発想だと思っている。

 怖いものの順に「地震雷火事親父」という格言があるが、親父は間違いで本当は「山嵐」(やまじ)がいつの間にかなまったそうだ。山嵐とは台風のことである。

 この格言がいつ生まれたのか知らないが、神代の簡素な生活では台風が一番怖かったはずである。

 「代田」はダイダラボッチの足跡なのだそうだ。


 職場で「ダイタラボッチ」を話題にしていたら、横の編集スタッフが「世田谷代田」の「代田」の由来がくだんのダイダラボッチだと言い出した。
「うそだと思ったら、サイトを見てごらん」という。
 まさかと思ったら、どうやらそういう言い伝えがあるらしいのだ。

20070912_waraji.jpg そもそもダイダラボッチといっても知らない人も少なくないと思う。関西ではダンダラボッチともいう。三重県志摩 市の大王崎では毎年9月、巨大なわらじをつくって海に流す神事がある。毎年、一つ目の巨人が村に現れ、村娘を求めるなど狼藉を働き、人々を困らせた。村の 知恵者が大きなわらじをつくって「村にはおまえより大きな巨人がいると思わせよう」と発案した。ダイダラボッチは以降、大王崎には現れなくなったそうだ。

 関東に伝わる話では、富士山はダイダラボッチが甲斐の土を掘ってつくったとか、赤城山の湖は、ダイダラボッチが腰掛けた跡だとかいわれているのだ。巨人神話の発祥は出雲だという説もある。

 ではダイダラボッチはいったいなんだったのだろうか。片目、片足の巨人で、踏鞴(たたら)を操り風を起こすという特徴から、タタラ鉄との関連を推測する 説もあるようだが、三重県に在住していたとき、筆者は台風なのではないかと考えた。片目、片足という点ではバッチリでしょう。村人に被害を与えるとか、わ らじを9月に海に流すことでも悪くない発想だと思っている。

 怖いものの順に「地震雷火事親父」という格言があるが、親父は間違いで本当は「山嵐」(やまじ)がいつの間にかなまったそうだ。山嵐とは台風のことである。

 この格言がいつ生まれたのか知らないが、神代の簡素な生活では台風が一番怖かったはずである。

 「代田」はダイダラボッチの足跡なのだそうだ。
 職場で「ダイタラボッチ」を話題にしていたら、横の編集スタッフが「世田谷代田」の「代田」の由来がくだんのダイダラボッチだと言い出した。
「うそだと思ったら、サイトを見てごらん」という。
 まさかと思ったら、どうやらそういう言い伝えがあるらしいのだ。

20070912_waraji.jpg  そもそもダイダラボッチといっても知らない人も少なくないと思う。関西ではダンダラボッチともいう。三重県志摩市の大王崎では毎年9月、巨大なわらじを つくって海に流す神事がある。毎年、一つ目の巨人が村に現れ、村娘を求めるなど狼藉を働き、人々を困らせた。村の知恵者が大きなわらじをつくって「村には おまえより大きな巨人がいると思わせよう」と発案した。ダイダラボッチは以降、大王崎には現れなくなったそうだ。

 関東に伝わる話では、富士山はダイダラボッチが甲斐の土を掘ってつくったとか、赤城山の湖は、ダイダラボッチが腰掛けた跡だとかいわれているのだ。巨人神話の発祥は出雲だという説もある。

 ではダイダラボッチはいったいなんだったのだろうか。片目、片足の巨人で、踏鞴(たたら)を操り風を起こすという特徴から、タタラ鉄との関連を推測する 説もあるようだが、三重県に在住していたとき、筆者は台風なのではないかと考えた。片目、片足という点ではバッチリでしょう。村人に被害を与えるとか、わ らじを9月に海に流すことでも悪くない発想だと思っている。

 怖いものの順に「地震雷火事親父」という格言があるが、親父は間違いで本当は「山嵐」(やまじ)がいつの間にかなまったそうだ。山嵐とは台風のことである。  この格言がいつ生まれたのか知らないが、神代の簡素な生活では台風が一番怖かったはずである。  くだんの「代田」はダイダラボッチの足跡なのだそうだ。

 【写真】男衆らが大わらじを担ぎ、須場の浜に運んだ=志摩市大王町で=伊勢新聞  巨大わらじ担ぎ、海へ 志摩の波切神社で奇祭
2007年10月03日(水)
萬晩報通信員 成田 好三
 国会議員にとって、命の次に大事なものは何だろう。背広の左襟につける議員バッジだろうか。激戦の選挙を潜り抜けてようやく手にした権威と権力の象徴である。これを身に着けていれば、国会内はフリーパスになる。

 しかし、今どきの国会議員にとっては、議員バッジより大事なものがある。権威と権力の象徴といった情緒的なものではない。もっと実利的なものである。今どきの国会議員は、これがなくては一日たりとも生きていけない。命の次に大事なものと言っていいほどのツールである。

 もってまわった言い方をしたが、それがケータイ(携帯電話)である。人事など政界の重要情報のほとんどは、このツールを通して流通している。70歳を過ぎた老政治家でさえ、ケータイを使いこなせないようでは、政界を生き延びていくことはできない。

 筆者は、国会議員にとって最重要なツールとなったケータイに目くじらを立てているわけではない。便利な道具は、使いこなせなくては損である。そればかりではない。情報過疎は、政界ばかりではなく、他のあらゆる分野においても、致命的な結果を招く原因になる。

 しかしである。あの場面での国会議員の皆さんの、「ケータイ・パチリ」には目を覆いたくなった。安倍晋三前首相の突然の辞任表明に伴って行われた、9月 23日午後の自民党総裁選である。劣勢とされた麻生太郎氏が予想外の得票を得たが、絶対本命候補とされていた福田康夫氏の当選が決まった直後である。

 その時、自民党の国会議員で埋め尽くされた会場の前列中央付近から、数多くのストロボがたかれたのである。報道カメラマンのストロボではない。会場から 多数の国会議員がケータイを開いて、壇上に上がった福田氏に向けて、ケータイ・カメラのシャッターを切っていたのである。会場には各都道府県連幹部もいた が、地方の県連幹部がこんな位置にいるはずがない。

 ケータイで撮った福田氏の写真を。彼ら、自民党の国会議員はどう使うのだろうか。秘書や事務所職員、支持者、家族らに見せびらかすのだろうか。それとも、議員本人のブログにでも、議員撮影とクレジットを入れて載せるのだろうか。

 いや、そんな詮索はどうでもいい。彼らの行為は、自民党総裁が決定する場面にいる、しかも決定の当事者の行為とはとても思えない。韓流スターを追っかけるおばさんたちが、成田や羽田の空港でケータイ・カメラを若いスターに向ける姿と、何ら変わりがない。

 自民党の国会議員が、自民党総裁に当選したばかりの人物に向けて、ケータイ・カメラのシャッターを切る場面は、NHK・TVによって、全国に生中継された。この場面こそ、昨今の国会議員の劣化現象を表す、象徴的な場面と言えるだろう。

 この場面に関しては、もう1つ不思議なことがある。こういった映像に極めて目ざとい民報TVのワイドショー(最近は情報番組と称している)が、この場面 を取り上げないことである。通常なら、何度も同じ映像を繰り返して、「刷り込み」行為を平然と行う彼らだが、この映像に限っては放送を自粛している。TV メディアもまた、表向きとは裏腹に、腰が引けている。(2007年9月28日記)
 「巨大かぼちゃ」の記事が最近やたら目に付く。
 47ニュースで検索するとあるはあるは。
 いくつかの記事ではハロウィーンに言及していた。
「ちょっと、ハロウィーンっていつだったっけ」
と回りの編集スタッフに聞いたが、誰も答えられない。
 ネットで調べると「10月31日」とあった。
 読み進むうちにいやはやおもしろいのだ。
 ハロウィーンはキリスト教の秋の祭りかと思っていたら、キリスト教以前のケルト民族の古い祭りだったのだ。
 平凡社大百科事典によると「古代ケルトのSamhain 祭が起源といわれる。これは死の神サムハインをたたえ,新しい年と冬を迎える祭りで,この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられた」とある。なにやら日本のお盆と重なる。

 古代ケルトでは、11月1日が新年で、その前日が収穫祭だった。古代宗教の司祭たち(キリスト教ではない)はかがり火をたいて、収穫物と犠牲を霊に奉げた。日本の神道で言えば新嘗祭である。火は魔よけである。ケガレから人々をお祓いする役割を果たすに違いない。
 カボチャに奇怪な顔を彫って灯明を入れる風習や子どもたちがお化けに仮装して家々を回ってお菓子をねだるのはその死神サムハインに由来するということに なる。かぼちゃに彫り物をするのはどうやらケルトの子孫たちがアメリカ大陸に渡ってからの風習らしい。これは秋田のナマハゲだ。
 サムハインの祭りはハロウィーン (Halloween)としてカトリックに取り入れられて、諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われることになった。英語圏の伝統行事。諸聖 人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになった。アングロサクソン語で「Hallows」は 「Saints」なのだ。
 キリスト教徒たちが、多神教であるケルトの古代宗教に由来する祭りを営々と続けている。このことがおもしろい。(紫竹庵人)

巨大カボチャで案内板アピール大町・国道沿い
 2007年10月02日 15:05 【信濃毎日新聞】
優勝は380キロ!滝川で「おおーいでっかいどうカボチャ大会」
 2007年10月01日 19:16 【北海道新聞】
まるまる466.9キロどでカボチャ大会新
 2007年10月01日 11:48 【四国新聞】
香川県部門1位は71キロ どでカボチャ大会
 2007年10月01日 09:50 【四国新聞】
優勝は380・5キロ おおーいでっかいどうカボチャ大会 滝川
 2007年10月01日 00:19 【北海道新聞】
巨大カボチャの重さ、一体何キロ? 島ケ原温泉やぶっちゃでコンテスト
 2007年09月30日 00:00 【中日新聞】
ずらっと「おばけかぼちゃ」揃い踏み
 2007年09月24日 10:51 【山形新聞】
ハロウィーン巨大カボチャ出荷原村の農業実践大学校
 2007年09月20日 09:22 【信濃毎日新聞】
大きさ 昨年の半分以下 小鹿野 ジャンボかぼちゃ大会
 2007年09月20日 00:00 【東京新聞】
巨大カボチャコンテスト
 2007年09月18日 14:52 【宮崎日日新聞】




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