原爆で得した日本人

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2007年08月16日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 昔土曜日に子どもがミュンヘン補習校へかよい、私が送り迎いをしていた頃のことである。補習校図書館で授業が終わるのを待っていた私は一番上の棚にある「日本の原爆文学」・全15巻に好奇心をひかれて、その何巻かを手にとって読むようになった。

 ■徹底的に抗戦する

 ある日、私は第15巻「評論・エッセイ」で長岡弘芳の「原爆文学と戦後ナショナリズム」のなかで著者が引用している次の一節を読んで仰天する。

《、、、突然誰か発狂したのではないかと思われるほど大きな声で「このまま敗けられるものか」と怒鳴った。それに続いて矢つぎばやに「今さら敗けるとは卑 怯だ」「人をだますにもほどがある」「何のために今まで辛抱したか」「これで死んだものが成仏できるか」いろんな表現で鬱憤が炸裂する。病院は上も下も喧 々囂々全く処置なき興奮状態に陥った。日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になってい る。そこへ降伏ときたのだからおさまるはずがない。すべてを失い裸一貫。これ以上なくなることはない。破れかれだ》

 これは広島逓信病院・院長蜂谷道彦の「ヒロシマ日記」の一節で、8月15日の玉音放送に対する人々の反応である。私が驚いたのは、自分が日本の戦後に 育って広島というと「世界平和」と思う傾向があったからである。著者の長岡弘芳によると徹底的抗戦論者になったのは逓信病院の患者だけではなかった。彼は 被爆作家・大田洋子の「海底のような光」の次の一節を引用する。

《広島市が一瞬の間にかき消え燃えただれて無に落ちた時から私は好戦的になった。かならずしも好きではなかった戦争を、六日のあの日から、どうしても続けなくてはならないと思った。やめてはならぬと思った》(昭和20年8月30日付き朝日新聞)

 それではなぜ戦争に厭であった人々が「すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になった」のだろうか。この点は日本人の戦争観を考える上でヒントになる。戦争する国民は戦争についてどこの国でも同じ考え方をもっているとは限らない。

 ■原爆は「天災」?

 戦争中私たちは「鬼畜米英」といっていた。でも日本人は当時本当に米国人や英国人を憎んでいたのだろうか。でも本当に「鬼畜米英」だと思っていたのなら私たちは占領米軍に対して別の態度をとったように思われる。

 例えば自分の家族が殺されたり、土地を奪われたりして隣国に憎悪を抱くようになってはじまる戦争があるが、それとは異なり、私たちのほうには頭の中に紋 切り型のスローガンがつまっているだけであった。そのようなスローガンを叫ぶ人々の剣幕に押されて、これらの紋切り型を現実と検証しないまま戦争をしてい た。戦争が終わると今度は別の紋切り型がそれまでのにとってかわった。そう思われてしかたがない。

 広島の住民が「徹底的抗戦論者」になったのは「人道を無視する惨虐な新爆弾」(8月8日付け朝日新聞)に悪意を感じ、(大多数の日本人とは異なり)「鬼 畜米英」に実感が伴うようになったからではなかったのか。そうだとすると被爆者と大多数の日本人との間に意識の上で大きな亀裂があったことになる。「日本 の原爆文学」の第15巻収録の「原爆文学論争史」に引用されている大田洋子の次の発言もこの事情をしめす。

《、、、人々は原爆は自分から遠い、広島長崎に落ちた天災のようなものだからそれを文学にしても大したことはないと言った風である、、》(昭和27年「近代文学」のアンケート)

 大田洋子には同国人が普通の空襲だけでなく原爆投下も「天災」と同一視しているようにみえた。彼女が原爆をそう考えることできないのはなによりも「新兵器の残忍性」を体験したからであるが、それだけでない。

《、、、大田川の下流、私どもが住んでいた町の土手から降りて行く河原に火事をさけて過ごした六日、そして七日と八日、その間に見た現実は、この世のほかの絵巻であった。私はそれを凄惨だったと思いたくない、、、、》

「海底のような光」のこの一節がからわかるように、原爆投下とは「この世のほかの絵巻」であり、昔から日本にある終末観とむすびついて、戦後の私たちの意 識に中に定着した。冷戦時代に欧米諸国とは異なり、日本では核シェルターが普及しなかったのも私たちにとって原爆がこの世の終わりを意味したからではな かったのか。

 戦争の結果が「天災」とか終末とかに感じられることは戦争の性格が「別の手段による政治の延長」というクラウゼヴィッツ的な戦争とは異なり、政治行為か ら遠いことになる。そうだったのは、日本がしていた戦争にスローガンがあっても戦争目標のほうが明確でなかったことと無関係でない。政治行為でない戦争は 本当は奇妙であり、自国民を観客にした自己表現というおもむきがあったのではなかったのか。私たちは自分たちがした戦争の奇妙さにもっと眼を向けるべきで ある。というのは、当時こうだったのは明確な外交目標を設定できないことの結果であり、この傾向は戦争しているときに限らないからである。

 ■思えば同じ国情

「敵の非人道断乎報復」(昭和20年8月9日付き朝日新聞)などと尻馬に乗っていた人々も、8月9日の

《日本国民は米国の原子爆弾がいかなる威力を発揮するかをまのあたり見たはずだ。もし日本が降伏しないならば、米国はこんごもひき続きその爆弾を日本の都市に投下するだろう》(「日本の原爆文学」第14巻64頁)

というトルーマン演説は「黙殺」できなかったようで、8月15日の「戦争終結の大詔」にいたる。「徹底的好戦論者」の大田洋子は戦後になってこの事情を次のようにしるす。

《、、、日本はとっくに負けているのに、正統に降伏もしないし、そうかと言って灼熱的な攻撃を開く道もなかったから、一度にすむ決定的なものをもって来られてもいたしかたがないのだ》(昭和23年発表小説「屍の街」のから)

 ここで「一度にすむ決定的なものをもって来られる」ことは原爆投下である。「(これを)いたしかたがない」と書いた被爆作家は、最近「しょうがない」と 発言して大臣の椅子を棒にふった政治家がいたので強調するが、原爆投下を肯定しているのではなく、「原爆投下」なしでは降伏を決断できなかった当時の為政 者を批判しているのである。 

 また彼女の批判は、本土決戦にならなかったことが国民の大多数によいことであったと間接的に主張している。ということは、同じ国民ながら被爆するという過酷な運命に遭った少数の日本人と原爆投下で戦争が終わって得した大多数の人々がいることになる。

 上記「原爆文学と戦後ナショナリズム」のなかで、長岡弘芳は「ヒロシマ日記」の最後の節についてしるす。

 《、、、その『ヒロシマ日記』の最終節九月三〇日の項は、病院を訪れたアメリカ軍将校が問答の末、〈私だったら国を訴える〉と厳粛に言い放ったのをき き、それはしかし〈国情を異にする私にいくら考えてもわからね言葉だった〉と著者は書きつけて、プツリと切れる。思えば同じ国情のなかに、私たちもいたの であった》

 なぜ米軍将校は「私だったら国を訴える」といったのだろうか。理解しにくい箇所である。オリジナルが入手できないので独訳「ヒロシマ日記」を参考にすると、原爆投下についての意見を求められた日記の作者・蜂谷院長は次のようにこたえる。

 《自分は仏教徒で子どもの頃から逆境に耐えるように教えられた。自分は家も財産も失ってけがまでしたが、でも近所ではどの家でも誰か亡くなっているので妻も自分も助かって運がよかったことに感謝している》

 これを聞いた米将校が「あなたの気持ちがわからない」といって国を訴えろというのは確かに唐突である。でも通訳を介してコミュニケーションにバイアスが かかっていたことを考慮するべきである。会話のはじめに日米双方は原爆に破壊された建造物が片づけられるべきだという点で意見が一致する。日本人医師は (、視察に来た自国のお役人か政治家に対するように、)米軍将校にブルドーザー派遣を依頼して断れる。おそらく米国人は日本人から原爆投下についてもっと 政治的な見解を期待していたのかもしれない。

 自分も妻も助かって運がよかったという発言に米軍将校が苛立ったのは、こんなことは、例えば広島で大地震のために多数の人が死んでもいいそうなセリフだ からである。こう考えると、長岡弘芳がここでいう「思えば同じ国情」とは、原爆投下を「天災」と同列に置き、倫理的、政治的、法的責任を問おうとしない風 土であり、同時に少数の被爆者とそうでない大多数の日本人の間の相違を意識しないですませようとする傾向である。

 ■効かなくなった「原爆カード」

 1960年代にフランス哲学者のサルトルが日本各地で講演した。彼は当時どこかのインタビューで後遺症で苦しむ被爆者に対して援護体制が整備されていな いことを批判した。過酷な運命に遭った国民の一部に対して援護とか補償とかいった考え方が希薄だったのは長岡のいう「思えば同じ国情」と無関係でない。

 ローマ字で表記された「被爆者」は欧米語をはじめ世界中のいろいろな言語で外来語として定着している。まったくそうでないのは日本でしか意味をなさない 「被爆国民」のほうである。なぜ私たちは国民全員が被爆したかのようなことばをつかうのだろうか。この表現も少数の被爆者とそうならなかった多数派の相違 をぼやかすのに役立つので、私たちの「思えば同じ国情」の重要部分である。

 ナチの強制収容所に閉じ込められた犠牲者は、日本の原水爆禁止運動のように「ノーモア・アウシュビッツ」運動の先頭に立つことがなかった。ここまで考え た私は奇妙な疑いをもつ。8月6日に「徹底的抗戦者」に転向した被爆者が「ノーモア・ヒロシマ」運動の先頭に立ったのは、私たちが彼らを社会的に孤立させ ると同時に戦時下の路線をそのまま走ってしまうところがあったからではないのか。

 自分の不幸が他人から理解されるのなら私たちは今さら自分の苦痛を語らない。自分と同じ惨禍に遭遇することを世界中に警告しようとするのは、孤立してい てそのようなかたちでしか社会と係りあうことができなかったからではなかったのか。また平和で自分が幸せであることに満足するのでなく、「世界平和」を願 うことは「欲しがりません勝つまでは」的な戦時下の精神主義に通じるところがあったのではなかったか。

 すでに述べたように、大多数の日本人は本土決戦にならなかったことの受益者であったが、得したのはこの点に限らない。原爆投下した米国を非難することは 私たちのナショナリスティックな感情を満足させることができる。でも原爆を投下したことからこの国が日本を特別に甘やかすところがあったのではなかったの か。日本と同じように敗戦国でその後同盟国になったドイツだけでなく多くの国でそう考える人は少なくない。

 また日本は国際社会で米国から原爆を投下されたという理由から第二次大戦の「被害国民」として通用しただけでなく、冷戦時代には核戦争に対する戒めとし て後光がさしていたのではなかったのか。このようなイメージは「原爆カード」として効いていて、日本にとって損なことではなかった。とすると、後遺症で苦 しむ被爆者がいるいっぽうで、大多数の日本人は「被爆国民」として得したことになる。

 かなり前から国際社会で日本は第二次大戦の「加害国民」として非難されることが多い。これは「原爆カード」が効かなくなりつつあることと無関係でない。 問題は、ミニ・ニュークの開発など冷戦時代とくらべて核使用に対する心理的ハードルが国際社会の中でどんどん低くなる点である。

 日本の「原水爆禁止運動」は「被爆国民」というステータスに安住しているだけでは国際社会でまじめにうけとめてもらえなくなる日がいつか来るのではない のだろうか。そうならないためにも、私たちは長岡のいった「思えば同じ国情」によって隠されていたことについて考えるべきだと思われる。

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このページは、伴 武澄が2007年8月16日 21:26に書いたブログ記事です。

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