2007年8月アーカイブ

2007年08月17日(金)
Nakano Associates シンクタンカー 中野 有
 レーガン日記の中で、レーガン元大統領がキッシンジャー元国務長官を高く評価している件が何回かある。二人の関係には疑問を持っていたが、レーガンの日記に描かれたレーガンの本音を知り、キッシンジャー博士に再び興味を持った。

 キッシンジャー博士の「外交」は、愛読書であり、また、ワシントンでキッシンジャー博士の講演を聴きたいと思っても、なかなかキッシンジャー博士の講演 を直接聴く機会に恵まれないものである。やはり、それ程、今もキッシンジャー博士は別格であると思う。

 キッシンジャー博士が、本年6月、ジョンホプキンズ大学と南京大学の20周年記念で、南京で行なわれた基調講演を聴き、この30分のスピーチの中にキッシンジャー外交の真髄が醸し出されていると深く感銘を受けた。

 この5年間、ワシントンで何百回と外交についての講演を聴いたが、このキッシンジャー博士の講演ほど、迫力とビジョンと歴史を感じさせるものはないと思 う。文末にキッシンジャーの博士の生の声のダウンロード先を添付することとする。講演から学んだ概略は以下の通り。

 キッシンジャー博士の講演から学んだ概略

 中国を、約50回訪問したが、常に学ぶべきことがある。中国はアメリカが誕生する3000年前から存在しており、中国のほとんどの王朝は、アメリカの歴史そのものより永いのである。

 周恩来首相との対談 

 1971年、北京での周恩来首相と対談するまでに約2年の歳月を要した。最初に、中国側からアメリカのジャーナリストを通じ、ソビエトの共産主義の拡張 に脅威を抱いているとのメッセージを受けた。その返答をソビエトの衛星国を通じ、行なおうと試みたが、中国側とのコミュニケーションが取れなかった。漸 く、中国側もアメリ
カ側も信用するパキスタンを通じ、アメリカの考えを伝えることができた。

 そして、北京で周恩来首相と対談するにあたり、歴史的なスピーチを考案した。考えに考えた挙句、「Land of Mystery」神秘的な国家という表現を用いた。この表現に対し、周恩来首相が質問してきたが、それに答える余裕がなかった。周恩来首相は、8億人の中 国人(1971年の中国の人口)は、ミステリーでないとの答えが返ってきた。

 その言葉から中国を知るということが如何に大切であるかを悟った。25年間、米中の貿易、旅行、学問の交流がない状況において、どのようにして米中の共 通の会話を行なうのかと迷ったものである。しかし、一つだけ確かなことは、米中の将来について話し合うことが大切であるということだ。

 そこで、私は、米中で同意できない点を列挙した。同時にまた、同意できる点も挙げてみた。外交史において、二国間で同意できない点を最初に列挙したのは、恐らくこの時が最初だと思う。

 中国の歴史の事実

 中国の歴史の事実を知る必要がある。1820年の時点で、中国の国民総生産は、世界の30%を占めていた。英国は、6%であった。私が中国が再び世界の中心となると考えるのは、過去の歴史の事実からであり、現在の中国の発展は、歴史の潮流にある。

 アジア・太平洋の時代

 現在、大西洋の時代から、アジア・太平洋の時代に変化している。過去の歴史から新しい歴史への変遷に伴い、犠牲が発生するものであった。しかし、米中関係に関しては、中国の歴代4代のリーダーと、7代に亘るアメリカのリーダーは、米中の協調を継続する立場をとってきた。

 競争でなく協調を

 今日、外交で重要なことは、国家間の競争によって解決できるものは少なく、協調が将来の安定と繁栄を約束するということである。環境問題を例に挙げる と、国家を超えた協力が必要である。核兵器の問題においても、協調・協力が重要である。北朝鮮の核問題に関しては、米中の協力により解決の道が開かれるだ ろう。

 以上、キッシンジャー博士の講演を筆者の主観で要約したものである。文章では伝わらないので直接キッシンジャー博士の迫力ある生の声を聴いて頂きたく思 う。講演の最初と最後には、機智に溢れたキッシンジャー博士の愛情溢れた中国の偉大さを例える表現がある。

 36年前のキッシンジャー博士と周恩来首相の対談が、ソビエトを孤立させる意味で、冷戦終焉のきっかけになったと考察する。また、キッシンジャー博士を 躍らせるだけの外交能力に長けた周恩来首相は、偉大であると感じる。その当時の周恩来に東京の大学で学ぶ教育の機会を提供した当時の日本も粋であったよう に思う。

 北朝鮮問題

 キッシンジャー博士が最後に述べているように北朝鮮の核問題は、米中の協力によって解決策が生み出されるように思われる。その支柱が歴史上稀なる外交の 老賢人キッシンジャー博士によって成されることを期待する。何故なら、北朝鮮がアメリカに接近している状況が正しければ、中国を立てながら米朝の外交を成 立させる手腕がキッシンジャー博士に有るからである。

 http://mews.halfmoon.jp/nakano/
 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp
2007年08月16日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 昔土曜日に子どもがミュンヘン補習校へかよい、私が送り迎いをしていた頃のことである。補習校図書館で授業が終わるのを待っていた私は一番上の棚にある「日本の原爆文学」・全15巻に好奇心をひかれて、その何巻かを手にとって読むようになった。

 ■徹底的に抗戦する

 ある日、私は第15巻「評論・エッセイ」で長岡弘芳の「原爆文学と戦後ナショナリズム」のなかで著者が引用している次の一節を読んで仰天する。

《、、、突然誰か発狂したのではないかと思われるほど大きな声で「このまま敗けられるものか」と怒鳴った。それに続いて矢つぎばやに「今さら敗けるとは卑 怯だ」「人をだますにもほどがある」「何のために今まで辛抱したか」「これで死んだものが成仏できるか」いろんな表現で鬱憤が炸裂する。病院は上も下も喧 々囂々全く処置なき興奮状態に陥った。日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になってい る。そこへ降伏ときたのだからおさまるはずがない。すべてを失い裸一貫。これ以上なくなることはない。破れかれだ》

 これは広島逓信病院・院長蜂谷道彦の「ヒロシマ日記」の一節で、8月15日の玉音放送に対する人々の反応である。私が驚いたのは、自分が日本の戦後に 育って広島というと「世界平和」と思う傾向があったからである。著者の長岡弘芳によると徹底的抗戦論者になったのは逓信病院の患者だけではなかった。彼は 被爆作家・大田洋子の「海底のような光」の次の一節を引用する。

《広島市が一瞬の間にかき消え燃えただれて無に落ちた時から私は好戦的になった。かならずしも好きではなかった戦争を、六日のあの日から、どうしても続けなくてはならないと思った。やめてはならぬと思った》(昭和20年8月30日付き朝日新聞)

 それではなぜ戦争に厭であった人々が「すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になった」のだろうか。この点は日本人の戦争観を考える上でヒントになる。戦争する国民は戦争についてどこの国でも同じ考え方をもっているとは限らない。

 ■原爆は「天災」?

 戦争中私たちは「鬼畜米英」といっていた。でも日本人は当時本当に米国人や英国人を憎んでいたのだろうか。でも本当に「鬼畜米英」だと思っていたのなら私たちは占領米軍に対して別の態度をとったように思われる。

 例えば自分の家族が殺されたり、土地を奪われたりして隣国に憎悪を抱くようになってはじまる戦争があるが、それとは異なり、私たちのほうには頭の中に紋 切り型のスローガンがつまっているだけであった。そのようなスローガンを叫ぶ人々の剣幕に押されて、これらの紋切り型を現実と検証しないまま戦争をしてい た。戦争が終わると今度は別の紋切り型がそれまでのにとってかわった。そう思われてしかたがない。

 広島の住民が「徹底的抗戦論者」になったのは「人道を無視する惨虐な新爆弾」(8月8日付け朝日新聞)に悪意を感じ、(大多数の日本人とは異なり)「鬼 畜米英」に実感が伴うようになったからではなかったのか。そうだとすると被爆者と大多数の日本人との間に意識の上で大きな亀裂があったことになる。「日本 の原爆文学」の第15巻収録の「原爆文学論争史」に引用されている大田洋子の次の発言もこの事情をしめす。

《、、、人々は原爆は自分から遠い、広島長崎に落ちた天災のようなものだからそれを文学にしても大したことはないと言った風である、、》(昭和27年「近代文学」のアンケート)

 大田洋子には同国人が普通の空襲だけでなく原爆投下も「天災」と同一視しているようにみえた。彼女が原爆をそう考えることできないのはなによりも「新兵器の残忍性」を体験したからであるが、それだけでない。

《、、、大田川の下流、私どもが住んでいた町の土手から降りて行く河原に火事をさけて過ごした六日、そして七日と八日、その間に見た現実は、この世のほかの絵巻であった。私はそれを凄惨だったと思いたくない、、、、》

「海底のような光」のこの一節がからわかるように、原爆投下とは「この世のほかの絵巻」であり、昔から日本にある終末観とむすびついて、戦後の私たちの意 識に中に定着した。冷戦時代に欧米諸国とは異なり、日本では核シェルターが普及しなかったのも私たちにとって原爆がこの世の終わりを意味したからではな かったのか。

 戦争の結果が「天災」とか終末とかに感じられることは戦争の性格が「別の手段による政治の延長」というクラウゼヴィッツ的な戦争とは異なり、政治行為か ら遠いことになる。そうだったのは、日本がしていた戦争にスローガンがあっても戦争目標のほうが明確でなかったことと無関係でない。政治行為でない戦争は 本当は奇妙であり、自国民を観客にした自己表現というおもむきがあったのではなかったのか。私たちは自分たちがした戦争の奇妙さにもっと眼を向けるべきで ある。というのは、当時こうだったのは明確な外交目標を設定できないことの結果であり、この傾向は戦争しているときに限らないからである。

 ■思えば同じ国情

「敵の非人道断乎報復」(昭和20年8月9日付き朝日新聞)などと尻馬に乗っていた人々も、8月9日の

《日本国民は米国の原子爆弾がいかなる威力を発揮するかをまのあたり見たはずだ。もし日本が降伏しないならば、米国はこんごもひき続きその爆弾を日本の都市に投下するだろう》(「日本の原爆文学」第14巻64頁)

というトルーマン演説は「黙殺」できなかったようで、8月15日の「戦争終結の大詔」にいたる。「徹底的好戦論者」の大田洋子は戦後になってこの事情を次のようにしるす。

《、、、日本はとっくに負けているのに、正統に降伏もしないし、そうかと言って灼熱的な攻撃を開く道もなかったから、一度にすむ決定的なものをもって来られてもいたしかたがないのだ》(昭和23年発表小説「屍の街」のから)

 ここで「一度にすむ決定的なものをもって来られる」ことは原爆投下である。「(これを)いたしかたがない」と書いた被爆作家は、最近「しょうがない」と 発言して大臣の椅子を棒にふった政治家がいたので強調するが、原爆投下を肯定しているのではなく、「原爆投下」なしでは降伏を決断できなかった当時の為政 者を批判しているのである。 

 また彼女の批判は、本土決戦にならなかったことが国民の大多数によいことであったと間接的に主張している。ということは、同じ国民ながら被爆するという過酷な運命に遭った少数の日本人と原爆投下で戦争が終わって得した大多数の人々がいることになる。

 上記「原爆文学と戦後ナショナリズム」のなかで、長岡弘芳は「ヒロシマ日記」の最後の節についてしるす。

 《、、、その『ヒロシマ日記』の最終節九月三〇日の項は、病院を訪れたアメリカ軍将校が問答の末、〈私だったら国を訴える〉と厳粛に言い放ったのをき き、それはしかし〈国情を異にする私にいくら考えてもわからね言葉だった〉と著者は書きつけて、プツリと切れる。思えば同じ国情のなかに、私たちもいたの であった》

 なぜ米軍将校は「私だったら国を訴える」といったのだろうか。理解しにくい箇所である。オリジナルが入手できないので独訳「ヒロシマ日記」を参考にすると、原爆投下についての意見を求められた日記の作者・蜂谷院長は次のようにこたえる。

 《自分は仏教徒で子どもの頃から逆境に耐えるように教えられた。自分は家も財産も失ってけがまでしたが、でも近所ではどの家でも誰か亡くなっているので妻も自分も助かって運がよかったことに感謝している》

 これを聞いた米将校が「あなたの気持ちがわからない」といって国を訴えろというのは確かに唐突である。でも通訳を介してコミュニケーションにバイアスが かかっていたことを考慮するべきである。会話のはじめに日米双方は原爆に破壊された建造物が片づけられるべきだという点で意見が一致する。日本人医師は (、視察に来た自国のお役人か政治家に対するように、)米軍将校にブルドーザー派遣を依頼して断れる。おそらく米国人は日本人から原爆投下についてもっと 政治的な見解を期待していたのかもしれない。

 自分も妻も助かって運がよかったという発言に米軍将校が苛立ったのは、こんなことは、例えば広島で大地震のために多数の人が死んでもいいそうなセリフだ からである。こう考えると、長岡弘芳がここでいう「思えば同じ国情」とは、原爆投下を「天災」と同列に置き、倫理的、政治的、法的責任を問おうとしない風 土であり、同時に少数の被爆者とそうでない大多数の日本人の間の相違を意識しないですませようとする傾向である。

 ■効かなくなった「原爆カード」

 1960年代にフランス哲学者のサルトルが日本各地で講演した。彼は当時どこかのインタビューで後遺症で苦しむ被爆者に対して援護体制が整備されていな いことを批判した。過酷な運命に遭った国民の一部に対して援護とか補償とかいった考え方が希薄だったのは長岡のいう「思えば同じ国情」と無関係でない。

 ローマ字で表記された「被爆者」は欧米語をはじめ世界中のいろいろな言語で外来語として定着している。まったくそうでないのは日本でしか意味をなさない 「被爆国民」のほうである。なぜ私たちは国民全員が被爆したかのようなことばをつかうのだろうか。この表現も少数の被爆者とそうならなかった多数派の相違 をぼやかすのに役立つので、私たちの「思えば同じ国情」の重要部分である。

 ナチの強制収容所に閉じ込められた犠牲者は、日本の原水爆禁止運動のように「ノーモア・アウシュビッツ」運動の先頭に立つことがなかった。ここまで考え た私は奇妙な疑いをもつ。8月6日に「徹底的抗戦者」に転向した被爆者が「ノーモア・ヒロシマ」運動の先頭に立ったのは、私たちが彼らを社会的に孤立させ ると同時に戦時下の路線をそのまま走ってしまうところがあったからではないのか。

 自分の不幸が他人から理解されるのなら私たちは今さら自分の苦痛を語らない。自分と同じ惨禍に遭遇することを世界中に警告しようとするのは、孤立してい てそのようなかたちでしか社会と係りあうことができなかったからではなかったのか。また平和で自分が幸せであることに満足するのでなく、「世界平和」を願 うことは「欲しがりません勝つまでは」的な戦時下の精神主義に通じるところがあったのではなかったか。

 すでに述べたように、大多数の日本人は本土決戦にならなかったことの受益者であったが、得したのはこの点に限らない。原爆投下した米国を非難することは 私たちのナショナリスティックな感情を満足させることができる。でも原爆を投下したことからこの国が日本を特別に甘やかすところがあったのではなかったの か。日本と同じように敗戦国でその後同盟国になったドイツだけでなく多くの国でそう考える人は少なくない。

 また日本は国際社会で米国から原爆を投下されたという理由から第二次大戦の「被害国民」として通用しただけでなく、冷戦時代には核戦争に対する戒めとし て後光がさしていたのではなかったのか。このようなイメージは「原爆カード」として効いていて、日本にとって損なことではなかった。とすると、後遺症で苦 しむ被爆者がいるいっぽうで、大多数の日本人は「被爆国民」として得したことになる。

 かなり前から国際社会で日本は第二次大戦の「加害国民」として非難されることが多い。これは「原爆カード」が効かなくなりつつあることと無関係でない。 問題は、ミニ・ニュークの開発など冷戦時代とくらべて核使用に対する心理的ハードルが国際社会の中でどんどん低くなる点である。

 日本の「原水爆禁止運動」は「被爆国民」というステータスに安住しているだけでは国際社会でまじめにうけとめてもらえなくなる日がいつか来るのではない のだろうか。そうならないためにも、私たちは長岡のいった「思えば同じ国情」によって隠されていたことについて考えるべきだと思われる。
2007年08月09日(木)
萬晩報通信員 成田 好三
  参院選に大敗しても政権をおりない安倍晋三首相に対して、自民党内からようやく首相退陣を迫る動きが出てきました。選挙直後の、あまりの大敗のショックか ら、少しは立ち直ってきたからでしょう。しかし、自民党内の退陣要求は、情けないほどに腰の引けたものです。以下は、8月7日付の日経の記事ですが、「面 と向かって」と表現できるほど勇ましい退陣要求ではありませんでした。退陣要求もまた、国民向けのパフォーマンスに過ぎなかったといえるでしょう。

 □首相退陣論が再燃・自民代議士会で辞任促す声続出

 参院選惨敗後も続投する安倍晋三首相の退陣論が7日、自民党内で再燃した。同日午後の代議士会では谷垣派の中谷元、津島派の小坂憲次両氏が首相に直接、 退陣を迫ったほか、地域別の参院選総括委員会でも首相の辞任を促す声が相次いだ。首相は27日に予定する内閣改造・党役員人事をテコに局面転換を狙うが、 求心力の低下は否めず、政局に不透明感が増す公算もある。

 代議士会で中谷氏は「首相は一度身を引いて根本的にどこが悪かったのか、これからどう進んでいくのかという議論を全党的にしなければ、党運営は極めて難 しい」と発言。小坂氏も「野球に例えるなら国民はホームランを打たれた党首に交代を求めた。政権交代ではなく、ピッチャー交代を求めた」と訴えた。

 首相が答える場面はなかったが、面と向かっての退陣要求は党内の根強い不満を浮き彫りにした。首相は7日夜、記者団に退陣要求について「改革を進めていくことで責任を果たすと強調した。(日経、8月8日付)

 ■退陣要求も国民向けのパフォーマンス

 上記日経の見出しと記事を読むと、安倍首相が出席する自民党代議士会で、複数の衆院議員、それも閣僚経験のある幹部から、威勢のいい安倍首相退陣要求が出たと思えてしまいます。

 しかし、その実態は、日経の記事にある「面と向かっての退陣要求」とはほど遠いものでした。

 8月7日の自民党代議士会での、中谷元氏(元防衛庁長官)、小坂憲次氏(元文部科学相)の退陣要求は、TVカメラの構える中であったものです。ですから、TV各局は、両氏の退陣要求に飛びつき、各局とも両氏の発言をニュース枠、ワイドショー枠で大きく取り上げました。

 だがしかしです。各局の流したTV映像を見ると、両氏の退陣要求は威勢のいいものとは言いがたいものでした。ましてや、「面と向かって」の発言ではありません。

 TV映像で見れば、壇上中央の議長席に野田毅氏が座り、やはり壇上向かって左側に発言者用のマイクが立っていました。さらにその左側の平場に安倍首相ら党役員が居並び、TVには映らない手前側には一般の代議士席が並んでいるという構図でした。

 発言を求めた中谷氏、小坂氏とも、議長席に座る野田氏と党役員席の前列最右端に座る首相との間に立って発言したわけです。

 首相退陣要求をする中谷、小坂両氏と首相との距離は、1、2メートルといったところです。

 しかしです。両氏とも一度も至近距離にある首相の顔を見ていません。首相の視線は発言中の両氏に向けられたことはありましたが、両氏の視線が安倍首相に 向けられることはありませんでした。両氏が本気で首相に退陣要求をするのであれば、すぐ隣に座る首相を見据えてすべきです。

 言葉ではどんなに威勢のいい発言をしたとしても、日経の記事にある「面と向かっての」首相退陣要求ではありませんでした。

 中谷氏は谷垣派、小坂氏は津島派と、ともに安倍政権では冷遇された派閥の幹部です。しかも、両氏は、直近の小泉純一郎首相のもとで、閣僚を経験済みの人 物です。8月末の内閣改造での閣僚候補ではありません。退陣要求する側にとっては、最も安全な人物といえるでしょう。

 安倍首相と自民党は、参院選に向けての国民向けパフォーマンスにすべて失敗して、選挙に大敗するという結果を迎えました。国民が首相や自民党の安っぽい パフォーマンスの底の浅さを見透かしたからです。そうであるならば、中谷、小坂両氏と彼らの背後にいる派閥の親分の意図も、国民から簡単に見透かされるこ とになるでしょう。(2007年8月9日記)
2007年08月07日(火)
萬晩報通信員 成田 好三
 日本国民は、何とも恐るべき「危険人物」を国家の最高責任者に選んでしまったようです。何とも恐るべき人物とは、安倍晋三首相のことです。内閣総理大臣を「危険人物」と評することには、筆者も躊躇しました。

 だがしかしです。筆者はやはり、時の総理大臣を「危険人物」と評価せざるを得ないと考えます。その根拠になったのは、以下の短い記事です。

 記事は、安倍首相が率いた自民党が大敗した参院選投票日の3日後、安倍首相が全国の都道府県議会議長と懇談したという内容のものです。以下、見出しと記事を転載します。

 「地域間格差が敗因」全国議長懇談会、首相に不満相次ぐ(見出し)

 安倍首相は1日、首相官邸で全国の都道府県議会議長と懇談し、「地方の声にもしっかりと耳を傾けていかなければならない。地方の皆様が持っている漠然とした不安感にも、応えていかなければならない」として、地方対策を重視していく考えを示した。

 懇談会には奈良県を除く46都道府県の議長(代理含む)が出席した。各議長からは参院選の結果について、「選挙の結果は国民の声。地方の悲鳴は、中央で 考えられている以上だ。もっとしっかり、現実を直視して国民の声を聞いていただきたい」(愛媛県)、「47都道府県でそれぞれ格差が出ている。その格差が 選挙でも表れた」(高知県)など、地域間格差が与党の敗因とする意見が続出した。

 また、「一番関心があったのは政治とカネの問題。透明性を高めて、国民に納得を得られる施策の展開を」(東京都)という指摘もあった。

 一方、地方交付税の削減について、「地方交付税カットで大変な状況だ。農家への対策も必要」(香川県)、「地方交付税の財政調整機能が失われている。今の地方間格差は限界を超えている」(鳥取県)などの不満が示された。(読売新聞)

 ■「地方崩壊」の危機を理解できない首相

 この記事で筆者が注目したのは、記事冒頭にある安倍首相のあいさつ部分です。自民党の参院選大敗の要因には、年金問題、閣僚の事務所費など政治とカネの 問題、閣僚の失言問題もありますが、地方、特に過疎地を抱える地方が、安倍政権にと自民党に異議を唱えたということがあります。

 選挙区選挙のうち、1人区で自民党が6勝23敗という、前代未聞の大敗北を喫したことは、地方の「ノー」という答えだということができます。

 参院選敗北の3日後、安倍首相は地方議員のトップである全国の都道府県議会議長を前にして、こうあいさつしました。「地方の声にもしっかりと耳を傾けていかなければならない。地方の皆様が持っている漠然とした不安感にも、応えていかなければならない」。

 地方に「ノー」を突きつけられて、参院選で大敗北を喫した首相、政党党首の言葉とは、到底思えない言葉です。安倍首相は、地方がいま置かれている現実を何ひとつとして理解していません。

 そうでなければ、「地方の皆様が持っている漠然とした不安感」などという言葉は、口が裂けても言うことはできないはずです。地方が置かれている現実は、「漠然とした不安感」などと甘ったるい表現で済ませることができるものでは、けしてありません。

 地方が置かれている現実は、「地方崩壊」の危機です。このまま東京一極集中が進行すれば、地方は経済的にも、財政的にも、そしてコミュニティーとして崩壊してしまうという、極度の危機です。

 地方が置かれている現実は、人口流出と経済縮小、コミュニティー崩壊の危機です。そうした地方の現実をまったく理解しない、あるいはまったく理解できな い人物が、内閣総理大臣という、日本の最高権力者の座にある危険性は、他の危険性とは比べようもないものでしょう。(2007年8月4日記)

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